クリスマス・イン・ザ・ブルー「おや、こんばんは」
「…………」
何の変哲もない普通の挨拶も、目の前の男が口にすれば異常事態の前触れとなる。
「しかし、意外な顔を見つけてしまいましたね。今夜は赤のクランだけは大人しくしていてくれると思っていたのですが、計算違いでしたか」
「……おい」
青い隊服を冬の風になびかせ、皆が寒さの中背を丸めて歩く中でもひとり背筋を伸ばして凛と立つ姿は、甚だ不本意ながらもすでに見慣れてしまったものだ。
ただ、どう見ても「未だ公務中です」と主張しているその格好は、聖夜だクリスマスイブだと賑やかに浮かれている周囲にはまったくそぐわない。そぐわないと判断した周防尊自身も馴染んでいると言い難いのは、とりあえず横に置いておく。あくまでも主観な以上、そこはいちいち気にするところではない。
「はい、なんでしょう」
「なにしてんだ、テメェ」
「もちろん、仕事中ですが」
クリスマスイルミネーションの中、妙に浮いている青い男は、しれっとそう言い放つ。そんなのは見ればわかると条件反射で反論しかけて、周防はなんとかその衝動を口の中で噛み殺した。
いっそ感心するほどマイペースなうえに呆れるほど空気を読まないが、その実恐ろしいほどに頭が良いのがセプター4室長宗像礼司だ。一般には警察機構と思われているセプター4の隊服が悪目立ちすることは理解しているようで、プライベートのときにその青を纏っていることはない。
それより、仕事中なら仕事中で、大きな問題がひとつ。
「仕事サボってこんなとこでなにやってんだ」
なぜ、この男は今、周防の目の前にいるのか。
ちなみに、周防は特に目的もなく夜の街をふらふらと彷徨っていただけだ。酔い覚ましが必要なほどには飲んでいなかったし、単に外の空気が吸いたかった。
鎮目町をぼんやりと歩いていたはずなのに、気づいたら七釜戸のほうまで来ていたのはご愛敬だ。
「サボってなどいません。出動要請があって、すぐそこまで来ていただけです」
「へぇ」
「とはいえ、サンクトゥムの展開も必要なさそうでしてね。暇を持てあま……いえ、念のために現場の周囲を見回っていたら、貴方を見つけてしまったというわけです」
「そうかよ」
一部、思いっきり本音が漏れている。しかも、それを一般的にはサボリと表現するのでは、とツッコミを入れたくなるような主張だ。
だが、周防にはそこでいちいちこの男の相手をしてやるような親切心はなかった。おざなりな反応を返すとそのままスルーすることに決めて、指で胸ポケットに突っ込んでいたはずの煙草を探る。
「…………」
どういうわけか、指先に触れるのは布地だけだった。
「ところで、貴方はどうしてこんなところをうろついているんです? 今夜は貴方がたの塒で朝まで騒いでいるものだと思っていたのですが」
「騒ぎっぱなしだとアンナが寝らんねぇだろ」
「ああ、それもそうですね。一次会終了、二次会に向けて休憩中、というところですか」
疑問に答えてやる義務も義理もないが、反応しない限りいつまでも追求してきそうな相手を無視し続けるのも面倒くさい。どこかへと姿を消してしまった煙草のほうに気が行っていたのもあって、普通に理由を口にしてしまった。
実際、バーHOMRAでのクリスマスパーティーは一度解散したものの、アンナが寝付いた頃を見計らってまた再開されるだろう。それまで待っていてもべつによかったのだが、なんとなく抜け出してきて今はここにいる。
(あのまま店にいりゃよかったか?)
そうすれば、このいけ好かない顔に遭遇することもなかっただろう。おそらくは朝までバカバカしくも騒がしい空間を眺めながら、それなりに悪くない時間を過ごすことになったに違いない。
……どう考えても、現状よりはそちらのほうがよかった。それは間違いない。
それでも、この顔を視界に入れてしまった以上、無視して踵を返すこともできなかった。宗像礼司を相手に逃げを打つなど、そのような選択肢は最初から存在しないのだ。
――煙草の行方に気を取られていた、その影響もかなり大きいだろうが。
「それで、先刻からなにをしているんです? 探し物ですか」
そして、細かいことに気づく癖に大体は気にしない宗像にもそれは伝わったようだった。宗像を前にしているわりにはいつもより大人しい、というよりは気もそぞろな周防の様子を疑問に思ったらしく、小首を傾げて不思議そうにしている。その表情からはいつもの貼りつけたようなわざとらしい笑みが消えていて、なんだか妙にあどけなく見えた。
「あー……煙草がねぇ」
「はあ」
――つい、正直に白状してしまったのは、だからだろうか。
いくら問われたからとはいえ、こんな返答を返されれば宗像のことだ、嘲りの笑みを浮かべながら滔々と流れるように皮肉と罵倒を垂れ流すに決まっている。自分も喫煙者のくせに、他人がいるところでは吸わないせいか、ところ構わず煙草を手にする周防には特に当たりがきつい。
「そもそも、歩き煙草は条例違反ですよ」
「うるせぇ」
案の定、小言が返ってきた。予想していたよりもマイルドだっただけ、マシなのかもしれない。
頭の隅でそんなことを考えながら、足を前へと進めた。結果として、宗像との距離が縮まる。
べつに、そちらに用事があったわけではない。そもそも気の向くままにさまよっていたらここにたどり着いただけなので、用などひとつもありはしないのだ。
だから、ここで踵を返してもよかった。それでなくても気にくわない相手とこれ以上会話を続ける気は、さらさらない。なら、さっさと背を向けてこの場を立ち去るのがもっとも建設的だ。
それは、周防にも分かっている。なのに、ここを去るためにあえて近づくルートを選んだ理由は、他でもない。単に、背を向けるのが嫌だっただけだ。
歩を進めるたびに、ふたりの間の距離は縮まっていく。周防に事を構える気がないのは理解しているのか、宗像の気配は最初からずっと凪いだままだ。ジーンズのポケットに手を突っ込んだ周防が近づいても表情は変わらないし、特に構えた様子もない。サーベルは、腰に佩かれたままだ。
なにも、起こらない。そのことに、心のどこかがほんの少しだけ物足りなさを訴える。
この面倒くさい男の相手をする気は今のところまったくないというのに、本能というのは面倒なものだ。表情に出すことはないまま、心の中でため息を吐く。
そのまま、宗像のすぐ隣を通り抜けようとしたとき。宗像を包む空気が、音もなく動いた。
次の瞬間、おざなりに引っ掛けていた周防の上着の胸ポケットにかすかな重み。ほんの数十グラム、おそらくは三十グラムもない。
重さを増やした張本人は、いつも通り澄ました顔をしている。先刻動きを見せていたはずの手は、なにごともなかったかのように見慣れた元の位置へと戻っていた。
「あ?」
自然と漏れた声は、周防にしてはわかりやすく困惑に揺れていた。周防以外の他人がそれに気づくかどうかは、定かではない。
「まあ、クリスマスイブに偶然遭遇したのもなにかの縁です。それは差し上げましょう」
あいにくなのか、幸いなのか。すぐ側にいた相手には、違わず伝わったようだった。
「……は?」
「見当たらないのではありませんでしたか?」
「……おう」
たしかに、自分でそう言った。だが、だからといってこんな展開になる可能性なんて欠片すらも予想していない。困惑したまま、視線を落とす。
――胸ポケットの中には、煙草のパッケージがひとつ、増えていた。
あまり、見たことのない銘柄だ。前に宗像が偶然出くわしたバーで吸っていたものとも違う銘柄の煙草が、外装フィルムさえ剥がされないまま新品未開封の状態で胸ポケットの中に収まっている。
「…………」
なんて言えばいいのかわからないまま、煙草のパッケージを引っ張り出した。
複雑な気分で手にした箱を眺めていると、すぐ横でまたしても空気が動く。
「では、失礼。そろそろ撤収するようですので」
「おい」
「私の視界で歩き煙草はしないように」
最後に余計な一言を言い放つと、宗像はなんの躊躇も見せることなく踵を返した。周防に堂々と背中を向けて、夜の街へと消えていく。
「…………」
最後にチラリと見えた宗像の顔が、妙に満足そうだったのが無性に癪に障った。
あんな表情をしたままセプター4の部下たちが待つ現場へと戻るのかと思えば、ますます腹立たしさが募る。理由は、周防にもわからない。
わからないが、このままなにごともなかったようにこの場を立ち去る気にはなれなかった。単に煙草を貰っただけだというのに、異様なほどスッキリしない。
よりによって宗像に煙草を恵まれたことが気にくわないのか、それとも葛藤のひとつも見せずにさっさと背中を向けられたことが忌々しいのか。もしくは自分よりセプター4の部下たちを優先されたことが不愉快なのか、まったく判断はつかなかった。どれも鼻で笑って否定できそうなものなのに、今の周防では完全に否定もできない。
「…………チッ」
つまり、考えても仕方がない。煙草の外装フィルムを剥がしながら、周防は舌打ちする。そして、これからやることを決めた。
「行くか」
そう、今から周防が己の足を使って椿門へと向かえば、おそらくはちょうどいい頃合いで捕まえることができるだろう。もちろん、部下を取りまとめて帰還してくるであろう宗像を、だ。
捕まえてからどうするかは、考えていない。考える気もない。
もう一度、あのムカつく顔を見てから考える。脳内でそんな結論とも言えない結論を叩き出して、周防はのっそりと歩き始めた。
椿門へ到着する頃には、きっともう聖夜は終わっている。日付変更線を越えて、クリスマスがやってくる。
これからの数時間が、いい思い出になるとは思えない。それでも、周防は己の決めたことを撤回するつもりもなかった。
歩きながら火をつけたばかりの煙草をくわえ、紫煙を吐き出しながら独りごちる。
「とんだクリスマスプレゼントだな」
きっと、それだけは間違いない。