翳りゆく部屋薄水色の寝具の上で横になり、うとうととしていた男は、出窓から宵闇が忍び込んだのに気づいて上半身を起こした。
部屋にはベッドとスツールが置かれ、床や壁、天井も特に何ら塗装されていないオーク材の美しい木目に包まれている。
人が一人寝るにはやや広い、これもまたオーク材でつくられたベッドは出窓のすぐ脇に置かれ、そこで寝起きをする男が自由に窓を開け閉め出来るように配慮されている
窓枠にそって白いレースには湿原で見られる小さな桃色の花をかたどった刺繍が施されている。その手前の空間には、ランプや花瓶の他、マッチや詩集がおかれサイドテーブル代わりになっていた。
先ほどまで柔らかな日差しが差し込んでいた窓辺は、もうすっぽりと夜闇に飲み込まれようとしていた。
風はひんやりと湿り気を帯びたものへとかわり、男の身体を撫でた。
男は肩にかけているだけの羽織に腕を通し、窓のほうへ身体を伸ばして、脆くなった蝶番が不快な音をたてぬように気を使い、慎重に窓を閉めた。ついでにランプへ手を伸ばして上蓋をあけてから、横に置かれているマッチを1本取り出して、慎重に中へ入れて火を灯し、蓋を閉じた。
ランプ中心に橙色の灯がともると、窓の向こうの景色は夜に溶け込みガラスに男の顔がはっきりと映った。
八の字の眉と髭は相変わらずだが、若いころから細くやせ細っていた首は齢を重ねて骨に皮がかろうじて被さったようになっている。
だいぶ年を取ったな、と男は思った。
随分と長く生きたものだ、とも。
男の名はエスカノールといい、年のころはとうに還暦を過ぎていた。
翳りゆく部屋
エスカノールは、窓と反対側のベッド脇に置かれた来客用の、本来なら人が腰かけるためのスツールに置かれた、筆記具と羊皮紙に手を伸ばしてやさしく撫でる。
それらはすべて書き損じの手紙だった。何枚も役目を果たすことなくそこへ積もっていた。
ふと部屋の前の廊下を歩く足音に気がついた。それは次第に大きくなり、まっすぐとこちらへ近づいてくるようだった、エスカノールはその靴音に耳を澄ませた。
音はエスカノールの部屋の前でとまった。そして、その靴音の持ち主はコンコンと遠慮がちに叩いた。
「どうぞ、お入りください。」
エスカノールが声をかけると、ドアノブは音もなくまわり、扉の隙間から一人の女が宵闇を伴い部屋へと入ってきた。
「失礼する。」
エスカノールは最初その姿態をとらえたとき、自分の願望が幻となって現れたのだと思った。
たとえ幾夜、その人と会わずとも、エスカノールはその姿を寸分違わず思い描くことができたからだ。
しかし、同時にまぎれもなくその人だとも思った。それは何の根拠もない確信だった。
漆黒のタイトなワンピースドレスに身を包み、スリットが入った左腿から足首と首上以外、その肌を露出させていないことがかえって彼女の素肌の白さを際立たせていた。驚きの表情を隠せないエスカノールに目をやり、女はわずかに左の口角をあげた。
「久しぶりだな、エスカノール」
そこには確かに、エスカノールが完璧に思い描くことが出来る唯一の人、マーリンだった。
「マーリンさん、そんな……急に来られるなんて……」
マーリンはゆっくりとエスカノールのベッドへと近づく。室内にはコツコツというヒールの靴音が響く。エスカノールは、自らの耳孔へと届いている靴音の主がまぎれもなくマーリンであるという事に胸を高鳴らせた。
そして、マーリンがベッド脇に立った時、エスカノールは、慌ててわきのスツール上のペンやらをどかし、その表面を手で強く撫でて、マーリンにそこへ腰かけるように促した。
「少し近くに来たのでな……息災かエスカノール。」
マーリンはそのわずかなに口角のあがった表情を崩さず、スツールへと腰かけエスカノールを見つめて問うた。
「ええ……それはもう……。」
エスカノールは少しだけ目を泳がせてそう答えて、右隣で足を組み座るマーリンを横目で見た。その姿が出会ったころから、全く、本当にただの一つも変化していないことを確かめ、万感が胸に詰まった。あたかも永遠不滅を体現するかのように、最後に分かれたときから何ら変わらぬ微笑みがそこにあった。
「ずいぶんと前に会ったきりで、近頃は手紙をよこさない。どうしたものかと思えば、床に伏せているとはな。」
「あのう、それは……。」
エスカノールはマーリンに弁解したいと思って口を開いた。しかし、そこから先をうまく言葉にすることが出来なかった。伝えたいと思うことはいくつも存在していたが、それをありのままに伝えることは、気恥ずかしかったし、恐ろしかった。
だからといって、マーリンを前にして、ごまかすように過去の懐かしい思い出話や、近況の暮らしを尋ねること、
ましてや日常の他愛のない事柄についての話など切り出せるわけもなかった。
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スツールに腰かけたマーリンは、一言発したきり、押し黙った旧知の同胞の姿をまじまじと見つめた。黄金に輝く髪の所々に白金のそれがまじり、眦に刻まれた皺や手の節々は男の人生について物語っているようだった。
真っ当に年を重ねた人間の、時間と感情が刻まれた肉体が確かにそこへ存在していた。
ただ一つ、マーリンを見る瑠璃色の瞳だけが、出会った当初から何ら変わりなく、その瞳を満たす彼女への愛に溢れ零れ落ちんばかりだった。
長く続いた聖戦が幕を閉じてから幾夜経ったであろうか。それは同時に、エスカノールから正式な愛の告白を受けてからどれほど経ったかという事を考えることでもあった。
エスカノールが自分を好いていることを、マーリンはとうの昔に知っていた。そして、その思いに自分が報いることが出来ないという事も。
マーリンはエスカノールの告白へ感謝を述べ、彼女自身の次なる道、キャメロットの青年とともに新たなる世界を創造していかねばならないと言った。だから、エスカノールの思いに応えることは出来ないとも。
エスカノールはマーリンのその言葉を受け止め、それでもマーリンを愛していること、必要とあればいつでも駆け付け尽力すること、そしてもし許されるならば時折会いに行きたいということを伝えた。
マーリンはその申し出を快く受け、互いの健闘を祈った。
共に戦った同胞もそれぞれの道へと歩んだ。恋人と旅に出る者、森へ帰り家庭を築いたもの、皆進む先は違えども分かち合った時間と志によって繋がっていた。
しばらくの間は、マーリンのもとにエスカノールが酒を運ぶ名目で訪ねていったり、或いはごくたまにではあったがマーリンがエスカノールの営む“麗しの暴食亭”へ足を運んだりしていた。しかし、ほどなくしてマーリンがアーサーと共にブリタニア全土へ奔走を始めたこともあり、やりとりは手紙が中心となっていった。エスカノールがしたためた詩をいれた封筒に、マーリンが魔力を施した封蝋を刻印すると、マーリンのもとへそれが転送される仕組みだった。詩を受け取ったマーリンは便せんのかわりに押し花や薬草、時には気に入った書籍の一部などを封入して送り返し返事としていた。
そんなやりとりは、凡そ十年ほど続き、数か月に一度ほどの頻度ではあったものの、二人をつなぐ特別なものとなっていた。
だが数年ほど前から、エスカノールから来る手紙の数が減っていった。
そして、ここ一年はそのやりとりが途絶えていた。
マーリンは、そのことに気づいたとき少しだけ憂慮したものの、それ以上の詮索をしなかった。
長い時間を歩んできた彼女にとって、数年程度の時間は吹けば飛ぶ綿毛のようなものであったし、何よりも今までたくさんの人々が自身を通り過ぎていったことを思ったからだった。
エスカノールが、別の何かや誰かと出会い、そこへ人生の時間を注ぎ込んでいるとしたなら自身との手紙のやり取りが二の次になっていたとしても何らおかしくない。
マーリンもまた、自らが選んだ王とともに未知なる世界を拓かんと邁進していた。
飽くなき探求心をもち、無現を生きる彼女にとって、ひと瞬きのうちに四季は移ろい月日は過ぎていく。
青年はいまや唯一無二の偉大なる王となり、優れた騎士たちと共にこの大地を統べている。マーリンも一線を退いたとは言え、衰えを知らぬその精神によって陰ながらこの王を支えていた。
だから、キャメロット古城へおいた実験室のわきに薬草畑をかねた小さな庭をつくったのは、ほんの気まぐれにすぎなかったが、草木のその命の盛衰を眺め時折愛でることに、マーリンは穏やかな喜びと憂いを感じていた。
柔らかな日差しが降り注げば、つぼみが膨らみ芽吹き、生命がその産声をあげる。まばゆい陽光によって瞬く間に生い茂り命の素晴らしさを盛んに歌う。
落陽によって生まれる影がながくその尾を伸ばせば、生きた証を残さんと自らの種子を土へと落し、数多の獣たちの糧となる。そして、日光がその力を弱めるころ、命を振り絞り切りさながら亡骸のようになったそれらは、しばしの眠りにつく。
マーリンが、エスカノールが病床にいると知ったのも、そんな冬の初めのことだった。
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エスカノールは、彼から次の言葉が紡がれるの待つマーリンに何か答えねばと思いながらも、見とれてしまっていた。
ランプのやわらかな橙色の光がマーリンの白磁のような肌と、艶やかな黒い髪を照らしている。まつ毛の一本一本が彼女の目元に影をつくり、アメジストをはめ込んだような瞳は、エスカノールを捉えて離さなかった。エスカノールはいつまでもそうやって眺めていたかった。しかし、わざわざ訪ねてきてくれたマーリンに愛想をつかされて、帰られてしまうのは何よりも避けたかった。
エスカノールは左手で後頭部を撫でながら、目を伏せる。視線の先には自身の骨と皮だけになった細い手があり、その手の甲には深いしわがくっきりとした稜線を描いていた。
「大した事じゃないんですが……最近、どうしても詩がよめなく、それでちょっと……」
もごもごと口に出した瞬間、愛するただ一人の人を前にして、堪え切れない思いが心に濁流のように押し寄せた。
さきほどまで鮮明に見えていた自らの右手は、次第にその輪郭を曖昧にしていった。
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エスカノールはマーリンを心から愛している。
彼女は、暗闇に膝を抱えて己の性を呪い、いっそその呪いによって我が身が焼きつくされることさえ願っていた彼に、メリオダスと共に手を差し伸べ、光当たる場所へと導いてくれた人だった。
彼女が決して自分と同じ感情を抱くことがないと理解したときも、その愛する気持ちは揺らがなかった。
エスカノールはマーリンを愛することで、即ち愛するという行為そのものによって、救いと至上の喜びを得た。
それを無償の愛というには、エスカノールはマーリンに計り知れないほど多くを与えられていると感じていた。
エスカノールはその贈り物を天秤に一方にのせ、もう一方に己の命をのせたとしても到底釣り合うものではないとも考えていた。
聖戦が終結し、戦友らと別れる日を前にして、エスカノールがマーリンへ愛の告白したとき、成就するか否か以上に、本人を前にして“太陽”の力を借りず自身の気持ちを告げねばと思い、それを実行したに過ぎなかった。
そして答えは予想通りのものであったが、顛末はエスカノールの想定は遥かに上回る僥倖だった。
道を違えてからもなお、マーリンとつながりをもち自らが詠んだ詩を送れること、そして返答代わりに送られてくる押し花や紙の端を眺めること。エスカノールにとってそれはこの上のない幸福だった。
だが、数年前の冬、風邪をこじらせ暫く床に伏せてからほどなくしてエスカノールは詩が詠めなくなっていることに気づいた。
詠みたいと思っても、ぼんやりと頭に浮かぶものを捉えきれず、散逸していった。
身体も次第に重くきしみ、長い間机に向かうことが億劫になった。
以前は身の内側、魂ともいえるその場所から絶えることなく沸き上がり溢れていたそれが失われようとしていた。
医者に見せると、身体のあちらこちら、特に肺がひどく悪いため無理をしないようにと言われた。それを聞いて暗い顔をしたエスカノールを励まそうとして、安心させるように微笑み「年をとれば誰でもそうだ」と諭した。
老いか、病か、或いはその両方か、いずれにせよエスカノールは自身が以前のように筆を取れないこと知った。
それでも、マーリンへ何か手紙を書こうとして紙に向かうも、病であることを気取られまいとすれば不自然さが際立ち、聡明なマーリンに容易に知られるに違いなかった。
エスカノールは死ぬことや老いること、それ自体にはさして恐怖を抱かなかった。この世界に生まれた以上、いつかは必ず死なねばならない。むしろ幾ばくかの間、太陽の“恩寵”に蝕まれたこの身で、ごくありふれた人と同じように年を重ねて、穏やかに死を迎えようとすることに感謝すらしていた。
ただ唯一、日増しに衰えていく肉体と精神を、あの永遠に変わらぬ美しい人の前に晒すのが溜まらなく恐ろしかった。
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エスカノールは努めて暗くならないように、手紙を出せなかった理由を淡々と話した。
マーリンは時折、まばたきする以外は、微動だにせずエスカノールの話に耳を傾けていた。
風邪をひいて少し具合が悪くなったこと。病とはいえすぐに死ぬようなものでないこと。
そして何より老いていく自分を知られるのが恥ずかしかったこと。
最後まで話きったあと、エスカノールは伏せていた目を上げ、おそるおそるマーリンのほうをみた。
マーリンは真剣な表情でこちらを見つめていた。こちらを真っすぐ見つめるその顔の、両の瞳は月明かりに照らされた湖面のように光を受けとめ揺らめき、鼻筋は小高い峰のように稜線を描き、格別に気高く美しかった。
どのくらいの時間、そうして見つめあっていただろうか、マーリンが左手をゆっくりと動かしエスカノール右手へと重ねた。
重なり合った二つの手は、重ねたところから溶け合うように互いの体温をわけあう。
「マーリン、」
エスカノールが囁くように名前を呼ぶ。
陶酔した様子のエスカノールを見つめていたマーリンの瞳が唐突にいたずらっぽく光った。
「すまないが、少し目をつぶってくれ」
「え、あ、は、はい」
マーリンは先ほどの真剣な様子から打って変わり、急に楽しそうな口ぶりになった。そんな彼女にどぎまぎしながらもエスカノールは慌てて目を閉じ瞼に力をこめた。
エスカノールの手をやわく握ったマーリンは、手のひらを上に向けさせ、そこに何か小さなものを置いた。
「もう開けてもいいぞ」
エスカノールが恐るおそる目を開き、自身の右手にのったものを確認する。それは、プラムの実ほどの大きさの丸いガラス瓶だった。中には黒い液体が入っている。
「これは……」
「特別製のインクだ。私がつくった」
エスカノールは一瞬、何かすごく恐ろしいものではと考えた己を恥じた。しかし、マーリンをちらりと見ると、いやに楽しげに微笑んでいる。
「もしかして、これを使うって書けばスラスラ詩が詠めるとか……」
「そんなことはない」
「そ、そうですか」
「そうがっかりするな」
わずかに肩を落としたエスカノールをみてマーリンは右の口角を上げ、彼にランプの灯を消すように促す。
エスカノールはランプの上蓋をあげ、息を吹きかけてその灯を消した。
暗闇に室内が包まれると、エスカノールは思わず息をのんだ。
手元の小瓶に入った漆黒のインクには、ほのかに輝く小さな砂粒上の光が浮かんでいる。白く、赤く、或いは青く煌めくそれらは、瞬き、飛び交い、そして中心に集まり渦を巻いていた。
それはまさしく、星降る夜空だった。
「美しい」
エスカノールの目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。小さな夜空は一瞬たりとも姿をとどめず、形をかえながら確かにそこに存在している。
マーリンは感激のあまり続きの言葉が出ないエスカノールを見つめた。感受性の強いこの男が喜ばぬはずはないと思っていたが、心から嬉しそうな姿をみて顔がほころんだ。
そして、エスカノールのもとに訪れようと決めたときから、伝えたいと思った言葉を彼にかけた。
「移ろうものは美しい。それは、永久に存在せず、必ずや損なわれ、失われるからこそ、美しいのだ」
そうは思わないか、と言わんばかりにマーリンはエスカノールを見つめた。
足元に咲く草花も、遥か彼方に浮かぶ星も、すべての生き物もまた移ろうものであり、移ろうという事実において、その価値は極限まで高められる。慰めでも詭弁でもない、マーリンの心からの思いだった。
今やすっぽりと闇に沈んだこの部屋で、二つの手、四つの瞳、交わした言葉、それらは生まれいで、そして次の瞬間には永遠の時間へと溶け込み、すべての一と混ざり合う。
途方もない時間のある一点で交叉した二人の魂は、瞬く間に離散する。永遠の別れだけが、唯一確かなものとして約束されている。
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ランプを灯せば、窓ガラスは鏡のように部屋をうつす。
空には下弦の月が昇り始めている。
「長居しすぎたな」
マーリンはそうつぶやくとゆっくりと腰をあげた。
エスカノールは思わず、その手を掴みこの場に引き止めたい衝動にかられたが、ぐっとこらえる。
「また、近くへお越しになったら、ぜひ会いに来てください」
「ああ、勿論だ」
そうマーリンが答えを返すと、エスカノールは皺をさらにくしゃくしゃにしてほほ笑み、別れの挨拶をした。
「おやすみなさい、マーリンさん」
「いい夢を、エスカノール」
帰路につくマーリンが廊下を歩く足音が遠ざかり消えたころには、エスカノールの部屋の灯は消え夜の闇に溶け込んでいた。
【終】