昼飯
最近どうにも食欲が湧かない。先輩からぽっちゃりくんなどと不名誉な呼び名を与えられている程には、食欲に関して人並み以上だと自覚している。それでも、衝動的に買った新作のスナック菓子も、家にいる料理人に作らせる気も、外食しに行く気もない。
半年前ならこんな事も起きなかった筈だ。それがどうしてこうなったのか。暇潰しに読んでた本に栞を挟んでぼんやりする。
「司くん。僕が留守にしてる間は何も食べてないって聞いたけど、本当かな?」
「…流石に飲み物は口にしてますよ」
自分しかいなかった筈の部屋から、声がする。
背を向けてた扉からだんだん近くなるその声を聞くと、司は腹がずんっと重くなる。胃が締め付けられるような、熱くなってくるような気持ちの悪い感覚が堪らなく嫌いだ。
「ちょうどよかった。これから昼食にしようと思ったから司くんもおいで」
背後から首に手を回されそっと抱き寄せられる。背中を預けていた椅子は、どうにもこの男を弾く盾にはなってくれなかったらしい。
「何を食べるんですか?」
なるべく平静を装いながら、雑談を振る。
「それは食べるまでのお楽しみだよ、僕の奥さん」
楽しい会話も終了ですよ旦那さま。帰ってからずっと、己と顔を合わせようとしない司に英智は愉快だと言葉にする代わりに短い笑い声を漏らした。
有名な芸術家が残した言葉に「食欲がないのに食べるのは健康に悪い」というのがある。言葉を一部抜粋してきたものです。本来の言葉の本質とも全然違うが、司は初めて天才である歴史の偉人に共感した。
司はもう点滴と栄養剤で健康体でいれるならいいと考えている。そのことを夫である英智に伝えたら、思い切り口にお菓子を詰め込まれて窒息死しかけた事がある。言い逃れができない家庭内暴力だ。
病弱な自分が嫌々やってきたことを、こちらがわざわざ選択してやるのが気にくわないのだ。数回の嘔吐を繰り返して睨み付けてやれば、ごめんねと軽く謝って抱きしめてきた。媚びたい相手が些細なきっかけで憎くなる、哀れな男なのだ。
「今日はね、僕が作ってみたんだよ」
「お兄さまの手作り、ですか」
「不安そうにしないでよ。確かに僕は料理なんてあまり経験したことないけど、ちゃんとレシピ通りに、プロの監修があれば下手なものなんて出来ないよ」
「こういうとき、お兄さまは手を傷だらけにして不格好な食事を提供するのが王道では?」
「何の本の知識かな?」
「最近流行りの少女漫画です」
「そうか。でもこれは現実だからね司くん」
さあ召し上がれ、と英智が自ら運んできた皿が目の前に置かれる。彼が作ったと宣言した料理は、綺麗な揚げ色の衣がついた天ぷらだったからだ。パッと見て、海老や南瓜など様々な種類がある。
和食も好む司も本来なら、喜んで箸を進めていただろうが一向に司の手は動くことはなかった。テーブルの上に置かれた一膳の箸はそのままだ。匂いを嗅ぐと、ますます何か込み上げてくる。
「どうしたの司くん。食べないの?」
食べれないのだと答える代わりに目を見やる。英智は穏やかな表情を浮かべたままだ。こちらの行動を窺ってるのかもしれない。司は半ばやけになって、箸を手にした。
魚の天ぷらと思われるものを掴み、塩をつけて口に運ぶ。揚げたてだが火傷しない程度の熱さで、具材の味を生かしている。よく噛んで食べる司だが、たった一口が何故か飲み込めず何十回も租借を繰り返して、やっと飲み込めた。天ぷらひとつだけでも食べきれば部屋に戻ろうと二口目をいただこうとした時、猛烈な吐き気がした。
慌てて口を両手で押さえて踞れば、すぐに英智が駆け寄ってきて背を撫でてくる。周囲の使用人が直ぐ様動いて医者や寝床などの準備を急いでいる。
「ねえ司くん。いつから、食べ物の匂いで吐き気がするようになった?は」
食欲がなくなったのは、半年前にこの男と結婚して住むようになってからだった。でも、本格的に食べ物が受け入れられなくなったのは三ヶ月前からだった。
まさか、いや、そんなわけない。
事実を否定しようと思ったが、自分の体のことを何もかも知らないのだから無理だと諦める。
この現象が悪阻だと知らされたとき、自分は正気でいられるのだろうか。