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5
「引っ越し?」
休日の重なった朝、食前に甘いカフェラテを飲んでいる時だった。この部屋の主にそう提案されたのは。
「あぁ、もう殆んど一緒に住んでるようなもんだし、…二人で住むなら今よりも広い部屋に引っ越してもいいんじゃないかと思ってな」
光忠さんさえ良ければの話だが、と続けられて咄嗟に返事を飲み込んでしまった。口を開いて、反射のまま「いいね!」と言いそうになったのだ、危ない。
つい一週間前の泥酔事件から、この目の前にいる青年とは更に微妙な関係になっている上、自分の不純な気持ちに気付いてしまった今、迂闊な事は言えないとそう燭台切は考えていた。
「そうだね…そういう事も今後のために考えておいた方がいいかも…ね」
向かいに座っている薬研から視線を逸らしつつ、曖昧に濁す。多分気のせいなどではなく、件の日からどうにもこの青年には積極的に来られている気がするのだ。自意識過剰でなければ口説かれている、ようなのだ、どうも。信じられないことに。
それに対して、まだ自分がどうしたいのか正直分からず、戸惑っていた。大学生とはいえ、彼はまだ若い。万が一、ないとは思うが、一過性の好奇心でこの青年に遊ばれたりなどしたら立ち直れる気がしないのである。そんな事をするような子ではない、と思いたい所だが。
「…そこまでは必要ないか」
「あ、ううん! 前に話したかなと思うんだけど、僕は上司命令でここに住んでるからね、そっちの確認とか兼合いも色々あって…!」
見て分かるくらいに、眉を下げた薬研へ慌てて言い訳をした。そんな表情をさせているのが自分だと考えるだけで胸がときめく。そして同時に、彼の曇りそうな顔を笑顔にしたいという欲求が湧き上がるので、ほとほと困ったものだ。
相手の一挙一動に、完全に振り回されている。そう自覚があるのがまた、惚れた弱みというものを実感させられて、複雑な気持ちになるのだった。
「そうだったな、そっちの返事を優先してくれて構わん。仕事だもんな」
個人的な理由で断られた訳ではないと受け取ったらしく、少しほっとした様子で彼も同じく甘いカフェラテを飲む。
「多分、そんなに煩くは言われないと思うんだけど…今すぐ返事は出来ないんだ、ごめんね」
ぐらぐらと自分の理性が揺れるのを感じて仕方ない。今すぐ上司を説得して新しい所を探そう、と感情の赴くまま突っ走って言ってしまいたい自分と、恋仲でもないし友人とも少し違う相手と新しい新居で本格的に同棲を開始するだなんてどうかしている…もっと慎重になるべきだ、と冷静に諭してくる自分が葛藤している、脳内で。
圧倒的に今はまだ様子を見るべき、と思って脳内の自分の意見は後者の方を支持している訳だが、理性がぐずぐずに崩れ去ってしまったなら、どんな行動に出るか想像もしたくなかった。
「ただの思いつきだ。そんなに気にしないでくれ」
「ん、了解」
そう返事をしつつ、ひとつ気になってまた口を開く。
「でも…仮に引っ越したとして、そうすると家賃とか色々折半になるよね?」
僕が全部出してもいいくらいだけど、と相手が嫌がるだろう発言は内心だけで言葉を飲みつつ、話を続ける。
「その場合、今の家賃よりは安くなるかもだけど…引っ越す場所によっては藤四郎君の負担が大きくなったりしないかい…?」
「あぁ、その事ならちゃんと考えてるぜ。新しくバイトを始めてみようかと思ってな」
流石に何もかも実家の世話になるつもりもねぇし、最悪でも引越し代は稼がねぇと。
そう続いたのに、現実的な側面も考えた上での発言なのだなと安心した。思いつきで言っているとも思えなかったのだが、先に確認しておかないと後から拗れる事も少なくないのだ。物事の大半は。
「でもあくまで学業は優先するんだろう? そうすると日常の生活が圧迫されないかい、選ぶアルバイトにもよるだろうけど…」
つい心配になって、過保護な発言が口から滑り落ちてゆく。保護者か、と我ながら思うくらいのお節介加減だと思う。相手がどう思うかは、分からないが。
「旦那に心配されるのは嬉しいが、それも考えてるぜ。長時間拘束されるようなものは、最初から候補に入れてねぇんだ。あんたにも負担をかけかねないからな」
「じゃあ短期のものだけ、っていう事かい? でもそれって職種も大分限られるんじゃないかな。…もうバイト先って決まってるの?」
自分に弟はいないのだが、弟のように思って扱っている知り合いにするように薬研の事も心配で、つい根掘り葉掘り聞いてしまった。声に出してから後悔しても遅いのだが、既に手遅れとしか言い様がない。
「まだ本採用じゃねぇんだが…声を掛けて貰ってる所ならあるぜ」
そしてそれらの質問に律儀に答えなくても良いのだが、難なく答える相手も相手だと思わなくない所だ。しかしまだ一緒に住居を共にするのなら、お互いがどんな生活をしようとしているか把握する必要はあるだろう。
「ちなみにどんな職業なの? それ」
危ない仕事ではないかだけ確認できたら、もうこの話は終わりにしよう。そう思って最後の質問のつもりだった。燭台切としては。
「何だったか…男相手の売り専? で、スカウトされた。物好きだなぁ…と思ったんだが、抱く方だけでいいらしいし、給料もいいし短期で辞められるっつう話だから、検討中だ」
「………う…? え、ちょ…待って…」
思考が正しく働いているのか分からないが、何で検討してるの? という純粋な疑問が脳内を占拠している。どう考えても、選択肢にいれるような職業ではないだろう普通は。
しかしそれよりも今は別の事が気になった。
「君って…男相手でも、その…平気なの?」
思わず怪訝な顔になってしまう。その上で聞きながら、君が好きなのは僕じゃないの、とむっとしている自分がいた。そんな風に感じるような関係ではないと自覚はありながら。
「さぁ? 分からん。何でも物は試しかと思ってな」
少しの淀みもなくきっぱり言い切られて、こちらが項垂れる。知り合った頃から、こちらの想像を超えることを優にやってのける男だとは思っていたが、ここまで斜め上の発想を披露されるとは思わなんだ。頭が痛くなってきた。
「……そんな心持ちで受けていい仕事じゃないと、僕は思うよ」
言葉を選んで、彼を諭そうと画策するか、迷う。存外、頑固だと思われるこの青年に余計な事を言って、今より事態がひどくなるのは避けたいのだ。かと言って、笑顔で現在検討中の仕事へと送り出すつもりはない。
さて、どうしたものか。
「試してみたいって言うなら…わざわざそんな怪しい所に所属しなくても僕が買うけど」
冷静でいたいと思いつつ、内心で苛々としていた。そうでなければ、こんな際どい発言をしなかったはずだ。
「は?」
当然、言われた方も面食らっている。しかしそんな衝撃を受けているのは彼だけではない。発言をした張本人もであった。幸いそれらは胸の内に留まっているので、表情には出ていなかったが。
「…聞こえなかった? 僕が買うって言ったんだよ。そうは言っても男に抱かれるのも抱くのも興味はないからセックスはしないけどね」
職業柄、思ってもいない事をするすると話せる方だが、それでも今日この瞬間、内心の冷や汗が止まらない。ほとんど自宅のようになっているこの部屋で、こんなにも冷や汗を掻いた事がかつてあっただろうか。そんなことを思い出している暇もないので、考える余裕すらないが。
「いや、だけど、っ…」
「君に気遣われるような給料じゃないから、安心して。それに難しい事は頼まないよ」
何事か言いかけた相手を遮って、続けた。もう勝手に言葉が口から溢れるようになっているらしい。止まりたいのに、止まれなかった。
何より、自分以外の不特定多数に触れる薬研を、想像すらしたくなかったのだ。そのせいで、まさか自分がこんなにも無茶な提案を押し通そうとするとは思わなかったのだが。
「……光忠さんが、それでいいなら」
ふぅ、と短い溜息を吐いてから、青年は腹を括ったような眼差しをこちらに向ける。完全に納得しているようではないが、一先ず自分の発言を実行するのはやめたように見えた。
思い止まってくれた事に心底安堵して、燭台切も詰めていた息を吐く。なるべく自然に、気付かれないように、だが。
「でも、…じゃあ俺は具体的に何をしたらいいんだ? 添い寝…は、ほぼ毎日してるし、…やる事なくないか?」
セックス以外に そんな副音声が聞こえた気がするが、全力で気のせいだと脳内から追い出す大人である。まだお互いどう思っているのか、はっきりさせた訳でもない内に体の関係を持つだなんて、爛れた事をしたくなかった。今までの過去は脳内の隅へ押しやって、そんな事を考える。自分が思っているよりずっと、目の前にいる青年に真剣な気持ちを抱いているからかも知れない。
浅はかな事をして、彼に幻滅されたくない気持ちは確かにあった。正直、今の段階では少々手遅れになってしまった気はするのだが。
(…ここまで言った手前、何も考えてなかったとか、言えない…)
心の中だけで、泣いた。咄嗟に大口を叩くのは得意だが、こんなにも選択肢のない博打は打つものではない。そう自分に言っても遅すぎる。
即答したいのだが、少しの間を置いて口を開いた。
「背中を流す…とか、どうかな」
言った傍から、己の失敗を悟る。これはない、こんな微妙な関係としか思えない相手に求める行為ではないだろう。何より困るのは自分ではないのか。ほとんど誘っているのと変わらない、…とそこまで思考が巡って青褪めた。
どうして言葉というものは回収が不可能なのだろうか。今この瞬間を、非常にやり直したい。どんな手を使ってでも。
「分かった。じゃあ、…今夜でいいのか?」
こちらの動揺に気付いているのかいないのか、薬研は平素通りのような顔でそう聞き返してくる。君は動じないにも程があるんじゃないのか、とそんな文句を言いたくなるが、言える立場ではない。
「うん、よろしくね」
何も宜しくない。しかし本音を言えないまま、今夜の予定は決まってしまった。折角の休日は、まだ朝だというのに想定外の出来事で楽しめそうになくなっている。主に、己で導いた墓穴という穴に嵌った事により。
***
二週間ぶりに休日が重なるから、と昼間はふたりで映画を見に行く約束をしていた。前々から見たいと言っていた巨大モンスターが出てくる映画だ。確かその計画を立てた一週間前、見る映画を決める際に燭台切からは何でもいいと言われ、それならこれにしようと薬研が提案したものだった。
大きい生物には浪曼があるからな、と言った気がする。しかしその大きい生物を倒す内容なのだが、それを知ってか彼は苦笑していたようだった。しかしそんな水を差すような事は、前売り券を買ってまで準備したこちらに告げることはなかった。
優しい男だ、と思う。そして同時に少し詰めの甘い大人だとも。
今朝の一件があって、彼は普段のように何もなく振舞っているつもりのようだった。しかし、皿を洗っていると普段ならありえないのだが、それを手から滑り落としたり、出掛ければ移動に使う電子マネーのカードを忘れたりと、地味なドジが目立っていた、今日に限って。
日々、色んな事をそつなくこなす男なので、余計に珍しく思えるのだが、明らかに今朝の件で動揺している、ようにしか俺には見えない。正直なところ、動揺しているのは彼だけでなくこちらも同じなのだが、あまりに相手の動揺が目に見えてはっきりしているので、逆に冷静になれていた。光忠さんには悪いが。
「大丈夫か?」
映画が終わって席を立ち、映画館から出た階段でよろけた大人の腕を咄嗟に掴んでそう聞いていた。明白に注意力散漫になっている彼を意識的に観察していたのだが、それが見事役に立ったようだ。
「…っ、平気…! あ、りがとう」
少しのぎこちなさを持って、そう返しつつ相手はこちらから距離を取る。目に見えて、意識されていた。それは今日に始まった事ではなく、こちらが口説くと決めたあの朝からなのだが、こんなにも態度に出てしまっているのは今日が初めてだと思う。
(こんなに意識しちまうくらいなら、言わなきゃ良かったのになぁ…あんな事)
今朝の問題発言について、薬研すらそう思っていた。ただこちらとしては好都合なので彼の墓穴は大歓迎なのだが、こうも大袈裟な反応を見ると少し可哀想になる。しかし可哀想、と思ってもそれを撤回するような優しさは持ち合わせていないのだが、生憎と。
いつも通りのようなそうではないような雰囲気を維持したまま、外食をして少し買い物をしてから帰宅した。
まるでデートだなと思ったのだが、ただでさえ気を張っている大人をこれ以上追い込まないために言わないでおく。殆んど彼の自業自得なのであるが。
それに帰宅してから、目に見えて落ち着きがなくなっている燭台切の神経をあまり刺激しては、逃げられそうな気がしていた。
この男は職業柄か元々の性格か、話をはぐらかしたり躱すのがとても上手い。それもあって、こちらが口説き始めたものも全て、笑って誤魔化すか流すか聞こえなかった振りをして、ことごとく受け流されていた。しかし本気にするつもりはないようなその態度が、こちらを拒絶しているようにはどうしても思えなくて、その曖昧さがまたずるいと思う。
現状は維持したいが、人間関係のあり方を悩んでいる。というのは、言われなくても分かってしまうというものだ。何より同性から突然、そういう目線で見られていると知ったら誰でも戸惑うだろう。
ただ気のない相手なら、早々にけじめを付けそうなものなのにそれもない。
(まったく気がないっつう訳でもないのかねぇ…)
隣で夕飯にリクエストしたハンバーグを焼いている大人を盗み見る。今は目の前の料理に集中しているようで、落ち着いた様子だ。
肉のじゅうじゅう焼ける音と匂いに、こちらの気も燭台切から食事へと逸れてゆく。そう感じている間に、腹の虫が鳴った。
「…腹減った…」
「もう少しだよ…藤四郎君、手動かしてね」
「はい」
野菜スープの野菜を軽く炒めている途中でそう言われ、焦げていないか確認してしまう。止まっていたのは数秒だったので玉葱が良い色になり始めた程度だった。玉葱は先に炒めた方が甘さと旨味成分が出るから、と隣の男に教わったのでそうしているのだが、俺にはよく分からない。何せ、そうしなかった場合と、そうした場合の味の違いを知らないからだ。
色が変わってきたのを見計らって、燭台切に声を掛ける。彼の指示に従って他の野菜や水分に、味付けもしてゆく。たまにこうして並んで料理をするのだが、毎回こうして聞いてばかりだ。答えて欲しい肝心な事には、一切触れてくれないが。
食事が始まる前に薬研は風呂掃除を終えて、湯船にお湯を張っておいた。
今更だが、この部屋の浴室を彼はあまり使わないなと思い出す。水道代などを気にしているのだとは思うが、毎回自分の部屋に帰って風呂だけ済ませこちらの部屋に帰ってくるのは面倒ではないのかと問いたい。あまり本人は気にしていなさそうな気もする所であるが。
何気なく食事を始めてそれが終わる頃、食後に甘い物が食べたいと言い、冷蔵庫を覗き始めた大人に本題を切り出した。
「…所で、何時に風呂入る?」
がたっ、と冷蔵庫の上段に頭をぶつけた音がする。それから目に見えて動揺した声で、彼は「えっ…?!」と呟いたようだった。
我ながら意地の悪いタイミングだなと思ったが、正直わざとなので甘んじて受け入れて欲しい所である。手に掴んだヨーグルトを変形させた状態で、相手は振り返った。その顔にはうっすらと汗が浮いている、ように見える。
「ぁ…うん…そう、だね…」
視線を彷徨わせながら曖昧に頷く。忘れていた、というよりは忘れていたかったという様子だ。そう易易と逃がしてやるつもりもないが。
「あと二時間くらいはのんびりするか」
時間を指定したのは彼に心の準備をさせるため、というより今より一秒でも多くこちらを意識させたかったからだった。勢いに任せたであろう先程の発言を、身を持って反省して欲しい気持ちもある。
いずれにせよ、迂闊なこの男が心配だった。
こんなにも簡単に、友人でもない大学生を己の懐に入れてしまうという事がどんなに危険か、知って欲しい。他の人間にも同じように、付け込まれる前に。
「あぁ、うん、…片付けとか…一通り終わってからに、しようかな」
ゆっくりと慎重に、燭台切は言葉を紡ぐ。本人にそんな気はないだろうが、僅かに怯えられている気配がして小動物を連想した。こんなに大きい小動物はいないと分かってはいるのだが、雰囲気がそんな感じだ。
「そうか、分かった」
これ以上虐めるのは一先ずやめておく。この律儀な男に限って突然逃げ出したりはしないだろうが、あまり追い詰められると人間という生き物は予想外な行動に出るものだ。どんな時も追い詰めすぎてはいけない。多分、どんな性格の人間でも。
「…君もヨーグルト食べる?」
「あぁ、もらう」
明らかに容器が変形してしまったヨーグルトを受け取って、笑った。こちらに渡してきたものも、自分の分も同じように変形してしまっているヨーグルトの容器に、大人の動揺が滲み出ていすぎて。
「……じゃあ、先に入るけど、五分くらいしたら入ってきて」
「了解」
その端正な顔からは、表情が抜け落ちていた。先程までの顔に出ていた動揺は、この数十分でどこかに置いてきてしまったらしい。腹を括ったという事だろう。
脱衣所へと消えていった背中を見送って、リビングにある掛け時計に視線を向けた。九時を過ぎた所で、今から五分かと長針の位置を確認する。滑らかな動きで進み続ける秒針に気を取られ、少しだけぼうっとした。
相手の墓穴を利用したとはいえ、現在の状況にあまり現実味を感じられない。たった今、口説いている相手が風呂場に向かった訳だが。
(…これって、もしかしなくても据え膳なのか?)
まさに今、浴室に入ったであろう相手は全裸で、こちらを待っている予定である。急に眩暈がしてきた。
そして、半同棲状態にも関わらず、あの男の半裸すら見た事がないと思い出して、余計に動揺してしまう。
(いや、今になって意識するとか遅くねぇか、何でだよ…!)
自分にツッコミを入れて、頭を抱える。むしろ何故今まで平気だと思えていたのかがよく分からない始末だ。あまり現実として、想像していなかったからかも知れないが。
(落ち着け…背中を流すだけだろう。っつうか、一応、バイトなんだよな、これ。別に光忠さんから金が欲しい訳じゃねぇんだが)
深呼吸をして、後頭部を掻く。この仕事を引き受けたものの、正直あまりその対価を貰うつもりはない薬研である。そもそも、相手から金を貰うのは本末転倒な気がして仕方ないのだ。向こうがどれだけ気にしていないと言おうと、こちらは燭台切のひもになりたい訳ではないので。
色々と葛藤している内に、五分経とうとしていた。上はTシャツなので、下に穿いているデニムの裾を何度か折って捲くり上げる。一緒に入浴する訳ではないので、これでいいかと自分の手足を拭くためのタオルを脱衣所の戸棚から出して、大人の洋服が畳んで置いてある籠の縁へと掛けておく。
柄にもなく心臓が喧しい音を立てているのだが、聞こえないフリをして浴室にいる相手に声をかけた。
「…もう入っていいか?」
「どうぞ」
磨硝子越しに、その背中が薄ぼんやりと見える。ほとんど間などなく返ってきた声に、こちらばかりが動揺させられているのではないかと思った。何だか、無性に。
「失礼します」
何も言わない方がいいのか分からないまま、敬語になっていた。バイトバイトバイト、と心の中で呟いて煩悩を脳の隅へ押しやる。その勢いのまま、目の前の戸を引いた。
風呂場用の椅子に座っている広い背中が、真っ先に視界に入る。何も身に纏っていない素肌は、少し濡れて無数の水滴をつけていた。髪の毛も濡れていて、後ろへと撫で付けられている。
髪の毛は洗い終わった所なのだろう。いつも眼帯を付けている彼が、それを外しているのも初めて見た。その顔の全貌は、この大人がこちらを振り返る事がない限り、見ることはないだろうが。
「…遅かったね?」
「旦那の支度が早く済んだだけじゃないのか」
軽口で流したいのに、声が強張る。喉がからからに乾いていた。緊張から、下半身が反応する事はなかったが、これが良いのか悪いのかもよく分からない。あくまでバイトなので、きっと良い事なのだろうと深く考えずに流した。流すほか、なかったとも言う。
「確かに…思ったより早く終わったかも」
髪を洗うのが、と話す声がやけに室内に響いている気がして落ち着かない。どうしてこんな空間でのアルバイトを思いついたのだと目の前の男に詰め寄りたくもなるが、きっと相手も後悔している事だろうと、赤くなった耳の丸みを見て取ってから思った。
後悔、しているのだろうか。否、後悔して貰わなければ困るのだ。他の場所で同じように自分以外の他人へ対して、こんな風に素肌を晒すような真似をして欲しくない薬研としては。
「…じゃあ、背中を流すが…。スポンジでいいか?」
落ち着こうと思えば思うほど、考えているように自然な振舞いは適わない。しかし逃げ出す事は出来ない今、ならばなるべくこの仕事を早く終わらせるしかないなと、聞こえないように深い溜め息を吐く。当然、彼には気付かれないように、彼とは反対に向いて息をした。
ただ呼吸をする度に、自分が使っているシャンプーの匂いが燭台切から香るので落ち着くわけがないのだが。
「うん、何でも」
何でもってなんだよ!? と咄嗟に脳内で怒鳴った自分がいた。素手で撫でるように洗われてもいいのか! と余計なことを考えた所為である。煩悩が消える気配はない。
(違う、落ち着け…深呼吸だ)
今日だけで何度自分を叱咤するのか、と思うくらい脳内が忙しかった。相手の項を伝う水滴に目を奪われつつ、スポンジにボディソープを付けて泡立たせてゆく。
普段、自分ではスポンジなど使わないので、新鮮な気持ちだ。そんな事を無理矢理考えて、目前に迫っているかのような健康的そのものの色な肌を注視していた。自分の方が白いとは分かっていたが、健康的にほんのり焼けている皮膚から暴力的なまでの色気が出ている気がしてならない。思わず下唇を噛んでいた。
「……藤四郎君?」
「っ、…あぁ、いや、何でもない…」
思わず力んでいた手から、折角泡立てたボディソープが溢れ落ちていて、再度液体を追加すると泡立て直す。まったく、冷静でいられない。が、何とかこの現実を終わらせるためにと、相手の背中へ泡を付けるようにスポンジを滑らせた。
「………痛くないか? あと、痒いところとか、あったら言ってくれ」
「うん、大丈夫」
返事をする低い声が、甘く感じる。局部を隠すためにタオルを一枚纏った程度の、心許ない格好でいるのにそんな油断をした態度を取らないで欲しい。視界に入る頭を叩いてやりたくなってきた。
そんな事、震えそうになっている手では出来そうにないのだが。
ただただ無心に努めて、なめらかな皮膚の上をスポンジで撫でる。暑くないはずの浴室内で、しかし頭の中は沸騰しそうだった。元々あまりなかった心の余裕も、更になくなっている気がしてくるくらい、何も話せない。柔い訳ではない背中を、洗っているだけにも関わらず。
「…腕も、お願いできるかい?」
「ん、…了解」
上手く声が出なくて、少し焦る。尻の割れ目が視線の先に入ったせいだった。腰まで手を下げて、思わず凝視してしまったのだ。男の尻を。
揉み心地良かったな、と当然のように思い出してしまう。記憶に新しいものなので、思い出さない方が難しかった。
燭台切に言われた通り、肩から二の腕へとスポンジを移動させる。これはバイトだった、と自分にまた言い聞かせた。少しでも邪な思考がなくなればいいのだが、それも無理だとは分かっている。今までの経験から。
それにしても、至る所に筋肉の隆起が見られる裸体は、同性から見ても羨ましい体付きだ。特に自分のような、筋肉の付きにくい体質の人間から見れば尚更。
「しかし旦那、良い身体してるよな」
だが本音を口にすると、我ながらどこのセクハラ親父か、と頭痛がしてくる台詞にしかならない。紛う事なき本音でも。相手が異性であったなら、訴えられたかも知れないと考える。ただの現状から気を逸らす妄想に過ぎないが。
「職業柄、座っている時間の方が多いから…ジムに通ってるんだ時々。二十四時間空いている所も出来たからね、仕事終わりとか始まる前に身体動かすの、」
気持ちいいよ 無駄に色気の孕まれた声で、囁かないで欲しい。下半身に悪い、などとは口が裂けても言えないのだが、いっそ本音をぶちまけてしまいたい心境に陥った。
スポンジを滑らせていた手が、相手の手首に届いた所で思わず止まる。脳内の葛藤が喧しく、意思に反して事務的な動きが出来なくなったのだった。
「藤四郎君…? …君、そんなに隙があると、付け込まれるんじゃないのかい」
「…は?」
それはあんただろう、と反射で思って声がした方へ顔を上げると、手首をぐっと掴まれる。そのまま引っ張られて、鼻先にふわっといい匂いがした。眼前に、眼帯をしていない燭台切の顔があって、心臓がどくっと大きく脈打つ。数センチで、その唇を奪えそうな距離だった。
「ねぇ、君…これ以上の事をするバイトをしたいって言ってたよね? もし僕みたいな体格の男に捕まったら今みたいに逃げられないんじゃないのかな」
手首を握る掌に、また力を込められて相手が本気で言っているのが伝わってくる。
(あぁ…そういう事か)
どうしてこの男がこの場から逃げなかったのか、やっと納得がいった。明白に言い寄っている同性に対して、その素肌を晒してでも言いたかったのは、これかと。
「…そんなに俺が心配か? 優しいな光忠さんは。でも俺だってこんな頼りない身体かも知れんが、力はそれなりにあるんだぜ」
掴まれていない方の手を、彼の後頭部に回して更に顔を近付ける。鼻先で、相手の鼻先を撫でた。ぎくっとした動きで、大人が息を呑むのが分かる。至近距離すぎて、お互いに隠せるものが少なくなった。呼吸も体温も、密着している部分から次第に伝わってしまう、お互いに。
「今すぐあんたを押し倒すくらいの力はあるつもりだ。…実際にやってみないと分からんのは確かだが」
確認するか? そんな事はしないだろう、と思いつつも聞いてみる。無表情になっている相手を、動揺させてみたくなったのかも知れない。冷えてしまった大人の手や身体に、少しの罪悪感を覚えながら。
「…いいよ、やってみて」
掠れた声で、そんな言葉を紡ぐなんてどうかしている。この男も大概どうかしてしまった、そう頭の隅で判断出来るものの、こちらも止まれない。止まる材料をたった今、奪われてしまったのだから。
吸い込まれるように、目の前にある唇へ自分のそれを重ねた。後頭部を撫でた手を腰に回して、更に口付けを深くする。受け入れるように相手の唇が開いた所で、遠慮なくその口腔内へ侵入した。
歯列に触れ上顎をなぞり、舌を絡める。表面の皮膚と違って、口内は温かい。あの夜からずっと、知りたかった体温を感じている現実に頭から痺れるようだった。
もっと近付きたくなって、心が逸る。今日この瞬間に彼を自分に繋ぎとめられたなら、もしかして。そんな柄にもないセンチメンタルな考えが脳裏にあった。
大人の腰を掴もうとして、指先が滑る。今さっき自分が付けた泡のせいだ、と認識したら己の動きが鈍る。本能のままに行動していた意識に、水を差されたみたいだ。でも、お陰で少し冷静になれた。
誘われたから誘いにのって、この雰囲気に流されて得るものは、本当に俺の欲しいものなのか。
「…ちがう、間違えた…」
知らず、口から言葉が漏れる。ほとんど独り言だったそれは、しかし目の前の男にも聞こえてしまっていた。
「何が違うんだい…? こういう事、試してみたかったんじゃないのか君は」
毒を孕んだかのような声音だった。呆然としたまま、その言葉に反応して返事をしていた。
「そういうんじゃない…」
「僕じゃなくても、誰でも良かったんだろう」
温度の感じられない声は続く。一瞬でも、想いが重なったと思ったのは、こちらの勘違いだったのか。浮き彫りになったかのような温度差に、戸惑う。
このたった数十秒で、目眩を覚えそうなくらい暑かった室内は冷え切った気がした。
「…そんな事、思ってねぇ。でも、こんな状態で何言っても言い訳にしかならねぇよな。俺が悪かった…もう、しない」
そっと離れて、失った温もりを掌で握り潰す。何をどう何処で間違えたのか、はっきりとした事は分からない。何も分からないがただひとつ、触れられる距離にいた相手に拒絶されたのだけは分かった。
「タオル、用意しとくから、…ゆっくりしてきてくれ」
冷えたであろう体が心配だった。ただ、それを告げてもいいのか、今は判断出来ない。だから、最低限だけの言葉を置いて、浴室から出る。後ろは振り返れなかった。
「……何を、やってるんだ僕は…」
相手が完全にいなくなった浴室で、弱々しく呟く。情けなさしかない声に、我ながら頭を抱えた。自分がこんなにも幼稚な真似をする人間なのだと、この年齢になってようやく自覚する。
遅すぎる発見に、縦に長い体を小さく折りたたんで反省しても、それすら遅いのは明確だ。
あのまま雰囲気に流されてしまう事も出来たはずだった。今まで何回もそんな風にして、気になった相手とは関係を持ってきた。それなのに今回に限って、尻込みしたのだ。確かに自分は。
(でも、だからって…あんな試すような事言って、本当…大人げない)
年下の相手に甘えているとは思っていた、思ってはいたが、ここまで酷いとは知らなかったのだ。
その上、確実に傷つけた。あの少し強引で優しい青年を。そんな事を望んでいた訳ではなかったはずなのに、自分が傷つく前にと予防線を張ったのだろう。
こんなにも自分が情けないとは、知りたくなかった。
冷え切って、指先の感覚が鈍くなっている。シャワーの蛇口を捻って、熱い湯を頭から浴びた。身体に残っていた泡が、排水口へ流れていくのを静かに見つめる。
彼も自分も、一過性の熱だけであんな事をしたとは言い切れない。それでもその可能性が少しでもある事が、恐ろしかった。
自分だけでなく相手を信じるのが、こんなにも難しいと感じるのは、いつ以来だろうか。
幼い頃の記憶が脳裏を過ぎって、考えるのを放棄した。
..................................................................................
6
重く気まずい空気は、三日もすると薄れていった。双方が意識的に、そういう振る舞いをしていた結果だろう。
あれから、薬研は燭台切を口説く素振りをやめた。
一見、半同棲生活を始めた頃とそう変わりないような対応だが、しかし徹底して接触を避けているのは明らかだった。なるべく自然に、避けられている。
そう仕向けたのは自分なのに、その現実に打ちのめされていた。とても静かに。傷つく資格など、ないというのにも関わらず。
そんな矢先だった。彼の家族が訪れたのは。
「…おや、これは私とした事が…部屋を間違えてしまいましたかな」
呼び鈴が鳴って、家主の代わりに玄関ドアを開けると爽やかな水色の髪をした青年と対面した。古風な言い回しの喋り方は、誰かを思い出す。
「あぁ、いえ、ここは薬研藤四郎君の部屋ですよ。僕はその…彼の…同居人、というか」
彼にとって自分がどういう存在なのか、正直言葉に詰まってしまう己がいた。自分でどう思っているのかも今ひとつ分からないというのに、他人に説明する事などできない。
そのせいで曖昧な説明をしたのだが、相手はひとつ頷くと「そうですか」と爽やかな返事をしてくれた。
「私は薬研藤四郎の兄で粟田口一期と申します。苗字が違うのは少々訳ありなのですが、弟と好い仲の方とお見受けしますに、詳細の説明は藤四郎から、いずれさせて頂く事になるかと…」
手本になるような、綺麗な会釈を一度すると、粟田口と名乗った男に手を差し出される。あまりこの手の接触をされた経験がないので一瞬戸惑ったが、握手を求められているのだと理解して、その手を握った。
そして、握り返してから相手の発言に違和感を覚える。誤解を招くような言い方をされていた気がして。
「…えっと…? いいなか、っていうのは…」
自分の頭上をクエスチョンマークが飛び交っている。字面で何となく意味する事は予想できるのだが、外見的にそう判断する人間の方が圧倒的に少ないだろうと思って、念の為の確認であった。
「……おや…、これもまた私の早とちりでしたかな…? あまりに弟の好みに嵌るお方だったので、てっきりそういうご関係かと」
「兄貴、人の家の玄関先で何を言ってくれてるんだ…?」
洗面所にいたはずの家主が、気付けば来訪者の胸ぐらを掴んでいる。風は感じたが、音もなくそんな物騒な事をしないで欲しいと思う燭台切だ。突然目の前に現れた同居人に驚いて、何を言われたのか良く聞こえなかった。
「?」
よく分からないまま、口ぶりから完全に兄弟らしいのでその様子を見守る事にする。今以上に喧嘩状態が悪化しそうなら、その時は止めに入ろうと思いつつ。
「ははは、元気だったようだね、私の可愛い弟は」
「…今日のは笑っても誤魔化されねぇぜ? …まぁ、まだ玄関先でなんだし、中に入ってくれ」
朗らかに笑った相手に警戒しつつ、掴み掛っていた手を解いて薬研は相手を招き入れた。珍しく目が笑っていない彼が新鮮で、ついじろじろと見てしまう燭台切である。
#続きなどない
#再録
#薬燭
#現パロ
#ホストと医学生
5
「引っ越し?」
休日の重なった朝、食前に甘いカフェラテを飲んでいる時だった。この部屋の主にそう提案されたのは。
「あぁ、もう殆んど一緒に住んでるようなもんだし、…二人で住むなら今よりも広い部屋に引っ越してもいいんじゃないかと思ってな」
光忠さんさえ良ければの話だが、と続けられて咄嗟に返事を飲み込んでしまった。口を開いて、反射のまま「いいね!」と言いそうになったのだ、危ない。
つい一週間前の泥酔事件から、この目の前にいる青年とは更に微妙な関係になっている上、自分の不純な気持ちに気付いてしまった今、迂闊な事は言えないとそう燭台切は考えていた。
「そうだね…そういう事も今後のために考えておいた方がいいかも…ね」
向かいに座っている薬研から視線を逸らしつつ、曖昧に濁す。多分気のせいなどではなく、件の日からどうにもこの青年には積極的に来られている気がするのだ。自意識過剰でなければ口説かれている、ようなのだ、どうも。信じられないことに。
それに対して、まだ自分がどうしたいのか正直分からず、戸惑っていた。大学生とはいえ、彼はまだ若い。万が一、ないとは思うが、一過性の好奇心でこの青年に遊ばれたりなどしたら立ち直れる気がしないのである。そんな事をするような子ではない、と思いたい所だが。
「…そこまでは必要ないか」
「あ、ううん! 前に話したかなと思うんだけど、僕は上司命令でここに住んでるからね、そっちの確認とか兼合いも色々あって…!」
見て分かるくらいに、眉を下げた薬研へ慌てて言い訳をした。そんな表情をさせているのが自分だと考えるだけで胸がときめく。そして同時に、彼の曇りそうな顔を笑顔にしたいという欲求が湧き上がるので、ほとほと困ったものだ。
相手の一挙一動に、完全に振り回されている。そう自覚があるのがまた、惚れた弱みというものを実感させられて、複雑な気持ちになるのだった。
「そうだったな、そっちの返事を優先してくれて構わん。仕事だもんな」
個人的な理由で断られた訳ではないと受け取ったらしく、少しほっとした様子で彼も同じく甘いカフェラテを飲む。
「多分、そんなに煩くは言われないと思うんだけど…今すぐ返事は出来ないんだ、ごめんね」
ぐらぐらと自分の理性が揺れるのを感じて仕方ない。今すぐ上司を説得して新しい所を探そう、と感情の赴くまま突っ走って言ってしまいたい自分と、恋仲でもないし友人とも少し違う相手と新しい新居で本格的に同棲を開始するだなんてどうかしている…もっと慎重になるべきだ、と冷静に諭してくる自分が葛藤している、脳内で。
圧倒的に今はまだ様子を見るべき、と思って脳内の自分の意見は後者の方を支持している訳だが、理性がぐずぐずに崩れ去ってしまったなら、どんな行動に出るか想像もしたくなかった。
「ただの思いつきだ。そんなに気にしないでくれ」
「ん、了解」
そう返事をしつつ、ひとつ気になってまた口を開く。
「でも…仮に引っ越したとして、そうすると家賃とか色々折半になるよね?」
僕が全部出してもいいくらいだけど、と相手が嫌がるだろう発言は内心だけで言葉を飲みつつ、話を続ける。
「その場合、今の家賃よりは安くなるかもだけど…引っ越す場所によっては藤四郎君の負担が大きくなったりしないかい…?」
「あぁ、その事ならちゃんと考えてるぜ。新しくバイトを始めてみようかと思ってな」
流石に何もかも実家の世話になるつもりもねぇし、最悪でも引越し代は稼がねぇと。
そう続いたのに、現実的な側面も考えた上での発言なのだなと安心した。思いつきで言っているとも思えなかったのだが、先に確認しておかないと後から拗れる事も少なくないのだ。物事の大半は。
「でもあくまで学業は優先するんだろう? そうすると日常の生活が圧迫されないかい、選ぶアルバイトにもよるだろうけど…」
つい心配になって、過保護な発言が口から滑り落ちてゆく。保護者か、と我ながら思うくらいのお節介加減だと思う。相手がどう思うかは、分からないが。
「旦那に心配されるのは嬉しいが、それも考えてるぜ。長時間拘束されるようなものは、最初から候補に入れてねぇんだ。あんたにも負担をかけかねないからな」
「じゃあ短期のものだけ、っていう事かい? でもそれって職種も大分限られるんじゃないかな。…もうバイト先って決まってるの?」
自分に弟はいないのだが、弟のように思って扱っている知り合いにするように薬研の事も心配で、つい根掘り葉掘り聞いてしまった。声に出してから後悔しても遅いのだが、既に手遅れとしか言い様がない。
「まだ本採用じゃねぇんだが…声を掛けて貰ってる所ならあるぜ」
そしてそれらの質問に律儀に答えなくても良いのだが、難なく答える相手も相手だと思わなくない所だ。しかしまだ一緒に住居を共にするのなら、お互いがどんな生活をしようとしているか把握する必要はあるだろう。
「ちなみにどんな職業なの? それ」
危ない仕事ではないかだけ確認できたら、もうこの話は終わりにしよう。そう思って最後の質問のつもりだった。燭台切としては。
「何だったか…男相手の売り専? で、スカウトされた。物好きだなぁ…と思ったんだが、抱く方だけでいいらしいし、給料もいいし短期で辞められるっつう話だから、検討中だ」
「………う…? え、ちょ…待って…」
思考が正しく働いているのか分からないが、何で検討してるの? という純粋な疑問が脳内を占拠している。どう考えても、選択肢にいれるような職業ではないだろう普通は。
しかしそれよりも今は別の事が気になった。
「君って…男相手でも、その…平気なの?」
思わず怪訝な顔になってしまう。その上で聞きながら、君が好きなのは僕じゃないの、とむっとしている自分がいた。そんな風に感じるような関係ではないと自覚はありながら。
「さぁ? 分からん。何でも物は試しかと思ってな」
少しの淀みもなくきっぱり言い切られて、こちらが項垂れる。知り合った頃から、こちらの想像を超えることを優にやってのける男だとは思っていたが、ここまで斜め上の発想を披露されるとは思わなんだ。頭が痛くなってきた。
「……そんな心持ちで受けていい仕事じゃないと、僕は思うよ」
言葉を選んで、彼を諭そうと画策するか、迷う。存外、頑固だと思われるこの青年に余計な事を言って、今より事態がひどくなるのは避けたいのだ。かと言って、笑顔で現在検討中の仕事へと送り出すつもりはない。
さて、どうしたものか。
「試してみたいって言うなら…わざわざそんな怪しい所に所属しなくても僕が買うけど」
冷静でいたいと思いつつ、内心で苛々としていた。そうでなければ、こんな際どい発言をしなかったはずだ。
「は?」
当然、言われた方も面食らっている。しかしそんな衝撃を受けているのは彼だけではない。発言をした張本人もであった。幸いそれらは胸の内に留まっているので、表情には出ていなかったが。
「…聞こえなかった? 僕が買うって言ったんだよ。そうは言っても男に抱かれるのも抱くのも興味はないからセックスはしないけどね」
職業柄、思ってもいない事をするすると話せる方だが、それでも今日この瞬間、内心の冷や汗が止まらない。ほとんど自宅のようになっているこの部屋で、こんなにも冷や汗を掻いた事がかつてあっただろうか。そんなことを思い出している暇もないので、考える余裕すらないが。
「いや、だけど、っ…」
「君に気遣われるような給料じゃないから、安心して。それに難しい事は頼まないよ」
何事か言いかけた相手を遮って、続けた。もう勝手に言葉が口から溢れるようになっているらしい。止まりたいのに、止まれなかった。
何より、自分以外の不特定多数に触れる薬研を、想像すらしたくなかったのだ。そのせいで、まさか自分がこんなにも無茶な提案を押し通そうとするとは思わなかったのだが。
「……光忠さんが、それでいいなら」
ふぅ、と短い溜息を吐いてから、青年は腹を括ったような眼差しをこちらに向ける。完全に納得しているようではないが、一先ず自分の発言を実行するのはやめたように見えた。
思い止まってくれた事に心底安堵して、燭台切も詰めていた息を吐く。なるべく自然に、気付かれないように、だが。
「でも、…じゃあ俺は具体的に何をしたらいいんだ? 添い寝…は、ほぼ毎日してるし、…やる事なくないか?」
セックス以外に そんな副音声が聞こえた気がするが、全力で気のせいだと脳内から追い出す大人である。まだお互いどう思っているのか、はっきりさせた訳でもない内に体の関係を持つだなんて、爛れた事をしたくなかった。今までの過去は脳内の隅へ押しやって、そんな事を考える。自分が思っているよりずっと、目の前にいる青年に真剣な気持ちを抱いているからかも知れない。
浅はかな事をして、彼に幻滅されたくない気持ちは確かにあった。正直、今の段階では少々手遅れになってしまった気はするのだが。
(…ここまで言った手前、何も考えてなかったとか、言えない…)
心の中だけで、泣いた。咄嗟に大口を叩くのは得意だが、こんなにも選択肢のない博打は打つものではない。そう自分に言っても遅すぎる。
即答したいのだが、少しの間を置いて口を開いた。
「背中を流す…とか、どうかな」
言った傍から、己の失敗を悟る。これはない、こんな微妙な関係としか思えない相手に求める行為ではないだろう。何より困るのは自分ではないのか。ほとんど誘っているのと変わらない、…とそこまで思考が巡って青褪めた。
どうして言葉というものは回収が不可能なのだろうか。今この瞬間を、非常にやり直したい。どんな手を使ってでも。
「分かった。じゃあ、…今夜でいいのか?」
こちらの動揺に気付いているのかいないのか、薬研は平素通りのような顔でそう聞き返してくる。君は動じないにも程があるんじゃないのか、とそんな文句を言いたくなるが、言える立場ではない。
「うん、よろしくね」
何も宜しくない。しかし本音を言えないまま、今夜の予定は決まってしまった。折角の休日は、まだ朝だというのに想定外の出来事で楽しめそうになくなっている。主に、己で導いた墓穴という穴に嵌った事により。
***
二週間ぶりに休日が重なるから、と昼間はふたりで映画を見に行く約束をしていた。前々から見たいと言っていた巨大モンスターが出てくる映画だ。確かその計画を立てた一週間前、見る映画を決める際に燭台切からは何でもいいと言われ、それならこれにしようと薬研が提案したものだった。
大きい生物には浪曼があるからな、と言った気がする。しかしその大きい生物を倒す内容なのだが、それを知ってか彼は苦笑していたようだった。しかしそんな水を差すような事は、前売り券を買ってまで準備したこちらに告げることはなかった。
優しい男だ、と思う。そして同時に少し詰めの甘い大人だとも。
今朝の一件があって、彼は普段のように何もなく振舞っているつもりのようだった。しかし、皿を洗っていると普段ならありえないのだが、それを手から滑り落としたり、出掛ければ移動に使う電子マネーのカードを忘れたりと、地味なドジが目立っていた、今日に限って。
日々、色んな事をそつなくこなす男なので、余計に珍しく思えるのだが、明らかに今朝の件で動揺している、ようにしか俺には見えない。正直なところ、動揺しているのは彼だけでなくこちらも同じなのだが、あまりに相手の動揺が目に見えてはっきりしているので、逆に冷静になれていた。光忠さんには悪いが。
「大丈夫か?」
映画が終わって席を立ち、映画館から出た階段でよろけた大人の腕を咄嗟に掴んでそう聞いていた。明白に注意力散漫になっている彼を意識的に観察していたのだが、それが見事役に立ったようだ。
「…っ、平気…! あ、りがとう」
少しのぎこちなさを持って、そう返しつつ相手はこちらから距離を取る。目に見えて、意識されていた。それは今日に始まった事ではなく、こちらが口説くと決めたあの朝からなのだが、こんなにも態度に出てしまっているのは今日が初めてだと思う。
(こんなに意識しちまうくらいなら、言わなきゃ良かったのになぁ…あんな事)
今朝の問題発言について、薬研すらそう思っていた。ただこちらとしては好都合なので彼の墓穴は大歓迎なのだが、こうも大袈裟な反応を見ると少し可哀想になる。しかし可哀想、と思ってもそれを撤回するような優しさは持ち合わせていないのだが、生憎と。
いつも通りのようなそうではないような雰囲気を維持したまま、外食をして少し買い物をしてから帰宅した。
まるでデートだなと思ったのだが、ただでさえ気を張っている大人をこれ以上追い込まないために言わないでおく。殆んど彼の自業自得なのであるが。
それに帰宅してから、目に見えて落ち着きがなくなっている燭台切の神経をあまり刺激しては、逃げられそうな気がしていた。
この男は職業柄か元々の性格か、話をはぐらかしたり躱すのがとても上手い。それもあって、こちらが口説き始めたものも全て、笑って誤魔化すか流すか聞こえなかった振りをして、ことごとく受け流されていた。しかし本気にするつもりはないようなその態度が、こちらを拒絶しているようにはどうしても思えなくて、その曖昧さがまたずるいと思う。
現状は維持したいが、人間関係のあり方を悩んでいる。というのは、言われなくても分かってしまうというものだ。何より同性から突然、そういう目線で見られていると知ったら誰でも戸惑うだろう。
ただ気のない相手なら、早々にけじめを付けそうなものなのにそれもない。
(まったく気がないっつう訳でもないのかねぇ…)
隣で夕飯にリクエストしたハンバーグを焼いている大人を盗み見る。今は目の前の料理に集中しているようで、落ち着いた様子だ。
肉のじゅうじゅう焼ける音と匂いに、こちらの気も燭台切から食事へと逸れてゆく。そう感じている間に、腹の虫が鳴った。
「…腹減った…」
「もう少しだよ…藤四郎君、手動かしてね」
「はい」
野菜スープの野菜を軽く炒めている途中でそう言われ、焦げていないか確認してしまう。止まっていたのは数秒だったので玉葱が良い色になり始めた程度だった。玉葱は先に炒めた方が甘さと旨味成分が出るから、と隣の男に教わったのでそうしているのだが、俺にはよく分からない。何せ、そうしなかった場合と、そうした場合の味の違いを知らないからだ。
色が変わってきたのを見計らって、燭台切に声を掛ける。彼の指示に従って他の野菜や水分に、味付けもしてゆく。たまにこうして並んで料理をするのだが、毎回こうして聞いてばかりだ。答えて欲しい肝心な事には、一切触れてくれないが。
食事が始まる前に薬研は風呂掃除を終えて、湯船にお湯を張っておいた。
今更だが、この部屋の浴室を彼はあまり使わないなと思い出す。水道代などを気にしているのだとは思うが、毎回自分の部屋に帰って風呂だけ済ませこちらの部屋に帰ってくるのは面倒ではないのかと問いたい。あまり本人は気にしていなさそうな気もする所であるが。
何気なく食事を始めてそれが終わる頃、食後に甘い物が食べたいと言い、冷蔵庫を覗き始めた大人に本題を切り出した。
「…所で、何時に風呂入る?」
がたっ、と冷蔵庫の上段に頭をぶつけた音がする。それから目に見えて動揺した声で、彼は「えっ…?!」と呟いたようだった。
我ながら意地の悪いタイミングだなと思ったが、正直わざとなので甘んじて受け入れて欲しい所である。手に掴んだヨーグルトを変形させた状態で、相手は振り返った。その顔にはうっすらと汗が浮いている、ように見える。
「ぁ…うん…そう、だね…」
視線を彷徨わせながら曖昧に頷く。忘れていた、というよりは忘れていたかったという様子だ。そう易易と逃がしてやるつもりもないが。
「あと二時間くらいはのんびりするか」
時間を指定したのは彼に心の準備をさせるため、というより今より一秒でも多くこちらを意識させたかったからだった。勢いに任せたであろう先程の発言を、身を持って反省して欲しい気持ちもある。
いずれにせよ、迂闊なこの男が心配だった。
こんなにも簡単に、友人でもない大学生を己の懐に入れてしまうという事がどんなに危険か、知って欲しい。他の人間にも同じように、付け込まれる前に。
「あぁ、うん、…片付けとか…一通り終わってからに、しようかな」
ゆっくりと慎重に、燭台切は言葉を紡ぐ。本人にそんな気はないだろうが、僅かに怯えられている気配がして小動物を連想した。こんなに大きい小動物はいないと分かってはいるのだが、雰囲気がそんな感じだ。
「そうか、分かった」
これ以上虐めるのは一先ずやめておく。この律儀な男に限って突然逃げ出したりはしないだろうが、あまり追い詰められると人間という生き物は予想外な行動に出るものだ。どんな時も追い詰めすぎてはいけない。多分、どんな性格の人間でも。
「…君もヨーグルト食べる?」
「あぁ、もらう」
明らかに容器が変形してしまったヨーグルトを受け取って、笑った。こちらに渡してきたものも、自分の分も同じように変形してしまっているヨーグルトの容器に、大人の動揺が滲み出ていすぎて。
「……じゃあ、先に入るけど、五分くらいしたら入ってきて」
「了解」
その端正な顔からは、表情が抜け落ちていた。先程までの顔に出ていた動揺は、この数十分でどこかに置いてきてしまったらしい。腹を括ったという事だろう。
脱衣所へと消えていった背中を見送って、リビングにある掛け時計に視線を向けた。九時を過ぎた所で、今から五分かと長針の位置を確認する。滑らかな動きで進み続ける秒針に気を取られ、少しだけぼうっとした。
相手の墓穴を利用したとはいえ、現在の状況にあまり現実味を感じられない。たった今、口説いている相手が風呂場に向かった訳だが。
(…これって、もしかしなくても据え膳なのか?)
まさに今、浴室に入ったであろう相手は全裸で、こちらを待っている予定である。急に眩暈がしてきた。
そして、半同棲状態にも関わらず、あの男の半裸すら見た事がないと思い出して、余計に動揺してしまう。
(いや、今になって意識するとか遅くねぇか、何でだよ…!)
自分にツッコミを入れて、頭を抱える。むしろ何故今まで平気だと思えていたのかがよく分からない始末だ。あまり現実として、想像していなかったからかも知れないが。
(落ち着け…背中を流すだけだろう。っつうか、一応、バイトなんだよな、これ。別に光忠さんから金が欲しい訳じゃねぇんだが)
深呼吸をして、後頭部を掻く。この仕事を引き受けたものの、正直あまりその対価を貰うつもりはない薬研である。そもそも、相手から金を貰うのは本末転倒な気がして仕方ないのだ。向こうがどれだけ気にしていないと言おうと、こちらは燭台切のひもになりたい訳ではないので。
色々と葛藤している内に、五分経とうとしていた。上はTシャツなので、下に穿いているデニムの裾を何度か折って捲くり上げる。一緒に入浴する訳ではないので、これでいいかと自分の手足を拭くためのタオルを脱衣所の戸棚から出して、大人の洋服が畳んで置いてある籠の縁へと掛けておく。
柄にもなく心臓が喧しい音を立てているのだが、聞こえないフリをして浴室にいる相手に声をかけた。
「…もう入っていいか?」
「どうぞ」
磨硝子越しに、その背中が薄ぼんやりと見える。ほとんど間などなく返ってきた声に、こちらばかりが動揺させられているのではないかと思った。何だか、無性に。
「失礼します」
何も言わない方がいいのか分からないまま、敬語になっていた。バイトバイトバイト、と心の中で呟いて煩悩を脳の隅へ押しやる。その勢いのまま、目の前の戸を引いた。
風呂場用の椅子に座っている広い背中が、真っ先に視界に入る。何も身に纏っていない素肌は、少し濡れて無数の水滴をつけていた。髪の毛も濡れていて、後ろへと撫で付けられている。
髪の毛は洗い終わった所なのだろう。いつも眼帯を付けている彼が、それを外しているのも初めて見た。その顔の全貌は、この大人がこちらを振り返る事がない限り、見ることはないだろうが。
「…遅かったね?」
「旦那の支度が早く済んだだけじゃないのか」
軽口で流したいのに、声が強張る。喉がからからに乾いていた。緊張から、下半身が反応する事はなかったが、これが良いのか悪いのかもよく分からない。あくまでバイトなので、きっと良い事なのだろうと深く考えずに流した。流すほか、なかったとも言う。
「確かに…思ったより早く終わったかも」
髪を洗うのが、と話す声がやけに室内に響いている気がして落ち着かない。どうしてこんな空間でのアルバイトを思いついたのだと目の前の男に詰め寄りたくもなるが、きっと相手も後悔している事だろうと、赤くなった耳の丸みを見て取ってから思った。
後悔、しているのだろうか。否、後悔して貰わなければ困るのだ。他の場所で同じように自分以外の他人へ対して、こんな風に素肌を晒すような真似をして欲しくない薬研としては。
「…じゃあ、背中を流すが…。スポンジでいいか?」
落ち着こうと思えば思うほど、考えているように自然な振舞いは適わない。しかし逃げ出す事は出来ない今、ならばなるべくこの仕事を早く終わらせるしかないなと、聞こえないように深い溜め息を吐く。当然、彼には気付かれないように、彼とは反対に向いて息をした。
ただ呼吸をする度に、自分が使っているシャンプーの匂いが燭台切から香るので落ち着くわけがないのだが。
「うん、何でも」
何でもってなんだよ!? と咄嗟に脳内で怒鳴った自分がいた。素手で撫でるように洗われてもいいのか! と余計なことを考えた所為である。煩悩が消える気配はない。
(違う、落ち着け…深呼吸だ)
今日だけで何度自分を叱咤するのか、と思うくらい脳内が忙しかった。相手の項を伝う水滴に目を奪われつつ、スポンジにボディソープを付けて泡立たせてゆく。
普段、自分ではスポンジなど使わないので、新鮮な気持ちだ。そんな事を無理矢理考えて、目前に迫っているかのような健康的そのものの色な肌を注視していた。自分の方が白いとは分かっていたが、健康的にほんのり焼けている皮膚から暴力的なまでの色気が出ている気がしてならない。思わず下唇を噛んでいた。
「……藤四郎君?」
「っ、…あぁ、いや、何でもない…」
思わず力んでいた手から、折角泡立てたボディソープが溢れ落ちていて、再度液体を追加すると泡立て直す。まったく、冷静でいられない。が、何とかこの現実を終わらせるためにと、相手の背中へ泡を付けるようにスポンジを滑らせた。
「………痛くないか? あと、痒いところとか、あったら言ってくれ」
「うん、大丈夫」
返事をする低い声が、甘く感じる。局部を隠すためにタオルを一枚纏った程度の、心許ない格好でいるのにそんな油断をした態度を取らないで欲しい。視界に入る頭を叩いてやりたくなってきた。
そんな事、震えそうになっている手では出来そうにないのだが。
ただただ無心に努めて、なめらかな皮膚の上をスポンジで撫でる。暑くないはずの浴室内で、しかし頭の中は沸騰しそうだった。元々あまりなかった心の余裕も、更になくなっている気がしてくるくらい、何も話せない。柔い訳ではない背中を、洗っているだけにも関わらず。
「…腕も、お願いできるかい?」
「ん、…了解」
上手く声が出なくて、少し焦る。尻の割れ目が視線の先に入ったせいだった。腰まで手を下げて、思わず凝視してしまったのだ。男の尻を。
揉み心地良かったな、と当然のように思い出してしまう。記憶に新しいものなので、思い出さない方が難しかった。
燭台切に言われた通り、肩から二の腕へとスポンジを移動させる。これはバイトだった、と自分にまた言い聞かせた。少しでも邪な思考がなくなればいいのだが、それも無理だとは分かっている。今までの経験から。
それにしても、至る所に筋肉の隆起が見られる裸体は、同性から見ても羨ましい体付きだ。特に自分のような、筋肉の付きにくい体質の人間から見れば尚更。
「しかし旦那、良い身体してるよな」
だが本音を口にすると、我ながらどこのセクハラ親父か、と頭痛がしてくる台詞にしかならない。紛う事なき本音でも。相手が異性であったなら、訴えられたかも知れないと考える。ただの現状から気を逸らす妄想に過ぎないが。
「職業柄、座っている時間の方が多いから…ジムに通ってるんだ時々。二十四時間空いている所も出来たからね、仕事終わりとか始まる前に身体動かすの、」
気持ちいいよ 無駄に色気の孕まれた声で、囁かないで欲しい。下半身に悪い、などとは口が裂けても言えないのだが、いっそ本音をぶちまけてしまいたい心境に陥った。
スポンジを滑らせていた手が、相手の手首に届いた所で思わず止まる。脳内の葛藤が喧しく、意思に反して事務的な動きが出来なくなったのだった。
「藤四郎君…? …君、そんなに隙があると、付け込まれるんじゃないのかい」
「…は?」
それはあんただろう、と反射で思って声がした方へ顔を上げると、手首をぐっと掴まれる。そのまま引っ張られて、鼻先にふわっといい匂いがした。眼前に、眼帯をしていない燭台切の顔があって、心臓がどくっと大きく脈打つ。数センチで、その唇を奪えそうな距離だった。
「ねぇ、君…これ以上の事をするバイトをしたいって言ってたよね? もし僕みたいな体格の男に捕まったら今みたいに逃げられないんじゃないのかな」
手首を握る掌に、また力を込められて相手が本気で言っているのが伝わってくる。
(あぁ…そういう事か)
どうしてこの男がこの場から逃げなかったのか、やっと納得がいった。明白に言い寄っている同性に対して、その素肌を晒してでも言いたかったのは、これかと。
「…そんなに俺が心配か? 優しいな光忠さんは。でも俺だってこんな頼りない身体かも知れんが、力はそれなりにあるんだぜ」
掴まれていない方の手を、彼の後頭部に回して更に顔を近付ける。鼻先で、相手の鼻先を撫でた。ぎくっとした動きで、大人が息を呑むのが分かる。至近距離すぎて、お互いに隠せるものが少なくなった。呼吸も体温も、密着している部分から次第に伝わってしまう、お互いに。
「今すぐあんたを押し倒すくらいの力はあるつもりだ。…実際にやってみないと分からんのは確かだが」
確認するか? そんな事はしないだろう、と思いつつも聞いてみる。無表情になっている相手を、動揺させてみたくなったのかも知れない。冷えてしまった大人の手や身体に、少しの罪悪感を覚えながら。
「…いいよ、やってみて」
掠れた声で、そんな言葉を紡ぐなんてどうかしている。この男も大概どうかしてしまった、そう頭の隅で判断出来るものの、こちらも止まれない。止まる材料をたった今、奪われてしまったのだから。
吸い込まれるように、目の前にある唇へ自分のそれを重ねた。後頭部を撫でた手を腰に回して、更に口付けを深くする。受け入れるように相手の唇が開いた所で、遠慮なくその口腔内へ侵入した。
歯列に触れ上顎をなぞり、舌を絡める。表面の皮膚と違って、口内は温かい。あの夜からずっと、知りたかった体温を感じている現実に頭から痺れるようだった。
もっと近付きたくなって、心が逸る。今日この瞬間に彼を自分に繋ぎとめられたなら、もしかして。そんな柄にもないセンチメンタルな考えが脳裏にあった。
大人の腰を掴もうとして、指先が滑る。今さっき自分が付けた泡のせいだ、と認識したら己の動きが鈍る。本能のままに行動していた意識に、水を差されたみたいだ。でも、お陰で少し冷静になれた。
誘われたから誘いにのって、この雰囲気に流されて得るものは、本当に俺の欲しいものなのか。
「…ちがう、間違えた…」
知らず、口から言葉が漏れる。ほとんど独り言だったそれは、しかし目の前の男にも聞こえてしまっていた。
「何が違うんだい…? こういう事、試してみたかったんじゃないのか君は」
毒を孕んだかのような声音だった。呆然としたまま、その言葉に反応して返事をしていた。
「そういうんじゃない…」
「僕じゃなくても、誰でも良かったんだろう」
温度の感じられない声は続く。一瞬でも、想いが重なったと思ったのは、こちらの勘違いだったのか。浮き彫りになったかのような温度差に、戸惑う。
このたった数十秒で、目眩を覚えそうなくらい暑かった室内は冷え切った気がした。
「…そんな事、思ってねぇ。でも、こんな状態で何言っても言い訳にしかならねぇよな。俺が悪かった…もう、しない」
そっと離れて、失った温もりを掌で握り潰す。何をどう何処で間違えたのか、はっきりとした事は分からない。何も分からないがただひとつ、触れられる距離にいた相手に拒絶されたのだけは分かった。
「タオル、用意しとくから、…ゆっくりしてきてくれ」
冷えたであろう体が心配だった。ただ、それを告げてもいいのか、今は判断出来ない。だから、最低限だけの言葉を置いて、浴室から出る。後ろは振り返れなかった。
「……何を、やってるんだ僕は…」
相手が完全にいなくなった浴室で、弱々しく呟く。情けなさしかない声に、我ながら頭を抱えた。自分がこんなにも幼稚な真似をする人間なのだと、この年齢になってようやく自覚する。
遅すぎる発見に、縦に長い体を小さく折りたたんで反省しても、それすら遅いのは明確だ。
あのまま雰囲気に流されてしまう事も出来たはずだった。今まで何回もそんな風にして、気になった相手とは関係を持ってきた。それなのに今回に限って、尻込みしたのだ。確かに自分は。
(でも、だからって…あんな試すような事言って、本当…大人げない)
年下の相手に甘えているとは思っていた、思ってはいたが、ここまで酷いとは知らなかったのだ。
その上、確実に傷つけた。あの少し強引で優しい青年を。そんな事を望んでいた訳ではなかったはずなのに、自分が傷つく前にと予防線を張ったのだろう。
こんなにも自分が情けないとは、知りたくなかった。
冷え切って、指先の感覚が鈍くなっている。シャワーの蛇口を捻って、熱い湯を頭から浴びた。身体に残っていた泡が、排水口へ流れていくのを静かに見つめる。
彼も自分も、一過性の熱だけであんな事をしたとは言い切れない。それでもその可能性が少しでもある事が、恐ろしかった。
自分だけでなく相手を信じるのが、こんなにも難しいと感じるのは、いつ以来だろうか。
幼い頃の記憶が脳裏を過ぎって、考えるのを放棄した。
..................................................................................
6
重く気まずい空気は、三日もすると薄れていった。双方が意識的に、そういう振る舞いをしていた結果だろう。
あれから、薬研は燭台切を口説く素振りをやめた。
一見、半同棲生活を始めた頃とそう変わりないような対応だが、しかし徹底して接触を避けているのは明らかだった。なるべく自然に、避けられている。
そう仕向けたのは自分なのに、その現実に打ちのめされていた。とても静かに。傷つく資格など、ないというのにも関わらず。
そんな矢先だった。彼の家族が訪れたのは。
「…おや、これは私とした事が…部屋を間違えてしまいましたかな」
呼び鈴が鳴って、家主の代わりに玄関ドアを開けると爽やかな水色の髪をした青年と対面した。古風な言い回しの喋り方は、誰かを思い出す。
「あぁ、いえ、ここは薬研藤四郎君の部屋ですよ。僕はその…彼の…同居人、というか」
彼にとって自分がどういう存在なのか、正直言葉に詰まってしまう己がいた。自分でどう思っているのかも今ひとつ分からないというのに、他人に説明する事などできない。
そのせいで曖昧な説明をしたのだが、相手はひとつ頷くと「そうですか」と爽やかな返事をしてくれた。
「私は薬研藤四郎の兄で粟田口一期と申します。苗字が違うのは少々訳ありなのですが、弟と好い仲の方とお見受けしますに、詳細の説明は藤四郎から、いずれさせて頂く事になるかと…」
手本になるような、綺麗な会釈を一度すると、粟田口と名乗った男に手を差し出される。あまりこの手の接触をされた経験がないので一瞬戸惑ったが、握手を求められているのだと理解して、その手を握った。
そして、握り返してから相手の発言に違和感を覚える。誤解を招くような言い方をされていた気がして。
「…えっと…? いいなか、っていうのは…」
自分の頭上をクエスチョンマークが飛び交っている。字面で何となく意味する事は予想できるのだが、外見的にそう判断する人間の方が圧倒的に少ないだろうと思って、念の為の確認であった。
「……おや…、これもまた私の早とちりでしたかな…? あまりに弟の好みに嵌るお方だったので、てっきりそういうご関係かと」
「兄貴、人の家の玄関先で何を言ってくれてるんだ…?」
洗面所にいたはずの家主が、気付けば来訪者の胸ぐらを掴んでいる。風は感じたが、音もなくそんな物騒な事をしないで欲しいと思う燭台切だ。突然目の前に現れた同居人に驚いて、何を言われたのか良く聞こえなかった。
「?」
よく分からないまま、口ぶりから完全に兄弟らしいのでその様子を見守る事にする。今以上に喧嘩状態が悪化しそうなら、その時は止めに入ろうと思いつつ。
「ははは、元気だったようだね、私の可愛い弟は」
「…今日のは笑っても誤魔化されねぇぜ? …まぁ、まだ玄関先でなんだし、中に入ってくれ」
朗らかに笑った相手に警戒しつつ、掴み掛っていた手を解いて薬研は相手を招き入れた。珍しく目が笑っていない彼が新鮮で、ついじろじろと見てしまう燭台切である。
#続きなどない
喉仏
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