月嵐童物語父親が次期当主の名を告げた時、私の眼の前が紅く染まり、頭の中は白く灼けた。
父の前で座したまま小刻みに震えだした身体を抑えようと、きつく拳を握りしめ、ぎりりと奥歯を噛みしめる。私の隣で同じように座したまま言葉を聞いていた弟が、無言のままに深く頭を下げた。
紅く染まった視界の片隅で、弟の赤い髪が揺れた。
一族初代と同じ色の髪を持つ弟は、ただ髪の色が伝説の初代と同じだと言う理由のみで、一族の間で永らく封印されていた彼の名を受け継いだ。
納得がいく訳はなかった。脳天気に弟を崇める周囲の輩を心底愚かしく思っていた。
弟が本当に初代の再来なのかなどわかるはずもない。だが、一族当主を勤める資格はただ一つ、長に相応しい実力であるはず。私はそう信じて幼い頃から血の滲むような厳しい鍛錬を重ね、寝る間も惜しんで勉学に勤しんできた。
私は一族の長子。初代の影を宿しただけの弟に敗れるわけにはいかぬのだ。
雨の日も嵐の日も、腕の感覚が無くなり身体中が悲鳴を上げるまで鍛錬を続けた。古今東西の書物を読み、一族当主に相応しい知識を得るため学び続けた。
その努力は実を結び、無意味に弟を祭り上げていた者たちの私を見る目の色が変わるまでになったのだ。
血豆が潰れ刺すように痛む手のひらを眺めながら、月の光が差し込む自室でただ独り学びながら、私が思うことはいつもただ一つ。初代の名などに負けるものか。一族に安寧をもたらすのは長子たる私の役目なのだ……。
それは、想いを分かち合う友も部下も無く、いつも孤独だった私を支えた信念であった。
だが、我が想いが届くことはなかった。
一族当主に選ばれたのは私ではなかった。
何故だ、何故私ではない。剣や馬の腕前や政の知識に至るまで、彼奴に劣るものなど無いはずだ。
怒りと絶望のあまり白く灼けた思考の中で、私は神と仏に問い続けた。
何故私ではないのかと。何故彼奴が選ばれたのかと……
その夜、胸中嵐のように渦を巻く激情を抑えられぬまま、私は独り馬を走らせ館を飛び出した。
行くあてなどある訳がない。過去の伝説に囚われた愚かな連中が雁首を並べた場所にいるのが嫌だった。
叩きつけるように馬に鞭を入れ、どこまでもどこまでも駆け続ける。
……その時だった。私の脳裏に何者かが囁きかけたのだ。
思い切り手綱を引いて馬を止め、用心深く周囲を見回す。今宵は月も出ておらず、周囲は暗闇に包まれている。
すわ魑魅魍魎か物の怪の類か。私は腰の刀に手をかけると意識を研ぎ澄ませ、気配を探った。
一面ぬばたまのような闇の中、視線の先にぼうと青白い炎が灯った。虚空に妖しく燃え盛るそれは見る間に二つ三つと数を増やし、その場で弧を描くようにぐるぐると廻り始める。
おのれ物の怪、魔を祓う一族長子の我の前に姿を現すとはいい度胸だ。私は馬上で刀を抜き放ち、廻り続ける鬼火を睨みつけた。
すると、またもや不思議な事が起きた。ぐるぐると廻り続ける鬼火の輪の中心がぐにゃりと歪み、何処かここでは無い景色を映し始めたのだ。
生物の気配は無く、砂塵のみが虚しく吹き渡る荒れ果てた大地が続いている。だが、その果てに何か、蹲った人影のようなものが見えた。
私の視線に気がついたかのように砂塵が薄れ、人影の詳細が明らかになっていく。
そして「それ」を目にした刹那。私は言葉を失い、心の臓が激しく脈を打った。
「それ」は、ああ、まさか。
「それ」は、まさか、このような場所に。
このような事に。
ああ、ああ、何という事だ。
ああ、ああ……!
私は思わず馬から降り、鬼火が作り出す渦の中に近づき、夢中で「それ」に手を伸ばした。
到底信じられぬ事であった。まさか「それ」が我が眼前に姿を現そうとは。しかも、一族の当主が選ばれる儀が行われたまさにこの日に。
既に私の胸中からは、鬼火に対する警戒心は消え失せていた。
渦に近づき「それ」を求めて手を伸ばす私の身体に、渦から湧き出した無数の触手が巻きつき始めている。だが、もう、そのようなことはどうでも良かった。私の脳裏には天啓が下っていたのだ。やはり父の判断は誤りであったのだと。真の一族当主は私なのだと。神は、仏は、ここに真理を示し給うたのだと。
私に、一族当主の証を与え給うたのだと……。
渦中に吸い込まれる。途端に空間が歪み、意識が遠くなっていった。
闇の中、まるでほくそ笑むかのように妖しく光るは、神か仏か魑魅魍魎か。
しかし、私に恐怖は無かった。伸ばした手を固く握りしめる。
私は、選ばれたのだ。
私が当主にならねばならぬ。
我が一族に永遠の安寧をもたらす為に。
私の決意に呼応するかのように、闇の中の何かが光り、蠢いた。
そして後は……闇。
fin.