僕のために、忘れていて【11】 気が重い。今の俺の状態を一言で表すなら最適解な言葉だ。嫌々歩みを進める足も力なく地面スレスレの場所を行き来し、亀よりも遅い速度で進む。こんなに学校に行きたくないと感じたのはいつぶりだろうか。友達と騒ぐのが好きだった俺はあの憂鬱なテスト期間でさえ、まぁ学校に行ったら友達もいるしな、と前向きになれるほど、学校という場所が好きだったのに。
原因は分かりきっているが、もうどうすることも出来ない。もしかしたら学校で出くわしてしまうのではないかという不安と元気にしているだろうかというお節介な感情が交互に襲ってくる。もう会わないと決めた。それなのに、最後に言葉を交わした、あの時のアキの顔が頭から離れない。あんな別れ方をしてしまい後ろめたさで気が滅入る。
俺は寝癖がついたままの頭を振り、なんとかいつも通りの俺になろうとする。結局、忘れるしかないのだ。そう思うが無意識にため息だけが増える。
と、幾度となく繰り返すため息と同じタイミングで急に背中に衝撃を感じて前傾姿勢になった。この衝撃は懐かしい感じがする。俺は衝撃の犯人に見当をつけて振り返った。
「おはよ。久しぶり」
にやにやと笑いながら、同じクラスの良平が俺の肩を軽く叩いてきた。記憶にある良平の顔よりも全体的に小麦色に日焼けしていて、いかにも夏を満喫しましたオーラが出ている。
「元気そうじゃん」
今の俺のどこを見たら元気そうなどと言う感想を抱けるんだろうか、と一瞬不信感を募らせたが、そういえば自分は事故にあって学校を休んでいた事を思い出す。アキとの時間が強烈過ぎてすっかり忘れていた。
「リュージが事故にあったって聞いてマジ心配したわ!」
「マジか」
「いや、心配するだろ普通ー! なんか連絡あるかなって思ってたけど音沙汰ねぇし、迷惑かもしれないから俺からは連絡入れられないし……」
「あ〜〜悪い」
「気の抜けた返事だなー」
言い訳するつもりは無いが、入院中は友達に連絡しないといけないなと思っていた。とりあえず退院するタイミングで連絡入れて、現状報告をしようと思っていた。あわよくば出れなかった授業分のノートを写させてもらって、それを理由に課題も手伝って貰おうと思っていた。そう、思っていたのだが。
「色々あってさ」
「まぁ、大変だったよなー」
「もう、めちゃくちゃ大変」
実際、事故に関してはそこまで大変な事は無かったが、ノリでそう返しておく。
「とか言いつつ半笑いじゃね?」
「バレた?」
こんなにどうでもいい軽口が妙に懐かしく感じた。良平と話しているだけで心が軽くなっていくような気がしてくる。
「そう言えば、リュージ課題終わった?」
「え、まぁ、一応」
「マジかー! 絶対リュージは俺の仲間だと思ってたのに……」
「…………まだ終わってねぇの?」
「この俺の日焼け具合を見ろ! これが課題が終わってる男の姿に見えるか?」
ドヤ顔で自分を指差し胸を張る良平に思わず吹き出す。馬鹿らしくて安心する。
「見えないな」
「だろ〜? もう遊びまくりよ!」
良平は楽しかった夏の思い出を懐かしむかのように目を細めると、急に真顔になって俺に詰め寄った。
「そういや、なんで課題終わってんの? 去年は俺と一緒に提出日ギリギリまで粘ったじゃん」
「それは……」
思い出すと憂鬱になる顔を思い浮かべて言葉を切る。正直、俺の中でまだ整理がついてなくて考えるのをやめていたのに。
「俺だってやる時はやるんだよ」
「へー」
全身全霊のどうでもいいという空気の相槌を無視して俺は少し声を落とした。
「そういや良平、黒咲アキって人知ってる?」
出来る限り、何でもないように装って聞いてみる。内心、なんと突っ込まれるかヒヤヒヤしていたが、幸い良平は気にならなったようだ。
「黒咲〜? ん〜知らない気がする」
「そっか」
「なに、そいつ、ウチの学校のやつ?」
「多分」
「なんだそれ」
俺の曖昧な態度に良平は首を傾げたが、何か心当たりがあったのか、あ! と声を出した。
「そいつ特進なんじゃね? 特進クラスのやつって棟が違うし行事の時くらいしか関わり合いないから殆ど分からないし」
「あー、確かにそんなような事言ってたかも」
特進クラスかと聞いた時のアキの曖昧な表情を思い出す。否定はしなかった。ただ肯定していたかと言われれば微妙だったと今になって思う。結局、アキのことは何もかもが中途半端で分からずじまいだった。
「つか、知り合いなら直接聞けばいいじゃん」
良平にいきなり爆弾を落とされて固まる。
「知り合いっていう程の関係じゃないから」
今はもう。
「ふーん? まぁ、本当に特進クラスのやつだったら俺に手伝える事はないかなぁ〜いや〜本当に手伝ってあげたいのは山々なんだけどなぁ〜」
何を勘違いしたのか、良平はにやにやと目を細めると俺の顔を見た。
「でも俺も『アキちゃん』がどんな子か気になるし、何か情報掴んだら教えてやるから」
冷やかし半分、励まし半分で良平は俺の肩を2回叩くと笑った。
完全に勘違いしているのが分かったが、アキは男だと訂正するのも面倒なことになりそうで、俺は黙って歩き出した。
***
何事もなく1日が終わった。既に下校の時間になり、教室内に人はまばらで俺も帰り支度を始める。あまりにも拍子抜けするくらい何事もなかった。学校にアキを思い出すものは何も無く、ただアキに出会う前のいつもの日常に戻っただけだった。友達とふざけて騒いで怒られて、授業中に寝てまた怒られて、すいませんでしたーと形だけの謝罪をして、また寝る。そんなくだらなくて心地良い時間に安心した反面、言いようの無い虚無感を覚えた。理由は分かってる。いつも頭の片隅にアキがいる。いくら振り払っても消えてくれない。
「あ〜〜〜〜〜〜しんど」
「お疲れさん」
良平がそう言って俺の背中を叩いてきた。この男は容赦という言葉を知らないのか、力も強めで俺は思わず仰け反った。
「俺、怪我人」
「あ、そうだった。わりぃ」
そう言って過剰に痛がるふりをしてみせるが、大した事は無いと見透かされたのか笑って流された。
「にしても、入院明けで一日中授業はしんどいよな〜」
「ほんとそれ」
「夏休み延長しても良かったんじゃね?」
「流石に授業ついていけなくなるし」
「真面目〜」
良平は茶化すように口笛を吹くと、何かに気が付いたように俺の背後に目を向けた。
「あ、平川さん」
「え」
振り向くとそこには気まずそうな顔をした瑠璃華が立っていた。若干挙動不審気味に俺の顔盗み見ると、少しホッとしたように緊張から上がっていた肩が下がった。心配して俺の様子を見にきてくれたんだろうか。
「瑠璃華……?」
俺は微動だにしない瑠璃華に声を掛けた。
「あ! 俺もう部活行かないと! じゃあまた明日な!」
良平は慌てたように声を上げた。雑に鞄を持ち上げると、大袈裟に手を振って教室から出て行く。気を遣っているのがバレバレでやるせない気持ちになる。正直、今ここで2人きりにして欲しく無かった。
足早に良平が去って、教室には俺と瑠璃華だけが取り残された。
「どうかした?」
2人きりになっても口を開こうとしない瑠璃華に俺は尋ねる。今まで見たことがないような瑠璃華の挙動に違和感を感じる。瑠璃華はどちらかと言えば気が強い方で、こんなに何かに怯える様な気配を見せる子ではなかった。そもそもお見舞いに来てくれた時から何かがおかしいと思っていた。
「あ、あの……」
「ん?」
瑠璃華は少しづつ、絞り出すように声を出した。いつもハキハキとものを喋る瑠璃華らしくない。
「怪我、大丈夫……?」
瑠璃華は俯きがちにそう聞いてきた。病室でも同じことを聞かれたが、よほど怪我のことを気に掛けてくれているんだろうと思った。
「うん、もう平気。だから心配すんな」
俺はなるべく心配掛けないように穏やかに声を出した。と、瑠璃華は堰を切ったように泣き出した。両手で自身の顔面を覆い、声を殺して息を吐く。
「え、ちょっと──」
「良かった……良かったぁ…………」
子どもみたいに泣きじゃくる瑠璃華。どうして良いか分からず混乱した俺は、思わず瑠璃華の頭を撫でた。香奈を落ち着かせる時はいつもこうしていた。流石に同級生相手にこれはまずかったかもしれないと考えてももう遅い。
瑠璃華は俺の背中に腕を回すと思いっきり抱きついてきた。頭をぐりぐりと俺の胸に押し付けしゃくり上げるように泣き続ける。
どれだけそうしていたんだろうか。瑠璃華が落ち着く頃には教室内がオレンジ色に染まっていた。その間俺は直立不動で瑠璃華の頭を撫で続け、たまに廊下を通る生徒の不思議そうな視線を無視しようと努力していた。
「ごめん」
ぽつん、と瑠璃華はこぼした。
お見舞いに来た時も瑠璃華は俺に謝っていた。何に対しての謝罪なのか、見当もつかない。
「あの、さ、前に会った時も謝ってたけど、なんで?」
俺は瑠璃華の顔が見えるように両手で少し距離を開けると、聞いた。
「リュージが事故に遭ったの、わたしのせいだから……」
「え」
「リュージはわたしを庇ってくれて、それで……」
なるほど、と思った。どうにも自分が事故に遭う状況が想像つかなかったが、瑠璃華を助けたとなれば何となく納得出来る。車にぶつかりそうになった瑠璃華を見つけて、無我夢中で駆け出したんだろうなと我ながら簡単に想像出来る。
「あ〜なるほど」
「……怒ってない?」
「なんで? 瑠璃華に怪我なくて良かったじゃん」
そうか、瑠璃華は俺が怒っていると思ってこんなにビクビクしていたのか。そんなことで怒るはずなんか無いのに。ちょっと見くびられていたような気分になってへこむ。
瑠璃華は俺の言葉に瞳を大きく見開くと、途端に顔を真っ赤にして俯いた。
「リュージ、あのね、」
「うん?」
「わたし、リュージとやり直したい」
「え、」
思ってもみない言葉だった。
「リュージはわたしの事なんてもう嫌いかもしれないけど」
「嫌いってことは……」
「じゃあ!」
「でもごめん」
考えるよりも先に言葉が出ていた。自分でも驚くほどにきっぱりと。
「俺、好きなやついるから」
「そう、なんだ……」
「うん。だから──」
言いかけて声が詰まる。廊下に見慣れた背中が見えた気がした。見間違うはずがない。アキだ。そう思った瞬間、俺は瑠璃華を更に遠ざけると走り出していた。