【五七】チェス・ダンス
通称、〝踊り手〟。
五条が探すチェスプレイヤーは、そんなあだ名で呼ばれている。
片目を隠す黒の眼帯、長身を包む白いスーツ、整った横顔に櫛跡をつけて撫でつけた金の髪……それだけそろった特徴なのに、みなは彼を〝踊り手〟と呼ぶ。
目にも止まらぬ速さで指す優美な指の動きが、まるで盤上で踊るようだから、と。
夜を降りるように暗い階段を降り、行き止まりの扉を開ければ煙草の煙が流れ出る。
視界もおぼつかない地下のバー、いまどき禁煙どころか分煙の文字すら無縁の場所かと五条は呆れた。
サングラスをかけても目に沁みるほどの紫煙に、帰宅したら服は処分だなと嘆息する。
ラフなブルゾンだがお気に入りのブランドなんて着てくるんじゃなかったな。いくら〝踊り手〟に会えるかもしれないからって。
カウンターでノンアルドリンクを頼めばお子様は帰れとあしらわれ、仕方なしに飲めもしないジントニックを注文したとき、一番奥の暗がりに〝光〟が見えた気がした。
いまのは、なんだ。
立ち昇る紫煙と喉を刺す煙草の臭い、暗くしときゃムードが出るだろといわんばかりの視界の悪さと趣味に合わないBGM、清廉さからほど遠いこの場所に、ふいに現れた輝き。
五条はそっと、視線を隠すサングラスの下からその相手を盗み見た。
暗いレンズ越しにも目を射る白いスーツに金の髪、彫りの深い端整な横顔、おそらく反対側の目には眼帯。それを見とめて、五条は小さく息を呑む。
いた。
あれが、目指す相手だ。
グラスを手に五条は腰を浮かせ、テーブルのあいだをするりと抜けて泳ぐように歩く。
「ねえ、おまえが――踊り手?」
断りもせず向かいに座るやいなや、五条は切り出す。回りくどいやり方をする性分ではないので。
「……私の名ではありませんね」
素っ気ない答えを返し、男はロックグラスを傾ける。なかなか酒の強いタイプらしい。しかし五条はまったくマイペースに話を続ける。
「知ってるよ。本名は七海建人、元は外資系企業ビジネスマン。同時に国内外で名を馳せたアマチュアチェスプレイヤーだった。出張先の治安の悪い国で暴力現場に出くわし、子どもを助けようとして片目を負傷し退職、チェス界からも引退した……」
踊り手こと七海はまったく興味のない顔で返事もしないが、五条はかまわず言葉をつなぐ。
「いまは賭博チェスの助っ人で暮らしてる。もったいないよね、腕があるのに陽の当たる場に出ようとは思わないの」
「この傷です。アングラな場がいまの私には似合いですよ」
眼帯をちらとこちらに向け、七海はにべもなく答える。しかし五条はひるまない。
「あのさ、実は僕、こういうもの」
五条がテーブルに滑らせる名刺に、七海はちらと目を落とす。そこに印字されたのはこんな文面。
『芸能プロダクション 五条企画社長 五条悟』
「esports事業に参入することになってね。腕に覚えのあるゲーマーを探してるんだけど、オンラインのチェストーナメントの選手も対象のひとつなんだ」
「……そんな浮ついた話、まったく興味はありませんが」
先回りして七海が答える。しかし五条は聞こえなかったかのように話し続ける。
「顔出しはしなくていい。オンラインだから出場するのはアバター、しゃべりが苦手なら専用のパーソンを用意する。おまえはチェスをするだけでいいよ」
「お断りします」
言葉半ばをさえぎるように、七海はきっぱり告げる。わかってるよといわんばかりに、五条は明るく笑った。
「だったら僕と一局、相手してくれない?」
は? とでもいいたげに七海は眉をひそめた。
「腕に覚えがあるわけですか」
「ないよ、素人じゃないってだけ」
からかうように両手を広げる五条に踊り手は冷ややかな片目を向ける。
「チェス盤がありませんが」
「ブラインドでいいだろ。なあ、〝踊り手〟」
気安く呼んで、五条はテーブルに肘をついてサングラスをずらす。
きらめくうつくしい瞳で、目の前の、冷たく整った不機嫌な顔を見つめる。
「僕はさ、映像に残るおまえの試合をぜんぶ見た。盤上を見事に踊るおまえの手に惚れた。だからどうにかして再び、陽の当たる場に引きずり出したい」
声に含まれる真剣さに、七海はつと息を呑む。しばしじっと五条の輝く瞳を見返すと、たん、と音を立ててグラスを置いた。
「いいでしょう。……一局だけなら。あなたが負けたらここで話は終わりです」
思い通りの運びに、にやりと五条は口元をゆるませて、サングラスを戻す。
「先手をどうぞ」
「勝率高いほうを譲ってくれるの? それじゃ」
テーブルを挟み、ふたりは盤も駒もないのに声でチェスを指し始める。
「e4」「d5」「Nf3」「Nc6」「Bb5……」
よどみなくふたりは駒を動かす。オープニングといわれる序盤戦、ルイ・ロペスの名がある定跡通りだ。どちらも素早く手を指していくがさすがに五条が一歩遅い。
悔しいな、と内心五条は思った。
自分が劣るからではない、七海の実力を引き出せない悔しさだ。
「チェック」
七海の宣言で、ブラインドの試合はたちまち勝負がついた。
「悪くはない手でしたが、素人ではないというだけですね。……しかし」
七海は眉を寄せて、テーブルに置かれた架空の盤を見つめる。
「あなたの手、覚えがあります。これは……」
「棋譜を覚えたんだ、記録にあるおまえの対局だけだけどね。いまの手は」
五条はそれまでの軽薄な態度を納め、見えない盤面を見つめる男へ静かに告げる。
「おまえが初めて、公式トーナメントで優勝したときの手だよ」
七海が真っ直ぐに五条を見返した。それまであった心を閉ざす壁越しではなく、感情もあらわな驚きのまなざしで。
五条は身を乗り出し、熱の入った声音で語る。
「優れた指し手が相手なら、おまえの指はきっと華麗に盤上を踊る。強敵に対してひるむことなく冷静に、その踊るうつくしい指で容赦なく叩きのめして勝利する。僕は、それが見たいんだ」
ふたりは見つめ合う。
情熱を宿すきらめく瞳で、真意を探り、測るような冷徹なまなざしで。
ややあって、吐息とともに七海は答えた。
「……あなたは私に負けました。話は終わりです」
「この一局で負けたからといって、引き下がるともいってないよ?」
からかう声でいう五条に、七海が片眉を上げる。
「第一、僕みたいな素人に毛が生えた程度のやつに負ける人間をスカウトすると思う? 僕が今夜ここを訪れたのは」
キスする寸前まで挑むように顔を近付け、五条はささやく。焦がれる指と、驚くほどの頭脳とを持ったチェスプレイヤーへと。
「決意を告げにきたんだ。絶対に、おまえをあきらめないってね」
というと五条はすっと身を引き立ち上がる。
あとも見ずにテーブルを離れてカウンターに寄り、七海の勘定は僕が持つからと金を渡して、五条は振り返ることなく外へ出る。
街灯がにじむ冷たい夜のなかへ歩き出す体に、バーから連れ出してしまった紫煙がまとわりつく。まるで未練のような濃い香り。
七海は見送ってくれただろうか。いや、見送りなんて期待してない、こちらが自分勝手に宣言しにきただけだ。これ以上ない有能な指し手、必ず僕の企画に入れてみせる、って。
……けれど、たったひとつ生まれた誤算。
骨ばった長く優美な指、こちらを見返す鋭い瞳、猥雑なバーの暗がりでひとり荒むように酒を飲みながら、いまだ失われない清廉さ。
ああ、やばいな。
あいつの記録映像を見過ぎたんだ。
思った以上に僕は……あの〝踊り手〟と呼ばれる男に、惚れこんでいるのかもしれない。
◆
「……誤算でしたね」
溶けたロックアイスで薄まる味気ないウイスキーを飲み干しつつ、踊り手と呼ばれる男はつぶやく。
テーブルには彼が置き忘れたジントニックのグラス。それも氷が溶けて、表面をきらめかせていた水滴が消えている。いま自分が感じる味気なさは、ぬるいウイスキーのせいか、それともあの不思議な魅力のある男が去ったせいか。
もう二度と、表舞台には立たないと決めた。それなのに初対面の男の、うそかもしれない、しかし熱をこめた言葉にわずかでも心動かされるなんて。心を閉ざしていながら優秀さを失わなかったチェスプレイヤーに計算違いをさせるとは、なかなかあの男、悪くはない。
ロックグラスをテーブルに置き、七海は脳内で過去の一戦を繰り返す。忘れていた試合への情熱が、ひっそりと心の隅で火がつくように立ち上がる。
空のテーブルで、空想の盤面で、優美な指が動き出す。ステップ、ステップ、ターン、この踊りは敵を追い込み地に落とすため。
華麗なダンスを再び引き出した男を想いながら、七海はその夜をひとり、踊り明かした。