【五七】アリス・リデルの叛逆 ミューズ、なんて言葉は嫌いです。
あの夏の木陰、綺麗な顔をしているくせに可愛くない後輩は、五条に向かっていい放った。
それは十七歳の夏。
いまよりずっと五条が粋がっていて、子ども特有の万能感に浸っていた時期のこと。
実際、万能だったのだ。五条家の悟、無敵で最強の悟、きらめく六眼をもって生まれたせいで幼いころから呪術師たちに一目置かれて怖れられ、傲岸不遜な態度に敵意を招きながらも、敵うものは誰ひとりとしていない。
万能だと思っても、当然じゃないか?
だけどそんな子どもの傲慢さを、あの後輩は、あっさりと砕いてくれた。
◆ ◆ ◆
むせるほど濃い緑の木陰に向けて、五条はトイカメラのシャッターを、ぱしゃりと切る。
そこに佇むのは、白い肌の綺麗な横顔。
生真面目に首元まで制服のボタンを留めて、彼は文庫本を開いていた。真夏だっていうのに暑苦しくなかったのか。でも十年前なら、世界はまだいまよりもう少し涼しくて、やさしかった。
「……なんですか」
目ざとく気づいて、七海は本から顔を上げる。
「べつに。ちょっとこれで、撮ってみたかっただけ」
五条は小さなカメラを掲げてみせる。
夜蛾から譲られたのは、「トイ」の形容にぴったりの可愛いフィルムカメラ。
五条の手のなかにすっぽり収まる大きさで、いかにもおもちゃな可愛らしさ。
携帯の写真で事足りるようになってきた時代、デジカメでなくフィルムカメラなんてさらに時代遅れ。実際、ピントの甘さや歪みがまさにトイ。
けれど現像した写真は、ピンぼけが不思議な味わいになる。モノクロなのもレトロで、いまを映しているはずなのに、不思議にノスタルジック。
古い映画を思わせる仕上がりに、五条は夢中になった。ほんのいっときの、子どもの気まぐれではあったけれど。
「断りもなく撮るのは失礼でしょう」
ぱたんと本を閉じ、後輩、七海建人は不機嫌な顔になる。
「いいだろ、可愛くないおまえでも、顔だけは被写体にうってつけだ」
「意味不明ですね」
冷たい声で七海は返す。
「心打たれたものにレンズは向けるものではないんですか」
というと彼は本を手に歩き去っていく。
五条はむっと唇を引き結んだ。可愛くない。まったく、可愛くない。
可愛くないのに、あの顔だけは心底綺麗だった。
よく整った白い肌の横顔。繊細なレースのようにちらつく木洩れ日をまとい、憂いに沈むうつくしさ。
傲慢で無敵で最強で、子どもの万能感に満ちあふれていて、だから儚い情緒に疎くなりがちな五条でさえ、思わず惹かれてシャッターを切りたくなるほどに。
断ればいいんだろ、とばかりに次から五条は「撮らせて」と告げて、シャッターを切るようになった。
もちろん、七海だけを撮ったわけではない。
窓辺で煙草を咥える家入、教室の傷だらけの机で頬杖をつく夏油、日向でおにぎりを頬張る灰原、やらかした五条にこぶしを上げる夜蛾先……。
フィルムが終われば補助監督に頼んですべて現像した。いくらピンぼけが味わいでも、あからさまな失敗作が大半だった。そのうちいくらかマシな、気にいった写真は寮の部屋の壁に貼ったり、宙に渡した紐に洗濯ばさみで留めたりして飾った。きちんとアルバムに収める性分ではなかったから。
そのなかにはもちろん、何枚もの七海の写真。
かじりかけのパンを片手にこちらをにらむ姿、呼び止められて不機嫌に振り返る顔、満面の笑みの灰原に肩を組まれてむっとする顔……。
笑顔なんてひとつもない。でも五条はそんな七海にカメラを向けるのが止められない。
笑わせたい。仏頂面で、眉をひそめる以外の表情筋がない、なのについ写真にとどめておきたくなる綺麗な横顔の彼を、いつか。
夜に灯りを落とす前の一瞬、五条はベッドに横たわり、頭上の紐に吊るされた写真たちを見上げた。
想い出の断片はどれもみな、記憶よりもずっとうつくしかった。
まるで博物館の標本棚に収まる、時を閉じ込めた永久プレパラートのよう。狭い部屋に散りばめられた、紙のうえに焼き付く一瞬は、走馬灯の踊る影みたいだった。
本当にあのころは、万能だと信じていたのだ。
過ぎ去る時だって、そうして写真のように留めておけるはずだと。
◆ ◆ ◆
「どうして、そんなに私を撮るんです」
真夏の終わりの木陰でまたカメラを向けると、七海は手を伸ばしてレンズを隠し、不愉快そうにいった。
「被写体としていいんだよ。それだけ」
半分意固地になって五条はわざと軽薄に返す。
「いいじゃん、俺のミューズってことで」
「ミューズ……」
ますます七海の眉間は厳しく寄せられる。
「ミューズとはなにかわかってるんですか、あなたは」
「インスピレーションの源、だろ。女神に譬えられて腹が立った?」
しかし軽薄な言葉に返ったのは、手厳しい言葉。
「譬えられた相手の人格など、考えていないということですよ」
「なにムキになってんの、おまえ」
手厳しさにムキになったのは五条のほうだったが、それをさえぎるように七海は本を閉じる。
「……モンパルナスのキキ」
五条から目をそらし、七海は静かに誰かの名前を口にする。
「アルマ・マーラー、シュザンヌ・ヴァラドン、カミーユ・クローデル、アリス・リデル……」
「おまえ、なにをいって……」
「ミューズとして、ただのインスピレーションの源として消費されたものたちです」
七海は真っ直ぐに、丸いサングラスに隠した五条の六眼を見据える。海みたいな色をした瞳には、どうしてか哀切の色が浮かんでいた。
「理想を押し付けられるのは、ごめんです。だから」
わたしは――ミューズ、なんて言葉は嫌いです。
七海が呼んだ名前の大半は五条の記憶を滑って消えてしまったけれど、最後の〝アリス・リデル〟だけは残り、興味を引いた。
その夜、五条は携帯でアリス・リデルを調べた。
アリス・リデル。『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルの幼いミューズ。
だからなんだ。彼女がどうした。平凡な少女として忘れ去られるのでなく、天才作家のミューズとなって、永遠に記録される人物になったじゃないか。
しかしWebの文章をどれだけたどっても、五条には彼女がどんな人物かはつかめない。どこまでいっても偉大な作家のミューズ、永遠の少女。美しい物語を託され自分自身を失って、真実がなにかはきっと本人だってわからなかったんじゃないか。
そうだ、俺だって七海のことはなにも知らない。
非術師の家系に生まれ、綺麗な顔ながら意外に肉体派で、本が好きで静けさが好きで、笑わなくて……。
すべては外縁、見かけだけ。カメラで切り取る一瞬は真実と思ったけれど、それだって選んで残している。
ミューズなんて言葉は嫌いです。
なぜ彼がそういったか、五条はおぼろげに理解する。そこには、〝七海建人〟がいないから、だ。
いつしかトイカメラは部屋の本棚に置かれたまま、手に取られることもなくうっすらと埃をかぶっていった。あれほど撮った写真も家入や夏油や灰原に分け、部屋からは次第に姿を消した。
そうして手元に残ったのは数枚で、やがてそれも携帯に残る画像が取って代わり、どこかへ失くしてしまった。
◆ ◆ ◆
「……最後まで可愛くなかったな」
外界へ通じる鳥居にもたれ、五条は後輩の横顔に声をかけた。
春が終わる前、七海は四年目を迎えずに高専を去る。灰原が死んで夏油が去って、七海まで呪術師の道をあきらめて五条のもとから姿を消す。
寂しさを認めるには五条はまだわずか、少年だった。後輩の前で大人ぶって見せたいと思う程度には、子どもだった。
「見送りなんて不要です」
本当に、最後までちっとも笑わなかった冷たい顔が、五条を振り返る。
「まったく、別れ際まで不機嫌かよ。おまえの取柄は顔なんだからさ。最後くらい笑ってみせろって」
「最後まで顔ですか」
「俺に見せてくれたのは、その顔だけだろ。……けど」
これが別れだ、
と思った瞬間、思いもかけない言葉が五条の唇をついて出た。
「その顔だけだって、俺は好きだったんだ」
言葉はぽつんと石畳に落ちた。
春の桜なら、もっと華やかに散って落ちただろう。だけど五条の言葉は空振りの豪快さで落っこちて、語尾が消えたら痛々しい沈黙が取って代わった。
ちぇ、と五条は舌打ちする。
「ほら、笑えよ。笑っていいよ。どうせ俺なんか最後までカッコつかない……」
「笑えません」
七海は真っ直ぐに五条のサングラスで隠した六眼を見つめる。春の空の下、夏にふさわしい海の色の瞳が――そういえば、七月三日生まれだったんだ――どこか哀しげに揺れる。
「そんなの……笑えませんよ。どうして」
ふいに七海の顔が、くしゃりと歪む。
笑うのと泣くのと紙一重の顔で、彼はささやいた。
……もっと、早くいってくれなかったんです。
五条が呆然とする前で、七海は会釈して身をひるがえす。はっと我に返ったときには、後輩の姿はもう石畳の向こうに遠くなっていた。
引き留めようとして、だけどきっと引き留めても彼は戻らないと思い当たって、だから代わりに五条は埃の跡がつくトイカメラを取り出す。
シャッターを切った。
軽い音でそれは降り、小さな小さな後輩の背中をフィルムに焼き付けた。
最後まで、七海はちゃんと笑わなかった。泣いてるのか笑ってるのかわからない顔しか見せてくれなかった。まったく心底腹が立つ。だけど五条はそんな彼が忘れられない。
七海の小さな背中を収めたフィルムをどうしたのか、もう覚えていない。愛らしいトイカメラもどこかへやってしまった。
万能だろうと最強だろうと、過ぎ去る時間も去っていくひとも引き留められないし取り返すこともできない、って世界の真実を、十代のほんの短い時期に、五条は痛いほど思い知った。
一瞬を永遠にできるのは偉大な芸術家だけだ。
あるいは芸術を見出せる批評家か専門家か。
どのみち五条は天才写真家でも音楽家でも画家でも彫刻家でも作家でもなく、ただの最強呪術師なので、その世界で生きていくためのすべしか知らない。指のあいだをすり抜ける命を少しでも救って引き留める方法しかわからない。……哀しいことに。
アリス・リデルは叛逆する。
身勝手な理想に押し込める相手に抗って。
わたしを見なさい、あなたの絵空事でなくてわたしを見て。目の前にいるわたしは、どんな人間?
なあ、七海。結局俺はおまえがどんな人間かわからなかった。だから次に会えたら教えてくれよ。その美しい横顔の下にいったい、どんな想いと人格を隠しているのか。
そのときはもう少し、俺も大人になっているから。
理想ではなく、外見だけでなく、目の前のおまえ自身を見られるように、育っているはずだから。
◆ ◆ ◆
おまけ
「……や、ほんと十代のおまえ、可愛くなかったよね」
ベッドに寝そべり、ぶー、と五条は唇を尖らせる。
「高尚ぶってさ、なぁにがミューズなんて言葉は嫌いです、だよ。結局僕のこと好きだったわけじゃん? 違う? だったらさあ、こんな回り道しなくても良くなかった?」
「では、育った私は可愛いわけですね」
ん? と枕から頭をもたげると、鏡の前でネクタイを締める澄ました横顔が見えた。
「でしたら、回り道をしたかいがあります。それではこれから出張なので、ごゆっくり」
「え、あ……ちょ、ま、待った!」
半裸で五条は起き上がり、ホテルの部屋を出ていこうとする七海を追いかける。
なに、いまのデレ? ねえ、だからデレるならちゃんとデレるっていってよとかき口説く声が響いてきた。
一瞬を永遠にできるとしても、芸術家でなくてよかった。
大人になったいまやっと、五条はそう思える。
七海が戻ってくるための場所を守れたのは呪術師だからだ。引き留められなかった命を背負って忘れない彼の隣に立てるのは、呪術師だからだ。
やがて未来に別れが待っているとしても、自分の理想ではない相手を覚えていられるのは――。
僕が五条悟で、おまえが七海建人だからだよ。