卵とトマトあったかい飯。(サスサク)
ふにっとした弾力のある表面をついと撫で、その柔らかさを確かめた後、彼はスプーンの切っ先を割り入れた。
「あっ」
ぶるりとこぼれた卵。キレイな丸みを帯びていた黄色は破れ、柔らかそうな半熟がとろりと流れた。トマトとケチャップの赤、炒められた飯粒の絶妙な味付けに、かすかに残る刻まれた野菜の触感まで、サクラの作るオムライスは完全に美しかった。
「良かった。卵焼き、今日もきれいにできたみたい」
男の様子を見守っていたサクラは破る前の卵みたいに清浄な綺麗さで微笑んでいる。サスケはひくりと蠢く欲を満たさんと無言で食事を続けた。
サスケは彼女の手料理を味わうまで卵料理といえば出汁巻き卵の記憶しかなかった。
目玉焼きとゆで卵のことは知っているが、アレは料理というほどのものではない。栄養があり簡単に摂取できるということで昔は食べていた気もするが、それ以上の感慨はなかった。
しかしサクラの料理は違った。
サスケのために饗されるそれは愛情のこもった工夫が凝らされ、赤ワインとひき肉を炒めてトマトのホイールを加えた特製ソースだの、トマトを活かしたデミグラスソースとハンバーグが乗っていたりと、オムライスといえど完璧な料理だ。
サクラのそれを見るまでサスケはオムライスの存在さえ知らなかっただろう。
それが今では暫く食べないでいると禁断症状に近いものを感じる。最近あの黄色を食べていない、などと思ってしまえば居てもたってもいられない。しかもサクラが作ったものでなければ体が受け付けない。
出来れば(というよりも絶対に)自宅で、サクラがエプロンをした姿で「さぁ召し上がれ」と言って、ことりとテーブルの上に置かれた出来立てでなければ嫌だ。
キレイな黄色。柔らかで美味そうで、ほんのりと湯気の立つ、上に乗るのはトマトと飾るようなケチャップのライン。
自分の好みに沿った至高の布陣。凝った食材もいいが、どうしても食べたいとせっついて作ってもらうシンプルな姿。ケチャップの僅かな甘みがこのときばかりは好ましい。新鮮なトマトは熱を帯びて温かい。この美味しさを初めて知ったときサスケは感激したのだ。
「どうぞ、召し上がってください」
初めてサクラのオムライスを見たとき、卵巻きとトマトが焼き飯のうえに乗っている、とサスケは思った。彼はオムライスという名前さえ知らない男だ。
「あのね、ようやくこの卵がきれいに作れるようになったの」
ただ切っただけの生のトマト。おかかのおむすび。それ以外の食物に興味のなかったサスケは彩りある食卓というだけでも眼の毒になるようなご馳走だ。
サクラのつくる飯はうまい。料理は愛情だという先人の教えは正しいのだろう。サスケが好きだからと、トマトを使った料理をあれこれと用意してくれるサクラ。
このときのオムライスにも完熟のトマトがたっぷりと乗っていた。
それはわかる。オレのためにそうしてくれたんだろう。
だが出汁巻き卵(だと思った)が飯のうえに乗っかっているのはどうしたことだろう。ほかほかのオムライスを前に、サスケは一瞬とまどった。
「この卵はね、真ん中をちょこっと切って拡げると、ちゃんとしたオムライスっぽくなるから」
サクラは少し焦ったような顔で料理の説明をした。変に頑張らずに普通のオムライス(こんもりとしたご飯のうえに平たい卵焼きが広がってるタイプ)にした方が良かっただろうか。何となくサスケはそちらの方が好きかもしれないと思ったのだが、サクラは半熟が好きだ。どちらにしても材料は同じになるし、味に違いはないのだろうが、自分が美味しいと思う最上のものを大好きなひとにも味わってもらいたいと思ったのだ。
お洒落なお店に行けばすぐにでも食べられるけど、できれば彼には自分の料理を、心を込めて作った出来うる限りの美味しい料理を食べてもらいたかった。
ふっくらと丸い光るような黄色。サクラから見ても素晴らしい出来栄えだ。でもこれが彼の好みに合わないなら、次は普通の固焼きにしよう。
今日はこの卵を拡げて、トマトといっしょに食べてもらいたい。あ、でもサスケくん、もしかして食べにくいかな。
サクラはサスケがなかなか動きそうにないことを見て取り、自分のスプーンを彼のオムライスの上に掲げた。
「サスケくん、あの、こ、こぼれちゃうといけないから、少し、お手伝いしてもいいかな?」
意味がわからない。手伝いってなんだ。
しかしサスケはこれ(オムライス)に対し、どことなく警戒心を抱いていたので、彼女の申し出を受けることにした。
「頼む」
サクラの顔がぱぁっと綻んだ。料理が冷めてはいけない。男の了解を得ると、サクラはいそいそとスプーンで卵をつついて見せた。
ぷちんとした表面を破り、ぶるりとこぼれた卵は真っ赤に熟れたトマトと混ざり合う。
絡み合う黄色と赤がご飯の上に広がる。サスケの喉が鳴った。
オムライスが何かを真に理解していなくとも視覚的効果は彼の胃袋を直撃したらしい。
とろふわの卵とごろごろしてるトマトをスプーンで掬い、サクラはおずおずとサスケを見た。その上目遣い。
「サスケくん、」
はい。声にならない言葉をかけて、スプーン一杯に盛られた卵とトマトとチキンライス。
そこまでしなくていい。と、普段であれば絶対に出るはずの言葉は、何故かこのとき欠片も音にならなかった。
サクラの差し出すそれをサスケは無心に食らいついた。
「!」
トマトの酸味が卵の滋味と絡んでサスケの五体に染み渡る。
その美味さは男の人生にとって初めての感動と衝撃を与えた。こんなトマトなんて知らない。こんな卵焼きなんて知らない。こんな(以下エンドレスリピート。)
「サスケくん、どう、かな?」
無言で咀嚼を繰り返す男にサクラは上擦りそうな気持ちを抑えて声をかけた。
「サクラ」
「はい」
「もっと」
「はい!」
サクラは嬉しかった。眉間に皺を寄せる彼に緊張したが、どうやらお気に召してくれたらしい。卵とトマトが一緒になるよう気をつけて、せっせとスプーンをサスケの口に運ぶ。
彼にオムライスを食べさせるという行為が、とても自然なことのように思えた。自分の皿が手付かずで残っていることも気にならなかった。
サスケの皿が空になり、ようやく一食分を彼女に食べさせてもらったことに男は気づいた。その間サクラが一口も食べないままでいることに少しだけ申し訳なさそうな顔をして、「すまん」と声をかける。
「おまえも食べてくれ」
「うん。ありがとう」
サクラは胸が一杯だった。好いた男に自分の料理を食べてもらったこと。しかもあんなに嬉しそうに、一生懸命食べてくれた。(ように見えた。)なんだかもうおなか一杯だ。
だがサスケは先ほどとは違う真剣さでこちらを見てくる。食べないのもおかしい。
「じゃあ、いただきます」
冷めてしまったけれど、やっぱり美味しいかも。
オムライス大好きだなあ。ほんわり幸せな気持ちでスプーンをほお張る。その姿をサスケがじっと見ている。その視線。
「あのう、サスケくん」
「なんだ」
「たっ、食べかけになっちゃうんだけどこれ、もっと食べる?」
「……いいのか?」
「うん! わたしなんだかおなか一杯なの。冷めちゃったけど良かったら、あ! もっとトマト足すね」
「待て、十分だ。これでいいから」
サスケは立ち上がろうとしたサクラを留め、勧められるままに彼女の皿を受け取った。今度こそ自分のスプーンで食べ始める。
「………」
さっきの、サクラが食べさせてくれた、あったかかったトマトの方が美味い。
少しだけサスケは残念に思ったが、それでも噛むほどに、やはりこのオムライスは美味かった。サクラに皿を返せそうにない。どうしてたって美味い。
生まれて初めて食べたオムライス。そこに添えられた温かなトマトは信じがたいほどに美味かった。これがサクラの愛情だと震えるほどに実感できた。トマトに限らずサクラのもたらすものは全てがそうだ。
サスケはサクラの分のオムライスも食べ続けた。彼女は目の前でにこにこしている。
「おい」
「ん、はい。なに?」
「おまえも、もう少し食べるか?」
「えぅっ?」
「なんだよ。嫌か」
「じゃなくて! その、もらっていいの?」
「もともとおまえの分だろ」
サクラは自分がサスケに一皿分のオムライスをスプーンで食べさせたことも忘れて緊張しはじめた。ドキドキするサクラの様子に、サスケもうまく飯を掬えないでいる。残り少ないぱらついた米粒はスプーンで結構さらいにくい。
二人は妙な緊張感とともに残り少ないオムライスを見つめた。
男のスプーンを口に入れ、咀嚼するサクラをサスケは見守る。
「うまいか?」
「うん。すごく、おいしいよ」
「オレも、すごくうまかった」
誰かが自分のために作ってくれる食事はなんて美味しいんだろう。愛情のこもった食事を愛するひとと食べることはなんて幸せなことなんだろう。
これもサクラが教えたことだ。
サクラのオムライスは今日も目映く輝いて見える。味も見目の通り。くそう。なんでこんなに美味いんだ。サスケはがっついてしまわないよう注意しながら、それでも夢中で咀嚼した。プレーンオムレツと炒めた飯が口の中で混ざり胸が震える。ああ、美味い。初めて食べたときの記憶まで蘇ってしまう。
「うまかった」
「はい、お粗末さま」
嬉しそうに微笑むサクラ。サスケはたまらなくなった。
「来い」
「えっ」
「次はおまえだ」
「えっ、えっ」
食べ終わった皿を水につける暇こそあれ、サスケはサクラの腰に手を掛けてその身を担ぐ。こんな美味いものを食わせてオレを篭絡するおまえを、すぐに支配し返さないと治まらん。
食欲が満ちれば次の欲が騒ぎ出す。完全に胃袋を支配された男のなけなしの反抗だった。
サクラは卵よりも弾力があって柔らかく、優しい甘さでサスケを満たす。
オムライスもサクラも、明日も明後日も食いたいとサスケは思う。たぶんサスケが強請ればサクラは食べさせてくれるだろう。知らなかったころには戻れない。そしてそれはとても幸せなことだ。
腹も心臓も五体の全て、サスケはサクラのおかげで一杯になれる。
サクラ、今日もご馳走さま。