ボスキ×男主(あくねこ)■非現実逃避
- It is a form of escapism that is comforting to you.-
指輪を嵌める。
ぱちッと目が覚めると、そこはもう随分見慣れた天井とシーツの肌触り。
暖炉に焚べられた薪がぱちぱちと弾ける音。
スン、と鼻を嗅ぐと微かに独特な古い館と庭の薔薇の香りがした。
暖められた一室に、少しの冬の空気が混ざりあって。
パタパタと誰かの忙しい足音。
談笑する賑やかな声。
窓の外から聞こえる陽気な鼻歌。
また、目を閉じて全身の力を抜いて、整えられたベッドへと意識を沈めていく。
このまま、ずっと眠ってしまいたい。
このまま、溶けていけたならどれだけ幸せなことだろう。
満たされないぽっかりと穴の空いた心の器には、いくら水を注ごうと乾いていくばかりだった。
けれどーー。
ギシッ、ギシッ、ーーザッ
「主様、今日は休みなのか?」
ふと覆い被さるように影が差し、低く響く優しい声に意識が再び上がった。
「ボスキ・・・」
「おはよう主様」
掠れた声に返事が一つ。
今度こそ目をパチリと開いて、首を傾けると彼の深い深い青色が瞳に映った。
「ふふ、おはよう」
「剣を磨いてたとこ?」
ちょうど寝台の対角線上にあるアンティーク調の椅子に立て掛けられた彼の愛剣へと、目線を飛ばすと「あぁ」と。
「主様が来る前にハウレスの野郎と一戦な・・・。チッ・・・」
「あはは、また一本取られちゃったん?」
「・・・業服だがそうだな。はぁ、もっと鍛錬を増やすか」
「相変わらずボスキもハウレスも負けず嫌いだなぁ」
けらけらと笑って、よいしょっと身体を起こすと「飲むか?」と湯気が漂う紅茶がタイミングよく差し出される。ありがとうと受け取って口をつけた。口の中で広がる上質な茶葉の香りと臓腑を流れる熱。
決して、向こう側では口にすることもなかった縁の遠い代物。
静かにこちらを見つめる長髪の持ち主に目を向ける。目は決して背けられることはない。
「紅茶、ありがとう。はい、これ」
「おう。いちいち礼はいらないっていっているだろうが」
はぁ・・・と溜息をつかれても、こちとら現代社会に身を置き染み付いた習慣はなかなか抜けない。
これでも、かなり幾月か彼と過ごした時間の中でやっと砕けた方なのだ。
苦笑を溢すしかない。
ーーあぁ、また彼に呆れられてしまった。たぶん。ごめん。困らせたかも。ごめん。
膨大に膨れ上がった不安と懸念が頭をよぎり心臓がズンと何十にも重くなる。
「おい」
「イタッ」
コツンと、額に少し痛み。どこまでも力加減に気を遣った、いつもの軽いじゃれあいのようなやり取り。
「まぁた、変なこと考えただろ」
「あー・・・、あはは・・・」
「はぁ・・・。俺はいつだって主様のーー"お前"の味方だ。俺にとっての一番は"お前"で、主様は主様で着飾らずにそのままの"お前"でいいんだよ」
『俺の本心だ』ーーそう強く訴えかけてくる瞳に・・・それでもぽつりと心に浮かぶ感情を止めることはできないのだ。
(俺が
主様だから、だろ?)
たまたま、俺だっただけで、たまたま、彼らと出会って、たまたま、この世界に彼らに必要とされているんじゃないか?
いくら否定しても否定しても否定しても、決して拭い去れない猜疑心。
この思いさえもーー彼への大きな裏切りや侮辱だと分かってはいても、自分自身が、脳が、其れを拒んでしまうのだ。
しにたい、しにたい、しにたい、おれはどうせこんな奴なんだ、なんの価値もない、どこまでも彼の主足るに相応しくない人間なんだ、汚らしく惨めで卑怯者なーー。
ーーそれなのに。
「ったく、・・・本当に世話の焼ける主様だ」
わしゃわしゃと彼にしては珍しい荒い仕草で頭を撫でられる。
ボスキは、ふっと微笑をこぼして受け止めてくれるんだ。こんな俺でも。こんな俺を。
「寝ちまえ、ぜんぶ今だけでも、何もかも忘れてゆっくり休むといい」
「向こう側で何があったのか、ずっと主様が抱えてるものは何なのか、俺には分からない」
「言いたくないのなら構わない。主様のことを分かってやれないことが、本当は少し悔しいが・・・それでも俺に出来ることはなんでもしてやりたい」
「お前を支えてやりたい」
「ただ、笑っていて欲しい。それだけで、俺は幸せなんだよ」
どこまでも率直な、真っ直ぐな言葉は、この胸の奥にこびりついた澱みをいつか溶かしてくれるのだろうか・・・。
けれど、その言葉に、気持ちに、忠誠と想いに応えてやりたいと思うのはーー傲慢なのだろうか。
「ありがとう」
「ボスキ」
「ね、なんか話してよ。いつもみたいにさ、皆んなの話を」
ボスキは主様のーー同世代の青年の弱々しい笑みに、楽しみや親しさ、信頼のこもった顔をじっくりを眺めてから。ニッ、とニヒルに口角を上げた。
屋敷の連中の話なんか聞いて何が楽しいのかさっぱり分からないがーーこの青年の、愛しい大事な"人"のひと時を慰められるのならばなんだって。
ぽんぽんと、隣に座るよう促されて、おとなしく従いその長く鍛えられた脚を組む。
どこまでもキザな男なのだ。
そんでもってーー負けず嫌いで、真っ直ぐで、頑固で、心情を曲げない、自分を磨くことに一切の手抜きをしない、仲間思いの男。
サウナが好きで、野菜嫌い、朝が弱くて、部屋のインテリアのデザインのセンスがあって、少しサボり魔の困ったさん。
俺の執事。俺だけの。
可愛い人。
そんな男に想われる、ということがどれ程幸せで幸運なことなのだろうか。
向こうだろうが、此方だろうが、いつか自分は死んでしまうだろう。
ふわふわと流されるままに生きて、尽きることのない不平不満と不安と不幸と自虐と卑屈と自己否定に埋もれながら。
痛いのは嫌いだ。
つらいのは嫌だ。
苦しいのもしんどいことも嫌だ。
それでも、俺は生きている。
ーーボスキの抑揚のない取り留めのない執事たちの話(愚痴を含む・・・彼は弱みや己の愚痴を好まないが俺が聴きたいと望めば話してくれるようになった)に耳を傾けながら、
瞳を閉じてその身に寄りかかった。
まるで現実じゃないみたいだ。
そう微睡の中でふと思った。
覚めない夢を見たいーー。