(仮)Cry Out
穏やかな水面に投げ込まれた石が波紋を立て…それは徐々に広がり水面を覆っていく。
心もそれと同じだ。
『不安』という名の『石』を投げられ
拡がる波紋。
穏やかだった『心』という名の『水面』は揺らぎ、乱れ、そして小波に覆われていく…
「姫、どうしました?」
そんな一言にはっと我に返る。
「手、止まってましたよ。」
「ご…ごめんなさいっ…!!」
隣に立つアッシュの指摘に慌てて思わず手を滑らせた。
「「あっ……!!」」
するんとその手からすり抜けた皿を
アッシュはしっかりと受け止める。
「っと…セーフ…!!」
「…ごめん、なさい…」
あからさまにしょんぼりとしたもえを目にしてアッシュは一先ず皿を置いてからもえの肩に手を乗せて顔を覗き込む。
「……姫っ。」
静かなその声はこちらを向けとの意思が込められている気がしてもえが怖ず怖ずと視線を上げると重い前髪の隙間から覗く彼の鋭い視線とぶつかった。
「…あ、あの…」
咄嗟にまた視線を落として何をどう『言い訳』したら良いのかと思考を巡らす。
「…ちょっと、ついて来てください。」
「え…?」
こっちです。と手を引かれて布巾を手にしたままそれに着いていく。
ダイニングを抜けてリビングに来ると、仕事真っ只中のユーリとスマイルが視界に飛び込む。
テーブルの上は資料や楽譜やその他重要書類と呼ばれるもので埋め尽くされているようだ。
乱雑な作業スペースからスツールを一つ引っ張って『座ってください。』と告げたが
、躊躇っている様子のもえの手をアッシュは些か強引に引いてひょいと抱き上げるとそこへ座らせた。
そしてアッシュはその目の前にしゃがみこむともえの両手を己の両手で包み、またその顔を真っ直ぐに覗き込む。
「姫。何か相談したいことがあるんじゃねぇっスか?
今日は朝からずーっとぼんやりしてますよね。
…時々、泣きそうな顔してること…
自覚ありますか?
何を話すか、そして話さないのか…
それは勿論姫の自由ですよ。
だけど、姫の身体に影響が出るのなら
オレは見過ごすことは出来ないし見過ごすつもりもありません。
…だからと言って…
無理に話せとは言いません。
でもその分、ちゃんと寄りかかって
沢山甘えてください。
ちゃんと、姫自身の意思で。姫自身のタイミングで。
……待ってますからね。」
ただただ幸せに満ちた日々の中に顔を出す不安。
小さなものから大きなものまで…気付いてしまえば心が囚われ続け、ただただ沈んでいく。
『そんな小さなこと気にしてたらもたないよ?』
『…贅沢な悩みだね…。』
うっかり零した先で何気なく返される言葉の数々が突き刺さる。
それは自分自身でさえそう思う事もある。
頭では分かっていても手放しで『大丈夫!』と開き直ってしまえる程、自信がある訳でも、強い訳でもない。
そして常に『最悪の事態』を想定してしまう。
個々の不安や悩みは小さくとも
それが幾つも重なった時
或いは大きく膨らんだ時
受けるダメージやその対処法を想定すると決して楽観視することは出来ないとの結論に辿り着くからだ。
視線を落としたままでただ拳をぎゅうっと握りしめる。
手の甲に伝わるアッシュの手の温かさに縋ってしまわぬようにと…言い聞かせる様に。
…確かに心にかかる負荷はやがて身体にも現れてくるはずだ。
このままではまた彼らの足を引くだけだろう。
仮に体調に現れなかったとて心は変わらず堕ちていくばかり。
どちらにしてもきっと『迷惑』は避けられない…。
絶大な人気を誇るアーティストである今のDeuilにはその人気に比例するように過激なファンも増えている。
活動を始めてまだ浅い駆け出しアイドルの彼女とDeuilリーダーであるユーリが恋仲になったと公式発表された事で彼女をよく知りもせずただただ誹謗中傷を浴びせてくるような輩も増え、それらは日に日に過激さを増して彼女を追い立てている…との事らしい。
勿論、彼女自ら自分達にその様な話を語る事など一切ない。
あるとすればこちらがしつこく聞き出した時くらいである。
寧ろそんな状況を知る仲の良い仲間達が心配を寄せて、こっそりとこちらへ報告を上げてくれるのだ。
彼女は自分達よりも余程『Deuilのファン』を大切にしており、自分達にも気遣いを忘れない。
仕事を怠けようとすれば叱責し
煮詰まっていれば激励や献身的なサポートをしてくれる。
そして彼女は思慮深い。
ありとあらゆる危険の可能性や予測を日々立てているのだろう。
もう少し楽観的にいても良いのではないか…と、進言した事もあるが彼女は頑なだった。
下を向いたままかたかたとその身を震わせたもえを目にしてアッシュとスマイルは奇しくも同時に…姫…と口にする。
その様子にユーリがソファーから立ち上がり傍らへとやってきた。
それにアッシュはゆっくりと立ち上がり『…片付けて来ちゃいますね…。』とキッチンへ戻っていく。
入れ替わりにユーリがその場所へ収まると同じように両手でその小さな手を包んだ。
彼女の抱える不安を取り除く事は
自分の隣にある限り不可能だろう。
…そう感じる。
一つを除いたとて、また次、更にまた次と…彼女を苛むものは尽きないはずだ。
「…すまない。
モエには負担ばかりをかけてしまっているな…。
そしてそれは恐らくこれからも…」
本当にすまない。と絞るように口に出したユーリを見たもえがぼたぼたと大粒の涙を零し始める。
決してそのような事を思わせたかった訳でもましてや言わせたかった訳でも無いのに…。情けない、不甲斐ない。
そんな思いばかりが胸にのしかかる。
ユーリはそっと涙の伝う頬に手を当てる。
彼女が今、何を思うのか。
…それがよく分かる。
自分を…そして二人を想い、胸を痛める彼女の姿が申し訳ないと思う反面酷く愛おしい。
「モエ。」
静かに、穏やかに名を呼んで彼女の視線を迎え、声と同じ様に穏やかな微笑みを浮かべた。
「それでも…私はモエを愛している。
共に在りたいと切に願っている。
…離れるなど…微塵にも考えられない。
…すまない…。
我儘を…姫君を苦しめてしまうこの私を…どうか、どうか赦して欲しい…。」
ユーリの切なさ滲むその言葉を耳にして
もえはもう声を抑えて居ることが出来なかった。
苦しそうに泣き喘ぐもえをユーリは強く抱き寄せて優しく背中を撫でながら宥めていた。
自分に降かかる危険など正直どうでもいい。
ただ彼らを始め…仲間たちの不利益や身の危険が降りかかる事だけがどうしても不安で怖くて…耐えられないのだ。
まるで出口の見えないトンネルの中を
いつ出られるのかも分からないまま
がむしゃらに進む様に…
酷く息が詰まりそうになるもえなのだった。