笑い上戸に泣き上戸空より低く、海より高いところ。月と星々が輝くなかで一頭の巨大な鷹が飛んでいる。それは成人した男性よりも大きく、その右翼には釣り針のような模様があった。鷹に姿を変えた風と海の半神半人、マウイだ。
マウイは、ある島の山頂へ視線を定めて低く滑空し始めた。彼は今日、その山頂である相手と落ち合う。島の者たちを率いる若き航海士と。
島の高い山に当の航海士の姿が見えた。彼女は大きなタパを地面の上に広げているところだ。
マウイは彼女に呼びかけるように甲高い鳴き声を上げた。聞き慣れた鷹の声にモアナはすぐに振り向く。少しずつ島との距離が近くなる。彼は鷹から虫の姿に変わってゆっくりと地面に着地した。
「調子はどうだ?」
「いつも通りね」
挨拶もそこそこに、マウイはモアナの持っている容器に気づいた。
「それ何だ?」
「えっ?あっ、これのこと?」
モアナは手に持っていた竹筒を見せる。彼女によると、数日前に他の島から贈られた飲み物が入っているらしい。ココナッツの花から採れる飲み物のようだ。
「よかったら飲まない?」
モアナの誘いにマウイは頷いた。モアナはもう二つ竹筒を用意した。
互いの器に飲み物を注ぐ。注ぎ口から香りが漂う。二人はそれを口に入れた。ココナッツの果汁とは違った味だ。
「悪くないな」
満足そうな様子のマウイと打って変わって、モアナは不思議そうな顔で口に含ませたままだ。
「口に合わなかったか」
マウイはからかうような口調だ。
「……うん、ううん?」
実はモアナは貰った当初にこの飲み物を飲んでいた。そのときはもっと甘味が強かったような気がする。いま飲んでいるものは少し甘酸っぱいような……。彼女はゆっくりと飲み干して喉を鳴らした。
見る見るうちに彼女の顔、全身が赤みがかっていく。
「テ・カァみたいになってるな?」
「マウイこそ」
二人とも顔が真っ赤になってきていた。顔というか全身が火照っている状態だ。意識が宙に舞っているようだ。
「日焼けでもしたかー?」
「しょんにゃわけないでひょう?いまよりゅよ?」
「俺、お前には色々感謝してるんだけどさぁ。多分伝わってないよなぁ」
「どういひゃしまひて♪ゆあうぇうかーむ!」
二人──特にモアナは酔っ払っていた。呂律が回っていない。彼女が他の島で貰った飲み物というのは酒だった。日が経ったことで発酵が進み、味が変化していたのだ。彼女が育ったモトゥヌイには酒に近い飲み物がなかった。先祖の時代にはあったかもしれないが、それは誰にもわからない。もちろんモアナにさえも。長い年月、代々酒を飲まない環境で育った者が一口でも飲んでしまえばたちまち酔ってしまうだろう。
「海の奴、なんで俺に対して扱いが雑なんだろうなぁ!」
マウイは愚痴をこぼした。幸か不幸かここは山の上。海が聞いていたら仕返しが待っていたことだろう。ミニ・マウイがニタニタしながら本人の顔を見上げている。同意の笑みか、本人を小馬鹿にした笑みなのかはわからない。
「そう思わないか?」
マウイはモアナの方を振り向く。彼女はクスクス小さく笑って頷いていた。だが、モアナが頷いていた相手は彼ではなかった。
ココナッツの木から無限にココナッツが転がり落ちる。モアナはクスクス笑いの中だ。縞々模様のココナッツ。笑顔、悲しみ、空洞からは涙の果汁が滴り落ちる。あふれる涙に乗ってくる。それは小さなココナッツ。縦横無尽に転がり尽くす。怒りに歪む穴3つ。あれはカカモラ?あれは嘆きのココナッツ。怒り悲しむココナッツ。小気味いい音コロコロと。果てなく転がるココナッツ。穴が増えてくココナッツ。無限の穴を覗いてみれば巨大で偉大なココナッツ。巨大な口のココナッツ。大きな瞳のココナッツ。
「大丈夫かー?」
マウイはほろ酔い状態でモアナの肩を揺する。
「まういは見えにゃいの?ここなひゅ……」
「何?」
「おおきな……ここなひゅ……」
モアナは頼りない足取りで身振り手振りをマウイに見せる。まるで踊っているかのようだ。彼女は草で足を滑らせた。彼女の倒れる先には岩があった。その様子を見てマウイは完全に酔いを覚ました。転びかける彼女を抱き抱えるように受け止めた。彼は岩を見つめる。転んだら、確実に頭をぶつけていただろう。ラロタイやテ・カァとの戦いでは運良く死ななかったものの、彼女も人間だ。
「危なっかしいな」
彼の言葉とは対照的に、左胸のミニ・マウイは安堵したように一息ついた。
「人間って簡単に死んじまうからさ」
彼の手がわずかに震え始める。
「お前も何度も危ない目に遭った。俺が遭わせたのもあったな」
彼は苦笑いする。今の彼女は話半分でよくわかってないかもしれない。
「杖つくまでは生きてもらえると助かる」
彼はそこまで言って彼女がいなくなったあとのことを考えそうになった。ずっと考えないようにしていたことを。
震える彼の手に小さな手が置かれる。
「長生きする」
モアナは彼の肩越しにそう言った。彼の表情は見えない。
「それに……生まれ変われる」
彼女は続ける。
「動物のタトゥーを入れたら、その姿にね」
モアナはもう片手でマウイの背中をさすった。彼の手の震えが徐々に治まっていく。
「よかったら、タトゥーに入れる動物について相談してもいい?」
モアナの提案のあと、少し沈黙が流れた。一息ついてマウイは口を開いた。
「……鶏はどうだ?」
冗談を言う彼の声は涙声だった。