全戦全敗「モアナ」
穏やかな風に合わせ、縄を固定するとマウイはモアナに呼びかけた。島で遊び疲れたのか、彼女は眠り続けている。彼の呼び声に反応した様子は見せず、聞こえてくるのは静かな寝息だけ。続いて、彼は大袈裟に咳払いした。それでも彼女が起きる気配はない。
「……モアナ」
マウイの声がかすれる。今度は彼女が起きないように小さく咳払いして言い直した。
「お前は、勇敢で思いやりがある。少し無鉄砲だけど、航海の腕もいい。師匠が良かったからな」
モアナに聞こえていないのをいいことにマウイは話を続ける。左胸のミニ・マウイは目を閉じて数回深く頷いた。
「それに、失礼かもしれないけど……器量も悪くない。いや、前見た島ではお前によく似た人間が美人だって持て囃されてたんだ。数年したら誰も放っておかないだろうな。なかにはお姫様だと勘違いする奴もいるかもしれない」
健気で果敢な彼女の姿に誰もが惹きつけられるだろう。目の前の少女は故郷の人間たちを救うために慣れない航海へ出た。並大抵のことではない。
「だけど、モアナの勇気や思いやりを見てきたのは俺だけだと思う」
島の者たちは親切だっただろう。彼女を粗雑に扱ったのは自分だけかもしれない。それでも旅を諦めず、道中では命がけで自分を助けてくれた。命も心も。
気がつけば海が海面をもたげていた。
「よう」
マウイは海に声をかける。思えば、海が選ばなかったら彼女と会うこともなかった。
「あのさ」
彼の呼びかけに応えるように、海の頂が傾ぐ。
「俺、心を盗んでよかっ……うっ!?」
彼の顔面に向かって海水が勢いよく浴びせられる。もちろん海自体の意識によるものだ。マウイは眉をひそめ、顔にかかった海水を手で拭った。そして拭った手を何度か振って滴を払い落とした。
「……撤回する」
モアナがまだ横になっていることを確認し、彼はそう言った。
「あの子と会えてよかったよ」
マウイはモアナのほうに顔を向けた。彼女は微笑むように眠っている。海は彼女の寝顔を覗き込んだのち、彼の言葉に頷く仕草を見せた。
テ・フィティの心を返したあとは彼女に会わないつもりだった。しかし、別れ際の彼女のハグと言葉で心変わりした。どちらか欠けていたら会うことはなかったかもしれない。
「一緒にいられるのが幸せだ」
彼は伸びをして首を鳴らした。海は彼の言葉に再び頷いて海面をしずめていった。話を聞いてくれる相手がいたせいか、靄が晴れたような気分だった。海は彼女のことをよく知っている。そのうえ、海なら誰にも──彼女本人にも口外する心配はない。話を聞いてもらうにはうってつけの相手だ。
水平線から島が見え始める。モアナが今住んでいる島だ。マウイは立ち上がって先ほど固定した縄の方へ移動した。彼が歩くたびに舟が大きく揺れる。
さっきの海水の音でも彼女は起きなかった。自分が移動したところで彼女は目を開けないだろう。そんな彼の予想どおり、モアナは目を開けなかった。彼は舟の方向を微調整しようと、帆を固定している縄に手を伸ばしかけた。
「……わたしも」
モアナの声が聞こえた瞬間、マウイは縄に伸ばしかけたその手で自分の額を押さえた。彼女の小さく笑う声と彼の唸り声が混ざるなか、彼の小さな分身はスコアボードを取り出す。スコアボードの彼女の欄にまた一点が追加された。