焔に消え逝く神の欠片と泡沫の夢・後編 なんとか御手杵を落ち着かせたものの、彼はまた戦に出られなくなるのが長引くのか?としきりに尋ねていた。
ここ最近の不調のせいでかれこれ半月ほど出陣はおろか遠征すらも出られず、最近やっと手合わせが出来るようになった。今回のことでまた本丸で待機状態が続くとなれば、戦に出て武器として振るわれることを何より好む彼はとても落ち込むだろうが、理由が御手杵が何かに乗っ取られて押し倒されたなど言えたものではない。下手な意味に捉えられて、近侍や一部の刀が御手杵を追いかけまわすのは目に見えているし、本丸が混乱するのは避けたかったので、彼にはこれが原因で出陣を延期にするのはないと伝えた。その代わり、鍛練もほどほどにしっかり休んで本調子に戻すことに専念することを命じた。
ほっとした御手杵はさっきはすまないと謝罪をそこそこ、なんだかまだ落ち着かないから部屋でひと眠りすると言って立ち去った。彼の姿が見えなくなった後、私は大きく溜め息をつく。
間違いなく昔の彼は力を増している。すぐに今の彼に戻ったとはいえ、ああまでして表に出られるまでになったのだ、あれでは昔の彼に乗っ取られるのも時間の問題だ。自分の予想では件の日さえ過ぎさえすれば鳴りを潜めるのではと思っているが、ああして私が枷を解いてしまった以上、そうなるかどうか確証は持てない。
いっそ、のらりくらりとはぐらかされてしまうのを承知で、思い切って真意を聞いてしまうか。このままでは想定していた最悪の事態に陥りかねない。それだけは何としても回避しなければ。
ふと視線を落とした先に、髪が結われた右手の小指が目に入る。術者と対象者にしか見えない赤い糸。熱はまだ帯びたままだ。先ほどの彼の言葉が脳裏を過ぎる。
夢を現にする、それがもうすぐ叶おうとしている。何とかしなければと焦る気持ちに逸りつつも、他の者に悟られぬよう一日を過ごすしかなかった。
そうして夜になり、眠りに就けばすぐに夢に引き込まれる。珍しく今夜もまた母の洋館の書庫だ。目の前にはソファーにごろんと横たわって退屈そうにしている昔の彼の姿があった。
「やっと来たか。何か言いたげな顔をしているな……どうせ昼間のことだろう?」
「当たり前です」
「少しずつ力が戻ってきて馴染んできたからな、試しに昼のうちに出てきてみれば、たまたま主がいたもので戯れてみた。ただそれだけでも、すぐ力尽きて俺は眠ってしまった。まだまだ調子は戻らぬ」
「けれど、例の日が近づけば近づくほど力が増して、やがてはその時間も長くなるのでしょう。 もう十日を切っていますものね……そのせいか髪が巻き付いている小指が熱を帯びてました。私とあなたがどんどん近くなる」
「その通り、以前より主との縁の結びつきもより強くなった。おかげで夜に主と逢う前でしか出来なかった散歩も昼の間に、より広く回れるようになって……いろいろと主を知ることが出来た」
「それはどういう──」
私が問いかけようとした時、彼はふっと目を細め、微笑を浮かべた。その姿は妖艶の一言で、魅入られそうになりながらも踏みとどまる。普通の人なら既に骨抜きになっているだろうに、彼は私が耐えられると見越していたか、くくっと声を出して笑った。
彼はゆっくりとソファーから起き上がり立つと、そのまま目の前まで歩み寄り、突然私の右手首を掴んだ。
「その戦装束は見飽きた」
彼がそう言った瞬間、異変が起きた。着ていた軍服がいきなり術式礼装に変わっていた。もちろん自分の意志ではない。何よりこの夢は、精神世界は、私の世界。主導権も私のもの。それを彼がここまで干渉出来るということは、かなり力をつけてきた証拠に他ならない。
まずい。
思わず離れようとするも、ぐいと引っ張られ、間近で上から下へ品定めでもするようにこちらの姿を見た。
「ああ、やはり主にはこの異国の紅い装束が似合う。主の女の部分を引き出させてくれる…姫君はこうでなければ」
「離しなさい!」
「ならぬ、まだ今夜の逢引は始まったばかりだ。それに主を俺の傍から離すなど毛頭ないわ」
すると彼は私を横抱きにし、どこかへ歩き始めた。彼は書庫の出入り口まで行くと、古めかしいドアを開ける。本来ならその先は洋館の通路に出るはずだった。
しかし、目の前に広がるのはあの薔薇園。もちろん私がこの夢の中で望んで行きたかった場所ではない。これは彼が望んだ場所。ここまで出来るとなると、干渉という言葉では済まされない。私は彼に侵されている。
「今夜はこの庭で語らいたい。ゆっくり、俺の気が済むまで」
笑みを浮かべ余裕すら見せる彼に、必死で動揺を悟られぬよう私は精々目を逸らすぐらいしか出来ない。そのまま最初に出会ったあのベンチまで辿り着くと、私を下ろしたものの肩に腕を回して抱き寄せたまま座り、言った通り決して私から離れなかった。
「さあ、何を語らおうか?」
「………」
話すも何も状況に頭が追い付かない。一体彼はどこまで力を増した?私はどこまで侵された??この力の増し様は異常過ぎる。頭の中の整理に必死で何も答えず、彼の嘆息が聞こえても無視していた。彼の次の言葉を聞かなければ。
「そちらが話さぬなら、こちらから話すぞ……薔薇の魔女」
その瞬間、周りの時間が止まり、何も聞こえなくなった。次に背筋に嫌な悪寒がぞくりと駆け巡る。
彼が言ったのは現世で私が呼ばれたくない二つ名。知っているのは霧乃だけで、男士の方には誰にも名乗ったことはない。だから今の御手杵は知らないはず。なのに、目の前の男は呼んだ。愕然とし身体を固くする私の頬に、彼の指が伝っていく。
「主は術師として一流だ。俺みたいな存在に秘密を知られたり、荒らされて精神を穢されぬよう、あちこちに細工が施されていた。だが、もう俺はそれらに阻まれずに、主の世界を大分見て回れるにまで力をつけたのだ。もう大分知っているぞ。どうしてそう呼ばれるようになった経緯も、そもそも主が今までどうしていたのかも……本当に主は難儀な者だ。こんなに美しい姫が、あれだけの苦労と責務を抱え、果たしたその先が勝利であるならば、己が如何様になろうとも構わぬ、か。哀れにも程がある。尚更嫁にしたくなった」
ああ、もうそこまで力をつけたのか。完全にこちらのミスだ。甘く見過ぎていた。ここまで来たなら、実力行使もやむを得まい。私は手に力を集中させ、術を発動させようとした。が、
「主、手を上げてくれるなよ。俺を倒せば今の俺がどうなるか、ましてやここで一戦交えても時間切れになったら……俺は今の俺に何をしでかすかわからないからな。忘れているわけではなかろう、俺は今の御手杵の土台だぞ」
その言葉に術をギリギリで止めた。彼は艶然としながらも毒を含んだ笑みを浮かべ、より強く身体を抱き、指を絡めながら手を握ってきた。
「駆け引きは終わりだ、主。よく今まで穏便に事を収めようと努めた。しかし、最初の頃とは勝手が違うのだ。この調子だと俺は今の俺ともっと長く成り代われるのはもちろん……今の俺を潰すのだって出来る。それに、主を俺の思いのままにすら」
しくじったと思った瞬間、礼装で露わになった首筋に彼の唇が這っていく。その温く、くすぐられるような感触に身を捩るがびくともしない。
「あっ」
思わず漏れ出た自分の声は甘く、一瞬でも戸惑った隙を彼は逃さない。いつの間にか指を絡めていた手が離れ、礼装のスリットに手を差し入れて太腿を弄っていた。
「主のその反応、生娘も同然だな。魔女と呼ばれている割には……いや、それも良いか。楽しみが増えたようなものだ」
散々な言われように怒りがこみ上げてくるが、下手に抵抗すれば今の御手杵がどうなるかわからない以上、されるがままなのがとても悔しい。夢とはいえ、感触の生々しさに本当に触れられているのではないかと錯覚する。
「もうすぐあの日が来る。きっと俺はその頃今より力をつけているはずだ。現にだって完全に出られる、主を娶れる。その時までこうして夢の中で俺を擦り込ませたい」
太腿を弄っていた手がより深く滑る。首筋を這っていた唇は鎖骨に移っていて、思わず身を固くした。最初の頃は力が弱いとはいえ、昔の彼をもし無理やり倒したり封じ込めたりしたら、今の彼にどんな影響を及ぼすのか予想出来ず、そもそも実力行使に出たところで脅されたり、呪術をかけられた身では何か制限がかかるのは目に見えていたので今まで我慢してきた。あの日まで彼の相手をしていれば、気が変わって術を解いてくれるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、やはり無理だったか。
「離しなさ……んんっ!」
だんだんと際どいところを触れてくる手をどけようとした直後、彼の顔が間近に来たかと思いきや唇を塞がれる。生温かい感触に口づけされていると気づいた時には、もう口内に彼の舌が入って来ていた。逃れたくとも抱き込まれているので彼の蹂躙を許すことになるも、抵抗せずにはいられず、唯一出来たのが相手の舌を噛むことだった。
「つっ………」
さすがに噛まれて彼は顔を離したものの、熱を帯びた吐息に、互いのものが混じった銀糸が何本か唇に垂れていく。
「……往生際が悪い」
「だからといって、為すがままにはなれません……!」
「主はもう詰みだ、手などもうない。現で娶るその日まで、夢の中で俺に愛でられればいい。 どうせ夢、ここでいくら犯されようと現の主の身体は綺麗なままだ」
まるで夢魔の常套句を並べ立てる彼にだんだんと怒りがこみ上げてくるが、すぐさま手首を掴まれてしまう。離れようともがくも力の差は歴然だったが、弾みでだろうか彼が私ごとベンチから倒れ落ちようとした。
「っ!?──」
ここは庭。ベンチの下はもちろん土であり、冷たく固い感触が待っているかと思いきや、肌に当たったのは柔らかい感触。視界には白が映り、数秒して自分が倒れ込んだのが布団の上だとわかる。視線だけ動かせば、そこは和室だった。しかし、体格のいい彼に阻まれて詳しい部屋の様子は見られない。
「さっき主が俺の舌を噛んだせいで軽く切ったようだ……これは責任を取ってもらわないとな」
彼の余裕に満ち溢れた笑みに苛立ちを覚えながらも、またすぐに唇を塞がれる。滲む血を舐めさせようと何度も何度も執拗に切ったところへ舌を絡められた。夢だというのにその感触と血の味に、まるで現実で犯されているようだ。今度は噛ませてなるものかと先ほどより激しく、おまけに慣れてないせいで息が持たない。徐々に力が抜けていき、思考も止まりがちになる。気づけば右手の小指が熱い。まるで彼と絡めば絡むほど熱くなっていくかのようだ。
「はっ……はぁっ……」
やっと唇が離れた時には息を整えるのに必死で、対して彼は平然と私を見下ろしていた。
「口吸いですらこうも慣れてないか。これは愉しみ甲斐がある。それに──」
突然右の手首を掴まれ、甲を表にして眼前に突きつけられる。目についたのは赤。本来なら髪が結われているはずの小指に赤い紐が結われていた。
「主と俺の縁が確固たるものになった証だ。もう手遅れだ」
しっかりとした作りの結い紐が、結ばれた縁の強さを物語っている。ここまで来たら呪術としては完成形だ。手段があっても彼を滅するか極限にまで弱めて封ずるかしか手が思いつかない。
彼の言葉を覆そうと思考を巡らそうとした時、彼はふと私の手をそのまま自分の顔の輪郭に宛がった。感触に浸るその顔は恍惚に満ちていて、掌ごしに伝わる温もりと共に見つめられる。ぞっとするほど美しい笑みを浮かべ、彼は私の指先に口付けこう告げた。
「長い長い、夢の始まりだ。主」
そして、酷く甘い悪夢が始まった。
朝、目が覚めたと同時に私は布団から飛び起きた。
寝間着は汗だくで気持ち悪い。まだ鮮明に覚えている悪夢は生々しく、呼吸は荒くなり、ぞわぞわと鳥肌が立ってくる。耳元で散々囁かれ、彼のあの艶めいた声と吐息、言葉の数々が聞こえてきそうだし、弄る手の温もりや肌をくすぐった長い髪の感触もざわざわとよみがえる。それに対し、自分がどう反応したのかも思い出して恥ずかしい。
布団から出て、部屋の奥にある姿見の前に立つ。寝間着を胸元まで肌蹴さすが、何もない。そこで初めて安堵の息をついたのも束の間、右の小指に結い付けられている赤い紐が事の深刻さを物語る。まだ夢で起きたこと全てが現に影響していないとはいえ、悠長にしている場合ではない。夢が現になってしまう。
時間を確認すると5時前。二度寝をする気など起きるわけもなく、せっかくだから朝風呂でも入ろうと思い立った。着替えを持ち、まだ静かな本丸内を歩く。この時間は朝餉の支度に何人か起きているぐらいだろう。誰もいない風呂場で湯に浸かる間、今後どうするか頭の中で整理していた。
正直、昔の彼の言う通り、自分はもう詰みに近い状態なのは重々承知だ。ここまで酷くならないうちに、彼と一戦交えてまた弱めて封ずるかという手を考えてなかった訳ではない。本丸の主として、一人の軍人として、なくてはならぬ身であることを考慮すれば、呪いを解くことだけを重視して実力行使をするべきだった。そうすれば、最初の頃に決着がついていたかもしれない。けれど、どうしても行動に移せなかった。
もし己のことだけ考えて、御手杵が欠けたり、戦に出られなくなったりするのだけは回避したかった。たった一兵の為に主が危機に晒されるなんて愚行もいいところ。甘い、と言われても仕方がない。しかし、その一兵を大事にしたいと思うのはいけないことなのだろうか。その為に極力最善を尽くそうと努めてきたが、悉く裏目に出てしまった。だが、諦める気など欠片もない。まだ運命の日まで時間がある。最後まで足掻くまでだ。
湯に浸かりながらこれから打てる最善の策を考え整理するも、変に没頭する前にと早めに風呂から出て着替えを終えれば、廊下は明るく、朝の光が差し込んでいる。そろそろ起きてくる者が増えてくるだろう。いろいろと準備をしなければと自室へ戻る途中、ふと目をやった先におぼつかない足取りで歩いている人影を見つけた。
御手杵だ。
まだいつものジャージを着ているということは、起きて間もないということか。昨夜のこともあり声をかけるべきか迷ったが、また不調が戻ってきたのかと心配の方が勝ち、そろそろと彼に近づいた。
「御手杵さん?」
声をかけてみると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。目は潤み、頬は紅潮している。熱でもあるのだろうか。
「主……?」
「どうしました?また具合が悪いのですか??」
そう尋ねてみるも彼からの答えはなく、じっとこちらを見つめている。
「あの、大丈夫ですか?熱、診ますから──」
御手杵の力のない声に熱でもあるのかと彼の額に手を伸ばした。すると突然ぐいっと腕を掴まれる。
「え?」
そのまま有無を言わさず無理やり腕を引かれ、部屋に押し込まれる。そこは空き部屋で、半ば突き飛ばされるように畳の上に転がされ、ぴしゃりと襖が閉まる音に顔を上げると、そこには逆にこちらを見下ろしている御手杵の顔があった。
「御手杵さん……?」
「主、俺……夢を見たんだ」
「夢?」
夢と聞いて身体が強張る。嫌な予感がする。御手杵はゆっくりと歩み寄ってくる。
「主を喰っちまうんだ。紅い、あの礼装を来た主を俺が押し倒していて…… 主が嫌な顔をしているからどけたいのに、身体が言うことをきかねぇ。身体だけ別人みたいで、俺は主の身体に噛みついて……なのに、どういうわけか気持ち良いんだ」
ずるずると座りながら後ずさりするものの、すぐに壁に追い込まれる。御手杵が両腕を壁について、こちらの逃げ場を失くすと、とろんとした目で見つめるまま、どんどん顔を近づけてくる。
「主、続き、させてくれ」
「あっ……」
思わず目を閉じ覚悟を決めるも、やってくるはずの感触がやってこない。恐る恐る目を開けると、そこには顔を俯かせ、荒い呼吸を繰り返す御手杵の姿があった。
「ダメだダメだ、主にそんなこと、させられるかっ……」
自身に言い聞かせるように彼は呟き、何かを振り払うように首を横に振る。ずるずると壁についていた手が肩に落ち、ぐぐっと強く掴まれた。私は固唾を飲んで彼の様子を見守っていたが、苦しそうにしている様に、つい手を差し伸べそうになる。けれどそれでまた失敗しそうな気がして、声をかけるか躊躇ってしまう。静かに彼の様子を見守る。やがて彼の息も整って、肩を掴む手の力が弱まった時、
「御手杵さん」
声をかけた。彼ははっとして頭を上げると、申し訳なさそうな顔をした。
「あ、主、その……すまない、俺……」
すっ、と手を彼の額に当てる。少し熱があった。
「熱、少しありますね」
「……主、俺、本当に良くなってきてるのか?」
不安気な、良い言葉を期待し縋るような御手杵の顔が痛々しい。昨日は大丈夫だと言われたものの、この状況ではどう考えてもそうは思えない。今まで秘密裏に独りで行動していたが、ここで本人に全て話してしまっていいのだろうか。いや、もし彼が起きていたらどうする。筒抜けになってしまっては元も子もない。しかし、それを確かめる術はない。そもそも彼は私をどこまで侵しているのか見当がつかない。
だんだんと動けなくなる。ああ、これは私の悪い癖だ。
最善手を打ちたいが為に、様々な可能性の中から模索していくうちに事が悪化する。それは現在の状況が物語っている。彼の為に、己の為に、私はどうすればいい。
「なあ、主」
御手杵に声をかけられ、びくっと身体が跳ねてしまう。彼は即答せずに考えに耽っていた私の様子を見て察したようで、躊躇いながらも彼は口を開いた。
「確かにあの炎の夢はあれ以来見ていない。身体も少しずつマシになってきている。 けれど、昨日みたいに意識が飛んで主を押し倒したり、今だって…… 実を言うと、主に隠していた事があったんだ」
「隠し事?」
「燃える夢の代わりに、主の夢を見るようになった。 昨日の夜みたいなのはもちろん、俺と主が見たことのない場所で話していたり、幼い頃の主を見かけたり……けれど、やっぱり俺なのに身体の動き方も出てくる言葉も俺が考えたものじゃなくて、何だか俺が幽霊で誰かに乗り移ってるような。 上手く言えないんだが、こんなこと言ったらまた戦に出るのが長引くって思って、ずっと黙ってたんだ。主、すまん。もっとこの事を早く言えば……」
姿勢を正し、詫びる御手杵。確かに彼がもう少し早くこの事を伝えてくれれば、早く手を打てた。しかし、黙ってしまった気持ちはわかる。彼にとって戦に出ることは死活問題だ。もし変な事を言って、更に長引いてしまったら恐怖以外の何物でもない。
怒られるのを待つ犬のようにしゅんとする彼に、私は顔を上げてくださいと告げた。
「黙っていたのは良くないことですが、御手杵さんの気持ちもわかりますし、責めるつもりはありません。でも、今お話していただけて、少し希望が持てました。まだ手は打てます」
「ほ、本当か?」
見る見るうちに御手杵の顔が輝く。手を打てるのは事実で、もう少し彼の状況を詳しく聞けば何か出来そうだ。しかし、その為にしなければいけないことがある。
「ですが、御手杵さん。その為に私はこれまでの事を話さなければなりませんが、もしかしたらとても衝撃を受けるものかもしれません。ただでさえ今も不安定な御手杵さんに話すのを躊躇ってしまうのです……」
どうにかして何事もなかったかのように彼がいつもの調子に戻れたら御の字だったが、これはもう私自身だけで解決する範疇を超えた。今の彼が昔の彼を認識するようなことになってしまえば、どんな影響があるか怖くて今まで夢の事を何一つ話してこなかったが限界だ。もっと厳然として事に当たっていれば、こんな負担を彼に負わなくて済んだのかと自責の念に駆られながら、彼の返答を待った。表情に少し戸惑いが混じりながらも、彼は真っ直ぐな眼でこちらを見据える。
「主は優しいから、これ以上俺が悪くならない為に内緒で今まで頑張って来てくれたんだろう?もう主に迷惑をかけたくない。それに、俺も知りたいんだ。どんな悪いことでも、大丈夫だからさ……頼む、教えてくれ」
しっかりとした口調でそう答える御手杵に、私は静かに頷く。彼もまた、当事者なのだ。彼にも向き合ってもらわなければならない。過去に、何故炎の夢を見るのか、話さなければ。私は彼を信じてあげれば良かった。そうすれば、もう少し状況が好転していたかもしれない。彼の主として、審神者として失格だ。
「わかりました、全てお話しましょう。それと──」
右手の小指をぎゅっと握り、彼を見つめ返す。
「一つお願いがあります」
そして、私は覚悟を決めた。
夢を見た。あの炎の夢じゃない、別の夢。
知らない所で主と話をしている。主は軍服姿で、いつもの優しい笑みはなく、どこか刺々しく冷たくよそよそしい。
「どうしてそんな顔してるんだよ」
そう言いたかったはずなのに、
「なあ、どうしていつもそんな顔をするのだ。主は花のように笑う方が似合うというのに」
出てきたのは自分が思ってもいない言葉。
なんだこりゃ?俺は誰かに乗り移ってるのか??と首を傾げるが、声は自分で発しているような気がする。変な感覚に薄気味悪さも覚えるが、唐突に眠くなり、意識がぶつっと途切れた。主と俺は会話し続けているというのに。
そんな夢がずっと続いた。場所を変え、主と俺の語らいが幾夜もかけて続いていく中、何故か胸が苦しかった。だんだん体調が整ってきて、手合わせもやっと出来るようになり、もう少しで戦に出られると意気込むも、主を見かける度に夢の時のような胸の苦しさに襲われ、やっぱりまだ無理なのかと気落ちした。
この事を主に話そうとも思ったが、どうも話す気になれない。主と補佐のことだ、慎重になってきっとまた様子見の日々が続くと考えたからだ。とはいえ、やはり不安が募るもので何度も言おうと試みるも、どうしても言葉が喉で突っかかり、言うに言えなかった。おまけに、白昼夢みたいなのも見るようになった。
少し年若い雰囲気の主が見慣れぬ服を着ていたり、戦場のような所にいたり、術を繰り出すような場面もあった。その時の主は凛々しかったり、苦しそうな顔をしていたり、雨に紛れて涙で顔を濡らしていたり、見たこともない不敵で妖艶な笑みを浮かべることもあった。一瞬とは言え、妙に強烈な光景で頭にこびりつく。だから、いつも穏やかな笑みを浮かべる主に会う度、その落差にただただ戸惑った。
ある日の夢、俺の腕の中で主が眠っていた。すやすやと寝息を立てる主に、夢の中で眠るのもおかしなものだなと思っていたが、突然俺の身体が動いた。俺の手が主の髪に触れ、指に絡め、さらさらと零れ落ちて行く。その後、顔の輪郭をゆっくりと撫でていったかと思うと、首筋から肩、腕、腰、太腿へと下りていった。
主は起きなかった。俺は小さく溜め息をつく。胸の奥にちろちろと何かが灯る。俺は主と呼び、首筋に顔を寄せ、そっと唇を落とした。最初こそ起こさぬように静かにゆっくりとだったが、だんだん耳に、髪に、頬へ。やがて行き着いたのは唇だったけれども、さすがにそれは……と躊躇ううちに触れてしまった。俺は一体何をしているんだ。いや、俺が乗り移っている誰かは主に何がしたいんだ?
熱い。
あの燃える夢とは違う、内側から何かが溢れるような感覚。それはどんどん大きくなり、主へと向けられ、これ以上主に触れては何かしてしまうと危機感を抱いたところで、意識がすとんと落ちた。そして、目が覚めた日のこと、俺は主と話している最中、意識が飛んで気づいた時に押し倒していた。突然のことに俺はすぐさま主から離れるも、胸はバクバクと高鳴ると同時にギリギリと締め付けられるように苦しい。こんな状態では戦に出られる日が延びると焦り、主に訴えかけると、延ばさないと言ってくれた。それはそれでほっとし、しでかしたことを謝って適当に理由を言ってその場を離れたが、部屋で布団に頭から包まっても落ち着かなかった。
どうして主を押し倒してしまったのか。俺は一体どうなっているのか。なんで主を見かけたりすると胸が苦しくなるのか。今もきゅっと締め付けられるように苦しいし、昨夜の夢のように熱い。主を間近で見たらひどくなった気がする。どうしたら収まるんだ?このまま戦に出る日を迎えたら、満足に戦えないと頭を抱えていると、
『その焼けるような胸の苦しみから解放されたいか?』
誰かが俺にそう囁きかけた。驚いて布団から顔を出して辺りを見回すも誰もいない。気のせいだ、ああ幻聴も聞こえるようになっちまったと落胆し、また布団を頭から被り直す。あんな夢を見て寝た気がしなかったせいか、うとうとと微睡んでいく。
『ならば、主を抱いてみるがいい。その苦しみは我が苦しみ。俺は、主に恋い焦がれて仕方がない。 水底で何度も燃え尽きるよりも、この焔に焼かれていた方がどれほど良いか』
さっきと同じ声が聞こえてくる。誰もいないはずなのに、誰かが俺に纏わりついている。
『早く俺と成り代われ。そうすれば、俺は、主を……』
お前は誰だ?そう問いかけたくとも、あっという間に意識が遠のき、眠りに落ちる。それから同田貫に何度も昼餉だ夕餉だと叩き起こされながら、夜になってまた見た夢は昼間の続きだった。
俺が主を押し倒している。ただ違うのは布団の上でということと、主の服があの術式礼装だったこと。忙しなく主の柔らかい身体を弄り、何度も何度も口づけする。唇だけじゃない、身体のあちこちに噛みつくように。主が嫌がり抗う様を見てやめなければと思うも、やはり身体は勝手に動き、ただ主が乱れるのを見ているしかない。主の赤らめた顔と時折漏れる甘い声にぞくぞくと何かが湧きたつ。
熱が灯る。胸の奥が灼けつく。熱い。あの蔵の中の夢で味わったとはまた違った熱。もっと主の身体を見ていたい、その声を聞いていたい、主が、主が欲しい。変な願望が頭をもたげ、熱に浮かされながら、だんだんと激しくなる手つきに合わせ、主は更に乱れていく。いつも綺麗な黒髪は汗で顔に張り付き、礼装の裾はまるで花弁みたいに大きく広がり、切れ込みから白い足が際どい所まで晒されている。あちこちに紅い痕があり、手が動けば、より大きく、甘く、痺れるような声をあげ、その様に何故か満足感みたいなのがあった。
本当に俺は誰に乗り移っていて、こんなこと主にして何が目的なのか。いや、どうしていつも主が夢に出てくるのか。あれ?そういえば、昼間の声は何て言った?? 恋焦がれているだとか、訳のわからないことを言っていた。恋ってなんだ?それが今こうして主を押し倒してるのと関係があるのかと考えた時、ふっと目の前が真っ暗になった。だんだんと意識が遠のいていく。
『主、俺はもう焦がれ続けるのは嫌だ』
声が聞こえる。切なげで、縋るような、それでいて狂おしさが滲み出ている。
『早く、あの日が……主』
胸の炎が燃え上がる。ああ、もう熱いのは嫌だというのに。身を焼かれる夢は何度も見たが、こんな訳のわからぬ気持ちになる夢も見たくない。次に目が覚めて主を見かけたら、何かしてしまう気がして怖い。ああ、でも、何故なのか。この炎になら焼かれてもいいと、ずっと焼かれていたいと思えてしまうのは。やっぱりどうかしている。こんな調子じゃ戦に出られない。主はこんな俺でもいいのだろうか。
『中身がないお前なんざ、主に相応しくなかろうが』
蔑みを込めた声が響く。昼間に聞いたのと同じものだ。
「ああ、もういい加減にしてくれ!お前は誰なんだ!?」
今まで訳のわからぬ状況に振り回され、込み上げてきた怒りをぶつけるように大声で問う。すると、相手はくくっと嗤った。
『俺か?俺が誰だが知りたいか??ああ、いいだろう。どうせお前にとって忘れる夢だ。せっかくだから教えてやろう』
それは真っ暗な闇から突然現れ出でた。衣装、髪型は違えど、鏡を見ているように。同じ顔の男が。
『俺は、お前だよ。天下三名槍が一人、御手杵だ』
奴がそう言い放つ。お前が俺。何を言っているのかわからない。
掴みかかって問い詰めようとするも、その手前意識が急降下していく。まるで地獄へ落ちていくようだ。
『そうだ、落ちろ。落ちてしまえ。お前ではなく、俺が表に出るんだ』
奴の憎悪を浴びながら、俺は闇に沈む。なんでこんなに憎まれてるんだ。ああ、でも、あんな奴から主を助けないと。あいつに主を好き勝手にさせてはいけない。そう強く思い伸ばそうと思った腕はなく、俺は意識を失った。
「やっと、やっとこの日が来た」
とうとう迎えてしまった運命の日の前夜。彼は感慨深く言葉を漏らし、目の前の光景に恍惚の笑みを浮かべて眺めている。
私は動けなかった。目を覚ませば見たこともない武家屋敷の大広間で、膝立ちで両腕を吊り上げられている。見上げると天井がない。暗闇から赤い糸が束と見間違うほどに幾筋も垂れ下がっており、私の腕を絡め取っているのだと理解した。さらに着ているものも変わっており、いつもの寝間着ではなく、鮮やかな紅の襦袢だった。
「今宵は主を娶る前夜だ。前々から映えそうだと思っていたのを着せてみた。白か紅か悩んだが、主はやはり紅が似合うからな……さて、主。俺の嫁になる決心はついたか?」
夜ごと幾度となく彼に問われ続けた事を、私は変わらず首を横に振る。だが力を取り戻しつつある彼の魅了の術は凄まじく、常人ならとっくの昔に彼の虜となり、身も心も捧げていることだろう。術を放つ余裕もなく、何かしらで隙を見せた途端彼の思うがままにさせられそうだ。
「何度も言っているが、主は詰みだ。このまま足掻くのは見苦しいと思わないか?」
「それは私の勝手です……まだ、時間はあるのでしょう。なら、無様であろうと足掻き続けます」
「ほう。ならば手酷く抱いて、全てが無駄だと思い知らせてやろう。ついに俺の夢が現になるんだからな」
ゆっくりと彼は近づき、片膝をつくと、私の頬をその大きな手で撫でた。顔を背けようとするも、無理やり目を合わせさせられる。情炎を宿した瞳に見つめられ、何かに呑まれそうな感覚に思わず腕を動かそうとするも動かない。その様子を彼は嘲笑い、無遠慮に両肩を掴むと私の目を覗き込む。
「怖いか?主。俺はもうお前を抱きたくて仕方がない。身を焼かれるのもだが、この胸の内から焼かれるのも耐え難い。 こんなに恋焦がれてどうにかなりそうだ。なあ、主……俺を楽にさせてくれ、一緒に熔けてくれ。全て捨てて、俺に縋れ」
この夜を迎えるまでの間、何度も囁かれた言葉を投げかけられる。呪いのように、毎夜手首と足首には繻子の枷を付けられ、腕の中で弄ばれながら。甘美でいて狂気に浸った夢は私を犯し、今夜は最後の仕上げと言わんばかりだ。しかし、ずっと引っかかっていたことがある。
「……恋、ですか」
ぽつりと呟いた私の言葉に、彼は怪訝な顔をした。
「ああ、そうだ。恋だ。俺は主に恋をしている。それがどうした?」
当たり前と言わんばかりの彼は何故と首を傾げる。やはりかと私は話を続けていく。
「私はあなたに恋をしませんでした。いえ……出来ませんでした。 どんなに甘い言葉を囁かれ、快楽を与えられようと、私には何も響かなかった。何故か?私はあなたに何も惹かれなかったからです」
彼の表情からそれまでの熱が引き、眉を顰め、一気に冷めた視線を送られる。明らかに彼の怒りに触れたのは間違いなかった。
「なんだと?」
「あなたは傲慢で、人の事などお構いなしに口説いてきました。 私の中を渡り歩き、見られたくないところまでその目に映し、思うがままにしようとしました。そんな自分勝手な男に、私が恋に落ちると思いますか?」
途端、強い力でぐっと胸倉を掴まれる。襦袢が着崩れ、彼の方へと身体が引っ張られた。
「こんなことしても、私が首を縦に振ることなんてあり得ませんよ」
「何も出来ぬのに、口だけは達者だな。何故そこまで頑なになる。審神者だろうと、薔薇の魔女だろうと、一人の娘として恋に落ちることをどうして恐れる」
「恐れてなどいません。ただ私はやらねばならぬ事の為に私情を挟む余地などないと思っているだけのこと。 あなたは何か勘違いをなさっています。いくらあなたを悪夢から一時的に解放することは出来たとしても、 その過去をなかったことにすることは出来ない。……私に縋っても何もありません。あなたは依代無き付喪神、本来なら運命の日を迎える以前にそもそも現に出る力がない。私と繋いだ縁を利用し、筒抜けになった私の霊力を用いて、現に出られるほどの力を得ただけ。言うなれば、あなたは他者に憑りつき力を奪い顕現する亡霊。生者と死者は共に在れない。だから、あなたに恋など出来ない。亡霊の花嫁になるなど言語同断──」
「黙れ」
彼の静かな恫喝とは裏腹に、胸倉をつかむ力はぎりぎりと音を立てて増していく。今にも襦袢が引き裂かれそうだ。
「今、お前がどんな姿かわかっているか?幾重にも赤い糸に縛りつけられてる魔女よ。 俺と結ばれるのは定めなのだ。もうどうしたって逃げられない。お前を含め誰であろうと断ち切れない。俺しかどうにも出来ない 明日にさえ……明日にさえなってしまえば、悪夢は遠ざかり、俺は亡霊ではなくなる。正真正銘’御手杵’になる。俺は其処に在る。そしてお前を隠し娶って、全ての役目からお前を解き放ち、二人だけの神域で終わらぬ夢を見ていようではないか……鈴花」
名前を呼ばれた瞬間、何かがぞくりと総毛立ち、身体が火照る。頭がぼうっとし、だんだんと力が抜けていく。向こうがほぼ強制的に魅了の術をかけてきたのだ。まだ耐えられると思っていたが、その予想を上回るほど力が増している。
ああ、もうそんなに時間がないのか。なら、現実の時間はもうすぐ5月25日になろうとしているのだろう。
「んんっ……」
熱を帯びた吐息が漏れる。だんだんと彼の手で乱されたい、全てを彼に捧げたいと心が逸りだす。じくじくと身体の内で何かが疼く。抑えようにも抑えられない。このままでは、最悪の結末になってしまう。
「老いて朽ち果てることもなく、俺と共にいる限り、永遠にお前は美しいままだ。俺を悪夢から救い上げたことには感謝している。そして、お前がいればあの悪夢に戻ることもない。現で生身の身体を味わう手前……今宵は思う存分抱き明かしてやる、覚悟しておけ」
襦袢の合わせから手が滑り込まれ、そのまま勢いよく脱がされる手前。
ほんの刹那、彼の背後に人影が見えた。
気配に気づいた彼は、咄嗟に私から離れる。
同時に何かが煌めき、ぶつぶつと腕の糸が断ち切れる音と同時に、その姿をこの目で捉えられた。
「御手杵さん!」
突きを放った格好の御手杵は大きく槍を振り回して構え直しながら、ようやく身体が自由になった私の傍で膝を折る。
「遅くなってすまん、主!ここに辿り着くのに手間取って今夜になっちまった。けど、間に合って良かった」
もう大丈夫だと御手杵が私を抱き寄せる。対し、焔に熔けて失われた本科の方は先ほどまでの余裕はなく、目の前の光景が信じられないと言わんばかりに狼狽えていた。
「何故だ……どうしてお前がここに!俺の方が力が強いはずなのに、ここに来られる訳がないのに!!主、一体何をした!!!?」
「……では、種明かしをしましょう。私もあなたと同じ呪術を、今の御手杵さんにかけました」
「なっ……!?」
予想外のことだったのだろう、驚愕する本科を尻目に、私は話を続けていく。
「私に結われていた髪を、御手杵さんが見えなかったこと。御手杵さんの目を通じて、あなたが現の出来事をある程度認識しているということ。そして、逆に御手杵さんは自分の身体なのにまるで乗り移ってるような視線で夢での出来事を見て、感じていたということ。これらのことで、私は一つの確信をしました。二人は一つの魂から何らかの部分が人格を持って分かれ出でる二重人格というより、‘御手杵’という器の中で本科と御手杵さんの二つの魂が同居しているという方が近い。魂の質が違う故、髪が見えなかったのも説明がつきますし、一つ希望が見えました。私は自分の髪を今の御手杵さんに結って、夜に夢で私を見つけて欲しいと話したのです。あなたが私にしたように、御手杵さんもまた私の髪を通じ、夢を通って此処に来られると思って」
へへっと笑いながら御手杵は右手の小指を本科に見せつけた。そこには確かに私の髪が結いつけてあり、それを見た本科は忌々し気にこちらを睨みつける。
「よくも謀ったな……!」
「謀るも何も、これは博打でした。もしかしたらあなたが昼間意識があって、髪を結うところを見られ、後であなたに意識を取られて外されるかもしれない。気づかれないにしても、この夢の中で何時私の気の残滓を訝しんで、御手杵さんが辿る道標を断たれるかもしれない。それ以前にあなたの力が強すぎて道を見失い、この夜までに御手杵さんがここへ来てくれるかどうか…… ギリギリまで粘ってみましたが、かなり穴のある、成功率なんて3割も見込めないような策でした。……本当に間際になってはしまったものの、案外それで良かったのかもしれません。あなたと御手杵さんの魂の質は双子かと見紛うほどに今同じになっています。だから、糸を断ち切れたのですから」
彼は言った。焼けた日が近づいてくると、だんだん意識の水面に浮かび上がると。では焼けた日になったらどうなるのか。
それは過去と現が混ざり合うこと。それまで別個の魂だった二つの魂が、一つの魂となって重なる。故に、御手杵は私と本科に繋がれた縁を切ることが出来たのだ。
「さすがにあの様子を見てかなり焦ったが、主が何とかなればこっちのものだ」
御手杵は槍を構えながら立ち上がり、目の前の過去の己と対峙する。
「やっと会えたな、過去の俺。よくも散々夢で主に酷いことしてくれた」
「来たか、今の俺……ここまで来たのは褒めてやるが、お前はすぐ消えるのだ。霊力はお前に引けを取らん。一撃で刺し穿ってやる」
本科も軽く跳んで距離を取ると、手に本体を出現させる。鏡のように全く同じ構え。日付が変わり、終を迎えた日になり、相手は在りし時の生を色濃く浮かび上がらせている。もうほぼ全盛に近いか。もし今ここでどうにかしなければ、彼はそのまま現にしがみつき、御手杵と成り代わってしまう。下手をすれば長期戦になる可能性が銃部なるが、長引けば長引くほど危険だ。今この隙にと、瞬時に呪文を呟いて、援護する術を放とうとするが、
「ダメだ、主!これは俺とこいつとの戦いなんだ……余計な茶々は入れないでくれ」
御手杵にすぐに見抜かれ、寸でのところでやめる。彼は全くこちらを振り返らず、ただ相手を見据えていた。
「でも……」
「大丈夫だ、絶対に勝つ。主、危ないから少し離れていてくれないか?」
不安だったが、御手杵の一騎打ちでという申し出を無下にする気はない。彼がこういう形で勝負したいという気持ちは十分わかる。御手杵の言う通りにし、双方を見守る。
「俺に勝つなど、ほざくのもいい加減にしろ。俺がそもそも‘御手杵’なんだ。この身に重ねた年月の差、思い知るが良い」
御手杵の言葉を一笑に付し、本科であるという自負からか、あくまで強気の姿勢を相手は崩さない。しかし、
「……確かに知識とかはお前の方が上だ。でもな、こっちが唯一誇れるものがあるぜ」
御手杵は全く動じず、すっと目が鋭くなった。一撃で相手を仕留めんとす、槍兵の目だ。
「戦の経験だ。お前は参勤交代でのお飾りが主で、ろくに戦場に出られなかった。でも、俺は違う。俺は鈴花の主の槍として今まで戦ってきた。他の二槍や、補佐の霧乃、みんなで。どうなんだ、昔の俺。お前は、俺より場数踏んでるって言いきれるか?」
彼の目は槍を突くべき箇所を見つめている。
例え相手がもうすぐ最絶頂を迎える過去の己とはいえ、決して迷いなど微塵もない。御手杵は下手な打ち合いなどせず、たった一手で終わらせる気だと察した。
「俺が今までいろんな相手と戦ってきたのは、お前も知っているところだろう。でも、知っているだけだ。実際相手と対峙して、血を流してるわけじゃない。だから、俺は勝てるって思えるんだ。昔の俺なんかにな」
自信に溢れ、しっかりとした口調で言い放つ御手杵に対し、本科はぐっと言葉を飲み込んだ。ギリギリと本体を握りしめ、怒りを抑えきれないのは目に見えて明らかだ。本丸内での御手杵はかなりの高練度、顕現から今に至るまでにいくつもの修羅場を潜り抜けてきたという、彼としての立派な過去を証明している。焼失して時が止まった本科にとって、これは覆せない事実であり、反論する余地などないのだ。
「複製のくせに……何故だ、どうして鈴花の主の隣にいるのがお前なんだ!俺の方が相応しいのに、主の過去を全て受け止めて傍にいられるのは!!」
「あんただったんだな、昔の主を見せてたのは。一瞬ばかりだったからよくわからなかったが……あんたが主のどんな過去を見たかは知らない。でも、だからといってあんたに主は渡せない。好き勝手酷いことしていたあんただけは」
「恋い焦がれ、思いの丈をぶつけて何が悪い。俺は主を娶るのだ。そうすれば、あの炎、何度も身が熔けて失くなる悪夢に戻ることはなく、主とて余計なことを何も考えず、俺に愛でられ、快楽に喘いでいればいいのだ」
「なんだそれ。恋とか俺は知らないが、結局ただあんたは主がいれば、あの燃える夢を見なくて済むから居て欲しいだけだ。なら、尚更渡せない。そんなあんたの身勝手な願いで、主を取られてたまるもんか。大体今は戦の最中だ、主がいないと俺も困るが他の連中も困る」
激昂する本科と対照的に、御手杵は微動だにしない。一点、ただひたすら一点を見据え、静かにその時を待っている。
「……主の何も知らぬくせに。主が一体何を抱えて、この戦に臨んでいるのか。その先にどんな結末になるであろうか。それを知ったら俺と同じ気持ちになるぞ」
「俺は槍だ。刺す以外能がない。鈴花の主が何を背負っていようとも、俺を必要としている限り共に行くだけだし、そもそも終わりなんてどうなるのかまだわからないだろう?主はいつも言ってたぜ、本丸全員が大事な一兵、故に誰も欠けてはならない。そして常に己が心で選んだ最善を尽くす。俺はそれを守る。必ずお前を倒す。主を助ける。天下三名槍が一本、御手杵の名に懸けてな!!!」
「ほざけ、複製っ!御手杵を名乗っていいのは……この俺だけだあぁぁぁっ!!!」
瞬間、全く同じタイミングで二振りが動く。
縮む距離、ほぼ同じ動作、閃く刃。それはほんの一瞬のようで、とても長く感じられた。
二本の槍が貫くべき所目がけて交差する。ドスッ、と鈍い音が響き、紅い、花弁と見まごう血飛沫が散る。
二振りは動かない。だが、それぞれの槍は、片や寸での所で脇腹に掠り、そしてもう一方は心臓を貫いていた。
「がっ……!」
ぽたぽたと口から血を吐き、苦しそうな呻き声を出したのは本科の方だった。一瞬早く、御手杵の槍は彼の胸を、得意の針の穴を通すが如く正確な突きで穿っていた。しかし、御手杵の方もまた掠った脇腹から血が滲んでいた。静かに御手杵は槍を引き抜くと、お互い力なく崩れ落ち、持っていた本体が二つ分ゴトッと大きな音を立てて転がっていった。
「御手杵さん!」
急いで御手杵の方へ駆け寄ると、じわじわと脇腹から血は滲んていたものの、彼は心配をかけまいと笑みを浮かべていた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大した怪我じゃない。ただの掠り傷だ」
手で腹を抑えゆっくりと起き上がる御手杵の向こうで、ゲホッゴホッと咳込む声に目を向けると、本科は口から血を吐いていた。二人で彼の下へ歩み寄る。立派な武家の衣装は胸から湧き出る紅に染め上げられ、結い上げられた長い髪が畳に広がっていた。
「……やはり、勝てなかったか」
まるで見知った未来だと言わんばかりに、彼は力なく笑う。成長を続ける今に、止まっている過去が勝てる訳がない。気づいていたかもしれないが、目を逸らしていたい事実であったのに違いない。しかし、御手杵がまだ未熟であればと、淡い期待は持っていたかったのだろう。過去の己こそ、天下三名槍が一本であったと証明したいが為に。
「結局、鈴花の主は俺のことを‘御手杵’と呼んではくれなかったな」
「呼んでしまえば、‘あなたが御手杵’であるという枠をより強く現してしまう。自身で名乗るものならまだしも、他者がそうして言霊で形容してしまえば、その通りに縛ってしまう。それでは、今の御手杵さんとの成り代わりをより推し進めてしまうと思い、敢えて呼びませんでした」
「そうだ。俺は、失われたもの。いくら俺が御手杵だと言っても、今在るのは、主にとっての御手杵は、そいつだ……悔しいがな。ああ、時折意識の水面から垣間見る主の優しい笑みを、俺にもしてもらいたかった。独り占めしたかった。今の俺を潰してでも成り代わって主の傍にいたかった。胸の内に燻るこの焔を抱いたまま、消えてしまうのが惜しくて堪らない。全て、全てが泡沫の夢……過去が現に夢を見るなど滑稽にも程があるだろう」
こちらを見つめ話す本科の顔は穏やかだが、まだ瞳には焔が灯っている。最初こそ私を利用せんが為の茶番にして戯言だと思っていた。だから、頑なに拒んだ。されど、ここまで真摯に語られてしまえば……
「あんた、主のこと、好きだったんだな」
御手杵がぽつりと呟く。表情はまだ警戒しているのか固いが、その口調は不思議そうでも、腑に落ちたようでもあった。
「そうだとも。槍が人に恋するなど、後でどうとでも嗤ってくれ。けれど、せめて……焔の中に消えた神がいたことを、忘れないでくれ……」
本科の姿が徐々に薄くなる。消えかかっている腕がこちらへ伸ばされる。その手に触れようとしたが、
「今の俺、主を、最後まで護れよ……」
そう言い残し、指に触れるか触れまいかのところで彼は消えてしまった。あれだけ畳に広がっていた血だまりすらも綺麗に無くなり、居るのは私と御手杵だけになった。
「……昔の俺は死んだのか?」
「いいえ、また意識の水底にて眠るだけです。もしかしたら時折御手杵さんの夢の中で会いまみえることもあるでしょうが、恐らく来年のあの日までは……ここも間もなく無くなり、現に戻ります。私に結ばれていた糸もなくなり、御手杵さんの怪我も無かったことになるでしょう……申し訳ありません、御手杵さん。私のせいでこんなことになってしまって」
私は御手杵に向き合うと、深々と頭を下げた。今回の件は全て己だけでどうにか出来ると思い、詰めが甘かったせいでこんな事態を引き起こしてしまった。
「主は、今回のこと自分のせいって思ってるのか?」
「ええ……今回の件は私の術師としての慢心が招いたこと。私が余計なことをしなければ、こんな混乱は……」
「でも、俺は感謝してるぜ」
「え?」
予想外の返事に、私は目を丸くした。彼の顔は清々しく、陰りなど微塵もなかった。
「主があいつの炎を消して、あんな風にちゃんと会わなきゃ、俺はあいつの存在なんか知らないまま、なんで燃える夢を見るのかわからず、苦しい思いをして過ごしていた。俺は俺として存在しているだけだと思っていた。けれど、実際はああして昔の俺が中にいたんだ。本当は……俺があいつのことを知って、受け止めないといけなかった。元々の本体が複製で空っぽなところに、あいつが宿っているからこそ、俺は御手杵としていられる。こう言うのもなんだが、昔と向き合う機会が出来たんだ」
彼は力強い言葉と共に、私の手を取るとぎゅっと強く握る。私より大きく、そして傷を抑えていて血が付いた手は温かった。
「……また来年、あの夢を見ることになっても大丈夫だ。だから、主が主自身を責めないで欲しいんだ。本当は褒められたものじゃないんだろうが、あんたは独りで俺の為にここまでしてくれた。審神者だからとか、主だからとか、いろいろあるかもしれない。それでも俺は嬉しかったんだ」
そのまま優しく抱き寄せられ、ありがとうな、と彼は言った。途端、私の中で張り詰めていた何かが、ふつっと切れた。目から雫がこぼれ、頬を伝い落ちていく。気づけば、彼の服を掴み、彼の身体に顔を埋めていた。
やがて、辺りの景色がどこからか現れた白い霧に包まれていく。恐らくそろそろ意識が戻る頃合いで、現は朝になっている頃。そして、
「ああ、もう起きる時間か。今日は、あの日なんだな」
「そう、ですね」
何もかもが白に包まれる中、お互い決して離れなかった。意識が途切れる瞬間、
「……俺が言った言葉に嘘偽りはない。主、それだけは覚えていてくれ」
それだけは最後まで耳に残っていた。
目が覚めるとそこは見慣れた天井。起きて時計を見れば、時刻は6時。雀の鳴き声が聞こえる。
右手の小指を見ると、赤い紐は失くなっており、無事解呪されたのだと安堵した。それからはいつもと変わりない朝。御手杵は普段通りだった。
朝餉の後に彼の運用について霧乃に呼び止められ、二人だけで私の部屋で事の顛末を話した。霧乃は呆れ、頭を抱えてしばらくした後、こちらの頬を両手で思い切りつねってきた。
「痛い痛い痛い痛い痛いです!」
「当たり前だろうが!まったく、またいつもの如く単独行動しやがって!!」
ぐいぐい引っ張りどこまで伸びるか霧乃が試してる節もある中、一頻りやった後、盛大な溜め息と共に頬杖をつく。
「どうするのよ。あたし、普通に御手杵は無事治療済。戦線復帰は経過観察の後にって報告書に書いちゃったけど」
「そこは私も困っていて……」
「でも、ぶっちゃけ鈴花だからこそ起きた事案っていうか……そもそも、審神者で人間っていうか付喪神の精神に潜れる程のレベルの術師っている?何ていうか、これ普通なら政府介入案件なんだろうけど、それを自分でどうにか出来るからさぁ。仮に報告されても、何一つ具体的反映の対象にならないというか」
「軍部の方だけ報告っていうのも考えてたのですけど……」
「そこは自己判断じゃないの。まあ、食いつきそうな人が部隊で何人かいそうだけど。一応報告書取りまとめておいて、マル秘案件とか棚作って保管しとけば?」
ものすごく軽いノリで言っている親友だが、その報告諸々は全て私の仕事だ。まあ、だからこそなのかもしれないが。しかし、この件は本当に取り扱いが困る。なんてったって、付喪神を苛ませる悪夢の原因を探る為に夢に潜ったら、失われた過去の付喪神を助けては求婚と赤い糸を結ばされ、後は己がギリギリまで侵食され、あわや娶られる一歩手前だったなど、出来れば隠していたい事である。だが、もしかしたらこういう状況が後に別のケースで役に立つ可能性もあるので、とても悩みどころなのだが。
「……とりあえず報告書を作るだけ作って、後はゆっくり考えてみることにします」
「そうすれば?しっかし、珍しい。鈴花がこんなに手こずるなんて」
「いろいろと甘く見ていた節がありました。何より御手杵さんの影響を考えて動いていましたから。普通なら、初手で強く出ていたのでしょうけど」
「まあ、デリケートな事だったし、仕方なかったんじゃない?ああ、そうそう忘れてた。この前現世出向した時に、たまたま鈴花のとこのお母さんに会ったんだけど伝言があってさ。薔薇が綺麗だから一度は見に来たら、だって」
そこで身体が固まった。薔薇、母の洋館の庭。何度も夢で見た場所。見てみたい気もする。でも、今はいろいろと思い出してしまいそうだ。
「……時間があった時にでも」
「まあ、現世に出向したついでにいいんじゃない?じゃあ、あたしは今日出陣あるから引率行ってくるよ」
「ええ、気を付けて」
霧乃は笑顔で軽く手を振りながら部屋を出ていった。一人になった部屋で私は軽く息をつく。昨夜の疲れはもちろん抜けてはいない。しかし、どうも寝たいという気は起きなかった。あんな立ち回りをしたせいで気が高ぶっているのだろうか。
一先ずやることをやってしまおうと立ち上がった際、ふと目をやった障子に人影が映っていた。誰だろうと思い、開けると御手杵だった。
「うおっ!?」
いきなり障子が開いて驚いたのかぎょっとする御手杵。その様子は何だかそわそわと落ち着かないものだった。
「御手杵さん、昨夜は本当にありがとうございました。お礼を何度言っても足りないほどですが……まだ、どこか身体の調子が悪いのですか?」
「い、いや、身体はどこも悪くねぇ!俺こそ、主にいっぱい迷惑かけちまって…… その、さっき霧乃と主が話してるのを立ち聞きしちまったんだけどよ」
御手杵は視線を泳がせながら、しどろもどろと話を続ける。
「主、近いうちに現世に行くんだよな」
「ええ、今回の件のことをせめて軍部の一部の人にだけでも報告しておこうと思いまして」
「それと、鈴花の母君の所もだろ?確か薔薇が綺麗なところ。なあ、俺も連れて行ってくれ」
突然の申し出に私はもちろん困惑した。しかし、彼の顔はだんだんと必死になっていく。
「御手杵さん、どうしてですか?」
「俺もよくはわからない……ただ、何というか、とても逸るんだ。現世の、鈴花の母君の庭を、主と二人で見たい。俺、一度も行ったことがないのに、風景が頭に焼き付いていて。多分、これは昔の俺のせいだとは思うんだが……訳が分からねぇことを言ってるって自覚はある。けど、どうしても行きたいんだ」
いつの間にか手を握られながら頼み込む御手杵に、私は気圧された。ここまで迫られて、どうして断ることが出来よう。結局報告書が出来てからという約束で、私は彼の頼みを聞き入れた。御手杵だけではなく、もう一人の願いを叶えるという意味も込めて。
後日、軍部で今回の件を報告をした後、御手杵と一緒に母の洋館を尋ねた。母は研究の真っ最中で、挨拶もそこそこ、お茶の支度が出来るまで庭でも見ていてと言われた。庭はやはり夢と同じ、薔薇の盛りの美しい頃で、一面に紅が広がっている。
「へえ……立派な庭だな」
現世、それも軍部に行くに辺り、珍しく軍服を着てもらっている御手杵は感嘆と庭を眺めていた。快晴の5月の終わりの空の下、薔薇は芳しい香りを漂わせながら咲き誇っている。御手杵はこの薔薇は八重桜みたいだとか、この色は好きだとか楽しそうに見て歩いていたのだが、とある場所でふと足を止めた。
そこにはベンチがあった。夢で、昔の御手杵に恋に落ちてもらおうと言われた場所。彼は立ち尽くしていた。じっと、ベンチを見つめている。
「……御手杵さん?」
声をかけても反応がない。服を引っ張ってみようかと手を伸ばした瞬間、彼に手を掴まれた。
「なあ、主。あの術式礼装になって、ここに座ってくれないか」
「え?」
御手杵はそれだけ言うと、じっとこちらを見つめる。その表情と目に、私は一瞬だけ戸惑い、逡巡し、全てを理解して微笑んだ。
「ええ、いいですよ」
彼の手を優しく外してベンチの前まで来ると、望み通りその場で軍服から術式礼装に切り替え、ゆっくりと座る。そして、御手杵に顔を向けた。
風が吹く。薔薇が揺れる。ひらりと紅い花弁が散る。
「主……俺、今どんな顔してるんだ?」
彼は声を震わせながら尋ねた。膝を折り、こちらに手を伸ばす。私はその答えにと、彼の頬に両手を添え、そっと額を合わせた。指に温かな何かが滴る。彼の腕が背に回り、抱き寄せられる。
「夢、じゃないんだよなぁ」
御手杵がぽつりと呟いて、そのまま口づけをされる。何度も夢でされたはずの口づけは熱く、なんだか今にも溶けてしまいそうだ。けれど、何故だろう。それでもいいと思える。
これは焔に消えた神が見た泡沫の夢にして、今在る彼が望んだ現。
ああ、果たして今は、どちらなのだろうか。