鏡切丸 エレベーターに乗っている二人の男。片方は春めいた薄手のコートを着たいかにも穏和そうな長身の男で、もう片方は戦国の世の武人のような姿の男だった。二人の表情は険しい。任務へ向かう途中であるからだ。
妖刀の回収任務である。その名は「鏡切丸」。とある旧家の蔵から発見され、当初はただの刀だと思われて警察に届け出られ、調査の結果妖刀とわかり天照へと移送する途中で行方不明となった。移送時にその場にいた四人は鏡切丸の異能を受けたらしく、警察官二人と天照職員一人が重傷、残りの天照職員一人が行方知れずである。
日は既に傾きはじめていたが、天照の任務に朝も夜もない。特に妖刀が野放しになっているなどという状況では定時など吹き飛ぶ。廊下を進む長身の男の腰のホルスターには豊和ではなく立派な妖刀──臨時の相方ではあるが──が納められており、それに宿る刀神である武人はちらと男の腰を確認しそれから視線を上げてその横顔を見た。
その地味な顔立ちの男は、葵台路太という名の刀遣いであった。十年弱ほど天照に勤めており、作戦遂行能力も申し分ない、使い勝手のいい職員である。頼りなげな長身と印象に残りにくい容姿はその力量が弐段であるとは思わせない。
一方の刀神は名を幻舞殿直成という。戦国の時代に作られた刀で、明朗快活、人を愛する善良な神であった。路太とは固定バディというわけではなく、だが知らない仲というわけでもない。であるから、幻舞殿直成は路太にこう話しかけた。
「大丈夫なのか」
「うん?」
不思議そうな声をあげてそちらを見た路太はどこか眠たげな顔をしているがこれは元々であり、心配されるようなものではない。幻舞殿直成が心配しているのはもっと別の、最近この路太という刀遣いが抱いているぼんやりとした不安についてだ。
「調子が悪いなら別の人間に任務を回した方がいい」
「ああ……いや、大丈夫ですよ。本当に不調なら断るし……いなくなったのは参段だから、それなりの人間が行かないと」
「路太」
「ほんと、大丈夫ですって。わかるでしょう?」
へらりと笑う路太に、幻舞殿直成はわずかに眉をひそめた。確かに、“わかる”。一時的とはいえ現在幻舞殿直成の使い手は路太であるため、気の流れや状態はある程度把握できるのだ。路太の体は健康そのもので、生気の状態にも問題はない。足取りも普段と変わらないし、顔色も良い。葵台路太は──少し思想の方向に難はあれど──死にたがりというわけではなく、本人が大丈夫だと言うなら本当に大丈夫なのだろう。少なくとも体の方は。
「油断するなよ」
「わかってます」
とん、と指でホルスターを叩く路太。
「妖刀あなたを使うのに、手を抜いたり出来ませんよ」
丁度そこでエレベーターの扉が開く。一階、エントランスを抜けて外へ向かった二人は、特殊バイクを借り受けた。幻舞殿直成は一旦実体化を解き、刀の状態でバイクに乗る……というより積まれると言った方が近いだろう。バイクの側面に積まれた刀はどことなく落ち着かなげにも見えた。
「現着まで我慢して下さいね」
「ああ」
ヘルメットを被ってエンジンをかける路太。バイクに跨がるヘルメット姿の男と日本刀というミスマッチな組み合わせは、バイクにペイントされた天照のロゴによって不思議と納得できる仕上がりとなっていた。
輝く日輪は、神と人との共闘のしるし。
妖刀の反応を追ってバイクを走らせていた路太が最終的に辿り着いたのは、人気のないショッピングモールであった。既に営業は終了しているらしく、テナントは入っていない。その北側に妖刀反応がある。バイクから降りて妖刀を腰のホルスターに差した路太の傍らに、幻舞殿直成も姿を現す。周囲の気配を探りながら北へと向かった二人は、そう歩かないうちに“それ”と対峙することとなった。
行方不明になっていた天照職員である。その手には鏡切丸とおぼしき刀が握られ、既に抜かれている。眼差しはうつろで、言葉も発しない。
「完全に飲まれているな……」
苦々しげに呟く幻舞殿直成。何らかの理由があったのだろう。性質が似ていた、相性が良すぎた、何らかのトラウマを刺激した、口車に乗せられた……しかしいずれにせよ天照職員、それも参段の刀遣いにあるまじき失態である。
路太は持ってきていた妖刀回収用のケースを放り投げるように置き、相手は刀を構えた。刀神の姿は見えないが、その禍々しい気配は明らかに妖刀のそれである。段位としては路太より下ではあるが、相手の異能がわからない以上、油断できる相手でもない。路太は後手に回る心算でじりじりと間合いをはかりながら腰の妖刀に手をかけている。
狙い通り先手は相手が放ち、繰り出された一撃を危なげなく回避した路太の背後でショーウィンドウのガラスが砕け散る。……そしてその直後、路太の着ている服の左肩が突然裂けた。まるで刀に切り裂かれでもしたかのように。皮膚の表面にうっすら赤が滲んだが、肉までは達していないようである。
路太の表情が変わった。攻撃は完全に回避した筈である。ガラスの破片が飛んできたというわけでもない。理由を探るべく思考を巡らせながらの戦いは防戦寄りとなり、また相手に攻撃を許してしまうがそれを回避、したのにまた路太に傷が増える。何度もそれが繰り返され、細かな傷が増えていく。
──考えろ。異常を感じ取れ。一体何が起こっている?
「……!」
また次の攻撃が来た瞬間、路太が回避行動を取りながら相手の攻撃が届くより先に背後のガラスを叩き割った。欠片が周囲に飛び散るが、……路太の体に原因不明の傷は増えなかった。
「鏡像か……!」
幻舞殿直成もまた察したらしく、周囲の状況の悪さに気付いて顔をしかめた。ショーウィンドウなど、「姿を写す」ものが多い。
そう、恐らく相手の異能は「鏡に写ったものに何らかの干渉が出来る」異能だ。路太が相手の攻撃を回避している筈なのに傷を受けていたのは、鏡に写った姿に攻撃が達していたからだと考えられた。となれば今出来る対応は限られてくる。
「お願いします」
──やむを得ない。
路太の言葉にこたえて幻舞殿直成が片腕を振るうと、影武者が大量に現れる。路太の生気は消耗するが仕方ない、兎に角“遮蔽物”が必要だ。鏡面に路太がなるべく写らないように、武者たちを周囲に展開する。彼奴らでは相手に決定打は与えられないが、盾としての運用は理にかなっている。
意図を理解したのか、相手が刀を振るい武者を一体ずつ始末していく。その間に一撃決めることが出来れば、路太の勝ちだ。葵台路太という男はこれでも優秀な刀遣いであり、己の使う妖刀──刀神──に恥をかかせるような戦いはしない。彼は妖刀の使い手として十分な働きをすることに長けている──“刀遣い”としての信念が強いかどうかとは別に──。
また一体、武者が弾き飛ばされ消える。路太の姿があらわになり、相手がそちらへ向かって攻撃を放とうとする。
だが。
踏み込み、視認出来るぎりぎりの速度で振るわれた路太の刃が相手の指を切り飛ばす方が早かった。薬指と小指が落ちる。刀は取り落とされ、持ち手は意識を失った。
そうして路太は息を整えながら相手を見下ろした。……殺すより生かす方がはるかに難しく、今回それが可能だったのは力量と幸運の両方が揃ったからにすぎない。路太は意識を失っている相手に応急処置を施すと──指については繋がるかどうかはわからないが一応ビニールパックに回収した──、転がっている妖刀を慎重にケースに入れた。封印を施し、ひとつ息を吐く。それから天照へと連絡を入れた。
もし路太が相手を殺してしまっていたなら、天照に帰還した彼は軽く説教され一枚ほど始末書を書くことにはなるだろう。だがそれだけだ。こういう非常事態では相手が死亡しても始末書一枚程度で済む。その後、刀が一振り安置所へ収まることになるだけである。
「……」
連絡を終えた路太は幻舞殿直成の方を見ると、軽く頭を下げた。
「お疲れ様です。あとは救急車を待って、帰ったら報告書出して……」
「自分の手当てもするんだぞ」
とん、と自分の肩を指で示してみせる幻舞殿直成に、初めて気付いたかのように自分の体を見た路太は沢山の掠り傷に眉を寄せた。まともに受けたものこそないが、普段であれば負うことのないような傷である。不本意そうに溜め息を吐いた路太であったが、すぐに気を取り直すと気の抜けた笑みを浮かべた。
「ちゃんとしますよ、ありがとうございます」
遠くの方からサイレンの音が近付いてくる。そちらを見る路太の横顔はいつもの眠たげな表情に戻っており、幻舞殿直成は黙ってそれを眺めていた。