ふれる ジャヴェルは市長室に来ると、いつも居心地の悪い思いをした。
居心地の悪い、どこか落ち着かない気持ちで報告を読み上げる。手元の紙からできるだけ目を上げないようにした。幾度か居心地の悪い思いをして編み出した、一番ましな方法だ。
ましとはいっても、やはり落ち着かないのには変わりない。
いくら紙を読み上げるとはいっても完全に市長を見ないというのは不可能だし、第一失礼だ。
なんとか礼を失さない程度に視線を上げると、書類の山が目に入る。落ち着かないのはまずこれだ。
市長は裁定済みの書類を、机の上に山と積み上げておく。折りを見て役人が山を回収していく。市長の命により新しく始められた慈善計画は多く、それゆえ市長の裁定を必要とする書類も多かった。
ジャヴェルはその山と積みあがった書類が我慢ならなかった。よくよく役人も耐えているものだと思う。乱雑に並べられた書類を丁寧に整頓し、順番に並べるのはさぞかし骨が折れるだろう。
自分であれば、期日や重要度に基づいて分類し、整頓した状態で役人に渡すだろう。そうしないと済まない性分だ。
だがこれは、ジャヴェルの口出しすべきことではない。だからできるだけ見ないようにしておくしかないのだ。
落ち着きをなくす原因は他にもある。ジャヴェルが目を上げると、いつも市長の鳶色の瞳とぶつかった。ジャヴェルは再び紙の上に視線を戻す。彼の瞳の色が脳裏にちりちりと焼き付いている。
……似ている。あの囚人に。
強い目だ。何者にも撓められない意志のある瞳だ。ジャヴェルはもう一人、同じ目をする男を知っている。だから落ち着かないのだ、と思う。
似ていると思うたび、微かに燻る違和感がある。あの男の瞳は、こうしてどこか温かいものだっただろうか。
市長がジャヴェルを見る目は厳格だ。それはジャヴェルも望むところだ。だが市長の目の奥にはいつも優しさがあった。
似ている。だが違う。その引っ掛かりが、ジャヴェルを落ち着かなくさせる。
一通りの報告を終え、ジャヴェルは息をついた。市長が「ありがとう」と穏やかな声で言う。
「いえ」
短く返しながらジャヴェルは市長の瞳を見た。
やはり似ている。
瞬間、市長はわずかに眉を顰めてジャヴェルから目を逸らした。がたん、と音がして机が揺れる。
机の上から書類の山が崩れて落ちていく。いつかこうなると思ったのだ。
渋面になるのは仕方がなかった。ジャヴェルは屈んで書類を拾い集めた。
「……済まない」
市長は謝りながら自分も屈んで書類を拾い始める。
「いえ」
先ほどと同じ言葉を返しながら、ジャヴェルは紙の束を作る。
最後の一枚を拾おうとしたときだった。ちょうど、市長の手とジャヴェルの手がぶつかった。
「申し訳ありません」
ジャヴェルは咄嗟に手を引いた。引いてしまった後で、部下である自分が拾うべき場面だったと思い出す。
市長が気にした風もなくその紙を拾うと、立ち上がった。ジャヴェルも続いて立ち上がる。
「悪かったね」
「いえ……」
静かに返すと、市長がまじまじとジャヴェルを見ていた。
「……何か?」
「いいや、こっちのことだ」
市長は困ったように笑う。
「……君は冷たいのだと思っていた自分に気が付いたんだ」
「……」
意味がわからない。
「君の手は温かいんだな。他の人と同じように。それが意外だったんだ」
言葉を重ねられたが、やはりわからない。
市長はそのままジャヴェルから目を逸らした。
「すまない。忘れてくれ」
笑って言うと、市長はジャヴェルの手から書類の束を受け取ると、また机の上に山を作った。
ジャヴェルは思わず顔を顰めそうになったが、そのとき市長室のドアが叩かれる。入ってきたのは役人だった。市長の机の上の書類の山を、そのまま持ち去る。
なんとはなしに安堵していると、市長が言う。
「報告をありがとう。もう下がってもらって大丈夫だ」
「承知しました。……失礼致します」
ジャヴェルは市長室のドアを閉じたとき、ふと居心地の悪さに気が付いた。
市長と触れた手にじんわりと体温が残っている。それが、落ち着かない。
ジャヴェルは触れた指先を見つめ、そしてその手を握りしめた。そうすることで市長の体温を消してしまいたいような、あるいはその体温を刻みつけたいような、奇妙な感覚だった。
やはり市長室は、ジャヴェルにとって落ち着かない場所のようだった。