傷痕と記憶休憩がてら煙草を吸いに行くと言ったは良いものの、いざベランダに出て一服してみても全然気が休まらない。有害な煙を胸いっぱいに吸い込んで有害な二酸化炭素と副流煙を吐き出す、このワルなストレス発散法が全く効果を発揮してくれない理由は何となく分かっていた。
(“体調が悪いから寝る”なんてわざわざ言ってくるもんだから調子狂っちまう。)
吸い始めたばかりでまだまだ余裕のある煙草を渋々手すりに擦り付けて火を消し、踵を返す。室内に戻ってみると照明は点いたまま、毛布も被らないままのクレトが身体を丸めて眠っていた。普段は壁を向いて寝ているから、部屋に入って一番にこの男の寝顔が視界に入ってきてしまって何だか見てはならないものを見てしまったような気分になる。
(相変わらず血の気がねえって言うか…。)
なるべく足音を立てないようにして眠っている男に近付く。常に神経を張りつめて生きている筈のこいつが全く目を覚まさないのだから、もしかすると俺が思う以上にずっと具合が悪いのかもしれない。いつも隈は濃いのに目ばかりはギラギラして訳の分からない事ばかり繰り返すクレトを、いつだったか気力だけで生きているようだと話した事がある。
*
あの日は確か、シャワーを浴びていたらいきなり「私も入る」とか何とか言って入ってきて、あれやこれや言う暇もなく一緒に湯に浸かる羽目になったんだ。その時初めて見た傷だらけであばらの浮き出た身体にぎょっとして、
「何だか気力だけで動いてるって感じがする。」
そう言ってしまったんだっけ。(結局クレトは自分の身体の傷については教えてくれなかったが。)向かい合わせて座るにも二人で入るバスは狭いから、互いに足を曲げた状態でいなければならない。とても窮屈だった。
「……気力だけで、と言うなら。」
何かを思い返したかのように呟いたクレトの声が、薄い壁を蹴って反響している。濡れた髪は水の重みをたっぷり吸って、クセのあるそれが今はすとんとストレートになっていた。いつもと雰囲気が違う。そう考えていたら不意に骨と皮だけみたいな左手がゆっくりとこっちに伸びてきて、おぞけが立った。
「なあ、お前…………………。」
言葉が詰まる。
長袖と手袋の下にこんな細ばった、痛ましい身体を隠していたのかと改めて知って、心臓の辺りがギリギリと締め付けられるような感覚に襲われた。
「──今の私は、お前ありきで生きているのかもね。」
それを察したからだろうか。クレトはおもむろに俺の左胸に手を添えたかと思うと、次いで母親から刺された痕が残る腹や腰の傷をなぞるように指を這わせてきた。
「う…………。」
…………母親からつけられた傷はトラウマだった。ケロイドになって残ったそこは今だってたまに疼くし、過去に自分が犯した行為を責め立てているような気がして罪悪感に囚われてしまう。反射的に身体をびくつかせて呻いた俺を上目で窺ったクレトは、火に触れたみたいに素早く、だがそっと手を引っ込めた。
「………何と言えば良いんだろう。」
眉間に皺を寄せて、苦しげに俺を見る。胸の痛みが強くなった。
「お前の思い出を垣間見る度にもどかしくなる。お前の痛みを癒してやれたら、どんなに良いか。……そんな事ばかり考えて、今は生きている。」
*
気付いてみれば男が身を横たえるベッドの直ぐ傍にまで来ていて、起こさないように用心しながら毛布をかけてやっていた。死んだように眠っている寝顔を見ていると、あの時の痩せぎすの身体とズタズタに付けられた傷と、俺の傷に触れたクレトの顔を思い出して無性にやるせない気分になる。どうしてこんな気持ちになるのかは分からないが、何故だかとてもとても辛かった。
(お前もあの時、こういう気持ちだったのか?)
いつも右目にかかっている前髪を指先で軽く払ってみても、骨ばった頬に触れてみても目を覚まさない。眠っている男に何をしてるんだか、と自分を茶化さなければ、今の俺はやっていけないような気がした。