雪の中で祈る その日フレデリカは小康状態の母が入院先から家で新年を過ごすために帰ってくるので、通いの使用人とともに、ハイネセン中心部に買い物に出かけていた。
重く、灰色の雲が瀟洒なビルの間から見える空を全て覆っていた。予報では夜中には雪が降ると言っていたが、午後一時現在でもこれなのだ。早まるかもしれない。
いつもより薄暗く、人気のないビル街を、雪の予感に背中を押されるように早足で歩くフレデリカたちの横へ、腕を組んだ若い恋人たちが早足で通りがかった。男の収まりきっていない黒髪につられてフレデリカは二人を振り返った。まさかあの人は。
フレデリカは息を凝らして男を見つめた。男が隣の女性に話しかけた時に見えた瞳は緑色。鼻も記憶の中の彼より高い。別人である。
のろのろと体の向きを直し、静かに息を吐く。吐息は白くなり、やがて灰色の空にとけていった。緊張も落胆も全部一緒にに空気にとけてなくなっていく、などというやけにメルヘンチックな空想が肩を落としたフレデリカの脳裏をよぎった。
エル・ファシルの脱出行でヤン・ウェンリー中尉と衝撃的な出会いをしてからずっと、彼に似た男とすれ違うたびにフレデリカは同じことを繰り返していた。その都度、彼の任地を官報などからおおよそ割り出していてもやめられない自分をもてあましていた。
息が溶けた先の空から、ふわりふわりと白いものが落ちてきた。
「雪だわ」
様々な意匠の細工が施された端整な濃茶のビルが作り出す美しい街に、音もなく降る牡丹雪。建物と雪の、剛柔、濃淡のコントラストにフレデリカの意識がさらわれた。
この景色を、ヤン少佐にもみせてあげたい。
唐突にフレデリカの胸の内にささやかな願望が浮かんだ。この美しい光景で、疲れや悲しみを癒してほしい、気分が良いならもっと良くなってほしい。フレデリカが今見ているものにはそれだけの力があると確信できた。
「あっ雪だ!」
「ホントだ! ねえすごく綺麗じゃない?」
声の主は後ろのビルから出てきた男女二人組だった。二人とも様々な店のロゴが入った紙袋を隣り合っていない方の手にたくさんぶら下げている。彼らもフレデリカと同じように市街地に雪が降る様に目を奪われているようだ。周囲の他の通行人も皆一様に目の前の景色に歓声を上げている。よくよくみると、カップルが多いように思えた。年越しの準備のためにいつもよりいい店で買い物しようというところだろう。さっきすれ違った二人もきっと……。
もしかしたら、ヤン少佐にも、誰か大切な人がいるかも知れない。
さっきのヤン・ウェンリーに似た男の恋人は、高いヒールのブーツで背筋を伸ばして歩く凛とした美しい人だった。きっとヤン少佐の恋人も美しく、内面も素晴らしい女性だろう。だって、あのヤン・ウェンリーだもの。
フレデリカは妙な収まりの良さと切なさを感じていた。ヤン・ウェンリーはその手腕で英雄という称号まで得てしまった大人の男性だが、フレデリカは何者にもなれていない十代の小娘だ。きっともう、直接逢うことは難しいだろう。エル・ファシルでの邂逅が奇跡なのだ。
あの男が幸せでありますように。
例え他に素敵な人がそばにいたとしても、慈しみ合えて、幸せなら、それでいいじゃない。
ただのフレデリカ・グリーンヒルが今できるのは、彼のために祈ることだけだった。