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    「僕のここ空いてますよ」「ポイントカード、滑り出しは順調なようですね。やはりホリデー前に導入しておいて正解でした」
     休暇前最後の営業を終えたモストロ・ラウンジ、ジェイドが店内の見回りを行う傍らで支配人が肩を震わせて笑っている。視線の先にあるのは案の定帳簿である。あまり行儀の良いとも言えない、いやどちらかと言えば下品に分類される振る舞いだったけれど、十数分前に売り上げの計算を行ったジェイド自身が想定以上の金額に口元を緩めてしまっていたのでアズールがこうなってしまうのも仕方がないことなのだろうなと微笑ましさすら覚えた。彼は黒字とかお得とか右肩上がりの売れ行きとか、そんな言葉が大好きだ。
    「限定フードのセット数をもう少し増やせれば、原価の高い食材も気兼ねなく使えるようになるんですけど」
     しかし今増やすのはさすがに性急過ぎるから、と呟くアズールにジェイドも小さく頷いて同意を示す。彼の瞳はこちらを捉えていない。独り言であるので基本的に相槌なんかは求められていないはずなのだけれど、聞き流していたらいたでいつの間にか会話のキャッチボールが始まることもざらにあるので、可聴域にいる限りはいつでも彼の言葉に耳を傾けておくのが癖になっていた。
    「春休み前くらいまでは現状維持が無難でしょうか。……ねえ、ジェイド」
     ああほら、さっそく。
     どれだけ自分のことを気にかけているかの抜き打ちチェック――などという可愛らしいものでは当然なく、ただ単に、ジェイドなら聞いているだろうという前提のもと発せられた問いである。もしもこの場にいたのがフロイドならば声を掛ける前にちらりとでも顔を上げて、話を聞いていたかどうか確認くらいはしていたはずだ。……いやそもそも、質問を受けたのがフロイドなら大抵のことは「アズールがしたいようにすればよくね?」で済まされてしまうので、声をかけること自体をしない可能性が高いだろうか。
     顔を上げるでもなくこちらを向くでもなく、視線を帳簿へ落としたまま、返事があるのが当たり前のような態度でペンを弄ぶ指先がチョウチンアンコウの擬似餌のようで目が離せない。重たそうな睫毛が影を作っているのもまたそれらしく見えた。手袋を外した爪の先がほんの僅か、かじり取られたように歪んでいるのを苦々しく思いながらもはい、と返事をした。
    「僕も同意見です。ポイントカード制になってからのVIPルーム使用率も、その頃になればもっと可視化が進んでいるでしょうし」
     ポイントを求めて来店する客が増えればそれだけラウンジは繁盛する。ただ、どれくらいの人数がどのくらいのペースでポイントカードを埋めるのか、始めたばかりのサービスにはまだ手探りな部分が多いのも事実である。アズールの身体はひとつきりで、腕だって今は二本しかないのだから、相談待ちの列ができるほどにポイントをばら撒き過ぎるのもよろしくない。――実際のところ、ユニーク魔法を使っていた頃はもっと沢山の依頼を捌いていたのだから今だってやってやれないこともないのだけれど、再始動直後に飛ばしすぎてまた目をつけられるのも面倒だった。それに何より、アズールはまだ病み上がりのようなものなのだ。あれがどれだけの負担になったのか、どれだけの静養が必要になるものなのか、想像がつかないからこそ無理をさせるわけにはいかない。
     黄金の契約書を巡って一騒動あった直後であるにもかかわらず毎日のようにスペシャルドリンクを頼むような輩は大なり小なり厄介な依頼者だろうと予想ができるので、そういった「第一波」をやり過ごした後に改めて調整を入れるのが良いのではないかとジェイドは考える。これまでの独り言とジェイドに零した質問からアズールもおおよそ同じ考えであることが窺え、ジェイドはふっと口角を上げた。ジェイドの笑顔を胡散臭いものを見る目で眺めていたアズールがペンを置いて背伸びをする。
    「……しかし、ポイント目当てのご新規様で賑わっているうちにもう一押しはしたいですね。休み明けに新メニューのコンペでも開きましょうか」
    「それはありがたい。新しいキノコ料理のレシピを思いついたばかりで」
    「キノコは今あるメニューと入れ替えるつもりで出しなさい。数は増やしません」
    「おやおや、食べる前からそんなこと仰らないでください」
     ラウンジでの経験は確かに血肉となっていて、はじめの頃よりずっと美味しい料理を提供できる自信がある。現在採用されているキノコ料理だってフードメニューの中ではそこそこ好評を得ているというのにつれないものだ。反論しようと口を開きかけるも、売り上げの入金を終えたフロイドがタイミングを図ったように戻ってきてしまったので、ジェイドは渋々ながらも引き下がった。
    「なになに、何の話?」
    「ジェイドが」
    「ホリデー明けに新メニューのコンペをするかもしれないという話です」
     これ以上キノコの話題を引っ張るつもりはないのだと言外に告げ、アズールの台詞に被せる形で説明役を買って出る。フロイドはゆるりと首を傾げ、「キノコが増えるんじゃなきゃまあいーかな。オレが二品通せばむしろ減らせるかもだし」と目を細めた。……やはりフロイドがいるとキノコに対する風当たりが更に強くなる。また今度、日を改めて説得しようと息を吐いて、ジェイドはアズールの手から帳簿を受け取り金庫へ仕舞うと鍵を掛けた。契約書の束の代わり、というには物足りない量ではあるけれど、空のままにしておくよりはいくらか安心感があった。
     
     

     ◇
     
     
     
    「キミ達は事件の後もずっと楽しそうだね。変わらないのは良いことだ、と言うべきなんだろうか」
     錬金術の授業中、そんな風に話しかけてきたのは隣で魔法陣を描いていたリドル・ローズハートだった。ジェイドと同じ2-Eに所属している彼はクラス単位での必修授業は勿論、選択制の授業でも一緒になることが多い。リドルの選ぶ授業は総じてレベルが高い。今挑戦している錬金術も三年生で習う知識を必要とするもので、教室内にいる二年生は彼ら二人きりだった。もっとも、ホリデー間近で受講生自体が普段よりだいぶ少なくなっているのだけれど。大人数の授業でよく使用される大釜も今は魔法で小型化されて実験室の隅に積まれている。
     リドルは同級生には敬遠されがちな難易度の高い授業をよく選択するので、彼に倣って予定を組むとお手軽な自己研鑽になる。一年生の頃はアズール相手に似たようなことをしていたけれどクラスが違えば授業の進みも違う、おまけに多忙とくれば今年は同じクラスのリドルに合わせたほうがやりやすい。リドルは真似されていると気づいた最初の頃こそ迷惑そうな顔をしていたものの、二人組での作業が基本となる授業ではジェイドがいたほうが楽なのは確かであり、次第に何も言わなくなった。……そう、何も言わないのが普通なのだ。授業中の私語を許さないリドルがこうして話しかけてくることなど滅多にない、いや進級してから初めてかもしれない。普段なら、錬金術でペアを組んでも用意した材料と描いた魔法陣が間違っていないかを確認するときくらいにしか言葉を交わさないというのに。意表を突かれたジェイドはリドルの言葉が自分への質問だと気づくまでに三秒ほどを要した。
    「……君達、というのは僕と、あとは」
    「フロイドとアズールに決まっているだろう。他に一括りにされるべき集団があるのかい」
     ないとは言い切れないのでは、と言いたかったけれど、話の腰を折るつもりもなかったので無言で頷くに留めておく。不必要な揚げ足を取るよりも、リドルがわざわざ先日の事件に言及する気になったという事実のほうが興味を引いた。
    「僕達はいつでも学園生活を楽しんでいますから。……そんなに気になりました?」
    「羽目を外して怒られてからまだ日も浅いだろう。それにしては元気だなと思っていたよ」
    「それはご自身の経験と照らし合わせての?」
    「……見たままの感想で、ただの世間話だ」
    「おやおや珍しい」
     口元を隠して笑いながら、同じように私語を交えて課題に勤しむ生徒達に視線を巡らせる。机の近い何組かはジェイド達の会話が耳に入っていたようで、二人が口をつぐむと同時に不自然に作業の手が早まった。あれではろくな成果は出まい。
    「一度の失敗でおとなしくなってしまうようでは、弱肉強食の海では生きて行けませんから」
    「アズールがそう?」
    「僕の持論ですが、アズールもフロイドも似たようなことは良く言っていますね」
    「……なるほど元気そうでなによりだ」
     リドルは呆れを滲ませた表情で息を吐いて、それでもどこか安心したように口元を緩めて頷いた。この人が授業中にこんな顔をするものなのかと驚いたのも束の間、聞きたいことは聞いたとばかりに桜色の唇を引き結んだリドルが「そろそろ始めようか」と魔法陣の中心に乳白色の魔法石をふたつセットした。
    「魔法陣の中央に魔法石と炎獣の爪のかけらを一対一で、魔法陣の縁に重なるようにイルカの髭。位置は合っているよね」
    「はい、魔導書の通りに」
     ほとんど価値のつかない小さな石を鉱石に変える錬金術。媒介を変えるだけで様々な宝石を生み出すことができる汎用魔法陣の実践学習であり、二人は教卓に並ぶ多種多様なマジックアイテムの中から迷わず最難関の媒介を持ってきた。狙うは高純度の金鉱石だ。二人がかりでチェックをして、描いた魔法陣の上下から同時に呪文を唱えて魔力を流し込む。魔法陣を駆け抜けた魔力がイルカの髭と炎獣の爪を通って魔法石へ。乳白色の石が金色に輝き始めればひとまず術は成功で、あとは自分の裁量で流す魔力の微調整をして、より純度の高い金を精製できたと思ったところで変化を止めて評価を貰う。合格点を貰えれば机を片付けて終了、貰えなければやり直しだ。ジェイドとリドルは二人揃って一発合格を決めた。――しかし、同じ魔法陣を使い一緒に呪文を唱え、同じように魔力を流したはずなのに出来上がった金鉱石の輝きはリドルがやや優っているように見える。先生の講評にも差があった。さすがは学年トップの成績を誇る優秀な魔法士、魔力の調整が抜群に巧い。同学年であれに匹敵する金鉱石を作れるのはアズールくらいしか居ないのではないかとジェイドは自身の手の中の鉱石を眺め感嘆の息を吐いた。ちなみに、リドルに匹敵する優秀な魔法士たるオクタヴィネルの寮長は現在不必要な選択科目の受講を禁止されているため渋々自室で休養をとっている。
     
    「アズールに」
     片付けを終えて教室を出たところで、ぽつりとリドルが口を開く。
    「伝えておいてくれないか。……ホリデー明けになるとは思うけれど、そのうちモストロ・ラウンジに皆で食事をしに行くから、と」
     教室内で中断した話の続きなのだろう、とすぐ察しがついた。――同時に、彼が思いのほかアズールを気にかけていることにも気づく。
     先日の事件の中心には、アズールとの契約をしてイソギンチャクを生やされたハーツラビュル寮の一年生と彼らを助けようとした例の監督性がいる。加えてその他大勢のイソギンチャクの中にも、ハーツラビュルの生徒が何人も含まれていた。リドルはアズールの商売こそ快く思ってはいなかったけれど彼の実力は正当に評価しており、対策ノートの誘惑に抗えなかった生徒にはそれなりに思うところもあったのだろう。アズールもイソギンチャクも自業自得だと一歩引いて眺めた上で、それでも好敵手への情に天秤が傾いてしまったのだ。生まれてしまった同情と心配を清算するためにリドルが考えた対価が「ラウンジにマドルを落とすこと」というわけだ。ジェイドは授業中の真面目で物静かなリドルの姿を見慣れているのでハーツラビュル寮生の間で囁かれている「丸くなった」という評価にはそれほど実感がない。けれど、この気遣いが以前の彼から出てくるものかと言われると首を傾げざるを得ない。
    「人数を教えてくだされば、特等席を用意しておきますよ」
    「そこまでしなくてもいいよ。予定が空いた時間に寄らせてもらおうと思っているだけだから」
    「そうですか? では、お待ちしております」
    「……じゃあ、ボクはこれで」
     フロイドも喜びますよ、というセリフを飲み込んだのが伝わったのだろうか、リドルは僅かに眉根を寄せて、早足でジェイドを追い抜こうとする。身長に差があるため少し歩幅を広げればついて行くのは容易かったけれど、自身の兄弟のように彼にまとわりつくつもりはなかったので意識してゆっくり歩いてやることにした。ぱたぱたと、軽い足音がジェイドの横を抜けて前へ出る。そのまま離れていくかと思われた背中は廊下の突き当たりまで進んだところでぴたりと止まり、輝く瞳が再びジェイドを振り返った。
    「……さっき、変わらず楽しそう、とキミ達を評した件だけど」
    「はい」
    「一応訂正しておくよ。少なくともキミに関しては『前よりもずっと』楽しそうだ。もうすぐ冬休みに入るけれど、浮かれてはしゃぎすぎないように注意するのだね」
     立ち止まったジェイドに忠告をひとつ。フェイドが言葉の意味を噛み砕いている間に、今度こそ小さな背中は彼の視界から外れ遠ざかって行った。
     
    「……なるほど、リドルさんにはそんな風に見えていると」
     アズールがオーバーブロットした件はこの短期間で学園中に知れ渡っている。その場に居合わせた生徒の数も多く、離れた場所で突然イソギンチャクから解放された生徒たちが何事かと事情を聞きまわったのも手伝って、アズールが契約者たちを集めて事情を説明するまでもなく噂が広まっていったのだ。事情を知るもの知らぬもの、ストレートな罵倒や嫌味から心配の声まで。あらゆる声を彼らは聞いた。――聞いた上で、さして堪えた風もなく、アズールとリーチ兄弟はモストロ・ラウンジに立っている。
     元々個人主義かつ弱肉強食のNRCにおいて、面の皮は厚ければ厚いだけ得になる。わかりやすい隙も見せずジェイドとフロイドもいつも通りに振る舞ったため、噂の拡散と同じくらいに鎮火も早かった。アズール・アーシェングロットはそもそもこういう男で、契約がご破算になったことで自分も結果的に得をしたのだから、とりあえずはそれで良いではないか、と。彼らの切り替えの早さはまさにイソギンチャクのようで、ジェイドはそれなりに好感を持っている。個別に対価を差し出して願いを叶えてもらった契約者の中には拗らせた恨みを晴らしに来るものもいるだろうが、売られた喧嘩は買ってやれば良いだけの話だ。黄金の契約書がなくなったくらいでどうにかできるような相手だと見くびるほうが悪い。この世には正当防衛という素晴らしい言葉だってある。
     ジェイドはもうずっと退屈という感情を抱いた覚えがない。最近の出来事に限っても契約破棄の後始末からラウンジ立て直しの下準備、遡って写真を巡る攻防やイソギンチャク獲得のための小細工まで、忙しさに見合うだけのリターンを常に受け取ってきた。オーバーブロットで冷えた肝の分を差し引いたってまだプラスが大差で勝つ。アズールが寮長になる前よりもなった後、陸に上がる前よりも上がった後、あの蛸壷を見つける前よりも見つけた後。ジェイドは日々を楽しく生きている。まさにリドルの言葉通りだった。――ただ、陸で知り合ったリドルが珊瑚の海にいた頃のジェイドを引き合いに出すとは思えず、かつ彼の口にした「以前」という言葉の文脈がごく最近での変化を指しているのが明らかであるために、その場で頷くのが躊躇われた。発言者がリドルでなかったら言葉の裏に悪意があるものかどうか疑ってかからねばならなかったかもしれない。
     さて、心当たりはあるようで無いようで。僕はいつでも楽しいんですけどね、と小首を傾げて帰寮する。
     

     
    「アズール。おとなしくしていましたか」
    「……ジェイド」
    「全っ然おとなしくしてないよ。アズール次魔法史じゃん、別にマジカルペン持ってなくてもよくね?」
    「ちょっと、フロイド!」
     休み時間にアズールの部屋を訪ねてみると、同じことを考えたのだろうフロイドが既に居て彼のマジカルペンを頭上に掲げていた。アズールは現在要経過観察の身であり、普段なら意識せずに使ってしまう小さな魔法にも必ずマジカルペンを使用するよう義務付けられている。ウインターホリデーの開始まで、ということにはなっているけれど、今これを破ってしまうと観察期間がホリデー期間にまでずれ込んでしまうのだ。彼らが帰省をしないと知っている学園長からは休暇中の監視役は学園内のゴーストに頼むことになると思います、という駄目押しの一言まで頂いている。これはアズール本人というよりもリーチ兄弟への牽制だ。ゴーストにまとわりつかれながらターキーをつつくのが嫌ならしっかりアズールを休ませろと言われているのである。結果、これくらいなら大丈夫自分の体調は自分で分かる、としなくても良い仕事や予習をしようとするアズールを二人がかりで押さえつけることになっている。
     ただでさえ身長差がある上に、フロイドはアズールのマジカルペンを魔法で天井に張り付けてしまっている。魔法の使えないアズールではいくら手を伸ばしても届く高さではないのだ。ぎりぎりと歯噛みをしたアズールは歯噛みをしながらフロイドとジェイドをねめつける。
    「自分の体調くらいわかりますよ。……今後は」
    「一度見誤ったことは理解されているようでなによりです。休養が多くて悪いこともないんですから、僕達の心配を無下にしないで欲しいものですね」
    「そーそー、期末テストも終わってんだし一日寝ててもいいくらいじゃん。アズールが今出なきゃいけないのって飛行術の補習くらいしかなかったはずだし」
     この時期に行われる授業はそのほとんどが補習であり、上級生対象の補習は下級生にも解放されている。上級生向けの補習を取りに来る優秀な下級生と並べられ晒し者にされたくなければしっかり単位を取れ、という学園の圧がひしひしと感じられる仕様になっており、ジェイドとリドルが受けた錬金術もアズールがこれから向かおうとしている魔法史もこれにあたる。フロイドはアズールのお目付け役だ。ちなみに飛行術は純然たる補習である。ジェイドはぎりぎりで補習を免れた。晒し者になることが確定しているアズールは時期が時期なので注目を集めることが想像に易く、ただでさえ苦手な飛行術で余計なストレスを溜めるよりはと本人を交えて話し合いが行われた結果、アズールの受けたい補習も適度に受けさせるということで話がまとまった。僕の受ける授業なのだから許可も何も、と文句を言っていたアズールも心配をかけているという引け目があったのか選んだのは座学が中心で、当初はジェイドとフロイド二人で固めるつもりだったお目付け役も一人になったのである。昨日はずっとジェイドがアズールに張り付いていた。
     そんな生活が身に沁みついてしまったおかげで、ジェイドとフロイドは現在アズールの体調や彼が魔法を使うことに対して非常に敏感だ。アズールはペンを返す気のないフロイドとフロイドを咎める気のないジェイドをしばらく睨みつけていたけれど、どうしても譲れないことでない限り下手に意地を張るよりは彼らが笑顔でいるうちに諦めた方がよいという学びは既に得ていたので、溜息とともに腕を下ろした。どうせフロイドも付いてくるのだ、自分で持っていなくともすぐ近くにあるなら問題ないかという妥協だ。
    「仕方ない、魔法史が終わるまでは預けておきます。しっかり持ってなさい。行きますよ」
    「はーい。じゃあねジェイド、いってきまあす」
    「はい、いってらっしゃい」
     三人揃ってアズールの部屋を出て、フロイドを伴って鏡の間へ向かうアズールを見送ってから自室へ戻る。ジェイドの今期の授業は先の錬金術でおしまいだったので、ここからはもうホリデーまでの繋ぎのようなものだ。フロイドは次の魔法史、アズールは更にその次の時間、飛行術の補習が終われば同じ身分になる。おそらく飛行術の時間帯が学園全体を通して今学期最後の授業になるだろう。今年は補習の受講者が全体的に少なくなっているため帰省の準備を始めた生徒も多い。モストロ・ラウンジも一時休業で人の流れもぐっと少なくなり、オクタヴィネル寮内には既に浮ついた雰囲気が流れ始めている。ホリデーバケーションまであと一日。最後に少しだけ気を引き締めておくべきか。ジェイドはしばし考えて、寮服に着替えて「散歩」に出た。
     談話室で休暇中の予定を披露し合っていた集団が声量を落とし、実家に持ち帰る土産を購買で買い込んできた生徒は歩調を落として一礼する。ラウンジでの労働に慣れているオクタヴィネル寮生は足音を響かせるだけで背筋を伸ばしてくれるのでありがたい。――この効果が自身の外見の圧だけではなく「副寮長」、ひいては「アズールの側近」という立場からもたらされたものであるということをジェイドはよく知っている。アズールには自身こそがウツボの威を借りているという意識が少なからずあることも知っている、けれど、こちらだって寮長の威をしっかりと使っているのだからおあいこだ。ウツボが、タコの。思わずほくそ笑んだジェイドの横を恐る恐るといった表情で一年生が通り過ぎた。
     
     自身の足音で寮の空気を少し冷やして、その足でラウンジへ足を運んで冷蔵庫の中を確認する。休暇中、ここは三人が寛ぐためだけの場所だ。ターキーの予約は済ませたし、何日かは外食もするだろうから、特別なものを食べようと思わなければ現時点では食材の追加注文も不要だろう。普段の賄い料理と違って今日からしばらくはあるものを好きに使って料理ができるわけだ。さて今日はどうしようかとキッチンを物色し、二日ほど前に収穫したキノコ類がすっからかんになっているのを発見して眉根を寄せた。
    「夕食はメニューコンペの叩き台にしようと思っていたんですが……これは」
     どうやらすべて大食堂へ持って行かれてしまったらしい。次の収穫まではまだすこしかかる。仕方ないので無難にシーフードパスタを作ってやるかとため息をついて、時間のかかりそうな下拵えだけを済ませて自室で少し休憩することにした。
     着替えて少しだけテラリウムを弄って自分のためだけに淹れた紅茶で一息。数日前までならアズールとの契約を求める生徒がアポイントを取ろうとするのに対応したり、契約が正しく履行されたかどうかを確認していただろう時間だ。――自分ですら時間を持て余してしまうのだから、契約者を捌く必要がなくなった上に無理を禁じられているアズールはさぞもどかしい思いをしていることだろう。机の上には錬金術の授業から戻ってきたときに置いたままの金鉱石がある。当たり前のようにアズールに渡すつもりだったそれを邪魔にならない場所へ避けて、ふと、リドルの言葉を思い出した。
     
     自分たちを、否、三人の中でもジェイドを指して特に楽しそうだという評価を再度考える。
     以前より、という言葉が指すところは誰が聞いてもアズールのオーバーブロットを軸にしたものだ。――この短期間において、アズールが、でも三人とも、でもなく自分だけが特に楽しそうに見えるというのはジェイドにとって少々意外な評だった。
    「アズールが弱っているほうが楽しそうに見える、なんて、ねえ。ふふ」
     副寮長としてよろしくないじゃありませんか、と。つい漏らした独り言は彼自身の耳にも嘘と本音の区別がつきにくい平坦な調子で届き、ジェイドはまた同じ調子でひっそりと笑った。
     
     
     
     ◇
     
     
     
     オーバーブロットによる体調不良こそあれ、アズールは意識を取り戻した直後から比較的冷静であるように見えた。元イソギンチャク達や契約書を灰にした張本人との会話でも取り乱すことはなかったし、しばらく安静にしていろと連行された保健室でジェイドとフロイドの手によってベッドに押し込まれたときにも足どり自体はしっかりしたものだった。
    「……大失態だ」
     保険医が席を外したタイミングで発せられた呟きに滲んでいた悔しさは他者へ向けられたものではない。彼自身の、自制の甘さを悔やむものだった。ブロットに支配されていた頃の名残はなくジェイドも安心したものだが、つい十数分前までオーバーブロットを起こしていたとは思えない気丈さが逆に気になって「後悔は寝て起きてからにしてください」と布団を口元まで引っ張り上げたのをよく覚えている。
    「ね、アズール」
     ジェイドとアズールのやりとりを無言で見守っていたフロイドは、アズールが大人しく布団をかぶったのを見て横から手を伸ばして子供にするように頭を撫で、
    「次はもっと、うまくやろーね」
     そう言って、にっこりと笑った。
     湿度も重さもない、彼なりの最上位の労りが滲んだ台詞である。この程度で自分が彼を見限るはずがないのだと、次に大きなことを企むときにも隣に立っているつもりなのだと、疑いようもなく思っている笑顔。――というか実際、疑いようもないことではあるはずなのだ。この一件でアズールが根元からぽきりと折れてしまったというのならともかく、ヒトデのような生命力をもってしぶとく図太く踏みとどまっているのだから、何を見限ることがあろうか。アズールがここから再び飛躍するのは確実なのだから、もうそれだけで今後の面白さが保証されているようなものではないか。第三者が聞けばまだ懲りていないのかと眉を顰めそうな台詞であり、これを口にしたのがジェイドなら黒幕扱いすらされかねない台詞でもある。それなのに、フロイドのこの無邪気さときたら。
    「……ええ、そうですね」
     わかりきったことを今更口にしたところで慰めにもならないだろうと思っていたジェイドは、アズールがフロイドに撫でられるまま満更でもなさそうに微笑んでいるのを見てほんの少し後悔し――すぐに思い直した。あれはフロイドが言うから素直にアズールに響いたのだ。そも、自分が素直に「これからもお側にいますから」なんて口にするタイプではないという自覚がある。ジェイドは自分の面倒臭さを正しく理解できる男である。
     それでもやはり、面白くない気分になってしまうのは確かである。この件においてフロイドは競争相手たりえないと知っているのに出遅れたような焦燥感を抱いてしまう。ジェイドは二人の間に割り込むようにしてアズールに顔を寄せた。
    「さあ、あとは僕たちに任せてお休みなさい」
    「……ええ、そうさせて貰います」
    「目が覚めたら連絡を。迎えに行きますので」
    「わざわざそんな……ううん、いえ、お願いします」
     おやすみなさい、と返したアズールが頭からすっぽりと布団をかぶる。即席の蛸壺だな、と、ジェイドが感じたそのままをフロイドがにこにこしながら口に出していた。
    「行きましょうか、フロイド。アズールが戻るまでに寮生と野次馬を宥めておかなければ」
    「オレ絞めるの担当ー」
    「順番にしましょう順番に」
     物騒な会話と共に保健室の扉を開けたジェイドの耳に小さな空気の振動が届く。笑い声のようにも聞こえたそれが横にいたフロイドの発した音なのか、布団に包まったアズールのものだったのか、珍しいことにジェイドは特定することができなかった。
     
     アズールは翌日の朝にはもう平時と変わらぬ顔をしていた。ジェイドもフロイドもそういうものだろうと思っていたので普段通りに両脇に付いたけれど、モストロ・ラウンジの従業員も他寮の生徒ももう大丈夫なのかと言わんばかりの視線を向けていたしあのレオナ・キングスカラーでさえ僅かに目を見張っていたのが面白くて、二人はアズールの頭上で顔を見合わせて笑った。
     この日の午前中に学園長からユニーク魔法の使用を制限されたアズールは、夕方にはポイントカード制度の草案を組んでいた。過去の限定メニューを掘り返してスペシャルドリンクの叩き台を作るのだ、と夜更けに片付けも済んでいないモストロ・ラウンジへ向かおうとするものだからジェイドは小姑のように安静にしていてくださいと繰り返す羽目になった。
    「脳の回復が体力の回復に比べて早すぎるんじゃね? 軽くキュッとしとく?」
    「僕が淹れる紅茶を飲んでもまだ部屋を出ようとするならお願いするかもしれません」
     そんな会話をこれ見よがしに本人の前で交わすことで半ば強引にアズールを部屋に押し戻した。明日一緒に試してみましょう、と付け加えるのを忘れない。めげない人だ、という呟きを拾ったフロイドが「タフだよね」と笑った。
    「ええまったく、本当に」
     アズールは強い。いっそ強かであるとジェイドは思う。珊瑚の海にある頃からずっと思い続けている。

     ポイントカード制度の細部とポイントを付与するメニューの考案は翌日三人で行った。アズールは以降ずっと飄々としたものである。彼が神妙な顔をしていたのは唯一、アトランティカ記念博物館に貸し切り見学を申し入れるべく電話をしていた時くらいではないだろうか。実際現地に立ったアズールはやはり普段通りの態度で写真を戻し、存外穏やかな顔をして監督生と話をしていた。
     
     
     そうして現在へ至った彼は、静養を強いられる生活からの解放も間近に控えて日々楽しそうにモストロ・ラウンジの経営拡張策を練っている。――そう、楽しそう、という表現は彼にこそ相応しいものだとジェイドは思う。鼻歌交じりでラウンジの帳簿を眺めていた昨夜の表情など最早恍惚と言っても差し支えないように見えるのだった。
      

     
      ◇
     
     
     
    「あー、終わった終わった。やーっとホリデーだあ」
    「……今年最後の授業が飛行術の補習だったのは少々遺憾ですが、しばらくはバルガス先生の暑苦しい顔を間近で見ずに済むのはありがたいことです」
    「アズールがもうちょっと綺麗に飛べてたらそこまで間近で見ることはなかったと思うけど」
    「正論で刺すのはやめろ。分かってるんだよ」
     冬の昼は短い。アズールとフロイドが戻ってきたのはあたりがすっかり暗くなってからである。ジェイドは鏡の前で彼らを出迎えた。
    「お疲れ様です、二人とも。ラウンジの備蓄食材を使ってシーフードパスタを作る予定ですが、すぐに食べますか」
    「やった、オレ腹減ってたんだ」
    「ありがとうございます、いただきます」
     鏡の前で待っていた理由の第一であるキノコのストックが空になっていた件についてはすぐに突っ込まず、ひとまず黙って様子を窺ってみる。アズールにもフロイドにも態度に不自然さが見受けられないので少なくともフロイドは無関係だろうとあたりをつけた。フロイドが関わっているのならもう少し得意げな顔が、キノコなんて食ってやらんという露骨な意思が見えるはずなのだ。であれば主犯はアズールだ。文句を言いたい気持ちはあれど、病み上がりの偏食ということで大目に見てやることにする。ローカロリーなキノコより食べてほしいものは沢山あった。
     会話の内容から察するに、二人揃って飛行術の補習を受けてきたようだ。無理をしないようにフロイドがアズールに付き添った……のではなく、どちらかというと面白半分での暇潰しだろう。フロイドなら明るいうちに戻ってきて気まぐれに一品くらい作ってくれるだろうと考えてパスタソースに注力していたけれど、どうやら当てが外れてしまったらしい。アズールは念を押した通り魔力は消費してこなかったものの体力と気力はだいぶすり減らしてきたようなので、今からでも砂糖を使った甘いデザートを用意するべきかと思案する。そんなジェイドを見たアズールがフロイドの脇腹を軽く小突き、頷いたフロイドが大鍋に湯を沸かし始めたジェイドの鼻先に紙袋を差し出した。
    「貰った。パーティーのあまりものだってさ」
    「パーティー? それはもしかして」
    「トレイさんからです。フルーツタルトとクッキーだそうですので、タルトのほうは食後にでもいただきましょう」
     言葉足らずのフロイドを補足する形でアズールが言葉を付け足した。あまり丁寧とは言えない二人の説明を聞いたジェイドの脳裏に浮かんだのは、昼間交わしたリドルとの会話である。リドルが気にしていることをトレイが気にかけていないはずがない、つまり、彼もやはりフォローのつもりで菓子を作ってくれたのだろうということだ。アズール達に渡すためだけに作るのではなく、パーティーに合わせて「余りが出るように」作ってくれたのだろう。こと気遣いの巧さに関してハーツラビュルの副寮長に並ぶものがどれだけ居ることか。
    「……ああ、そういえば、リドルさんがそのうち皆でモストロ・ラウンジへ食事に来ると仰っていました」
     ハーツラビュルの話が出たのでリドルからの伝言も一緒に伝えておくことにする。予想外の台詞だったのだろう、アズールは意外そうに瞬きをした。
    「貸し切りパーティーのご予約……ではありませんよね。ハーツラビュルは自前の立派な森と庭を持っている」
    「ふらっと寄るからそのときはよろしく、とのことで」
    「……ふふ、でしたら少々割高ではありますがベリーミックスのドリンクでも増やしておきましょうか」
     律義な人だ、と呟きながらもアズールはベリーの仕入れ値を確認するためにラウンジ専用のタブレットを覗いている。注文はホリデーバケーション後になるだろうにアズールこそ律義なものだ。感心したジェイドとは対照的に、フロイドは「金魚ちゃん達が確実に注文してくれるんだったら普段使えない高いの買っちゃおうよ。ブランド品種のイチゴ食べてみたいしー」などとのたまっている。パスタの準備に忙しいジェイドから彼らの表情は見えないけれど、きっと二人で性格の悪そうな笑顔を浮かべていることだろう。それでこそ我が寮長と兄弟である。ジェイドはほんの少し愉快な気分になった。
     
     
     貸し切り状態のラウンジでジェイドが腕を振るったパスタを三人で食べて、紅茶と共にフルーツタルトに舌鼓を打ちながらホリデー前後の予定を確認して夕食を終えた。トレイの作る菓子の味は普段から寮生たちが褒め称えている通りのクオリティで、舌の肥えたアズールもクリームの舌触りや生地の焼き加減を楽しげに評価していたので、ジェイドはフロイドがフォークを刺そうとしていた最後の一ピースを横から掠め取ってアズールの前へ置いた。皿を取り上げられたフロイドは当然抗議の声を上げたけれど、皿の置かれた先がジェイド自身ではなくアズールの前だったのを見ると仏頂面のまま上げかけた腰をどかりと下ろす。眉を顰めたアズールが困惑の視線をジェイドへ向けた。
    「僕はいいので、フロイドに」
    「んーん、オレやっぱ要らなーい。アズールの脂肪になるタルトだから、それ」
    「しぼ、ッ」
    「そうですよ。よく食べよく眠るのが今の貴方に必要なことなんですから……っふふ、赤ん坊みたいですね」
    「……はいはい、ばぶうばぶう」
     二人に折れる気が無いと早々に悟ったアズールは投げやりな相槌と共にタルトの乗った皿を引き寄せた。――よく食べよく眠る。ブロット発散を促進するとしてよく挙げられるこれらの行動は、単純に体力回復にも有効だ。兄弟は体調回復のためと称してアズールのカロリー制限を一時的に、一方的に撤廃し、太るからという文句を無視してここぞとばかりに好物ばかりを食べさせている。その度に赤ん坊だのなんだのと似たような台詞で挑発していたものだから、最初は嫌味を返していたアズールもついにはこうして雑なあしらいで済ませるようになってしまった。この手の対応は半年ほど前から散見されるようになったのでボードゲーム部の先輩からじわじわと何かしらの影響を受けたものかもしれない。閑話休題、とにかく彼らはホリデー中にアズールの生活リズムと体調を元に戻しきるつもりでいて、アズール自身も新学期の開始前にはカロリー制限も再開しようと考えている。飽きずに同じ言葉で挑発するジェイドにフロイドが呆れて「趣味ワル」と呟くまでがワンセットだ。出涸らしのような煽り文句と適当極まる赤ちゃん言葉の応酬が楽しめるのも今だけなのだと全員が理解しているからこそのやり取りだった。
     時折ジェイドの紅茶で唇を潤しながらなんだかんだ機嫌よくデザートを食べ進めるアズールを見守って、食後は手分けして片付けにあたる。ラウンジの給仕は気分次第でサボりたがるフロイドも三人だけで食事をするときには率先して動くことが多い。皆それぞれに手際も良いので、彼らが片づけを始めてからラウンジに施錠するまでさほど時間はかからなかった。


    「ではアズール、おやすみなさい」
    「さすがにちょっと早すぎませんか。もう少しVIPルームに用事があったんですが」
    「どうせ急ぎでもない売上データの解析や資料整理でしょう。それこそ明日以降にゆっくり見たら良いんですよ」
     アズールは放っておくととにかく脳を働かせたがる。蛸壺時代からの習慣、というよりは空き時間が長すぎると不安になってくる性質なのかもしれない。昨年の同じ時期を思い起こしてみると、ウインターホリデー最終日には次の期末テスト用の対策ノートがほぼ完成していた。ジェイドはアズールの勤勉さを美徳だと感じているけれど、今ここで無理にでも休ませておかなければ後々「オーバーブロット直後に動けて今動けないことはない」などというザルのような理屈でさらなる無理を働きかねない。身体の使い方は失敗しても致命傷になりにくい学生時代に覚えておくべきなのだ。アズールだって理解はしているはずで、ここ数日は寝ろと言われたらおとなしく自室に戻っていたはずが、今日は何故だかしぶとかった。時計を確認してみると、確かに昨日よりも三十分ほど早かったかもしれない。しかしたかが三十分だ。自室でだって勉強や仕事はできるというのにわざわざここで粘るということは、もしかして寮外へ出る気でいるのだろうか。ならば余計に折れるわけにはいかない、ジェイドは笑顔を張り付けたままアズールの背中をやんわりと押す。アズールがドアに手をかけて踏ん張ったため、靴底と廊下が擦れて耳障りな音を立てた。フロイドは二人の攻防を一歩下がってにやにやしながら見物している。
    「アズールってスクリーンアウト上手かったんだねえ。今度一緒にバスケやる?」
    「フロイドはちょっと黙っててくれますか。……ジェイド、僕は別に無理をしようというわけではないんですから」
    「でしたらおとなしく部屋へ入るか、せめて何をする気でいるのか僕たちに教えていただけませんか。お手伝いができるかもしれません」
     スクリーンアウトという言葉に引きずられたのか、ジェイドも腰を落として全身でアズールに体重をかける。本気で押せば容易に勝てるとは思うものの、勢いよく突き飛ばして怪我でもさせてしまったらそれこそ本末転倒である。このまましばらく圧をかけて疲弊したところを一気に押し切るかと作戦を立ててアズールの押す力に拮抗するよう自身の姿勢を調整した。
     
     ――はずだった。
     
    「え、」
     アズールが不意に身を引き、支えを失ったジェイドの上半身がふらりと前方へ傾ぐ。バランスを保とうと咄嗟に片足を踏み出したと同時に背を押され、二歩、三歩と進んだところで振り返った先にフロイドの笑顔を見た。
    「んじゃアズール、あとよろしくー」
    「ええ。明日の朝まで寮内の雑事は任せましたよ」
    「はぁーい」
    「……はい?」
     自分を挟んで行われる会話に疑問を抱く間もなく、ジェイドの目の前で扉が閉まった。アズールは大人しく室内にとどまっているので彼の目的は達成されている、が、扉の隙間から見えたフロイドの表情と背後から聞こえる忍び笑いがどうにも不穏である。加えて、目の前のドアノブには数分前までは無かったはずの魔力の匂い。攻撃魔法ではなかろうと判断して触れてみると僅かに痺れる感覚がある。兄弟の気配は既に遠ざかっており、振り返ってみればアズールも実に楽しそうな顔をしてジェイドの行動を見守っている。
     不用意に口を開く気になれず、ひとまずドアに向き直って掴んだドアノブを回す――回らない。鍵がかかっているわけでもないのに、右にも左にも動かなかった。鍵の代わりに封印の魔法がかかっている。ちょっとやそっとで破れるような代物ではなく、ドアノブに触れ続けていることで自身の魔力すら奪われるような感覚に襲われたので、ジェイドは溜息と共に腕を下ろして振り返った。満足そうな、してやったりと言わんばかりの笑顔にほんの少し眉間に力が入る。
    「……アズールは一人で眠れない泣き虫さんに戻ってしまったんですか」
    「ええまあ病み上がりなもので、ブロットを溜めた副寮長が横にいると連鎖的に体調が悪くなってしまうんですよね。なにせブロット溢れたてなもので」
     やられた、と、唇を噛んだ。




     


     多少無理をしている自覚はあった。もとから多忙な寮長がダウンすれば副寮長たるジェイドにしわ寄せが来るのは当然のことで、アズールもフロイドもそれは当然理解していて、だからこそここ数日はジェイドの言う通りに動いてくれていたのだ。アズールは無理をしようとしなかったし、フロイドは言いつけられた仕事をサボることなくすべて片付けた。寮生も良く協力してくれたので不満は出なかったと思っている。……ただ一点、フロイドがたびたび漏らしていたぼやきを除いては。フロイドはジェイドの目を盗んでアズールに相談を持ちかけていたようだ。
    「元々病弱だったお姫様でもないんだし、さすがにアズールはもうちょっと動けるでしょ。……と、フロイドに相談されたときは笑いましたね。ああやっぱり僕無駄に休まされていたんだなあと」
    「……沢山休んで悪いことはないと思いますが」
    「そういう台詞は自分の体調管理を完璧にしてから言いなさい。お前らしくもない」
     相手がアズールであることを差し引いても、他人から自分らしさに言及されるのは決して愉快なものではない。しかし悲しいかな反論の余地はなく、まったくもってその通りだった。
     アズールに無理をさせないための無理を続けた結果、アズールと共に彼の部屋に閉じ込められる羽目になっている。先程の会話からもアズールとフロイドが結託していたのは明らかで、部屋の入り口でアズールが早寝を渋ればジェイドは彼を室内に押しやろうと実力行使に出る、というところまですべて予想されていたのだと思うと悔しいやら恥ずかしいやら。反論を諦めて苦笑することしかできない。不覚としか言いようがなかった。
    「お前が僕を休ませたいのはわかります。僕もまだ本調子とは言えませんから。……しかし、共倒れになっては元も子もないでしょうに」
     アズールはやけに饒舌だ。彼の仕事を減らし交渉ごとの半分以上をジェイドが担当することで声を出す機会も減っている。他人をやりこめる快感にも飢えていたのかもしれないとやり込められながらぼんやりと考えた。対象が自分でなければおやおやと笑って眺めていられたのに。
    「この扉は朝まで開きません。フロイドが作った封印の札には魔法陣の他に『触れるべからず』という寮生へ向けた注意書きも書いてありますから近づく者もいないでしょう」
    「フロイドが一人で作った札なんですか? 随分と強力な封印でしたが」
    「調子の良さそうな日を選んで何度か試作を重ねたんです。間に合わなければ僕が魔法を重ね掛けすることも考えたんですが、結局必要ありませんでした」
     なるほど、つまりフロイドもそれだけ本気で自分を働かせまいと考えたのだ。ジェイドは瞬時に理解した。こうなってしまえば流れに乗る以外の道はない。ジェイドの諦念を察したアズールがバスタオルを投げて寄越した。
    「これは?」
    「貴方まだ汗も流していないでしょう。僕とフロイドは飛行術の後にシャワールームに寄ってきましたから、ゆっくりしてきていいですよ。着替えは昼間のうちにフロイドが貴方のクローゼットから拝借してきてくれたものがあります」
    「……ありがとうございます、何から何まで」
     半ば追い立てられるようにしてジェイドはアズールの部屋のバスルームまでやってきた。脱衣場にはアズールの言う通り、ジェイドのパジャマと下着が一式揃えられている。洗面台の横には未開封の洗顔料やボディソープがさあ使えたばかりに並んでおり、閉じ込められたと気付いてからずっと能面のような微笑を貼り付けていたジェイドはここでとうとう耐えきれずに小さく吹き出した。分かりやすい用意周到さが逆に可愛らしい。棚の奥を覗くとアズール自身が普段使用しているらしい小瓶がいくつか並んでいるのも見えたけれど、折角用意して貰ったものを使わないわけにもゆくまいと素直に新品を手に取った。

     人魚への配慮として、オクタヴィネル寮内にはバスルームの備えられた部屋が多い。気晴らしに泳ぐのならば外の海でも足りようが、ヒレや鱗の手入れは基本的に皆自室で済ませてしまいたいと思うからだ。寮長室のバスルームはアズールのために改装されたわけでもなく「人魚が寮長になったときのため」を想定して作られたらしい汎用性の高い造りになっている。ジェイドは自室の簡素なバスタブもそれなりに気に入ってはいたけれど、寮長室は桁違いに居心地がよかった。ただまあ、タコの人魚が気兼ねなく寛げるものかと言われるとよくわからない。アズールのことだから蛸壷のひとつでも常備しているかと思ったのにそれも見当たらなかった。
     副寮長という立場ではあるものの、ジェイドは基本的にアズールのプライベートスペースを侵すことはない。立ち入るのは専ら勉強机のあるあたりまでで、すぐ近くにあるベッドやクローゼットも勝手に触ることはないしそもそも長居をすることもなかった。それなのに、ジェイドは今ベッドもクローゼットもトイレも通り過ぎて一番奥にあるバスルームに立っている。良いのだろうか、と、柄にもなく不安を抱く。あまり長居をするべきではないだろうと結論付けて手早く洗うべき場所を洗ってしまうことにした。バスタブに水を張ることを想定しているのか、アズールが好んで使用しているバスソルトもしっかり新品の個包装で準備されていたけれどこれは濡れない場所に避難させておくことにする。ホテルのアメニティのようだと感心していると、扉の向こうにひょこりと人影が現れた。たいした距離でもないというのにぼんやりと頼りない輪郭しか浮かんでこないことに目を眇め、一拍遅れてバスルームの扉が半透明のフロストガラスであることを思い出す。反射的に逃げを打とうと浮かせた腰が息を吐くと同時にすとんと落ちた。
    「アズール?」
     何かあったのかと声をかけてはみたものの、自分が裸体で相手だけが服を着ていることがどうやら居心地の悪さを生むようだ。海の中で人魚の姿だったなら意識すらしないはずの行動に羞恥を覚える滑稽さが気になって、返事を待たずにボディソープとスポンジを手に取った。勿論そんなジェイドの葛藤も裸体もアズールにはぼんやりとしか見えていない。声をかけられて初めて浴室へ視線を向けたアズールは「いいえ」とジェイドに見えるよう緩やかに腕を上げた。
    「歯を磨きに来ただけです。既に見つけたかもしれませんが、お前の歯ブラシもここにありますからね」
    「新品ですか?」
    「当たり前でしょう、こんなものわざわざフロイドに持ってきてもらうものでもない。使い終わったものは捨てるでも置いておくでも、好きにしなさい」
     かたん、と、抱えていたボディソープの小瓶が濡れたタイルに滑り落ちる。拾おうとしたはずの腕はどういうわけだかシャワーのハンドルへと伸びており、勢いよく放たれた水流でバスルームはたちまち泡で満たされた。
     フロストガラス越しにぼんやりと見えていたアズールのシルエットも泡と湯気であっという間に隠された。この場に存在する音すべてが水音に負けてしまったため視覚も聴覚も役に立たず、ついでに嗅覚もボディソープのおかげでほとんど働いていないので、彼がその場で歯磨きを始めたのか手を止めてこちらを窺っているのか、あるいは何か他のことをしているのかを確認する術がない。水を止める選択肢は無く、かと言って開けて確認するわけにもいかず、数秒の逡巡の後ジェイドは小瓶に残ったボディソープも全部手のひらにぶちまけ思いきり泡立てて身体を洗った。人魚が消えるときにはこれくらいの泡が立つのだろうか、これでもまだ少ないくらいだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら身体に付着したものも含めた浴室内の泡をすべて流し切る。ガラスの向こうに人影は無かった。
     
     
     
     
    「早かったですね。もっとゆっくり浸かってきても良かったのに」
     用意された着替えにおとなしく袖を通し、言われた通りに歯も磨いて戻った。ベッドで本を読んでいたアズールがジェイドの足音に気付き故郷の色の瞳を瞬かせる。返事をする前にばさりと布団を捲られた。
    「どうぞ」
     ここ空いてますよ、と、細い指がシーツを撫でる。空いてますよではない。わざわざ付け直した微笑みの仮面が早速固まったのを自覚した。
    「どうぞとは」
    「他にどこで寝る気ですか。大丈夫ですよ、二日に一度はフロイドに絡み付かれて寝ているお前ならフロイドより嵩張らない僕とも眠れるでしょう」
    「アズールはフロイドではありません」
    「何ですかその動物言語のテキストみたいな台詞は。当たり前でしょう」
     いいから来い、と幾分強めにシーツを叩かれた。何を企んでいるのだろうかこのタコ。アズールの真意を測りかねている間にも眉間の皺が深まっているように見えて、渋々ながらベッドへ乗り上げる。ぎしり。ジェイドの体重を受けて隣に座るアズールの頭が少し沈んだ。
    「ふふ」
     居心地の悪そうなジェイドとは対照的なアズールの笑顔である。ジェイドは生まれてこのかたフロイド以外の人間あるいは人魚と同じベッドに入ったことがない。ああそうだ相手の嫌そうな顔を見て喜ぶのは自分もこの人も同じだったのだ、褒められたものでもない事実を思い出して息を吐いた。
     温かい、と、最初に浮かんだのはそんな感想だ。密着しているわけでもないのに、隣にいるというだけでうっすらと熱が伝わってくる。水中では感じ得ない、人間の体温があってこその感覚だった。
    「あの、アズール、これは」
     ……しかし、自分からこちらへ来いと手招きをしておきながらアズールからは特に何のリアクションも無い。隣にジェイドを寝かせられればあとはどうでもいいと言わんばかりの仕草に声を上げるも、アズールは小首を傾げてみせるだけだった。
    「僕からはなにも。おまえがその気になるのを待っているだけなので」
    「え、」
    「ああ勿論、このまま寝てくれてもいいんですよ。お前が僕にさせようとしたのと同じ、この時間から寝てしまえば疲れもブロットもすっきりするでしょうから」
    「いえ、先程の……」
     その気とはどの気のことだと問うだけの度胸は持ち合わせていなかった。否、この場で考えなしに煽りになり得る台詞を口にするほど思考が鈍ってはいなかった、というべきか。アズールは台詞の半ばで口を噤んだジェイドにちらと視線を送り、引き結ばれた唇が動く様子がないのを確認すると一度は閉じた本を再び手元に引き寄せた。エレメンタリースクールから現在までの数年ですっかり人の目を無視するのが上手になってしまった彼は一度決めたら頑としてこちらを見ない。周囲に気を配っていないわけではなく、例えばジェイドがベッドから降りようとしたり勝手にクローゼットを漁ろうとすればすぐに反応するのだろうけれど、とにかく余所見をしないのである。アズールが読んでいるのはどうやら巷でベストセラーになっている娯楽小説で、魔術書や学術書の類ではないため「アズールを休ませる」という当初の目的は一応達成されてはいるようだった。しかしこうなるとジェイドはいよいよ手持無沙汰だ。アズールの目論見が予想できない現状では下手な行動も起こせない。幸いにしてアズールは長期戦も覚悟しているようなので――本人も朝まで部屋を出られないため時間を持て余し気味なのだろう――ジェイドにも考える時間はそれなりに与えられているはずだと考えた。腹の探り合いは嫌いではない、どころか好物の部類に入る。休めと言われたのだから休んで文句を言われることはないだろう、そう考えたジェイドはひとまず寝転がって大きな枕に後頭部を埋めた。
     枕と布団からふわりと漂う香りがある。石鹸とコロンの香り。どちらもアズールが好んで常用しているものだ。隣で本人が同じ香りを纏わせているというのに、残り香は残り香で妙な心地の良さを与えてくれる。……試しに目を閉じてみる。このまま本当に眠ってしまうのも選択肢としては悪くなさそうだ、と考えた、次の瞬間。
     アズールの手の平が、ジェイドの目元を覆うようにそっと落とされた。瞼越しに感じていた照明の圧が消え、代わりに額と瞼にじんわりとした熱がもたらされている。そんな風には見えないけれど、アズールは自分よりも体温が高いのだろうか。彼の触れた部分は勿論触れていないはずの部分からも少しずつ熱が移されて、身体のあらゆる部分が少しずつ温度を上げた気がした。眠りに落ちる直前の状態を眠気が訪れる前に再現されている、そんな感覚だった。
     
     
     リラックスしている。――させられている。これに抗うには瞼を上げて起き上がるしかないと分かっているけれど、すっかり懐柔されてしまった理性はそれを許さない。本能と感情にべったりとすがりついている。
     だって、アズールの慈悲はいまジェイドだけに向けられているのだ。寮生たちを、いいや学園の内外を問わず、契約を望むものすべてを包む海の魔女の慈悲が彼ひとりのために。何より大事な半身と分け合うこともせずに。これを贅沢と言わずなんと呼ぶのだ。
     ここまで来たら負けを認めるしかない。甘い蜜を口の中にたっぷり含まされたような気分で、瞼を覆うアズールの手を両手で掴んで額に押し付けた。
     
     



    「……気づいて、いたんです」
     ぽつり、と、言葉を零す。
    「貴方が試験対策ノートの改訂に没頭するあまり睡眠時間を削っていたことも、短期間で二百人を超える生徒と契約したことで魔力を消費していたことも、睡眠不足と食事制限でブロットの解消速度が鈍っていたことも、それらを改善しようと考えつかないほど神経を尖らせていたことも。気づいていたのに、止められなかった。……止めな、かった」
     オーバーブロットを引き起こすのは許容量を超えたブロットの蓄積、ブロットの解消を妨げるのは心身の不調。アズールの魔法石からいつまでも陰りが消えないことにジェイドは早くから気づいていたし、原因の見当もついていた。
     原因は勿論、短期間に一気に増えた黄金の契約書だ。イソギンチャクを一匹作るために必要な魔力はそう多くもないけれど、一人一人を個室に案内して個人情報保護に配慮しつつ契約内容を確認してサインをさせる、という一連の流れがまあなかなかに面倒臭い。ジェイドとフロイドの宣伝がここまで効くものかと笑いを通り越して呆れたこともある。試験対策関連の契約に加えて通常の契約、こちらは常連も多くそれなりに魔力を喰う依頼もあるもので、結果としてアズールはブロットを溜め込み大量の契約書を得た。
    「監督生さんの件が無くとも、今年は誰かしらが契約書を狙う可能性がある。そんな予想は立てていましたよね、僕たち。だからこの手は今年限りにして、来年はまた何か別のうまい手を考えようとも。……今年さえ凌ぎきれば、契約書の保管場所も考え直して、今度はもっと大きなことができる、と……」
     契約書を無敵に見せるトリックは監督生たちに見せたもの以外にもいくつか考えてあった。何度隙を突かれようが誤魔化しきる自信はあったのだ。……それが敵わなかったのはアズール自身が見せた弱味のせい、ひいては疲労で冷静な判断力を欠いていたせいだ。彼の思考がうまく回っていればさすがにああまで露骨に金庫への執着を見せることはなかったはずだ。何が失敗だったのかと言われれば間違いなくメンタル管理だとジェイドは今なら即答できる。
     あらゆることが少しずつ想定の上を行っていた。イソギンチャクの人数も契約書を狙う生徒の計画も、それらを御すために神経を張り詰めていたアズールの緊張も。……けれど。
     
    「けれど、面白かったでしょう」
    「……ええ、それは。勿論」

     面白かった。楽しかった。アズールの駒のように振る舞って、プレイヤーの悪手も駒である自分たちがひっくり返してやろうと思っていた。プレイヤーたるアズールが悪手を打つことを望んですらいた。
     それでも最終的に勝者であるのがアズールなのだと、そう、思っていたのだ。
     傲慢か、怠慢か。アズールが万全でないことを知りながら刺激を求めてそれを放置していた。放置してしまったがためにああなった。果たして本当にそうだったのか、今さら確認などできないからこそ後悔にも似た思いがジェイドには常に付き纏っている。
     いつまでも気にするものではないと頭では理解している。だから口には出さなかったし、態度にも出さぬよう一応の努力はしていた。アズールとフロイド以外にはそれほどの違和感を与えずに済んだだろうとも思っている。……アズールがこんな風に露骨に甘やかしにこなければ、彼にだって漏らさずに少しずつ折り合いをつけていこうと考えていた蟠りだったのだ。けれどもう駄目だ、一度気を緩めてしまったら、ささくれだった思いを吐露する感覚を知ってしまえば止められない。グラスに注ぎ続けた水が表面張力を破る瞬間のようだとジェイドは他人事のように考えた。海の中では観測できない事象に喩えてはみたものの、海の中なら素直に告白できたのかと言われると分からない。そもそも陸に上がらなければ起こり得ない事態だったのだし、陸に上がらない選択肢も彼らにはなかったのだから。
    「道理で休め休めとしつこいと思いましたよ。元々ホリデー期間をブロットも含めた体調管理のための休養に充てようという話だったじゃないですか」
    「わかっています。自己満足だ」
    「どうせお前が止めたところで止まらなかったですよ、僕は。お前たちだって記憶を消して同じ環境に置いてみても止めなかったと思っていますし」
    「……わかっています。僕たちがあの状況でリスクを恐れる選択をするはずがない。どうしたってああなったでしょうね」
    「僕が言うのもなんですけど、難儀な男ですねえ」
     遺憾ながらそれもジェイド自身が一番よく分かっている。繰り返すが面倒臭い男であるという自覚はあるのだ。軽く唇を噛む。「こら」とたしなめるような声を出したアズールが額に乗せた手を動かそうとするので咄嗟に両手に力を入れた。まだ視線を合わせる勇気はなく、そして彼の皮膚から伝わる体温は感じていたい。縋るように掴んだアズールの手を離せずにいると、ジェイドを跨ぐ形でシーツが僅かに沈み前髪の一房へアズールの指が通る。
     アズールの、両の手のひらがジェイドに触れていた。

    「僕は今、普遍の目標へ新たなアプローチを始めたところで毎日がとても充実しています。それについてはどう思いますか」
    「思ったより立ち直りが早くてちょっと笑いました」
    「嘘をつけちょっとじゃなくて大笑いだっただろう。……どうです、楽しんでいますか、僕を」
     それから、世界を。
     ついでのように付け足された単語の大きさに思わず笑みを零す。予定調和の退屈な世界を楽しく泳いでこられたのは間違いなく愛すべき片割れと、この蛸の人魚がいたからだった。
    「ええ、とても」
     失った契約書を嘆くのではなく、課せられた制約に不満を漏らすでもなく、ならば今度はこうしようと力強く立ち上がる姿を見た。
     アズールが持つのは万能の力ではない。いつまた迷走しないとも限らない、暴走だってするかもしれない。何が起こるかわからない。……そこがたまらなく眩しくて面白いのだと、前以上に賑わうラウンジを見ながらジェイドは改めて感じたのだ。
     
    「……そうですね、アズールの執念深さと強さは僕たちが一番よく知っていたはずでしたのに。立ち上がって然るべきだと」
    「調子の良いことを。少なくともあの瞬間は折れたと思っていただろう、ちょっとゲンメツするくらいなんだから」
    「あれはフロイドの台詞ですから」
     ぴしゃりと言い放つジェイドに、アズールが喉の奥で小さく笑う。白々しい、と思っているのかもしれない。口に出すか出さないかの差こそあれ、あの局面でのジェイドとフロイドの感想は概ね一致していたと言って良い。――より正確に表現するならば、ジェイドは幻滅というよりもほんの少し「諦めた」。彼が立ち上がらない可能性を考えた。考えてしまった自分に対する苛立ちもここ数日の過保護の一因になっている。
    「……ジェイド」
     無意識に込めた力が爪の先をアズールの手の甲に食い込ませる。ジェイドに馬乗りになったまましたいようにさせていたアズールが僅かに眉を顰めて、それからそっと、髪を撫でていた手で頭の天辺を撫でた。掴まれた手のひらの下でジェイドが弾かれたように瞼を開く。アズールはジェイドの旋毛を探るように指を遊ばせながら、歌うように囁いた。
     
     
    「僕が立ち上がったのは、お前たちがまだ隣にいたからですよ。……もうひと暴れするのを期待したのか素直に再起を信じたのかは離れそびれたのかは置いておきますけど、とにかく現状維持を選んだでしょう。だからです」
     まだ僕に楽しみを見出す気があるのなら応えてやらねばならないし、本当に幻滅したのならその評価を覆して目にもの見せてやらねばならない。僕を舐めるな。言い放ったアズールの瞳は野心に燃えていた。……燃えているはずだ、と、視界を塞がれたままのジェイドも自然にそう感じた。
     同時に、彼の瞳が見たいと強く思った。

     
     
    「アズール、手を、離してもいいですか」
    「掴んでいたのはジェイドでしょう」
    「貴方の、顔が見たい」

     言葉を飾る余裕はない。強張っていた腕をぎこちなく下げると、アズールの手がジェイドの額をひと撫でしてから持ち上げられた。
    「アズール」
    「はい」
     アズールはジェイドが照明を真正面に見ずに済むよう意識して上体を傾がせている。やや逆光ではあったものの、彼の瞳は想像した通りの鮮烈さでもって輝いていた。否、想像していたよりもずっとうつくしく見えるかもしれない。気がつけば両手を伸ばして彼の上体を引き倒していた。
    「わ、」
     バランスが崩れ慌てたように腰を引くアズールを長い腕で絡めとる。降ってくる上半身は自身の胸で受け止め、そのまま彼の肩口に顔を埋めた。
    「……おい」
    「すみません、やっぱりまだちょっと顔を見せたくなくて」
    「なら僕が退いたほうが良いのでは?」
    「アズールの体温は落ち着くんです」
    「お前……」
     柔らかいところを曝け出した余韻が抜けきれていないのか、普段ならまず出ない思ったままの言葉が脳の精査を受けずに飛び出している。ジェイドはそんな風に感じたしアズールもおそらく似たような印象を受けただろう。慣れないストレートな表現に耳元が赤らんでいたのだけれど、悲しいかな自身がこれ以上の無様を晒さないよう必死で顔を隠すジェイドの目にはまったく入っていない。ただ恥ずかしさに耐えながら、吐き出して整理のついた己の感情に名前をつけるのに必死だった。

     心臓が煩い。これをアズールに聞かせ続けるのと崩れきった顔を晒すのとではどちらがマシだろうか、真剣に考え出したところで「ところで」とアズールが口火を切った。
    「お前のこの馬鹿みたいな心音を聞いた上で、僕のこの阿呆みたいな顔を見て欲しいんですけど」
     


    「僕たちのこの距離、このまま継続するならなにか言葉が必要だと思いませんか」
     好奇心に負けて顔を上げた先、それは美味しそうに茹だった幼馴染みの蛸を見た。


     
     
    咲月 Link Message Mute
    2022/06/02 18:47:21

    「僕のここ空いてますよ」

    ##二次創作 ##腐向け
    #ツイ腐テ  #ジェイアズ

    3章直後。アズールの世話を焼いていたはずがいつのまにか自分がよしよしされていたジェイドの話。助演男優賞フロイド。
    不安とかいう感情を滅多に抱かないせいで自分が不安になってることが分からないジェイドとマイナス感情には比較的聡いアズール破れ鍋に綴じ蓋であってほしい。甘酸っぱい雰囲気が多少なりとも出ればいいなという気持ち。

    初出はpixivです。

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    • 波打ち際の七題 ##二次創作 ##腐向け
      #ジェイアズ #ツイ腐テ

      Twitterでちまちま書いてたジェイアズSS詰め。pixivにも置いてあるやつ。付き合ってたりまだだったりフロイドが茶々入れてたり突っ込み入れてたりします。
      人魚めちゃくちゃかわいいなって思ってます。かわいい。

      1p タピオカと陸に浮かれた話。フロ視点
      2p 初めてのサウナ。のぼせるのは必然
      3p 二章時点のアズール。漠然とした
      4p タコが食べたい。惚気のようなもの。
      5p 蚊に嫉妬するジェ
      6p ドロライお題。アイスティー
      7p 三章直後。自覚してなかったわけじゃないけど。
      咲月
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