波打ち際の七題太陽に浮かれる
タピオカという食べ物を知ったのは、NRCへの入学が決まってすぐの頃だった。変身薬の効き目にも慣れて、砂浜から少し離れて海辺の街を歩いていたときに、すれ違う同年代の子供がみんな同じ店のドリンクを持っていたのが気になって追いかけたらタピオカドリンクの店に行きついた。初見では魚卵にしか見えなくて、ドリンクに卵入れるだけならアズールの実家でもすぐ真似できるんじゃね、って話をしながら買って飲んでみたら全然卵じゃなくて。調べてみたら作るのに手間もかかるしデンプンの塊だしで、こんなもの飲んだら夕食抜かなきゃいけなくなるとかなんとか、アズールが随分慌てていたのが面白かった。でも甘くておいしかったんだよね。タピオカの正体が分かった時点でアズールはジェイドにドリンクを渡してしまったけど、視線だけはちらちらとジェイドの口元を追っていたみたいだったから分かりやすいタコちゃんである。ジェイドも珍しく居心地が悪そうだったからじゃあオレが飲んだげよっか、って手を出したら物凄い勢いでガードされたのもよく覚えている。
そういえばこんな飲み物あったな、って思い出したのはついさっき。寮対抗マジフト大会に三軒もタピオカドリンクの出店が出ているのを見かけたからだ。入学したてでホウキどころか足の使い方もまだたまに覚束ないオレは選手選考からは普通に漏れたし、オレが駄目だったものをジェイドやアズールが選ばれるはずもなく、今日は適当にサボってオクタヴィネルの海でのんびり……していたかった。本当は。アズールが運営の手伝いなんて引き受けなかったらそうなっていたはずだ。面倒臭いことこの上なかったけど、来年僕がもっとうまくやるための下見ですなんて言われたらじゃあオレもやる、って答えちゃうじゃん。反射みたいなもんじゃん。
流行自体はNRCに入学してからもずっと続いているみたいだった。三軒あった出店はどこもそこそこの列が出来ていて、甘党の生徒だけじゃなくて外部から来た女の人とか親子連れとか、わりといろんな層に人気があるみたいで感心した。オレとジェイドも一番コスパの良さそうな店に並んで飲んでみたけどやっぱりおいしかったな。ジェイドは初めて飲んだ時と同じタピオカミルクティーを頼んでいて、茶葉の産地が気になるのかタピオカを邪魔そうに吸い込んでいた。
「そんな顔して食うくらいなら普通のミルクティーにすりゃいいのに」
「でもフロイド、僕みたいな燃費の悪い身体には丁度いいんですよ、これ。手軽にカロリーと糖分が摂取できるじゃないですか」
「わー、アズールに聞かれたら殺されそ」
「フロイドのそれは、ソーダですか?」
涼しい顔で露骨に話題を逸らしにくるから笑ってしまった。オレしかいないと思うと急にこうなることがよくあるから、ジェイドもちょっと疲れているのかもしれない。アズールの前でかっこつけるの止めるだけでだいぶ楽になるとは思うんだけどな。
「うん、トロピカルソーダだって。陸から見た海みたいな色で綺麗だなって思って」
オレの選んだドリンクは青いソーダにタピオカが沈んだもので、ミルクティーと比べると全体的にすっきりしている。炭酸の刺激でタピオカの甘味もあまり感じない気がするけど、これはどちらかというとこのキラキラした見た目を重視したドリンクなのかもしれない。
「なるほど甘さ控えめで目にも涼しいと」
「そういえば、最近アズール『映え』みたいなのよく研究してるよね」
これ良いんじゃね? と呟いた途端ジェイドが無言でまた並びに行ったので今度こそ声をあげて笑ってしまった。アズールが開店を目論んでいるモストロ・ラウンジ(仮)のメニューとして、海の色をしたトロピカルソーダは寮のイメージを考えても悪くないんじゃないかと思う。ジェイドのスイッチもうまく入ったようなので、タピオカが入るかどうかはともかく、きっと味も見た目もアズールを満足させるメニューが考案されるんじゃないだろうか。本当はアイデア提供ってことでオレの名前も出してもらいたいところだけど、ここは兄弟に華を持たせてやろうじゃないか。
あのジェイドがあんな風にわかりやすく浮かれて、あんな風にわかりやすくアズールの機嫌をとりに行けるのはきっと今だけだ。陸の生活に慣れてしまったらこうはいくまい。押せるうちにどんどん押しておかなければ。
食欲ではなかった
空の色であったり土の感触であったり太陽の鋭さであったり、海の中にもあったはずのことが陸に上がってみるとまるで印象が違う、なんて経験はざらにある。同じところを探すほうか難しいと言っても良い。NRCでの生活が始まって一週間とすこし、僕は今日もまた海との違いをひとつ見つけた。
「汗、って、こんなふうに毛穴からじわじわと湧き出てくるものなんですね。気持ちいいのか悪いのかよくわからない」
「……おまえ本当にこれが気持ちいいって思ってます? 五分で逃げたフロイドのほうがまだ正常な感覚を持っている気がしませんか」
「不快なのは髪が張り付く感覚であって、発汗そのものではないのではないかなと」
サウナ、という娯楽を知ったのはつい先日のことだった。炎天下での体力育成の授業を終えて、理屈では知っていた汗という液体に対して(主にフロイドとアズールが)ひとしきり愚痴を零していたところへ通り掛かったサバナクロー寮生が教えてくれたものだ。限界まで我慢して水風呂に入るのが気持ちいい、いや水分補給をしながら適当に楽しむのがいい、と彼らの間で議論が白熱してゆくのを眺めているうちになんとなく興味が湧いてきて、次の休みに行ってみるかと三人で出かけることになったのだった。ーー結果、一番乗り気だったフロイドが五分で脱落し僕とアズールだけが異常な温度と湿度の部屋に残されている。そもそも本当に陸の人間に人気の施設なのだろうか。先にアズールにも告げた通り僕はそれほど不快でもないのだけれど、本当に人気があるのならどこかの寮に設置されていてもおかしくはないし、ここにももっと人がいるはずではないのだろうか。
「……それにしても、随分」
あつい、と目を閉じたアズールの睫毛に水滴が溜まっているのを見る。海の中では涙すら一瞬で周囲に溶けていたのに、朝露のような滴が身体のあちらこちらに生じているのだからなんだか面白い。瞬きの動作で睫毛の先がほんの僅かだけ下を向き、汗の球は肌に同化して流れて行った。
水の中で漂っているのが当たり前だった頭髪が湿って肌に張り付いている。首筋から鎖骨へ、耳の下から背中へ、いくつも汗の道ができている。人間の身体もこれだけの水分を蓄えているのかと思うと感心するほどだった。
ーーここで考慮すべきだったのは、僕も同じ状況であるということ。不快感が少なかった分、自身の脱水症状に気付けなかった失態。
「アズールあなた」
茹で蛸みたいになっていますしそろそろ出ますか、と、聞くつもりだったのだ。誓って嘘ではない。
「えっちですね」
「は?」
口を滑らせたことに気がつくよりも先に視界が暗くなっていた。
「ジェイドさあ、しんどくなる前にちゃんと自分で出てきなよ。あんなとこに長時間いたらタコちゃんの匂いも充満するし感覚麻痺するに決まってんじゃん」
「フロイドそれは僕の分泌する麻痺毒の話をしています?」
「アズールもちゃんと水飲んどきなよ、水分補給のことバスケ部に見学に行ったとき一番最初に言われたよオレ」
さてこれから何をどう挽回しよう。フロイドとアズールの会話を遠く聞きながらしばらく脳を休ませることに決めた。
表で二章が進行中
ジェイドがマジフト大会の代表選手に抜擢された、という報せを聞いたとき、僕の第一声は頑張りなさいでもおめでとうございますでもなく「フロイドではなく?」だった。詳しく聞けばフロイドは早い段階で決定していたのだという。そりゃあそうだと納得して浮かせかけた腰を下ろしたところで、報せを持ってきたジェイドその人がわざとらしく肩を落としてため息を吐く。
「もう少し喜んでくれてもいいんじゃないですか、アズール。いくら代表選手になれないからって、寮長なのに飛行術の成績がふるわないせいで代表選考すらマジフト部員に任せてしまったからといって、副寮長の健闘を祈るくらいしてもバチは当たらないと思いますよ」
「……最初の一言以外は全部余計なんですよ」
確かに、自分の第一声が不適切だったのは認めよう。いくら相手がジェイドと言えど、喜ばしいニュースなのだからまず褒めてやっても良かったかもしれないとは思う。思うがしかし、本当にこいつで良かったのだろうか。見た目の威圧感で選ばれたのではないのだろうか。
「一応聞いておきますけど、副寮長の地位への忖度ではないですよね」
「失礼な。きちんと魔法の腕を買われてのものですよ。なにも箒で追いかけっこをするだけがマジフトではないですので」
「魔法の腕なら僕の方が上では?」
「出たかったんですか? ……いえ、さすがに貴方の飛行術ではフロイドの動きをカバーするのは無理でしょう」
自分の飛行術の成績を考えると、おまえこそ失礼だろうとも言えないのが悲しいところである。出たくはないです、と手を振ることで話題を打ち切り手元の契約書へ視線を戻した。
そう、僕は忙しいのだ。マジフト大会の後に控えた期末テストの対策ノートも改訂しなければいけないし、作らなくてはならない魔法薬だってある。――マジフト大会前に、と念を押された魔力増強の薬がさしあたっての最優先事項か。依頼者とそのバックグラウンドを考えると生半可なものは作れない。魔法士としての、商売人としてのプライドでもある。
「アズール」
出て行ったかと思われた片腕の声が背後から、いや耳元と言って良いほど近くで聞こえたことに動揺して顔を上げた。とっさに振り返った先、鼻先が触れそうな至近距離でふたつの色を見る。
吸い込まれそうな深海の色の瞳、人魚に相応しいユニーク魔法を有した黄金の瞳。――出会ったときから胡散臭いこの男の、もしかしたら一番うつくしいかもしれない箇所だ。大抵の人間は見上げることしかできない高さにあるこれを怯まずに見つめることができるものが何人居るだろうか。勿体無いと思う反面いくばくかの優越感を抱くのも事実で、ジェイドの唇が無意識に開きかけているのに気付いてつい力が抜けた。
「……あとにしろ」
ところ構わず腑抜けた顔を見せるものじゃない、と人差し指で下唇をつついてやると、僅かに目を丸くしたジェイドは両手で口を隠して一歩後退した。
「すみません、無意識でした」
「でしょうね」
「あとで、と言いましたよね?」
「……少し待たせることにはなりますよ」
「健全な青少年を焦らしても得は無い、とだけ申し上げておきます」
ジェイドの言葉は脅しのようでいて本当に脅しだから困る。わかったから、と繰り返してジェイドを追い立てると、素直にドアノブに手をかけたところでまたこちらを振り返った。
「……マジフト大会当日ですけど、僕とフロイドは競技直前まで貴方のところにいますからね」
「は? 何を改まって。当たり前でしょう、お前たちにも仕事は割り振ってあるんですよ」
「ええ。ですから」
わざわざ確認することもあるまい、と、多少の呆れをこめた返事をしたつもりだった。しかし、ジェイドはどこか嬉しそうに頷いてみせる。不可解だ。首を傾げた僕を尻目にウツボはするりとフロアへ逃げた。
.....
「フロイド、そのたこ焼きはどこで」
「学食の日替わりにタコ出てたからお願いして作って貰った。久しぶりに食べたいなーって」
「……僕の記憶が確かなら先週も街までわざわざ買いに行っていたような気がするんですが」
「一週間開けばじゅーぶん久しぶりじゃね? アズールみたいにわざわざ解禁日作ってまで我慢するほうが珍しいよ」
昼休みの大食堂。フェス会場の飲食スペースと見紛うようなジャンクなメニューばかりを机に並べたフロイドに、思わず苦言が口をついた。たこ焼き、焼きそば、クリームソーダ。わざわざリクエストしたと言っていたたこ焼き以外は食べている生徒をちらほら見かけるが、揃ってしまうともう屋台の匂いしかしない。これだけ好き勝手に食べて太りもせず逆に筋力を落とすこともないのだから種族差というのは不公平である。
「ひとくちたべる? おいしーよ」
「要りません。僕はもう食べ終わりましたから」
「今日のは油多めで表面カリカリのやつだよ」
「余計要らないんですけど……あっつ! やめろ!!」
口元に押し当てられた熱に声を荒げるが堪えた様子はない。むしろざわついているのは先程から遠巻きに様子を窺っていた周囲の生徒たちだった。他寮の同級生やオンボロ寮の監督生さんなど、視線の中には明らかに心配な色が見えるものがある。……要らぬ気遣いだ、と息を吐いた。
僕がタコで双子がウツボなのは確かだ。しかし、だからと言って彼らが好んでタコ料理を食べることに対して僕の反応を窺われても困るのだ。魚は共食いもするとか弱肉強食がどうのとか、それ以前に僕は人魚でコレはただのタコなのだからそもそも別種なのである。一緒にするなと声を大にして言いたい。……ただし、双子の思惑がどこにあるのかと言われれば、これはまた別の問題になってしまうわけで。
「ね、おいしーでしょ」
「美味しくないものが出てこられても困るんですよ」
そろそろ唇が油まみれになりそうだったので諦めて口を開ける。差し出されたたこ焼きを頬張ると、フロイドがそっとたこ焼きを刺していたフォークを引き抜いてくれた。全体的な動作は大振りなのにこういうところは丁寧な男である。口に入れてしまえば吐き出すわけにもいかず、フロイドの言うとおりの食感――表面はカリカリで中はとろとろで、ほどよい固さにボイルされたタコ足は大きすぎず小さすぎず、味の濃いめな生地と淡白な身が口の中で絡む控えめに言っても美味しいたこ焼きを、黙って咀嚼することになる。リストランテに生まれたぶん他の人魚よりは多様なものを食べて育った自覚はあれど、陸の食べ物特有の「熱々」という感覚はまだ新鮮だ。フロイドがこれを気に入ってしまったのも仕方のない話だと思う。
「アズールもから揚げ気に入っちゃったもんね」
「ええ、まあ……えっ?」
「変な食レポ八割くらい声に出てたよ。すげー美味しかったんじゃん」
なんたる不覚。周囲を見ればそそくさとたこ焼きを注文しに行く生徒が列を作っているではないか。今日は海鮮炒めとカルパッチョが用意されていたはずだ、本来のメニューに使う分はちゃんと残っているのだろうか。
「……そういえば、ジェイドは? お前たち直前の授業は一緒でしたよね」
カルパッチョで思い出すのもどうかと思うが、フロイドがここでこんなものを食べているのにジェイドが食べていないはずがない。どうしたのかと問えばあっち、と真後ろをフォークで指された。
「今日キノコ納品するっつってたから先に食いに来たの。そろそろ、ほら」
たこ焼きに群がる生徒の横を抜けて、山盛りのパスタとやはり山盛りのカルパッチョをトレーに乗せたジェイドが歩いてくるのが見える。なるほどこれからか。ならば食べ終わった自分は外そうかと椅子を引きかけたところをフロイドに肩を押さえられ、文句を言うよりも早く横を取られた。向かいにフロイド、隣にジェイド。ウツボ二匹は今更どうということもないが山盛りの料理の圧が強い。
「ありがとうございます、フロイド」
「席かわろっか?」
「良いんですか? では遠慮なく」
「うわ遠慮しなかったウケる」
向かいにジェイド、隣にフロイド。フロイドの反応も意に介さず置いたばかりの料理の板もしっかり交換して。
「いただきます」
「……召し上がれ」
圧に負けて返事をした僕の目を見て、ジェイドが満足げに笑って大ぶりにカットされたタコの足にフォークを突き立てた。
「オレやっぱジェイドちょっと馬鹿だと思うな」
「そう思うならどうにかしてくださいよ」
「や、見てる分にはおもしれーから」
ここしばらく、ジェイドに仕事を頼みすぎた自覚がある。優秀であるがゆえに滅多に疲れを顔に出さない男が珍しく消耗して、なりふり構わず鋭気を養いたいと言うのをどうして拒否できようか。……たとえそれが、僕の顔をオカズにしながら生に近い茹で蛸を食むことであろうとも。いや本音を言えば素直に自分が噛まれるなりしたほうがいくらかマシだと思う。が、こいつがこうしたいと言うんだから仕方がない。仕事の詰み具合を適切に調整できなかったこちらが悪い。‥…悪いか? どうだろう。よく分からない。
「お前それ本当に鋭気を養うための行動なんですか? 僕への嫌がらせがメインではなくて?」
「嫌がっているアズールの顔で鋭気を養えているので後者も間違いではありません。アズール、あなたの番いはこういう男ですよ」
挙句ジェイドを選んだ僕が悪いと言わんばかりに責任転嫁をしてくるものだからたまらない、捨てられたらどうしようとか思わないんだろうかこいつ。フロイドは食べ終わると同時に突っ伏して笑い出してしまった。食堂に響き渡る大声で笑い転げないだけ優しいな、と逃避のような感想を抱いた。
「こーゆーの見てると番いも悪いもんじゃないなって思うなあオレ。んぶっふふふふ」
「……思ってもないことを口にするんじゃない」
いや本当に、なんで僕はこんな男を選んだんだろう。何度疑問に思ったか分からない、が、ここに至ってもまだ後悔する気持ちは湧いてこないので、そういうことなのだろう。癪なので口に出してなどやらないけれど。
.........
嫉妬の矛先が制御できない
「、う」
小さく呻く声がしたので振り向いてみると、アズールが剥き出しの腕を押さえて渋い顔をしていた。どうしました、と問うより先に軽い音が数度響き、白い手の平が下からずいと伸びてくる。手の平の一番厚い部分に赤い点がこびりついていた。拭えと言われているものかと思いハンカチを手に取ると、良いから先に窓を閉めろと顎をしゃくられた。風呂上りは暑いからしばらく風を入れておこうと言っていたのは誰だったのか、もう忘れてしまったのだろうか。この調子だと虫が入りますよと注意した僕の声も耳に入っていなかったのだろう、アズールは湯に浸かると気が緩んでたまに頭の回転が鈍くなる。もしかしたら人間化に伴い手足と同化した脳のいくつかが軽く茹だっているのかもしれない。
「迂闊でした、もう考えなしに窓を開けていられる季節ではないんですね」
「蚊ですね。どこを刺されたんです?」
手に虫の死骸をつけたまま教科書や衣服を触られても困るのでハンカチを彼の手に押し付けて、自分は手を伸ばして部屋の窓を閉めた。閉め切ってしばらくは多少蒸し暑さを感じるものの、五分も我慢していれば妖精たちの温度調節の恩恵が部屋の隅々まで行き渡る。窓の開閉は単純に風が欲しいというだけで行われたものだ。……それだって、魔法で少し風を起こしてやれば済んだことなのだけれど。
「腕の内側です。皮膚の柔らかい部分を的確に狙ってくるとは卑怯な」
「あなた海中の虫には寛容なのに陸の虫には厳しいんですね」
「海の虫は人魚に害は加えないでしょう」
「まあ、確かに」
虫に限らず、海に棲む小型の生き物は人魚を天敵とみなして基本的には近づいてこない。彼らの中には毒を持つものも少なくはないけれど、ほとんどの人魚は耐性を獲得しているため効かないのだ。鱗や分泌液による物理的な防御壁もあるので脅威になることなどあり得ない。
「ああもう、すぐ赤くなる」
蚊に刺されると痒くなる、という知識だけは陸の人間の世間話や生物図鑑の記述で既に知っている。が、実際どれほど痒いのかは経験してみなければ分からないものだろう。アズールの様子を観察する限り、掻き毟らないだけの理性は残しつつも患部を擦らずにはいられない程度の痒みであるらしい。見る間に赤く腫れ上がった二の腕は僕の目から見ても痒そうで、つられて眉根が寄ってしまう。脳の茹だったアズールは指の腹で擦るだけでは飽き足らず爪まで立てようとするので流石に止めねばなるまいと腕を取った。
「ジェイド、っ」
……ああもう、折角美味しそうな白い肌が勿体ない。赤く腫れた患部に噛み付いて強く吸い上げる。滲んだ血の味にうっかり歯を立てそうになって、ギリギリで思いとどまり未練を舌で舐め取った。掴んでいた腕を離すとちょうどアズールが僕を蹴りつけようと足を上げたところだったので、大袈裟に両手を上げて後ろに下がる。
鬱血した腕に、ほんのり赤くなった顔。人魚の姿では流れる血の色から異なるため、この色彩が見られるのは陸に上がっているときだけだ。貴重なものを独り占めしている優越感につい表情が緩む。数秒後に飛んでくるであろう文句は全て聞き流す準備をした。
.......
「……おや」
閉店後のモストロ・ラウンジ。施錠前の見回りをあらかた終えて、報告も兼ねて立ち寄ったVIPルームがいつになく散らかっていることに思わず声が出た。散らかした犯人は誰あろう支配人。寮長たるアズールその人が依頼人をもてなすためのソファに沈んでノートに魔法薬と思しきレシピを書き連ねていた。
「いつからここはアズールの自室になったんでしょうね」
「……ジェイド。ああ、もうこんな時間になっていたんですね」
すみません、と謝りはするものの彼が姿勢を正す様子は見られない。今日は開店直後にポイントカードを持ってきた生徒がいた以外にこの部屋を使うこともなく、そういえばアズールの姿もあまり見ていなかったなと記憶を辿った。もとよりアズールは営業中に給仕をしているよりもVIPルームで依頼をさばいている時間の方が長い。防犯面も考えて一定時間出てこないようならさりげなくノックはするし使っていない時間帯も定期的に巡回するようにはしているけれど、彼がこんな風に居座ることを想定したシステムではないので巡回に来たスタッフもさぞ困惑したことだろう。
「施錠しようと思っていたんですが、まだここにいるおつもりで?」
「……ええ、もうすこし。鍵なら預かりますから戻ってくれていいですよ」
聞けば、最初の相談者はとある魔法薬を欲しがっているのだそうだ。自力で作るのは難しいが手に入らないようなものでもなく、しかし高価だから安く手に入る伝手はないかという、それだけの相談だったのだと。
「具体的な薬品名は守秘義務として、まあサムさんと少し調整すればすぐに叶えられることだったので相談者にはその旨お伝えしてお帰りいただいたんですが」
おそらく相談者もアズールのコネで安く買えることを期待してラウンジを訪れたのだろう。聞く限りでは特に変わったところもないごく普通の相談だった。……はずが。
「……思いついてしまったんですよ。僕ならもっと安価な材料で同じ効果の薬が精製可能なのでは、と」
商売への嗅覚と魔法士としての才覚に生来の努力家気質が加われば誰でもこうなる、わけではなく、彼が彼だからこうなってしまう。変なところで変なスイッチが入るのがアズールという人なのだなあ、などと考えていたのがいつのまにか顔に出てしまっていたようで「意地の悪そうな顔をしていますよ」と満更でもなさそうな顔で窘められた。アズールのことを考えているときの顔、というのが彼曰くかなり分かりやすいとのことで、度々指摘してはこんな風に悦に入る。ジェイドがわかりやすくアズールのこと考えてるときなんてお腹空いてるときだけだよね、とはフロイドの言で、総合すると僕は今アズールを相手にわかりやすく腹を空かせていることになってしまうのだけれど、まあ概ね正解なので訂正の機会もなくここまできてしまった。彼ら以外の人間に漏れていなければそれで良いのだ。
閑話休題、そうしてジェネリック魔法薬のレシピを考え始めたまでは良かったものの、材料を安価なものにするという縛りを設けてしまったがため思いのほか苦労する羽目になってしまったというわけだ。同じ効果の魔法薬を別々の魔法士が異なる材料で作るのは良くあることではあるのだけれど、市場に出ている大量生産の魔法薬とコストパフォーマンスで張り合うのはなかなかに難しい。思いついてしまった、の一言で気軽に開発しようと思うようなものではないはずなのだ。手伝おうにも最初に告げられた守秘義務という言葉が枷になって出来ることがほとんどない。なにしろ何の薬を作ろうとしているのかすら分からないのだから。
「どこでつまづいているんですか」
「材料の配合が少々面倒で」
「一度作ってみてから調整したほうが良いのでは?」
「それは勿論。しかし、失敗を最小限の被害で収めるには正確な計算が不可欠でしょう。人魚の涙ひとしずく、とかでなくきちんと再現性がある測り方をしておきたい」
市販の人魚の涙はきちんとひとしずくあたりの重さが決められているのだけれどおそらくそういう話ではなく油適量、とか塩少々、のようなレシピに異を唱えているのだろう。作り方を秘匿したがる市販品の成分表記が曖昧になっているのは珍しいことではない。
「なるほど後は計算だけ、と。集中できるよう紅茶でも淹れましょうか」
「では一杯。……あ、いえ、すぐ切り上げるので」
「はい、少々お待ちを」
「え、いや」
遠慮をするような場面でもないはずなので、最初の一言を聞いた時点でキッチンへ向かうべく踵を返した。背後から聞こえた引き止めるような声にはおや、と思ったものの、僕が勝手に用意する分には問題ないだろうと判断して構わず進む。所詮は主従ごっこである、という言い訳がこういう時に効くのである。とはいえ、純粋な労わりの気持ちから申し出たものをすげなく却下されるのも癪なので、素直に紅茶を入れるのではなく捻ってみようと思い立った。
趣味を実益を兼ねてコレクションしている茶葉の缶をスルーして冷蔵庫を開ける。目当ては昼間のうちに仕込んでおいた翌日の限定ドリンク用のハイビスカスティーだ。――ハーツラビュルの迷宮に咲く薔薇のような鮮やかなルビーレッドの液体は、飲んでみると非常に強い酸味がありとにかく人を選ぶ味である。だからこそ気を遣って、色も酸味も、後に残る僅かな甘みも、最大限に引き出せるように抽出した。紅茶ではないけれど、紅茶以外は然程でもないなどと言われないよう学んだ技術をこれでもかとつぎこんだ。それでもやはりそのまま飲むには酸味が強すぎるので、明日はフルーツティーとして出すつもりだった。――それを、冷えたグラスにたっぷりと注いでやる。特徴的なルビーレッドは見るものが見ればハイビスカスティーであることが明らかで、アズールもおそらく一目で気付く。それでいい。敏感な舌を持つアズールが、酸味があることを覚悟したうえでほんの少しだけ眉を顰めて、本物のタコのように唇をすぼめて飲む姿を見るために淹れるのだ。
「どうぞ」
「……要らないと言ったのに」
「せっかく心を込めて淹れたのに……悲しいです」
VIPルームへ戻り、切り上げるどころかレポート用紙の切れ端が増えた気すらするテーブルの上になんとか空きスペースを見つけてコースターとグラスを置く。迷惑そうな視線は無視してしくしく、とわざとらしく目を伏せて泣き真似をした。素直に引っ掛かってくれるのは何も知らない一年生以外にはカリムさんくらいしかいないのだけれど、付き合いの長いアズールやフロイドが相手だと逆に裏を読んでもらえるので使う価値はなくもない。ちなみに今回は何の裏もなくノリで使ってみただけで、アズールもため息以外の反応は見せず素直にソファから身を起こした。さすが僕の性格をよく分かっている。
鮮やかな紅色の液体を眺め、条件反射のようにきゅっと唇を引き結び、それでも躊躇うことなく口をつける。毒を差し出されても同じ調子で飲んでしまうのではないか、そんな危うさと無垢さは当然錯覚でしかないのだけれど、アズールは気を張っているときこそ笑顔を浮かべることをよく知る身としてはこの緊張感のある表情にこそ価値がある。飛行術の補習中ですらひきつった笑みを張り付けている男だ。
「……疲労が良く飛びそうな味をしている」
「酸っぱいって素直に言っていいんですよ」
「酸っぱい」
素直だった。酸味を和らげるフルーツもミルクもなくクエン酸とビタミンCをたっぷりと摂取しているのだからそりゃあそんな感想にもなるだろう。疲労回復にはうってつけの飲み物なのは事実だ。顰め面をしながらもちびちび飲み進めている様子を見ると相当根を詰めていたことが窺える。
「気分転換が出来たら返してください。炭酸水とシロップを入れてきます」
「……この時間にシロップはちょっと」
「身体ではなく脳への糖です。あなたただでさえ脳が多くて燃費が悪いんだから」
お前が言うな、というやっかみ混じりの文句を聞き流しながら飲みかけのグラスを受け取って再びキッチンへ取って返す。それでも三分の一ほどは飲んでくれたのだろうか、丁度シロップとソーダを足すのに良い量だった。
「自分の分も作ってきなさい、ここまで来たなら最後まで付き合ってもらいます」
先程よりも張りの増した声に自然と口角が上がる。フルーツも切って言ったら怒られるだろうか、などと考えながら追加のグラスを出した。
......
アイドルだってトイレには行くよ
「……アズールにもブロットは溜まるんですね……」
件の騒動が一段落ついたその日、こんこんと眠るアズールの寝顔を見ながらジェイドがそんな風に呟いていたのをよく覚えている。そのときはオレもまだあんまり冷静ではなかったので「何当たり前のこと言ってんのこいつ」くらいの感想しか抱かなかったしこれをそのまま口に出してしまった気もするんだけど、数日経ったあたりで唐突に理解した。もうとっくにアズールもジェイドも普段の調子を取り戻していたので蒸し返して良いものかどうかちょっと悩んで、悩むとかオレのキャラじゃねえだろとすぐに気を取り直して授業終わりの片割れをとっ捕まえた。
「……ジェイドはアズールのことほんとに海の魔女みたいに思ってたんだねえ。ベタ惚れだったんじゃん」
「えっ」
「だった、という表現は終わった恋のようで縁起が悪いので避けてもらえませんか。現在進行形なんです」
「えっ」
「いや知ってるし。魔女じゃないって分かってもまだそれならもっと重症なんだなってのも知ってるし」
「……えぇ……」
さっきからちまちまと反応しているのはジェイドと同じクラスの金魚ちゃんだ。オレたちの間に挟まったまま抜け出すタイミングを失ってしまったらしい、しまいにはオレとジェイドの顔を交互に見て不可解そうなため息を漏らすものだから、わざと真上から覗き込むような格好で「あれ、居たんだぁ」とからかってあげた。いつもの仏頂面で見上げられたので普通に怒られるかと思っていたら無言で逃げていってしまったので、離脱のための助け舟だと気づいたのかもしれない。金魚ちゃんも去年と比べたらだいぶ言葉の裏を読むようになった気がする。
いや今はそれよりジェイドだ。困るなり照れるなりするかと思っていたのに平然としているところを見ると、やっぱりつつくならもっと早いうちが良かったのだろう。惜しいことをした。
アズールのユニーク魔法が使い方によっては一瞬でブロットを溜める超危険な代物であることは、オレよりもジェイドの方が正しく理解していたはずだ。にもかかわらず、ジェイドはアズールがオーバーブロットしてしまったことに誰よりも動揺していた。アズールの可能性を誰よりも信じていたんだろう。アズール自身もおそらくジェイドの崇拝にも似た信頼は感じていただろうから、今後もしかしたらちょっと気に病むくらいはするかもしれないけれど、まあそれは追々対処すればいい。どうせジェイドはアズールから離れる気なんてないわけだし。
「……アズールにもブロットは溜まるしトイレも行くんだってこと、今のうちに分かってよかったよね」
「僕だってアズールがトイレに行くことくらいは理解していますよ」
「マジレスじゃん、やっべ」
思ったより面倒臭そうな事態が見える。今からでも逃げた金魚ちゃんを連れ戻して話に加わってもらおうかと半ば本気で考えた。