風f降まとめ雨の日のランデブー
地面に跳ねる雨粒は強く、視界は灰色にぼやけている。濡れたアスファルトに水の輪が絶え間なく生まれ消えていく。ワイパーが忙しなく動く車のフロントガラス越しに、雨にけぶる街角を眺めている。
少しして通りの隙間から、ずぶ濡れの待ち人が現れた。RX-7のロックを開けてやると、風見は助手席のドアを十センチほど開いて動きを止め、迷うような視線を降谷に向けた。
「シートが濡れるくらいのこと、気にしないから早く乗れ。君に風邪を引かれた方が困る」
車に乗るのを躊躇した理由をいとも簡単に見透かされ、風見はすみませんと呟いて革張りのシートに乗り込んだ。シートベルトを締める前に脱いだ上着はぐっしょり濡れて色が一段濃くなっており、下に着ていたワイシャツからは肌色が透けていた。
「傘を忘れてしまいまして」
業務連絡のように事もなげに言う風見に降谷は微笑んだ。
「別に僕相手に取り繕うことないぞ。いい事したんだろう?」
風見がえっ、と言うと同時に車が発進する。
「君はいつも三日先まで天気予報をチェックしていて、傘を忘れることはない。降水確率が低かろうと折り畳み傘はほぼ常に携帯している。我々の仕事上、突発的な買い物はしないに越したことはないしね。ならなぜ今傘を持っていないのか? 誰かに譲ったか貸したかしたんじゃないか? 突然の夕立であっという間に雨脚が強くなったしな。大人だったらそこらのコンビニで傘を買ったりするだろうが、小遣いの少ない子供はそういう買い物はしないよな。そろそろ暗くなる時間だし、雨宿りをしている子供が気になって五分ほど見守って傘を譲ったというところかな。それ以上だと僕との待ち合わせに遅れるし」
視線は真っ直ぐ進行方向に向けたまま、降谷の口から朗々と言葉が滑り出す。風見はばつが悪くて目線を窓の外にやっている。街灯の光が濡れた道路に反射している。
「なにか訂正はあるか?」
「……ないです。でも、全部言うのは野暮ですよ降谷さん」
風見がため息をつくと降谷は笑った。
「そういう性分なんだよ、大目に見てくれ」
そうやって開き直られるのは、ある種自分に甘えてくれているんだろうか、と風見は思った。それなら少し嬉しい気もする。
「君みたいな人間ばかりなら日本も安心なんだが。さて、セーフハウスの一つが近くにあるからこれから寄るぞ。服とシャワーを貸してやるから、着くまでに報告を頼む」
気恥ずかしくて落ち着かないままの風見を乗せて、夕立の街を白い車が走っていった。
愛すべき復讐
魔がさした、としか言いようがない。
公安警察官であり私立探偵であり組織の探り屋である降谷は、推理をするのが仕事である。
だから「解くべき謎」が視界に入れば、それに手を伸ばさずにいられなかったのだ。
「悪かったよ、風見」
「ええ、まあ、降谷さんの見えるところに置いてしまっていた自分が悪かったです」
風見は降谷の部下であるが、最近はただの部下と言うにはおさまらないほど、降谷の部屋に入り浸っていた。仕事関連の伝達に来ることもあれば、降谷の留守に飼い犬の世話を頼まれることも、ついでに服の洗濯やクリーニングにベッドメイクなどをすることもあり、単に夕食に誘われることもある。そんなこんなで、自然と降谷の部屋に風見の私物が置かれることも増えてきた矢先の出来事。
降谷は風見が置いていた、解きかけのクロスワードを解いてしまった。それもまだ最初の方しか手をつけていなかったクロスワード雑誌一冊の、残りのページを全て。雑誌の間に書き味のいいボールペンが挟んであったのもよくなかった。
──わかります。楽しいですよねクロスワード。降谷さんは博識ですからスラスラ解けてしまうでしょうし、夢中になっている姿が目に浮かびます。でもやっぱり自分で解きたかったですよ。自分の数少ない余暇の楽しみなのに。
風見は声にこそ出さなかったが、見事にすべて顔に出ていたようだ。公安にあるまじきことだが、このところの風見はもはや降谷との距離が近くなりすぎていて、降谷に対して表情を繕おうという発想すらなくなってしまっている。
「そんなに拗ねるなよ。何かお詫びをしよう。何がいい? 君の好物を作るとか」
「お詫びって言っても……あ、そうだ」
風見は降谷へのささやかな復讐を思いついた。
降谷のエプロンを借りて、風見はこの家の台所に立った。台所が降谷の縄張りであることは重々承知している。
「降谷さんは絶対に手を出さないでください。口もです。ワンちゃんと大人しく待っていてください」
降谷に提案された罰は、「風見に好きに料理をさせること」。降谷が風見のクロスワードを解いてしまったのと同じく、降谷の楽しみ──思う存分料理をすること──を奪うという。なんとも可愛らしい復讐だ。冷蔵庫のものは好きに使わせてもらいます、と言う風見にベランダの野菜やハーブも使っていいぞと付け足しておいた。
ステンレスのワークトップに食材を並べる風見の背中に声をかける。
「それ、できたものも僕は食べられないのか?」
「さすがにそこまで意地悪くないですよ。二人分作ります」
それじゃ仕返しにならないだろと思った言葉は含み笑いの中に閉じ込めた。
風見も一人暮らしがそこそこ長く、ある程度の自炊はできる。しかし自分の得意分野でただ見守るだけというのは、降谷にとって確かにストレスになった。
この材料で何ができるだろうかと思案しながら調味料の場所を聞く風見に、今ある材料でできるおすすめのレシピの組み合わせを教えてやりたくなる。
自分より遥かにゆっくりと材料を切る手際を見ていると自分でやりたくなったし、それは乱切りにした方がいいとか、それは手で千切った方がとか、キノコを水で洗うなとか、料理をしながらスマホを触るなとか(レシピを確認しているのでこれは仕方がないが)、火加減は最初だけ強火でとか、肉は火が通ったら一旦取り出せとか、葉物は水から煮るなとか。
喉から出かかるそういう言葉を全て飲み込んで、ハロを撫でて気を紛らわした。時々風見の背中に視線をやって、姿勢がいいなと眺める。じゅうじゅうという音とともに美味しそうな匂いが漂ってくる。
夕飯の空気を吸い込む換気扇は、まるで平和の象徴に思えた。
米が炊けた。がちゃがちゃ皿を用意する。
甘酢っぱく香る酢豚、キャベツとエリンギの透き通ったスープ、トマトと卵の中華炒め。降谷の予想していた以上にちゃんとした献立が食卓に並んだ。
「なかなかやるじゃないか」
「降谷さんも。いつ止められるかヒヤヒヤしてましたよ。出来にも文句はなしでお願いします」
憎まれ口を憎からず感じる。降谷の事情を知った上で、気を使わずにいられる相手はいまや風見しかいない。
「君の手料理を食べられるのは新鮮で嬉しいよ。でもこれじゃ仕返しにならないな。また今度、新しいクロスワードパズルを買ってくる」
「いつかみたいに片っ端から買って送ってくるのはやめてくださいね。一冊でいいですから」
降谷は非番の風見を働かせたお詫びにとアイドルグッズを山ほど送り付けた時のことに思い至って、そうか、と返事をした。
風見の料理は文句なく旨かった。普段はチョコやインスタントラーメンでエネルギー補給をやりすごすような男が、降谷のために作った食事。ちょっと味が濃いのや食材に火が入りすぎていることなんて、ちっとも気にならなかった。
「全部うまい」
スープを飲んで一息つくと、テーブルの向こうの風見がなにやらもじもじしていた。
やっぱり次は自分がこの男を満腹にしてやりたい、と降谷は思った。
約束はやぶれない
街がピンクとブルーの液体に浸っている。
身を隠すために入り込んだ路地裏で、降谷の肩に上着が掛けられた。
「降谷さん」
振り返って顔を見ると、風見は安心しているような怒っているような、なんとも形容しがたい表情をしていた。
「せっかく無事に首の爆弾を解除したっていうのに、爆発させて墜落しかけてるヘリに飛び乗って大立ち回りなんて……無茶苦茶です。命がいくつあっても足りませんよ」
「でも生きてるだろ」
不敵に笑う降谷に風見は何も言えなくなる。職務上の上下関係などなかったとしても、降谷を律することなど風見にはきっと不可能なのだろう。
「約束、覚えてるか?」
降谷の言葉で、ガラスの箱の中でした会話が蘇った。
*
「頼んだよ、風見」
暗く閉ざされたシェルターの中、冷ややかな白い光。降谷と共に隔離用のガラスの部屋に入った風見は、爆弾解除に必要な道具を黙々とリュックから取り出していた。降谷は椅子に掛けたまま、ペンチやドライバーを床に並べる風見のつむじを眺めていた。
「もしかしたらこのまま死ぬかもしれないし、キスの一つでもしておくか」
風見の動きが一瞬止まる。それから小さくため息をついて、作業を再開した。
「……しません。縁起でもないこと言わんでください」
「別に君を信頼してないってわけじゃない」
そう、わかっている。言葉にしないだけでお互いにわかっていた。愛だの恋だの呼べるほど甘酸っぱいものじゃないが、なにか相手に特別な感情を持っているということ。持たれているということ。それでもいまの関係が心地よくてちょうどいいから、いま以上の関係を求めていたわけではない。そこまで含めて暗黙の了解があった。
が、死を目前にして「本当にそうか」と訊かれると、そうではなかったらしいと降谷は気がついた。
なので、二人の間の不文律を降谷は破った。
降谷がそれを望むなら、風見もそれに従うことにした。
「無事にここから出られたらいくらでも」
「言ったな。約束だぞ」
そうならない未来は見えていない、とでも言うように降谷は微笑んで、自分の首を風見の手に預けた。
*
風見は降谷を路地裏のさらに奥へと連れていく。このあたりにいた一般人は皆避難済みで、残る警察や消防の関係者は自分の仕事でいっぱいいっぱいのはずだ。それでも風見は念入りに、周囲に人目がないかを確認した。
「では、この辺りで」
「ムードもなにもないセリフだな」
風見は反論できず、押し黙っている。暗くて表情がよく見えないが、緊張しているのだろう。降谷が一歩踏み出して距離を詰める。風見はその肩に手を置いた。二人の顔が段々と近づいていく。
「あとでちゃんと病院行ってくださいよ」
「本当に色気がないな」
小言を言う風見の口を塞ぐように口付けた。一、ニ、三……十秒ののち一旦離して目が合うと、今度は風見から降谷に口付けた。ただ口と口が触れているというそれだけで、なぜか呼吸が下手になった。
唇をくっつけるだけのキスを二回したあと、風見は降谷をぎゅうと抱きしめた。
「生きててよかったです」
「僕も君にそう思ってる」
お互いに、相手の背に回した手に力が入る。服越しでも伝わってくる熱を感じていた。興奮と安堵がまざって、胸にこみあげる。
降谷は犬を褒めるように、風見の短い黒髪をなでた。
「君はこのあと捜査一課と連携して事態の収束に当たれ。僕は僕で事後処理がある」
キスをする距離で降谷零は上司の顔になる。
「はい」
風見の返事を聞いて降谷は離れた。
「風見が『いくらでも』って言ったこと、僕は忘れてないからな」
「……言いましたけど、あの、それは」
風見がしどろもどろになっているうちに、降谷は颯爽と去っていった。風見は諦めて切り替えて、現場に戻ることにした。まるで体の中でたくさんの生き物が飛び跳ねているようだったが、浮き足立つ心は今は封印しておく。
降谷は、風見にかけられた上着をそのまま借りてきてしまったことに気がついた。目ざといあの子は、これが風見のものだときっとすぐに見抜いてしまうだろう。
──まあ、それくらい構わないか。
上司が部下の上着を借りているからといって、二人がキスしたことまではわからないはずだ。
たとえこの街きっての名探偵でも。