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    しおり
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    しおり
    ○楠空鏡の向こうに余りあるものミラクル最果てまでかがやく日々が冬日家路空をこえて
    鏡の向こうに 瞬間移動を使える人間がいるなんて聞いたら、多くの人は羨ましいというだろう。実際僕も、いかに便利かは身をもって知っている。人に見つからないようにさえ気を配れば、どこにだって簡単に行けるのだから。だが、あまり便利なのも考えものだ。もし普通の交通手段を使っていたなら、そこで考える時間があり心の準備もできたかもしれないし、そもそも時間と労力を費やしてまでここへ来たりしない。
     思いつきで、ロンドンまで来てしまった。
     古びた扉の前で立ちつくす。あふれるテレパシーの中に空助の声はない。以前来たとき部屋に寄ったのは両親だけだったから、まずここで合っているのかも心配になってきた。見せられた写真が合っていればいいのだが。
     とりあえず透視で中を確認しようとした瞬間、がちゃりと音を立て外側に開いたドアをすかさず避ける。危うく頭を打つところだったじゃないか。
     そう驚いた素振りもなく、薄い色の瞳が僕を映す。
    「入りなよ。寒いだろ」
     来た理由も聞かずに僕を部屋に招き入れると、空助は奥に消えた。
     なめらかな布地のソファに座って、窓の外を眺める。日本と九時間の時差があるイギリスは、まだ昼前だった。空助の借りる部屋は大通りから一本入ったところにある。賑やかなはずの街が、今日はやけにしんとしていた。
     空助の心の声がしなかったのは、テレパスキャンセラーのせいだった。僕以外に超能力者なんていないはずなのに、なぜ普段からこんなものをつけているのだろう。まるで僕が来るのをあらかじめ知っていたようだった。
     2客のカップをテーブルに置き、ようやく兄も席についた。注いだばかりの紅茶から湯気が立つ。
    ――出かけるところだったのか?
     呼び出す前に出てきたのが不思議で尋ねれば、「さぁね」とはぐらかされた。
     静かにカップに口をつける。甘いものがあればもっといいなと思っていたら、目の前にすっとケーキが出てきた。迷わずフォークを取ると、視線を感じて顔を上げた。はす向かいに座った男が、頬杖ついてにやにやしている。
    「本当に、楠雄はお菓子さえあればご機嫌だね」
     無視して食べるのに集中しようとしていたのに、コイツはさらに話しかけてきた。
    「まさか、クリスマスに来るなんてさ。高校生なら普通、デートじゃないの?」
     そんなイベントがあったこと、言われて初めて気づいた。毎年若い男女の心の声が鬱陶しすぎて、意図的に忘れていたのだ。
     さかのぼること数日前、両親が旅行に出発した。行き先はどこだと言っていただろうか。まぁ、どうだっていい。本当は僕も連れて行きたかったらしいが、面倒なので丁重にお断りした。それにしても、よく飽きないものだな。いつも一緒にいるのに、わざわざ旅行に行くなんて。相変わらず、両親の仲の良さには呆れを通り越して感心する。
     しかしおかげで、僕はひとり羽を伸ばしていた。運よく学校での誘いはすべて逃げ切り、冬休みの平穏は勝ち取ってある。何時に寝ても起きても、なにを食べても自由。気になっていたドラマのDVDを夜中まで見続けたり、スーパーで好きなものを買って料理してみたり、たまにはいいものだ。
     しばらく楽しんでいたのだが、実はものの数日で飽きてしまった。することが思いつかなくなって、ふとアイツのことを思い出した。
     大学だってこの時期は休みだろう。制御装置のことでは感謝もしたけれど、鬼ごっこではずいぶんとひやひやさせられた。ほんの仕返しのつもりで、ここへ飛んできたのだ。
     なのに、突然押しかけた僕に困った様子をちっとも見せない。これでは面白くないじゃないか。
    「ごはん、もう食べた?」と言いながら、返事を待ちもしないで兄は台所まで僕を引っ張っていった。一緒に料理をしろというのか。力の加減が難しいから、細かい作業はあまり好きになれない。ぎこちなく包丁を動かす僕を、兄はくすくす笑った。
     イギリスのクリスマスというのは、25日に家族で集まって過ごすものらしい。どうりで街が静かなわけだ。ツリーの下に駆け寄って、プレゼントの包みを開ける子供たちの歓声。普段の忙しさを忘れてくつろぐ夫婦の会話。周囲の家の穏やかな空気が、この部屋まで伝わってくる。
     昼食を済ませると、空助は手を変え品を変え、僕に勝負を仕掛けてきた。最初はじゃんけんやチェス。それに飽きれば、つけっぱなしのテレビで流れる映画もゲームの題材になる。兄が真っ先に死ぬと予想したカップルは、最後まで仲良くいちゃついていた。

     夕方近くなって、ちょっとした来客があった。
     落ち着いた声の女性は、近所の知り合いのようだ。立ち話をところどころ耳に入れながら、リビングで寝転んでいると、戻ってきた空助に玄関まで無理やり連れていかれた。
    「僕がお世話になってる人だよ。挨拶して、楠雄」
     絵本に出てきそうな小太りの中年女性が、にこにこして目の前に立っている。愛想など持ち合わせるはずもなく、ただ会釈した。
    「あら、かわいい弟さん。クリスマス、一緒に過ごせてよかったわね」
    「ふふ、そうですね。うれしいなぁ」
     嘘をつくな。
     すました笑みがしらじらしくて、こみあげてくる不快感に胃が重たくなる。

     そのあとも、空助はまだ飽きないのか、次の勝負をなににしようかと迷っている。
    「楠雄、次は……」
     寄ってきた兄を無視して、僕は背を向けた。さすがにうんざりしていたし、なにより兄の態度に苛立っていた。楽しそうにしているほど、うさんくさくてたまらなくなる。無理なんてしなくていいのにと思ってしまう。
     数度の呼びかけのあと諦めたのか、兄の気配は遠ざかった。
     あの奇妙な装置をへし折ってやりたい。隠す必要なんてないじゃないか。邪魔するつもりで来たのに、これではこっちがモヤモヤする。僕のことが嫌いなら、さっさと追い出してくれればいいのだ。大人に愛想よく取り繕ったって、キャンセラーで隠したって、アイツの本質はどうせ変わらない。
     僕に負け、うずくまって呻く小さな空助の姿が、脳裏に焼きついている。
     超能力なんて使えなくても空助は充分、天才だ。ほかの人間には真似できないことばかりなのに、いつも僕に嫉妬した。歯がゆくて、悲しかった。
     負けるたびに「嫌い」と発するその口が、憎らしくてたまらない。兄に嫌われてうれしい弟がどこにいる。どれだけ両親に愛されても、僕には満たされないものがあった。
     一度くらい負けたなら、もう僕を嫌わずにいてくれるだろうか。そんな思いがいまだに捨てきれない。わざと負けても喜ばないアイツのために、仕方なく付き合って勝ち続けた。空助が傷つくことに麻痺していつの間にかドMになってしまったのは、半分僕の責任かもしれない。

    ***

     遠くから讃美歌が聞こえる。
     体が重い。ソファの上で身をよじるように起こすと、床にドサッと物が落ちる音がした。掛けられていたのは毛布ではなく絨毯だった。おかげで寒くなかったが、寝苦しかったのはそのせいか。アイツのことだ、絶対わざとだろう。
     いつの間にか眠ってしまったようだ。外は暗くなっていて、空助はいなくなっていた。玄関のハンガーにかかっていた、分厚いコートがなくなっている。どこかに出掛けてしまったらしい。
     さっき夢を見た。
     あれは兄が留学のために、出て行った次の日の朝の記憶だ。
     空助はついに僕から逃げた。もうアイツから「嫌い」という言葉を聞かなくて済むと思うとホッとする――そう言うと、父さんはどうにも形容しがたい変な顔をしてみせた。
    「空助、お前のこと嫌いだったの?」
     なにをいまさら、とため息をつく。
    「まぁ確かに、嫌いとは言ってたかなぁ」
     こっちは生まれて以来の苦痛を語っているのに、父さんの反応は薄かった。息子同士の確執だぞ。ちょっとは興味をもってもいいんじゃないのか。
    「だから、楠雄も嫌いなのか」
    ――当たり前だろ。
    「うーん……お前なぁ、空助には心なんて読めないんだぞ?」
     そんなことは知っている。
    「だったら、言ってみたらどうだ」
    ――なにを?
     通勤前だった父は時計を見ると大げさに慌てて、話も途中でバタバタと出かけてしまった。あまり頻繁に僕の瞬間移動に頼ると母さんが怒るので、必死だったみたいだ。
     なにを言えばいい。僕を嫌うしかないあの兄に。ずっと胸に引っかかっていたとげのようなものが、いまもそこにあると知った。
     空腹を覚えて台所に向かう。いない間に勝手をするのは申し訳ないが、なにか食べさせてもらおう。そう考えて冷蔵庫を覗き、愕然とした。
     いまからでも、遅くはないだろうか。
     
     階段を駆け下りて、静寂の街へ飛び出した。
     僕はバカだ。ほしいと言わずとも差し出してくれていたのに、どうして気づきもしなかった。
     ずっと、兄に愛されたかった。嫌いではなく、好きと言ってほしかった。
     けれど、一度だってそれを伝えたことがあっただろうか。口に出さなければ、きっとないのと同じだった。父はそう言いたかったのかもしれない。
     ほとんどなにも入っていない冷蔵庫の一段に並ぶ、黒く透き通ったそれは、すべてコーヒーゼリーだった。空助が食べるはずもない。食にも睡眠にも無頓着なアイツが、わざわざ僕に作ってくれたものだ。
     色とりどりの星に、ひょうきんなサンタクロース。イルミネーションでぼんやり照らされた大通りに、空助の背中を探す。
     もし思い込みだったとしても、もう構わない。どうか逃げずに、僕の話を聞いてくれ。




    余りあるもの クリスマスをひかえたロンドンの夜は、イルミネーションに彩られてまばゆい。赤、緑、青……さまざまな色の灯りのなかでも、空助はオレンジ色に惹かれた。きんと凍える空の下、温かさを求めて無意識に目がいくのだ。
     この街で過ごして4年。料理やほかの文化にも、だいぶ馴染んだ。イギリスではクリスマスになると、日本のお正月のように家族で過ごすのが習慣だ。実家に帰省する人が増えて、首都は徐々に閑散としていく。
     いま通り過ぎた店を、はたと立ち止まり振り返る。砂糖とバターの甘い匂い。小さな店構えの、素朴な菓子屋だ。
    「ちょっと、寄ってもいいかな」
     空助が提案すると、年明けに提出する論文の話に熱中していた同行者は、気を悪くした様子もなくにっこり頷いた。
     外から見るより広い店内に、クッキーやパイが並ぶ。
    「珍しいな、そんなに甘いもの好きだったっけ?」
    「いや別に、好きでも嫌いでもないよ」
     だったらどうして寄ったのかといわれたら難しい。なんとなく、足が向かっただけだ。クリームのたっぷりのったケーキを眺めていると、楠雄の顔が浮かんだ。焼き菓子よりも、生クリームのケーキのほうが喜んでいた気がする。
     友人が紙袋を抱えて寄ってきた。お腹が空いていたのか、手早く物色して会計を済ませたらしい。空助はなにも買わなかった。
    「弟は甘党なんだ」
     ケーキを見て思い出したと話すと、
    「……へぇ!? 君、弟がいたの!?」
     かじったクッキーを吹き出しそうな勢いで、友人は大声を出す。反対にこちらがびっくりして、そんなに驚くことかと苦笑いすれば、「するに決まっている」と返された。
    「だって、いままで一度も聞いたことがなかった」

     確かに同じ研究をしていれば親密になるし、付き合いも長いからいろいろな話もする。だからといって、なんでも話してきたわけではない。お互い多かれ少なかれ、そんなものだろう。
     うっかり余計なことを漏らしてしまったのが不愉快で、帰り道、誰にするわけでもない言い訳ばかり考えた。
     楠雄は空助にとって、気安く弟と呼べる存在ではなかった。わざわざ他人に話すものか。テレパシーの研究をしている理由だって、誰にも明かしたことはない。
     街の温かな雰囲気に呑まれ、気が緩んでしまった自分に苛立ちが湧いた。
     夜、日本にいる母から電話がかかってきた。
     イギリスに来たきり帰国はしていないが、いくつになっても心配なものは心配なのだと連絡してくるから、空助のほうからも定期的に手紙やメールを送っていた。
     弾んだ声で、父が宿泊券をもらったのだと話す。付き合いの多い仕事だと、たまにはいいこともあるらしい。
    『くー君のところに行ったときにパスポート取ったから、ちょうどよかったわ』
    「うん、よかったね」
     聞き流しておいたが、行く場所は国内だ。
     父ときたら、仕事以外はとにかく母にべったりである。そのうえわざわざ旅行まで一緒なんて、よく行こうと思うものだ。父のよさがよくわからない空助には、優しくかわいらしい母の最大の謎だった。
    『ただね、くーちゃんが留守番するって言って譲らないの』
    「まぁ、そういう年ごろなんじゃない?」
     高校生にもなれば、親と出かけるのは面倒になる子供のほうが多いだろう。留守番と言ったところで、地球の命運さえ左右できるような人間に、不便なことなどなにもない。
    『でも、クリスマスなのに、1週間近くもくーちゃんと別々なんて……』
    「大丈夫だって。たまにはそういう年もあっていいと思うし」
    『本当に? じゃあ、くー君にお願い』
     普段はふわふわしている雰囲気が急に引き締まって、こちらも緊張する。
    『もしくーちゃんが寂しくなったら、相手してあげてほしいの。きっと遊びに行くはずだから』
    「……なに言ってるの。楠雄が来るわけないよ」
     一瞬ぎょっとして、喉がつかえた。わざとらしくトーンを上げる。冷え冷えしたいまの表情を、知られてはいけない。明るく朗らかなこの人に、自分の暗い胸のうちなど悟られたくなかった。
     空助の心配をよそに、ほどなく電話は切れた。これで気兼ねなく旅行に行ってくれるだろう。

     椅子に座ったまま、ぐんと体を伸ばす。いまは何時だったか、それより何日なのかと携帯電話を掴む。
     母と話した日から研究室と自宅の往復ばかりで、研究に没頭する生活だった。アイディアは浮かんできて止まらない。多すぎて発表するのが億劫になったら、人に譲ってしまえばいい。まだ思いつくことはいくらでもある。
     少し気分転換にと、ふらふら外に出た。
     空助の住居の隣には狭い路地がある。石段を駆け上がっていく、二つの影が視界に入った。二匹の猫だ。グレーの毛並みがそっくりで、細身の体にまだ幼さが残る。もしかしたら兄弟なのかもしれない。二匹は階段を行ったり来たり、飛びかかっては離れてじゃれついた。寒さをものともせず遊んでいるのがほほえましくて、自然と笑みがこぼれた。
     傍から見たら、子供のころの空助と楠雄も、こんなものだったのかもしれないと思う。
     楠雄を嫌うのは、楠雄が憎いからではない。ただ、弟と自分を比べてしまうたび、心のなかに暗く重く、きたないものが溜まっていく。妬みと劣等感でどろどろに汚れた自分を、楠雄は毎日テレパシーで見ていたはずだ。それが空助には堪えられなかった。こちらの気持ちは筒抜けでも、弟がどう感じているかは確かめようがない。それが正直、おそろしかった。もっと兄らしく振舞いたかったのに、己の醜さから逃れることで精一杯だった。
     本当はあの猫のように、ただ無邪気に遊んでいたかった。素直にすごいと褒めてみたかったのだ。父と母が愛する弟を、自分も一緒に。
     今日は12月24日。両親が出発して数日経つ。そろそろ留守番も退屈してきたころだろう。母の言うとおり、きっと明日くらいには弟がこちらに来ると、空助も思っていた。
     いつか負かしたい一心で楠雄を分析してきたおかげだが、弟のすることは容易に予想できる。独りでなんでもできるせいか、他人をなかなか頼れないのは、自分とよく似ている。両親を抜かせば兄くらいにしか遠慮できないのを、知って拒めるほど非情ではない。
     ここでは日本と違って、祝祭日には街の機能が縮小してしまう。いまのうちに、開いている店を回ってしまおう。来るからには、甘いものは必ず用意しておきたかった。一番好きなコーヒーゼリーは売っていないから、作るしかない。まずは材料の調達からだ。
     素直になれない代わりに、いまは少し大人になった。なんでもないふりをして、かわいい弟を迎えてやろう。明日一日くらいなら、望んだとおりの兄を演じられるかもしれない。




    ミラクル 幼稚園は退屈だ。
     鬼ごっこはわざと遅く走らなきゃいけないし、かくれんぼのとき本気で隠れたら見つけてもらえなくて、このまえ大騒ぎになった。おままごとは男女関係なく、心の声が生々しくて怖い。ほかの遊びもだいたいダメ。
     僕は他人となにかするのに向いてない。だから今日も、教室のすみで絵本を読む。しかしそれも、すでに最後のページまできてしまった。ヒマをつぶすのも大変なのだ。
     まだ読んでない本はあったっけ、と本棚とにらめっこしていたら「楠雄君」と呼びかけられた。

    「ごめんね、くーちゃん。お昼もまだなのに」
     先生についていくと、母さんが待っていた。早退、というやつだ。
     がやがやと騒がしい声は、門を抜ければすぐに遠くなった。あそこから解放されたのはありがたいが、母さんの落ち着かない様子を見ていると、喜んでばかりいられない。つないだ手をぎゅっとにぎって、「瞬間移動する?」と聞いてみたら、母さんは「大丈夫よ、歩こうね」と言う。ちょっとだけ無理した笑顔だった。
     そのあと小学校に寄り、空助を連れて三人で駅前まで行った。ビルの2階にある小さな病院だ。母さんと空助は奥の部屋に行ってしまって、僕が待合室できょろきょろしているうちに戻ってきた。危なっかしい足取りで歩いてくる。空助の白い顔が、今日は赤い。
    「おだいじにねぇ」
     看護師さんの猫なで声は、アイツの耳に入っていなかった。

    帰ると母さんは空助を寝かせて、僕の昼ごはんを用意して、それが済んだらまた空助のところへ。家じゅうを行ったり来たり大忙しだ。
     昼ごはんを食べ終わると、僕も二階に駆けあがった。背伸びしてドアノブをつかみ、中を覗きこむ。窓から白く光の入る部屋。母さんと目が合った。
    「くーちゃん! ダメよ、風邪がうつっちゃうでしょ」
     風邪くらい僕だって引いたことがある。首を振って、母の足元に駆け寄った。
     ベッドの空助は、布団にくるまって震えている。
    ――寒いのか?
    (うん、寒い……)
     思わずテレパシーで尋ねたら、向こうからもテレパシーが返ってきた。ベッドのわきへしゃがむと、横を向いて寝る空助が薄目を開ける。
    (あと、体が痛い。のども。頭もがんがんする……)
     そんなにあちこちおかしくて、どうして平気なんだろう。いや、平気なわけない。テレパシーで話すのさえ楽じゃないみたいで、また空助は黙ってしまった。うっすら汗をかいて、髪がおでこに張りついている。そっと触ってみたけれど、びっくりして手を引っ込めた。すごく熱い。ちりちりする。炎天下の車のボンネットみたいだ。母さんが計ってそのままになっていた体温計を見たら、40℃と書いてある。
     これは――危険じゃないか? 常人は45℃になったら死ぬって聞いたぞ。だが、母さんは全然減っていないおかゆを手に、部屋を去ろうとしている。
    「行きましょう。くー君、寝かせてあげなきゃ」
     なにを言っているんだ、この人は。
     こんなのどう見ても普通の風邪じゃないだろう。空助なんてどうなってもいいけど、もしコイツが死んで、母さんが育児放棄だとか思われたりしては僕の生活にも関わる。だいたい、病院でお医者さんはなにをしてたんだ?
     おかしい。もう誰も信用できない。だから決めた、僕がなんとかする。

     どうしたらコイツの風邪が治るのか。僕は考えた。
     まず、のどの痛みにはネギがいいと、近所のおばあさんが言っていたのを思い出す。冷蔵庫からひと束持ってきて、空助の首に巻いた。空助は苦しそうに胸を上下させて、眠っている。目を覚ましたとき、さみしいといけないから、ぬいぐるみを枕元に置いた。
     問題は高い熱だ。部屋を冷やせば、熱も下がるかもしれない。だったら、氷を持ってきたらどうだろう。さっそく南極に行ってみた。
     ペンギンの群れが遠巻きに僕をにらんでいる。氷を切り出しては、瞬間移動で空助の部屋に戻った。超能力があってもなかなか難しくて、ひとつ切るのにも時間がかかってしまう。服や髪の毛は凍って固まるし、氷の重さと冷たさで指がしびれる。
     やっと何個か持ってきたところで、雑巾片手に般若の顔で立つ母さんと鉢合わせた。
    「くーちゃんっ、なにしてるの!」
     怒鳴り声で部屋の空気が震える。融けた氷で床はびちょびちょだ。
     あんなに苦労して持ってきた氷は、あっという間に全部片づけられてしまった。

     空助の机には、田舎のおじいちゃんがくれた「将棋盤」があった。ゲームができるみたいだけど、僕はまだルールも知らない。明日はこれで遊ぼうって言ってたのにな。
     もう尽くす手がない。空助は死んじゃうのかと思ったら、急に怖くなった。
     こんな奴。いなくなったらせいせいするはずなのに、鼻の奥がつんとして痛い。一度あふれ出した涙は止まらなくて、グスングスンとしゃくりあげて泣いた。バケツ1杯分くらいは泣いたかもしれない。そのうち、なんだか力が抜けて、僕はベッドのそばで眠ってしまった。

     目を覚ますと、部屋は薄暗くなっていた。
     外は夕焼け。僕の膝やほっぺたも、みんなオレンジ色だ。まだ夢の中にいるみたいに、体がふわふわと軽い。
     後ろでもぞもぞ動く気配がしたので、起きあがって振り向いた。空助がベッドに座って飲み物を飲んでいる―僕はまだ夢を見てるのか? それともこれは幽霊か。
     また横になろうとしたとき、やっとこっちに気づいて、空助は目を丸くした。
    「楠雄……ずっとそこにいたの?」
     枕元から、くたくたになったネギがすべり落ちる。
     驚きを隠して、僕は小さくうなずいた。だって、もう助からないと思っていたんだ。
     差し出された手を触ってみると、昼間より熱くない。ぼんやりしていた瞳も、いまはちゃんと僕を映していた。なんだ。僕がなにもしなくたって、治っちゃうのか。
    「ゴメン、今日は勝負できなかったな」
     ふらふらのくせして、いつもの調子でそんなことを言う。違う。勝負したいのは空助だけだ。
    ――なに、ニヤニヤしてるんだ。
    「え? 楠雄だって笑ってるじゃないか」




    最果てまで ふう、逃げきったぞ。
     休み時間のたび、わけもなく寄ってくるクラスメイトをどうすれば回避できるか。それは僕にとって、どんなテストより難問である。でも、この昼休みは僕の勝ちだ。口元をゆるませながら、屋上へと続く薄暗い階段に足をかけた。
    「あれ? 斉木さん」
     チッ、鳥束か。
     足下から呼び止められ、僕はうんざりとため息をつく。久しぶりに、静かに昼食を摂れると思っていたのに。あと一歩のところで油断したのがまずかった。
     少しうるさいが仕方ない。構わず無視して、屋上の扉を開ける。だが、なおもついてきた鳥束がさらっと奇妙なことを言うものだから、つい返事をしてしまった。
    「見慣れない霊連れてますね。新しい守護霊っスか?」
    ――守護霊って、そんな気軽に取り替えるものなのか?
     てっきり一生同じなのだと思っていた。そもそも、いままでどんな霊が憑いていたかだって知らないぞ。
    「さぁ。斉木さんのことだから、特別なんじゃないっスか」
    ――適当なこと言うなよ。
     鳥束は空中に向かって話しかける。見慣れた状況だが、やはり不審人物にしか見えない。それにしても、どんな守護霊なんだ? これだけ騒がれたら、僕だってちょっとは興味が湧いてくる。
    「なぁアンタ、この人に憑いてるんですよね? なんか恥ずかしいクセとか教えてくれないっスか? ちょっと弱味握りたいんで」
    ――おい、思いっきり本人に聞こえてるぞ。
     手袋を外し、鳥束の肩を掴んだ。途端、サイコメトリーによって鳥束の視界が頭に流れ込んでくる。
    「そういえばアンタ……こころなしか斉木さんに似てないっスか」
     その瞬間、頭が真っ白になった。
     空助。
     どうしてそんな姿をしてる。

     呆然としていた僕は、鳥束に何度も腕を引っぱられ、ようやく我に返った。
     幽霊は血の気のない顔にうっすら笑みを浮かべながら、寺生まれの男につらつらと皮肉を述べている。すでにさんざん罵られたあとらしく、鳥束は涙目だ。図太いだけが取り柄のコイツを負かすとは、さすがじゃないか。
     性格といい外見といい、それはどこから見ても僕の兄だった。
     しかし、どういうことだ。アイツのことだから、またたちの悪いイタズラかもしれない。そう思ったのも束の間、僕の携帯電話がけたたましく音を立てた。発信元は、祖父母の家だ。
    『楠雄……。ど、どうにかしてくれ……空助が……死んでしまったんじゃ……。お前の力で、なんとかしてやってくれ……』
     弱々しく響く祖父の訴え。僕の返事を待つより先に、それは嘆きに変わった。
    『どうして、わしより先に……死んだ……。空助、空助ぇぇぇぇ!!』
     スピーカーの音が割れるほどの絶叫に、全身が凍りつく。電話の向こうで起きていることは、千里眼なしでじゅうぶん想像がついた。死んだ空助にすがりついて、号泣している祖父。
     なぜ急に。よりによって、孫を溺愛するこの人の前で。
     いくら僕が超能力者でも、死んだ人間を生き返らせることはできないのだ。だが、いまの祖父にそれを伝えるのは惨い気がして、言葉が出てこなかった。
     嘘だろ。どうしても信じられない。空助が死ぬなんて。
     だってアイツは、僕が生まれるより前からいたのだ。存在しない世界なんて、ありえない。祖父がどれだけ泣いても、僕は泣けなかった。
     時間がやけに長く感じた。汗のにじんだ携帯電話を握りしめていると、しばらくして『楠雄ちゃーん』と祖母の声が聞こえてきた。いつも以上に、なんだか若い。この前、空助が造ったマシンで若返ったままなのか。しかも、この一大事にしては、だいぶ落ち着いている。
    『ごめんなさいね、驚いたでしょう。空助ちゃんなら、廊下で倒れてただけよ』
     なんだって? アイツは死んだんじゃないのか?
    『そんな簡単に死なれちゃ困るわ。安心してちょうだい』
     なんだ、焦って損した。完全に祖父の早とちりだったらしい。
    あのろくでもない計画のために、空助は近ごろ寝ていなかったのだという。
    『とはいっても、かなり疲れてたみたいなの。心配だし、念のため救急車を呼んだわ。お父さんも一緒に乗せてもらえるかしら……びっくりして、また血圧上がっちゃったみたい』
     そっちのほうが大丈夫かと不安になったが、祖母にとっては慣れたことなのか、明るい調子で電話を切った。

    「『空助』って僕のこと?」
     するりと隣に寄ってきた霊に、僕はゆっくりと頷いた。コイツのことだからさっきの電話で察しているだろうが、僕の兄なのだと付け加えて。どうやら普通の幽霊と同じで、記憶がないらしい。
    「ちょ、ちょっと! その人、生き霊なんスか!?」
    ――なんだ、うるさいな。
     振り向けば、少しのあいだに見違えるほどくたびれきった鳥束が、後ずさりしながらわめき散らしている。
    「生きた人間がわざわざ霊になって来るとか、どんだけの執念っスか……。ヤバいっスよ!!」
    ――おい、待て……!
     呼び止めるのも聞かずに、逃げ去ってしまった。やれやれ、生き霊が怖いんじゃなくて、アイツの言動に耐えきれなかっただけだろ。
     まいったな。鳥束がいないんじゃ、霊が視えない。そのうち本体も目覚めるだろうし、もう放っておくか。
     すっかり忘れていたが、ここへは昼食のために来たのだった。コンクリートの床に腰を下ろし、弁当箱を開ける。
     冷えたおかずを、少しずつ咀嚼する。甘さや塩辛さはどこかへいってしまい、異物が喉を通りすぎる感触だけが気になった。痛みに似たなにかが、じわじわ内側から広がっていく。箸を持つ手は冷たくて、うまく動かせない。
     空助が死んだかもしれない―実際のところは違ったが、いまさらになってぞっとした。
    「……『くーちゃん』」
     ご飯の上に並んだ海苔や絹さやが、文字になっている。母さんは愛情込めてるつもりでも、10代男子にとっては、ひやかしのタネにしかならない。
    ――読み上げるなよ。
     降ってきた声の主を見上げ、僕の憂鬱は余計に増した。白衣を着た生き霊が、ふわふわと宙に浮いている。なぜ、視えてしまうんだろう。霊能力者でもないのに。
     授業の始まりを告げるチャイムが校舎にこだまして、不協和音を奏でる。

    ***

     山と田畑のほかにはなにもない、一国山は平和な田舎に戻っていた。このあいだまではドローンが飛ぶわ、パワードスーツを着た老人が歩いているわ、ひどいありさまだった。
     あぜ道を抜けて裏口から祖父母の家にやって来ると、案の定、中は無人だった。慌てて支度をしたためか、冷めたお茶の入った湯呑みがちゃぶ台の上に残っている。この霊を本体に押し込んで帰るつもりだったが、一足遅かったらしい。
    「なにしてるの?」
    ――千里眼で、お前たちの行き先を調べてる。
    「ふーん。便利な力だなぁ」
     祖父と兄が寝かされているのは、大きな総合病院だ。車で行けば四十分くらいの場所か。診ている医師や看護師たちは落ち着いている。祖母の見立てどおり、たいしたことはなかったのだろう。
    ――さっさと病院に行くぞ。
    「その前に、ちょっと寄り道していかない? 意識が戻るまでまだ時間あるだろ」
     長い指が部屋の隅に置かれたパンフレットを示す。ひと昔前の雰囲気が漂うやけにハデな表紙には、「彩波手ゆうえんち」と大きく書かれていた。

     祖父母や両親と来たのは、つい最近だったようにも、ずいぶん昔にも思える。
     遊園地はあのときと変わらず、うらぶれた風情で営業を続けていた。平日の午後ともなれば、人よりカラスのほうが多いくらいだ。
    「そういえば、君。授業はよかったの?」
    ――やめろ、『君』なんて。気持ち悪い。
     しらじらしい気遣いは、いまに始まったことじゃない。だけど、空助が僕をそんなふうに呼んだことはなかった。
    「だったら、なんて呼んでたのさ」
    ――『お前』だったり……名前だったり……だな。
     すると空助は大げさに目を見開いて、まばたきしてみせる。
    「『お前』ねぇ……。僕がそんな言葉使うんだ。へぇ、信じらんない。よっぽど嫌いだったか、それとも――ステディな間柄だったのかな?」
     だから兄弟だって言ってるだろうが。わかっているくせに、腹立つな。コイツ、記憶がなくても僕を苛立たせる才能はそのままだ。それを見て、機嫌がよくなるところも。
     空助はうきうきして、次から次へとアトラクションを巡っていく。傍から見れば高校生がひとり、真顔で乗り物に乗っているだけの異様な光景だ。さっそく暇を持てあました従業員たちのネタにされ、「ひとり修学旅行」なんてあだ名をつけられた。
     レールから外れそうなジェットコースターを念力でなんとか制御しながら、ようやく一周して戻ってくる。隣の席には、僕の目から見ても誰もいない。空助は加速し始めたところで置いていかれ、空高くを漂っていた。
     ジェットコースターに限ったことではなく、コーヒーカップやメリーゴーラウンドも、空助の体をすり抜けてしまった。霊とはそういうものらしい。

     ベンチでチュロスをかじっていると、隣に座る空助が、
    「ひとくち、ちょうだい」
     無理だと知ったうえでそんな冗談を言う。
    ――そうだ。今日の経費、全額お前に請求するからな。
    「えー、本気?」
     ペンキが剥げ、錆びた柵の上を綱渡りみたいにして歩きながら、空助は口をとがらせた。
    ――来たがったのはお前なんだから、当然だろ。
    「楠雄のケチ」
     80億も持ってる人間が、なにを言う。
     気づけばもう、日は傾いていた。茜色の空をバックに、ぼろぼろの観覧車が不気味な影をつくる。
    「……あれだったら、乗れるかな?」
     懲りずに誘う兄にこれで最後だと答え、僕は立ち上がった。

     不穏なきしみをあげながら、ゴンドラがゆっくりと昇っていく。大きな窓に額をつける兄の横顔は、いつもより幼い。
    「結局、これしか乗れなかったな」
     本人の予想どおり、観覧車は霊にも適した乗り物だった。
    「仕方ない。元の体に戻ったら、また一緒に来よう」
     僕が沈黙を続けると、しばらくして空助はため息をつく。
    「なんだ、いやなの?」
    ――無理だ。いやもなにも、記憶があるお前となんて。
     どうせ厄介なことを企んで、勝負を仕掛けてくるに決まっている。嫉妬や憎悪を隠しもせず、僕を振り回す。周りまで巻き込んで、あげく自分の命すらないがしろにする。
     今回だってそうだ。迷惑きわまりない。
    「どうしてそんなことを」
    ――お前は、僕が嫌いでたまらないからだ。
     兄と同じ顔、同じ魂で、まっすぐに見つめてくる。僕の知らない、無色透明の空助。
    「……そんなに嫌いだったかなー。しっくりこないけど」
    ――覚えてないから、そう思うんだろうが。
    「でも。覚えてなくても、会いに行かなきゃと思ったよ。楠雄のことだけがきっと、僕の未練だったんだ。それって大切だってことじゃないの?」
    ――僕に訊くな。
     それがわからないから、怖いのだ。
     生まれてから一度だって僕を認めてくれない、ただひとりの相手。空助に「嫌い」と言われるたび、僕は痛みを覚える。気にするほどじゃないと言い聞かせても、喉に刺さった小骨のように、放っておけない痛みだった。
     鳥束は、生き霊になって現れるのは、執念からだと言った。それほどまでに、僕のことが憎いのか。それとも。
     もし空助が死んでしまったら、永遠に確かめられなくなってしまう。アイツにとって、僕とはなんだったのかを。
     静寂の中で、朽ちかけた観覧車のバキンという音だけが響く。こんな狭い場所で隠しようもないのに、うつむいて嗚咽を押し殺した。生き霊の空助は黙って、外の景色を眺めていた。
     もう二度とこんな思い、したくない。ふざけた霊になってまで付きまとわれるくらいなら、生きていてくれたほうがずっとましだ。どんなに憎らしくても、鬱陶しくても。
     空助に訊きたいことがたくさんある。すぐには無理でも、いつか答えてくれるだろうか。すべて知り尽くしたら、僕の痛みは消えるのか。
     曇ったガラス越しに夕日が射しこみ、空助を染める。透きとおった体がオレンジ色に溶けて、しだいに薄くなっていく。
     ゴンドラが頂上に来たとき、電話が鳴った。画面には祖母の名前が表示されている。
    『楠雄ちゃん! いま、空助ちゃんが目を開けたのよ』
     安堵のにじむ祖母の声を聞きながら、無言でうなずく。数秒もしないうちに、目の前には誰もいなくなった。

     消えていく寸前、空助の唇がゆっくりと、音にならない言葉を紡いだ。
     「バイバイ」だと? バカ言え。
     お前と僕との縁はどうせ、生きている限り続くのだ。




    かがやく日々が 人工の明かりに照らされて、色とりどりの花が咲いている。
     空助に連れてこられたのは植物栽培室だった。教室の数倍ある広い空間は金属の壁がむき出しで、花園というより工場と呼ぶほうがふさわしい。
     整然と並ぶ銀色の棚のところどころに、計器が取りつけられている。植物の生育はすべて、コンピュータが管理しているようだった。耳鳴りがするほど静謐な部屋で、ときどき水の落ちる音だけが響く。
     目の高さにある一株の蘭に、なにげなく手を伸ばした。白い花びらは柔らかで、ひんやりと冷たい。その繊細さは瓦礫の転がる外の世界と不釣り合いで、なんだか心もとない。
     要塞のようなこの施設の一角で、生き生きと緑が息づいているなんて、タイムマシンと天才科学者を狙う連中は、きっと想像さえしないだろう。
    ――で、なにをしろって?
     テレパシーで話しかけると、鋏を手渡された。
    「こうやって、花束を作ってほしいんだ」
     パチンパチンと音を立て、白衣の男は花の茎を切る。
     僕も兄に倣い、春夏秋冬さまざまなそれらを、ひとつ、またひとつと摘んでみた。言っておくが、フラワーアレンジメントの才能なんてないからな。色合いもバランスも知ったことか。
     一刻も早く元の世界に戻りたいけれど、そうもいかない。タイムマシンを使わせてもらう代わりに、コイツの願いを聞き入れる約束なのだ。
    「楠雄はいま17歳なんだっけ? てことは、高校生か」
     無心で花を切っていたら、ふいに空助がつぶやいた。顔を上げれば、穏やかな光を灯した瞳と視線が重なる。
    「ねぇ、学校は楽しい?」
     細めた目の奥からキラキラと喜びがにじみ出ている。僕と話せるだけで、そんなにうれしいのだろうか。負のオーラ全開だった、元の世界の空助とはえらい違いである。
    ――別に。強いていうなら、面倒なことばかりだ。
    「また、そんなこと言っちゃって~」
     さっきからなんなんだ、その浮かれたテンションは。これはこれでやりづらいな。
    「どこの学校に通ってるの? あっ! 町内だったら、PK学園かな。小さいころ校門の前通ったときに、指さしてたよね。ここに行くんだってさ。確かあの学校って、クラスの表記が変わってたなぁ。2年何組なんだい? 楠雄は人間離れしてる割に平凡やら平均やらが好きだから、真ん中あたりの3組だったりして」
     僕が口を挟む隙もなく、ペラペラと喋っては、正しい回答を付け加えていく。
    「クラスメイトはどう? 1年から同じクラスの子もきっといるよね。友達はできた? 勉強ができて真面目だけど中二病だとか、バカすぎてテレパシーでも思考が読めないとか、変な子ばっかりで苦労してるんじゃない?」
     アイツらと友達になった覚えはないが、だいたい合ってる。
    「うーん、楽しそう。友達と放課後寄り道したり、休みの日には遊びに行ったりするんでしょ。夏休みや冬休みだってさ、お祭りやら海やら、クリスマス、初詣―楠雄のことだから、『やれやれ』とか言いながら、みんなに付き合っちゃうんだよね。あーあ、僕も高校生になりたいなぁ。季節の変わり目には、漫画みたいにやたらと転校生がやって来るんだ。もしかしたら楠雄ほどじゃなくても、なにかの能力者もいたりして。あとは……なんだろう、学級委員の子になぜか一目置かれて、目立ちたくないのに目立っちゃったりさ。体育祭や文化祭で人気者にされちゃうんだろ。いいなぁ、そういうの。青春だよね~」
     全然よくない。
    「修学旅行はもう済んだ? どこに行っても、食べ物にしか目のない食いしんぼキャラとかもいそうだよね。……あぁそうだ、彼女はいないの? じゃあ、好きな子は?」
    ――いない。
    「嘘だ~」
    ――嘘じゃない。
    「ねぇねぇ、誰にも言わないから教えてよ」
     お前は修学旅行の夜の女子か。
     空助はなおも食い下がってきたものの、幾度か無意味な押し問答を繰り返したのち、諦めた。
    「まぁ、無理か。普段の楠雄って、暗くて無口なだけだもんね。とはいっても、そういう奴にかえって惹かれる子もいるし。夢見がちな女の子をちょっと勘違いさせたり、美少女に興味を持たれたりとか、それくらいはありそうだな。しかも、その子のお兄さんがひどいシスコンだったりするんだ。悪い虫だって決めつけられて、無駄に絡まれるんだろ。最悪だね!」
     そいつと張り合えるくらいのヤバイ兄貴も、ここにいるけどな。
    「まぁ全部、あくまで僕の想像だけど」
     マジデスカ。
     見てきたように言い当てられ、僕は立ったまま固まっていた。いまのが全部、ふだんの僕―しかも3年前までの―を分析しての結果だというなら、気持ち悪いを通り越して怖い。
     呆然とする僕の手から花束を取ると、空助はそれを薄いピンクの紙で包んだ。兄の作ったものも合わせて、二つの大きな花束が出来あがる。
    「じゃあ、行こうか」
     そう言って空助は僕の肩に手を置き、自力で行くには難儀なその場所を、テレパシーで示した。

     瞬間移動で飛んだ先は、僕にとっても馴染み深い。春休みが終わる少し前、この火山に来るようになって、もう4年が経っていた。
    「そっちの世界では、噴火は起きてないの?」
    ――まだ、これからだ。なかなかうまく止められなくて、何度か地球の時間を戻してる。
    「そうか。少しの出来事が違うと、そういうことも変わるのかな。こっちは3年前だったよ」
    ――噴火したのか。
     あれだけの規模の災害だ。予知夢ではそこまで見られなかったが、火山灰による気候の変化は、世界にまで及んだのだろう。世界大戦が起きたのも、兄の発明だけが原因ではあるまい。
     これはやはり止めないとまずい。次こそは確実に。奥歯を噛みしめひび割れた砂地をにらんでいると、空助が首を振った。そして、
    「いや、噴火は楠雄が止めたんだ。でも、いまのお前ほどの能力はなかったから」
     死んだ、と消え入るような声で言った。
     空助はしゃがみこむと、墓石どころかなんの目印もない、乾いた土の上に花を置く。それから手を合わせ、ひっそりと祈りをささげた。
    「アイツに守られるほどの価値なんて、この世界にはないのにね。楠雄は死ぬことすら平気なくらい、退屈だったんだなって思ってた。……だから、17歳の楠雄に会えてうれしかった」
     山の冷たい風が淡い色の髪をなびかせ、隠れた左目を露わにする。泣いているのかと思ったその顔は、そっと微笑みをたたえていた。
    (いまの楠雄の守りたい日常の中には、楠雄もちゃんといるんだね)
     口に出さずに、気恥ずかしい言葉を投げかけてくる。
     僕は聴こえないふりをして、持っていた花束を地面に手向けた。永遠にこの世界から消えた、14歳の僕へと。
     彼だっていまの僕と同じだったのだろう。厄介な家族や他人に囲まれ、あれこれと手を焼いて。このいびつで鮮やかな花束みたいに、たくさんの思い出があったはずだ。違ったのは結果だけ。
     僕はヒーローなんかじゃない。ただ自分のエゴだけで、世界をつくり変えている。




    冬日 地上からおよそ20センチ。猫の目線で歩けば、住み慣れた我が家も途端にテーマパークと化す。
     門から入るなり、鬱陶しく行ったり来たりする父と遭遇。巨大な脚を避けようとして、うっかり植え込みに突っ込む。折れた枝のあいだから体をひねり出すと、今度は肉球に冷たい感触がして、気づいたときには白い毛のあちこちに泥が跳ねていた。
     なんだ、この大きな水たまりは。僕は本物の猫がするように、四つの足を交互に振って水を払う。壁に家じゅうの窓ガラスが立てかけられているのを見て、父が今朝、母さんから掃除を頼まれていたのを思い出した。窓掃除は毎年この男の役割なのに、大みそかの今日まで放ったらかしていたらしい。おかげでリビングには、からっ風が絶えず吹き込んでいる。
     僕の場合、寒さはどうにでもなるのだが、こうもバタバタしていられては落ち着かない。掃除が終わるまで、このまま猫らしく丸くなっているか――と縁側に飛び乗ってみると。
     そこには、
    「パパ、うちって猫なんて飼ってたの?」
     とんでもない先客がいた。
     空助に呼ばれた父さんが、雑巾片手に寄ってくる。そして白猫の姿をした僕を見るなり、目尻を下げて「よく来まちたね~」と猫なで声を出した。
    「近所のが遊びにくるんだよ。ん~? 今日はアンプちゃんと一緒じゃないのかな~?」
     やめろ。気持ちの悪い顔を近づけるんじゃない。
     兄が帰ってきているなんて思いもしなかった。テレパスキャンセラーなんて、まったく面倒な発明をしてくれたな。神出鬼没なのは燃堂だけにしてほしい。
     だが、こうなったらこちらが逃げるのも癪だ。まだ正体はバレていないようだし、猫のままやりすごすしかない。アンプの喧嘩に加勢していたのが、不幸中の幸いである。
    「ねぇ、ママって猫アレルギーじゃなかった?」
     まさかエサなんてあげてないよね、という空助の言葉に、父はぎくりと肩をこわばらせる。
    「やっぱり」
    「そ、そんなことより昼になっちゃうぞ。ママが帰ってくる前に掃除終わらせないと! お前もせっかく帰ってきたんだから手伝ってくれよ」
     父は大袈裟に腕まくりして、しらじらしく話をそらした。
    「えー? 構わないけど、その前に猫……」
    「よーし、さっさと終わらせるぞー!!」
     しつこい追及を前に、一家の長は尻尾を巻いて逃げ出してしまった。手伝いを回避するその手口、僕も見習わせてもらおう。
     若きマッドサイエンティストは、僕の右側に足を組んで座っていた。光に透ける薄黄色の髪が風に散らされ、ばらばらになる。コートにマフラー、しっかり着込んでいても、じっとしていては寒そうだ。
     そういえば、コイツがこうしてボーっとしているなんて珍しいな。背後の床にはバッグや紙袋が転がっているし、荷物の整理もまだらしい。
     見上げていると突然視線が重なり、持ちあがった左手が近づいてきたものだから、思わず身を低くして構えてしまう。跳ねた背中に触れた指先が軽やかに毛並みを滑り、次の瞬間、僕の体は宙に浮いた。
    「やだなぁ、そんなに警戒しなくたっていいのに」
     穏やかな声が頭上から降ってきて、空助の膝に乗せられたのだと初めて気づく。決して太くはない腿の上で、爪を立てないようなんとか踏みとどまる。
    「あったかいな~」
     独り言をつぶやきながら、兄はそっと僕を撫でる。耳の後ろや顎の下を優しく掻かれると、喉が自然にゴロゴロと鳴った。片手で支えてくれているから、いまはバランスの悪さもあまり感じない。白い手に頭を擦り寄せれば、空助が鼻で笑った。
     ゆったりと流れる時間の中で、心が輪郭をなくしていく。なにをしていたかも忘れてしまいそうになる。ひょっとしたら、僕は生まれたときから猫だったのではないかと、錯覚してしまいそうなほどだ。
     吹きつける風は変わらず冷たいのに、日差しと人の体温が心地よくて、うとうとと眠気に誘われる。なんて平和なんだ。なにかにつけて勝負しろとうるさいコイツも、今日みたいに静かなら嫌いじゃない。

    「……楠雄。いつまでその姿でいるの?」
     いたずらを仕掛ける子供みたいなその声を、僕は無視した。いつ気づいたんだ、いったい。もう少しこのまま、ゆっくりさせてくれ。
     ため息をひとつ吐き、空を眺める。町の人々が奏でるテレパシーは、慌ただしさと去りゆく年への寂しさ、それからほんのわずかの期待をごちゃ混ぜにしてざわめく。
     僕にはまだ、来年のことを気にする余裕などない。この腕からいつすり抜けようか、そればかり考えている。




    家路 ビニールが破けている。
     手をついたソファに違和感を覚えて、僕は見下ろす。飛び出したスポンジを押し込もうとし、しかし悪化するだけだと考え直してやめた。
     客もまばらな夕方のファミレス。気まずいほど静かな店内の空気を、たまにかき乱すのは建物を揺らす音。すぐ外を走る国道は、いつから修理されていないのだろう。大きなトラックが通るたびにガタガタとひどい地鳴りがする。
     3分19秒が経過して、僕の前に皿が置かれた。「ご注文は以上でおそろいでしょうか?」とおざなりな笑顔で店員が尋ねると、向かいの青年は頷いた。
     待ちきれず掴んだスプーンはひんやり冷たくて、センサーが指先まで正常に作動していることを知る。空助は口元までカップを持ち上げたまま、「どうぞ」と言った。すくい上げた黒い宝石が、僕の瞳を映して揺れる。鼻腔をくすぐるコーヒーの香り。ほろ苦さとクリームの甘さが舌の上で溶け、ふわふわと気持ちが高揚する。これが幸せというものだろうか。
     コーヒーゼリーを食べるのは、今日が初めてだ。起動してから、与えられるのはスイーツばかりだった。どれもおいしいことに変わりはないが、やはり一番の好物、格別である。
    「おいしいかい? 楠Ω」
     僕の創造主は、テーブルに両手で頬杖をついて、こちらを凝視する。
    「楠雄に似せてるんだから、当たり前だ」
    「ははっ、そうだよね~」
     ふやけた顔に湧きあがるこの不快感も、あらかじめプログラムされたものなのだろう。睨みつけてやっても当人に効果はなく、代わりに奥のボックス席の老婆が凍りついた。僕の顔はそんなに怖いのか?
    「怖くないよ。かわいいじゃないか」
     ロボットの心を読むな。
    「超能力がなくなったら、アイツの目もこうやってメガネなしで見られるんだな~」
     満面の笑みを浮かべた空助を無視して、コーヒーゼリーを口に運ぶ。どんな状況だろうと、おいしいものはおいしかった。

     数日前に目覚めたロボットの僕は、この変態の弟を模して造られている。立ち居振る舞いや会話のパターン――それらを割りだす元となる記憶も、すべてインプットされているおかげで、製作者いわくかなりの再現度らしい。なんのために造ったのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
     昨日まではずっと研究室に閉じ込められていて退屈だった。だが、楽しみにしていた外の世界もなんてことはない、山ばかりのド田舎だ。動作チェックと称して、店に着くまで40分も歩かされてしまった。やれやれ。オリジナルの《斉木楠雄》だったら、瞬間移動で来られるのにな。
    「ねぇ、楠Ω。『お兄ちゃん』って言ってみて」
     なんなんだコイツは。マジキモいんですけど。
    「そもそも楠雄だって、そんな呼び方したことないだろ」
    「あるよ、生後2ヶ月くらいまで」
    「短っ」
     そこからはずっと争うばかりだったのだから、「お兄ちゃん」なんて慕われないのも自業自得である。さんざん敵意をむき出しにしておいて、かわいいだなんだと言いだすのが不思議だ。人間の心が複雑なのか、コイツが特別なのか、僕にはよくわからない。
     ゼリーを食べ終わったあとも、空助の思い出話は続く。どれも僕の記憶領域にしっかり入っている情報なのだが、語りたいようだから放っておくことにした。

     外へ出るころには、空がオレンジ色になっていた。昼間の暑さが嘘のように風は冷たくて、思わず後ろを振り返る。
    「なに?」
     財布をポケットにしまいながら、空助がそっと微笑む。
    「いや……」
     僕はロボットだから風邪を引くことはないが、コイツは平気だろうか。そんな思いがよぎったとき、足元を小さな影がすり抜けた。
     薄闇のなかでほのかに光るように真っ白の猫は、主にすり寄って「ニャア」と甘えた鳴き声をあげる。
    「ああ、迎えにきてくれたんだね」
     空助が猫を抱きあげると、
    「気温に対して服装が適切ではありません。防寒着の着用をおすすめします」
     機械的な音声が流れた。
     すすめられたところで防寒着なんて持ってきていないので、行きより早足で帰り道を歩く。空助の後ろを離れずについていく猫は、一見けなげだ。しかし、よく見ると小さな口から細い針がのぞいている。
    「予定されたメディカルチェックの時刻です」
     注射器の飛び出した口が、何度も脚を狙う。タスクの遂行が最優先になっているのか、ずいぶん物騒かつ強引である。
    しばらくしてセットされた時間を過ぎると、ようやく針をしまっておとなしくなった。せっかくのかわいらしい容姿が台無しだ。
     猫は僕の元となった、AIロボットの試作機である。空助の実家に送った2体目にも同じ機能はついているらしい。あげく、僕になると注射器では済まない。
    「どうして僕には、機銃なんて仕込んであるんだ」
     独り言のつもりだったのだが、
    「だって、そのくらいしないとお前が壊れちゃうし」
     と、間髪入れずに返事が来る。
    「楠雄と戦ってもらうにはさ」
     ほらな、やっぱりろくなことじゃない。あまりにも予想どおりの使い道に、呆れる気すら起きなかった。相手は超能力者だぞ。機銃くらいで対抗できるか。
    「やだな~、そんな顔しないでよ。壊れたら直してあげるから」
     何回でも、と付け加えながら、その手が僕の肩に置かれる。重みを感じた拍子に、なにかの回路が反応して、悲しさともうれしさともつかない感情が込み上げる。
    「完全な制御装置を楠雄がつけたら、もう大がかりな勝負なんかできないぞ。どうしてそんなもの発明したんだ」
     ややあって、天才科学者は言う。
    「だって、僕にもアイツの心は直せないから」
     山の向こうへ沈んだ太陽の、最後の光が世界を赤く染める。影になった空助の表情はうかがい知れなかった。
    ――お前、後悔してるのか?
     アイツと向き合ってこなかったことを。
     口に出さなかった言葉は、テレパシーが使えないから届かない。

     狭い歩道のすぐ脇を、車が猛スピードで走り抜けていく。空助は僕をかばうように車道側を歩いた。近い未来、楠雄が超能力を手放したら、きっと同じことをするのだ。 本人が喜ぶかは別として。僕はそれまでの練習台というわけか。やれやれ、面倒くさいな。
    「あっ、そうだ。帰ったら楠雄に送る動画撮るからさ、僕の靴舐めてよ」
     本当に、やれやれだ。
    「コーヒーゼリー3つで、手を打ってやる」
     交差点を曲がると、小さな集落に入る。
     順応の早い斉木家の祖父母は、すでにレプリカロボを孫同然にかわいがってくれていた。早くあの二人に、「ただいま」が言いたい。つかの間のおかしな家族を、僕は案外楽しんでいる。ほんの少しのさびしさは、胸の奥にしまって。アイツもそのうち、「ただいま」が言えたらいいと思う。彼と弟が生まれたあの家で。
     猫を抱きかかえて走りだすと、後ろから「待ってよ」と空助の明るい声がした。




    空をこえて 突然、腹に響くような衝撃。
     庭にいた空助は手を止め、振り向いた。
     見上げれば、かすかに光がちらついた――ような気がする。願望が見せた幻かもしれない。音速を超えて飛んでいく彼は、きっと美しいだろうから。空気を震わせる轟音を残して、空にはただ薄い青が広がっていた。
     隕石落下まであと2時間。空助は数通りの案から方法を選んだが、楠雄だったら10通りは手があるだろう。火山を抑えるよりは難しいだろうか。たいした差はないと思う。
    「ちょ! 空助、これどうにかしてくれよぉー!」
     感慨にふけっていた意識が、突如現実に引き戻される。さきほどからじたばた暴れていた父・國春が、いよいよ顔を青くしてわめいていた。
    「あっ、ごめんごめん。大丈夫」
    「なにが大丈夫なんだ! 背中から火が出てるんだけど!?」
     急ごしらえの救世主がこれ以上錯乱しないうちにと、スーツからのジェット噴射を停止する。もうこのさき、用途はないだろう。自信作だっただけに残念だ。
     父はこれから、身ひとつで大気圏を突破するはずだった。
    「あー……死ぬかと思ったよ~。隕石なんか止められるわけないだろう」
    「できるよ。僕が造ったんだから」
     人類の存続はじゅうぶん保障できていた。実行役がどうなるかは別として。
    「まったく、凡人の力を甘く見すぎだよ。パパも、楠雄も」
    「……さっきの音、やっぱりアイツか」
     もう一人の息子の名を聞いて、父はぼんやりとつぶやく。空助がうなずけば、眉を寄せて渋い顔をしてみせた。
    「超能力が戻ったんだな」
    「うん。よかったね、これでパパも遅刻しなくて済む」
     空助は縁側へ腰を下ろした。両手を組んで、軽く伸びをする。
    「そんなに頼ってないって」
     スローモーションのようにぎこちなく体を動かして、父がゆっくりこちらに近づいてきた。装備が重いのだ。
    「それよりお前、悔しくないのか?」
    「えっ、なにが?」
    「超能力の封印、意味がなかったってことじゃないか」
    「ああ、それ……」
     思いもよらない問いだ。一瞬とまどったのち、素直な言葉が口から出た。
    「全然。むしろ、わくわくしてるよ」
     心の底から湧きあがる、すがすがしく軽やかな感情に、嘘はない。
     正確には意味はあった。空助の装置で、一度は弟の超能力が消えたのだから。もちろん誤算はある。また能力が戻ることも想定してはいたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。楠雄が手放したいと本気で願っていたのなら、事態は違っていたのだろう。
    「本当に、楠雄は面白い」
     いつでも簡単に、自分を超えていってしまう。どんどん変化していく。成長だとか、進化といったほうがいいかもしれない。だが、負けてたまるか。いつかは追い越して、驚かせてやる。
     かわいい弟には、憧れられたい。それが兄というものだ。彼が超能力者かどうかなんて、関係はなかった。楠雄が望むなら、どちらでも。しいていえば、少し歯ごたえのあるほうが都合がいいという程度。
    「大変よ、パパ! くー君!」
     おろおろ門から駆けこんでくる母の姿に、立ちあがる。警報を聞き、慌てて帰ってきたのだろう。よろけて転んだ父は無視して、抱きつく彼女を受けとめた。
     その瞬間、頭上がにわかに明るくなる。
     白い閃光が、世界を照らす。
     終わったのだ。
     案じる間もなく、楠雄はじきに帰ってくる。もとから心配なんてしていないのだけれど。誰も知らないだけで、弟は何度も人類を救っているのだから。
    (また制御装置を造ってやらなきゃいけないな。勝負だっていくらでもできる)
     震えるほどの喜びが、体じゅうへ静かに広がっていく。緑のレンズ越し、不敵に自分をにらみつける弟が目に浮かんだ。
    (聞こえてる? 大好きだよ、楠雄)
     いま。
     叫びだしたいくらい、僕は幸せだ。




    四月の魚 Link Message Mute
    2022/06/04 20:15:25

    ○楠空

    斉Ψ、楠雄・空助の話(非恋愛含む)をまとめました。

    ・鏡の向こうに|ロンドンでのクリスマス。楠雄視点(2014.12.15)
    ・余りあるもの|ロンドンでのクリスマス。空助視点(2014.12.15)
    ・ミラクル|幼少(空助7歳、楠雄5歳)。看病ネタ(2015.08.30)
    ・最果てまで|遊園地デート(2016.05.18)
    ・冬日|楠雄猫化(サイ)。大晦日(2016.12.28)
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    #楠空

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