鏡の向こうに 瞬間移動を使える人間がいるなんて聞いたら、多くの人は羨ましいというだろう。実際僕も、いかに便利かは身をもって知っている。人に見つからないようにさえ気を配れば、どこにだって簡単に行けるのだから。だが、あまり便利なのも考えものだ。もし普通の交通手段を使っていたなら、そこで考える時間があり心の準備もできたかもしれないし、そもそも時間と労力を費やしてまでここへ来たりしない。
思いつきで、ロンドンまで来てしまった。
古びた扉の前で立ちつくす。あふれるテレパシーの中に空助の声はない。以前来たとき部屋に寄ったのは両親だけだったから、まずここで合っているのかも心配になってきた。見せられた写真が合っていればいいのだが。
とりあえず透視で中を確認しようとした瞬間、がちゃりと音を立て外側に開いたドアをすかさず避ける。危うく頭を打つところだったじゃないか。
そう驚いた素振りもなく、薄い色の瞳が僕を映す。
「入りなよ。寒いだろ」
来た理由も聞かずに僕を部屋に招き入れると、空助は奥に消えた。
なめらかな布地のソファに座って、窓の外を眺める。日本と九時間の時差があるイギリスは、まだ昼前だった。空助の借りる部屋は大通りから一本入ったところにある。賑やかなはずの街が、今日はやけにしんとしていた。
空助の心の声がしなかったのは、テレパスキャンセラーのせいだった。僕以外に超能力者なんていないはずなのに、なぜ普段からこんなものをつけているのだろう。まるで僕が来るのをあらかじめ知っていたようだった。
2客のカップをテーブルに置き、ようやく兄も席についた。注いだばかりの紅茶から湯気が立つ。
――出かけるところだったのか?
呼び出す前に出てきたのが不思議で尋ねれば、「さぁね」とはぐらかされた。
静かにカップに口をつける。甘いものがあればもっといいなと思っていたら、目の前にすっとケーキが出てきた。迷わずフォークを取ると、視線を感じて顔を上げた。はす向かいに座った男が、頬杖ついてにやにやしている。
「本当に、楠雄はお菓子さえあればご機嫌だね」
無視して食べるのに集中しようとしていたのに、コイツはさらに話しかけてきた。
「まさか、クリスマスに来るなんてさ。高校生なら普通、デートじゃないの?」
そんなイベントがあったこと、言われて初めて気づいた。毎年若い男女の心の声が鬱陶しすぎて、意図的に忘れていたのだ。
さかのぼること数日前、両親が旅行に出発した。行き先はどこだと言っていただろうか。まぁ、どうだっていい。本当は僕も連れて行きたかったらしいが、面倒なので丁重にお断りした。それにしても、よく飽きないものだな。いつも一緒にいるのに、わざわざ旅行に行くなんて。相変わらず、両親の仲の良さには呆れを通り越して感心する。
しかしおかげで、僕はひとり羽を伸ばしていた。運よく学校での誘いはすべて逃げ切り、冬休みの平穏は勝ち取ってある。何時に寝ても起きても、なにを食べても自由。気になっていたドラマのDVDを夜中まで見続けたり、スーパーで好きなものを買って料理してみたり、たまにはいいものだ。
しばらく楽しんでいたのだが、実はものの数日で飽きてしまった。することが思いつかなくなって、ふとアイツのことを思い出した。
大学だってこの時期は休みだろう。制御装置のことでは感謝もしたけれど、鬼ごっこではずいぶんとひやひやさせられた。ほんの仕返しのつもりで、ここへ飛んできたのだ。
なのに、突然押しかけた僕に困った様子をちっとも見せない。これでは面白くないじゃないか。
「ごはん、もう食べた?」と言いながら、返事を待ちもしないで兄は台所まで僕を引っ張っていった。一緒に料理をしろというのか。力の加減が難しいから、細かい作業はあまり好きになれない。ぎこちなく包丁を動かす僕を、兄はくすくす笑った。
イギリスのクリスマスというのは、25日に家族で集まって過ごすものらしい。どうりで街が静かなわけだ。ツリーの下に駆け寄って、プレゼントの包みを開ける子供たちの歓声。普段の忙しさを忘れてくつろぐ夫婦の会話。周囲の家の穏やかな空気が、この部屋まで伝わってくる。
昼食を済ませると、空助は手を変え品を変え、僕に勝負を仕掛けてきた。最初はじゃんけんやチェス。それに飽きれば、つけっぱなしのテレビで流れる映画もゲームの題材になる。兄が真っ先に死ぬと予想したカップルは、最後まで仲良くいちゃついていた。
夕方近くなって、ちょっとした来客があった。
落ち着いた声の女性は、近所の知り合いのようだ。立ち話をところどころ耳に入れながら、リビングで寝転んでいると、戻ってきた空助に玄関まで無理やり連れていかれた。
「僕がお世話になってる人だよ。挨拶して、楠雄」
絵本に出てきそうな小太りの中年女性が、にこにこして目の前に立っている。愛想など持ち合わせるはずもなく、ただ会釈した。
「あら、かわいい弟さん。クリスマス、一緒に過ごせてよかったわね」
「ふふ、そうですね。うれしいなぁ」
嘘をつくな。
すました笑みがしらじらしくて、こみあげてくる不快感に胃が重たくなる。
そのあとも、空助はまだ飽きないのか、次の勝負をなににしようかと迷っている。
「楠雄、次は……」
寄ってきた兄を無視して、僕は背を向けた。さすがにうんざりしていたし、なにより兄の態度に苛立っていた。楽しそうにしているほど、うさんくさくてたまらなくなる。無理なんてしなくていいのにと思ってしまう。
数度の呼びかけのあと諦めたのか、兄の気配は遠ざかった。
あの奇妙な装置をへし折ってやりたい。隠す必要なんてないじゃないか。邪魔するつもりで来たのに、これではこっちがモヤモヤする。僕のことが嫌いなら、さっさと追い出してくれればいいのだ。大人に愛想よく取り繕ったって、キャンセラーで隠したって、アイツの本質はどうせ変わらない。
僕に負け、うずくまって呻く小さな空助の姿が、脳裏に焼きついている。
超能力なんて使えなくても空助は充分、天才だ。ほかの人間には真似できないことばかりなのに、いつも僕に嫉妬した。歯がゆくて、悲しかった。
負けるたびに「嫌い」と発するその口が、憎らしくてたまらない。兄に嫌われてうれしい弟がどこにいる。どれだけ両親に愛されても、僕には満たされないものがあった。
一度くらい負けたなら、もう僕を嫌わずにいてくれるだろうか。そんな思いがいまだに捨てきれない。わざと負けても喜ばないアイツのために、仕方なく付き合って勝ち続けた。空助が傷つくことに麻痺していつの間にかドMになってしまったのは、半分僕の責任かもしれない。
***
遠くから讃美歌が聞こえる。
体が重い。ソファの上で身をよじるように起こすと、床にドサッと物が落ちる音がした。掛けられていたのは毛布ではなく絨毯だった。おかげで寒くなかったが、寝苦しかったのはそのせいか。アイツのことだ、絶対わざとだろう。
いつの間にか眠ってしまったようだ。外は暗くなっていて、空助はいなくなっていた。玄関のハンガーにかかっていた、分厚いコートがなくなっている。どこかに出掛けてしまったらしい。
さっき夢を見た。
あれは兄が留学のために、出て行った次の日の朝の記憶だ。
空助はついに僕から逃げた。もうアイツから「嫌い」という言葉を聞かなくて済むと思うとホッとする――そう言うと、父さんはどうにも形容しがたい変な顔をしてみせた。
「空助、お前のこと嫌いだったの?」
なにをいまさら、とため息をつく。
「まぁ確かに、嫌いとは言ってたかなぁ」
こっちは生まれて以来の苦痛を語っているのに、父さんの反応は薄かった。息子同士の確執だぞ。ちょっとは興味をもってもいいんじゃないのか。
「だから、楠雄も嫌いなのか」
――当たり前だろ。
「うーん……お前なぁ、空助には心なんて読めないんだぞ?」
そんなことは知っている。
「だったら、言ってみたらどうだ」
――なにを?
通勤前だった父は時計を見ると大げさに慌てて、話も途中でバタバタと出かけてしまった。あまり頻繁に僕の瞬間移動に頼ると母さんが怒るので、必死だったみたいだ。
なにを言えばいい。僕を嫌うしかないあの兄に。ずっと胸に引っかかっていたとげのようなものが、いまもそこにあると知った。
空腹を覚えて台所に向かう。いない間に勝手をするのは申し訳ないが、なにか食べさせてもらおう。そう考えて冷蔵庫を覗き、愕然とした。
いまからでも、遅くはないだろうか。
階段を駆け下りて、静寂の街へ飛び出した。
僕はバカだ。ほしいと言わずとも差し出してくれていたのに、どうして気づきもしなかった。
ずっと、兄に愛されたかった。嫌いではなく、好きと言ってほしかった。
けれど、一度だってそれを伝えたことがあっただろうか。口に出さなければ、きっとないのと同じだった。父はそう言いたかったのかもしれない。
ほとんどなにも入っていない冷蔵庫の一段に並ぶ、黒く透き通ったそれは、すべてコーヒーゼリーだった。空助が食べるはずもない。食にも睡眠にも無頓着なアイツが、わざわざ僕に作ってくれたものだ。
色とりどりの星に、ひょうきんなサンタクロース。イルミネーションでぼんやり照らされた大通りに、空助の背中を探す。
もし思い込みだったとしても、もう構わない。どうか逃げずに、僕の話を聞いてくれ。
余りあるもの クリスマスをひかえたロンドンの夜は、イルミネーションに彩られてまばゆい。赤、緑、青……さまざまな色の灯りのなかでも、空助はオレンジ色に惹かれた。きんと凍える空の下、温かさを求めて無意識に目がいくのだ。
この街で過ごして4年。料理やほかの文化にも、だいぶ馴染んだ。イギリスではクリスマスになると、日本のお正月のように家族で過ごすのが習慣だ。実家に帰省する人が増えて、首都は徐々に閑散としていく。
いま通り過ぎた店を、はたと立ち止まり振り返る。砂糖とバターの甘い匂い。小さな店構えの、素朴な菓子屋だ。
「ちょっと、寄ってもいいかな」
空助が提案すると、年明けに提出する論文の話に熱中していた同行者は、気を悪くした様子もなくにっこり頷いた。
外から見るより広い店内に、クッキーやパイが並ぶ。
「珍しいな、そんなに甘いもの好きだったっけ?」
「いや別に、好きでも嫌いでもないよ」
だったらどうして寄ったのかといわれたら難しい。なんとなく、足が向かっただけだ。クリームのたっぷりのったケーキを眺めていると、楠雄の顔が浮かんだ。焼き菓子よりも、生クリームのケーキのほうが喜んでいた気がする。
友人が紙袋を抱えて寄ってきた。お腹が空いていたのか、手早く物色して会計を済ませたらしい。空助はなにも買わなかった。
「弟は甘党なんだ」
ケーキを見て思い出したと話すと、
「……へぇ!? 君、弟がいたの!?」
かじったクッキーを吹き出しそうな勢いで、友人は大声を出す。反対にこちらがびっくりして、そんなに驚くことかと苦笑いすれば、「するに決まっている」と返された。
「だって、いままで一度も聞いたことがなかった」
確かに同じ研究をしていれば親密になるし、付き合いも長いからいろいろな話もする。だからといって、なんでも話してきたわけではない。お互い多かれ少なかれ、そんなものだろう。
うっかり余計なことを漏らしてしまったのが不愉快で、帰り道、誰にするわけでもない言い訳ばかり考えた。
楠雄は空助にとって、気安く弟と呼べる存在ではなかった。わざわざ他人に話すものか。テレパシーの研究をしている理由だって、誰にも明かしたことはない。
街の温かな雰囲気に呑まれ、気が緩んでしまった自分に苛立ちが湧いた。
夜、日本にいる母から電話がかかってきた。
イギリスに来たきり帰国はしていないが、いくつになっても心配なものは心配なのだと連絡してくるから、空助のほうからも定期的に手紙やメールを送っていた。
弾んだ声で、父が宿泊券をもらったのだと話す。付き合いの多い仕事だと、たまにはいいこともあるらしい。
『くー君のところに行ったときにパスポート取ったから、ちょうどよかったわ』
「うん、よかったね」
聞き流しておいたが、行く場所は国内だ。
父ときたら、仕事以外はとにかく母にべったりである。そのうえわざわざ旅行まで一緒なんて、よく行こうと思うものだ。父のよさがよくわからない空助には、優しくかわいらしい母の最大の謎だった。
『ただね、くーちゃんが留守番するって言って譲らないの』
「まぁ、そういう年ごろなんじゃない?」
高校生にもなれば、親と出かけるのは面倒になる子供のほうが多いだろう。留守番と言ったところで、地球の命運さえ左右できるような人間に、不便なことなどなにもない。
『でも、クリスマスなのに、1週間近くもくーちゃんと別々なんて……』
「大丈夫だって。たまにはそういう年もあっていいと思うし」
『本当に? じゃあ、くー君にお願い』
普段はふわふわしている雰囲気が急に引き締まって、こちらも緊張する。
『もしくーちゃんが寂しくなったら、相手してあげてほしいの。きっと遊びに行くはずだから』
「……なに言ってるの。楠雄が来るわけないよ」
一瞬ぎょっとして、喉がつかえた。わざとらしくトーンを上げる。冷え冷えしたいまの表情を、知られてはいけない。明るく朗らかなこの人に、自分の暗い胸のうちなど悟られたくなかった。
空助の心配をよそに、ほどなく電話は切れた。これで気兼ねなく旅行に行ってくれるだろう。
椅子に座ったまま、ぐんと体を伸ばす。いまは何時だったか、それより何日なのかと携帯電話を掴む。
母と話した日から研究室と自宅の往復ばかりで、研究に没頭する生活だった。アイディアは浮かんできて止まらない。多すぎて発表するのが億劫になったら、人に譲ってしまえばいい。まだ思いつくことはいくらでもある。
少し気分転換にと、ふらふら外に出た。
空助の住居の隣には狭い路地がある。石段を駆け上がっていく、二つの影が視界に入った。二匹の猫だ。グレーの毛並みがそっくりで、細身の体にまだ幼さが残る。もしかしたら兄弟なのかもしれない。二匹は階段を行ったり来たり、飛びかかっては離れてじゃれついた。寒さをものともせず遊んでいるのがほほえましくて、自然と笑みがこぼれた。
傍から見たら、子供のころの空助と楠雄も、こんなものだったのかもしれないと思う。
楠雄を嫌うのは、楠雄が憎いからではない。ただ、弟と自分を比べてしまうたび、心のなかに暗く重く、きたないものが溜まっていく。妬みと劣等感でどろどろに汚れた自分を、楠雄は毎日テレパシーで見ていたはずだ。それが空助には堪えられなかった。こちらの気持ちは筒抜けでも、弟がどう感じているかは確かめようがない。それが正直、おそろしかった。もっと兄らしく振舞いたかったのに、己の醜さから逃れることで精一杯だった。
本当はあの猫のように、ただ無邪気に遊んでいたかった。素直にすごいと褒めてみたかったのだ。父と母が愛する弟を、自分も一緒に。
今日は12月24日。両親が出発して数日経つ。そろそろ留守番も退屈してきたころだろう。母の言うとおり、きっと明日くらいには弟がこちらに来ると、空助も思っていた。
いつか負かしたい一心で楠雄を分析してきたおかげだが、弟のすることは容易に予想できる。独りでなんでもできるせいか、他人をなかなか頼れないのは、自分とよく似ている。両親を抜かせば兄くらいにしか遠慮できないのを、知って拒めるほど非情ではない。
ここでは日本と違って、祝祭日には街の機能が縮小してしまう。いまのうちに、開いている店を回ってしまおう。来るからには、甘いものは必ず用意しておきたかった。一番好きなコーヒーゼリーは売っていないから、作るしかない。まずは材料の調達からだ。
素直になれない代わりに、いまは少し大人になった。なんでもないふりをして、かわいい弟を迎えてやろう。明日一日くらいなら、望んだとおりの兄を演じられるかもしれない。
ミラクル 幼稚園は退屈だ。
鬼ごっこはわざと遅く走らなきゃいけないし、かくれんぼのとき本気で隠れたら見つけてもらえなくて、このまえ大騒ぎになった。おままごとは男女関係なく、心の声が生々しくて怖い。ほかの遊びもだいたいダメ。
僕は他人となにかするのに向いてない。だから今日も、教室のすみで絵本を読む。しかしそれも、すでに最後のページまできてしまった。ヒマをつぶすのも大変なのだ。
まだ読んでない本はあったっけ、と本棚とにらめっこしていたら「楠雄君」と呼びかけられた。
「ごめんね、くーちゃん。お昼もまだなのに」
先生についていくと、母さんが待っていた。早退、というやつだ。
がやがやと騒がしい声は、門を抜ければすぐに遠くなった。あそこから解放されたのはありがたいが、母さんの落ち着かない様子を見ていると、喜んでばかりいられない。つないだ手をぎゅっとにぎって、「瞬間移動する?」と聞いてみたら、母さんは「大丈夫よ、歩こうね」と言う。ちょっとだけ無理した笑顔だった。
そのあと小学校に寄り、空助を連れて三人で駅前まで行った。ビルの2階にある小さな病院だ。母さんと空助は奥の部屋に行ってしまって、僕が待合室できょろきょろしているうちに戻ってきた。危なっかしい足取りで歩いてくる。空助の白い顔が、今日は赤い。
「おだいじにねぇ」
看護師さんの猫なで声は、アイツの耳に入っていなかった。
帰ると母さんは空助を寝かせて、僕の昼ごはんを用意して、それが済んだらまた空助のところへ。家じゅうを行ったり来たり大忙しだ。
昼ごはんを食べ終わると、僕も二階に駆けあがった。背伸びしてドアノブをつかみ、中を覗きこむ。窓から白く光の入る部屋。母さんと目が合った。
「くーちゃん! ダメよ、風邪がうつっちゃうでしょ」
風邪くらい僕だって引いたことがある。首を振って、母の足元に駆け寄った。
ベッドの空助は、布団にくるまって震えている。
――寒いのか?
(うん、寒い……)
思わずテレパシーで尋ねたら、向こうからもテレパシーが返ってきた。ベッドのわきへしゃがむと、横を向いて寝る空助が薄目を開ける。
(あと、体が痛い。のども。頭もがんがんする……)
そんなにあちこちおかしくて、どうして平気なんだろう。いや、平気なわけない。テレパシーで話すのさえ楽じゃないみたいで、また空助は黙ってしまった。うっすら汗をかいて、髪がおでこに張りついている。そっと触ってみたけれど、びっくりして手を引っ込めた。すごく熱い。ちりちりする。炎天下の車のボンネットみたいだ。母さんが計ってそのままになっていた体温計を見たら、40℃と書いてある。
これは――危険じゃないか? 常人は45℃になったら死ぬって聞いたぞ。だが、母さんは全然減っていないおかゆを手に、部屋を去ろうとしている。
「行きましょう。くー君、寝かせてあげなきゃ」
なにを言っているんだ、この人は。
こんなのどう見ても普通の風邪じゃないだろう。空助なんてどうなってもいいけど、もしコイツが死んで、母さんが育児放棄だとか思われたりしては僕の生活にも関わる。だいたい、病院でお医者さんはなにをしてたんだ?
おかしい。もう誰も信用できない。だから決めた、僕がなんとかする。
どうしたらコイツの風邪が治るのか。僕は考えた。
まず、のどの痛みにはネギがいいと、近所のおばあさんが言っていたのを思い出す。冷蔵庫からひと束持ってきて、空助の首に巻いた。空助は苦しそうに胸を上下させて、眠っている。目を覚ましたとき、さみしいといけないから、ぬいぐるみを枕元に置いた。
問題は高い熱だ。部屋を冷やせば、熱も下がるかもしれない。だったら、氷を持ってきたらどうだろう。さっそく南極に行ってみた。
ペンギンの群れが遠巻きに僕をにらんでいる。氷を切り出しては、瞬間移動で空助の部屋に戻った。超能力があってもなかなか難しくて、ひとつ切るのにも時間がかかってしまう。服や髪の毛は凍って固まるし、氷の重さと冷たさで指がしびれる。
やっと何個か持ってきたところで、雑巾片手に般若の顔で立つ母さんと鉢合わせた。
「くーちゃんっ、なにしてるの!」
怒鳴り声で部屋の空気が震える。融けた氷で床はびちょびちょだ。
あんなに苦労して持ってきた氷は、あっという間に全部片づけられてしまった。
空助の机には、田舎のおじいちゃんがくれた「将棋盤」があった。ゲームができるみたいだけど、僕はまだルールも知らない。明日はこれで遊ぼうって言ってたのにな。
もう尽くす手がない。空助は死んじゃうのかと思ったら、急に怖くなった。
こんな奴。いなくなったらせいせいするはずなのに、鼻の奥がつんとして痛い。一度あふれ出した涙は止まらなくて、グスングスンとしゃくりあげて泣いた。バケツ1杯分くらいは泣いたかもしれない。そのうち、なんだか力が抜けて、僕はベッドのそばで眠ってしまった。
目を覚ますと、部屋は薄暗くなっていた。
外は夕焼け。僕の膝やほっぺたも、みんなオレンジ色だ。まだ夢の中にいるみたいに、体がふわふわと軽い。
後ろでもぞもぞ動く気配がしたので、起きあがって振り向いた。空助がベッドに座って飲み物を飲んでいる―僕はまだ夢を見てるのか? それともこれは幽霊か。
また横になろうとしたとき、やっとこっちに気づいて、空助は目を丸くした。
「楠雄……ずっとそこにいたの?」
枕元から、くたくたになったネギがすべり落ちる。
驚きを隠して、僕は小さくうなずいた。だって、もう助からないと思っていたんだ。
差し出された手を触ってみると、昼間より熱くない。ぼんやりしていた瞳も、いまはちゃんと僕を映していた。なんだ。僕がなにもしなくたって、治っちゃうのか。
「ゴメン、今日は勝負できなかったな」
ふらふらのくせして、いつもの調子でそんなことを言う。違う。勝負したいのは空助だけだ。
――なに、ニヤニヤしてるんだ。
「え? 楠雄だって笑ってるじゃないか」
最果てまで ふう、逃げきったぞ。
休み時間のたび、わけもなく寄ってくるクラスメイトをどうすれば回避できるか。それは僕にとって、どんなテストより難問である。でも、この昼休みは僕の勝ちだ。口元をゆるませながら、屋上へと続く薄暗い階段に足をかけた。
「あれ? 斉木さん」
チッ、鳥束か。
足下から呼び止められ、僕はうんざりとため息をつく。久しぶりに、静かに昼食を摂れると思っていたのに。あと一歩のところで油断したのがまずかった。
少しうるさいが仕方ない。構わず無視して、屋上の扉を開ける。だが、なおもついてきた鳥束がさらっと奇妙なことを言うものだから、つい返事をしてしまった。
「見慣れない霊連れてますね。新しい守護霊っスか?」
――守護霊って、そんな気軽に取り替えるものなのか?
てっきり一生同じなのだと思っていた。そもそも、いままでどんな霊が憑いていたかだって知らないぞ。
「さぁ。斉木さんのことだから、特別なんじゃないっスか」
――適当なこと言うなよ。
鳥束は空中に向かって話しかける。見慣れた状況だが、やはり不審人物にしか見えない。それにしても、どんな守護霊なんだ? これだけ騒がれたら、僕だってちょっとは興味が湧いてくる。
「なぁアンタ、この人に憑いてるんですよね? なんか恥ずかしいクセとか教えてくれないっスか? ちょっと弱味握りたいんで」
――おい、思いっきり本人に聞こえてるぞ。
手袋を外し、鳥束の肩を掴んだ。途端、サイコメトリーによって鳥束の視界が頭に流れ込んでくる。
「そういえばアンタ……こころなしか斉木さんに似てないっスか」
その瞬間、頭が真っ白になった。
空助。
どうしてそんな姿をしてる。
呆然としていた僕は、鳥束に何度も腕を引っぱられ、ようやく我に返った。
幽霊は血の気のない顔にうっすら笑みを浮かべながら、寺生まれの男につらつらと皮肉を述べている。すでにさんざん罵られたあとらしく、鳥束は涙目だ。図太いだけが取り柄のコイツを負かすとは、さすがじゃないか。
性格といい外見といい、それはどこから見ても僕の兄だった。
しかし、どういうことだ。アイツのことだから、また質の悪いイタズラかもしれない。そう思ったのも束の間、僕の携帯電話がけたたましく音を立てた。発信元は、祖父母の家だ。
『楠雄……。ど、どうにかしてくれ……空助が……死んでしまったんじゃ……。お前の力で、なんとかしてやってくれ……』
弱々しく響く祖父の訴え。僕の返事を待つより先に、それは嘆きに変わった。
『どうして、わしより先に……死んだ……。空助、空助ぇぇぇぇ!!』
スピーカーの音が割れるほどの絶叫に、全身が凍りつく。電話の向こうで起きていることは、千里眼なしでじゅうぶん想像がついた。死んだ空助にすがりついて、号泣している祖父。
なぜ急に。よりによって、孫を溺愛するこの人の前で。
いくら僕が超能力者でも、死んだ人間を生き返らせることはできないのだ。だが、いまの祖父にそれを伝えるのは惨い気がして、言葉が出てこなかった。
嘘だろ。どうしても信じられない。空助が死ぬなんて。
だってアイツは、僕が生まれるより前からいたのだ。存在しない世界なんて、ありえない。祖父がどれだけ泣いても、僕は泣けなかった。
時間がやけに長く感じた。汗のにじんだ携帯電話を握りしめていると、しばらくして『楠雄ちゃーん』と祖母の声が聞こえてきた。いつも以上に、なんだか若い。この前、空助が造ったマシンで若返ったままなのか。しかも、この一大事にしては、だいぶ落ち着いている。
『ごめんなさいね、驚いたでしょう。空助ちゃんなら、廊下で倒れてただけよ』
なんだって? アイツは死んだんじゃないのか?
『そんな簡単に死なれちゃ困るわ。安心してちょうだい』
なんだ、焦って損した。完全に祖父の早とちりだったらしい。
あのろくでもない計画のために、空助は近ごろ寝ていなかったのだという。
『とはいっても、かなり疲れてたみたいなの。心配だし、念のため救急車を呼んだわ。お父さんも一緒に乗せてもらえるかしら……びっくりして、また血圧上がっちゃったみたい』
そっちのほうが大丈夫かと不安になったが、祖母にとっては慣れたことなのか、明るい調子で電話を切った。
「『空助』って僕のこと?」
するりと隣に寄ってきた霊に、僕はゆっくりと頷いた。コイツのことだからさっきの電話で察しているだろうが、僕の兄なのだと付け加えて。どうやら普通の幽霊と同じで、記憶がないらしい。
「ちょ、ちょっと! その人、生き霊なんスか!?」
――なんだ、うるさいな。
振り向けば、少しのあいだに見違えるほどくたびれきった鳥束が、後ずさりしながらわめき散らしている。
「生きた人間がわざわざ霊になって来るとか、どんだけの執念っスか……。ヤバいっスよ!!」
――おい、待て……!
呼び止めるのも聞かずに、逃げ去ってしまった。やれやれ、生き霊が怖いんじゃなくて、アイツの言動に耐えきれなかっただけだろ。
まいったな。鳥束がいないんじゃ、霊が視えない。そのうち本体も目覚めるだろうし、もう放っておくか。
すっかり忘れていたが、ここへは昼食のために来たのだった。コンクリートの床に腰を下ろし、弁当箱を開ける。
冷えたおかずを、少しずつ咀嚼する。甘さや塩辛さはどこかへいってしまい、異物が喉を通りすぎる感触だけが気になった。痛みに似たなにかが、じわじわ内側から広がっていく。箸を持つ手は冷たくて、うまく動かせない。
空助が死んだかもしれない―実際のところは違ったが、いまさらになってぞっとした。
「……『くーちゃん』」
ご飯の上に並んだ海苔や絹さやが、文字になっている。母さんは愛情込めてるつもりでも、10代男子にとっては、ひやかしのタネにしかならない。
――読み上げるなよ。
降ってきた声の主を見上げ、僕の憂鬱は余計に増した。白衣を着た生き霊が、ふわふわと宙に浮いている。なぜ、視えてしまうんだろう。霊能力者でもないのに。
授業の始まりを告げるチャイムが校舎にこだまして、不協和音を奏でる。
***
山と田畑のほかにはなにもない、一国山は平和な田舎に戻っていた。このあいだまではドローンが飛ぶわ、パワードスーツを着た老人が歩いているわ、ひどいありさまだった。
あぜ道を抜けて裏口から祖父母の家にやって来ると、案の定、中は無人だった。慌てて支度をしたためか、冷めたお茶の入った湯呑みがちゃぶ台の上に残っている。この霊を本体に押し込んで帰るつもりだったが、一足遅かったらしい。
「なにしてるの?」
――千里眼で、お前たちの行き先を調べてる。
「ふーん。便利な力だなぁ」
祖父と兄が寝かされているのは、大きな総合病院だ。車で行けば四十分くらいの場所か。診ている医師や看護師たちは落ち着いている。祖母の見立てどおり、たいしたことはなかったのだろう。
――さっさと病院に行くぞ。
「その前に、ちょっと寄り道していかない? 意識が戻るまでまだ時間あるだろ」
長い指が部屋の隅に置かれたパンフレットを示す。ひと昔前の雰囲気が漂うやけにハデな表紙には、「彩波手ゆうえんち」と大きく書かれていた。
祖父母や両親と来たのは、つい最近だったようにも、ずいぶん昔にも思える。
遊園地はあのときと変わらず、うらぶれた風情で営業を続けていた。平日の午後ともなれば、人よりカラスのほうが多いくらいだ。
「そういえば、君。授業はよかったの?」
――やめろ、『君』なんて。気持ち悪い。
しらじらしい気遣いは、いまに始まったことじゃない。だけど、空助が僕をそんなふうに呼んだことはなかった。
「だったら、なんて呼んでたのさ」
――『お前』だったり……名前だったり……だな。
すると空助は大げさに目を見開いて、まばたきしてみせる。
「『お前』ねぇ……。僕がそんな言葉使うんだ。へぇ、信じらんない。よっぽど嫌いだったか、それとも――ステディな間柄だったのかな?」
だから兄弟だって言ってるだろうが。わかっているくせに、腹立つな。コイツ、記憶がなくても僕を苛立たせる才能はそのままだ。それを見て、機嫌がよくなるところも。
空助はうきうきして、次から次へとアトラクションを巡っていく。傍から見れば高校生がひとり、真顔で乗り物に乗っているだけの異様な光景だ。さっそく暇を持てあました従業員たちのネタにされ、「ひとり修学旅行」なんてあだ名をつけられた。
レールから外れそうなジェットコースターを念力でなんとか制御しながら、ようやく一周して戻ってくる。隣の席には、僕の目から見ても誰もいない。空助は加速し始めたところで置いていかれ、空高くを漂っていた。
ジェットコースターに限ったことではなく、コーヒーカップやメリーゴーラウンドも、空助の体をすり抜けてしまった。霊とはそういうものらしい。
ベンチでチュロスをかじっていると、隣に座る空助が、
「ひとくち、ちょうだい」
無理だと知ったうえでそんな冗談を言う。
――そうだ。今日の経費、全額お前に請求するからな。
「えー、本気?」
ペンキが剥げ、錆びた柵の上を綱渡りみたいにして歩きながら、空助は口をとがらせた。
――来たがったのはお前なんだから、当然だろ。
「楠雄のケチ」
80億も持ってる人間が、なにを言う。
気づけばもう、日は傾いていた。茜色の空をバックに、ぼろぼろの観覧車が不気味な影をつくる。
「……あれだったら、乗れるかな?」
懲りずに誘う兄にこれで最後だと答え、僕は立ち上がった。
不穏なきしみをあげながら、ゴンドラがゆっくりと昇っていく。大きな窓に額をつける兄の横顔は、いつもより幼い。
「結局、これしか乗れなかったな」
本人の予想どおり、観覧車は霊にも適した乗り物だった。
「仕方ない。元の体に戻ったら、また一緒に来よう」
僕が沈黙を続けると、しばらくして空助はため息をつく。
「なんだ、いやなの?」
――無理だ。いやもなにも、記憶があるお前となんて。
どうせ厄介なことを企んで、勝負を仕掛けてくるに決まっている。嫉妬や憎悪を隠しもせず、僕を振り回す。周りまで巻き込んで、あげく自分の命すらないがしろにする。
今回だってそうだ。迷惑きわまりない。
「どうしてそんなことを」
――お前は、僕が嫌いでたまらないからだ。
兄と同じ顔、同じ魂で、まっすぐに見つめてくる。僕の知らない、無色透明の空助。
「……そんなに嫌いだったかなー。しっくりこないけど」
――覚えてないから、そう思うんだろうが。
「でも。覚えてなくても、会いに行かなきゃと思ったよ。楠雄のことだけがきっと、僕の未練だったんだ。それって大切だってことじゃないの?」
――僕に訊くな。
それがわからないから、怖いのだ。
生まれてから一度だって僕を認めてくれない、ただひとりの相手。空助に「嫌い」と言われるたび、僕は痛みを覚える。気にするほどじゃないと言い聞かせても、喉に刺さった小骨のように、放っておけない痛みだった。
鳥束は、生き霊になって現れるのは、執念からだと言った。それほどまでに、僕のことが憎いのか。それとも。
もし空助が死んでしまったら、永遠に確かめられなくなってしまう。アイツにとって、僕とはなんだったのかを。
静寂の中で、朽ちかけた観覧車のバキンという音だけが響く。こんな狭い場所で隠しようもないのに、うつむいて嗚咽を押し殺した。生き霊の空助は黙って、外の景色を眺めていた。
もう二度とこんな思い、したくない。ふざけた霊になってまで付きまとわれるくらいなら、生きていてくれたほうがずっとましだ。どんなに憎らしくても、鬱陶しくても。
空助に訊きたいことがたくさんある。すぐには無理でも、いつか答えてくれるだろうか。すべて知り尽くしたら、僕の痛みは消えるのか。
曇ったガラス越しに夕日が射しこみ、空助を染める。透きとおった体がオレンジ色に溶けて、しだいに薄くなっていく。
ゴンドラが頂上に来たとき、電話が鳴った。画面には祖母の名前が表示されている。
『楠雄ちゃん! いま、空助ちゃんが目を開けたのよ』
安堵のにじむ祖母の声を聞きながら、無言でうなずく。数秒もしないうちに、目の前には誰もいなくなった。
消えていく寸前、空助の唇がゆっくりと、音にならない言葉を紡いだ。
「バイバイ」だと? バカ言え。
お前と僕との縁はどうせ、生きている限り続くのだ。
かがやく日々が 人工の明かりに照らされて、色とりどりの花が咲いている。
空助に連れてこられたのは植物栽培室だった。教室の数倍ある広い空間は金属の壁がむき出しで、花園というより工場と呼ぶほうがふさわしい。
整然と並ぶ銀色の棚のところどころに、計器が取りつけられている。植物の生育はすべて、コンピュータが管理しているようだった。耳鳴りがするほど静謐な部屋で、ときどき水の落ちる音だけが響く。
目の高さにある一株の蘭に、なにげなく手を伸ばした。白い花びらは柔らかで、ひんやりと冷たい。その繊細さは瓦礫の転がる外の世界と不釣り合いで、なんだか心もとない。
要塞のようなこの施設の一角で、生き生きと緑が息づいているなんて、タイムマシンと天才科学者を狙う連中は、きっと想像さえしないだろう。
――で、なにをしろって?
テレパシーで話しかけると、鋏を手渡された。
「こうやって、花束を作ってほしいんだ」
パチンパチンと音を立て、白衣の男は花の茎を切る。
僕も兄に倣い、春夏秋冬さまざまなそれらを、ひとつ、またひとつと摘んでみた。言っておくが、フラワーアレンジメントの才能なんてないからな。色合いもバランスも知ったことか。
一刻も早く元の世界に戻りたいけれど、そうもいかない。タイムマシンを使わせてもらう代わりに、コイツの願いを聞き入れる約束なのだ。
「楠雄はいま17歳なんだっけ? てことは、高校生か」
無心で花を切っていたら、ふいに空助がつぶやいた。顔を上げれば、穏やかな光を灯した瞳と視線が重なる。
「ねぇ、学校は楽しい?」
細めた目の奥からキラキラと喜びがにじみ出ている。僕と話せるだけで、そんなにうれしいのだろうか。負のオーラ全開だった、元の世界の空助とはえらい違いである。
――別に。強いていうなら、面倒なことばかりだ。
「また、そんなこと言っちゃって~」
さっきからなんなんだ、その浮かれたテンションは。これはこれでやりづらいな。
「どこの学校に通ってるの? あっ! 町内だったら、PK学園かな。小さいころ校門の前通ったときに、指さしてたよね。ここに行くんだってさ。確かあの学校って、クラスの表記が変わってたなぁ。2年何組なんだい? 楠雄は人間離れしてる割に平凡やら平均やらが好きだから、真ん中あたりの3組だったりして」
僕が口を挟む隙もなく、ペラペラと喋っては、正しい回答を付け加えていく。
「クラスメイトはどう? 1年から同じクラスの子もきっといるよね。友達はできた? 勉強ができて真面目だけど中二病だとか、バカすぎてテレパシーでも思考が読めないとか、変な子ばっかりで苦労してるんじゃない?」
アイツらと友達になった覚えはないが、だいたい合ってる。
「うーん、楽しそう。友達と放課後寄り道したり、休みの日には遊びに行ったりするんでしょ。夏休みや冬休みだってさ、お祭りやら海やら、クリスマス、初詣―楠雄のことだから、『やれやれ』とか言いながら、みんなに付き合っちゃうんだよね。あーあ、僕も高校生になりたいなぁ。季節の変わり目には、漫画みたいにやたらと転校生がやって来るんだ。もしかしたら楠雄ほどじゃなくても、なにかの能力者もいたりして。あとは……なんだろう、学級委員の子になぜか一目置かれて、目立ちたくないのに目立っちゃったりさ。体育祭や文化祭で人気者にされちゃうんだろ。いいなぁ、そういうの。青春だよね~」
全然よくない。
「修学旅行はもう済んだ? どこに行っても、食べ物にしか目のない食いしんぼキャラとかもいそうだよね。……あぁそうだ、彼女はいないの? じゃあ、好きな子は?」
――いない。
「嘘だ~」
――嘘じゃない。
「ねぇねぇ、誰にも言わないから教えてよ」
お前は修学旅行の夜の女子か。
空助はなおも食い下がってきたものの、幾度か無意味な押し問答を繰り返したのち、諦めた。
「まぁ、無理か。普段の楠雄って、暗くて無口なだけだもんね。とはいっても、そういう奴にかえって惹かれる子もいるし。夢見がちな女の子をちょっと勘違いさせたり、美少女に興味を持たれたりとか、それくらいはありそうだな。しかも、その子のお兄さんがひどいシスコンだったりするんだ。悪い虫だって決めつけられて、無駄に絡まれるんだろ。最悪だね!」
そいつと張り合えるくらいのヤバイ兄貴も、ここにいるけどな。
「まぁ全部、あくまで僕の想像だけど」
マジデスカ。
見てきたように言い当てられ、僕は立ったまま固まっていた。いまのが全部、ふだんの僕―しかも3年前までの―を分析しての結果だというなら、気持ち悪いを通り越して怖い。
呆然とする僕の手から花束を取ると、空助はそれを薄いピンクの紙で包んだ。兄の作ったものも合わせて、二つの大きな花束が出来あがる。
「じゃあ、行こうか」
そう言って空助は僕の肩に手を置き、自力で行くには難儀なその場所を、テレパシーで示した。
瞬間移動で飛んだ先は、僕にとっても馴染み深い。春休みが終わる少し前、この火山に来るようになって、もう4年が経っていた。
「そっちの世界では、噴火は起きてないの?」
――まだ、これからだ。なかなかうまく止められなくて、何度か地球の時間を戻してる。
「そうか。少しの出来事が違うと、そういうことも変わるのかな。こっちは3年前だったよ」
――噴火したのか。
あれだけの規模の災害だ。予知夢ではそこまで見られなかったが、火山灰による気候の変化は、世界にまで及んだのだろう。世界大戦が起きたのも、兄の発明だけが原因ではあるまい。
これはやはり止めないとまずい。次こそは確実に。奥歯を噛みしめひび割れた砂地をにらんでいると、空助が首を振った。そして、
「いや、噴火は楠雄が止めたんだ。でも、いまのお前ほどの能力はなかったから」
死んだ、と消え入るような声で言った。
空助はしゃがみこむと、墓石どころかなんの目印もない、乾いた土の上に花を置く。それから手を合わせ、ひっそりと祈りをささげた。
「アイツに守られるほどの価値なんて、この世界にはないのにね。楠雄は死ぬことすら平気なくらい、退屈だったんだなって思ってた。……だから、17歳の楠雄に会えてうれしかった」
山の冷たい風が淡い色の髪をなびかせ、隠れた左目を露わにする。泣いているのかと思ったその顔は、そっと微笑みをたたえていた。
(いまの楠雄の守りたい日常の中には、楠雄もちゃんといるんだね)
口に出さずに、気恥ずかしい言葉を投げかけてくる。
僕は聴こえないふりをして、持っていた花束を地面に手向けた。永遠にこの世界から消えた、14歳の僕へと。
彼だっていまの僕と同じだったのだろう。厄介な家族や他人に囲まれ、あれこれと手を焼いて。このいびつで鮮やかな花束みたいに、たくさんの思い出があったはずだ。違ったのは結果だけ。
僕はヒーローなんかじゃない。ただ自分のエゴだけで、世界をつくり変えている。
冬日 地上からおよそ20センチ。猫の目線で歩けば、住み慣れた我が家も途端にテーマパークと化す。
門から入るなり、鬱陶しく行ったり来たりする父と遭遇。巨大な脚を避けようとして、うっかり植え込みに突っ込む。折れた枝のあいだから体をひねり出すと、今度は肉球に冷たい感触がして、気づいたときには白い毛のあちこちに泥が跳ねていた。
なんだ、この大きな水たまりは。僕は本物の猫がするように、四つの足を交互に振って水を払う。壁に家じゅうの窓ガラスが立てかけられているのを見て、父が今朝、母さんから掃除を頼まれていたのを思い出した。窓掃除は毎年この男の役割なのに、大みそかの今日まで放ったらかしていたらしい。おかげでリビングには、からっ風が絶えず吹き込んでいる。
僕の場合、寒さはどうにでもなるのだが、こうもバタバタしていられては落ち着かない。掃除が終わるまで、このまま猫らしく丸くなっているか――と縁側に飛び乗ってみると。
そこには、
「パパ、うちって猫なんて飼ってたの?」
とんでもない先客がいた。
空助に呼ばれた父さんが、雑巾片手に寄ってくる。そして白猫の姿をした僕を見るなり、目尻を下げて「よく来まちたね~」と猫なで声を出した。
「近所のが遊びにくるんだよ。ん~? 今日はアンプちゃんと一緒じゃないのかな~?」
やめろ。気持ちの悪い顔を近づけるんじゃない。
兄が帰ってきているなんて思いもしなかった。テレパスキャンセラーなんて、まったく面倒な発明をしてくれたな。神出鬼没なのは燃堂だけにしてほしい。
だが、こうなったらこちらが逃げるのも癪だ。まだ正体はバレていないようだし、猫のままやりすごすしかない。アンプの喧嘩に加勢していたのが、不幸中の幸いである。
「ねぇ、ママって猫アレルギーじゃなかった?」
まさかエサなんてあげてないよね、という空助の言葉に、父はぎくりと肩をこわばらせる。
「やっぱり」
「そ、そんなことより昼になっちゃうぞ。ママが帰ってくる前に掃除終わらせないと! お前もせっかく帰ってきたんだから手伝ってくれよ」
父は大袈裟に腕まくりして、しらじらしく話をそらした。
「えー? 構わないけど、その前に猫……」
「よーし、さっさと終わらせるぞー!!」
しつこい追及を前に、一家の長は尻尾を巻いて逃げ出してしまった。手伝いを回避するその手口、僕も見習わせてもらおう。
若きマッドサイエンティストは、僕の右側に足を組んで座っていた。光に透ける薄黄色の髪が風に散らされ、ばらばらになる。コートにマフラー、しっかり着込んでいても、じっとしていては寒そうだ。
そういえば、コイツがこうしてボーっとしているなんて珍しいな。背後の床にはバッグや紙袋が転がっているし、荷物の整理もまだらしい。
見上げていると突然視線が重なり、持ちあがった左手が近づいてきたものだから、思わず身を低くして構えてしまう。跳ねた背中に触れた指先が軽やかに毛並みを滑り、次の瞬間、僕の体は宙に浮いた。
「やだなぁ、そんなに警戒しなくたっていいのに」
穏やかな声が頭上から降ってきて、空助の膝に乗せられたのだと初めて気づく。決して太くはない腿の上で、爪を立てないようなんとか踏みとどまる。
「あったかいな~」
独り言をつぶやきながら、兄はそっと僕を撫でる。耳の後ろや顎の下を優しく掻かれると、喉が自然にゴロゴロと鳴った。片手で支えてくれているから、いまはバランスの悪さもあまり感じない。白い手に頭を擦り寄せれば、空助が鼻で笑った。
ゆったりと流れる時間の中で、心が輪郭をなくしていく。なにをしていたかも忘れてしまいそうになる。ひょっとしたら、僕は生まれたときから猫だったのではないかと、錯覚してしまいそうなほどだ。
吹きつける風は変わらず冷たいのに、日差しと人の体温が心地よくて、うとうとと眠気に誘われる。なんて平和なんだ。なにかにつけて勝負しろとうるさいコイツも、今日みたいに静かなら嫌いじゃない。
「……楠雄。いつまでその姿でいるの?」
いたずらを仕掛ける子供みたいなその声を、僕は無視した。いつ気づいたんだ、いったい。もう少しこのまま、ゆっくりさせてくれ。
ため息をひとつ吐き、空を眺める。町の人々が奏でるテレパシーは、慌ただしさと去りゆく年への寂しさ、それからほんのわずかの期待をごちゃ混ぜにしてざわめく。
僕にはまだ、来年のことを気にする余裕などない。この腕からいつすり抜けようか、そればかり考えている。
家路 ビニールが破けている。
手をついたソファに違和感を覚えて、僕は見下ろす。飛び出したスポンジを押し込もうとし、しかし悪化するだけだと考え直してやめた。
客もまばらな夕方のファミレス。気まずいほど静かな店内の空気を、たまにかき乱すのは建物を揺らす音。すぐ外を走る国道は、いつから修理されていないのだろう。大きなトラックが通るたびにガタガタとひどい地鳴りがする。
3分19秒が経過して、僕の前に皿が置かれた。「ご注文は以上でおそろいでしょうか?」とおざなりな笑顔で店員が尋ねると、向かいの青年は頷いた。
待ちきれず掴んだスプーンはひんやり冷たくて、センサーが指先まで正常に作動していることを知る。空助は口元までカップを持ち上げたまま、「どうぞ」と言った。すくい上げた黒い宝石が、僕の瞳を映して揺れる。鼻腔をくすぐるコーヒーの香り。ほろ苦さとクリームの甘さが舌の上で溶け、ふわふわと気持ちが高揚する。これが幸せというものだろうか。
コーヒーゼリーを食べるのは、今日が初めてだ。起動してから、与えられるのはスイーツばかりだった。どれもおいしいことに変わりはないが、やはり一番の好物、格別である。
「おいしいかい? 楠Ω」
僕の創造主は、テーブルに両手で頬杖をついて、こちらを凝視する。
「楠雄に似せてるんだから、当たり前だ」
「ははっ、そうだよね~」
ふやけた顔に湧きあがるこの不快感も、あらかじめプログラムされたものなのだろう。睨みつけてやっても当人に効果はなく、代わりに奥のボックス席の老婆が凍りついた。僕の顔はそんなに怖いのか?
「怖くないよ。かわいいじゃないか」
ロボットの心を読むな。
「超能力がなくなったら、アイツの目もこうやってメガネなしで見られるんだな~」
満面の笑みを浮かべた空助を無視して、コーヒーゼリーを口に運ぶ。どんな状況だろうと、おいしいものはおいしかった。
数日前に目覚めたロボットの僕は、この変態の弟を模して造られている。立ち居振る舞いや会話のパターン――それらを割りだす元となる記憶も、すべてインプットされているおかげで、製作者いわくかなりの再現度らしい。なんのために造ったのかは知らないが、どうせろくなことではないだろう。
昨日まではずっと研究室に閉じ込められていて退屈だった。だが、楽しみにしていた外の世界もなんてことはない、山ばかりのド田舎だ。動作チェックと称して、店に着くまで40分も歩かされてしまった。やれやれ。オリジナルの《斉木楠雄》だったら、瞬間移動で来られるのにな。
「ねぇ、楠Ω。『お兄ちゃん』って言ってみて」
なんなんだコイツは。マジキモいんですけど。
「そもそも楠雄だって、そんな呼び方したことないだろ」
「あるよ、生後2ヶ月くらいまで」
「短っ」
そこからはずっと争うばかりだったのだから、「お兄ちゃん」なんて慕われないのも自業自得である。さんざん敵意をむき出しにしておいて、かわいいだなんだと言いだすのが不思議だ。人間の心が複雑なのか、コイツが特別なのか、僕にはよくわからない。
ゼリーを食べ終わったあとも、空助の思い出話は続く。どれも僕の記憶領域にしっかり入っている情報なのだが、語りたいようだから放っておくことにした。
外へ出るころには、空がオレンジ色になっていた。昼間の暑さが嘘のように風は冷たくて、思わず後ろを振り返る。
「なに?」
財布をポケットにしまいながら、空助がそっと微笑む。
「いや……」
僕はロボットだから風邪を引くことはないが、コイツは平気だろうか。そんな思いがよぎったとき、足元を小さな影がすり抜けた。
薄闇のなかでほのかに光るように真っ白の猫は、主にすり寄って「ニャア」と甘えた鳴き声をあげる。
「ああ、迎えにきてくれたんだね」
空助が猫を抱きあげると、
「気温に対して服装が適切ではありません。防寒着の着用をおすすめします」
機械的な音声が流れた。
すすめられたところで防寒着なんて持ってきていないので、行きより早足で帰り道を歩く。空助の後ろを離れずについていく猫は、一見けなげだ。しかし、よく見ると小さな口から細い針がのぞいている。
「予定されたメディカルチェックの時刻です」
注射器の飛び出した口が、何度も脚を狙う。タスクの遂行が最優先になっているのか、ずいぶん物騒かつ強引である。
しばらくしてセットされた時間を過ぎると、ようやく針をしまっておとなしくなった。せっかくのかわいらしい容姿が台無しだ。
猫は僕の元となった、AIロボットの試作機である。空助の実家に送った2体目にも同じ機能はついているらしい。あげく、僕になると注射器では済まない。
「どうして僕には、機銃なんて仕込んであるんだ」
独り言のつもりだったのだが、
「だって、そのくらいしないとお前が壊れちゃうし」
と、間髪入れずに返事が来る。
「楠雄と戦ってもらうにはさ」
ほらな、やっぱりろくなことじゃない。あまりにも予想どおりの使い道に、呆れる気すら起きなかった。相手は超能力者だぞ。機銃くらいで対抗できるか。
「やだな~、そんな顔しないでよ。壊れたら直してあげるから」
何回でも、と付け加えながら、その手が僕の肩に置かれる。重みを感じた拍子に、なにかの回路が反応して、悲しさともうれしさともつかない感情が込み上げる。
「完全な制御装置を楠雄がつけたら、もう大がかりな勝負なんかできないぞ。どうしてそんなもの発明したんだ」
ややあって、天才科学者は言う。
「だって、僕にもアイツの心は直せないから」
山の向こうへ沈んだ太陽の、最後の光が世界を赤く染める。影になった空助の表情はうかがい知れなかった。
――お前、後悔してるのか?
アイツと向き合ってこなかったことを。
口に出さなかった言葉は、テレパシーが使えないから届かない。
狭い歩道のすぐ脇を、車が猛スピードで走り抜けていく。空助は僕をかばうように車道側を歩いた。近い未来、楠雄が超能力を手放したら、きっと同じことをするのだ。 本人が喜ぶかは別として。僕はそれまでの練習台というわけか。やれやれ、面倒くさいな。
「あっ、そうだ。帰ったら楠雄に送る動画撮るからさ、僕の靴舐めてよ」
本当に、やれやれだ。
「コーヒーゼリー3つで、手を打ってやる」
交差点を曲がると、小さな集落に入る。
順応の早い斉木家の祖父母は、すでにレプリカロボを孫同然にかわいがってくれていた。早くあの二人に、「ただいま」が言いたい。つかの間のおかしな家族を、僕は案外楽しんでいる。ほんの少しのさびしさは、胸の奥にしまって。アイツもそのうち、「ただいま」が言えたらいいと思う。彼と弟が生まれたあの家で。
猫を抱きかかえて走りだすと、後ろから「待ってよ」と空助の明るい声がした。
空をこえて 突然、腹に響くような衝撃。
庭にいた空助は手を止め、振り向いた。
見上げれば、かすかに光がちらついた――ような気がする。願望が見せた幻かもしれない。音速を超えて飛んでいく彼は、きっと美しいだろうから。空気を震わせる轟音を残して、空にはただ薄い青が広がっていた。
隕石落下まであと2時間。空助は数通りの案から方法を選んだが、楠雄だったら10通りは手があるだろう。火山を抑えるよりは難しいだろうか。たいした差はないと思う。
「ちょ! 空助、これどうにかしてくれよぉー!」
感慨にふけっていた意識が、突如現実に引き戻される。さきほどからじたばた暴れていた父・國春が、いよいよ顔を青くしてわめいていた。
「あっ、ごめんごめん。大丈夫」
「なにが大丈夫なんだ! 背中から火が出てるんだけど!?」
急ごしらえの救世主がこれ以上錯乱しないうちにと、スーツからのジェット噴射を停止する。もうこのさき、用途はないだろう。自信作だっただけに残念だ。
父はこれから、身ひとつで大気圏を突破するはずだった。
「あー……死ぬかと思ったよ~。隕石なんか止められるわけないだろう」
「できるよ。僕が造ったんだから」
人類の存続はじゅうぶん保障できていた。実行役がどうなるかは別として。
「まったく、凡人の力を甘く見すぎだよ。パパも、楠雄も」
「……さっきの音、やっぱりアイツか」
もう一人の息子の名を聞いて、父はぼんやりとつぶやく。空助がうなずけば、眉を寄せて渋い顔をしてみせた。
「超能力が戻ったんだな」
「うん。よかったね、これでパパも遅刻しなくて済む」
空助は縁側へ腰を下ろした。両手を組んで、軽く伸びをする。
「そんなに頼ってないって」
スローモーションのようにぎこちなく体を動かして、父がゆっくりこちらに近づいてきた。装備が重いのだ。
「それよりお前、悔しくないのか?」
「えっ、なにが?」
「超能力の封印、意味がなかったってことじゃないか」
「ああ、それ……」
思いもよらない問いだ。一瞬とまどったのち、素直な言葉が口から出た。
「全然。むしろ、わくわくしてるよ」
心の底から湧きあがる、すがすがしく軽やかな感情に、嘘はない。
正確には意味はあった。空助の装置で、一度は弟の超能力が消えたのだから。もちろん誤算はある。また能力が戻ることも想定してはいたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。楠雄が手放したいと本気で願っていたのなら、事態は違っていたのだろう。
「本当に、楠雄は面白い」
いつでも簡単に、自分を超えていってしまう。どんどん変化していく。成長だとか、進化といったほうがいいかもしれない。だが、負けてたまるか。いつかは追い越して、驚かせてやる。
かわいい弟には、憧れられたい。それが兄というものだ。彼が超能力者かどうかなんて、関係はなかった。楠雄が望むなら、どちらでも。しいていえば、少し歯ごたえのあるほうが都合がいいという程度。
「大変よ、パパ! くー君!」
おろおろ門から駆けこんでくる母の姿に、立ちあがる。警報を聞き、慌てて帰ってきたのだろう。よろけて転んだ父は無視して、抱きつく彼女を受けとめた。
その瞬間、頭上がにわかに明るくなる。
白い閃光が、世界を照らす。
終わったのだ。
案じる間もなく、楠雄はじきに帰ってくる。もとから心配なんてしていないのだけれど。誰も知らないだけで、弟は何度も人類を救っているのだから。
(また制御装置を造ってやらなきゃいけないな。勝負だっていくらでもできる)
震えるほどの喜びが、体じゅうへ静かに広がっていく。緑のレンズ越し、不敵に自分をにらみつける弟が目に浮かんだ。
(聞こえてる? 大好きだよ、楠雄)
いま。
叫びだしたいくらい、僕は幸せだ。