遺言~六月十九日~ 太宰さんは死んだ。
ただし自殺ではなかった。僕に云えるのは、それだけだ。
「降誕祭の買い出しはこれくらいですかね、太宰さん」
「葡萄酒も用意したし、ケーキと唐揚げもあるしね。充分じゃないかな」
すれ違い、道を行き交う人々は、皆どこか楽しそうだ。それはきっと僕たちが幸せだからそう見えるのだろう。温かいマフラーに首をうずめると、ジングルベルのメロディが鼓膜を軽やかに叩く。
「お互いプレゼントも用意しましたしね。
……あ、太宰さんのプレゼントは中身を教えてもらいましたけど、僕も教えたほうがいいですか?」
すると彼はにやりと笑った。
「ふふーん。それがもう見当はついてるんだな~」
「ええっ、嘘でしょ!? だって僕、ずっと太宰さんにバレないようにこっそり……」
「君はわかりやすすぎるんだよ」
太宰さんの指が僕の額を軽く小突く。僕も背が伸びて彼とそう変わらない身長になったけど、やっぱり敵わない。
「――さあ、帰ろう。敦君」
そう云って彼は僕らの棲むアパートがある方向を顎で示した。頷く僕は両手にケーキの箱と揚げたての唐揚げの袋を持っている。太宰さんは葡萄酒の瓶を抱きかかえるようにして大事に持っている。
「おっさっけ♪ おっさっけ♪」
太宰さんが嬉しそうに歌うリズムで言った。この人は機嫌が良いとこうして子供っぽい面も見せてくれる。
「――そういえばその葡萄酒って、どこで買ったんです?」
今日は夕暮れ近くに僕と太宰さんと二手に分かれて、買い出しに向かった。僕は熱々の唐揚げと、事前予約していたケーキを受け取りに。太宰さんは「私はお酒を調達してくるから」と云い置いてふらりと街の雑踏へ消えていったが、合流したときにはもう酒瓶を持っていた。
僕と並んで歩く太宰さんに抱えられた酒瓶。店で買ったにしては、箱やリボンもついていなくて、どこかおかしい。半年ほど前に成人を迎えてお酒が呑めるようになった僕は、一緒に生活している彼の影響でお酒について色々覚えていた。そのお酒が、見るからに高価で希少なものであると、深い色の瓶と舶来の洒落たラベルが物語っている。
「これ? 中也の家の貯蔵庫からくすねてきたんだ。
まああの蛞蝓なんかには勿体ないくらい良いお酒だし、私や君に飲まれるほうがこのお酒も幸せってものさ」
太宰さんはうっとりした顔で瓶を月光へと透かすようにして見つめた後、愛おしそうに頬擦りしていた。僕には力なく笑いをこぼすことしかできない。ふいに、僕より半歩先を行く太宰さんが横断歩道へ踏み出しながら、振り返って僕と目線を合わせた。
「あ、敦君。来年の事を云うと鬼が笑うとかあるけどさ――」
その後は、正直言って記憶があやふやだ。
辺りに響く激しいクラクションとスキール音。
……太宰さんが、いない。
咄嗟に虎化すると、辺りには焦げたタイヤと真新しい血と葡萄酒の匂いが混じって漂っているのが感じられた。
悲鳴と喧騒。どうやら僕の目の前をトラックが信号無視で突き抜けたらしい。
腹の底が、冷たくなった。
「太宰さん!? だざ……っ」
向かいの電信柱に突っ込んで動けなくなっているトラックに駆け寄ると、太宰さんがうつ伏せに前輪の下敷きになっていた。車体を虎の腕力で持ち上げて数歩ずらした場所に下ろすと、僕は倒れ伏している彼に近づいた。トラックの運転席から運転手がまろび出て走っていくが、構っていられない。
太宰さんの名を呼びかけても動かない。震える手で触れると手のひらがぬるついた。嗚呼、血が、こんなにあふれてる。
――そうだ、女医。与謝野女医なら、どうにかしてくれる。
僕はポケットから携帯を取り出すと彼女の携帯に電話をかける。もどかしい――そうしてようやく繋がった、そう思った瞬間に僕はまくし立てた。
「あのっ、女医! 太宰さんが――……太宰さんが!」
彼女は寝ているところを起こされた様子だったが、それを聞いて忽ち声量を上げた。
「落ち着きな、敦! どういう状況だい!?」
「……ッ! ……太宰さんが、トラックに轢かれて!」
「太宰の容態は!?」
そこでげほっ、と力ない咳が聞こえた。アスファルトの地面に血がまたあふれていく。
「息はあります! でも――血が……口からも沢山出ていて!」
「七分……いや六分で妾がそこへ行く。それまで何としても保たせるんだ! いいね!?」
――結論を言うと、僕にはそれができなかった。
心臓マッサージを施そうと太宰さんを仰向けにしたけど、その口からは血があふれてくるばかり。胸を手のひらで何度押し込んでも、首の骨が折れているのか、奇妙に頭ががくがくと揺れるだけだった。なぜ。どうして。
「敦! どきな!」
「! 女医……! 鏡花ちゃん!」
太宰さんは、与謝野女医が鏡花ちゃんの夜叉白雪で駆けつけた瞬間には、もう手の施しようが無かった。女医が何度も異能を発動させたけれど、彼女の力は“瀕死状態の外傷を完全に治癒する”異能だ。すでに脳に血が通わなくなって五分以上も経った太宰さんは、脳細胞が死滅してしまっている。死者を蘇らせることは、不可能だ。
女医は手首の時計を見て、口惜しそうにこう告げた。
「……十九時、三分。御臨終だよ」
それから僕の記憶は曖昧を通り越して所在がまばらになっている。明らかに不自然な意識の空白が存在するのだ。
覚えているのは、あの事故現場から場面が切り替わったところ。線香の煙と、参列者の喪服から漂う仄かな樟脳と仏花の匂いが立ち込める空間だった。
式は武装探偵社による社葬が執り行われた。
すすり泣きが聞こえる。椅子に座って頭を垂れたままの僕が隣を見ると、賢治君が涙を零している。
僕はというと、悲しいのかどうかすらわからない。ただ、胸のあたりががらんどうになってしまったかのように、息を吸っても吸っても満たされず苦しい。心臓と肺がぽっかりと抉り取られたみたいになっていた。
前を向くと、白と黄の菊で飾られた棺の前で、お経が唱えられている。遺影は、いつだか僕と一緒に部屋で巫山戯て撮った一枚の写真――なんの衒いや飾り気もない、素の笑顔の太宰さんだった。
賢治君が座っている僕の反対隣には、国木田さんが座っていた。ふいに彼が眼鏡を外して目元をハンカチで押さえる仕草をしているので、一瞬の後に驚いた。普段、あんなに太宰さんを「自殺嗜癖」だの「唐変木」だのと罵っていた国木田さんが、泣いている。
また場面は移り変わる。
火葬場。うっすらと髪を焦がした様な匂いが漂う。
骨上げの段になって、真っ先に僕へと長い箸が渡された。あれ、こういうのって僕なんかが一番最初でいいのかな? よくわからず僕が社長の顔を見ると、その横に居た乱歩さんがこう答えた。
「君が一番、太宰に近しいからだ。……わかっているだろう?」
それを聞いて、僕は納得したかどうかもよくわからないままに、その箸で白い骨を実にのろのろとした動きで拾った。コツン、箸と骨が壷の底に当たる小さく硬い感触で我に返る。
それから探偵社の面々が箸を使って骨を納めていく。最終的に、太宰さんは僕の両手で抱えられるくらい小さな白磁の壺に納まってしまった。
国木田さんが腕時計から目を離して、白覆に入った骨壷を抱く僕に声をかける。
「敦。その遺骨のことはお前に任せる。
あの太宰のことだ。遺言のひとつやふたつ、お前に宛てて残してあるだろう」
すると僕の両肩に手のひらの重みがかかった。眼鏡のレンズの奥から、赤くなった瞳が伏せられた。
「頼んだぞ」
絞り出すような声でそう一言だけ云うと、国木田さんは僕から離れていった。
次の記憶は、僕と太宰さんの棲んでいるアパートの一室。僕は箪笥の上に骨壷を置いて、その前で正座していた。
「太宰さんの、遺言……」
云われてみると、彼はそういう類の言葉はいくつも残していて、どれに従えばいいのかわからない。
――私が死んだらヨコハマの無縁墓地に埋めてね。
――やっぱり気が変わったから、こないだの遺言は無しで!
――ね~え、敦君。私と心中しない?
――あ、遺骨は海に撒いてほしいかも。
――もし私が先に死んで火葬が済んだら、骨を食べてもいいからね。
過去にそう云っていた彼の顔を思い出すたびに胸が苦しくなる。それでも、不思議と僕の目から涙は零れてこない。まるで僕の涙腺は枯渇してしまったようだった。太宰さんが生きていた頃は、あんなに笑って、泣いて、怒って――。
そうだ。水を飲めば、涙も出るかもしれない。そこまで思考が至ったとき、僕はあの事故の直後からほぼ飲まず食わずだったのを思い出した。喉の奥がひりついて渇き、痛い。
ふらりと立ち上がり、台所の蛇口から流れる水を直接飲んだ。冬場だけあって氷のようにそれは冷たい。あと、虫歯でもできたのだろうか、奥歯に少し染みる。あの孤児院では甘いものが希少だった上、歯磨きを怠ると厳罰が待っていた。こんなのは太宰さんに、あの鶴見川の河川敷で拾われてから初めての事だった。
嗚呼、太宰さんが、あの人が、僕という存在を作り変えてしまったんだ。あの人は僕に茶漬けを食べさせてくれた。寝床と仕事をくれた。甘い菓子や砂糖の入った珈琲を与えてくれた。温かい愛をくれた。生きる意味が見えた。僕はその御蔭で生きられた。それを糧に僕は生きてきた。それなのに、当の本人は、もう僕に何も与えてくれなくなってしまったし、僕から何かを与えることも出来なくなってしまった。
――僕は、どうすればいいんですか……?
立ち尽くす僕の目の前、蛇口から水の流れる音だけが滔々と部屋に響いている。
玄関の呼び鈴が鳴ったので、僕は万年床からなんとか軋む体を起こす。
「敦君、起きてる? 具合はどう?」
谷崎さんの声だ。あれから僕は探偵社に顔を出していないが、逆に向こうから皆がかわるがわる僕を訪ねてくれた。それぞれ食べ物などを差し入れてくれるのだが、僕はほとんどそれらを消費しきれていない。冷蔵庫の奥には賞味期限が切れてしまった食べ物があふれている。
玄関の扉に近づいてそれを開けると、夕日が眩しくて頭がくらくらした。部屋はカーテンが閉めっぱなしなので昼なのか夜なのかもわからないのだ。
「――敦さん? また少し痩せたのではありませんこと?」
ナオミさんが心配げに僕の顔を覗き込んでくる。長い黒髪を揺らして、彼女は小ぶりなトートバッグに入った何かを渡してきた。よく検めると両手に収まるサイズの曲げわっぱに、ラップで一個ずつ包んだ白米のおにぎりが、四個、詰まっている。
「ナオミが兄様と一緒に作りましたの」
そこでナオミさんは隣にいた谷崎さんの腕に抱きつく。谷崎さんが照れくさそうに後を引き取った。
「具は梅干しなンだけど、できればなるべく早めに食べてね? 最近は暖かくて食べ物が傷みやすいからサ」
そこで僕ははっとした。最近どうも雨が多くて蒸し暑いと思っていたら――。
「もしかして、もう六月ですか……?」
「そうだよ。明日は太宰さんの誕生日だからね。社長と乱歩さんがケーキなンかを持ってくるって話してたよ」
今日は、六月十八日。
――夜になった。
僕は決めた。
死のう。
あの人への最後の誕生日プレゼント……になるかどうかはわからないけれど、僕の命を差し出そう。
太宰さんは伊達に自殺嗜癖の二つ名を持っていない。押し入れを漁れば麻縄やら七輪やら毒薬の瓶やらがゴロゴロ出てくる。ついでになんだかプレゼントのようなリボンのかかった包みが出てくるけれど、関係なさそうなので無視した。僕は少し考えたが、首吊りで良いだろうと思い、麻縄の束を手にしてベランダへ出た。物干し竿を引っ掛ける鈎に、縄を掛けて引っ張ってみる。僕の体重くらいは支えてくれそうなほど頑丈だ。これは驚いた。僕がこのところ痩せてしまったのもあるだろうが、もとからこのボロアパートがそんな造りなのか、それとも太宰さんがこっそり改造したのか。何にしろ都合が良い。
見様見真似で首吊りの輪と結び目を作り、部屋の時計を見ると、もう零時五分を過ぎていた。箪笥の前に行き、骨壷に向かって手を合わせる。
――お誕生日おめでとうございます、太宰さん。僕もいつの間にか歳を取ってましたけど、年の差が一つ縮まっただけですよね。
ベランダに出て空を見上げる。去年の降誕祭の、あの夜と似て冴えた月があった。僕はそっと踏み台に上がると縄を持って首を通した。
――思い通りにならない事だらけの人生でしたから、最期くらいは本当に自分の思う通りにしようと思います。
目を閉じて、踏み台を蹴った。首にごきりと鈍い衝撃が走る。しかし頸椎は折れなかったのだろう。首から下の神経は生きていて、手は無意識のうちに首へ絡まる縄を掻き毟った。足をばたつかせて数十秒の後、息ができず意識は途切れる。
「駄目だよ。敦君」
あの人の声が、聞こえた――気が、した。
気づけば、僕は部屋の中で畳に転がっていた。
……何が、起きた? 状況を把握するまで時間がかかった。嗚呼、これは……何度も経験した、窮地を突破したときに似ている。僕はこの体を虎とふたりで分け合って生きていて、普段は僕に体を自由に動かす権限がある。だが何某かのきっかけや、僕が意識を失ったりすることがあると、途端に虎が表層へ出てきて、生存本能のままに暴れ回るのだ。おそらく首を吊って僕の意識が無くなった瞬間に虎が縄を千切ったのだろう。ベランダを見れば、湿気た夜風に揺れる、無惨に千切れた麻縄がぶら下がっていた。くっ、と僕の喉奥が引き攣れて鳴る。
――こんな。こんなの、あんまりだ。僕は貴方が居なければ生きている意味もないのに、貴方の異能無効化の力がなければ自分で死ぬこともできない。
進むことも戻ることもできずに、僕はなにか熱いもので頬が濡れるのと、からからにひりついた喉が叫びを上げるのを感じていた。
僕は泣いていた。孤児院に居た頃へ戻ったように、ただ苦しくて辛くて痛くて、それだけで泣いていた。太宰さんを喪ってから初めてのことだった。
ひとしきり声を上げて泣いて、疲れ果てた僕はいつの間にか畳の上で眠ってしまっていた。
夢を見た。僕の隣には冬服の太宰さんが居て、葡萄酒の瓶を大事そうに抱えている。しかしいま夢を見ている僕の視点は、僕と太宰さんの三歩くらい後ろの方にある。
これは、もしかして去年の、降誕祭の記憶? しかも、この風景は――事故の直前。
「あ、敦君。来年の事を云うと鬼が笑うとかあるけどさ――」
駄目だ。貴方はそこから動いちゃいけない。僕は必死に腕を伸ばそうとするが、首にマフラーを巻いたあの日の僕は気づく風もなく「どうしました?」と訊き返す。
「来年の夏は、一緒に海へ行こうね」
「はい!」
……嗚呼、太宰さん。貴方はこんな事を言い遺していたんですね。憶えていなくて、ごめんなさい。
開けっ放しのベランダの窓から、切り裂くような朝陽が射し込んできて目を覚ます。体を起こすと、虎の治癒能力でも働いたのだろうか。体の痛みや怠さが取れていた。
「……お腹、空いたなぁ……」
ぐう、と腹の虫が盛大に鳴り響いた。
昨日谷崎さんとナオミさんにもらったおにぎりを冷蔵庫に入れていたので、一つ取り出してラップを剥いてみる。冷たくても、塩の効いた白米と梅干しのいい匂いが、遠い味の記憶を呼び起こす。たまらず僕はそれにかぶりついた。美味しい。まるで太宰さんと初めて会ったときに食べた茶漬けみたいだ。あっという間にそれを四個全部平らげてしまうと、僕は思い立ってテレビを点けてみた。期待通りにニュースの天気予報が映る。「きょう、気象庁は関東の梅雨明けを発表しました。例年よりも早い梅雨明けとなります」と告げる気象予報士の声を聞くと、僕はしばらく固まっていた。
――梅雨が明けるとどうなる?
知らないのか。夏になるんだ。
海だ! 海へ行くんだ! 太宰さんと一緒に!
僕は心沸き立つ気持ちで服を脱いで浴室に駆け込むと、久方ぶりにシャワーを浴びて、顔や頭や体を洗った。薄々思っていたけど、思った以上にフケと垢だらけでかなりみっともなかったのを改めて確認した。
すっきりして髪を乾かした後、押し入れに入っていたあの包みを引っ張り出した。中身は夏服の白いシャツとジーンズ。これも今まで忘れていたけど、太宰さんがあの降誕祭の日に用意していた僕へのプレゼントだ。身に纏うと、痩せたせいでベルトの穴を縮めなければならなかった。仕上げに洗面所の鏡の前で、伸びた髪をひとつ結びに括る。
「わざわざ今の季節に夏服なんて贈らなくても、君は私よりも長生きしてくれると思うんだけどね」
――なんて、あの人は目を細めて笑っていた。
「そうだ。僕からのプレゼント。結局、降誕祭じゃなくて誕生日になってしまいましたけど」
箪笥の引き出しを開けて、灰色をした天鵞絨の小箱を取り出す。開けるとそこには一対、銀色の指輪があった。片方を取り出して自分の左手の薬指に嵌め、骨壷の蓋を開けてもう片方の指輪を落として入れた。からんと涼やかな音がして、ついつい頬が緩む。やっと、渡せた。この人と、ずっと共に歩むという意志を僕なりに形にすると、こうなるのだ。
真っ白な骨壷を白覆から出して抱き上げる。それがひやりとして心地よいので、思わず頬擦りして啄むようなくちづけをする。
骨壷をまた白覆に納めて抱えると、ジーンズのポケットに財布をねじ込む。入っているのはバスの運賃と飲み物が買えるくらいのお金。玄関でサンダルをつっかける。扉を開けると、突き抜けるような青空にまばゆい陽光がヨコハマの街を照らし出している。
――一緒に海へ行きましょう。太宰さん。
わかっていると思いますが、僕は約束を守れるタイプです。