【ベディトリ】蕩ける蜜蕩ける蜜
困った人だな、と思った。
とてもとても困った人であり、どうしようもなく愛おしい人だとも。
トリスタンが自分を避けていることに気付いた時、ベディヴィエールが抱いた感想はそんなものだった。
密やかに密やかに、トリスタンはベディヴィエールを避けている。
ランスロットやガウェインは気付いていないだろう。むしろ当人であるベディヴィエールでさえ、しばらく気付いていなかったのではないだろうかと思う。
たまたま気付きはしたが、いったいいつから避けられていたのかを考えたところで首を捻るより他にない。
それほどまでにトリスタンは密やかに、とてもとても密やかにベディヴィエールを避けていたのだ。
心当たりはない、わけではなかった。
ある。心当たりは盛大なぐらいにある。
なので避けられていると気付いた時もショックなど受けることはなく、なるほどと納得したぐらいだ。
嫌われて避けられているわけではないと分かるものだったからなおさらだ。
いったいいつから避けられていたのかをベディヴィエールは知らない。
けれど心当たりがある以上、逆算すればいいだけの話だ。
やんわりと密やかに密やかに避けられる理由など、たったひとつしかないのだから。
『トリスタン卿。私は貴方が好きですよ』
今まで秘めていた想いを告げたのは、およそ二週間前。
ベディヴィエールの言葉に瞬きをひとつしたトリスタンは、それでも気を取り直したようにふんわり笑った。
『貴方にそう言ってもらえるとは光栄ですね。もちろん私とて貴方が好きですよ』
紡がれた言葉に嘘はないだろう。
トリスタンの言葉に嘘などひとかけらも混じってはいなかっただろうと思う。
ただ意味が違っていただけだ。
ベディヴィエールが渡した好意と、トリスタンが返した好意が違っていただけのこと。
溢れ出てどうしようもなかった想いを、ただただ伝えたかっただけなのだ。
音にして、彼への気持ちを伝えたかった。
そうすれば少しは気も紛れるだろうと、わざと友愛に聞こえるような状況で想いを告げた。
卑怯と言われればそうなのだろうとも思うが、それでも今後の関係やトリスタンの気持ちを考慮すれば、いい落としどころだったのではないかと思う。
ベディヴィエールは愛情を持って伝え、トリスタンは友愛としてそれを受け止めた。
それでよかった。それでよかったのだ。
溢れすぎた想いを本人に伝えられたというそれだけで、伝えられる環境を与えられているというそれだけで、自分はなんて幸せ者なのだろう。
想いはいまだ溢れているが、それでも伝えられたというそれだけで充分だった。
欲を抱かないわけではない。ベディヴィエールとて男だ。
恋しく思うトリスタンの傍にいて、欲を抱かないわけではない。
けれど、それをひた隠すならばトリスタンの親友として傍にいることが許されているのだ。
浮かれたつもりなどかけらとてないが、それでも溢れだした想いを告げたことにより、少しだけ気が楽になったことは事実だ。
劣情に駆られることも、胸の奥が切なく痛むことも、恋しくて愛しくてたまらなくなることも、今までと変わらずベディヴィエールの胸中へ訪れるが、それでも伝えたことによって前向きに受け止めることが出来た気がする。
恋しくて触れたくて暴きたい欲を失くすなんてことは出来やしないが、それでも親友として触れることは許されている。
彼に触れる時は親友として、親友としての節度を持って触れればいいのだ。
開き直りといえばそうなのだろうという自覚はある。
だが、開き直らなければ、共に在ることなど出来やしなかった。
もはや想いは溢れ出してしまっているのだから、どこかで折り合いをつけるしかなかったのだ。
女性のようにたおやかなわけでもなければ、柔らかい身体を持っているわけでもない。
それでもベディヴィエールは、彼に対して劣情を抱くのだ。
そうして想いを告げてから二週間が経過し、トリスタンが密やかに密やかにベディヴィエールを避けていることに気がついた。
違和感を抱くことがなければ、まだ当分の間は気付かなかったかも知れない。
会話をしないわけではない。今まで同様に会話をし、食事もし、時には一緒に酒も飲んだ。
ふたりきりの時もあれば、円卓の者たちが同席していたこともある。
想いを告げた後も今までと変わらぬ日々を過ごしていたつもりなのだが、どうやらそれはベディヴィエールだけだったらしい。
トリスタンとて隠そうと思っていたのだろう。避けているという事実を隠そうとしていたのだ。
ベディヴィエールが傷付かないように思ってのことだろう。
避けている事実を、トリスタンはやんわりとヴェールに包んで隠していたのに、ベディヴィエールは気付いてしまった。
それはとてもとても些細なことだ。
とてもとても自然にトリスタンはベディヴィエールの横へと座る。
ふたりの時であっても、円卓の者たちと共に在ったとしても、他の人々が同席してたとしても。
人が多い際は必ずしも隣ではなかったが、それでも同じライン上に座っていた。つまるところベディヴィエールと対面しない席に。
けれど、それは本当にごくごく自然な流れで、そうなることが当たり前のように行われていたので、意図したものだと気付くことはなかった。偶然そうなっていただけなのだと、ベディヴィエールは思っていたのだ。
「トリスタン卿。前に座らせて頂いてもよろしいですか?」
夕食が乗ったトレイには、湯気を立てた白身魚の香草焼きが乗っている。添えられた蒸し野菜の彩りもうつくしく、ベディヴィエールに食べられるのを今か今かと待っていた。
空いている席がなかったわけではない。
だが、親しい者の席が、ましてや恋しいと思う相手の前の席が空いていたのならば、そこへ向かうのは当然ではなかろうか。
ベディヴィエールのかけた声に対し、トリスタンはフォークを持った手をほんの一瞬強張らせてしまった。
その一瞬こそが、トリスタンの油断に他ならない。
「ええ、どうぞ」
取り繕う言葉を柔和に続けても、もう無駄だ。
ベディヴィエールは気付いてしまった。
気付くきっかけを与えられてしまった。
違和感をベディヴィエールに与えてしまった。
あとはもう芋ずる式の連想ゲームに等しいものがある。
だが、達した結論を裏付ける態度をトリスタンが取っているのだから、密やかに密やかに取っているのだから、受け止めたくはなくとも受け止めるべき事実なのだろう。
これがベディヴィエールでなければ、恐らくは気付かれなかっただろうと思う。ベディヴィエールだからこそ、気付かれてしまったのだ。
それでも席に座った当初は疑いであり、確信ではなかった。
直感的に確信だと判断したが、それでもそれは早計だ。それこそ好意を寄せているからこその思い込みということもありえる。
けれどしかし、正面の席で食事をしていればおのずと分かることだ。
普段と変わらぬ会話を続けながらも、普段ではありえないほどに視線を合わせようとしないトリスタンの様子を見て、避けられているようだが嫌われているわけではないと判断する。
隣合わせに座っているのであれば、視線と視線が長時間交差することはあまりない。
ごくごく自然な動作で視線を逸らすことになることが多いだろう。逸らされたとしても違和感を抱くことなどあまりない。
だが、対面の席に座れば自然と視線を合わせることになる。
それを避けたくて並びの席に座るようにしていたのだろうと察しは付いたが、理由がよく分からない。
避けてはいるのに嫌っているわけでなく、並びなら構わないが対面は嫌がる理由。
避けているくせに避けていることを気付かれないように振る舞う理由。
他愛もない会話と美味しい食事をしながらも、頭の片隅でそれらを考え続ける。その間もトリスタンはやんわりと視線を違和感のない形を取ってベディヴィエールから逸らそうとしていた。
食事をしているのだ。飲み物を飲んでいるのだ。そういう体裁を取り繕っている。
さりげなく視線を逸らされていることにほんの少し淋しくなるが、それよりも避けられている理由でそわそわとしてしまう。
香草焼きも蒸し野菜も素晴らしく美味しいものであるはずなのに、トリスタンが気になって仕方がない。
いや、違う。
トリスタンが避けていた理由に気付いてしまったからこそ、それが気になって仕方がないのだ。
ベディヴィエールの勘違いでなければ、トリスタンは告げられた言葉の意味をきちんと認識している。
それはつまるところベディヴィエールの抱く感情が友愛ではなく恋愛であると知っているということだ。
なんてことだ。なんということだ。
ベディヴィエールが恋情を抱いているということを、トリスタンは気付いている。
気付き、そうしてベディヴィエールから避けている。密やかに、とてもとても密やかに。
トリスタンが自分の気持を知っているということは、ベディヴィエールからすれば問題ではなかった。本当は彼に告げたかったのだ。告げたくて、けれど彼が迷惑に思うかも知れないからこそ濁しただけのこと。
トリスタンのためだと言いながらも、迷惑に思った彼が自分を遠ざけてしまうかも知れないという恐れもあるにはあった。
だが、それでも溢れ出た想いはどうしようもなく、自分の手ではあまり過ぎるもの。
玉砕するのならばしてしまったほうがいいだろう。自分勝手な感情ではあるが、それでも今回限りの現界ならばと後悔をしないように行動したくなっても仕方がないではないか。
生前では伸ばせなかった指先を、今回限りの生であるからと伸ばそうとした勝手をどうか愚かだと笑って欲しい。
なにもせずに後悔だけを積み重ねることだけは、嫌だった。
傲慢だ。あまりにも傲慢な考えだ。
一度きりの現界だから許して欲しいと懇願をして、そうして傲慢な振る舞いをした。
だが、なによりも傲慢なのは、今腹の底でふつふつと湧き上がる考えではないのだろうか。
避けられている。トリスタンに避けられている。
けれど、本当の意味では避けられているわけではない。
トリスタンが本当に嫌悪したならば、ベディヴィエールに近付くことなどなくなるだろうし、そもそもきちんと拒絶の言葉を口にするだろう。
では、どうしてこんなにも回りくどい避け方をしているのか。
戸惑っているのではないのだろうか、トリスタンは。
親友だと思っていた友人の本音を知り、どう対応すればいいのか分からないのではないだろうか。
ベディヴィエールの好きの言葉の意味を知れば、それは自分が欲の対象になっているということも知ったということ。
にもかかわらず、トリスタンはそれでもベディヴィエールへ話しかけてくる。
決して対面の席には座らないだけで、隣であれば同席することを良しとしていた。
ふつり、と腹の底から沸き起こったのは、他ならぬ期待だ。
うつくしい、誰よりもうつくしい友人の気持ちが知りたい。
機械的に口へ運んでしまった食事の味は、もはやさっぱり分からないままだった。
こうしてきちんとした食事を取れることがどれほどにありがたいことなのかをベディヴィエールは知っている。だからこそ味わうことをしなかった失礼を料理人に詫びたいと思ったが、それは後でもいい話だ。
今は目の前のトリスタンの気持ちが知りたくて仕方がない。
困った人だな、と思う。
けれどたまらなく愛しいと思った。
愛しくて愛しくてどうしようもなくて、こんな感情を自分に与える困った人だ。ずるい人だ。
自分の抱く想いが否定されていないのであれば、その気にさせてしまおうと思ってしまうではないか。
「トリスタン」
言葉にした名は敬称を略したもの。
それだけで他人の機微に敏いトリスタンは、なにかに気付いたのだろう。
ほんの少しの沈黙を置いてから、ゆるりと言葉を口にする。
「……なんでしょうか」
眼差しがベディヴィエールを捉えることはなかった。
避ける理由が知りたい。対面したくない理由が知りたい。目を合わせようとしない理由が知りたい。
意地悪なことをしているという自覚はある。自分がこんなにも傲慢だったのかと内心苦笑すら浮かべるが、それでも今だけはそんな自分に目を瞑ることにした。
「私を見て頂けませんか、トリスタン」
「見て、いるではありませんか」
「いいえ。いいえ。貴方は私を映していない。ですから」
「貴方はひどい人です。貴方が一番に私を見ていないくせに、私には見ろと言われるのですね」
トレイを持ってこの場から立ち去ろうとしているトリスタンは話を終わらせようとしたのだろうが、生憎とベディヴィエールからすれば話はまだ始まったばかりだ。
強引に会話を終わらせようとしている姿を見て、なおさらトリスタンの気持ちが知りたくなった。
なんと罪深いことだろう。気持ちを暴き立てるなど、ひどく趣味の悪いことだと分かりながらも、トリスタンに関してだけは譲ることが出来ない。
「待ってください、トリスタン」
早足にトリスタンは去って行くが、それは今も食堂にいる他の人々のことを慮ってのことなのだろう。
仲違いをしていると思われたりしないように、変に目立ったりしないように、早足ながらも違和感を抱かせない程度の歩調で歩いている。
だが、食堂を一歩抜ければそうは行かない。
彼はきっと全力疾走で自室まで戻るに違いない。
本当に困った人だ。そして、愛しい人だ。
今は逃れることが出来たとしても、カルデアという密室にいる限り、いつかは顔を合わせることは必然であるというのに。
そこまでして逃げたいのかと思わないでもないが、ベディヴィエールの目には照れ隠しにしか映らなかった。
ひどいうぬぼれだと言われてしまえばその通りであるし、事実自身でもそう思う。
けれど、けれどけれど。
それでも、先程のトリスタンの捨て台詞といい、都合のよいように考えてしまってもおかしくはないではないか。
ここで追いかけなければ、ここで追いかけてトリスタンと向き合わなければ、きっと後悔を積み重ねるだけだろう。
となれば、ベディヴィエールが取る行動はひとつだけだった。
既に食堂から去ってしまったトリスタンの後を追いかけるべく、ベディヴィエールもまたトレイを手に席を立つ。
愛しさが溢れ出して、どうにかなってしまいそうだった。
「トリスタン。トリスタン、扉を開けてください」
ベディヴィエールが廊下へ出た時には、予想通りすでにトリスタンの姿はなく、廊下はしんとしたものだった。
向かいから歩いて来た作家サーヴァントたちへ聞けば、やはり全力疾走のトリスタンの姿を見たという。
丁重に礼を告げたものの、好奇心旺盛な方々であるため、意味深な表情を浮かべられてしまったが、それでもまだ様子見だとでも思っているのか、ご丁寧に自室へ入っていったとまで情報を与えてくれた。
後から詮索されるのかも知れないが、それでも現状はその情報が一番に欲しいもの。
十中八九、自室へ逃げ込んでいるのだろうとは思っていたが、万一別の場所へ逃げられたのではさすがに探しきれない。
ひとつひとつしらみつぶしに探してもいいのだが、そんなことをしている間にトリスタンは別の場所へ移動してしまうだろう。
紳士的に扉の外から呼びかけてみるものの、中からはなんの反応も返ってこない。
明らかに居留守であることは作家サーヴァントたちの証言からしても明らかだ。
それほどまでに避けたいのだろうかとほんの少し胸の奥が痛んだが、そんなことはもはや今更である。
トリスタンとの今までの関係を崩したくなかったのであれば、濁してでもなんでも想いを伝えるべきではなかったのだから。
そうして、それが出来ないと判断したからこそ、友愛のふりをして想いを口にしたのだ。
「いらっしゃるんでしょう。いらっしゃることは分かっているんですよ。トリスタン、お願いですから扉を開けてください」
トントンと扉を叩いて、呼びかけてはみるものの、ベディヴィエールが生きた時代にはありえなかった文明機器の塊の扉である。インターホンで呼びかけても返答がないため、古典的な方法で呼びかけるしかなかったのだが、果たして声は届いているのだろうか。
防音がしっかりとしているため、聞こえていない可能性も高い。
だからといって諦めるわけにもいかず、ベディヴィエールは更に呼びかける。
「私は貴方に伝えなければならないことがあるんです。謝罪と、そうして大切なことを」
そうだ。伝えなければ。
ベディヴィエールは伝えなければならない。
誤魔化すようにして気持ちを伝えてしまった謝罪と、そうして改めて自分の気持ちを。
以前として沈黙が降りたトリスタンの扉は、彼の気持ちをそのまま表している。
だが、それに対して傷付く権利などベディヴィエールにはないのだ。
このまま扉の前で待っていてもベディヴィエールは構わないのだが、他の者たちの目に留まることは明らかだ。
トリスタンの風評を害するつもりはなく、だからといってベディヴィエールに気配遮断スキルなどは存在しない。
さて、どうしたものか。
なんてことを考え始めた時、空気の抜けるような音を立てて目の前の扉は開いた。
そうして、その中には当たり前だがトリスタンがいる。
不機嫌そうな表情を隠しもせず、けれど視線は伏せたままトリスタンが立っていた。
「……どうぞお入り下さい。変な評判が立ってしまいます」
「トリスタン……。では、失礼します」
仕方がないから入れるのだと言わんばかりの言葉だが、それでもすべては自業自得だ。
トリスタンをきっと傷付けてしまったのだろうと思うのだが、それでもやはり困った人であり、愛しい人だと思ってしまう。
恐らくきっと、今目にしているトリスタンは、ベディヴィエールしか見ることが出来ないものだと思うからなのだろう。
ベディヴィエールがトリスタンに甘いのであれば、トリスタンもベディヴィエールに対して甘い。
一歩足を踏み入れれば、そこはもうトリスタンのテリトリーだ。
後ろで扉が閉まる音を聞くが、ベディヴィエールはトリスタンから視線を逸らすことはない。
「……」
本当であれば『ご用件はなんでしょう』と紡がれるであろうトリスタンの言葉は聞こえない。
きっと本人も気付いているのだ。
その言葉を口にすれば、話が始まってしまうと気付いているし、知っている。
とはいえ、トリスタンが招き入れた部屋は完全なる密室であり、彼が切り出されなければベディヴィエールが切り出すだけのこと。なんの時間稼ぎにもなっていないことは、きっと本人が一番によく知っていることだろう。
「トリスタン。謝罪をさせてください」
「謝罪とはいったいなんのことでしょう。私は謝られるようなことはなにも」
涼しい顔でそんな言葉を言ってのけるトリスタンの気持ちが知りたい。
いったい、なにを思っているのだろう。
「先日私は貴方へ好きだと告げました。さも友愛のように言いましたが、違うのです。本当は、違うのです」
溢れる。ベディヴィエールという器から、トリスタンへの気持ちが溢れている。
豊かな真紅の睫毛がふさりと揺れる。
その隙間から覗いた琥珀の瞳がほんの一瞬、ベディヴィエールを垣間見た。
小鹿のように心臓が跳ねるのを感じたが、今まで合わせなかった眼差しを自身から合わせてきたことには意味がある。
トリスタンは試し、確認しようとしている。
ベディヴィエールの言葉を、本意を、普段は閉ざされている眼差しを持って、最近では合わせようとしなかった眼差しを持って判断しようとしている。
うつくしい、と思う。
目の前に立つトリスタンはうつくしい。
出会った時からうつくしく、それは英霊となっても遜色なく、平穏に年老いたとしてもきっとその姿はうつくしかったに違いない。
「では、貴方はどういった意味で私に伝えたのです」
凛とした声が室内に響く。
咎めるような色を含んだ声がベディヴィエールに届けられるが、それでもそれが嬉しいと思ってしまう辺り、自分はきっと重症なのだろうと思う。
その発言はベディヴィエールの気持ちをすでに知っているからこそ紡がれる言葉だ。
友愛を超えた感情をぶつけようとしているのに、その気持ちと向き合おうとしてくれていることが嬉しい。
「トリスタン、私は貴方が好きなのです。友愛ではなく、……恋情を抱いているのです」
溢れ出した気持ちをようやく伝えることが出来た喜びはひとしおだったが、改めて口に出すことの気恥ずかしさに、今度はベディヴィエールが視線を逸らす番だった。
トリスタンの眼差しが、日頃は瞼の下に隠れているうつくしい瞳が、ベディヴィエールが抱く欲まで見透かすような気がしたからだ。
とはいえ、目を逸らし続けるわけにはいかない。
わずかに頬が熱い気がしたが、それでもトリスタンへ視線を戻すと、そこには既に伏せられた瞼があった。
長い睫毛が頬に影を落としている。水滴を乗せれば、真珠のように綺麗な球を作るに違いない。
そんな考えはトリスタンの密やかなため息によって、シャボン玉のように打ち消された。
「先日、貴方が私に好きだと伝えて下さった時、いいえ、その前からずっと気付いていましたよ」
「え!」
トリスタンの口から出た驚くべき言葉に、ベディヴィエールは動揺を隠しきれない。
友愛のふりをして伝える前から気付かれていたとは、いったいどういうことなのだろう。少なくともベディヴィエールは完璧に隠しているつもりだった。
何度も聞き間違えではないかと言葉を反芻するが、どう考えても答えはひとつだ。
「……私の気持ちに、気付いていらっしゃったと?」
「ええ」
戸惑いながら確認するが、即座に肯定の言葉が返ってきた。
気が遠のきそうだ。ずっと知っていたというのか。気付かれる要素など、いったいどこにあったというのだろう。心当たりなどまるでないというのに。
「いつから……、御存じだったんですか」
「さて、いつからでしょうか。もう忘れてしまいました」
ゆるりと口角が持ち上がる。
それはそれはうつくしく弧を描いた。
見惚れるような場面ではないのに、それでも見惚れてしまう。
どうしようもなく好きなのだと今さらながらに実感させられて、女を知らない子供に戻ってしまったような気すらした。
「随分と前から、ということだけは分かりました。ですが、それだったら」
「知っていましたか、ベディヴィエール。私を見る眼差しが蕩ける蜜のようであることを」
好きだと告げた時に教えてくれてもいいものを、と続けるはずだった言葉は、トリスタンの人差し指によって音になることはなかった。
唇に触れる、トリスタンの人差し指。
手袋越しであることを残念に思ってしまうのは、触れたいという欲求のせいなのだろう。
トリスタンの言うことが本当ならば、言葉にせずとも眼差しで想いを伝えていたということか。
どんなに完璧に取り繕っていたつもりだったのだとしても、眼差しが物語っていたと言われてしまえば、もはや抵抗のしようもない。抵抗する気などさらさらなかったが、いったいどんな目で見ていたのだろうかと恥じ入るより他になかった。
今も、蕩ける蜜のような眼差しを向けているのだろうか。
「トリスタン」
「断っておきますが、私は多少怒ってもいます。貴方ときたら、ようやく言う気になったのかと思えば、友人としてのもののように言った上、そのくせ自分だけは開き直って今まで以上に目で訴えてくるじゃありませんか」
恋情に、欲はつきものだ。
欲のない恋情など、存在するはずがない。
トリスタンの言い分を要約すると、恋情を隠して告白してきたくせに、全然隠せていない上にさらにひどくなっているということなのだろう。
居たたまれない気持ちになってしまうのは、確かに仮初の告白以降視線では隠していなかった自覚があるからだ。
ベディヴィエールの中にあった前提がすべて覆されてしまった。
知っていると思わなかったのだ。トリスタンが自分の気持ちを知っているなど、思いもしなかったのだ。
「では、避けていたのは」
もはや理由など分かったも同然だったが、それでも確認せずにはいられない。確認しなければ、いつまでもすっきりとしないだろう。
そして、なによりもトリスタンの気持ちが知りたかった。
ベディヴィエールの気持ちを知っていたというのならば、彼にとっては驚くような出来事ではなかったに違いない。
現にさきほども「ようやく」と言ってたではないか。訪れる未来だと推測していたのだろう。
するりとトリスタンの人差し指が唇から離れて行く。
名残惜しいと見送ってしまうのは、衣服越しであったとしてもトリスタンの意思によって触れられていたからこそだろう。
伏せられる。眼差しを伏せられる。逸らすように伏せられる。
「……貴方の眼差しは蕩ける蜜のようだと言ったでしょう。友人の顔を取り繕ったまま、蕩ける蜜に浸るには限度があります」
「私は、その、そんなにもあからさまでしたか」
これでも平静を取り繕うことに長けたつもりだったのだが、自信を失ってしまいそうになる。
どんな時でも冷静沈着であれと自分に言い聞かせていたというのに、なんてざまだ。
さすがに少しばかりショックを受けてうなだれ気味になると、トリスタンの指先がついと伸びた。
伸びて、そうしてベディヴィエールの顎を持ち上げる。
白皙のうつくしい顔が目の前にあり、傾げられた首の動きにつられて赤毛が揺れた。
「自覚がないというのは罪深きことですね、ベディヴィエール」
ベディヴィエールからすれば、トリスタンの囁くような声こそが蕩ける蜜だ。
あまりの甘さにくらくらと眩暈すらしそうになる。
叶うことならば、その蕩ける蜜に舌を這わせて、思う存分味わってしまいたい。
貪るように、何度も何度も。
満足するまで、何度も何度も。
魅了スキルなどトリスタンは持ち合わせていないはずなのに、ベディヴィエールは魅了されたような心地になってしまうが、恋なんて言うなればそんなものだ。むしろそうでなければ恋ではない。
だが、蕩ける蜜の魅了に酔っている場合ではないのだ。
トリスタンの返事を聞かなければ。
「それは、本当に申し訳ありません。ですが、トリスタン、貴方の気持ちを聞かせて頂けませんか」
知らず知らずの内に息を飲んだらしく、喉が嚥下するのを他人事のように感じた。
いまだ顎を持ち上げたままのトリスタンは、ずっと避け続けていたことが嘘のようにベディヴィエールへ視線を注ぐ。
そうして、これみよがしなため息を吐き出すと、ベディヴィエールに顔を近付ける。
鼻先がぶつかりそうな、けれどぶつからない距離。
あまりに近すぎると焦点が合わなくなるが、ぎりぎりのところで焦点は合っている。
真紅の睫毛に縁取られた煮詰めた蜂蜜色の瞳が、ベディヴィエールを見つめていた。
それはまるで、蕩ける蜜のような。
「言ったでしょう、貴方の眼差しは蕩ける蜜のようだと。蜜は舐めたくなるものではありませんか?」
そうして、トリスタンはぺろりとベディヴィエールの唇を舐める。赤い舌が目に毒だ。
呆気にとられたベディヴィエールへ悪戯めいた笑みを浮かべるトリスタンは、しっとりとした夜の気配を纏っていた。
それがなにを意味するのか分からないはずがない。
トリスタンの言葉は正確には、欲しい言葉ではない。
欲しい言葉そのものではないが、それでも今はこれでいい。
本当に欲しい言葉は、これから引き出せばいいのだから。
「なるほど。確かに貴方の言う通りですね」
神妙に頷いたベディヴィエールは、トリスタンがしたのと同様にその唇へ舌を這わせる。
けれど、トリスタンがしたよりも、もっともっと丁寧に。
トリスタンの長い睫毛が震えた感触に気をよくしながら、その身体を引き寄せれば、ベディヴィエールの首の後ろに腕が回された。
そうして、交わる蕩ける蜜のような視線。
鼻先を擦り合わせて、密やかに笑い合ったふたりは、互いの唇を重ね合う。
蕩けるような甘い蜜を、もっとたっぷりと味わうために。
20181022