【グラシス】かわいい人かわいい人
箱の中身を確認する。
何度も何度も確認を繰り返しているため、そのせいで落としてしまいそうではあるが、それでもそこにそれがあることを確認せずにはいられなかった。
ほんの少し重い蓋を開ければ、そこには滑らかな光沢のある布に包まれた土台があり、その中央には金の指輪がひとつ。
濃い紫に、金の指輪がよく映える。
少しばかり幅広の指輪には、光を受けてキラキラと光る石。
永遠を意味する名を冠した指輪はとてもとても貴重なものであり、やすやすと手に入るものではない。
けれどそれでも、グランに後悔はなかった。
箱の中に収まっている指輪を見て、深呼吸をひとつ。
自分のために用意したものではないのだ、この指輪は。
自分のために貴金属を手に入れようとは思わない。
ジョブの特性上必要なものであれば身につけるが、それ以外でなにかを付けようと思ったことは基本的になかった。
だからこの指輪は、贈るために用意した指輪だった。
大切な相手へ、あなたは特別な存在だと伝えるために用意した指輪。
そもそも、贈るという理由がなければ、指輪を入手するという発想すらなかっただろう。
もう一度視線を指輪に落としたグランは覚悟を決めるように奥歯を噛み締めると、勢いよく箱の蓋を閉めた。
心臓がやけにうるさい。とてもうるさい。緊張しているのだ。そんなことは分かっている。
強大な敵に挑む際とは違う、別の緊張。
むしろ現状のほうが敵に向かう時よりも緊張している気がする。
不安がぐるぐると腹の底で渦巻いている気がした。
誰かに好意を伝えることがこんなにも恐ろしいことだなんて思ってもいなかったのだ。
みんな、すごい。
街で見かける夫婦たちは、みんながみんなこんな緊張を乗り越えてきたのだと思うと尊敬せずにはいられない。
渡さないという選択肢を今からでも選ぶことは出来たが、そんなことをするつもりはなかった。
指輪を得たから伝えるのではない。
伝えようと思ったからこそ、この指輪を入手した。
月明かりに照らされた甲板には、グランが指輪を渡したい人が佇んでいる。
グランが呼び出したから
幸いなことに邪魔者はいなかった。
この指輪は、紛れもなく特別な指輪だ。
誰が見てもそう言うだろうし、ともすれば無駄遣いだと思う者だっているかも知れない。
だが、だからこそ贈られた相手にとっても分かりやすい。
この指輪を見て、特別に想われていないと思う者はいないだろう。
それほどまでにグランが用意した指輪は、誰が見ても特別だと分かる指輪だった。
冷たい夜風が甲板を駆け抜けて行く。
そんな中、月明かりを浴び、腕組みをしているシスが空を見上げていた。それこそ月を見ているのかも知れない。
仮面のせいで、彼の視線の行方は分からない。
しんとした甲板に響くのは、風が通り抜けて行く音とグランの足音だけ。
近付く前からグランの気配に気付いているのだろうに、シスの顔が向けられることはない。
空を見上げる横顔が綺麗だなあと思う。
そうだ。自分が好きになった人は、あんなにもうつくしい。
半分の仮面に隠されて素顔のすべては見えないけれど、それでも凛としたその佇まいがうつくしい。
けれど、その姿はどこか他人を拒絶しているようにも見えて、ほんの少しだけ淋しくもなった。
胸の奥に切なさを抱いた瞬間、静かに、とても静かにその顔がグランへ向けられる。
月を背にしたシスはとてもとても格好良くて、そしてやっぱりうつくしかった。
「どうかしたのか」
低い声が夜風に溶け込む。
不思議そうな声色に警戒の色はなく、ただただいきなりの呼び出しに戸惑っていることが感じられた。
どうしよう、と思う。
どうしよう、どうしよう。
シスが好きだ。とてもとても。
胸の奥を締め付ける切なさは、とてもとても苦しいものだったけれど、それでもそれだけではない。それだけではないのだ。
愛しいと思うからこそ、切なくなるのだ。
まだ自分だけのひとではないからこそ、切なくなるのだ。
自分だけのひとになって欲しくて、この手を取って欲しくて、それなのに手を取ってくれないかも知れないことが怖くて、ただ見つめているだけだった。
けれど、もはやグランの中から気持ちは溢れ、掬っても掬っても掬い切れない。
諦めるという選択肢もあったことは知っている。
けれど、そんな選択肢は即座に捨ててしまった。
グランが抱いた気持ちを捨てることが出来るのは、捨てさせることが出来るのは、シスだけだからだ。
だからこうなることは、遅かれ早かれ訪れるものだった。
諦めるなんて言葉がグランにないのであれば、後は覚悟が決まるのを待つだけだったのだ。
どうかしたのか、なんて、どうかしたに決まっている。
どうもしなければ、グランは指輪を得ようとも思わなかったし、シスを夜の甲板に呼び出しだってしていない。
月を背負う男へ八つ当たりのようにそんなことを思ったが、なにも知らないシスからすればいい迷惑に違いない。
子供だと、笑われてしまうだろうか。
気の迷いだと一蹴されてしまうだろうか。
「いや、その! なんでもないんだけどっ!」
緊張のあまり、声が裏返ってしまった事実を受け止めたくない。
さすがに恰好悪い。あまりにも恰好悪い。隠れてしまいたい。
案の定シスは訝しげに首を少し傾げ、グランへ視線を向けている。どことなく気遣わしげであることが余計に辛い。表情など見えなくとも、シスの気持ちは読みやすいのだ。
「……なんでもないのに俺を呼んだのか?」
「違う! 本当はある! あるんだけど、その」
投げられた言葉はごもっともなものであり、慌てて言い繕おうとしたものの更に事態は悪化した。いや、悪化させてしまった。
仮面をつけてはいるがフードを被っていないため、シスの耳が動いているのが見える。
ほんの少し横に倒れた耳は、きっとグランのことを気遣っているのだ。
「団長? 具合でも悪いのであれば俺ではなく、ルリアや他の者へ言ったほうがいい」
おずおずと伸ばされた指先は心配するものだ。グランの体調を心配するものだ。
そんなシスを見て、やっぱり自分は子供と思われているのだと思って傷付いたけれど、それでも子供であることは確かなのだから仕方がない。
子供ではない。けれど、大人でもない。
大人でもある。けれど、子供でもある。
自分の年齢の立ち位置が定まっていないことに対して、普段は特に思うことなんてない。
カタリナといてもラカムといてもオイゲンといてもそんなことを気にしたことはなかったのに、目の前の相手にだけはいろんなことが気になってしまう。
こんなにも自分は弱かっただろうか。
好きという感情が、自分を弱くしている気がした。
けれど、弱くなると同時に強くなっている気もするのだ。
シスがグランを弱くも強くもしていた。
「あのね、シス」
「……っ」
伸ばされた指先を掴んで引き寄せた。
本来であればシスの身体がぐらつくこともないのだろうが、相手が自分だからこそ油断をしていたのだろう。シスの足は二歩三歩たたらを踏む。
そうして、グランの目の前へ。
仮面で表情が見えないからこそ空気を読まずに発言することだって出来る。
シスがなにかを言いかけようとした雰囲気を拾ったが、口元が見えていないのだからグランには分からないのだ。分からないふりをした。
「シスにこれをもらって欲しいんだ」
空いている右手で先ほどから何度も見ていた箱を勢いよく差し出せば、戸惑ったようにシスが身じろぎをする。
視線の行き先がきちんと分からずとも、顔がゆっくりと時間をかけて上下をした姿を見れば、グランの言う『これ』を確認したことぐらいは分かる。
「それは……」
さすがに箱の形状からして中身が指輪だと分かるのだろう。
シスが困惑していることが掴まえている手から伝わる。
何事も勢いが大切だ。そして、思いきりも大切だ。
敵を前にした時の行動力を今も発揮するべきなのだから、心臓はもっと落ち着いて欲しいし、脚は震えないで欲しい。好きな人の前で格好悪いところを見せたくないのに、たぶん今の自分はとても恰好悪い。
震える手の振動は、シスへ伝わっていることだろう。
これから紡ぐ言葉もきっと同様に震えるのだろうと思った。
みっともないと思う。情けないとも思う。
それでも自分の気持ちを伝えなければ、シスの気持ちを聞く権利なんてない。
「僕は、僕はね、シスが好きだよ。だからこれを、受け取って欲しい」
「な、にを言っている」
掠れた声が、シスの動揺を表している。
「言っておくけど、特別な意味で好きだ。触れたいって意味で好きだ」
「待て。待て、団長。自分がなにを言っているのか分かっているのか」
「分かってなかったら、指輪なんて用意しないよ」
掴まえている手が逃げる素振りは見えないが、それでもいつ逃げようとするか分からない。
だから、指と指を絡めた。
シスと自分の指を絡めた。
温かい指先が交わり合う。びくりと震えたシスの様子に、自分が動揺させられたのだと思うと嬉しくて仕方がない。
触れる肌の感触が気持ちいいと思うけれど、そう思うのはきっと相手がシスだからだ。
他の誰に触れているだけでも、そこに意味はなく、親愛のスキンシップか触れる必要性があるから触れているだけのこと。意識をすることは、ない。
こんなにも心臓が早鐘を打つような気持ちになったことはないのだ。
まるで恋人同士がするように指と指を絡め、シスの答えを待つ。
フルフェイスの仮面でなくてよかった。少しだけでもシスの表情を伺うことが出来る。
グランから目を背けながらもシスの指は抵抗しようとしていない。いまだ指先には、手の平には、シスの体温を感じている。
震えているのは、自分なのだろうか。
それとも。
「……俺にそんな資格はない」
消え入るような声で呟かれた言葉と同時に、長い睫毛がひとつ瞬き。
自身の指を取り戻そうとシスはやんわりとグランの指から離れようとするが、そんなことはさせないときつく握りしめた。
「資格ってなに? 恋愛にそんなのがいるなんて聞いたことない」
過去の自分の行いなどのことをシスは言っているのだろうが、それとグランの気持ちを受け入れることが同列だとは思わない。
「……それはそうかも知れないが」
「僕に気持ちがないんだったらはっきりとそう言って。じゃないと、諦めきれないよ」
胸の奥が締め付けられる。
シスの表情に、自分の言葉に胸の奥がきゅうと締め付けられる。
切なげに眉を寄せ、薄く開かれた唇はなにかを言いたげなのに、言葉は音にならなかった。
グランの自惚れでなければ、きっとふたりは両想いのはずなのだ。
一緒に過ごした日常を考えても、その考えは的外れでないだけで、あるとすれば想いの大きさぐらいだろう。
だからこそ自分の気持ちを形にしたのだ。
しかしながら、いきなり指輪を用意するなんて重すぎただろうか。
むしろ自分が至らなかったからシスが頷けないのかと考えてみるが、どう考えても明らかに指輪は重い。
しかも久遠の指輪を用意してしまった。これはむしろプロポーズに等しいものなのではなかろうか。
けれど自分の気持ちが本気なのだと伝えるためには、この指輪が一番だと思ったのだ。
今更後悔したところで意味はない。
ならば踏み出さなければ。
立ち止まっていたとしてもなにも始まることはないのだから。
「グラン。俺は本当にお前の手を取っていいのだろうか。俺の汚れた手でお前に触れると、……お前まで汚れてしまいそうで怖くなる」
十天衆とは、全空の脅威だ。
抑止力たる存在に相応しい力を持った者たちの集まり。
シスはその一員であり、十天衆に見合う力を持っている。
彼の敵となれる存在など数えられるほどしかいないだろう。
にもかかわらず、彼の口から出てきたのは怖いという言葉だった。
不安に揺れる眼差しがまっすぐグランに向けられている。
強い、とてもとてもとても強い人なのだ。
けれど同時に、とてもとてもとても脆い人だとも思っていた。
なんとなくそう思っていた想像は、カルムの里へ行った時に確信へと変わったのを思い出す。
「汚れない。シスが汚れてないんだから、僕が汚れるはずがない」
それにシスと一緒なら汚れたって構わない。
飲み込んだ続きの言葉は、きっとシスが聞けば悲しい顔をするだろう。だから口にはしなかった。
「……後悔しても知らんぞ」
呆れたような表情でシスは言うけれど、それはこっちのセリフなのだと分かっているのだろうか。
頷いてしまったら、指輪を受け取ってしまったら、後悔したって手放してやれる自信なんてない。
好きだからその意思を尊重したいのに、好きだから自分の気持ちに嘘は吐けないだろう。
「後悔なんてするはずがない」
「どうだかな。だが、……いいだろう」
グランから逸らされた視線が、ほんの少しの沈黙の後、ゆっくりと向けられる。
揺れている。揺れている眼差し。
けれどそれは先ほど見た不安に揺れるようなものではなく、気恥ずかしさなどが滲んだものだった。
心臓が、跳ねた。
それは、それはつまり。
「指輪、受け取ってくれるの?」
「……俺のために、用意したものなのだろう」
「もちろん!」
両想いだと、思っていた。
思っていたが、それでも万一ということもあるし、両想いだからと言って受け取ってくれるとは限らない。
けれど、そんな不安が拭い去られた瞬間、腹の底からじわりじわりと込み上げる喜び。
嬉しくて嬉しくて、今すぐ大声を出したい気持ちでいっぱいだが、いかんせん時間は夜で、目の前にはシスがいる。
すぐに指輪を渡したいのに絡めた指先を解くのが惜しい。
どんどんと欲張りになってしまう。
シスが頷いてくれたことで願いはひとつ叶ったはずなのに、それ以上の数の願いが溢れ出してきた。
嬉しくてシスの手のひらをきつく握れば、同じようにシスも握り返してくれた。
握り返してくれるというたったそれだけのことが、さらに嬉しさを倍増させる。
「お前は物好きなやつだな」
「そうかな。とびっきり趣味がいいと思うけど」
グランの返答にシスはぐっと言葉を詰まらせると、照れ隠しをするようにそっぽ向いてしまった。
なんてかわいい人なのだろう。
やっぱり自分はとびきり趣味がよいと思う。
好きになった人は。
強くてうつくしくて。
そうして、かわいい人なのだから。
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