Myosotis「初めまして、伯爵。良い夜ね」
月明かりに照らされ、その女性は優雅に踊っていた。
「そうだね…ウィラ」
「あら。 …私、名乗ったかしら」
まぁいいわ。そう言って彼女はジョゼフに向き直ると、優雅な仕草でお辞儀をした。
「調香師、ウィラ・ナイエルよ。以後、お見知りおきを」
「…知っているよ」
そう返したジョゼフは内心苛立っていた。
写真世界を駆使してサバイバーをダウンさせたのに、今回のメンバーの一人である医師に次々と治療され、更にチェイスの相手に選んだ彼女には翻弄され――気づけば暗号機は全て解読が終わり、今やこのマップには自分と彼女の二人しかいない。
――おまけに。
この挨拶をするのも、何度目だろうか。
捨て去られた工場で。廃墟となった病院で。かつて栄えていた小さな漁村で。そして、ここ――誰かの思い出の場所で。
場所は変われど、彼女は決まってこう言うのだ。『初めまして』と。
ジョゼフは彼女の手の中の香水瓶を睨み付ける。
あの中身こそ、このやりとりを強いる原因だ。
忘却の香。
彼女――ウィラ・ナイエルの作る香水は受けたダメージすら忘れてしまうという強い効力をもつ。
そのせいなのか、彼女はゲームの内容を覚えていることはなかった。
他のサバイバーと違い、彼女とのチェイスはなかなかに楽しめるものだった。
普段は時間の経過を待つだけのゲームの待ち時間も、彼女がいると分かると少しだけ気分が高揚する。
逃げる姿すら優雅な彼女に、時に翻弄され、時には追い詰める、チェスのような駆け引き。
こんな気持ちでいるのは自分だけではないはずだと、何度目かのゲームで彼女に声を掛けた。
だが、彼女は自分を知ってはいても、それは写真家というハンターに対する知識を持っている、というだけだった。
ゲームが終われば、全てを忘れている。――あの忌々しい香水のせいで。
ジョゼフは彼女の手の中の香水瓶目掛けて、手に持ったサーベルを振り下ろした。もう中身が入っていないのか、彼女の手を離れたそれは乾いた音を立てて割れた。
「ひどいわ、この香水瓶も気に入っていたのに」
そう言いながらも、彼女は逃げようとしない。
仲間は既に逃げ、勝ちは決まっている。その上での余裕なのだろうか。
「今夜も楽しかったよ、ウィラ」
そういってジョゼフはもう一度サーベルを振り下ろした。今度は彼女に当たるように。
鋭い一撃に、彼女の体が地面に倒れた。
立ち上がることができない彼女を拘束し、椅子に座らせる。
そうすればすぐに椅子が彼女を荘園へ送り返すだろう。
――そしてまた、今夜のことを忘れるのだ。
忌々しげにジョゼフは舌打ちした。
椅子に座り、最後の抵抗とばかりにもがく彼女の顎を指で持ち上げた。
そうして、彼女の唇に自身の唇を重ねる。
重ねるだけの、軽い口づけ。
ウィラの動きが止まり、ジョゼフを見上げる。
驚きの表情を浮かべる彼女の顔も、いつもと同じ。
「…随分熱心なお見送りね」
「君は忘れてしまうけどね」
皮肉を込めて、彼女の口をまた塞いでやる。先ほどより、少しだけ長く。
椅子の振動が強くなり、別れの時を告げた。
「また会おう…ウィラ」
そして椅子が彼女を荘園へ連れ戻す。こうして送り出すのも、何度目になるだろうか。
雪の降るマップで、その場に取り残されたジョゼフは溜め息をついた。
先に戻っていた仲間に挨拶を終え、彼女は自室のドアを閉めた。
唇に残った感触。
彼の青く光る瞳が脳裏に浮かんで、どくどくと心臓が鼓動する。
――忘れてなんていない。
ドアにもたれかかり、そのまま背を預けて座り込む。
皆は思い違いをしている。これはまだ未完成で、記憶を消すものではない。
このでき損ないの香水ができるのは、“その時の自身の状態と位置を記録すること”だけだ。
彼女が本当に求めている効果はない。
だが、忘れていると思わせておいたほうが都合が良かった。
そうすればハンターはウィラを侮り、その分勝てるようになった。
だから、初めましてと挨拶をする。
ハンターに、こいつは自分の特性を知らないのだと思わせるために。
そうしていると、仲間もそうだと勘違いをするようになった。日常では忘却の香を使わないから、支障があるわけでもない。
勝率をあげる彼女に文句を言うものは誰もいなかった。
――忘れてなんていないわ、ジョゼフ。
他の粗野で乱暴なハンターとは違い、どんな時でも悠然と構える彼の姿には敵ながら敬意すら覚える。
だから、何度目かのゲームの時、声をかけられた時は――覚えていてくれていることが分かった時は嬉しさのあまり、平静を取り繕ろうのに苦労した程だ。
彼にとって、自分が他のサバイバーと違う存在であったことがどれほど嬉しかったか。
だが。
自惚れた考えを振り払うようにかぶりをふった。
彼が見ているのは本当の自分ではない。
彼に見えているのはクロエが演じているウィラ・ナイエルだ。誰からも好かれ、優雅で美しい、優しかった私の唯一の理解者。
ウィラは立ち上がると、机に置かれた一枚のメモを手に取った。
ゲームに勝つといつの間にか置かれている、香水のヒントが書かれた紙。
あと何枚集めれば完璧なものが作れるかわからないほど遠回しなヒントが書かれた紙を一目みて引き出しにしまい、ウィラは香水の調合を始めた。
早く完成させなくては。最愛の姉を殺した罪悪感も、芽生えた恋心も。全てを忘れられる香水を。
――忘れたふりではなく、本当に忘れることができるように。