長谷津でブリヌイをヴィクトル・ニキフォロフが長谷津にやってきて、勝生勇利のコーチになってから数ヶ月たった。
ヴィクトルは、今、ロシアのアイスショーに出演するためにしばらく日本を離れていた。
フィギュアスケートのシーズンオフには選手がアイスショーに出演することがある。
ヴィクトルも、例年ならこの時期いろいろな国を飛び回っているはずだった。しかし彼は、今年休養し勇利のコーチをしているため、極力減らしているらしい。それでもロシアの英雄と称されているだけに、母国でのショーは断れなかったらしく、渋々といった態でロシアに向かったのだった。
勇利は長谷津でひたすら練習する日々が続いていた。ヴィクトルと一緒に作った新しいフリープログラムも決まり、完成度を上げるのに必死になっていた。
アイスキャッスルの営業時間が終わった後、勇利は一人でもくもくと練習する。
ジャンプがクリーンに決まった時など、思わず、
「ヴィクトル、今のよかったでしょ!」
と言ってしまって、居合わせた西郡豪と優子に笑われてしまったこともあった。
「勇利はヴィクトルと一緒にいるのが当たり前になっちまったみたいだな」
「そうね、最初の頃ぎくしゃくしてたのが嘘みたいだもんね」
ヴィクトルがアイスショーの日程を終えてロシアから戻った時、勇利は空港まで迎えに行った。
衣装や何やらたくさんの荷物を抱えて出てきたヴィクトルは、勇利に気がつくと駆け寄りざまハグした。
「ユウリ!」
「わ、ヴィクトル、おかえりなさい」
その言葉にヴィクトルはまじまじと勇利の顔を見つめた。
「ご、ごめんね、今日家の車が使えなくて電車なんだ、僕荷物持つから…」
申し訳なさそうに言う勇利に、ヴィクトルはにこりと微笑んだ。
「いいよ、レンタカーしよう」
レンタカーの受付に向かうヴィクトルに勇利は慌てて聞いた。
「誰が運転するの?」
「もちろん俺だよ」
彼は懐から少し大きめのパスポートのようなものを出してみせ、レンタカーの受付カウンターに置いた。
「ロシアで申請してきたんだ、国際運転免許証」
「あ、次の信号を右だよ、車線間違えないでね」
「オーケイ」
長谷津までの道のりはカーナビゲーションが案内してくれたが、アナウンスが日本語なので勇利が訳してやらなければならなかった。おまけに日本でしかも左側通行は初めてとあって、ヴィクトルは右折しようとした時いきなり右の車線に入ろうとして勇利をヒヤヒヤさせた。ヴィクトルが右ハンドルの車で左側通行の運転にも慣れた頃、勇利はようやく一息つくことができた。
「はぁ~、全くびっくりさせられるよ、ヴィクトルが日本で車運転するなんて」
「こっちでも運転できた方が便利だろ」
「ロシアはどうだった?」
「どうって…?」
「僕もヴィクトルのショー見たかったなあ」
勇利はアイスショーの様子を知りたがった。
「ロシアではTV放映されたから、録画したのを送ってくれるそうだ」
「はあ~、楽しみ、ヴィクトルかっこいいだろうなあ~」
頬を上気させ潤んだ瞳を輝かせている勇利を横目に、ヴィクトルはどこか複雑な表情だった。
フロントガラスに雨粒があたった。
「降ってきたね」
間もなくワイパーが動き出す。
「不思議だなあ…」
「ん?」
「ヴィクトルが長谷津に来た時、雪降ってたの覚えてる?」
「ああ、そうだった、サクラの花に雪が積もってたっけ」
「ヴィクトルがロシアから雨や雪を連れてくるんだ」
間もな長谷津は梅雨に入った。
湿気をふくんだ空気は、ヴィクトルの柔らかな銀髪を容赦なくかき乱し、朝起きてきた時など思わず誰かと凝視してしまうほどだ。ヴィクトルは鏡の前で念入りにヘアスタイルを整えるのだが、練習から帰ってくる頃にはまたくしゃくしゃになってしまっていた。
「毎日よく降るね」
ヴィクトルはため息をひとつついた。
「梅雨だからね」
「ツゥ~ユゥ~?」
日本では季節が春から夏に変わる時、沖縄や九州から梅雨入りし北上していくのだ、と説明すると、ヴィクトルはふう~んと納得したようだった。
「サンクトペテルブルクってどんな気候?」
話の流れで何気なくユウリが尋ねると、ヴィクトルは、今は白夜だよ、と答える。
「ピーテルも雨が多いけど、こんなには降らないかな」
勇利はヴィクトルが故郷であるサンクトペテルブルクをピーテルと呼ぶのが好きだ。
ヴィクトル本人やサンクトペテルブルクについてはよく調べて知っているのに、彼の口から聞きたくてついいろいろなことを尋ねてしまう。
そうして話しているうちに、ヴィクトルは、ユウリにもピーテルを見せたいなあ、と言う。
勇利もいつかヴィクトルと一緒にサンクトペテルブルクを訪れる日を夢見るのだった。
ヴィクトルは相変わらず長谷津での生活を楽しんでいたが、雨が続くとさすがに飲み食いに出歩くこともなくなり、家でぼんやりしていることが多くなった。
楽しいことやビックリすることが大好きなヴィクトルにとっては、シーズンが始まるまでのこの時期は退屈な季節なのかもしれない。
…ヴィクトル、ロシアが恋しくなったのかな…
ヴィクトルに何かしてあげたいなあ、と勇利は思うが、考えつかないまま日々が過ぎていく。
日々の練習はいつも通りに進んでいった。
日課のロードワークはレインギアを着ているせいでサウナに入っているようだった。
いつも自転車で先導するヴィクトルは、一足先に車でリンクまで行くようになった。
雨の日は、早朝ロードワークがてらリンクへ行き、筋トレの後オンアイスでの練習をする。
リンクが一般向けの営業時間になる頃、一旦車で家に戻り、午後のダンスレッスンと夜に再びリンクに行く。
お昼ごはんを買って帰ろうかとコンビニに寄ると、雑誌のコーナーにある本に目が止まった。
『作ろう!本場のロシア料理』
これだ!長谷津にはロシア料理店もないし…
「ねえ、ヴィクトル、何か食べたいものある?」
ヴィクトルは勇利の肩越しに本を覗きこんだ。日本語はわからなくても、料理の写真を見てボールシィ、ベフストローガナフなどとロシア語で呟いていた。
「ピラシキーが食べたいなあ、ベーカリーでも売ってないしね」
「ピロシキ?うーん、作るの難しそうだなあ」
「じゃ、ブリヌイは?」
「あ、これクレープ?今度家で作ってみようか」
「お昼に食べたいよ」
…ヴィクトル、言い出したらきかないからなあ…
そういうことになり、スーパーに寄り材料を揃えて帰った。
急いで汗を流した後、準備に取りかかる。
「真利姉ちゃん、台所使うよ、粉ふるいある?」
声をかけられた姉が何事かと見にきて、粉だらけになった勇利とヴィクトルにあきれ顔をした。
「あんたたち、何始めたの?」
「ブリヌイつくるよー、みんなの分もあるからね」
ヴィクトルはご機嫌な様子だ。
ブリヌイの生地の発酵を待つ間に食材の用意をする。
「ユウリは料理できるの?」
「5年間家を離れてたからね、デトロイトにはいろんな国から選手が来てたから、料理も教えてもらったんだよ」
「ユウリは食いしん坊だからねえ」
生地の表面がぷつぷつと泡立ってくると、発酵が進んだ徴だ。
「なるべく薄く伸ばして焼くんだ」
「たくさん焼かなきゃいけないから、ホットプレートも使おうか」
二人で焼いたブリヌイを皿に山のように積み上げていく。
ハム、サーモン、イクラ、チーズなどをレタスやハーブと一緒に巻き、サワークリームを添えて食べる。
ヴィクトルはフクースナを連発していた。
お昼の休憩をとりにきた家族にも食べてもらったが、これがロシアの料理か、と喜ばれたので、ヴィクトルも嬉しそうだった。
「少し休もうか」
ヴィクトルにそう言われて、部屋に向かった。
「ユウリ、練習で疲れてたのに、俺のためにブリヌイ作ろうとしてくれたんだね」
部屋の前にくると、ありがとう、と言ってヴィクトルは勇利をハグした。一瞬力を込め、すぐに離れる。
「あ、うん、ロシアから戻ってきてから元気なかったから、ホームシックかなって思って」
「そんなふうに見えた?」
ヴィクトルは勇利の顔をじっと見つめた。青く刺すような眼差しに勇利はドギマギした。
「俺はハセツでの生活楽しんでるよ、ユウリが気にかけてくれるのはうれしいけど、ちょっと違うね」
「え、そうなの?」
ヴィクトルは自分の部屋の扉を開け、勇利に入るよう促した。
ヴィクトルはベッドに腰掛け、勇利はソファに座る。
「アイスショーでね、ピーテルやモスクワやいろいろなところを回ったよ」
「うん」
「そりゃロシアは故国だから帰るのは嬉しいさ」
「……」
「ユウリは俺がホームシックなのかって言ったけど、それはここでじゃない、ロシアでだよ」
「え?」
「ロシアでなぜか長谷津が懐かしくなって、ユウリのことばかり考えてた」
その言葉を聞いて、勇利はぱっと顔を輝かせた。
「ユウリはどう?俺がいない間寂しかった?」
「僕もだよ、同じだね、嬉しいな」
勇利が興奮気味に立ち上がると、ヴィクトルも一歩勇利に近づく。
「練習しながら、ヴィクトルがいてくれたらな、とか、上手くできた時は何て言ってくれるかなとか…」
「ちょっと待って、それだけ?」
「それだけって、ヴィクトル僕のコーチをするのが待ち遠しかったんじゃないの?」
ヴィクトルはそれを聞いて頭を抱えた。
「ユウリにとって俺って何?フィギュアスケートのコーチングやアイスショーのことしか頭にないの?」
「何言ってるの、ヴィクトルはヴィクトルでしょ」
「離れてて寂しかったんだよねえ」
「そうだよ!ヴィクトルも早く僕のコーチがしたかったんでしょ」
「うう…それはそうだが…」
勇利は自分より背の高いヴィクトルの肩を抱き寄せた。ヴィクトルは少しかがむ格好になった。
「ヴィクトルは僕のために長谷津に来てくれた。スケートにはスケートで返すけど、それだけじゃなくて、ヴィクトルに何かしてあげたかったんだ」
「ありがとう、ユウリ」
ヴィクトルも勇利の背中に腕を回した。
「嬉しいよ」
少し力を込めて自分の方へ抱き寄せる。
「じゃあ、一緒に寝ようか」
ヴィクトルが勇利の耳元で低く囁くと、勇利は真っ赤になってぱっと離れた。
「いやいやいや、どうしてそうなるの?それはないでしょ」
「えー、そうなの?」
ヴィクトルが膨れっつらをしてみせたのに構わず、ユウリはヴィクトルの部屋から逃げ出した。
自室のドアを閉めようとした時、ヴィクトルの笑いを含んだ声が追いかけてきた。
「ちゃんと昼寝して体を休めるんだよ」
勇利はベッドに体を投げ出した。
…僕からかわれたのかな、でも、いつものヴィクトルに戻ったみたいでよかった…
横になったもののなぜかドキドキして眠れそうにない。
朝から降り続いていた雨はさらに激しくなり、勇利の鼓動をかき消すように窓ガラスに打ち付けられていった。