国立科学博物館に行こう!その1プロローグ:国立科学博物館に行こう──霧箱と泡箱
ここは謎時空21世紀日本。
ゲンの家(たまり場)で千空がクロムに科学の話をしており、それをゲンが聞いている。
「で、放射性崩壊は今じゃ人工的に起こせるようになったが、原理の解明されてなかった時代はラジウムなんかが自然に起こすやつしか知られてなかったわけだ。だから特に自然に放射されやすいヘリウムの原子にα粒子、α粒子が放射される放射性崩壊にα崩壊って名前がついてんだよ」
「なるほどー。でもそんな時代によくα粒子が原子核から飛び出してるって分かったな」
「そりゃ霧箱とか、もうちょっと時代が下れば泡箱があったからな」
「霧箱……泡箱?」
「実験装置だ。α粒子をはじめとする荷電粒子そのものはちっせぇ上に早ぇから普通に実験したんじゃ人間の目には見えねえ。だから人工的に過飽和状態にした蒸気を詰めた霧箱の中に突っ込ませて、放射線が空気をイオン化すると水の分子がそのイオン化された空気に引っ張られて、それでできた液滴を見ることで……」
「ちょっと待ってくれ千空」
「何が何だかさっぱりだから、も~ちょっと優しい言葉で説明してくれない?千空ちゃん」
「あー、放射された粒子が人工的に蒸気をギチギチにした箱の中に突っ込むようにすると、その粒子が通った場所だけ空気と反応して、その影響で写真に映る水滴ができるから粒子のルートが分かる。そのルートからいろんなことが分かんだよ」
「なるほど!」
「まず放射性崩壊が分かんないから全部分かんないわ……」
「泡箱ってのは霧箱の進化系だな。こっちは気体じゃなくて液体を詰める。詰めるのは液体水素が多いな。ニュートリノは間接的にだが泡箱で初めて観測されたんだぜ」
「ニュートリノって名前しか知らないな~」
「あのニュートリノが!?泡箱すげー!やべー!見てみてぇー!」
「クロムちゃんは分かってるみたいね」
そこで千空がニヤリと悪い笑顔になったので、ゲンはちょっと身を引いたしクロムは目を輝かせた。
「見に行くか?泡箱」
「見に行けるのか!?」
「どっかの研究所で見学させてもらうってこと?」
「いーや、研究者の皆々様にお手数をかけなくてもお手軽気軽に見れる場所がある──国立科学博物館、通称科博、だ」
「ちなみに今科博は感染症予防のため常設館も含め完全予約制だ。科博の常設展はなんと高校生以下無料だからこの時空の俺とクロムは無料で入館し放題だが、そういうやつも全員ネット予約が必要だから気をつけろよ」
「おっけー、次の休日入れるみたい。時間帯どこにする?俺は前日お仕事だから昼過ぎがありがたいかなーなんて」
「あ゙ー……まあ昼過ぎでいいだろ。どうせ朝イチで行ってもオチは変わらねえだろうし」
「オチ?」
「行ってみりゃ分かる」
こうして3人はとあるうららかな春の日、科博に足を踏み入れたのであった!
【人物紹介】
千空:科博常連。高校を卒業したら即年パスを買う予定。
ゲン:科博は初めてだが上野公園には何度か行ったことがある。
クロム:上野公園そのものが初めて。
入り口:自転の振り子──おいでませエブリワン
「公園でっけー!文化会館でっけー!美術館でっけーー!!」
「上野公園でかいよね~。動物園もあるし美術館も複数あるよ」
「やべーーー!!!」
「ククク、だが今日のお目当ては科博だ。そら見えてきたぜ、クジラが」
「クジラ?……クジラだ!?」
「千空なんだあのクジラ千空!クジラ!!」
「クロムはちっと落ち着け。あのクジラは科博の『アンコール』だから詳細はまたあとでだ。とりあえず入んぞ」
「なんだこの機関車!?!?」
「蒸気機関車D51だ。日本で最大の製造数を誇るテンダー式蒸気機関車の保存機だな。デゴイチって愛称で親しまれてた」
「入館前から千空ちゃんの千空ペディアが出ちゃった」
「今日なんか千空テンション高いな!」
「ここは科学キッズの聖地だぜ?テンション上がるに決まってんだろ」
「そ、そんなに」
「あっちにも人が入ってるけどこっちでいいのか?」
「あれは特別展の入り口だ。特別展を見てから常設館に行くのも、まあ物理的には可能だぜ」
「物理的には?」
「入ってみりゃ分かる。入館にはネット予約の完了メールのページが必要だから出せメンタリスト」
「はいはい」
常設展入り口を入ってすぐは日本館のミュージアムショップなどのフロアである。
今日は地球館から見るということで、彼らはこのフロアをさくっと通り抜け……ることはできなかった。
「振り子だ!!!」
「おー、フーコーの振り子だな。200年も前にフーコーの大先生が考案して、物理学者でもなんでもねえ一般人にも地球の自転を明白にした偉大な実験装置だ」
科博の振り子は電光表示により見やすくなっているので入門に最適である。
しばらく振り子を眺めてからようやく3人は歩みを進め、順路に沿って隣の建物に入った。
「さあて、それじゃあお待ちかね。地球館1F、地球史ナビゲーターだ」
地球館1F:地球史ナビゲーター──新生児の我らエスカレーターを上がってすぐ入ったのは、大きな暗い部屋だった。
中央にカンポ・デル・シエロ隕石とひまわり1号、そしてアロサウルスの大きな骨格が展示されたステージがあり、円環になった通路の壁一面に非常に分かりやすいアニメーション映像が映されている。
「ど……どれから見れば!?」
「落ち着け、まあアロサウルスでも見ていけ。これは46億年前の隕石、あれはジュラ紀後期の恐竜、でそっちが現代の人工衛星。このゾーンの内容を端的に表してる展示だ」
「やべー!このアロサウルス、頭部以外はほぼ実物の化石だって!」
「アロサウルスって恐竜って言われて思い浮かべるスタンダードな肉食恐竜の形してるね~」
「ウェルカム恐竜として最適だろ」
「ウェルカム恐竜とは」
「つかこの隕石、46億年前にできたのか!?やべー!」
「確かにそれはバイヤー……地球と同年代ってこと?ていうかそんな隕石をケースなしでこんなすぐ近くにそのまま展示してて『お手を触れないでください』って、人の善性を信頼しすぎてない?」
「お手を触れるなよ」
「触れないけども」
壁の映像とその手前の展示は大きく3つに分かれている。
最初は宇宙史。
映像においては幾何学的で抽象的な原子が集まるところから始まり、それがやがて星になり、地球ができ、生命が誕生し、最後に人間が現れるところまで示されている。
展示ではこの宇宙が最初は水素とヘリウムで占められていたことが説明され、様々な年代においてどんな原子が存在していたかの『証人』として隕石や岩石が並べられている。
「……映像見てて思ったけど、人間の時代ってめちゃくちゃ短いね」
「ククク、よく気づいたなメンタリスト。地球の46億年を1年に例えたら、人類は12月31日の午後11時37分に生まれたばかりの赤ん坊なんだぜ」
「えっ、まだ生後1時間もたってないの?」
「おう、新生児も新生児。最初の産声をまだ収めてもいねえレベルだ。こっからどう成長するも自由ってわけだな。夢と希望に溢れてるだろ?もちろん宇宙全体の歴史から見れば更に短くなるぜ」
「バイヤー……あれ、クロムちゃんは?」
「あっちで目ぇ細めて解説読んでる」
「映像あるからちょっと暗いもんねここ」
次のエリアは地球史である。
地球が生まれ、海が生まれ、海の中に生命が生まれ、光合成をするものが生まれ、酸素が爆発的に増えたことから多種多様な生き物が生まれては滅んでいった様子が示される。
「千空!ゲン!これ、この始祖鳥の化石のレプリカ触れる!」
「始祖鳥って結構小さいのね」
「昔ははっきりこいつが最古の鳥類って言われてたが、近年の研究で恐竜と鳥類の区別がつかなくなってきてんだよな」
「そうなのか?」
「つか、ここからここまでが恐竜、こっから以降は鳥類、ってはっきり二分できるもんじゃねえんだ。グラデーションなんだよ」
「はえ~」
「こっちのほうはリアルな剥製だなー!」
「このへんはいわゆる『生きた化石』の皆さんだな。映画で有名になったラブカもいるぜ」
「ラブカちゃんって顔が怖いのもあるけど、こう見てみるとなんかエラが気持ち悪い感じする~。内臓見えてる感っていうか」
「人間の唇もそうだが?」
「それはそうだけども」
「動物の言葉が分かったら人間の唇きもちわりー!って言ってるかもな!」
最後のエリアは人間史。
草原の中で前足を使って採集をしていた猿人がやがて道具を使い始め、農耕を始め、数学や物理学を扱い始め、蒸気を、そして電気を使い出し、それが工場から一般家庭へ、やがて情報化社会へ向かう様子が分かりやすいアニメーションになっている。
展示の最初のほうは各種の猿人やホモ属人類の頭蓋骨の比較、道具の発達が分かりやすく並べられており、人類の進化の過程が一目瞭然になっている。
「こうして見ると頭の大きさが全然違うねえ。それに手足もかなり長くなってるし」
「それが生存に有利だったからだな。近年平均身長が伸びてるってのは栄養状態がよくなったっていうのが理由の個体の差だが、こういう進化は適者生存からの自然選択でこうなっていくもんなんだ。自然淘汰ともいう」
「おう、実際の自然は弱肉強食じゃなくて適者生存ってやつだな」
「やっぱ頭が良かったり手足が長かったりした個体が生き延びてこうなっていったわけ?」
「それもあるが、頭が良かったり手足が長かったやつが、分かりやすく言うとモテたんだよ。進化ってのは一個体の成長の話じゃなくて、世代交代をしていくうちに選ばれた……つまりモテたやつが持ってた特徴が受け継がれてくことで起こるわけだからな」
「な、なるほど」
「ただこの自然選択ってのは完璧なシステムじゃねえ。弱点もある」
「弱点?」
「おー。一番大きな弱点は、自然選択は目先の利益を将来的な利益より優先するってことだな。将来致命的な進化のどん詰まりを起こす特徴であっても、その場その場で利益があるなら選ばれちまう。それで滅んだ生物も山ほどいるぜ」
「不思議な特徴もった絶滅動物いっぱいいるよなー!」
「顎が異様に発達した象みたいなのの写真見たことあるな~」
「それに自然選択ってのは生存に適した特徴を持ったものがモテることと、適さない特徴を持ったものは繁殖適齢期までに死ぬことをシステムの根幹にしてる。つまり繁殖適齢期のあとに発症する遺伝疾患のたぐいはシステム上淘汰されねえ」
「確かに!」
「あ~、なるほど……」
「まー繁殖適齢期が過ぎてから何十年も生きる生物は少ねぇけどな。つーわけで自然選択は完璧じゃねえ、が」
「が?」
「自然選択に逆らって、目先の利益より将来的な利益を優先する方法が一つだけある」
「なんだ!?」
「『考えること』だ。『科学』と言ってもいい。人類はこれで成功を収めてきた」
「科学……!」
「ま、このルートが正解かどうかはまだ分かんねえけどな。なんせ俺らは生まれたてホヤホヤだ。大人になれる保証もねえ」
展示はやがて望遠鏡やアーク灯、分光器などの歴史的発明品、そして高機能プラスチックやスマートフォンなどの現代テクノロジーへと移っていく。
「科学……すげー……やべー……」
「クロムちゃんの語彙力が喪失してる」
「唆るだろ!な!これは唆るだろ!」
「千空ちゃんもだった」
地球館1F:生物の多様性──生命の設計書
地球史ナビゲーターのエリアを抜けるとその先は通路だが、ただの通路ではない。
海洋生物の剥製がずらりと展示された圧巻の通路なのである。
人間は海の中では暮らせないが、しかしこの地球は7割が海。
海こそが生き物にとって最大の生息場所である。
太陽の光が届かない深海においてすら、特殊な生態を持った生き物たちが暮らしているのだ。
「馴染みのない生き物もいるけど、ワカメまで行くとなんか美味しそう感出ちゃうな」
「千空!ゲン!上!サメとかエイにコバンザメついてる!」
「ほんとだ」
「あれはジンベエザメとオニイトマキエイだな。上に吊るしてある剥製を下から見るのも乙なもんだろ」
通路を抜ければそこは陸上生物の多様性エリアである。
一言で陸上と言っても、その環境は多様。
それぞれその地に暮らす生き物たちもまた多様である。
淡水と海水が入り交じるという、通常の植物では生きてはいけないような環境で育つマングローブの林。
巨大なラフレシアが目を引く熱帯雨林には大きな樹木とそれに伴う豊かな生態系。
水分過剰で低温という湿原の環境に見事に対応した動植物たち。
日本人に馴染みの深い温帯林エリアでは、ブナの木の向こうから大きなツキノワグマが覗いている。
厳しい環境である高山にもチョウを始めとする様々な生き物がいるし、同じく生命の存在を許さないかのような砂漠にも気候に適した植物が生えている。
「あっ!これキクイムシの痕跡なのか!これも!これも見たことある!」
「で、あそこにいるのがそういう虫を食べるキツツキその他ってわけだ」
「生態系~~!」
「生態系だろ」
「この辺はお子様にも分かりやすくていいねえ。あ、吊るされてる鳥が空調の風で揺れてる」
「さて、お次は楽しい楽しいお勉強のコーナーだ。テーマはズバリ──生命とは何か」
生命とは何か、それはギリシャで哲学していた時代から続くテーマである。
様々な分野が様々な答え──答えなど出ないという答えも含む──を出しているが、ここ科博の『生命とは何か』エリアでは現存する生命の『仕組み』がただ一つであることが示される。
それはデオキシリボ核酸、通称DNAという『言語』で書かれた『設計書』たる遺伝子が生物を形作っているということだ。
DNAは糖、塩基、リン酸からなるが、このうち塩基が『言語』の役割を担っている。
塩基にはアデリン、グアニン、シトシン、チミンの4種類しかなく、その配列、及びそれらが対となって作られる螺旋状の鎖がその個体のすべてを記述しているのだ。
「つまり俺とテメーらの差はこの遺伝子に書いてある言葉、つまり塩基の配列の差しかねえんだ。俺らと他の動物や植物との差も似たようなもんで、染色体……DNAその他の塊だな、これの数は違うがやってることは同じだ。遺伝子コピーして細胞作って、バラして翻訳して体を形作ってる。これが生命だ」
「なるほど!」
「原初の昔はおんなじ生命体だったって感じ~」
「さて、その遺伝子のコピーだが。時たま間違いが起こることがある」
「間違い」
「塩基をコピーミスしたり、コピーできなかったり、余分な塩基を入れちまったりってパターンがあるな。こういう間違いが正しく修復されずに見逃されると、そこに遺伝子変異が起こる」
「いわゆる突然変異だな!」
「結構あるんだそういうミス」
「生存に不利なミスならその個体はそのまま死ぬから、残る変異は少ねえけどな。精子や卵子を作ってる最中に起きたミスなら子孫に受け継がれることもある。それが起きるとどうなるか、分かりやすい展示がこれだ」
展示されているのはハツカネズミである。
目の色や体色が異なるハツカネズミの剥製と、どうしてそんなことが起こったかという解説だ。
毛の色が黒っぽいハツカネズミ、毛の色は白だが目は黒く体の末端が色づいているハツカネズミ、そして目の色が赤く全体が白いアルビノのハツカネズミ。
これらの違いは『設計書』の毛の色を決める箇所の違いから起こる差なのだ。
その他にも違う種であるのに見た目が似ているため昔は同種だと考えられていたカエルや、同じ種であるのに見た目が異なる様々な生き物が展示されている。
「この蝶々、オキナワルリチラシ?っていうのね。住んでる島によって色がかなり変わるのね~。俺は屋久島の亜種がきれいで好きかな」
「色だけじゃなくて生態も変わるみたいだぜ!本土のオキナワルリチラシは年1回繁殖だけど、南のほうの島のやつは休眠性を持たないから年2回繁殖するんだって」
「気候が原因で生態が変わったやつだな。原因になるのは気候だけじゃねえ。こっちのトリカブトは生息域の高度によるし、あっちのイモガイは食い物による。この蛾が黒っぽくなったのは、生息域に工場が増えて木の幹の色が白から黒に変わったことが原因だ。鳥に見つかりにくい、より目立たない色を自然選択してそうなったわけだな。こういうのは工業暗化っていう」
「あっ!!カブトムシだ!!!」
「ホントだカブトムシだ。なんで男子ってこうもカブトムシが好きなんだろうね」
「まぁデザインだろうな」
「やっぱヘラクレスはかっけーな……やべー……」
「俺はコーカサスのほうが好きかな~。黒いほうがかっこよくない?千空ちゃんは?」
「必要があって進化してきたデザインだからどれもそれぞれ良い。かっけーものはかっけー」
ここで男子3名はしばしカブトムシを眺めるだけの時間を設けた。
かっけーものは単純に目の保養になるからである。
「こっちの貝はイモガイ……待って、イシヤキイモって名前の貝がいるの???」
「いるな」
「割りと石焼き芋な見た目してんな」
「ヤキイモもいるんだ……これは白いね」
「個体差もあるからな。ちなみにイモガイは猛毒があるから見かけても素手で触るなよ」
地球館1F:系統広場──親戚のみんな
多様性の様々な実例を見ることができたコーナーを抜ければ圧倒的物量の系統広場……の前に。
「クジラだ!?」
「クジラだな」
「やべー!でけー!!」
「模型?あ、こっちから見ると普通のクジラだけどあっち半分は骨とか内臓が見える展示になってるんだ」
「そっちに詳細な解説があるが、このクジラの骨は打ち上げられた本物を使ってる。それをもとにクジラの体の構造が分かりやすいよう作られた標本だな。クジラのヘソも見えるぞ」
「おヘソ?あの大きい穴かな」
「あれはチンコ出す穴」
「チンコ出す穴!?」
「言い方」
「要は生殖孔だな。その後ろの一回り小さいやつが肛門で、それより手前側にあるくぼみがヘソ」
「あ~あれね」
「ヘソあると哺乳類だなーって感じすんな」
「このクジラは大哺乳類展2で展示されてからこっちに来た、常設展の中じゃ新顔だ。最近科博に行ってねえやつもクジラ見に来いよ」
「露骨に宣伝していくね」
「科博を推すための小説だからなこれ」
さて系統広場である。
現在この地球上には、知られているだけでも160万種以上の生物が存在している。
もちろんまだ知られていない生物もいるし、既に知られている生物でも新しい事実が判明することが多々ある。
そんな多種多様な生物たちだが、一つとして例外なく太古の海に誕生した原始生命体の子孫なのだ。
「つまりこいつらは全部、俺らの親戚ってわけだ。その親戚関係を表したのが系統樹」
「この床のやつか!」
「系統樹は聞いたことあるな」
「見た目に分かりやすいから人気あるな。で、お子様向け系統樹に描かれるのはイラストの動物たちだが……なんとここ系統広場では実物の標本が見れるって寸法だ!見に行くぞクロム!」
「おう!!」
「テンション~。でもこういう全部網羅した展示って確かに珍しいかも?大体テーマに特化した展示になるもんね」
「キノコやべー!」
「唆るぜ!」
「ヒトデやべー!」
「唆るぜ!」
「コガネムシやべー!」
「唆るぜ!」
「ん?このディスプレイは……」
「ここは哺乳類のゾーンだからな。映ってるのは?」
「俺だ!人間か!」
「そういうこった」
「やべー!楽しー!」
「だろ!」
「二人ともおめめキラキラさせちゃってまあ」
円形の系統広場をぐるりと囲む通路にはあちこちにベンチが置いてある。
3人は誰からともなくそっと座った。
若い男なのでまだ体力に余裕はあるが、テンション上げすぎて精神的な疲れがちょっと来ちゃったのだ。
彼らの友人の霊長類最強系男子や速攻系女子ならまだまだ元気いっぱいだったろうが、ここにいるのは体力ステータス低めの男たちだったというのもある。
「科博……楽しいな……!」
「だろ」
「千空ちゃんが特別展のあとに来るのも物理的には可能、って言ってた理由ちょっと分かってきたな~。体力もたないんじゃないこれ?特別展って人混みすごそうだし、そのあとこのボリュームを見るのは疲れるっていうか」
「あ゙ー、半分正解だ。もう一個もたないものがある」
「なんだ?」
「まあそれもそのうち分かる。そろそろ次行くぜ」
地球館1F:生物たちの工夫──血のいろ白いろ
系統広場を抜けて流れに沿っていくと、次なる展示は生物たちが自然にどう対応しているかというテーマになる。
この自然を生き抜くための解法は一つではない。
あるものは体を大きくするし、あるものは小さくすることで適応してゆく。
キリンやゾウ、アナコンダといった大きな動物の骨や、それより更に大きな杉の展示。
それらと対比するカヤネズミやトガリネズミ、小型のハゼなどの標本。
極度の高温あるいは低温、また極度の多湿あるいは乾燥といった土地にも、その環境に適応した動植物が存在する。
「このスイショウウオって魚、血の色が赤じゃないんだ!おもしろ〜」
「低温の世界に適応するためにそうなって書いてあるな」
「こいつらは南極に住んでるからな。血の色が赤いのは血液中に含まれるヘモグロビンのせいだ。ヘモグロビンっていうのはヘムとグロビンが結合してできてる。このヘムってやつが鉄を含んでて、その影響で赤血球が赤くなる」
「赤い血の球っていうくらいだもんね〜」
「ところがこのスイショウウオなんかのコオリウオ類は血が白い。南極の海で活動する生き物はそれぞれ寒さ対策をしてるが、こいつらのそれは寒すぎてうまく働かねえヘモグロビンを捨てたってことだな。血液の中に不凍糖タンパク質を持ってて凍らないし、酸素はヘモグロビンじゃなくて血漿で運んでる」
「普通の生き物は血漿で酸素は運ばないの?」
「普通はヘモグロビンのが効率がいいんだよ。だからコオリウオは量で勝負するために心臓がでかいし血液の量も多い」
さて、この付近の展示で目を引くのはなんといっても腸である。
それぞれライオンとウシの胃と腸管が比較できるように並べられ、植物を分解して栄養にするには大変な長さの腸が必要であることがすぐ分かるようになっている。
40メートル近いウシの腸管を眺めたあとは、動物や植物たちがそれぞれどのような戦略で子孫を残しているかの展示に移る。
同じ哺乳類でも、とにかく数を生むドブネズミと、460日もの妊娠期間を経てやっと1頭の仔を生むキリン。
昆虫にも数で勝負するタイプと、少ない幼虫を保育するタイプがいることが分かる。
植物も風、水、昆虫などの異なる方法で子孫を残している。
更に先のゾーンでは、生き物たちの関係が捕食関係にとどまらず共生・寄生という関係があるという展示になる。
アリ植物とアリ、カッコウとオオヨシキリなどの展示のあとには……
「キャーッ!?」
「女児みたいな声出してどうしたメンタリスト」
「こ、これ全部寄生虫なの!?」
「おー、有名なアニサキス様だな」
「すげー量だなー」
「ヒーッきもちわる……」
先程のウシより更にインパクトのあるクジラの腸管である。
しかも今回はただその長さを見せるための展示ではなく、その腸管にびっしりと寄生したアニサキスの様子が分かるようになっているのだ。
「いや、てかデカくない!?寄生虫ってもうちょっと小ぶりのイメージあったんだけど!?」
「そりゃクジラはこういった寄生虫の終宿主だからな。最後の宿主だから、そこに寄生してるやつらも成虫だ。人間がアニサキス症にかかる原因のアニサキスってのはまだ幼虫で、最初の宿主であるオキアミを食った魚類やイカ類からお引越ししてくるわけだな」
「魚は火を通して食べようなってことだな!自分で釣ったやつとか海外では特に」
「俺これ生理的にダメ……!次いこ次」
地球館1F:多様性の保全──不適者生存の進化論
次の展示は生物多様性の研究と保全についてである。
レッドリストや日本の絶滅危惧種として有名なトキを巡る自然のネットワークについての展示、また保護努力によって復活しつつあるアホウドリやコシガヤホシクサの報告。
絶滅危惧種を守るためには、ひいては生物多様性を保全するためには、ただその種を守ればいいわけではない。
生物を取り巻くあらゆる環境を保全し、また遺伝的な変異種がもつ多様性をも保全しなければならないのだ。
「このへんは啓蒙とお勉強のコーナーって感じね」
「これは科学的な質問なんだけどよー、そもそもどうして多様性を保全する必要があんだ?道徳的な話は別にして」
「これは科学的な返答だが、地球の未来のためにはそれが必要だからだな」
「地球の未来のためにパンダが必要ってこと?」
「あ゙ー……地球史ナビゲーターのところで適者生存と言ったが、ありゃ人間の歴史みたいにごく短い間での話だ。もっと長いスパンで見ると、本当は適者滅亡と言える」
「そうなの!?」
「どういうことだ?」
「適者ってのが何に適しているかっつーと、その環境だ。その時点でのその環境に適しているから化石にも残るくらいに大きく広がる。だがそういう適者、その環境の専門家は環境が大きく変わるともはや生きていけねえ」
「なるほどなー!」
「あー、恐竜ちゃんもよく栄えて滅んだもんね」
「天変地異やなんやらで環境が大きく変わったときに生き残れるのは不適応者だ。環境の隅っこのほうで何にも特化せずにほそぼそと生きてたやつらこそが、次の世代の適者となる可能性を秘めてるんだよ」
「人間を含む今の哺乳類になったのも目立たないちっちゃいネズミみたいなやつだったね~」
「具体的にどんな天変地異が起こったときにパンダがどう適応するかって話じゃねえ。今現在地球で一番の適者をやってる人間が、多様性を重視する姿勢でいることが大事なんだ。この地球全体の未来って意味でな。道徳の話だけじゃねえんだよ」
「なるほど!よく分かったぜ!」
1Fエレベーターホール
生物多様性の展示コーナーを抜ければ、そこはエレベーターホールである。
「おっ、出口の案内があるぜ!これで終わりか?はー、楽しかったな!」
「ククク、確かにあれは出口の案内板だ。だが」
「だが?」
「左手を御覧じろ」
「え?エスカレーター?」
「そうだ。これでやっと地球館1Fの展示が終わった。次は2Fだ」
「つ、次!?」
「あー、フロア案内板あるねぇ。3Fまであって……え、地下もあるの?」
「あるんだなそれが」
「地下……3階!?ま、待ってくれ!千空、ゲン!」
「どしたのクロムちゃん」
「お、俺……俺はもうだめかもしれない……楽しさでなんかもうバグってきた……」
「クロムちゃん!?」
「ククク、その気持ちよーく分かるぜ。科博の物量にキャパが追いつかねえんだよな」
つづく……
次回予告
「これ!羽京がやってるやつだ!」
「つまり電波はこっちが受信しない間も垂れ流しになってるってことだ」
「──感染症が憎い」