何を、よりも誰が。「は?お前今日誕生日なの?」
初耳だと、学校の帰り道で岩泉一は不機嫌に言う。
不満げな目線を受ける松川一静は、言っていないのだから知らないのは当然だろうと思ったが、言葉を選ばないと岩泉が余計に不機嫌になってしまいそうだったので、どう返答するか、慎重に選ぼうとしていた。
「岩泉ってあんまり人の誕生日とか気にしないかと思ってた。無頓着ってわけじゃないけど、記念日とかあんまり関心ないイメージ」
もうあとひと月で高校二年生になろうという二人の付き合いは、そろそろ一年になろうというところだ。バレー部の入部届を職員室に提出しようとしたところで鉢合わせしたのが、初めての対峙だった。とは言っても、松川の方は、中学校の頃から活躍していた岩泉を知っていたので、同じ高校に入学したらしいことも聞いていたし、いずれは顔を合わせるのだろうと確信していたが。
そして、予想通り邂逅を果たしてから一年、誰もが浮足立つ年間行事に、岩泉はあまり強い関心を持たなかった。思春期の男なら大半は気に掛けるであろうクリスマスも、バレンタインデーも三百六十五分の一日でしかないような素振りだった。後から幼馴染の及川徹に聞いたところによると、バレンタインデーは多少女子から貰ったチョコレートに反応を示していたらしい。それを聞いた松川は、岩泉も俗なイベントにきちんと反応していることを知って安心したものだった。
だが、他の年間行事には一切の興味なし、という岩泉だ。松川の誕生日が今日だということに特別な感慨を持つとは予想していなかったし、松川自身、自分から誕生日を申告して祝ってもらおうというほど、自己主張の強い人間でもなかった。
「なんかくれんの?」
今松川の誕生日を知った人間が、もう日も落ちようという時間から何かを用意できるはずがないことを分かっていて、つい意地の悪いことを言ってしまう。言い終えてから、岩泉が期限を悪くするだろうかと心配する。
横にいる男は、思った通り表情を更に曇らせて、眉根を歪ませて松川を見ていた。
「そんな神妙な顔すんなって。誕生日言ってなかったの俺だし、別になんもいらないから」
本当は、何もいらないはずはなかった。具体的に欲しいものがあるわけではない。ただ、何か、何でもいいから岩泉から何か贈り物が欲しかった。そんなこと、言えるはずもなかったが。
松川は、岩泉に思いを寄せていた。一年足らずで岩泉のすべてを理解したとは思っていないが、一年で見えてきた岩泉の断片は、嫌なところも、好ましいところも全部ひっくるめて、松川の心にあっさりと入り込んで、そのくせ努めても一向に出て行ってはくれないのだ。心の中でははっきり思いは決まっているのに、はっきりしない自分の態度に苛立ちながら、それでも好いていると告げれば距離を置かれてしまいそうで恐ろしく、今日まで『ただの友達』として岩泉との関係を保ってきた。これからもそうするつもりだ。
「いや、納得いかねえ。ちょっと付き合え」
言うや否や、岩泉は松川の手を引いて歩き出した。岩泉の突飛な行動には、松川も驚きを隠せなかった。自らの感情を隠すのが得手な松川で人より大人びていると評される松川だが、大人まではまだ時間を要する、一介の高校生である松川が、好いた相手に初めて手を握られて、動揺しないはずがなかった。
手に触れただけで心拍の上昇が伝わることはないだろうが、手汗をかけばすぐに気付かれてしまう。
緊張を気取られないだろうか。触れているところが熱い。気のせいだと頭で分かっていても、松川にとってこの熱さは本物だった。
「駅ビル行くぞ」
「今から?」
駅周辺の施設は大体が午後八時までの営業だ。あと一時間もしないうちに閉まってしまう。
「行くまでに欲しいもん考えとけ」
「えー…強引…」
松川の知る限り、岩泉は人に何かを強いることは少ない。及川に対してだけ見せる粗暴な態度のせいか岩泉を誤解する者もいるが、少なくとも松川は、岩泉にこんな風に強引に引きずられたのは初めてだった。
何をそんなに躍起になっているのかと尋ねようとした瞬間、岩泉が掴んでいた松川の手がずるりと抜ける。無理に引っ張ったからではない。
手が湿っていたからだ。松川の手ではない。
「…岩泉?」
手にじっとりとかいた汗を、ズボンで拭う岩泉の顔は明後日の方向を向いていて、どんな表情をしているのか分からない。
ただ、後ろ姿の項は、見たこともないほど赤く火照っていた。
松川は、この光景を生涯忘れまいと心に誓ったのだった。
随分昔のことだというのに、鮮明に蘇るその光景を思い出しながら、松川はコーヒーメーカーの電源を入れた。職場の上司が気を利かせて休みにしてくれた誕生日を、松川は誰もいない自室で過ごしていた。時計の針はもうじき真上を指そうというところ。折角頂いた休日を、二度寝から始めた松川はまだ覚めきらない頭をぼりぼりと掻いた。
特別な予定は、何もない。愛しの恋人は遠く海を隔てた地で仕事中。
初めて手を取られたあの日の松川なら、恋人のいない誕生日に不満も漏らしただろうが、あれから十年、松川も年を取った。今更相手の都合に不平を言うほど初心でもない。
友人一同から送られた祝いのメッセージに目を通しながら、肝心の恋人からのメッセージが来ていないことに気が付く。
「…ご多忙なのはよいことです」
つい皮肉めいたことを独りごちて、出来上がったコーヒーをすする。
しっかり睡眠もとれたし、天気は上々。気分は悪くない。まったく寂しくないと言えばそれは嘘になるが、枕を濡らすようなことでもない。
たまには一人でどこか日帰りで遠出でもしようかとスマートフォンでプランを練ろうと指を滑らせたところで、インターフォンのベルが室内に響く。特別に何かが来る予定はなかったはずだ。
訝しがりながら、松川は来訪者を確かめる。モニターには配達業者らしき人物が小さな箱を持って立っていた。
さて、何か注文しただろうか。
見に覚えのない荷物にますます首を傾いで、松川は玄関のドアを開けた。
「こんにちはー。お届け物です」
「ご苦労様です」
不審な荷物を受け取って、部屋の中に戻る。小さな箱は重量をあまり感じない。届け先は確かに自分の名前が記してある。届け元は。
「おお?」
記された名前に怪しいものでないことを確信して安心するが、それにしても荷物を送るなんて話は聞いていない。包装のガムテープを剥がして中を確認すると、細長く黒い棒状のものが見える。
「…へえ」
取り出してみると、それは上品で艶のある黒い設えの、万年筆だった。
今の職に就いてから格段に字を書く機会が増えたと、いつかに漏らしたことを思い出した。
万年筆の下に、乳白色の紙が隠れていた。その紙には短い、無骨な文章が綴られている。
『誕生日おめでとう。来月は帰る』
「岩泉くんたら、粋なことするね」
十年前の自分ならどう思っただろう。味気ない誕生日プレゼントだと拗ねただろうか。
たぶん、そんなことはない。あの日も、今も、彼からもらうものならなんだって嬉しい。ありがちでつまらない感想かもしれないが、これが本心なのだから仕方がない。
メッセージでプレゼントの到着を知らせるか、電話をかけるか、来月帰ってきた時に直接礼を言うか。松川は迷った末に、ひとまずメッセージを送信することにした。
万年筆、届いたよ。礼はまた直接会った時に。そんな文章を打ち込みながら、松川はまた十年前の日を思い出していた。
あの日、駅ビルに連れ立って行ったものの、閉店間際の忙しなさに追われて、買ったのは目に付いたシンプルなデザインの帆布で作られた筆箱だった。
あの日のプレゼントと、今日のプレゼント。渡し方もまったく違う双方、どちらか選べと言われたとしたら、松川はきっと撰ぶことなど出来ない。
迷ってしまうほど嬉しいものを、あの日から毎年欠かさず、不器用なりに考えて考えて、心を込めて送ってくれている恋人に、次に会うときは感謝と有らん限りの愛情を注いでやろうと心に決めて、万年筆を煤けた灰色の筆箱にしまった。