スーパームーン
夜なのに空がやけに明るい。ふと思った村上は空を見上げた。
ボーダー本部の防衛訓練が終わった帰り道でのことだった。本部所属ではない支部隊員の村上には本来関わりのないものだったが、鈴鳴支部からも部隊を寄越せという本部からの通達に従って、第一部隊である来馬隊が派遣されたのだった。
別役は任務が終わるとそのまま同じ年の隊員と遊びに行ってしまい、隊長の来馬は隊長としての諸々の雑事でもう暫くは帰らないということだったので、村上は一人で帰路についていた。鈴鳴支部にも寄る必要はないらしい。
一人だけ暇を持て余した村上は、ほんの少しの寂しさに駆られ、いつもとは違う道で自宅を目指していた。
たまには夜道を散歩するのも悪くない。
村上はまだ冷える夜風にひとつ体を震わせて、コンクリートを踏みしめた。
本部を取り囲む警戒区域の中にいるせいか、辺りは物音ひとつしない静寂に包まれている。
村上は、別役ならば怖がって大騒ぎしているだろうな、と他愛ない妄想を膨らませた。
先ほど見た白く光る満月を、もう一度見上げた。
よく見ると、月はほんの少しだけ左上が欠けて、端の輪郭がぼんやりとしている。満月には少し足りないようだ。
理由もなく今日の月に特別なものを感じていた村上は、少し落胆する。月が欠けていようがいまいが、何も変わりはしないとわかっていても、自分の直感や感性が否定されたような気がしたからだ。
そうして一人立ち尽くして月を見上げていると、唐突に月が消えた。
いや、消えたのではない。隠れてしまった。
そう理解すると同時に、けたたましいサイレンが村上の耳を貫いた。
『ゲート発生、ゲート発生、座標―――』
よく知ったアナウンス。近界民が兵隊をこの世界に送り込んできたことを知らせる警告。
月を隠したのは、近界民がこちらの世界と自分たちの世界を繋ぐ門だった。
黒くぽっかりと空いた穴から、白色の異形が顔を覗かせる。村上の体より遙かに大きな体躯のそれが、地響きをさせて村上の目の前に落ちた。
「バムスター……!」
村上はとっさに腰のトリガーに手をかける。
だが、それを起動させるより前に、目の前の兵隊の体が真っ二つに割れて、黒煙をあげた。
ずうんと轟音をたてて沈む巨体の奥に、人影が見えた。
その人影は、土埃の中から村上を見つけると、しまりのない顔で笑みを向けた。
「お、村上じゃん。どうしたこんなとこで」
「…本部で訓練があって、その帰りです」
なるほどと納得して、弧月を鞘に収めるこの男に、礼や謝罪が不必要であることは、よくわかっていた。
太刀川慶という男は、人に感謝や賞賛されるために近界民を屠るのではない。それが仕事だからでもない。斬りたいから、斬るのだ。
そんな彼に一度礼を言って、混じりけのない本音で、礼も謝罪もいらないと面と向かって言われて以来、村上は太刀川にそういった類の言葉を投げることはなくなった。
「太刀川さんは防衛任務ですか?」
「そうそう。めんどくさいよなあ、こんな時間に」
言いながらも、何かを斬ることが楽しいのだろう。太刀川の目は平常のぼんやりとしたものとは比べものにならないほど生き生きとしている。とはいっても、村上はこちらの太刀川の方が馴染みがあり、スイッチの入っていない太刀川の方が見慣れない。
「まあ訓練よりはマシか」
「太刀川さんは訓練嫌いですもんね」
個人戦や模擬戦のように手応えのない通常訓練に、太刀川は価値を見出せない。覚えるべきことは対人訓練で覚えていけばいいというのが彼の持論だった。才能を持たざるものにとってそれはひどく過酷だということが理解できないのは、彼が天才であるが故の副作用のようなものだろう。
「来馬と太一は?」
「二人とも用事があって、俺だけ先に」
三人一緒にいることが当然のような太刀川の質問に、村上はなんだか面映ゆくなってしまう。周囲にそう見られることが恥ずかしい訳ではないが、自覚している以上に自分が来馬と別役に執着している現実を突きつけられたようだった。
防衛任務ということは、太刀川の他に出水と唯我がいるはずだ。別行動中なのかと訊ねようとして、数ブロック離れた区画でアステロイドの光が見え、出水の居所は聞かずともわかった。唯我が戦闘において単独行動をとることはまずないといつだったか太刀川が言っていたことから、出水の側には唯我もいるのだろう。
会話が途切れると、村上は所在無く視線を泳がせた。
太刀川と村上は、ボーダー隊員でアタッカーであるという点以外に、これといった共通点がない。所属は本部と支部、年齢も通っていた学校も、趣味も好きな食べ物も違う。太刀川のことは尊敬しているし、自分には出来ない即断力や適度に雑な太刀川の性格は好きだったが、彼と長く会話を続けることが、村上は苦手だった。
太刀川も辺りを見回した。ただ、村上とは違い辺りにトリオン兵やゲートの存在を探して、目を輝かせている。
目ぼしい相手がいないことを悟ると、太刀川はあからさまに落胆の色濃く肩を落とした。
戦闘以外での関わりが少ないからこそ、村上には太刀川の考えることが手に取るように分かる。太刀川を知る人間はこぞって太刀川をつかみ所のない性格と評するが、村上が太刀川を分かりづらいと感じたことはなかった。
「俺でよければ、模擬戦の相手ぐらいなら出来ますよ」
村上からその言葉を引き出したかったのか、聞くなり太刀川は目の輝きを取り戻す。
「まじか!」
「はい」
「拾いもんだな。トリオン兵斬ってるよりお前と模擬戦やった方が断然楽しい。あと三十分くらいで交代だから、それまで待っててくれるか?」
三十分。何もせずに待つにはいささか長い時間だが、待つだけの価値はある。村上も、サイドエフェクトの修学は関係なしに得るものの多い太刀川との模擬戦は好きだった。
「もちろん、待ちますよ。よかったら手伝いましょうか?」
村上はトリガーに触れる。よほどのことがない限り、トリガーはすぐに取り出せるところに携えていた。
基本的には本部の防衛任務に関わることのない村上だが、関わってはいけないというわけではない。行きずりのボーダー隊員がトリオン兵討伐に加勢して咎められることもないだろう。
これには太刀川も快く承諾した。
「お前と肩並べて戦うこともそうそうあるもんじゃないし、面白そうだ。さくっと片付けようぜ」
太刀川の言葉を合図に、村上はトリガーを起動させた。村上の体が、緑色の戦闘服に包まれる。
鞘に収まっている弧月をゆっくり引き抜く。
村上が武器を弧月に定めたきっかけは、荒船の勧めだった。荒船は今の村上を形成するに欠かせない存在で、アタッカーとして基礎は荒船が組み立てた。その教えに加え、今の弧月の振るい方の手本は目の前にいる太刀川だ。弧月を選んでよかったと、太刀川の戦う姿を見る度に思う。
「さてと、行くか」
太刀川の足下に光が発生し、太刀川の体が空に舞い上がった。村上もそれに続くためにグラスホッパーを起動する。
ぐん、と体が一気に浮き上がる。今さっきまで足で踏んでいた地面は今や遠く眼下に広がる風景の一部になっている。
少し見上げればまた大きな月が見える。空に弧月をかざすと、欠けた月を補うように重なった。
前方にいる太刀川も月の光に気がついたようで、村上と同じように月を見上げた。
「おお、すげー」
太刀川が気の抜けた言葉で感動を表す。村上には、月に対して太刀川がリアクションしていることが少し意外だった。
白く光る月の逆光で、太刀川のシルエットだけが視認できる。風になびく髪とコートが、月の光と相まって幻想的に映った。
「村上」
「はい」
太刀川が振り返る。月に照らされた頬が、いつもよりも白く透き通って見えた。
「月、綺麗だな」
「ええ、今日は特に大きくて白い」
「スーパームーンだっけ?」
「それは先月です」
太刀川がスーパームーンを知っていることにまず驚いたが、様子から察するに先月テレビで騒がれていたのを偶然見ただけだろう。かく言う村上も、ニュースなどで説明された以上に月のことを知っているわけではなかったが。
村上は、ふと太刀川の台詞を過去にどこかで聞いたような気がした。知り合いが言ったのではなく、誰かの言葉を伝え聞いたような。
太刀川の言葉を反芻して、村上は気がつく。じわりと手のひらに汗をかいた。
月が綺麗。太刀川は言葉の意味を知っているのだろうか。知っていたとしたら、太刀川はどういうつもりでその言葉を発したのか。村上の知る意味の通りだとしたら。
そんなはずはないと、村上は自身が提示した可能性を否定する。太刀川は大学生だが、勉学に無頓着で興味がない。いくら有名な言葉と言っても、太刀川が知っている可能性はごくごく低い。
文豪が残したひどくロマンチックな愛の告白。
あなたが好きです。
そんな意味が込められた言葉だが、太刀川はきっとそのまま裏もなく、ただただ月が綺麗だという感想を村上に伝えたのだろう。もしも村上への告白だとしても、村上はそれに応える言葉を持ち合わせていない。
本人に確かめれば出口のない仮説の迷路から抜け出せるのだろうが、もしものことを思うと恐ろしくて訊くことができない。
村上は、そっと太刀川の横顔を窺い見る。その表情に特別な変化はない。こちらを見る様子もない。
やはり杞憂だ。
太刀川に気に入られている自覚はあった。顔を見れば模擬戦を申し込まれるし、その後には必ずと言っていいほど説教じみたアドバイスがついてくる。時には食事を共にすることもあるほどだ。
だが、それはあくまで人間的に好かれているのであって、恋愛感情ではないはずだ。太刀川が村上に恋愛的な好意を抱く理は、思い当たらなかった。
思い違いだと結論づけて、村上は改めて弧月を握り直した。手にかいた汗ももう引いていた。
ただ、トリオン体の異常を報せるために左胸に備わっている疑似内臓は、いつまで経っても早鐘を打つことをやめなかった。