おやすみなさい、よい夢を 談話室を通りかかったフィガロは、おや、と思った。
日付も変わったこんな時間に、珍しい子がいる。リケだった。
いつもであればとっくに眠っているはずの時間に、いったいどうしたというのか。
離れた場所から少し様子を伺ってみたものの、ソファに深く座ったリケは何をするでもなく、ただぼんやりとしているだけのように見えた。
「どうしたんだい、こんな夜更けに」
不用意に驚かせないよう気を付けつつ、フィガロは後ろからそっと声をかけた。
「フィガロ」
かけられた声に気づいたリケは、ゆったりとした動作でフィガロを仰ぎ見た。その顔からは、いつもの覇気が感じられないように見える。それは、フィガロの気のせいではないように思えた。
「いやな夢でも見た?」
隣のソファに腰かけて、フィガロは図書館から持ってきたばかりの本の一冊をぱらりとめくった。視線をページに落としつつ、リケの反応を待ってみる。
フィガロの投げかけた問いに答えが返ってきたのは、手にした本を三ページほどめくった頃だった。
「そう、かもしれません」
ずいぶん待ったわりに、返ってきた答えはいまいち煮え切らないものだった。
隣に座るリケからは、焦りや恐れといった感情は伝わってこない。夢を見た、というのは本当だが、うまく言葉に表せないということか。
「そう」
動く気配のないリケを盗み見て、フィガロは短く相槌を打った。眺めていただけの本をぱたんと閉じて、ローテーブルの上に置く。
「まだ起きてるなら、ちょっとだけ、フィガロ先生に付き合わない?」
「? はい」
言葉の真意を測りかねたまま、リケは素直に頷いた。それにフィガロは笑顔を返すと、「待ってて、すぐ戻ってくるよ」と言い残し、その場を立ち去った。
「おまたせ」
ぼうっと座っていたリケの目の前に差し出されたのは、湯気の立つマグカップだった。
「熱いから気をつけて」
差し出されるまま、リケはマグカップを両手で受け取った。温かい空気に混じってふんわりと漂ってきたのは、やさしくて甘い香りだった。
「ホットミルク……」
「フィガロ先生のシュガー入りだ。きっとおいしいよ」
そう言いながらリケの隣に腰を下ろしたフィガロの手には、ロックグラスとウイスキーボトルが握られている。フィガロは手酌でグラスに酒を注ぐと、乾杯を求めるようにグラスを軽く掲げた。
「ミチルに怒られますよ」
「だから、共犯になってもらおうと思ってね。それは、いわば口止め料だ」
そう言って、フィガロはリケの持つマグカップを指さした。
共犯、という不穏な響きに、リケの眉がぴくりと動いた。しかし、フィガロにはいっさい悪びれた様子がなかった。ロックグラスに口を付けて、ご満悦の様子にすら見える。
そんな彼を見ていたら、なんだかそれ以上追及する気にはなれなかった。
しばらく迷っていたリケも、フィガロにつられるようにマグカップに口を付けた。一口含んで飲みこめば、胃の腑がじんわりと温まっていくのがわかる。ほうっと息を吐くと、それまでこわばっていた身体がゆるりとほどけていくようだった。
「……おいしい」
「はは、それはよかった」
からりと笑ったフィガロは、まんざらでもなさそうに受け止めた。
「ルチルやミチルにもよく作ってあげてたなあ」
「ミチルたちに?」
「そう。子どもたちはホットミルク、大人たちは酒を飲みながら、語り合うんだ。その日あった他愛もないことを、こんなふうにね」
フィガロは、昔を懐かしむように目を細めた。その口ぶりは穏やかで、とてもやさしい。
「こんな夜も、たまには悪くないだろう」
「たまになら、たしかに」
自分の知らない南の国のいつかの様子を想像し、リケも頬をふっと緩めた。そこに流れていたのはきっと、今みたいに穏やかな時間だったのだろう。
ホットミルクのおかげだろうか、それとも、フィガロのシュガーのおかげだろうか、あるいは、その両方か。リケは、談話室に来たときに抱えていたもやもやとした気持ちが、少しずつほぐれていくのが自分でもわかった。
「……夢を、見たんです」
両手で包んだマグカップ越しに、じんわりとした熱を感じる。すっかり冷え切っていた指先は、いつのまにか温まっていた。
リケの落としたつぶやきに、フィガロは返事をしなかった。代わりのように、氷の音がカラン、と響いた。その音に促され、リケはぽつぽつと話し始めた。
「〈大いなる厄災〉との戦いが終わったあとの夢でした」
マグカップに視線を落とし、思いだすように記憶をたどる。
「賢者様の魔法使いとしてのお役目を終えた僕は、教団に戻ったんです」
そこは、いつかは帰らないといけない場所だった。ずっと、帰りたいと思っていた場所だった。
「でも、そこには、誰もいませんでした」
何度も、何度も思い浮かべた場所だった。忘れたことはなかった。「リケ様」と呼んでくれたみなのことを。自分を育んでくれたあの場所を。
「司祭様も、みなも、誰もいなくて。何もない、がらんどうの広場だけが、そこにあって、」
そこまで言うと、リケはぐっと唇を噛み締めた。今思い出しただけでも、心臓がひやりと冷たくなるような心地がした。
誰もいない、何もない場所はあまりにも空虚で、自分の帰る場所など、本当は最初から存在していなかったのではないかと錯覚してしまいそうで。
そんな自分の想像に、リケはふるりと身を震わせた。
「僕に、罰が当たったのでしょうか」
震える声を隠さないまま、リケはフィガロに問いかけた。
「罰?」
「……戻りたくないと、一度でもそう思ってしまった僕に、罰が」
リケの言葉は、神に告解する罪人のような切実さを孕んでいた。
事実、その感情を抱いてしまったことは、そして、それを認めてしまうことは、リケにとっては罪にも等しいことのように思えた。
「今までよくしていただいたご恩を忘れ、外の世界を知って堕落した欲深い僕に、神様が罰をお与えになったのでしょうか」
「だから、僕は、……ひとりぼっちに」
ひとりぼっち、とつぶやくと、胸の奥から堪えきれない何かが込みあげてきそうだった。
「リケ」
それまでじっと話を聞いていたフィガロが、静かに彼の名前を呼んだ。
「こんなおとぎ話を知っているかい」
俯けていた顔をゆるりと上げて、リケはフィガロをそっと見つめた。
縋るようなリケの視線を受け止めたフィガロは、残っていたウイスキーを一息に煽った。そのままボトルに手を伸ばし、二杯目をグラスに注いでいく。琥珀色の液体がグラスを満たしていくさまを、リケは息を詰めて見守っていた。
グラスを持ったフィガロは、悠然と口を開いた。
「昔、むかしの、おとぎ話だ」
夜は、静かに更けていく。
その昔、魔法使いは神様だった。
北の国の小さな村にも、一人の神様がいた。
神様は、不思議の力で村人たちを守り、村人たちはみな神様を畏れ敬った。
その神様が生まれる前は、別の神様が村を護っていた。村人たちは、やはり神様を崇めていた。
そうやって、小さな村は、厳しい北の地をひっそりと生きていた。
そうやって、変わらぬ毎日が続いていくはずだった。
ある年に、大きな雪崩が村を襲う日までは。
小さな村は、雪に呑まれてあっけなく消えた。
村も、村人たちも、みな、雪の中へと消えていった。
しかし、神様だけはひとり、生き延びた。
なぜなら、神様は魔法使いだったから。
ひとり生き延びた神様は、そうして、ひとりぼっちになった。
「……その神様は、どうなったのですか」
そこまで話して一息ついたフィガロに、リケが切実さを伴って尋ねた。
フィガロはグラスに口を付けた。氷が溶けて、少しだけ薄くなったウイスキーがフィガロの喉を潤した。
リケは、神様に思いを馳せた。
守護していた村を、村人たちを、一瞬で失った神様。
当たり前にそこにあるはずだったものが、目の前から一瞬で消え去った。村の明かりも、村人たちの営みも記憶に新しいまま、目の前に広がるのはただ一面の雪景色。
寒風吹きすさぶ北の地に一人佇む神様の胸中は、リケがいくら想像したところで到底想像しきれない。途方もない寂寥感も、襲い来る哀惜の念も、経験したことのないリケには知らないものだった。
突如としてひとりぼっちになった神様は、その後、ひとりぼっちのままだったのだろうか。
魔法使いは長命だ。人間とは異なる時間を生きていく。
この先も過ごしていくことになる悠久の時を、神様は、ずっと一人で過ごしたのだろうか。
神様の孤独のほんの一部に触れようとしたリケは、耐えかねるようにぎゅっと目を瞑った。
「この話には、少しだけ続きがあってね」
リケの問いかけに、フィガロが言葉を重ねていく。
自分で尋ねたものの、続きを聞くのが怖かった。マグカップを握る両手に自然と力が入る。もはや祈りのように、その手は固く握られていた。
「ひとりぼっちになった神様は、村があった場所から旅立つことにした」
かつて村だった場所を一人後にし、神様は外の世界へと一歩足を踏み出した。
そうして世界を旅するうちに、自分と同じ『魔法使い』と呼ばれる存在に出会うことになる。
長らく一人で過ごしていた神様は、自分以外の自分と同じ存在に、驚きもしたし戸惑いもした。
出会った魔法使いはこう言った。我らはそなたと同じ魔法使い、ここで出会ったのも何かの縁だ、しばらく共に過ごそうぞ、と。
神様は、その誘いに頷いた。
旅先で出会った魔法使いと過ごしていくうちに、一人、また一人と、知り合いと呼べる存在が増えていった。居場所が増えていった。神様はもう、ひとりぼっちではなかった。
神様が生まれたのは、北の小さな村だった。かつて神様だった魔法使いは、その村にいた何十倍、何百倍もの人と出会い、今を生きているという。
「これが、ひとりぼっちじゃなくなった、かつて神様だった魔法使いのおとぎ話」
「……よかった」
最後まで話を聞いて、リケは、ほう、と安堵の息を漏らした。張りつめていた緊張の糸が、少しずつゆるんでいく。
そろりと目を開けて、思いだしたようにマグカップに口をつけた。ミルクはとうに冷めていた。しかし、やさしい甘さや口当たりはそのままで、リケの心を満たしていった。
今聞いたばかりの話を、リケは噛みしめるように反芻した。
リケはこの魔法舎に来てから、たくさんのことを知った。
聖なる豆や聖なるミルク以外にも、たくさんの食べ物があること。それらはとてもおいしいこと。魔法の使い方や、文字の読み書きを教えてくれる人がいること。恐怖に震える自分の手を握ってくれる人がいること。ともに戦う仲間がいるのは、とても心強いということ。
そんな誰かがそばにいない、ひとりぼっちの時間は、少しだけ寂しいということ。
村から旅立った神様は、きっと今のリケのように、たくさんの出会いを重ねていく中で多くのことを知ったのだろう。それらの出会いが、かつて抱いた喪失の痛みを少しでもやわらげてくれていたらいいと切に思った。
「これは、たとえばの話だけど」
フィガロがリケを横目でちらりと見る。
「もしリケが教団に戻って、そこには誰も、何も残っていなかったとしよう」
それは、リケが見た夢の話だった。思わずリケは小さく息を吸い込んだ。夢を見て、目が覚めたときの言い知れない冷えた気持ちを思いだした。マグカップを握る手のひらに、じっとりと嫌な汗が滲む。
「でも、きっと、大丈夫だ」
何を言われるのかと身構えていたリケにかけられた言葉は、思いもよらないものだった。
「君はもう、歩き方を知っているだろう」
ここに来るまで、リケの世界は生まれ育った教団が全てだった。しかし、成り行きとはいえ、教団から一歩外に足を踏み出したリケは知った。この世界が、とても広いのだということを。
先ほど見た夢を思いだす。誰もいない、何もない、かつて教団があった場所。夢の中で、そこに立つリケはひとりぼっちだった。
そのときのことを考えるだけで、ひどく恐ろしく、心細く、寂しい気持ちで胸がぎゅっと締め付けられそうになる。
しかし、フィガロの言ったとおりだ。リケはもう知っている。自分の世界がかつて生まれ育った場所だけで完結しないことを。そこから一歩足を踏み出せば、たくさんの出会いが待っていることを。
それをすでに知っているということは、どんな言葉にも代えがたい勇気を与えてくれるようだった。
「ありがとうございます、フィガロ」
「うん? どういたしまして」
リケの言葉に、フィガロがふっと頬を緩めた。その眼差しは、いつもミチルたちに注がれているもののように温かだった。
「眠れそう?」
「はい、もう大丈夫です」
本音を言うと、まだ少しだけ怖かった。
いつか教団に戻ったときに、さっき見た夢が正夢になっていたら。もしくは、教団は変わらずそこにあったとしても、外の世界を知った自分を、みなは以前と同じように受け入れてくれるのだろうかと。
考えれば考えるほど、不安は湯水のようにあふれて止まらない。
でも、今は、フィガロの言った「大丈夫」を信じたかった。たとえひとりぼっちになったとしても、自分はきっとまたそこから歩き出せると、信じたかった。
「そう、ならよかった」
もしかしたら、リケの強がりをフィガロは見透かしているのかもしれない。しかし、それ以上は何も言わずに、笑顔を返しただけだった。
寝支度をしようと立ち上がったリケの背中を追いかけるように、フィガロが声をかけた。
「ああ、リケ。ちょっと待って」
「なんですか?」
リケは不思議そうな顔でフィガロを振り返った。フィガロは笑顔で手招きをすると、リケの額に手をかざして小さく呪文を唱えた。
「こちらへ。──ポッシデオ」
いつのまにかフィガロの手には彼の魔道具のオーブが握られていて、かざされた手に淡い光がぽうっと浮かんだ。
ともすれば幻だったかもしれない。そう錯覚するくらい一瞬の出来事で、浮かんだと思った淡い光はもう消えていた。
「今のは……?」
「ちょっとしたおまじないさ。よく眠れますようにって」
「そうでしたか。ありがとうございます、フィガロ」
「どういたしまして。じゃあおやすみ、リケ」
「はい、おやすみなさい」
就寝の挨拶を交わしたリケの顔には、もう思い詰めたような色はどこにも残っていなかった。
談話室を出るリケの背中を見送って、フィガロはグラスの残りを煽る。
フィガロには、リケがどうしても他人のようには思えなかった。
かつて神として生きた自分と、神の使徒として生きてきたリケを重ねて見てしまったなんて。とはいえ、少しばかり話しすぎた気も否めない。
だから、楽しい記憶はそのままに、話の中身は忘却の底へ。
おやすみ、リケ。どうか束の間、よい夢を。
深夜の談話室に、フィガロのひとりごとがぽつりとこぼれて消えた。