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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    フィ晶♀まとめ夜が寂しくないようにずるい人自惚れないで、賢者様そんな顔するんですね口説いてるんだよもう少しだけ嫌いです俺に甘やかされてみない?おやすみ、賢者様二十一グラムの幸福あてのない夜の底で夜が寂しくないように二人で一緒に寝ようとする話

     きっかけは、南の魔法使いたちのお泊り会だった。

    「へえ、じゃあ今晩はミチルの部屋で寝るんですね」
    「そうそう。魔法でベッドを広くして、眠くなるまでみんなでおしゃべりしてね」
     魔法舎の廊下ですれ違ったフィガロが、なんだかいつもより楽しそうな様子だったので、つい声をかけてしまった。すると、今晩は南の魔法使いたちのお泊り会が開かれるという。ミチルの部屋に集う四人を想像して、つい頬が緩んだ。
    「いいですね、楽しそう」
    「うん、楽しいよ。南にいたころはたまにやっていたけど、魔法舎に来てからはずいぶん久しぶりだな」
    「仲の良い南の魔法使いらしいですね。久しぶりなら、おしゃべりも弾みそうです」
    「そうだね。ほどほどで切り上げて、ミチルたちが眠るまでちゃんと見守ってあげないと」
     そう言うと、フィガロはふっと笑った。視線だけで問いかけると、フィガロはゆるく首を振った。
    「いや、なんだか思いだしちゃってさ。ミチルが小さかったころのこと」
    「なにがあったんですか?」
    「そのときも四人で一緒のベッドに入ったんだけど、もう寝たかなと思って、そっと布団から抜け出してレノと晩酌の続きに戻ったんだ。そうしたら、ミチルが起きちゃったみたいで。寂しくなっちゃったのか、『フィガロ先生』って泣きながら俺のところに来てさ。かわいかったなあ」
     当時を思い出しながら話すフィガロの目が、懐かしさにやさしく眇められた。
    「だから、ミチルたちが寂しくないように、ちゃんと眠るまでフィガロ先生がしっかり見守っててあげないとね」
     その声はどこまでもやわらかく、わが子を見守る親のようでもあった。
     子どもたちが眠りにつくのを見守る大人たちの姿を想像すると、私まで胸があたたかくなった。それと同時に、ほんの少しの引っかかりを覚えた。
    「…………」
     黙っていると、フィガロが背を屈めて顔を覗きこんできた。
    「賢者様も来る?」
     羨ましそうに見えたのだろうか。否定するように、慌てて胸元で両手を振った。
    「え? いやいや、いいですよ、そんな。せっかくの水入らずを邪魔したら悪いですし」
    「そう? 遠慮することないのに」
     フィガロはそう言ったが、これは遠慮でもなんでもない本心だった。
     同じ国出身の者同士、積もる話もきっと多いだろう。国にいたころのようにとまではいかないが、たまにはゆっくりとくつろいでほしい。
    「ありがとうございます。でも、みなさんで楽しんでください」
     やんわりと、けれどきっぱり断ると、フィガロもそれ以上追及する気はないようだった。わかった、とだけ頷いて、就寝の挨拶を交わした。
     だから、その話はそこで終わったはずだった。

    「賢者様」
     コンコンコン、と控えめなノックの音が響いたのは、そろそろ日付が変わろうとしている時間帯だった。
    「はい」
     返事をしてドアを開けると、そこにはフィガロが立っていた。
    「こんばんは、賢者様」
    「こんばんは、フィガロ。どうしたんですか、こんな時間に?」
     なにか急ぎの用事でもあったのだろうか。そう思って尋ねると、フィガロは任務の話じゃないよ、と否定した。
    「今夜は賢者様と一緒に寝ようと思って、お誘いに」
    「……え? 一緒に寝る?」
     一瞬なにかの聞き間違いかと思った。しかし、そうではなかったらしい。聞き返した私に、フィガロはしっかりと頷いた。
     なにがどうして、そういう話になったのだろうか。はたと目を丸くしていると、
    「気のせいだったら悪いけど」
     そう前置きをして、フィガロが続けた。
    「昨日の賢者様が、寂しそうな顔をしていたように見えてね。南の全員に交ざって寝ることに遠慮があるなら、せめて俺だけでも一緒に寝てあげようかなって」
     それを聞いて思いだしたのは、昨日のフィガロとのやりとりだった。
     たしかに、南の魔法使いたちのお泊り会と聞いた私は、楽しそうだなと思った。そして、一緒にどうかと誘ってくれたフィガロに、せっかくの水入らずを邪魔したら悪いと断りもした。
     そのときの私の反応を、覚えてくれていたというのか。そして、寂しそうに見えた私を心配して、わざわざここまで来てくれたのか。
    「…………」
     顔を上げると、フィガロと目が合った。私の反応を伺うように、こちらを見ていた。
    「……ありがとうございます、フィガロ。でも、ちょっと違いますよ」
     私を見つめるフィガロにそっと微笑みを返して、ゆるゆると首を振った。
    「違うって?」
    「寂しく感じたのは本当ですけど、私は、フィガロが寂しくないのかなって思ったんです」
     みんなが寝静まるまでを見守る時間はきっと幸せで、満ち足りたものなのかもしれない。けれど、いつもそうやって見守っているフィガロは、寂しくなったりしないのだろうか。
     見守られていることへの安心感や心地よさはよくわかる。だからこそ、たまにはフィガロにもそういった気持ちを感じてほしい。
     そう思って、勝手にひとりで寂しくなっていただけだ。
     だから、フィガロが気にすることはないのだ。これはいわば、私のエゴにすぎないのだから。
     けれど、そんな私を心配してくれたフィガロの気持ちが嬉しいこともまた事実だった。
    「……だから、そうですね。お言葉に甘えて、今夜は一緒に寝てもらえますか?」
     この夜が寂しくないように、お互いの眠りを見守って。
     そろりと上目で伺うと、眉を下げたフィガロの顔がそこにあった。
    「……賢者様にはかなわないな」
     ぽつりと落ちた言葉はとても小さくて、フィガロを招き入れるためにドアを開いた私はつい聞き逃してしまった。
    「なにか言いましたか?」
     聞き返すと、フィガロはなんでもないよと首を振った。
     ぱたんと音を立ててドアが閉まり、フィガロが私の部屋に立ち入った。
    「じゃあ、よろしくお願いします」
    「はい、こちらこそ」
     改まってお辞儀をするお互いがなんだかおかしくて、顔を合わせて小さく吹き出した。
     手を差し出すと、いつもよりずっと控えめに、フィガロの指先が私の指先にそっと触れた。
    ずるい人晶を怒らせたフィガロの話


    「待って、待って、賢者様」
     フィガロは珍しく慌てたような声を出していた。その声を無視して、私は一人で先に進んだ。
     もう知らない、フィガロなんて。
     腹の底からむかむかと湧き上がる感情が自分でも抑えられなかった。ふつふつとこみ上げてくる怒りを抑えるために握った拳に力が入った。
     いつもだったら、少し時間が経てば「まあ仕方ないか」と流せるはずなのに。でも、今日に限ってそれができなかった。
    「ねえ、待ってったら」
     腕を振りずかずかと歩いていた私の手を捕まえて、フィガロは心底困ったように言った。
    「気分を害したなら謝るよ。このとおりだ。申し訳ないことをした」
     フィガロが頭を下げた気配を感じた。私は振り向かなかった。意地だった。
    「……謝れば済むとでも思ってるんですか」
     我ながらびっくりするくらい低い声が出た。実際、聞いたフィガロも驚いているようだった。怯んだように、掴まれた手の力が少しだけ緩んだ。
    「そうじゃないよ。きみがそんなに怒るなんて思ってなかったんだ。ごめんね」
    「もういいです。しばらく放っておいてください」
    「それはできない」
    「どうしてですか」
    「きみを一人にはできない」
    「どうして?」
    「…………」
    「ほら、答えられないじゃないですか」
    「ちがうんだ、その……。……ごめん」
    「……ちょっと気持ちを落ち着けたいので、一人にしてください」
     肩で息をしながらそう言うと、掴んだ腕をそっと離してくれた。手を離す瞬間、指先が名残惜しそうに引っかかったと思うのは、きっと私の気のせいだ。
     そのままフィガロのそばを離れた。少し歩いた先で振り返ると、フィガロはそこに立ち尽くしていた。
     俯いているので、彼が今どんな顔をしているのかはわからなかった。落ち込んでいるのだろうとは思う。でも、いったい何に対してだろうか。
     しばらく様子を見ていると、フィガロがゆるりと右手を上げて顔を覆った。それを見たらなんだかたまらない気持ちになって、けれど、ぐっとこらえた。
     本当は、今すぐにでも駆け出していきたかった。立ちすくむフィガロの手を取って、私もごめんなさいと謝れば、きっと万事解決だ。でも、それはできなかった。
     だって、私は怒っているのだ。自分でもどうしようもないほどに。
     それと同時に、そんな自分の怒りさえ手放していいと思えてしまう。そのくらい、一人で佇むフィガロをそのままにはしたくなかった。
     結局、最初からわかっていたのだ。私の悪あがきなんて、彼の前ではそよ風で吹き飛ばされるくらいの重みしかないことを。
     大きく息を吐いたのは、せめてもの抵抗だった。
     近づく足音に、フィガロがゆるゆると顔を上げた。驚いたような、戸惑ったような顔をしていた。
    「…………」
     何も言わずに目の前に来た私を、フィガロもまた黙って見つめ返した。息を詰めて私を見つめるフィガロが、なんだかおかしかった。
     彼がその気になれば、私なんて一瞬で捻りつぶせるはずなのに。それをしないということは、私はまだ彼に許されているということだ。その事実がどうしようもなく嬉しくて、少しだけ苦しかった。
    「……フィガロ」
     名前を呼ぶと、フィガロの肩がぴくりと揺れた。
    「仲直りをしましょう。私も大人げなかったです、ごめんなさい」
     そう言って、右手を差し出した。
     フィガロは本音を探るように、差し伸べられた手と私の顔を一度ずつ見た。「いいの?」と言っているようだった。私は頷きだけで返事をした。
     おずおずとフィガロの右手が差し出された。その手をしっかり掴んで握り返すと、ようやくフィガロの肩から力が抜けたようだった。
    「……ありがとう、賢者様」
     心底安心しきったような顔で、フィガロが言った。その顔を見ただけで、すべてを許してしまいそうになる。
     本当に、なんてずるい人なんだろう。
    自惚れないで、賢者様モブの言葉に傷ついた晶がフィガロに慰められるような話


    「……フィガロ様……」
     喧噪に紛れて聞こえてきた名前に、晶はふと足を止めた。
     はしたないことだとわかってはいたが、どうしても気になってしまったのだ。だから、思わず聞き耳を立ててしまった。
    「フィガロ様はすっかり変わってしまわれた」
    「いくら賢者とはいえ、あのような人間の小娘に従っておられるなど」
    「嘆かわしい」



    「賢者様」
     壁の花と化していた晶を見つけたフィガロは、二人分のグラスを持って近づいた。そのうちノンアルコールのほうを差し出すと、フィガロに気づいた晶が顔を上げた。
    「フィガロ」
    「せっかくの主賓がこんなところでひとりぼっちなんて、どうしたの。疲れちゃった?」
     西と南の国境に位置するこの街に異変が起きているので、調査をしてほしい。そんな依頼が魔法舎に届いたのは、つい先日のことだった。
     あいにく西の魔法使いたちは別の討伐任務で出払っていたため、そのときちょうど手が空いていた南の魔法使いたちだけで任務に赴くこととなった。その調査も無事に終わり、依頼主に招かれて、晶たちは慰労会を兼ねたホームパーティーに参加していた。
    「いえ、そういうわけでは」
     フィガロからグラスを受け取った晶は、歯切れ悪く答えた。
    「……やっぱり、少し疲れてしまったのかもしれません」
    「まあ、これだけ人も多いとね」
     慰労会とは体のいい言い訳にすぎず、彼らはただ騒ぎたいだけだった。その証拠に、今回の依頼とはまるで関係ない人や魔法使いたちが何人も交じっていた。
     晶に頷いて、フィガロはグラスを傾けた。喉を伝い落ちたアルコールが、胃の腑をほのかに温めた。
     西の酒はうまいものが多い。このワインもなかなかのものだ。あとで銘柄を聞いて、シャイロックへの土産話にでもしようか。
     グラスをわずかに傾けてぼんやり考えていると、おずおずといった様子で晶が口を開いた。
    「あの、フィガロ」
    「うん?」
    「私……、あなたを変えてしまったんでしょうか」
     見上げる瞳が、傷ついたように揺らいでいた。
    「え?」
    「あっ、いえ、すみません。変なことを聞きました」
     真意を測りかねて聞き返すと、恐縮したようにすかさず晶が謝った。
    「ちょっと熱気に中てられて疲れたのかも。忘れてください」
     賢者様が、俺を、変えた?
     それは、いったいどういう意味だろうか。
     質問の意図を探るように、フィガロは晶をじっと見つめた。しかし、フィガロの視線から逃げるように、晶は俯いたまま顔を上げる気配がなかった。そのうちにいたたまれなくなったのか、立ち去ろうと身じろぎをしたので、フィガロは咄嗟にその手を捕まえた。
    「待って、賢者様」
    「……っ、」
    「俺がきみに変えられた、だって?」
    「え、っと」
     晶の視線が泳いだ。その先をたどれば、このパーティーの主催である魔法使いたちの姿がそこにあった。
     たしか、彼らとは何度か顔を合わせたことがあったはずだ。とはいえ、知り合いというにはあまりにも程遠い。
     以前、オズと共にこの街を滅ぼそうとしていたときに、命乞いをされたので見逃した。以降、顔を合わせるたびに、何かと阿るような態度を取ってくる。面倒くさいので、フィガロはそれを受け入れる。ただそれだけの関係だった。
     フィガロが魔法使いたちを見た。彼らは一礼したのち、慌てたようにその場からいなくなった。
     ああ、なるほど。フィガロは瞬時に理解した。
     彼らに何か言われたのか。馬鹿馬鹿しい。彼らも、そんな彼らの言葉を真に受けている彼女でさえも。
    「自惚れもほどほどにしてほしいな、賢者様」
     掴んでいた手をそっと離した。フィガロの言葉に、晶はハッと彼を見上げた。
    「この俺を変えることなんて、誰にもできやしないよ」
     フィガロは晶の正面に立った。晶はフィガロを見上げた。
    「いくらきみでも、たとえ俺自身でもね。今さら誰も、俺を変えることなんてできない。これまでも、これから先も、俺は俺のままだよ。ずっとね」
     そう言うと、晶は絞り出すように頷いた。
    「……そう、ですよね」
    「そう。わかった? だから、気にせずぶつかっておいでよ。いつもどおりに」
     落ち込んでいたように見える晶の顔に、ぱっと明るさが戻ってきた。
    「……! はい!」
     大きく頷いた晶を見て、フィガロもまた頬を緩めた。
    「じゃあ、行こうか。お手をどうぞ、賢者様」
     手を差し伸べると、そっと左手が添えられた。その手をしかと握りしめ、フィガロは晶をリードした。
     まず手始めに、あの魔法使いたちに彼女を紹介するとしよう。どんな反応をするのか楽しみだ。誰に手を出したのか、身をもって思い知るといい。
     フィガロは己の算段に、うっそりとほくそ笑んだ。
     長い夜の始まりだった。
    そんな顔するんですねモブに殴られた晶をフィガロが心配する話


     殴られたことに気づいたのは、自分を呼ぶ切羽詰まった声を聞いたときだった。
    「賢者様!」
    「──え、」
     唾を飲みこむと血の味がした。殴られた拍子に口の中が切れたのだろう。自覚した途端、痛みがあとからじわじわと襲ってきた。誰かに本気で殴られたことなんて今までに一度もなかったから、その衝撃と痛みとで頭がチカチカした。
     私を殴った男の人は、興奮気味に息を荒げてこちらを見ていた。
    「な、何が賢者だ。おまえたちがいけないんだ。おまえたちのせいで……」
     よくわからないことをぶつぶつと言いながら、肩で息をしている。虚ろな目に見つめられると、底知れない恐怖を感じた。
     これはまずいと本能で理解した。逃げたほうがいいと脳が警鐘を鳴らしている。しかし、ここで逃げてしまっては、何のために任務に来たのかわからない。
     震えそうになる足を叱咤して、一歩前に踏み出した。目の前の人をできるだけ刺激しないように、私は努めて冷静な声を出した。
    「とりあえず、落ち着いてください。色々と誤解が生じているようなので、一度ゆっくり話し合いましょう」
    「誰がおまえらなんかと! わかった、おまえも魔法使いたちに操られているんだろう!  そうして俺を操ろうとしているんだろう⁉︎」
    「違います。私は操られてなんかいませんし、魔法使いたちもそんなことはしません」
    「うるさいうるさいうるさい!」
     目の前の男の人が大きく振りかぶるのが見えた。
     失敗した、また殴られる。そう思い、衝撃に備えて目を瞑った、そのときだった。
    「《ポッシデオ》 」
     聞き慣れた呪文が耳に届いた。
    「──っ⁉」
     そろりと目を開けると、風を纏ったフィガロが私を背に庇うように、目の前に降り立っていた。
     男の人は拳を振り上げたまま、不自然な状態で動きを止めている。その顔が一瞬で恐怖に凍りついた。
     フィガロが靴音を響かせて足を踏み出した。そのままゆっくりと、男の人に近づいていく。後ろに立っているので表情はわからないが、その背中から言いようのない恐ろしさを感じた。
    「待って、私は大丈夫です! だから、」
     咄嗟に私はフィガロを引き止めようとした。
     目の前にいるのはいくら成人男性とはいえ力弱き人間で、力ある魔法使いのフィガロにとって、その命を摘み取ることなど赤子の手を捻るよりも容易いのだろう。だけど、フィガロがそんなことをするはずはない。そう信じたいのに、信じきれない自分がいた。それだけの迫力が、今のフィガロからは滲み出ていた。
    「っフィガロ、フィガロ!」
     前を歩くフィガロに駆け寄って、手を伸ばした。私の制止なんて、彼にとっては何の意味をもなさないのかもしれない。声だって、聞こえているのかわからない。それでも、今の彼を止められるのは私しかいない。そう思って、懸命に手を伸ばした。
     しかし、その手が届く前に、フィガロの口が呪文を唱えた。
    「う、うわああああああっ!」
     断末魔のような叫び声が聞こえたと思ったら、男の人はその場にバタリと倒れこんだ。一瞬の出来事だった。
    「え、……あ……」
     行き場を失った手が宙を彷徨った。目の前の光景をただ呆然と眺めることしかできなかった。
     倒れた人はもちろん、フィガロも、私も、言葉を発する者は誰もいなかった。しばらくの間、静寂が辺りを包んだ。
     やがて、ふう、と息を吐いて、フィガロがくるりと振り返った。
    「ごめんね、賢者様。痛かっただろう。フィガロ先生がすぐに治してあげるからね」
     その声は、いっそこの場にそぐわないくらい明るいものだった。あまりにも普段どおりで、それがまた恐怖を煽った。
    「だ、大丈夫です。それより、フィガロ、あの人……」
     ピクリとも動かなくなった男の人に視線を寄越した。背中に嫌な汗が滲んだ。
     するとフィガロは、からりとした様子で言った。
    「え? ああ、生きてるよ、大丈夫。少しショックイメージを与えただけ。刺激が強すぎて気を失ったみたいだね」
    「そう、ですか……」
     生きているという言葉に、ひとまず心の底から安堵した。
     ほっと胸を撫で下ろし、倒れている人を見た。気を失うほどのショックイメージがどれほどのものか、想像しただけで肌が粟立つ。しかし、この人が死ななくてよかった、フィガロが人を殺さなくてよかったと無責任にもそう思った。
    「そのままじっとしててね」
     殴られたほうの頬にフィガロが手を添えると、温かい光に包まれた。その温もりを感じていると、いつのまにか治療が終わったようだった。
    「はい、終わり」
    「ありがとうございます」
     恐る恐る触って確かめてみると、殴られたのがまるで錯覚ではないかと疑うくらいに元どおりの感触だった。さっきまで感じていた痛みはもうどこにも思い出せない。フィガロが痛みの記憶を修復してくれたのだろうか。
     そう思ってフィガロを見上げ、少し驚いた。
    「……フィガロでも、そんな顔するんですね」
     そこにあったのは、物言いたげな視線で私を見つめるフィガロの顔だった。
    「……俺、どんな顔してた?」
     私の指摘を受けたフィガロは、ますます困ったように眉を下げた。
    「えっと、なんというか……ふつうに心配そう? みたいな……」
    「そりゃあ心配くらいするよ。俺の大事な賢者様だもの」
    「すみません、心配かけて」
     たしかにそうだと反省して、頭を下げた。
    「いいよ、と言いたいところだけど、あんまり無茶はしないように。フィガロ先生との約束だよ」
     フィガロの手が優しくぽん、と頭を叩いた。
    「わかりました、先生」
     顔を上げて笑うと、フィガロも眦を下げた。その様子からは、先ほど抱いたような底知れない恐ろしさは微塵も感じられなかった。私のよく知っているフィガロがそこにいた。そこでようやく、ほっと息をつくことができた。
    「もう、楽しそうにしちゃって。いい性格してるなあ」
    「フィガロほどではありませんよ」
    「きみも言うようになったね」
    「おかげさまで」
     そうやって二人で軽口をたたき、笑い合った。
    口説いてるんだよフィガロが晶を口説く話


     底冷えするような寒さにふっと目を覚ました。カーテンの外はまだ薄暗く、時計を見ればいつもよりずいぶん早い時間だった。
     もう一度眠ろうとして目を瞑った。しかし、寝返りを打つこと数回、どうにも眠れそうになかった。諦めてベッドから起き上がり、陽の光を取り入れようとカーテンを開けた。そして、目に飛び込んできた景色に、今度こそ晶の意識は覚醒した。
    「……雪だ」
     窓の外に広がっていたのは、一面の銀世界だった。
     真っ白な雪に地面はしっかりと覆いつくされ、遠目にも結構積もっているのがわかる。どうりで寒いわけだ。晶はぶるりと震えた肩を抱いた。
     雪を見るのは初めてではない。それこそ、北の国に行った際にはうんざりするほど目にしている。だというのに、どうしてこんなにもわくわくするのだろう。
     寝巻から着替えながら、晶の頭にあるのは雪の世界での散歩のことだけだった。

     コートを着込んで手袋を着けてマフラーを巻いて、これ以上ないくらいに防寒は整えた。それでも、地面に着けた靴の底から冷たさが染みこんでくるようだった。
    「さ、寒い……」
     吐く息は白く、むきだしの鼻や耳はとても冷たい。外に出たばかりだというのに、すでに真っ赤になっているに違いない。しかし、不思議と気分は高揚していた。
     いつも賑やかな魔法舎も、さすがにこの時間はとても静かだった。それに加えて、今朝は雪だ。積もった雪が世界中の音を吸収しているかのようで、耳に届くのは自分が雪を踏みしめる音だけだった。
     中庭を通りすぎて、木立のほうへ。足跡一つないまっさらな雪原を見たら、どうにも我慢ができなかった。だから。
    「っえい!」
     ぼふん、と勢いをつけて倒れると、想像よりも軽い衝撃が晶を包み込んだ。そのまま両手を広げて、まっさらな雪の上に大の字になった。
     背中はとても冷たいが、初めての体験に心は満たされていた。一度でいいからやってみたかったのだ。小さな夢が叶って、ひとりでに笑みがこぼれた。
     そのとき、雪に埋もれて空を見上げていた晶の顔に一つの影が落ちた。
    「っフィガロ⁉」
     視界に入る見知った顔に、慌ててがばりと身を起こした。
    「おはよう、賢者様」
    「お、はようございます……。というか、いつから……?」
     誰もいないと思っていたのに。恥ずかしさから、フィガロの顔をまともに見られなかった。
    「うん? もこもこに着込んだ賢者様が、魔法舎のドアを開けてこっそり出てきたところからかな?」
    「さ、最初から……」
     ということは、浮足立って歩いていたところもしっかり見られていたというわけだ。あまりの恥ずかしさに、全身から火が噴き出すようだった。
    「というか、見ていたのなら声をかけてくださいよ!」
     八つ当たりだとわかっていても、声を荒げずにはいられなかった。
     最初から見ていたのなら、声をかけてくれたらよかったのに。それをせずにただ見ていただけなんて、フィガロもずいぶんと人が悪い。
     むくれたように言うと、フィガロは実に楽しそうに笑った。
    「いやあ、どこに行くんだろうなって見てたら、つい声をかけそびれてね」
    「ついじゃなくて……。もう……」
     これ以上は何を言ってもフィガロを喜ばせるだけだ。悟った晶は、せめてもの抵抗に溜息をつくことしかできなかった。
     フィガロは「ごめんごめん」なんて言いながら、ちっとも悪びれた様子を見せずに手を差し伸べてきた。多少の悔しさを感じつつ、晶はその手を掴むと、そのままぐいと引っ張り上げられた。
     コートについた雪をはたき落としていると、フィガロの手が髪についた雪を落としてくれた。フィガロの指が触れた先から温かくなっていくのは、きっと魔法をかけてくれたのだろう。気づいたときには、先ほどまで感じていた雪の冷たさはどこかへ消えていた。
     ひととおり雪を落とし終えて顔を上げると、フィガロがこちらを見つめていた。まだどこかに雪がついているのだろうか。尋ねると、そうではなかったようだ。フィガロがゆるゆると首を振った。
    「かわいいなあと思って」
     そう言って目を細めたフィガロに、晶はからかわれているのだと思った。
    「どうせ子どもっぽいって思ってるんでしょう……」
     ミチルみたいに。そう付け加えると、フィガロがぱちくりと目を見開いた。
    「ミチルみたいに? まさか」
     フィガロの反応に、おや、と晶は思った。もしかして、ミチルですらこんな雪遊びはもう卒業したのだろうか。だとしたら、ミチルに失礼だったかもしれない。
     しかし、晶の心配は見当違いのものだった。
    「きみをミチルと同じように見たことなんて、一度もないよ」
     先ほどまでの穏やかな表情はどこへ行ったというのか。朝の空気に似つかわしくないほど、フィガロの瞳は真剣な色を宿していた。
    「そ、そうですか」
     その雰囲気に、晶は気圧されそうになった。思わず一歩後ずさると、フィガロが一歩距離を詰めた。
    「信じてくれる?」
    「し、信じます! 信じるので、その、近いです……!」
     長身を屈めたフィガロの顔が、吐息がかかりそうなほど近くにあった。直視できなくなった晶は顔を背けて、ぱたぱたと手で扇いだ。
    「なんだか口説かれてるみたいで、心臓に悪い……」
     それは、冗談のつもりだった。あくまでこの変な空気を払拭しようと、ごまかしたつもりだったのに。
    「え、口説いてるんだよ」
     さも当然のように、フィガロが言ってのけた。
    「……えっ」
     さすがの晶も、これには言葉を失うしかなかった。
    「あれ、伝わってなかった?」
     おかしいなあ。なんてのんびり言いながら、フィガロが晶の手を取った。
    「じゃあ、改めて。――賢者様、俺に口説かれてくれる?」
     まるで姫君をエスコートするかのように、晶の指先にフィガロが恭しく口づけた。その様子を、晶はしっかりと見てしまった。
    「~~っ!」
     言葉の意味を正しく理解した瞬間、身体が沸騰したように熱くなった。これはつまり、そういうことで。だから、えっと。
    「か、考えさせてください……!」
     晶には、そうひねり出すのが精いっぱいだった。
    もう少しだけフィガロが晶に甘える話


     談話室を通りかかったフィガロは、ソファに座って書類と真剣に向き合っている晶を見かけた。
    「こんな時間まで書類仕事?」
    「フィガロ」
     声をかけると、晶が書類から顔を上げてこちらを向いた。その手から書類を抜き取って、書面に視線を落とした。そこに書かれていたのは、先日南の魔法使いたちが解決した厄災の異変についての記述だった。
    「明日までにクックロビンさんに渡さなきゃいけない書類があったんですけど、すっかり忘れてて……」
     そこまで言うと、晶は「あはは」と照れ臭そうに頬をかいた。
    「部屋でやると寝ちゃいそうだったので、ここで」
     今はそろそろ日付が変わろうとしている時間だった。いつもであれば、とっくにベッドに入っているころだろう。
    「なるほど。賢者様も大変だ」
     魔法舎への依頼は日々絶えない。そのたびにこのようなレポートをまとめているのかと思うと、自然と頭が下がる思いだった。
     書類を返すと、受け取った晶は眉を下げた。
    「いえ。みなさんに比べたら、これくらいなんてこと」
    「いやあ、比べるものじゃないでしょ」
     晶にとっては本心からの発言だったかもしれないが、フィガロはそうは思わなかった。晶が日々頑張っている姿は、フィガロに限らずここにいる魔法使いの誰もが目にしている。たとえ謙遜だろうと、そんなふうに言ってほしくはなかった。
    「俺たちには俺たちにとっての大変さがあって、賢者様には賢者様にとっての大変さがある。違う?」
    「……そう、ですね。たしかに」
     少し説教臭かっただろうか。フィガロは己の発言を省みた。
     しかし、晶は素直に頷いた。だから、その反応をよしとした。
    「うん」
     あまり邪魔をするのもいけないので、この話はここでおしまいだ。相槌一つで切り上げて、晶の隣に腰かけた。
     晶は、隣に座ったフィガロを不思議そうに見上げた。
    「読みかけの本があったことを思い出してね。ここで読んでもいい?」
    「あ、はい。フィガロさえ気にならなければ」
    「ありがとう。そうさせてもらうよ」
     部屋の机に置いていた本を魔法で取り寄せて、ページを開いた。その様子を見ていた晶は、フィガロがそれ以上何も言わないことを確かめると、自身も書類に向き直った。

    「終わった?」
     晶が書類を置いて伸びをするのを横目で確認したフィガロは、本を閉じて尋ねた。
    「はい」
     晶はフィガロに頷いた。その顔は少し疲れていたが、やるべきことが終わったからか、晴れやかでもあった。
    「そう。お疲れ様」
     短い言葉で労うと、晶が微笑んだ。
    「ありがとうございます。……フィガロ?」
    「うん?」
     戸惑った様子の声が頭上から聞こえた。フィガロが晶の肩口にそっと頭を預けたからだった。
    「あの……?」
     突然のフィガロの行動に、いよいよ晶は困惑したようだった。けれど、無理にフィガロをどかそうとはしない。その反応に、フィガロはふっと笑みをこぼした。
    「もう少しだけ」
    「え?」
    「もう少しだけ、このままで」
     その声には、祈りのような響きが含まれていた。それは、甘えでもあった。
     フィガロの気持ちがどこまで届いたのかはわからないが、晶は静かに頷いた。
    「……はい」
     ありがとう、とフィガロは心の中でだけ言った。
     深夜の談話室はとても静かで、目を瞑るとお互いの息遣いが耳に届いた。
     やがて、控えめに頭に触れる気配があった。フィガロの癖毛を梳かすように、晶がそっと髪を撫でていた。
     「もう少し」は、はたしていつまで許されるだろうか。誰かに髪を梳かれるくすぐったさに身を委ねながら、フィガロはぼんやり考えていた。
    嫌いです酔ったフィガロが晶を困らせる話 ※暗い


     中庭を歩いていた晶は、ベンチに腰かけている人影を見つけた。
    「……フィガロ?」
     ロックグラスを片手にぼんやりと月を見上げていたフィガロが、呼び声に気づいて首を動かした。
    「やあ、賢者様」
    「こんばんは。晩酌です、か……」
     今日は晴れていて風もない穏やかな夜だから、月見酒でもしているのだろうか。そう思い、晶はフィガロに近づいた。しかし、月明りに照らされたフィガロの顔を見て、その足をぴたりと止めた。
    「どうしたの?」
     不自然に動きを止めた晶を見咎め、フィガロが首を傾げた。その目が一切笑っておらず、晶は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
    「え、っと……その、フィガロこそ、なにかありました?」
    「俺? どうして?」
    「勘違いだったら申し訳ないのですが、なんだか、その……落ち込んでいるように見えたので……」
     慎重に言葉を選びながら、晶は控えめに告げた。
     月の光を受けて淡く輝くフィガロの顔には、一切の感情が伴っていなかった。ともすればぞっとするような表情で、フィガロは晶をただ見ていた。晶には、そんなフィガロが晩酌を楽しんでいるようには、とてもじゃないが思えなかった。
     悲しいことでもあったのだろうか。それは自分が踏み込んでもいいものだろうか。だとしたら、いったいどこまで許されるのだろう。その判断が難しく、浅瀬で漂うみたいなことしか言えない。
     フィガロの返答を待つ間、晶は知らず胸元でぎゅっと手を握りしめていた。
    「……そう、かもしれないね」
     晶からの問いを受けたフィガロは、ゆっくりとまばたきをして、ふっと笑った。
    「落ち込んでるって言ったら、きみは慰めてくれるの?」
    「──え?」
     カラン、と遠くで氷がぶつかる音がした。
     晶が言葉の意味を理解するより先に、グラスをベンチに置いたフィガロがその手を引っ張った。突然腕を取られた晶は、バランスを崩してフィガロの胸元に飛び込んだ。慌てて離れようとしたものの、それを遮るようにフィガロの腕が腰に回された。
    「フィガロ、あの、ちょ……っ」
     腕の中で身じろぎをする晶の耳元で、フィガロが囁いた。
    「ねえ、賢者様。俺を慰めて」
    「──っ」
     その声は風の音でかき消されてしまいそうなほどに小さくて、弱々しくて、揺れていた。聞いた晶の心臓が、ぎゅうっと痛みに締め付けられるようだった。
     こんなフィガロは見たことがなかった。だから、晶はどうしていいかわからず、戸惑った。
    「……あの、フィガロ、」
     どんな言葉をかけたらいいのだろう。どんなことをすれば、フィガロをこれ以上傷つけずに済むのだろう。悩んだ晶がそっと顔を上げた。すると、空虚な目をしたフィガロが、晶の顎にそっと手を添えた。
    「きみにしかできないこと、あるよね」
     そう言って、親指で唇をつう、となぞられた。暗にほのめかされた行為を察した晶は、反射的にフィガロを突き飛ばしていた。
    「っ、やめてください!」
     拘束は緩く、少しの力でフィガロの腕から抜け出すことができた。晶はまだ信じられなかった。フィガロが自分に何を求めていたのか、理解するのを本能が拒んだ。
    「…………」
    「…………」
     二人の間に重い沈黙が漂った。
     晶に拒絶されたフィガロがどんな顔をしているのかは、項垂れているせいでわからなかった。フィガロのつむじを見下ろしながら、晶は自身を落ち着かせるように、努めて呼吸を繰り返した。
    「す、少し飲み過ぎじゃないですか。水でも飲んで、酔いを醒ましたほうが、」
    「これくらい平気さ」
     俯いたままのフィガロが乾いたように笑った。
     自分が来るまでにフィガロがどのくらい飲んでいたのか、晶にはわからなかった。しかし、近づいたときに漂ってきた濃密なアルコール臭から、それが決して少ない量ではないというくらいのことはわかった。
     これがいつものフィガロだったなら、本人の言うとおり平気なのかもしれない。しかし、今日のフィガロは、それなりの量を飲んでいるにもかかわらず、ちっとも酔った様子がなかった。それが逆に危なく感じた。
    「でも、」
     なおも食い下がろうとする晶に、フィガロは顔を上げて冷ややかに笑った。
    「賢者様。きみは俺のことが好きなんじゃなかった?」
    「──っ、」
     グサリと、ナイフを心臓に突き立てられたような心地になった。
     それは決して、自分がフィガロに対して淡く抱いていた好意を見透かされたせいではなかった。こんな言い方をして自分を突き放そうとするフィガロが、無性に寂しくて、非常に悲しかった。
     晶はぐっと唾を飲み込んだ。唇を引き結んで、フィガロをまっすぐに見据えた。
    「嫌い、です」
     腹の底に力を入れて、きっぱりと言い放った。声は、なんとか震えなかった。
    「今のフィガロは……、嫌い、です」
     大好きなその人の目を見て、はっきりと、そう言った。
    「…………」
     ここにきて初めて、フィガロの顔に表情が灯ったように見えた。目をかすかに見開いて、驚いたような、戸惑ったような――傷ついたような顔をしていた。
    「これ、預かりますね。……今日は部屋に戻ります。おやすみなさい」
     晶はフィガロの傍らに置いてあったウイスキーボトルを手に持った。中身はほとんど入っていなかった。一方的に挨拶を告げると、振り向きもせずに魔法舎の入口へと駆け出した。
     一人取り残されたフィガロは、遠ざかる背中を呆然と見つめることしかできなかった。
    「……はは……」
     晶の気配が完全に辺りから消え去ったころ、無意味な笑いがこみ上げてきた。けらけらとひとしきり笑ったあと、なんだか無性に虚しくなった。
    「……あーあ」
     ベンチに背を預け、片手で顔を覆った。空を見上げると、いっそ憎らしいほど綺麗な月が淡い輝きを放っていた。
    俺に甘やかされてみない?フィガロが晶を甘やかす話


    「お、終わった……!」
     溜まっていた書類仕事をなんとか片付けた晶は、その場でぐっと伸びをした。今日一日ずっと机に向かっていたせいで、肩も腰も目も尻も、全身が悲鳴を上げていた。
    「お疲れ様」
     椅子に座ったまま肩をぐるぐる回していると、ベッドに腰かけていたフィガロが労いの言葉をかけてくれた。晶はベッドのほうを振り返り、お礼と謝罪を口にした。
    「ありがとうございます。すみません、ずいぶんお待たせしてしまって」
     フィガロが晶の部屋を訪れて、だいぶ時間が過ぎていた。今晩は晶の部屋で、フィガロの「仕事」をする予定だった。しかし、ここ数日は任務が立て込んでいた。そのせいで書類仕事を処理する時間がなく、フィガロとの予定までにどうしても終わらせることができなかった。待たせるのも忍びないので、後日にしようかと提案したら、フィガロはやんわりと首を振った。あと少しで終わるなら、ここで待たせて、と。終わりの目途は立っていたので、フィガロがいいなら、と晶は了承した。
     ずいぶんと遅くなってしまったが、これでようやく本来の目的にたどり着いた。そのことに、晶はほっと安堵の息を吐き出した。実のところ、晶もこの時間を楽しみにしていたのだ。
    「全然。俺も読みかけだった本を読み終えることができたし、ちょうどよかったよ」
     手にしていた本をぱたんと閉じて、フィガロが傍らに置いた。そのまま空いた手でちょいちょいと手招きされた。
    「賢者様」
    「はい?」
     招かれるまま腰を上げ、フィガロの座るベッドへと近寄った。すると、フィガロが自分の隣をぽんぽんと叩いた。ここに座れということだろうか。おとなしく晶が腰を下ろすと、フィガロに肩を抱かれ、上半身を倒された。
    「わっ」
     いとも簡単にバランスを崩した晶は、フィガロの膝に頭を預ける形で倒れ込んでいた。
    「あの、フィガロ……?」
    「うん?」
     いわゆる、膝枕をされている状態だった。フィガロを見上げると、にっこりと微笑む顔がそこにあった。
    「お疲れの賢者様を労ってあげようかなって思ったんだけど。嫌だった?」
     なるほど、これはフィガロなりの気遣いだったようだ。突然の行動に戸惑った晶だったが、理由を聞いてひとまず納得はできた。
    「いえ、嫌というわけじゃ……。あの、いいんですか? フィガロは仕事をするためにここに来たんじゃ」
     納得はできたが、これでは本末転倒ではないだろうか。このままだと、フィガロの仕事が始められない。しかし、晶の懸念をよそに、フィガロはのんびりとした調子で言った。
    「うん。でもまあ、たまにはこういうのもいいんじゃない?」
    「そう、ですかね……?」
     なんだか釈然としないが、フィガロがいいと言うのであれば、いいのだろうか。煮え切らない態度をとる晶に、フィガロがふっと目を細めた。
    「あのね、賢者様。俺がきみを甘やかしたいだけだよ」
     それは、とびきり甘い誘惑だった。片目を閉じて、フィガロが言った。
    「だからさ、素直に俺に甘やかされてみない?」
    「……その言い方はずるいです……」
     そんなことを言われて、断れる人がいるだろうか。嬉しさと照れ臭さがじわじわとこみ上げてきて、晶は両手で顔を覆った。そんな晶を見つめながら、フィガロは笑うだけで、それ以上は何も言ってこなかった。
     頬の火照りがだいぶ収まってきたころ、晶はそっと手をどかしてフィガロを見上げた。晶の視線に気づいたのか、フィガロは頬を緩めて手を伸ばしてきた。指先で晶の前髪をちょいちょいとかき分けて、そのままするりと頬を撫でてくる。そのやさしい触れあいに、晶はそっと目を閉じた。
    「……フィガロの手、ひんやりしていて気持ちいいです」
    「そう? よかった。俺の体温の低さもたまには役に立ったかな」
    「ふふ」
     穏やかな夜だった。結局その日は晶が存分に甘やかされただけで終わった。そのため、仕事は後日改めて。そう予定を立てて、二人は新たな夜に胸を膨らませた。
    おやすみ、賢者様熱を出した晶の話


     昔から、熱を出した日はいつも朝早く目が覚めた。だから、カーテンの外がまだ薄暗い時間帯に起きた晶には、きっとそうだろうなという確信があった。
     案の定、その予感を裏付けるかのように、身体の節々は痛みを訴え、頭は重だるく、どこもかしこも熱っぽかった。もう少しだけ寝ようとしたものの、一度覚醒した脳はなかなか眠りに移れなかった。晶はしかたなく身を起こすと、カーディガンを一枚羽織ってベッドからそろりと足を下ろした。そして、そっと部屋を出た。
     目指したのは、フィガロの部屋だった。今はまだ深夜から早朝に移り変わろうとしている時間だ。きっと彼は寝ているだろう。そう思った晶だったが、以前体調を崩したときに、フィガロから言い含められていることを思い出していた。
     そのときも、今日と同じように熱を出した。朝早く目が覚めた晶は、せめてフィガロが起きる時間までは部屋でおとなしく寝ていようとひたすら耐えた。しかし、熱はどんどん上がってしまい、起こしにきたカインからいたく心配され、ちょっとした騒ぎになってしまったのだ。フィガロの部屋にたどり着くころには、どんどん増えた付き添いの魔法使いたちがわらわらと晶の背後に群がっていた。そしてスノウとホワイトに叩き起こされたフィガロから、そっとたしなめられるように言われたのだった。俺が寝ていても起こして大丈夫だから、少しでも調子の悪さを感じたらいつでもおいで、と。
     その言葉を胸に、晶は階段を下りてフィガロの部屋の前までやってきた。深夜とも早朝ともつかない廊下はしんと静まり返っていて、ノックの音を立てることすらはばかられる。しかし、ここで立ち尽くしていてもしかたがない。意を決してドアを叩こうと拳を握り締めた矢先、ドアノブがくるりと周り、目の前のドアがゆっくりと開かれた。
    「……フィガロ」
    「うん、やっぱり。そんな気がしたんだ」
     そう言ったフィガロは、困ったような、呆れたような、けれどどこか安心したような表情を見せていた。
    「とりあえず、中へどうぞ」
     フィガロに招かれるまま、晶は部屋の中へと足を踏み入れた。
    「……お酒の匂い……」
     そのとき、近づいたフィガロから、消毒薬に混じってほのかにアルコールの香りが漂ってきた。すんと匂いを嗅いだ晶に、フィガロが人差し指を口元で立てて片目を瞑った。
    「ミチルたちには内緒にしてくれる?」
     悪戯めいた顔で持ちかけてきたフィガロに、晶は頬をほころばせた。フィガロがこの時間まで起きていた理由は、つまりそういうことだったのだ。だとすれば、晶にとってもそれは好都合だった。だから、フィガロの誘いに乗ることに対して、迷いはなかった。
    「起こしてしまったら申し訳ないなと思ったので、フィガロがこの時間まで起きていたみたいでよかったです」
    「うん、俺も起きててよかったと思った。少し触るよ」
    「はい」
     そうやって、向かい合って座ったフィガロが晶の診察を始めた。
    「口開けて、あーってして」
     言われたとおりに口を開けると、木の板のようなものが舌に押し付けられる。かと思えば、フィガロの少し冷たい指先が耳の下や顎の下に触れ、何かを確かめるように動かされた。
    「息を大きく吸って、止めて。……吐いて、もう一回」
     今度は聴診器を胸に当てられて、指示されるまま意識的な呼吸を繰り返した。
     やがて、耳から聴診器を外したフィガロが、うん、と頷いた。
    「喉が少し腫れているかな。解熱剤と痛み止めを処方しよう。今日はこれを飲んで、ゆっくり休むといい」
     フィガロがそう言い終わるやいなや、薬包がふわりと目の前に現れた。それを両手で受け取って、晶はお礼の言葉を口にした。
    「はい、ありがとうございます」
    「ほかに気になる症状はある?」
    「うーん、特には」
    「そっか、了解」
     そうして、フィガロの診察は流れるように終わった。

    「部屋に戻るのがきついならここで寝ていってもいいけど、どうする?」
     立ち上がろうとする晶に、フィガロが声をかけた。おそらく親切心からであろうその提案を、晶はやんわりと断った。たしかに身体はだるいけれど、動けないほどではなかった。
    「大丈夫です、部屋で寝ます」
    「そう、じゃあ部屋まで送っていこう」
    「そんな、そこまでしてもらわなくても、」
     たいした距離ではないうえに、意識もわりとはっきりしているので大丈夫だ。そう断ろうとした晶に、フィガロが言葉を重ねた。
    「俺が心配なんだよ。だめ?」
     そんなふうに言われてしまったら、断るに断れないではないか。眉を下げてこちらを伺うフィガロに、晶は言葉を詰まらせた。
    「う……、じゃあ、お言葉に甘えて……」
     結局、折れたのは晶のほうだった。多少の申し訳なさを感じつつもその提案を受け入れると、フィガロは満足そうに頷いていた。
    「うん。なんならもっと甘えてほしいくらいだ。ほかにしてほしいことはある? 俺になんでも言って、おおよそ叶えられると思うよ」
     その声はとても優しくて、そんなふうに言われるとどうしようもなく縋りたくなってしまう。
    「ん、と……」
     ためらうように言い淀んだ晶を、フィガロは見逃さなかった。
    「なあに?」
     その一言は、まるで先を促すような響きを含んでいた。大丈夫だよ、言ってごらん、と。だから、その言葉にそっと後押しされるように、胸のうちに沸き上がった淡い願いをおずおずと口にした。
    「……よかったら、私が眠るまで手を握ってもらえたり……なんて……」
     しかし、言い終わらないうちから恥ずかしさがじわじわとこみ上げてきた。慌てて取り消そうと、両手を顔の前でぱたぱたと振った。
    「あっ、いや、少し心細くなったみたいで、……変なこと言ってすみません、えっと、」
     せわしなく動く晶の手を、フィガロがそっと両手で包み込んだ。ハッと顔を上げると、頬をゆるめたフィガロの顔がそこにあった。
    「賢者様。そんなことなら、お安い御用さ」
    「……ありがとう、ございます」
     全身からゆるゆると力を抜くと、フィガロがぽんぽんと頭を撫でた。
     ベッドに入った晶にフィガロが手を差し伸べた。その手をきゅっと握り返すと、フィガロの目がやわらかく細められた。
    「子守歌はいる?」
    「ふふ、大丈夫です」
    「そう?」
     まるでミスラの寝かしつけのようだと思って、晶はくすくすと笑った。そんな晶の反応に、フィガロは不思議そうに首を傾げていた。
    「……おやすみ、賢者様」
     眠りに落ちる瞬間、遠くで穏やかな声が聞こえたような気がした。
    二十一グラムの幸福花畑に行く二人の話


     南の国に用事があるというフィガロに誘われて、晶はフィガロの診療所へとやってきていた。
    「適当にくつろいでて」
     フィガロはそう言い残すと、診療所の奥へと姿を消した。
    「わかりました」
     晶はそれに頷いて、以前訪れたときとなんら変わりのない室内を見回した。必要なものを取りに来たというフィガロに対して、晶ははっきり言ってすることがない。とりあえず腰を落ち着かせようと、近くにあった椅子に座った。
     窓の外は明るく、穏やかな日差しが室内に降り注いでいる。上着が必要ないくらいには温かくて、目を瞑っていたらうっかり夢の世界に飛び立ってしまいそうだった。
    「おまたせ」
     手持ち無沙汰に戸棚の瓶を眺めていたところ、フィガロがひょいと顔を覗き込んできた。
    「もう終わったんですか?」
    「うん」
     思った以上に早く済んだフィガロの用事に、晶が目を瞬かせた。すると、フィガロはにっこり微笑んで、まるでダンスに誘うかのように晶の両手を軽やかに取った。
    「むしろこれからが本番かな。ねえ賢者様、俺に付き合ってくれる?」
     もともとはフィガロに付き合うために、ここまで一緒に来たのだ。今さら断る理由などどこにもなかった。
    「え? はい、それはもちろん」
     晶は素直に頷いた。その返事に、フィガロはますます機嫌を良くしたようだった。
     手を引かれながら外に出ると、フィガロが箒を取り出した。どうやらここから移動するらしい。導かれるまま、晶は箒に跨った。

    「わあ……!」
     たどり着いた先は、一面の花畑だった。赤、青、黄、色とりどりの花々が、地面を覆い尽くしている。風に揺れて花びらが宙を舞うさまは、この世のものとは思えないほど美しかった。
    「ルチルが教えてくれたんだ。きみなら喜んでくれるかと思って」
    「ルチルが? そうだったんですね、とても綺麗……」
     視界を埋め尽くす花々を目にして、思わず漏れるのは感嘆の溜息だった。
     箒から降りて地面にそっと足を下ろせば、その衝撃で花びらがふわりと舞った。目を細めながらその様子を眺めていると、フィガロが手を伸ばしてきた。晶がそちらに顔を向けると、風に遊ぶ髪の毛を耳にすっと掛けてくれた。時に冷えた色を灯すその瞳も、今はまるでひだまりのような温かさを伴っている。その目で見つめられるとなんだか無性にくすぐったい気持ちになって、晶は慌てて話題を探した。
    「そ、そういえば、フィガロの用事ってなんだったんですか? この花が必要だったとか?」
     フィガロの手から逃れるように、しゃがみこんで手近な花に腕を伸ばした。
     照れ隠しが伝わったのか、フィガロはくすくすと声を上げ、笑いを隠そうとしなかった。
    「うん? 必要といえば必要だったかな」
    「? どういうことですか……?」
     禅問答のような答えに、晶は素直に首を傾げた。すると、フィガロは晶の目の前にしゃがみながら言った。
    「俺の用事はね、賢者様。きみを喜ばせること」
    「え、」
    「いつもありがとう、賢者様。これはほんのお礼さ」
     そう言いながら、近くの花を手折って髪に差してくる。きざなその仕草も、やけにさまになっていた。
     嬉しい気持ちと照れ臭い気持ちがないまぜになって、晶はフィガロを直視できそうになかった。視線をさまよわせながら、こちらこそ、と控えめに口を開いた。
    「えっと、そんな……。私こそ、いつもありがとうございます。フィガロ」
    「喜んでもらえた?」
     その問いに、今度こそ顔を上げて晶はフィガロを見た。
    「はい、とっても」
    「それはよかった」
     心から嬉しそうに微笑むフィガロに、晶も笑みを返した。

    「ここが気に入ったなら、いつでも連れて来てあげる」
     花畑を嬉しそうに歩く晶に、フィガロがなにげない調子で言った。しかし、晶はゆるゆると首を左右に振った。
    「ありがとうございます、でも、大丈夫ですよ」
    「遠慮しなくていいのに」
     少し驚いた様子でフィガロが言うので、そうではないのだ、と晶はフィガロに向き直った。
    「もちろん、この場所はとっても素敵で、何度だって来たいなと思いました。でも、違うんです。遠慮とかではなくて、ここに来なくても、私はいつだって幸せなので」
     晶の言葉を受けたフィガロは、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
    「そうなの?」
    「そうなんです」
     しっかりと頷いた晶に、フィガロは考えるそぶりを見せた。
    「それってどのくらい幸せ?」
    「えっ、どのくらい?」
     まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったので、晶は頭を捻らせた。
    「うーん……」
     どのくらい幸せかと尋ねられても、言葉で言い表すのは難しい。特別なことがなくても、晶にとっては魔法舎で過ごす毎日が幸せだった。そして、そこにあなたがいるだけで、幸福がほんの少しだけ増えるのだ。それは、人一人分の幸せ。
    「……ひみつです」
     結局、晶は言葉にするのを諦めた。というより、もう少しだけ自分の胸に秘めておこうと思ったのだ。
     そっと口元に人差し指を立てて微笑む晶に、フィガロは弱ったような声を上げた。
    「ええ、ずるいなあ」
     それに微笑みだけを返して、晶は後ろを歩くフィガロに手を差し伸べた。
    あてのない夜の底で夜間飛行に出かける二人の話


     ここ最近の習慣になりつつある夜の散歩をしている最中、フィガロは珍しい人影を見かけた。こんな夜更けに出会う面子など、だいたいいつも決まっている。しかし、今日はその誰でもない人を見つけて、フィガロは心をわずかに弾ませた。
    「賢者様」
     前を歩く背中に声をかければ、気づいた晶がゆっくりと振り向いた。
    「フィガロ」
    「こんな時間まで起きてるなんて珍しいね。眠れなかった?」
    「えっと……。実は……、はい、そうなんです」
     フィガロの問いに晶は言い淀んで、弱ったように眉を下げた。その受け答えには、昼間に見せるような覇気がなかった。
     聞けば、いくら目を瞑っても眠気は訪れず、寝つきがよくなるというハーブティーを飲んだところで逆に目が冴えてきたという。だから、いっそ諦めて夜の散歩へと繰り出したらしい。
     眠れない夜のつらさは、フィガロにもよく理解できた。だったら、とフィガロは晶に手を差し伸べた。
    「夜間飛行にでも出かけようか」

    「寒くない?」
    「はい。むしろ気持ちいいです、風が」
    「うん、いい夜だね」
     晶を箒の後ろに乗せて、フィガロは夜空に飛び立った。
     よく晴れた空には、大小さまざまな星が浮かんでは瞬いている。〈大いなる厄災〉も、ひときわその光を強く放っていた。
     会話を楽しむのもいいけれど、今はきっとその時じゃない。最低限の受け答えを済ませたあとは、フィガロも晶もお互いに黙ったままだった。
    「……すみません、フィガロ。気を遣わせてしまって」
     遠目に見える魔法舎がずいぶん小さくなってきたころ、ともすれば風の音に掻き消されてしまいそうなくらいか細い声が、ぽつりと耳に届いた。腰に回された手にきゅっと力が込められた。
    「いやだな、賢者様。気ぐらい遣わせてよ。俺はきみの魔法使いなんだから、なんならもっと振り回されたいくらいだ」
     ことさら明るい声を出したら、くすくすと笑い声が後ろから聞こえてきた。
    「ふふ。ありがとうございます」
    「冗談じゃないんだけどなあ」
     言葉選びを間違えただろうか。本心がいまいち伝わっていないようで、フィガロは困ったように笑った。
    「特になにかあったわけではないんですけど」
     そう前置きをして、晶はいったん口を噤んだ。フィガロは遠くを見つめながら、辛抱強く続きを待った。
    「今夜は、なんだか無性に心細くて……。だから、フィガロに会えてほっとしました」
     口に出せたことで安心したのか、張りつめていた空気が緩んだような気がした。
     相変わらず声に張りはないけれど、少しでも元気が出たというのならなによりだ。フィガロは後ろを振り向いて目尻を下げた。
    「遠慮しないで、いつでも俺を頼ってよ」
    「……はい」
     ぐす、と鼻を鳴らして、晶が下を向いた。フィガロは見なかったふりをして、再び前を向いた。
    「賢者様になら、フィガロ先生の胸だっていつでも無利子で貸し出すよ」
     後ろに乗っている晶には見えていないだろうけれど、フィガロは胸をとんと叩いた。すると、呼吸を整えた晶がおずおずと口を開いた。
    「胸は大丈夫です。でも、……背中を、借りてもいいですか?」
    「もちろん」
     フィガロが頷くと、軽い衝撃と共に晶の額が背に押し当てられた。触れたそばからじわりと滲む温かさを感じながら、フィガロは夜空に箒を遊ばせた。
     風が穏やかで、よく晴れた夜だった。会話のない二人だけの夜間飛行は、その後しばらく続いていた。
    きいこ Link Message Mute
    2022/07/30 13:36:24

    フィ晶♀まとめ

    #フィ晶
    フィ晶♀の短編小説まとめです。

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