軒下に落ちてる仁さんの話 せっかく花の咲き乱れた春だというのに、吹きすさぶ嵐は冷ややかで、うずくまる仁の体の熱を奪っていく。背中の傷から脈打ちながら流れる血もようやく止まった気配だが、目がかすんで立ち上がることすらおぼつかない。ここから出れば追っ手に見つかる。やっと壱岐に逃げ込んではきたものの、この首の報奨をあきらめきれない賊が執拗に追いかけてくる。不用意に動けば壱岐の民のことを巻き込みかねない。家の主である丶蔵のことも。
軒下に無造作に置かれた材木の影で息を潜める。家主はどこかに出かけたようすで、いくら呼んでも答えない。これは幸いというべきことなのだろうとおのれに言い聞かせる。
この道を選んだ時から独りで戦うのが運命だった。耐えられなくなければこの闇に押し包まれて死ぬだけだ。わかっていただろうとおのれを諭す。心の底で聞こえる、不満げに抗う声には耳を塞ぐだけだ。ひとりで生きて死ぬことに早く納得してしまえれば。寂しいとも虚しいとも、感じなくなればよいだけだ。
花散らしの凍る風。誰とも分かち合えない痛み。そういえば丶蔵と約束をしたのだったと、忘れていた痛みがぶり返すように思い出す。桜が咲くころにまた壱岐に来ようと。思えばはかなく、いい加減な約束だ。守れるかどうかもわからない。この桜の頃まで、おのれの命があるのかすらわからなかったというのに。どんなに抗えない訳があろうとも所詮約束を守れなければすべてが嘘だ。
――しかし俺は約束を交わしたかった。たとえ嘘つきになるとしても。
生き延びていたかった、桜の咲くころまで。嘘すれすれの約束を糧にし、分かち合って、使命や責務に頼らない何かにすがって、生きていたかっただけだ。
ふと、向こうで叫び声が聞こえる。仁はのろのろと顔をあげるが、失った血が体を弱らせ目がかすみ、何も見えない。仁はがっくりとうなだれる。自分を探す声か、賊の声なのか。どうでもいい。自分はすでに丶蔵の家の軒下だ。近くにいられるだけでいい、見つけてくれなくてもいい。嘘だ、見つけてほしい。おのれで交わした約束を信じていたい。頭の中がまとまらない。
と、意識を暗闇の奥底から引きずり出すような呼び声を聞く。
「起きられるか、仁」
丶蔵の声がする。家の前なのだから当たり前だ。落ち着き払っている、いつものように。きっと俺は血みどろで死人のような姿に違いないのに。
――丶蔵は、俺が死ぬ時も泣くことなどないのだろうな。
助けを求める皆と同じ、手が届かなかった誰かと同じ。俺は丶蔵の心に傷ひとつつけられない。それでもこの手をどうしようもなく取ってほしい。
伸ばした手が掴まれる。丶蔵は仁に肩を貸しかけて、背中の傷の血を見て軽くうめく。
「自分の足で歩いてくれると助かる。家に入ったら気を失ってもいいぜ」
軽口にあわせて言いつつ体を支えてくる。立ち上がりながらふと自分のものではない血の臭いに気づき、仁は尋ねる。
「誰を殺した」
「対馬からやってきた不届き者を、集落の皆で三人ばかり」
仁はため息をつく。
「迷惑をかけた」
「当たり前のことしただけだよ。お前の敵はみんな突き殺してやるさ」
軽口は温かく、仁は少し笑う。
「背中に傷を受けた無様な侍を助けてくれるとはな」
「ああ、侍はそういうの気にするんだったな」
まるで今気づいたとばかりの口ぶりだ。
「怪我は怪我ってだけだ。きっとまた誰かを守ろうとして、無茶したんだろ」
「お前はなぜ俺がここにいるとわかった」
「まるで見つかりたくなかったみたいだ」
丶蔵は家に入る前、ふと足を止める。銀色の髪にはらはらと桜の花びらが落ちかかる。
崖の上を見上げれば桜の嵐だった。やっと咲いた桜が、春の嵐に吹かれて花びらとなり月明かりの中に舞い散り、降り注いでくる。
「この嵐で桜は終わりだ。一応、なんとか間に合ってよかったな。桜を見るって約束したの、お前は……忘れてたかな」
白い嵐は止むこともなく、散る花びらは光そのもののように真白く、とめどなく降り注ぐ。
「約束したのは覚えておるぞ」
「そいつはよかった」
ひとりでに微笑みがこぼれる。肩に落ちた花びらを一枚指でつまむ。なめらかで優しい手触りだ。
家の床に倒れ込む仁に、丶蔵が声をかける。
「偉いぞ」
偉いだろう、と答えた気がする。髪に優しい手が触れた気がする。糸がぷつりと切れたように、目の前が暗くなっていく。先程とは違う優しい闇に包まれる。闇の中に目を凝らせば光が見える。約束どおり、いっしょに桜を見ることができた。今度も、なんとか嘘をつかずに済んだ。これからも約束を重ねていくことはできればいいのだがと、仁は目を閉じた。