白エンドの仁さんと丶蔵の話 海の向こうで冥人が死んだという。
嘘みたいな凪の日に壱岐の丶蔵の耳にうわさが飛び込むまで、一切がいつもと変わらぬ日々だった。虫の知らせもなく、夢枕に立たれることもなかった。なぜ、どこで、どういう訳で死んだのかは誰に聞いても知らなかった。ふたたびの襲来を防ぎ蒙古と差し違えたとか、侍の前で潔く腹を切ったとか。死んだというのは大嘘で、大風に乗って蝦夷まで落ち延びたのだとか。皆が皆、話の出来でも競い合うかのように違う話を喋り散らした。さまざまな死に様を聞くたびごとに、仁は幾度も殺された。華々しくもみじめな死に様の数々を聞くたびに、あいまいな噂の向こうへ本当のことはどんどん遠ざかり、ついに知る日などは決して来ないようだった。
所詮俺なんぞに対馬のことなどわかるはずもなかったのかもしれない、誰かに尋ね終わるたびに、丶蔵は幾度もおのれに言い聞かせた。そうするうちに初めてうわさを聞いてから、いつの間にやら季節が一巡りしていた。仁はやはり、この世からふいに消えてしまったように姿を見せなかった。大風が夏を吹き過ぎていき、涼しい朝の日の出の下で、死人を埋める墓掘りを手伝いながら、丶蔵はふと、とっくにおのれが仁のことを諦めていたことに気づいた。
(お前も俺より先に死んじまった)
寂しい風の音が吹きすさぶのが聞こえた。鍬を振るう手を少し止めたが、丶蔵は首を振ってふたたび土を掘る。土の色はだんだんと濃く暗くなり、水の混じった土の匂いがむせかえるように強くなる。仁は対馬のどこかの、こんなに深い土の下に、丁重に葬られているのだろうか。それとも埋めてももらえず、首と胴が、腕と脚が泣き別れのまま、野晒しの乾いた骨になって、海風にからからと吹き転がされているんだろうか。丶蔵は顔を歪めて首を振る。誰か哀れに思ったやつがいて、せめて埋めてもらえていればいいが。
ふいに目まいを感じ、丶蔵は鍬を支えに座り込む。手足が痺れるほどに疲れていた。手を止めれば余計な考えが頭に滑り込んできて、おのれを食い荒らすのだとわかっていたはずだった。結局このざまだ。せっかく手を止めないようにしてきたのに。またもう一つ深手を追うとわかっていたはずなのに。
「来世では幸せにな」
つぶやくおのれの声が、ずいぶん恨みがましく呪わしげに響いた。しかしいくら呪いをかけたって、相手はたぶん、呪いの届くところにはいない。どんな言葉も寂しい風にさらわれるだけだ。深く息をついて重い体を吊り上げるように立ち上がり、丶蔵はまた重い鍬を振り上げた。まだ生きて動けているということは、知る人を見送りすぎた心はとっくに傷つくことにすっかり慣れたからなのだろうとおのれを説き伏せながら。
墓掘りの仕事はつつがなく終わった。島の知り合いをまたひとり土に埋めた。丶蔵は今度は呪いではない祈りの言葉をつぶやいた。来世では幸せにな。鍬をかつぎ土掘りで痛んだ背を曲げて、丶蔵はとぼとぼと帰路につく。しかし来世など本当にあるのか。見てきて帰ってきた者などおらず、尋ねようもない。死んだらすべてが終わりで何もないのかもしれない。極楽も、地獄も。それもいいかもしれない。
すっかり日の暮れた暗い山道に差し掛かった際、不意に花の香りがした。見回しても黄色い小さな花の姿も見えないのに、甘い香りが胸を突く。ついに仁が一度も帰ってこなかった昨年は、この花が咲いていたかどうかすら覚えていない。壱岐もふたたびの襲来を受けて、血と腐臭に倦んだ鼻がもう臭いを感じられなくなっていたのかもしれない。涼やかで甘い香りはいつのまにかおのれの心の深く柔らかい部分を掴み取っていくかのようだ。丶蔵は木の根元に座り、投げ捨てるように重たい鍬を下ろした。
(確かこの香りの中だった)
毒を受け入れる心持ちで香りを思い切り吸い込み、草の上にどさりと倒れ込む。この香りの中の仁のことが知らず思い出される。耳の中に吹きすさぶ寂しい風の音も、ひととき弱まるように思えた。
「この世で一番の悲しみなんて、もう終わった」
その時また、丶蔵は、島の知り合いを一人亡くした。オオタカを退けるために果敢に戦い生き延びた知り合いの、病を得てからのあっけない最期を看取り、見送ってやった。丶蔵を労わる言葉を探しあぐねて押し黙る仁に苦笑しながら、俺は平気だと強がったのだ。口にしたときに、家の外から風に運ばれてきた、甘い香りを確かにかいだ。
十五年前に妻を亡くし、女子か男子かもわからぬ子に一目まみえることもなく土に埋めた時、おのれの魂も一緒に埋めた。その余のことはあの時の悲しみに比べればすべてましなのだと、耐えられぬ痛みではないのだと、いつもおのれに言い聞かせていた。それを仁にも聞かせてやっただけのはずだった。
丶蔵の言葉を聞いた仁の目が何故か異様に輝いた。胃の腑が掴まれたように丶蔵は言葉に詰まる。
「丶蔵」
呼びかけられて顔を上げた仁の目は、言葉にできない重々しい何かを手渡してくるようだった。
「お前に言われて気づいた。この世で一番の悲しみはすでに終わった。俺もずっと、そのように考えてきたかもしれぬ」
仁の手が丶蔵の手首を痛いほど握りしめた。不意に丶蔵は詮無いことを考えた。今から共に、何かの罪でも犯すのだろうか。
愚かな考えを振り払うように、丶蔵は笑ってみせる。
「お前を責めてるように聞こえたら悪かったな。そんなんじゃねえよ」
「俺は責められるべきだ。罪のないお前とは違う。しかし身勝手にも、お前と同じ心持ちを抱いていることが、何やら心強いように思える」
仁は丶蔵をまっすぐに見つめ、静かに呟く。
「この手で地頭を殺める悲しみを知るなどと、かつての俺は思ってもいなかった」
嵐の夜のような異様な輝きの瞳だった。地頭は仁の血を分けた伯父だったはずだ。仁は身内の血を浴びた。しかも自らの手にかけて。
「なぜだ」
つい口をついた。言葉が放たれた瞬間から、愚かな問いかけをしたと胸を突くような悔いが湧いた。なぜその行いを為したか。まるで、俺たちがなんでもおのれの心のみで決められたみたいに聞こえる。人がおのが心で決められることなんてそれほどにたくさんあるはずない。なのに為したことの結末だけは、おのれ一人が負わされる。
「すまない」
丶蔵は謝る。
「ほかにどうしようもなかったんだよな」
丶蔵に答えるように、仁は重い口を開く。
「ほかにどうしようもないと、思えていたらよかった」
「思えていたら?」
「オオタカの毒が回っていた時は心が地獄をさまよっていた。しかし毒から覚めて季節がめぐるごとに、痛いほどに思う。いまも、毒の悪夢を見ていた時とそれほど変わりはない」
仁は右手を見つめながら、固く握り込む。
「あの行いは避け難かった、伯父上が望んだことだ。深手を負って、苦しんだ末に死ぬかもしれなかった。また俺のせいで地頭の権勢は本土の武士に奪われ、じわじわと手足をもがれるように実権を奪われ、寂しい行く末を迎えたに違いなかった。だからああするしかなかった、一番に良いことだ、意義のあることだったのだと、幾度も言い聞かせる。しかし心の奥底から否と唱える声も聞こえるのだ。オオタカの声ではなく、おのれの声色で」
仁は長いため息をつく。
「俺の為したことはもう取り返しがつかない。取り戻せないものを思いながらのこの歩みに、どうかほんの少しでも意味があってほしいものだと願い続けている。しかし、きっとはかない望みだ。――正気のままでさまよい続けるだけだ、ふたたびの襲来で、死に所を見出すまで」
強く握られている丶蔵の手首が白くなっている。目を閉じた仁の顔色は少し悪いように思えたが、吐息は穏やかだ。俺にひとりじゃ運べないような重いものを渡し終わって、少しは心が軽くなったならよかった。でも別に、渡された俺がちゃんと受け取れたわけでもないのは申し訳ない気がする。俺の心なんて、とっくにもう風に吹かれて破れて散り散りなんだから。仁は吹き渡る風にひとり叫んだのと同じで、本当に気の毒だ。
正しいと信じて選んだことを悔いることはないとか、おのれの生は続いているのだから心に従っておのが道を生きろとか、言ってやってもよかったかもしれない。しかしそんなことは、きっととっくに仁がおのれに幾度となく言い聞かせてきたことだろう。
かわりに丶蔵はつぶやいた。寂しい風が一人で抱えられない苦しみに気まぐれに答えるとしたら、どんな声になるだろうと思いながら。
「とっくに終わっちまった、この世で一番に悲しいことは」
言葉にすれば、丶蔵の心にも風の音が吹きすさぶようだった。生きるのは虚しく、地獄も極楽もなく、ほんの少しの意味もありはしないなどと気づきたくなかった。しかし仁も同じような荒涼とした眺めを見たことがあると思えば、ほんの少しだけ心が慰められるようにも思えた。
「これより他に悲しいことなんて、もう起こりようもない。そう思えば傷つかずに済みそうだ。なあ、そうでも考えねえと、やってられねえよな」
そう言い捨てて笑ってみせたのに、仁は丶蔵の顔をまじまじと見つめたかと思うと、ふいに丶蔵の手首を振り払うように離した。息もつかずに仁は背を向けて立ち上がる。耐え難いものから遠ざかろうともするようだった。それはそうだ。最も悲しいことをくぐりぬけた後は何をよすがにして生きればいい。仁はきっと丶蔵とは違い、まだこの人生がただの残骸なのだと認めたくないのだろう。当たり前かと丶蔵は肩をすくめた。諦めがもたらす慰めを拒んで、仁は罪の心に焼かれながらまだ苦しみ続けたいのかもしれなかった。苦しむことはまっとうにしっかりと生きることで、その唯一のよすがを手放したら、生きることをやめることになるのだと思っているのかもしれない。仁の気持ちも痛いほどにわかる。しかし丶蔵は、もう苦しみ続ける力など正直おのれには残っていないとわかっていた。仁はまだ若くて元気なのだ、好きなようにするがいい。丶蔵は苦笑し、仁に背を向けた。
しかしいつまで経っても仁は丶蔵の家から出て行かないようだった。ふたりとも身じろぎもしない静かな時間が漂う花の香りの中を過ぎていった。やがて夜半の月が陰るほどの長い時が経ったのち、背中から密やかな足音と柔らかな衣擦れの音が近づいてきた。丶蔵は目を閉じ、耳を澄ます。
「大事にする」
投げ捨てたはずの破れた笠が、やはり惜しくなったとでもいうように、仁は丶蔵の体を背中から抱きすくめた。触れる手は炎のように熱いのに、首筋に触れる寒々とした唇は、枯れ葉のようにからからに乾いていた。
「お前にせめて恩を返したいが、他にやりようが思い浮かばぬ」
また丶蔵は別の日を思い出す。甘い花の香りをかいでから幾年かが経ち、最後にまみえた日のことを。
冷たい床に静かに押し倒されて、首筋に短刀を押し付けられた。ずいぶん前に木田触で怒りに任せて突きつけられた刃とは異なり、冷たく穏やかで、寸分の迷いもなかった。
「正気のままで地獄をさすらうのも、いくばくかの意味を探し求め続けるのも、ようやく終わりそうなのだ」
深刻そうに、しかしほんのわずか待ちわびていたように、仁は言った。
「蒙古がふたたび襲来する。俺は対馬で戦う。その余のことはわからぬ」
「仁は生きて帰ってくるさ」
刃を突きつけられながら言うことじゃないかもな、と丶蔵は醒めた気持ちで考える。仁は少し笑って首を振る。短刀も、丶蔵の肩を押さえる手も、びくともしない。
「お前が望むなら手を汚す。死に場所を逃し続けているなら、俺が与えてやる」
ああ、こいつはこんどこそ戻ってこないんだろうなと、丶蔵は思った。ゆくべき場所へ行ってなすべきことをなす。心の奥底からおのれの行いを責める声を聞き続けながらさまようよりも、どれほどに心が穏やかになるだろう。たくさんの血を浴びて、おのれの血も対馬の土に吸わせ、やがて故郷と一体となる明らかな定めが目の前に開けている。なぜだか、少しうらやましいとすら思った。
「仁がやりたいならやってくれよ」
仁には、丶蔵が死を望んでいるのかもしれないと思われている。終わりを求めているのだろうと思われるほど、俺の姿が滑稽に哀れに、もしかするとおぞましく、見えていたのだろうか。
「常々思っていたのだ。俺は近しい誰かに死を与えるため、生かされているのかもしれないと」
誰かに最期を与えるのがおのれの役目だと思えるような道を歩んできた。思い詰めた仁の心を思えば哀れみが湧き出す。
俺は死にたいわけじゃない。死にたくないと口にする気力があるわけじゃないが。しかし、仁がおのが役目に縛られているように思えるのは気の毒だ。
「別に何が未練じゃないが。自分の命を自分で終わらせることを決められるほどには、俺はもう自分の命に興味がねえんだ」
仁は目をそらし、うつむいた。丶蔵の首筋から短刀が力無く外された。
「もはや望むほどの死でもないか」
「哀れに思ってくれるかい。ただの残骸みたいに、見苦しく生きてるって」
首筋をさすりながら起き上がる丶蔵に、仁はただ小さく首を振る。
「もし二十年も前なら、あるいはお前に頼んだかもな。それでも俺も死に損ねてここまで来ちまった。……この命について、もうとっくに俺が決められる何かは欠片も残ってない気がする」
仁はぎゅっと拳を握った。
「この世には、人の望みではどうにもならない定めがあると思うか」
掠れ気味に問いかけてくる仁の声の切実に気圧されるように、丶蔵はゆっくりと重々しくうなずいた。
「あの時俺が為したことも天に定められていたことで、俺のこの手は定めに使われたのみだというならば」
仁は唇をゆがめる。
「とっくに捨てたはずの浅ましき考えだと思ってはいたのだが。お前の口から聞かせてもらえれば、もしかするとそれが真なのかもしれぬとも思える。……明日にはどう感じられるかはわからぬが、せめて今の心持ちは最後まで抱いていたいものだ」
短刀をしまい込んだ仁は、目には幾分穏やかな光を湛えていた。
――ああ、余計な苦しみをぜんぶ置き去りにして、身一つで何処かに行っちまう。
すでに仁のいなくなったこの世に吹きすさぶ寂しい風の音を、丶蔵はすでに耳の中に聞いた気がした。
いつのまにか数えるのも億劫なほど、月日がずいぶん流れ去った。冥人のことなど忘れたように、いつしか噂もぱたりと絶えた。青い海の向こうから、やはりあれきり仁は帰ってくる気配がなかった。きっと二度と会うことはないんだと、おのれに言い聞かせるのも幾度目だろうか。俺はあいつを失ったようだが、はっきりと知ることもかなわないままだというのは、いったいどういう定めなのだろう。思い出したくても思い出せない。仁がどんな顔でおのが身に降りかかった理不尽への怒りをこらえていたか、平穏を見出そうとどれだけもがいていたか。しかし甘く涼やかな花の香りや手のひらの熱さのことは今ここにあるかのようにまざまざと思い出せる。息が止まり立ちすくむほどの生々しさで。おぼろげになっていくものと残り続けるもののいびつさは、ふたたび均されることはない。
ひしひしと身につまされる。俺の役目は皆を見送ること。天にそう定められた。仁は最後に俺を殺さず、役目から逃れた。一方、俺はいつまで経ってもこの役目から逃れられそうにもない。いっそ仁に短刀を引いてくれと頼んでみたならば、天にほんの少しでもやり返してやれたことになっただろうか。
しかし、今となってはすべてが過ぎたことだ。波間に浮かんだ残骸が、前より少し遠くに流されただけのこと。周りを吹きすさぶ風が、前より少し強くなっただけのこと。時折は、定めを変えられたのかもしれないとぼんやりと思うことはある。しかしいま残っているのは、結局変えられなかったこの身だけだ。
「来世では幸せにな」
対馬のほうへ手を合わせる。ずいぶん穏やかに言えるようになった。どこかの草葉の陰で土をかぶる寂しい骨の欠片の魂もとっくに生まれ変わっただろう。浄土の蓮の上であればいいと思うが、血の池の地獄かもしれない。あるいは生まれ変わりなど何もなく、虚ろに風が吹くばかりかもしれない。同じことだ。いまここにいないのだから。お前もまた先に死んじまった。俺を置いて。お前も皆と同じだった。やはり一番に悲しいことはとっくに終わっていた。俺はまだみんなを見送って、寂しい風の音を聞き続けている。
海の向こうで冥人が死んだ。どうやって死んだのか、俺には知るよすがさえない。ただ今年も甘い花の香りをかげば、あいまいでいびつで、それゆえに色褪せようもない悲しさが思い出される。それでも耳の中に寂しい風の音は吹きすさび続けている。おそらく、俺が知る人すべてを見送る日まで、止まることなく。