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    1話〜4話1話2話3話4話1話 ドフラミンゴは時折、手負いの獣のような少女に殴られたあの日を思い返す。決していい思い出ではない。過去の汚点ですらある。しかし少女の全てを忘れてしまうのは惜しいと思う、それが男の答えだった。
     あの瞬間、怒りに身を任せて飛びかかったのを境に始まった殴り合いは、ドフラミンゴと少女を二人きりの世界に閉じ込めた。何もかもが二人を痛めつける世の中で、拳を振り上げたひとときだけは、お互いしか見えていなかった。目の前の憎い生き物をぶちのめすことだけを考えて、同等の力を持つ二人は相手を殴り引っ張り蹴っ飛ばし、縺れて地に臥した。
     生きていて初めて対等に殴り合った相手。ドフラミンゴが気に食わないのだと、一人で立ち向かってきた子供。武器も能力もない、箱入り息子のドフラミンゴと殴り合って引き分けとなるほど弱っていた少女。何が自分の感性に触れたのだろう、と考え、無駄な時間だと振り払う。どれか一つではなく、あの女の全てがドフラミンゴの生き様に食い込んでいる。切り捨てようとすれば自身の肉までもを失う覚悟が必要だと薄々勘づいていた。
     だからドフラミンゴはいつだって、手慰みに書いていた何度目かの殺害計画をぐしゃりと握り潰し、女との出会いを脳裏へと浮かべるに留めたのである。

    ***

     人間として、家族四人慎ましやかに暮らしていくのだと父――ドンキホーテ・ホーミングは言った。地上に降りてきた元天竜人の存在を知った人間達は、そんな彼らを許さなかった。天竜人のあらゆる罪は人々の目の前にいる元天竜人の、もはや身を守る術の無いドンキホーテ一家のものとされた。民衆の怒りは即座に彼らを追いつめにかかった。怨嗟と怒号の飛び交う中、一家は当初暮らす予定だった屋敷と生活資金を捨てることと引き換えに命からがら逃げ出した。
     雨露はかろうじてしのげても、隙間から冷たい風がドフラミンゴの体を切り裂く、そんな小屋に一家はいた。ゴミに囲まれたそこは当然ながら悪臭に包まれ、天竜人時代には一度だって見たことのない醜悪な虫があちらこちらで蠢いていた。落ち着いて腰を降ろすことすらできないとドフラミンゴは両親に訴えると、二人は眉を下げ、お互いの顔を見合わせた。そして父は自らの服を一枚脱ぎ、埃や泥にまみれた床へと敷いた。

    「ここに座りなさい」
    「なんで父上が脱ぐんだえ? ドレイに掃除させればいいえ! そうだ、あいつらにやらせれば――」
    「ドフィ……彼らは奴隷なんかじゃないんだ。それに、私達は彼らに恨まれている。掃除の手伝いなどしてくれないだろう……」

     あの時の民衆の様子を思い出したのか、父の顔は青ざめ、声が細くなっていく。ドフラミンゴはただただ怒りに満ちていた。父にこんな顔をさせるなんて、下々民のくせに天竜人に恐怖を抱かせるだなんて!
     ドフラミンゴの怒りを感じ取った父は慌てて表情を取り繕い、誰にでも空元気と分かる明るさで今後の展望を口にした。

    「そうだ、周辺を探索しにいかないか? ここで暮らしていくんだ、我々はこの土地をもっと知る必要がある」
    「そうね、そうしましょう!」

     父の提案に、様子をうかがっていた母はすぐさま乗った。両親が無理をしているのだと、子供ながらに息子達は気がついていた。それでもやはり、親が何の問題もないかのように振る舞っているのは頼りに見えるもので、ドフラミンゴとロシナンテはその言葉に飛びついた。……ドフラミンゴは「こんなゴミ山の中に出たくないえ!」だなんて文句を言ってはいたのだが。


     どんなぼろ屋でも壁で囲われているだけマシなのだと、ゴミ溜めの臭いが纏わりつく中にいるとしみじみ思う。海風に吹かれて多少空気が入れ替わっている場所もあるにはあるが、長年染みついた悪臭はその程度では誤魔化せないレベルとなっている。ましてや、これまで花畑の如き麗しい香りにしか触れてこなかったドフラミンゴの鼻は耐えきれそうになく、吐き気を抑えることで精一杯という状態であった。幼いドフラミンゴですらこうなのだ、より長くマリージョアで生きていた両親はなおのこと苦痛を感じているに違いなかった。
     しかし彼らは一瞬顔をしかめただけで、子供達のお手本となるべく明るく穏やかにゴミ山を歩いていた。これからの生活を相談する口調はあくまでも朗らかさを保ってはいるが、そこに滲み出す不安や混乱の気持ちをドフラミンゴは鋭敏に感じ取ってしまっていて、どうにも居心地が悪い。元々抱いていた負の感情も相まって、両親の側から離れたくなっていた。共に歩いていたロシナンテの小さな手のひらをぎゅっと握りしめ、両親へ声をかける。

    「おれ達、ちょっと別のところを見てくるえ!」
    「ダメだ、ドフィ。この場所は子供だけで出歩くには危険すぎる」
    「……ここで暮らしていくなら、子供だけでも動けるようになっておかなきゃいけないえ! そんな遠くに行かないから!」

     絶対に認めたくなかったが、父を言いくるめるためにこの土地で生きていくことに前向きな姿勢を見せてみる。父はそれをあっさり信じてしまって、不安そうな母を窘め、ドフラミンゴ達を笑顔で送り出した。
     自身の手を引いて勢いよく歩いて行く兄を、ロシナンテは不思議そうに見ていた。ロシナンテは今の状況がよく分かっておらず、家族全員が揃っているということだけを認識していて、幼いロシナンテにとってはそれだけで十分だった。そうしてふにゃふにゃ笑うロシナンテに、ドフラミンゴは優しく笑いかけた。


     兄弟二人の小さな体では、両親への宣言通り近くにしか行けない。ドフラミンゴとて別に逃げ出そうとしている訳ではなく、ただ両親から離れられればよかったので、両親の視界から外れた場所まで来ると比較的きれいなガラクタへ腰を下ろした。少し休憩だと言えばロシナンテも喜んで横に座る。
     ようやく一息つけた、と八歳にしては大人びた思考になるくらいにはドフラミンゴは疲れていた。ゴミに囲まれたこの場所では当然落ち着けるはずもなく、苛立たしげに踵を打ちつける。愛する弟が側にいても彼の苛立ちは紛れそうになかった。

     ――ガタン、と何かが崩れる音がした。ドフラミンゴがそちらに目をやると、そこにいた「そいつ」も彼を見返した。ゴミ山の影から出てきた「そいつ」は、何も言わずにこちらへと近づいてきていた。さっきの音はあいつがぶつかって落ちたゴミがたてたものだ、とドフラミンゴが理解した時にはもう、「そいつ」の表情が分かるほどの距離にいた。

     それは、薄汚れた子供だった。手足が棒のように細く、すり切れたシャツとズボンを身につけて、穴の空いた靴を履いた子供。衣服はサイズがあっていないのかブカブカで、只でさえ枝のような身をさらにみすぼらしいものにしていた。ドフラミンゴと同じくらいか年下くらいに見えるその子供は、ドフラミンゴ達を明らかに認識していて、ずんずんとこちらに歩みを進めていた。
     べたついた黒髪が海風に揺れ、子供のしかめっ面をパサパサとはたいて見せる。これでもかと眉をひそめ、顔を真っ赤にし、口がへの字に曲がっている様は、どう見たって好意的な反応ではない。
     着々と距離をつめてくる謎の子供に恐れおののいた二人は慌てて立ち上がり踵を返したが、焦ったロシナンテが足をもつれさせ、手を繋いでいたドフラミンゴごと地面に倒れ込んだ。ゴミだらけで足元が悪いはずなのに、子供の歩みはスピードを増し、あっという間に兄弟の側へとやってきた。
     太陽が子供達を煌々と照らす。見知らぬ子供は上から覗き込むようにして兄弟を観察していた。逆光となったその姿は表情すらよく見えなくて、ドフラミンゴは喉奥で悲鳴をかみ殺した。何か言わなくてはと思うものの、途端に屋敷を焼いた人間達の狂気の様がフラッシュバックした。声が出ない。せめてロシナンテだけは守らなくては、と弟の傍へと這いずった。
     そんなドフラミンゴを、子供は間近で見つめていた。眉間はほんの少し緩められていたけれども、依然として負の感情を顕わにしている。
     幼い瞳に光はない。一家を追い立てた民衆の目つきとはまた違う、どす黒い闇に染まった瞳でドフラミンゴを見た。次いでその隣にいた半泣きのロシナンテへと目をやり、はぁ、とため息をつく。そして思い切り息を吸い込んだと思うと、

    「早く出ていけ!!」

    とつんざくような声で叫んだ。ゴミ山に甲高い声が響き渡るが、ここにいるのは一家と死にかけの浮浪者くらいなもので、浮浪者はガキの叫び声なぞ聞いている余裕はないものだから、今回すぐに反応したのは箱入り息子の二人だけだった。

    「な、なんだえ!? おれ達に向かって怒鳴るなんて、何様のつもりだえ! さっさとひれ伏して謝らないと罰を与えるえ!」

     叫ばれた衝撃でいつものペースを取り戻したドフラミンゴは、咄嗟にそう叫び返した。謝れば許してやる、というのは、ドフラミンゴにとって最大の恩情だった。普段なら即座に撃ち殺しているところだが、運悪く手元に銃がない。今のドフラミンゴはわざわざ下々民一人に時間をかけている余裕はなかったし、こんな気味の悪い子供など置いてさっさと小屋に戻りたかった。
     そしてふと、ドフラミンゴは思いついた。ひれ伏すだけでは物足りない、この際こいつの無礼を理由にこき使ってやろう。この劣悪な環境で生きていくなら、手足となる奴隷がいた方がいいに決まっている。首輪も焼きごてもないけれど、ひとまずこいつを奴隷にすると宣言してしまえば――

    「ドフィ! ロシー! 何があった!?」

     ドフラミンゴの発言を妨げたのは、顔色を悪くして駆けつけてきた父であった。共に走ってきたらしい母も、冷や汗を流しながら兄弟の無事を確認し胸をなでおろした。両親の声を聞いたロシナンテの目がじわじわと潤みだし、ドフラミンゴの手を振り払って母の元へと駆けていく。
     繋ぐ先のなくなった手をぶらつかせて、ドフラミンゴはどう説明するかに思考を回していた。先ほどの叫び声からして、この失礼な子供はどうやら少女であるようだ。だからなんだという話だが。性別など関係なく、不敬を働いた人間は死ぬべきなのだから。こいつはこのおれを、天竜人を罵ったのだから!

    「父上! こいつ、おれ達に向かって怒鳴ってきたんだえ! ムカつくえ!」

     いまだにドフラミンゴを睨み続ける少女を指差しそう訴えると、父は恐る恐る少女に声をかけた。声色は親しみやすさを演出しているが、何かあったら子供達を連れてすぐに逃げ出せるようにと移動するのを忘れていない。父は、ホーミングは平和主義者で全ての人と仲良くなれると本気で信じていたが、つい数時間前に起きた民衆の襲撃まではなかったことにできないようだった。

    「お嬢さん、うちの息子がどうかしたかな」
    「……あんた達が天竜人だって聞いた。本当なの?」
    「…………ああ。でも今は違うよ。今の私達は人間だ。君達と同じ――」
    「あんたの息子はそう思ってないみたいだけど」

     言葉を選びながら対話を試みる父に、少女はそう吐き捨てた。思わず父が口ごもったのを見て、少女はさらにまくし立てていく。

    「あんた達が来たせいで皆おかしくなっちゃったんだ。皆本当は優しい人なのにこんなことさせて、お前らのせいで、お前らさえ来なければっ……!!」

     一言ごとに少女の感情は高ぶっていき、終盤はもはや声を押し殺した叫びに近かった。緩みかけていた表情はまた厳しいものに戻っていて、ドフラミンゴですら口を挟めない激情がそこにあった。少女は拳を固く握りしめていたがそれを振り上げようとはせず、ぎろりとドンキホーテ一家を見渡した。

    「早くこの国から出ていけっ!!」

     とどめと言わんばかりにそう吠えた後、少女はゴミ山を立ち去った。両親も弟も先ほどの剣幕に呆然としていて、ドフラミンゴだけがその背中にがなることができた。

    「言われなくても出てってやるえこんな国!!」

     それは少女の売り言葉に対する買い言葉でもあり、ドフラミンゴ自身の望みでもあった。こんな汚れて恐ろしい場所など、自分達に害を与える場所など、早く出ていきたい。故郷に帰りたい。そんな願いのこもった叫びは海岸へと響き渡り、かすかに震えていた。

    ***

     ぼろ小屋に戻ってきた一家は皆疲れ果てていた。幼い兄弟は特に疲労の色が濃く、出る前にあんなに騒いでいたドフラミンゴですら無言で床に座り込む。そこに追い打ちをかけるのは酷だと思ったのか、父は開こうとしていた口を一度は閉ざした。しばらくの間、小屋は無音に包まれた。そして何かを決心した父は、息子達に話があると告げた。

    「ドフィ、ロシー。二人ともよく聞くんだ。我々の、いや、天竜人が人間達におこなってきた所業を……」

     父は天竜人の奴隷の扱いを、下々民への横柄と呼ぶことすら生ぬるい暴虐を、それを行われた人間達がどう思っているのかを、静かに語っていった。まるで自らの腹を切り裂き罪を抉り出して並べているかのごとく、父の表情は思い詰めたものへと変わっていった。
     ホーミング本人すら、こんな状況にならなければ気づけなかったことだ。奴隷だって生きている、心があるのだと、それは分かっていた。分かっているつもりだった。長年積もりに積もった恨みがあることを、奴隷や下々民の浮かべた作り笑顔ばかり見てきたホーミングは見落としていたのだ。
     今さら後悔したところで、マリージョアには帰れない。ここで生きていく術を子供達に身につけさせるしかない。想像もしていなかった生活だが、共に生き延びるために、現状を認めなくてはならない。ホーミングはそんな思いを胸に、父親として自分達の立場を説いていった。
     そんな父の心情など知らないドフラミンゴは、彼が述べていく「天竜人の罪状」とやらを受け入れることができなかった。生まれただけで喜ばれる存在のはずの自分達が、本当は恨まれている? やり返していては恨みがループするだけだから、互いに手を取りあえるまで耐えよう? 今、自分達はこんなにも屈辱的な目に合わされているのに?
     父の告げる内容の一つ一つが怒りに変換され全身に染み渡っていく。父が全てを語り終える頃には、ドフラミンゴの感情は爆発寸前にまで到達していた。
     それでも、ドフラミンゴは我慢しようとしていたのだ。愛する家族の言うことだから、ひとまず黙っていよう、と。その思考は、疲れきっていて家族と喧嘩をする余裕がないとも言えた。
     いつもはすぐ反発するドフラミンゴが真剣な眼差しで自分の話に耳を傾けているのを見て、父は大層喜んでいた。彼には一ミリだって受け入れるつもりがないのに、息子達が現状を理解してくれたのだと思ってしまったようだった。
     ここで怒りを示していれば何か変わったのかもしれないが、ドフラミンゴはそうしなかった。グラグラと煮詰まっていく怒りをその小さな体に抑え込んだまま、破顔した父の腕の中で目を閉じた。
    2話 視線が背中に突き刺さる。じとりとした目がこちらを睨んでいる。それでもドフラミンゴは振り向かないと決めていた。目と目が合った瞬間にまた怒鳴りあうことになる予感がした。
     全てが変わり果てた生活に適応することで精一杯なドフラミンゴは、体力の温存のために反応しない姿勢を貫いた。こんな人間に応じている暇があるのなら、少しでも食べられそうなものを探さなくてはならない。そのために腐臭漂うゴミ山へ挑んでいるのだから。

     突然現れて突然去っていった少女は、あれから毎日ドンキホーテ一家を監視しに訪れた。小屋から少し離れた場所に佇んで、水の確保にも手間取る両親を、腹をすかせて泣いたりわめいたりする兄弟を、ただじっと観察していた。死んだ目には喜びも悲しみもなく、「観察」と呼ぶのが相応しい眼差しだった。ドフラミンゴにだけは強い視線を向けていたが、彼は彼女を無き者として扱っていたために表面上の平穏が保たれていた。両親は代わる代わる話しかけ、そのどれもを無視され続けた挙句、今では独り言を装って少女とのコミュニケーションを試みているらしかった。あまりにも馬鹿馬鹿しい。唯一反応らしい反応を見せたのは、ロシナンテが足元のゴミにつまずいて転んだ時だけだ。

     弟は生まれた時からドジばかりする子供で、年々悪化の一歩を辿っていた。赤ん坊の頃はせいぜい物を落とすくらい、いやベビーベッドから転げ落ちるくらいで済んでいたというのに、歩けるようになると何もないところで転ぶのが日常となっていた。それは下界に来てからも相変わらずで、その日ゴミ溜めをうろついていた弟はいつものように足をもつれさせ、あっという間にバランスを崩した。いつもと違うのは、たまたま一人で出歩いていたこと、そして、よりにもよって弟が転んだ先に鋭く尖った破片が散らばっていたことだった。
     ドフラミンゴ達は咄嗟に手を伸ばしたが誰一人間に合わない。各々が悲鳴をあげた、その瞬間。遠くにいたはずの少女が、突如ロシナンテの前に現れた。勢いよく飛び込む形になったロシナンテを易々と受け止め、下ろし、しっかりと地面に足をつかせたのである。

    「下をよく見て歩きな」
    「あ……うん。ありがとう」

     突き放すような声色ではあったが、よく見ると少女はわずかに息を切らしていた。ロシナンテの動きをいち早く察知し全力疾走してきたのだ、とその場にいた誰もが察していた。助けられた本人もそれを分かってか、「先日怒鳴りこんできた怖い人」であるはずの少女に対して素直にお礼を述べた。少女が何をしたのかをはっきりと理解した父はパッと顔を輝かせ、礼として小屋に招こうとしたものの、彼が誘いの言葉を言い終える頃にはもう少女は立ち去っていた。

     この国に来て一家が初めて受けた親切は、こんな些細なことだったのだ。こんなことがあったせいで父は人間共との和解を諦めきれず、母はいつの日か良き隣人になれるはずだと嬉しそうに微笑み、弟の警戒心が緩んだ。賢いドフラミンゴだけは、決して心を許さなかった。人間なんて皆同じなのだから、あいつだって何か企んでいるのだと。極度のストレス下にありながら、味方になり得そうな少女を疑い続けた。

     ドフラミンゴ達の住む小屋の近くは、ゴミはゴミでも粗大ゴミの類ばかりが積み上げられていてなかなか食料が見つからない。あったとしても、食べ物の残骸であるそれは腐臭の原因と化している。
     小屋の近くには海がある。観光地にもならないような汚染された海ではあるものの、なにかしら生き物がいるようだった。しかし魚の捕まえ方を知っている者がおらず、指をくわえて見ていることしかできない。街に行けば残飯くらいは見つかるかもしれないが、その前に一家の存在がバレるだろう。家族は日に日にやつれていく。ドフラミンゴ自身、これまで体験したことのない飢えが彼を蝕んでいた。
     自分達は尊い血筋の者なのに、どうしてこそこそとゴミなど漁らなくてはならないのか。人間共の方から食料を捧げて然るべきではないのか。ドフラミンゴはそう両親に述べたけれど、くたびれた顔の両親は困ったような笑みを浮かべた。
     天竜人は恨まれているから、身元が判明するようなことはあってはならない。この土地だって噂がまだ回っていないだけで、見つかってしまえば以前のようなことになりかねない。手元に金がない上、店に行ったところで売ってはくれないだろう。わめきたてるドフラミンゴを窘めるため、父はそういったことを一つ一つ説明していった。その全てが、ドフラミンゴには理解できなかった。以前にも聞いた話だけれども、やはり彼の怒りを増幅させるだけだった。
     だから一人で街に出た。ゴミ山に向き合うよりも効率的だと思ったのだ。なんなら今度こそ人間共を跪かせてやると意気込んで、こっそりゴミ山を抜け出した。例の少女が後をつけていることに気がついていたが、やはり無視を続けると決め、そのまま街に忍び込んだ。


     彼はそこで地獄を見た。いや、地獄の始まりでしかなかった。
     一応父の話を覚えていたから、ドフラミンゴなりに隠れながら街を歩いていた。それなのに住民達は簡単に彼を見つけ出した。噂が回っていないはずのここですら一家の情報は共有されていたようで、顔をちらりと見た人々は顔色を変えた。
     ドフラミンゴに気づいた一人の男が彼を乱暴に掴み上げ、勢いよく路上に叩きつける。痛みにうめく少年を、民衆は様子をうかがうようにして囲みだす。あちこちからぞろぞろと人間達が現れた。ドフラミンゴの周囲の建物の窓という窓が開いていて、面白いものでも見るかのように不躾な視線が投げられた。人々はドフラミンゴを見ているというのに、別のなにかにも気を取られているようだった。
     誰かが一歩踏み出せばあふれ出してしまいそうな緊張感が一帯に漂っている。混乱で声をあげることすら忘れたドフラミンゴがなんとか顔を上げる。途端、ぎらついた目があちこちから注がれていることに気づいて、ひゅ、と息を漏らした。

    「本当に、海軍は関わってこないんだな?」
    「こんなことになってもすっ飛んでこないんだ、構いやしないよ」

     互いに確認しあう彼らの語気は静かなようでいて鋭さを湛えている。みな、今か今かと待っていた。こんな日が来ることを待っていた。「元」とはいえ、天竜人からの報復を恐れる気持ちは確かにあった。しかし、同じ境遇の者達が共に一線を飛び越えるのならば、どんなことも怖くない。その感情を共有するかのように据わった目を交わす。はちきれんばかりの緊迫感が、ついにぷちりと弾けた。
     そうして復讐に飢えた人間達は、目の前に差し出された元天竜人という餌を喜んで貪り始めたのである。

    ***

     突如鐘の音がけたたましく鳴り響く。鳴る頻度はそう多くない分、緊急性の高さを示す耳障りな音。非常時にしか使われないはずにもかかわらず、なぜか今、街中に響き渡っていた。人々は夢中で蹴り上げていた「それ」から足を離し、意識を彼方に向けた。足元から聞こえるうめき声よりも、鐘の音の理由を確かめることの方が重要であった。

    「どっかで火事でもあったか?」
    「大変だ、うちに燃え移ったらひとたまりもない!」
    「鳴らしたのは誰だ? 何があったか聞かねェと」

     ついさっきまで声を荒げて罵倒を浴びせていた民衆は、甲高い警告音に不安になってそれぞれの家路を急いだ。そうでなくとも、金属音に気勢をそがれた者は少なくなかった。
     あれだけいた人間達が元の場所に帰っていく。ドフラミンゴの顔を執拗に殴った女は棒についた血をエプロンで拭い、家族のための夕飯を作りに。ドフラミンゴの足に切り傷を負わせた男は、その日暮らしを成り立たせるための職場へと。窓から見ていた野次馬は、見世物が終わったのかとつまらなそうにこぼす。
     最後に残った数人がドフラミンゴを街の外へと放り投げ、頭を、腹を、折れた指をぎりぎりと踏みつける。血まみれの頬に唾が吐き捨てられた。

    「おれ達の苦しみはこんなもんじゃねェからな……」

     地を這うような声がドフラミンゴの耳に届く。これまで生きてきて一度も聞いたことのない種類の音。自分に向けられる明確な悪意。ひゅうひゅうとか細く呼吸を繰り返す子供のことなぞ、誰も案じていなかった。彼の苦しむ様が人々の溜飲を下げた。人々の興奮を煽った。人間達が自分の無様な様子を見て喜んでいるのだ、とドフラミンゴはいやでも理解したが、強がるための気力はもう残っていなかった。
     砕けたサングラスのレンズがあたりに散らばっていた。少年は全身の痛みから少しでも逃れたくて地面へとうずくまる。無防備にさらされた両目がかすんでいる。顔を濡らしているのが血か涙かの区別さえつきやしない。一刻も早く家族のいるところに帰りたいのに、立ち上がることすらできなくて。ずる、ずる、と動かない体を引きずって前に進もうとした。忌まわしい街から距離をとろうと、比較的無事だった腕を使って土の上を這いずっていた。そんな時、小さな靴が行く手を阻んだ。

    「たのしい?」

     そんなわけないか。少女は自分で否定して「あは」と笑った。乾いた笑いだった。顔を見なくても分かる。こいつは今、おれを蔑んでいる。あの真っ黒な目を愉快そうに歪めて、おれを見下している。どうしようもなく惨めな気持ちになったが、今のドフラミンゴには銃も権力も無い。やり返す手段を持っていない。
     ドフラミンゴはせめてもの抵抗として、少女の声など聞こえなかったかのように振る舞った。そして頭のどこかで、久しぶりにこいつの声を聞いたな、とどうでもいいことを考えていた。

    「そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」

     ぐい、と持ち上げられたかと思うと、視界一杯に少女の背中が広がった。どうやらドフラミンゴは少女に背負われているようだった。自分とそう変わらないはずの少女はこうしてみると大きくて、力も、まあ、ほんの少し強い。傷だらけのドフラミンゴが降りようと暴れたところで易々と押さえつけられ、道からどんどん外れていく。さすがのドフラミンゴも無言を貫けそうになく、思わず少女を問いただした。

    「おいっ! どこに連れてく気だえ!」
    「あんたの親のとこ」
    「道から離れてるのに!? お前は住んでる土地の位置すら把握してないのか!?」
    「うるっさいなあ……堂々と歩いてたらまた殴られるよ。あんた嫌われてんだから」

     ずかずかと草むらに押し入り、林を抜け、使われなくなってしばらく経っていそうな橋を渡っていく。行きの道とは全く違う景色に困惑しているのはドフラミンゴばかりで、少女は迷いなく道なき道を歩んでいた。
     少女の顔は、背中にいるドフラミンゴには当然ながら見えない。めんどくさいと思っていそうな反応だけれども、ドフラミンゴを抱える手は存外優しかった。彼の全身に傷やら打撲跡やらがあると知っているようで、極力それらに触れないような背負い方へと調整されていた。足早ではあるものの、極力振動を与えないように歩いているのだと分かった。
     遠くで名前も知らない鳥が鳴く。ドフラミンゴがゴミ山を飛び出してどれほどの時間が経ったのか、もう日が傾いてきていた。
     父達を無視していた時とは打って変わってよく喋るこの少女に、今なら話しかけても大丈夫な気がした。少なくとも何らかの反応は返って来るはずだ。今だってこうして自分を運んでいるし、ロシナンテだって助けていたし。
     そこまで考えて、はたと気づく。そうだ、こいつはなぜ助けにこなかった? ドフラミンゴの体に配慮できるくらいに傷の位置を把握しているということは、あの時どこかで見ていたのか? 見ていたならなぜ、弟のもとには駆けつけたのに、なんでおれのことは――

    「降りて」
    「……え?」
    「もう目の前だし、自分で行けるでしょ。降りて。あんたの親に絡まれたくない」

     少女の言う通り、ドフラミンゴが考え事をしている間に二人はゴミ山に到着していた。慣れかけていた悪臭がドフラミンゴの鼻をくすぐって、本当に戻ってきたのだと実感がわく。そんなに長く考え事をしていたのかと思いつつ小屋を探すと、確かに目視できる距離にあった。今頃両親と弟がドフラミンゴを探していることだろう。這いずっていけば彼らに見つけてもらえる場所まで行ける。歩けもしない状態の少年に言うことではないが。

    「歩けないんだえ。小屋まであと少しなんだから運ぶえ」
    「だから嫌だってば……というか、その語尾やめて。ムカつく」
    「天竜人としての誇りを示す言葉遣いだえ! 下々民には理解できなくても仕方ないえ」
    「いつまでそんなこと言ってんだか……」

     ずり落ちてきたドフラミンゴを抱え直し、少女は渋々歩き始めた。内心ほっとしながら、ドフラミンゴは先ほどの考えを思い出し、ぽつりと訊ねた。

    「お前、どこにいたんだえ」
    「……どこって、街だけど」
    「見てたのか」

     言外に、見ているだけだったのか、と責めた。少女はしばし黙り込む。すぐに小屋が近づいてきて、中に誰もいないことから家族は皆捜索に出ているのだと知る。そうしているうちに、二人は小屋の前まで来ていた。穴だらけで、吹けば飛ぶようなぼろ小屋に。
     少女は無言でしゃがんだ後、ドフラミンゴを地面に下ろした。ロシナンテにしたように、しかし自力で立ち上がることの難しいドフラミンゴに合わせて、ゆっくりと彼から手を離した。背中だけ見せていた彼女が、座り込んだドフラミンゴを振り返る。その顔はなぜか苦しげに歪んでいた。目があった途端、その苦しみは鳴りを潜め、すう、と表情が消えた。

    「助けてほしかったの?」
    「っ誰が、お前なんかに!」

     咄嗟にそう返したドフラミンゴに、少女はふうん、と頷くだけ。何かいちゃもんをつけてくるものだと構えていた彼は、拍子抜けして二の句を継げなくなってしまった。彼女の長いまつ毛が伏せられ、その瞳の奥までは見通せない。あれだけ喋っていたというのに、少女はまた何も言わなくなってしまった。
     二人を平等に照らしていた夕日はもはや水平線の向こうに沈みかけている。風に乗って、かすかに人の声が聞こえた。ドフラミンゴの慣れ親しんだ、今最も会いたい家族の声。少女にも聞こえたのだろう、音のした方向をちらりと一瞥してドフラミンゴのそばから去っていく。入れ違いになるように家族のすすり泣きが近づいてくる。ドフラミンゴ、と叫びすぎて枯れた声がする。それは傷ついた少年の心をいくばくか癒したが、少女の言動に頭を悩ませていた彼は家族に呼びかけることを忘れていた。

    「なんだったんだえ……」

     ロシナンテのことは助けたくせに、ドフラミンゴが虐げられても姿一つ見せなかった。影から見ているだけで、全て終わってから現れたあの少女。こうして家族のもとまで運んだのは褒めてやらなくもないが、あの態度で帳消しどころかマイナスである。民衆の前にすら出てこなかった彼女への恨みが、今になってこんこんと湧き上がる。手を出してきた奴らはもちろん、見捨てた奴だって同罪なのだ。初めての蹂躙に傷ついた少年は、直接的に暴力をふるってきた大人達と同じくらい、少女を深く憎んだ。けれど。

     もしあの時「助けて」と叫んでいたら、彼女はどうしていたのだろうか。

     小屋の前で思案するドフラミンゴのもとに、泣き腫らした家族が帰ってきた。血まみれのドフラミンゴの姿を見て母は悲鳴をあげ、父と共に彼を抱きしめた。一歩遅れて弟が兄に抱きつき、兄の服を涙で汚す。腕がうまく動かせないせいで抱き返すことができず、それがまたドフラミンゴの怒りを膨れ上がらせた。
     生きていてよかったと繰り返す両親に、ドフラミンゴは堰を切ったように街での仕打ちを語った。何もしていないドフラミンゴを殴り、蹴り、踏みつけてきた民衆の悪逆無道を。「やめろ」と言おうものなら、その百倍の呪詛が降り注いだことを。語り口ははじめから恨みに満ちていたが、家族はそれを聞いてまた涙を流した。息子にここまでのことを言わせてしまった現実が無念でならないようだった。

    「助けにいってやれなくてすまなかった……!」

     父が深く頭を下げた。心底悔やんでいるその表情は、偽りのない本心なのだろう。弟はグズグズと泣き続けていて、もはやドフラミンゴ本人よりもドフラミンゴのされたことを悲しんでいた。彼らの反応を見たところでドフラミンゴの激情は止まない。それでも、彼の心のやわらかなところが少しずつ癒やされていく。
     母が優しくドフラミンゴの背中を撫でる。そこは散々踏みつけられた場所で、母のたおやかな手のひらですら擦れて痛みを感じていたが、ドフラミンゴは振り払わなかった。家族からの慰めこそが、今のドフラミンゴに必要なものだった。
     太陽は完全に隠れてしまった。欠けた月のささやかな光だけが、労りあう彼らにそっと降りそそいでいた。
    3話 ドフラミンゴの折れた骨がようやくくっついてきた頃、あの日から少女を見かけなくなったと気がついた。視界の端をうろちょろしていた人間がいなくなってドフラミンゴはせいせいしたが、ロシナンテは少し寂しそうにキョロキョロすることが増えていた。

    「あんな奴に近寄っちゃダメだえ。おれがこんな目に合わされたってのに、助けにこなかったんだえ」
    「で、でも、ぼくのことは助けてくれたよ」
    「あいつの気まぐれだったんだえ。人間達に気を許しちゃいけないえ」

     目を覚まさせようとする兄に、弟は「でも」を繰り返すばかりだった。うねる金髪がふわふわ揺れる。その奥にある瞳はきっとドフラミンゴを非難していることだろう。たかだか一回、転けそうなところをフォローされたくらいで信用するなんて、とドフラミンゴは憤る。その度、ロシナンテはあたふたとして、諦めたように黙り込んでしまう。
     最終的にドフラミンゴに言い負かされるのが常であったから、この時もロシナンテは兄の言うことに従った。ドフラミンゴだって、弟の不服そうな顔に気づかない兄ではない。けれども愛する弟と喧嘩をしたい訳でもなかったから、弟の反抗心に目をつむったのである。


     その判断が間違いだと思い知ったのは、それから少し経ったある日のことだった。
     ロシナンテが突然「街に行こう」と言い出したのだ。怖がりな弟がそんなことを自発的に考えるはずがない、と話を聞いてみると、あの少女に食料のありかを教えてもらう手筈になっているのだと言う。ドフラミンゴの前には出てこないくせに、ロシナンテには会いにきているらしかった。あの女! 純粋な弟に何を吹き込むつもりなのか。ドフラミンゴが嫌だと頑なに突っぱねると、ロシナンテはまた「でも」と言った。

    「兄上だってお腹すいてるでしょ? 食べ物探しにいかなきゃ、ぼく達死んじゃうよ……。ねえ兄上、他の人は怖いけど、あの人なら大丈夫だよ」

     ロシナンテの言いたいことは、ドフラミンゴにだって痛いほど分かっていた。今自分達が命を繋いでいるのは、身を潜めて街のぎりぎりまで探索し、住民達が外で捨てたものをすかさず漁ってきたからだ。そもそも貧しい街から出るゴミなどたかが知れている。食べられる部位が残っているのなら住民達が骨の髄まで確保している故に、ゴミとして出される物体の中にろくなものはなかった。初めの時期は決して口にしないと決めていたそれを、空腹に耐えかねて食べたのは記憶に新しい。それすらも手に入らないことの方が多かったし、何度か民衆に見つかっては甚振られていた。自分の身すら守れない者に弟を守れるはずがなかったのだ。目の前で泣き叫ぶロシナンテを庇えなかった。自分の意識を保つのに精一杯だった。弟にだけはこんな目にあってほしくなかったというのに。
     少女はそんな時ですら見ているだけだった。おもちゃのように蹴飛ばされる兄弟を、民衆の後方からこっそりと観察していた。気の済んだ人間達が立ち去って、兄弟が這う這うの体で帰っていくのを確認しては消えていく。そのことを家族に訴えたところで、「巻き込まれなくてよかった」などと抜かすのだから手に負えない。
     斯くして血を吐く思いをして手に入れた「食料」はかろうじて一家の腹を満たしたが、選びぬかれた上質な物しか食べてこなかった彼らは当然ながら体調を崩した。そうでなくたって母は咳き込みがちになっている。廃棄されていたベッドの残骸をボロ小屋に運び込み、できるだけ母を寝かせているけれども、彼女の容体は悪くなるばかりだった。家族に心配をかけまいといつも通り過ごそうとする痛々しさに、父はもちろん息子達も顔を暗くした。
     「天竜人」の地位を手にしていたあの頃であれば一生体験せずに済んだであろう地獄が、ひたひたとドフラミンゴのそばに迫ってきている。あの街での出来事ですら、地獄の入口でしかなかったのかもしれない、とドフラミンゴは寒気を覚えた。

     それら全てを踏まえたとしても、あの少女に頼ることは癪に障った。あいつは本当に厄介なことをしでかしたらしい。臆病で人見知りな弟にここまで言わせるとは、よほど誑し込んだのだろう。街での食料調達なら自分が行くからと言い聞かせ、弟があの少女と関わらないように、今まで以上に張り付いて守ることにした。弟はそんなドフラミンゴの様子を見てこくんと頷き、少し間をおいてから「わかった」とだけ返した。


     すると少女は攻める相手を変えた。今度は両親から侵食するつもりのようだった。
     食料を得るための金銭など持っていないはずなのに、その日の二人はゴミではない食べ物を手にしていた。萎びたりんご、端がカビたパン、なんらかの干し肉数切れ……。家族四人で食べるにはどう見ても足りないそれを、両親は満面の笑みで兄弟に分け与えた。自分達の分はろくに確保せず、食べられる部分のほとんどを兄弟に差し出した。

    「ドフィ、ロシー、ゆっくり噛んで食べるんだよ」
    「うん……父上、これ、どうしたんだえ?」
    「……優しい人が分けてくれたんだ。ありがたく頂こう」

     その時の父の嬉しそうな顔といったら! とはいえ、ドフラミンゴも久方ぶりのまともな――異臭がしておらず、虫もたかっていない――食料を前にして冷静ではなかった。空腹を満たすことに夢中で、父の言葉を聞き流してしまっていた。
     あっという間に食べ物は最後の一欠片になってしまい、名残惜しくなった段階でようやく、父の言う「優しい人」が誰なのかという疑問を持った。そして、少女の顔が思い浮かんだ。
     嫌な予感がした。自分達に援助をするような者など、そういるはずがない。骨はどうにか治ってきたが、いまだにドフラミンゴの体には傷跡が色濃く残っている。あの日の民衆の殺気立った空気だって覚えている。そもそも、両親が誰かと話しているところなど見ていない。このゴミ山で、ドフラミンゴの目をかいくぐって食料を渡してきたということになる。そう、まるでこっそりロシナンテに接触していた、あの少女のように。
     事実を確かめるべく、ドフラミンゴは鼻息荒く父を問いつめた。父は何が悪いのか分からない、といった風に、あっさりと援助者の正体を明かした。

    「以前から私達を気にかけてくれていた子がいただろう? あの子が譲ってくれたんだ。自分だって生活が苦しいはずなのに」

     少女が眉間にしわを寄せてシカトしていたことを、父は「気にかける」と称した。言葉を失っているドフラミンゴの様子をどう勘違いしたのか、父はほわほわとした雰囲気を漂わせながら話を続け、母まで混ざってきてしまった。うたたねをするロシナンテを抱きかかえ、ベッドでにこにこと笑う母。母のこんな明るい顔を見たのはいつぶりだろう、とドフラミンゴは思った。

    「あの子と出会えて本当によかった!」
    「あの子あの子とばかり言わないで、名前で呼んであげたらどう? せっかく名前を教えてくれたんですもの」
    「ああ、そうだったね。彼女は――」
    「興味ないえ!」

     これ以上少女を称える言葉を聞きたくない。そう示すために大声を出して、勢いよく小屋を飛び出した。引き止める両親の声と、寝ぼけたままの弟の呼びかけが耳に入る。が、ドフラミンゴはゴミ溜めの方がいくらかマシだと振り向かなかった。家族は好きだ、それは変わらない。でも、彼らとの意見の食い違いに辟易していたのも事実だった。
     そういう時に限って最悪は続く。小屋からそう離れていない場所に、あの少女が立っていた。片手に小汚い袋を抱えている。先ほどの話からして、少なくない中身がそこにつめられているのだろう。相変わらずのみすぼらしさにドフラミンゴが苦虫を噛み潰したような顔をすると、少女も意志の強さを表すがごとき眉をつり上げた。
     やっぱり家族と離れるべきではないのだ。ドフラミンゴがカッとなって飛び出す度に嫌なことが起こる。少女と顔を合わせてばかりいる。

    「……それ、父上に渡すのかえ」
    「悪い?」
    「何が目的なんだえ。いくら媚びたって金は出ないえ」
    「へえ、崇められて当然って考えはやめたんだ」

     皮肉たっぷりに返してくるこの少女のことを、ドフラミンゴはやはり好きになれそうになかった。家族は彼女の何を見ているのだろう。いくら人間共の中で比較的マシとはいえ、この少女を褒め称える精神なぞ持ち合わせていない。
     しかし彼女の持つ食べ物には用がある。下手に機嫌を損ねて立ち去られては困る、とドフラミンゴは押し黙った。少女は言い返してこないドフラミンゴをぼんやりと見やり、「強いて言えば」と、そのかさついた唇を開く。同時に、少女がやってきたと気づいた家族が小屋の中から出てきて歓迎の声を上げていた。歓声にかき消されるはずの囁きが少女の口からこぼれた。

    かわいそうだったから

     耳をすませていなければ聞き取れないほどの小さな呟き。同情。憐れみ。生ぬるい少女の目つき。
     その瞬間、ドフラミンゴの脳が理解を拒絶した。全身の血が頭に登っていき、視界が真っ赤に染まって――。

     発言からコンマ数秒のうちに、ドフラミンゴは少女の首元へと掴みかかった。突然の動きにぎょっとした彼女はそのまま地面に引き倒される。マウントポジションを取ったドフラミンゴがその小さな拳を感情のままに振り下ろす。が、少女は即座に意識を切り替えて拳を避けた。力を込めた攻撃が空振りしたことでドフラミンゴに隙が生まれ、少女との攻勢が逆転した。
     そこから先は泥沼だった。慌てて引き離そうとする両親をはねのけ、弟の泣き声は聞こえず、ただひたすらに相手を害することだけ考えた。ここでこいつを仕留めておかなくてはならない。その一心で二人は傷つけあった。

    「な、にキレてんだよっ! 事実だろうが!!」
    「人間のくせに、おれ達を見下すな!! おれは神だぞ!!」
    「知るかよ……! 私は今のお前らの話をしてんだよっ……!」

     民衆からの暴力でついた生傷は治る間もなく増えている。腕にも足にも真新しい怪我が残っていた。物資不足で包帯すら巻けなかったドフラミンゴのそこに、マウントポジションを奪った少女は躊躇なく指を突っ込んだ。ぐじゅ、と嫌な感触に舌打ちをする。
     突っ込まれた側のドフラミンゴはたまったものではない。反射的に身を引いて、無我夢中で少女に当たり散らす。暴れるドフラミンゴからずり落ちた彼女に、技術も何もない拙い蹴りが襲いかかる。かつて傷一つなかった靴の先が少女の顔面へとめり込み、足が離れた途端に彼女の鼻からどろりと血が流れた。彼女の下にいたドフラミンゴの頬に、ぽたりと落ちる。その赤さにドフラミンゴは一瞬ぎょっとしたものの、頬の血を拭う暇も無く少女の攻撃が再開したために何も言えずに終わった。
     最中、少女の口からあふれ出す。発端とは関係ないようでいて、この諍いの根源となる問い。

    「なんでっ!! この国に来た!!」
    「おれだって来たくなかった!!」

     ドフラミンゴの腹を蹴りつけながら叫ぶ少女に、彼はそう怒鳴り返す。少女の長い髪の先をどうにか掴むと力いっぱいに引っ張った。痛みに顔を歪め、少女は腕を振り回す。肘だか手だかがドフラミンゴの顔面に直撃してはからずも手を放した。少女の声が悲痛さを増していく。

    「お前らさえ来なけりゃ、皆大人しくしてたんだよっ!! どんだけ、つらくても、毎日必死に耐えて!! 生きてたんだ!!」

     言葉の一区切りごとに拳が振りぬかれた。いつの間にかサングラスはどこかへ消えていた。露わになった父親似のたれ目が睨み殺さんとばかりに少女を見据え、彼女からの攻撃をしのぎつつも幾度か反撃を試みた。数発、少女の顔に、腹に、固い拳が入る。絶叫が途切れる。

    「だからなんだってんだ!? おれ達がやった訳でもないのに、なんでこんな目にあわなきゃいけない? なんでお前なんかに憐れまれなきゃ――」

     少女の間合いにいたドフラミンゴは彼女の頭突きで一瞬意識を飛ばした。すぐに持ち直して彼女の顔面を掴んでまた地面へと叩きつける。すんなりと倒れてはくれず、少女もドフラミンゴに掴みかかったままゴミまみれの大地に落ちた。
     元々汚れていた服に土がつく。油ぎった髪の毛が地に広がる。そんなことを気にしている余裕もなく、二人は縺れて転がった。ドフラミンゴが少女の髪を引き抜けば少女はドフラミンゴの鼻を狙い、少女がドフラミンゴの腹を執拗に殴るとドフラミンゴは彼女の至るところに噛み付いて応戦した。少女の鼻から垂れる血はすでに乾いてカピカピになっていた。
     そこに天竜人と人間との差はなかった。皮肉にも彼らの戦闘センスは同レベルであった。ほんの少し、スラム街での身の振り方を知る少女が有利ではあったが、ドフラミンゴもその身に受けた暴力から学んでいた。


     戦闘力の似通った争いには終わりが無い。結局、両親が暴れ回る二人を引き離して決着となった。お互い体力の尽きる寸前だった故に従ったものの、まだ二人は血走った目で見つめ合っている。どちらかが負けを認めなくては本当の決着にはならないのだと、子供ながらにそう感じ取っていた。
     ロシナンテのすすり泣きが場に響く。やめて、やめてよ。舌っ足らずなその言葉は、ずっと二人に投げかけられていたもので。幼い弟の声すら届かない場所にいたのか、とドフラミンゴは気まずそうに口を歪めた。
     まだ荒い息を落ち着かせるためか、少女は再度深呼吸をした。真っ赤な顔には汗と血の混ざりあったものが滴っている。が、そんなことはどうでもいいようだった。そして。

    「憐れまれたくねェならそのしけた面やめろや!! この世で一番の被害者ですみたいな顔しやがってよお!!」

     そこまで言いきってようやく彼女は崩れ落ちた。体を抑えていた母が慌てて抱きとめると、こんな状況にもかかわらず少女は小さく礼を述べた。息切れで頭が回っていないからこその、無自覚な振る舞いだった。
     出会った時のように、一家は言葉を失っていた。ドフラミンゴでさえその形相に一瞬息をのんだ。誰も何も言わないのをいいことに、少女はじとりとした目つきで一家を見回し、ドフラミンゴで視線をとめた。サングラス越しに目が合う。殺意を交わす。

    「……私が分け与えてやったのは、お前らが私よりかわいそうだったからだ」

     嘲りの言葉を吐いていく少女の口は奇妙に引きつっている。母の手をするりと振りほどいてよろめきながらも自力で立つことを選んだ彼女は、先ほどよりは冷静さを取り戻したようだった。ドフラミンゴをまっすぐに睨みつけているというのに、声だけは平坦さを保っている。いやに自分の心拍音が大きく聞こえて、ドフラミンゴは耳を塞ぎたくなった。

    「さっさと決めろ。慈悲深い私に頭下げるか、自分達でゴミ漁って生きていくか。どこ探せばいいかくらいはアドバイスしてやる」

     この場で少女が決定権を委ねたのは父でも母でもなく、まだ八歳のドフラミンゴだった。自分とやりあった相手だからこそ、煽りまじりに今後を問うた。そんな少女の口角がわずかに上がっているのを見て、ドフラミンゴは即刻返事を決めた。

    「お前なんかの助けはいらないっ……!! おれ達だけで生きていく!!」

     子供の強がりだと、笑いたければ笑えばいい。ドフラミンゴは引く訳にはいかなかった。ここでこいつに頭を下げたら、最後のプライドすら捨てることになる。もし、仮に、少女に恵んでもらうとして。自分達は下々民に虐げられながら、この少女にまで媚を売り続けなければいけなくなる。彼女の気分次第で自分達の命運が決まるなど、決して耐えられない。
     そうしてこめかみに血管を浮き上がらせるドフラミンゴに対し、少女は「へえ」と鼻で笑うだけだった。

    「ドフィ、彼女には何度も世話に――」
    「父上は黙ってろ!!」
    「そうだよ。私はあんたの息子に聞いたんだから」

     ドフラミンゴの返答を聞いた家族はそれぞれ驚愕の色を見せ、父が思わずといった風に口を出す。しかしすぐに二人から一蹴されてしまい、困り果てた様子で言葉をつまらせた。
     一方少女はドフラミンゴの返事が想定内だったのか、けろりとした顔で鼻を拭っていた。乾ききった血はすぐには取れず、苛立たしげに血液混じりの唾を吐く。吐き捨てた流れで彼女が目線を上げた先に、ロシナンテが立っていた。厚い前髪で隠れているものの、その顔がぐちゃぐちゃになっているのはどう見ても明らかで、さすがの少女もばつが悪そうに顔を背けた。

     誰もが口を閉じた瞬間、波のさざめきがその場を通り抜けていく。その途端、ドフラミンゴが何かするよりも早く、少女はハッとしたように駆け出した。大喧嘩の後とは思えないほど軽快、そして誰よりも速い逃げ足で彼女は去っていく。

    「せいぜい頑張んな!!」

     そんな捨て台詞を残して。ボサボサの黒髪を振り乱し消えていく後ろ姿を確認して、ドフラミンゴはようやく体の緊張を解いた。父もその変化に気がついたのか、抑えつけていた手を弱めて「帰ろう」と声をかけた。
     父の支えもあり小屋へと戻っていく中、ロシナンテは母の足にへばりついて離れなくなっていた。気の小さい弟の前であれだけ暴れたのだ、仕方のない反応である。後で機嫌を取ってやらねばなるまい、とドフラミンゴが床に腰を下ろすと、母がすぐ側に膝をつく。憂いをたたえた顔が彼の瞳を覗き込んだ。

    「ドフィ、怪我をよく見せて……」
    「……平気だえ。この程度の傷、すぐに治る――」

     ぐらり。ドフラミンゴは母との会話中に口内の異変を感じ取った。なんだか気持ち悪い。何かが不安定になっているような……。舌先で口内を探ってみると、前歯の一本がぐらついていた。あまりいじると抜けてしまいそうだ。そのことを母に伝えれば、喜びと悲しみとが混ざりあったような笑みを浮かべた。

    「子供の歯が抜けるのね。ドフィがまた一つ大人になった証拠よ」

     大人になるというのは確かに喜ばしいことなのだろう。しかし、喧嘩が原因で、しかも正確にはあの少女によるものだと思うと、どうにも喜ぶ気にはなれない。今になって痛みが増してきた全身を縮こまらせながら、ドフラミンゴはそんなことを考えていた。

    ***

    「兄上、やっぱりちゃんと話そうよ」
    「静かに! あいつにバレるえ」

     ひそひそ声で密談する兄弟のことなど気づかずに、少女は黙々と街を歩んでいる。小屋一つくらいの距離を保って彼女の後を追う。なぜか少女が人間達の目の届きにくいルートを辿っているおかげで、兄弟は一度も殴られずに街に入り込んでいた。
     先日の件以降、ドフラミンゴは街での食料調達を目論んでいた。けれども簡単にできるのならとっくにやっているはずである。街の構造すら把握していないドフラミンゴにとって、一歩入れば大怪我は免れないエリアだった。そこで、街暮らしをしている少女を思い出す。ちょうどよく、街の外を散歩している彼女が目に入る。
     助けはいらない、と言った。それは直接的な援助の話であって、こちらが勝手につけていくのは別なのではないか。あいつを利用して街の中を知る分には問題ないのでは。そうして自身のプライドと状況の切実さに折り合いをつけたドフラミンゴは、一人で彼女を追跡していくことにした。はずだった。

    ナマエと仲直りするの? ぼくもいっしょに行く!」

     仲直りなんかする訳ない。危ないから母上と待っていろ。ナマエって誰だ。というかいつの間にあいつの名前を呼ぶほど親しくなったんだ。そう質問攻めするドフラミンゴに、ロシナンテは「行くったら行く!」と駄々をこねてきかない。大人しい弟がこんなにも粘るなんて、と驚いて、珍しく押し負けたのが数十分前。弟を説得しようとしている間に去っているのではと思ったが、少女は道端の草に夢中になっており、たいして移動していなかった。
     ふと少女が立ち止まる。薄暗く人通りの少ない場所に、ゴミ袋が積み重なっている。破れた部分から漂う臭いが鼻をつくが、彼女はものともせずゴソゴソ漁っては中身をあらためていた。一つ二つめぼしいものをくすねると、少女はその場を離れていく。路地の向こうに消えたのを見計らって、ドフラミンゴ達はゴミ袋に飛びついた。ゴミはゴミでも街の外よりはマシなものが入っている。慎重に選べば母にも渡せるかもしれない。弟に急かす言葉をかけながらも、ドフラミンゴは生きるために、汚れにまみれてでも腹を満たそうとしていた。
     それは、「天竜人」として敬われていた存在とは思えない姿だった。弟以外いないから、と自己暗示のように脳内で繰り返すドフラミンゴのことなど、きっと誰も見ていないのだ。
    4話 部屋の隅に追いやられるなんて、これまで生きてきて一度もなかったのに。ドフラミンゴは憎たらしい少女――ナマエをサングラス越しに睨みつける。ナマエはその視線に気づいているにもかかわらず、素知らぬふりをしてロシナンテを肩に乗せていた。
     無論ナマエとて積極的に肩車をしている訳ではない。街の外をうろついていた彼女を、ロシナンテがねだりにねだって小屋まで連れてきた(先日の件で恐怖の対象になっているはずだが、なぜか親しげであった)挙げ句、歓迎ムードの両親と共に戯れだしたのである。
     困惑したのはドフラミンゴだけではなかった。連れてこられた当の本人も意味不明だという思考を隠さず顔に出していたし、居心地悪そうにあちこち見回していた。先ほどから数分おきに「私帰る」と言っては「まあまあまあ!」と押しとどめられるというのを繰り返している。
     おかしい。息子と殴り合いの大喧嘩をした相手への態度にしてはあまりに友好的すぎる。いくら能天気な両親だからといって、あの騒動からそう日にちも経っていないのにこれほど歓迎できるものなのか。
     頭を悩ませるドフラミンゴと同じくらいしかめっ面のナマエは、頭上できゃあきゃあ喜ぶロシナンテに声をかけていた。

    「ねえもういいでしょ? 降りなよ」
    「もうちょっと!」
    「……おい」
    「遊び相手を欲しがっていたんだ、付き合ってやっておくれ」
    「はあ……」

     ドフラミンゴへの態度とは打って変わって、弟や両親の押しにはずいぶんと弱い。もしねだったのがドフラミンゴであれば、彼女は舌打ちと同時に蔑みの目を向けるか、あるいは怒りを煽るための言葉をあげ連ねることだろう。それなのにロシナンテがナマエの顔をペタペタ触ってもはねのけないし、父にだって恨みがましい目を向けるだけにとどめている。クスクス笑う母の様子を横目に伺う余裕すらあるようだった。

    「あんた、ずっと寝てるけど体調悪いの? 咳もひどいし」
    「ええ、でも心配いらないわ。うつさないようにするから、気にせず遊んでいてね」
    「……うん」

     母の弱々しい声を聞き、少女は静かに頷いた。言葉の合間に咳込んでは苦しそうに微笑む母を、ナマエの静まりかえった瞳がうつしていた。
     母の体調はあれ以降も酷くなる一方だった。ナマエとの大喧嘩以前はまだ出歩くこともできたのに、今ではベッドから降りることもままならなくなっている。原因なんていくらでも思いついてしまう環境だからこそ、母は決して誰も責めなかった。自分の体の弱さを申し訳無さそうに謝っていた。母は何も悪くないのに。こんな目に合わせる人間共が悪いのに。
     一番の元凶である父は今さら聖地の住民に助けを求めたが、すげなく断られている。通話相手の冷ややかな声からして、救援なんてこないのだろうとドフラミンゴは察していた。――どうして。人間になるというのはそれほどに罪深いことなのか。だから母は死の淵にいるのか。
     汚れた場所で助けもなく弱っていく。母はそんな罰を受けるような存在ではない。何もかも満ち足りた場所で、傷つけるものなんて一つもない世界で、穏やかに微笑むのが似合う女性が今、刻々と命をすり減らしている。幼いドフラミンゴだって、母親の死が目前に迫っているのだと勘づいていた。それが、自分達にはどうしようもないということも。
     母を見つめるナマエの心境なぞ、ドフラミンゴには見当もつかない。少なくとも今は大人しくしているように見えるが、いつ弱りきった母を平手打ちするか分かったものではない。ドフラミンゴは空間の気まずさにじっと耐えながら、何が起きてもすぐ取り押さえられるようにと目を光らせていた。

     ナマエはロシナンテを宥めすかし、両親と一言二言交わした後にようやく解放された。彼女は去り際にドフラミンゴを睨むことを忘れなかった。バチバチと音が聞こえそうなほどの鋭い視線を、互いに投げあう一瞬。決着がつかないまま終わったあの喧嘩は、二人の間でまだ続いていた。

    ***

     少女がいなくなったのを見計らって、ドフラミンゴはようやく口を開いた。

    「なんでそこまであいつに優しくするんだえ?」
    「そりゃあ、彼女が優しい人だからだ。私達も同じくらい優しさを返したいんだよ」
    「はあ!? おれを殴ったんだぞ!?」
    「……ナマエはな、あの後私達に謝りにきたんだ。怖がらせてごめんなさい、とね」

     おれには!? 思わず叫んだドフラミンゴを、父はたしなめるように抱きしめた。子供扱いするなと暴れる息子を撫でながら、「喧嘩をしているから嫌だ、と言われてしまったんだ」と呟く。ひどく残念そうなその発言から、きっとあの少女に食い下がったのだろうと想像がついた。
     ドフラミンゴとて、本気で少女からの謝罪が欲しかった訳ではない。いや、土下座させたい気持ちは山々だが、するはずがないと知っている。殺意を滲ませた視線が、煽るような小馬鹿にした笑みが、ナマエの心情の全てを物語っているのだから。
     それらを直接受けたことのない家族は、ドフラミンゴの態度こそが不思議でならないようだった。彼らにとってあの少女は、つんけんしてはいるものの親しみやすい相手として見えているらしい。

    「ドフィ、仲直りをする気は――」
    「ない!!」
    「そうか……」

     息子の絶対引かない姿勢を見て、父は予想がついていたとでも言うように微笑む。子供同士の喧嘩だから、とでも思っているのだろう。あの日の少女の叫びを聞いていたはずなのに、父はこうして笑っている。自分達が命がけで殴り合ったのを見ていたのに、ただの子供の喧嘩として認識している。こういう時、ドフラミンゴはどうしても父との断絶を感じずにはいられなかった。

    ***

     ロシナンテを置いて食料調達に出かけた日、ドフラミンゴは運悪く人間達に見つかり、また傷を増やした。それでも軽傷で済んだから、と立ち上がって路地裏の探索を続ける彼を、いつもの如く少女が眺めていた。動き出したのを見届けて、立ち去ろうとするところまでがパターン化している。けれど今回は彼女が去るよりも先に、ドフラミンゴは苛立ち故に問いかけた。

    「暇なのかえ?」

     彼が話しかけてくると思っていなかったのか、ナマエはぽかんと口を開けた。街のざわめきが遠く聞こえる。大通りの明るさに対して、二人のいるここは薄暗さに包まれていた。
     気を取り直したナマエの顔はたちまち引きつり――笑顔に見えなくもない――めいっぱい嘲りをこめた答えが返された。

    「そんな訳ないじゃん」
    「じゃあさっさとどっか行け。邪魔だえ」
    「あんたさあ……そんだけボコボコにされて、よく偉そうなままでいられるね」

     もはや感心するわ。本気でそう思っていないのが丸分かりの声色で少女が言う。周囲に聞かれたくないのかその声はひそめられているが、ドフラミンゴの耳にはしっかり届いていた。
     絶え間なく与えられる暴力により完治することのない傷が、彼の意識を苛んでいる。ナマエとの会話による煩わしさと、一歩進むごとに痛む体は、ドフラミンゴの表情を険しくした。彼女はそれを見て、冗談めいた口ぶりで唆してくる。

    「助けてって言えば考えてあげなくもないけど?」
    「死んでも言わねェ……!」
    「じゃあ死んだら教えて。助けてあげる

     意地悪く口角を上げるナマエは今日も今日とて忌々しい。ドフラミンゴが強く反発する度、ナマエはきゃらきゃら笑うか、乾ききった笑みのどちらかを示した。他の家族には見せない本性を、ドフラミンゴの前でだけ晒しているかのようだった。なぜ態度が違うのかいまだに理由を知らないが、どうせたいしたことではない。脳内の容量を割くだけ無駄だ。
     威嚇のための舌打ちすら、彼女をさらに喜ばせる。ドフラミンゴがもう一度「どっか行け」と唸ったことで、ようやくナマエは目を細めて消えた。


     不愉快な少女が去った跡に、見慣れない紙袋が落ちていた。恐る恐る近づいて確認すると、中には薬らしきものがそのまま入れられている。何かを破ったような紙きれに、「飲ませろ」と乱雑な文字。あいつは読み書きができたのか、という驚きと、ナマエの意図を察したことによる困惑がドフラミンゴを襲った。
     薬と共に、薄汚れた小瓶も入っていた。透明な水が注がれたそれは、まるで薬を飲むときに使ってくださいとでも言うかのように添えられていた。ここに来てから透明な水にありつけたことはほとんどない。かき集めた雨水だって透き通っているとは言えないこの土地で、これほど純粋な水を手に入れるためにどれだけの手間がかけられたのだろうか。かつて当たり前のように浪費していた安全な水の価値を、この地獄に来てから、ドフラミンゴは嫌というほど理解してしまっていた。
     そして、食料のみならず少量でもこんなものを自分達に譲る少女のことは、一切理解できなかった。
     あの時、「憐れんでいる」のだと彼女は言った。だからといって、自分だって貧しい暮らしをしているナマエがそう簡単に用意できるものではない。当然薬だってここでは貴重なはずだ。母の体調を万全にするには足りずとも、今の自分達には喉から手が出るほどに欲しかったもの。金を失い、拙い盗みの技術ではどうあがいても手に入らなかったもの。
     度重なる民衆からの暴力を受け、さすがのドフラミンゴも自分達が崇められる存在でなくなったと承知していた。天竜人であることがここでは罪となる。たとえ天竜人を降りたとて、天竜人として生まれた事実は消えず、何もしていないはずの自分達に全ての罪が背負わされ、身を守る術だけが失われる。少女だって、ドフラミンゴ達に罪を背負わせる側なのだ。あの憎しみに満ちた顔と攻撃的な態度からして一目瞭然。それなのに、なぜ。

     考えても仕方のないことだ、とドフラミンゴは頭をふった。あの少女の言動は「憐れみ」からきている。本人がそう言っていたのだから、それ以外ないだろう。真相究明が面倒な動機に頭を悩ますよりも、この薬を母に渡すのが先だ。
     そうして小屋に戻ろうとして、ふと彼の脳内に最悪の事態がよぎる。この薬は、いや、そもそもこの水だって安全なものなのか? もしナマエのこれまでの態度が演技だったのなら、親切のふりで毒を混ぜることだってあり得るのではないか。体力の落ちた母に毒なんて飲ませたら、彼女はいよいよ死んでしまう。
     でも、この水が本当に安全なものならば。病床の母にせめて飲ませてやりたい。そんな二つの可能性の間で揺れ動き、ドフラミンゴは決意したようにごくりと唾を飲み込んだ。

     小瓶を開け、ほんの少し、口を湿らす程度に水を含む。ドフラミンゴの小さな口は数滴の水分でも喜んで受け入れ、口内をささやかながら潤わせた。飲み干してしまいたい、と思った。天竜人であった頃ならば、コップ一杯どころか体の何倍もある風呂すら満たせたというのに、今のドフラミンゴにその自由は無い。生命の維持に必要なそれすら取り上げられたこの身は、ひと思いにこの小瓶の水を飲んでしまって、少しでも乾きを癒やしたいと願っていた。その欲求から必死に目を逸らし、すぐに口から小瓶を離す。

    「……毒は、入ってないみたいだえ」

     自分に言い聞かせる。これは毒味なのだと。奴隷にさせていたことを自分がやる羽目になっているのは屈辱的だったが、少女からの施しをそのまま信用するよりはマシに思えた。施しではなく、尊いこの身への献上品だと思えばいい。自分達にはそれを受ける価値がある。毎日誰かに痛めつけられ、ゴミを漁って生きていくことになった現状から目を背け、ドフラミンゴはそう考えることにした。そして、効くかどうかも分からない薬を片手に病床の母の元へと急いだのである。
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    2023/01/21 23:13:06

    1話〜4話

    サイトに載せてるドンキホーテ兄弟幼馴染女夢主
    幼少期編sideドフラミンゴ
    【注意】夢主の言動がカス

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      一家が火あぶりにされたりドフラミンゴが父に銃を向ける回。これにて1章完結です。

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