香奈と環の物語養子になり四月一日香奈と名を改めるまで、彼女は環・ドルトン・ラーンと呼ばれていた
彼女は本人も大きくなるまで知らなかったが、DC児(ドナーの配偶子を介して生まれた子ども)だった
比較的裕福な両親のもとに生まれ、同じくDC児の知的障害の弟と共に小学生のころまで家族で暮らしていた
環たちの母は妊娠能力があったが父親の方が不妊で、二人は長いこと治療をしていた
環が妻のお腹にいると分かったとき、父親は涙を流したほどだった
ある大学病院でのDC(ドナーを介した生殖医療)で生まれた環は、ほんの赤ちゃんのころから理数に興味を示した
医師の診断で環がASD児だと分かったとき父親は、環はギフテッドだと言って、おれに似てると喜んだ
母親はじぶんが責められているような複雑な微笑みを浮かべたがかき消し、それに頷いた
環の弟も同じ大学病院で生まれた
彼は知的障害があり、身体が弱く、よく風邪や肺炎にかかった
しかし彼には環以上のはっきりとした数学の才能があった
彼のことも、父親は愛した
けれどそんなある日、環が図書館から帰ってくると、母親が廊下の隅にへたり込んでいた
不穏に思い環が居間に入ると、そこには鬼のような形相の父親が包丁を持って立っていた
環たちは生殖医療で生まれた
しかしこのことは何と子供たちには隠されていた
しかも父親は、我が子らのことをDC(ドナーを介した生殖医療)、AID(ドナーを介した人工授精)ではなく、じぶんの精子を使った人工授精AIHで生まれた子達と今の今まで思っていた
だが、使われた精子は実は父親のものではなく、大学病院の選んだ他人のものだった
母親は長い間それを他の家族に隠していて、ついに今日、ばれてしまったのだ
しかしそんな事情など知らない環には何が何だか分からない
とにかく父親から逃げなくては……
喉の渇きで香奈は目覚めた
大人になり、役職に就き、悠々と都会で独り暮らしをする今でも昔の夢を見てうなされることがある
香奈は台所へ行き、大きなマグカップに水を注ぐと一気に飲み干した
あの日から香奈の家庭は少しずつ更にめちゃくちゃになってゆき、ほどなく香奈と弟は施設で暮らすことに決まった
香奈は早くに養い親が決定したが、弟は取り残されてしまった
弟はやがて肺炎になり、独りで亡くなった
香奈を引き取ったのは独身の研究職の男性で、本当は海洋生物学で食べたいがそれが叶わないのでボフィン(軍の研究者)をしているという少し変わった人だった
動物好きで、蛋白質は主に豆で摂っていた
部屋は少し散らかり気味だったが、喫煙や飲酒や賭け事、暴力はなかった
香奈を養子に貰うための養い親の講義もきちんと出席し、養子やDCなどに関する本を何冊も読んだ
生真面目で素っ頓狂で面白い人だったなあ
香奈はマグカップをテーブルに置き、くすくす笑った
なのにどうしてあの人……四月一日コダマ(わたぬきこだま)ハカセは、あんな亡くなり方をしなくちゃいけなかったんだろう
ハカセはボフィンをやって生計を立てていたが、何かが軍の気に触ったのか、それとも彼の研究にどこかが目を付けたのか、ある日自宅で殺害されて見つかった
香奈はその遺骸を発見してじぶんも身の危険を感じ、高校生活を捨て、旅に出たのだった
香奈は家を出るまで髪を腰くらいまで伸ばしていた
ハカセと一緒にチューンナップしたAIつきの小鳥型ロボヘアドライヤーが飛び回りあっという間に乾かしてくれるので、ロングヘアでも管理がしやすかったのだ
だが、放浪生活ではそうはいかない
香奈はじぶんで髪型をボブにして、その時期を過ごした
香奈はため息をついた
放浪していた頃のことまで思い出してしまった……
しかしすぐに気を取り直して電脳を立ち上げ、画像フォルダの星マーク付きを見始めた
髪の長い中高生くらいの痩せた少女と、その父親達が映った写真が現れた
写真の中の少女は、屈託ない笑顔だったり、いじけていたり
香奈はかつてこの家庭のために代理母の仕事をし、その給金で大学に通い、博士号も取った
少女の名はルリという
父親は御薬袋(みない)潤という物書きだ
彼は元々は国家公務員だったのだが、若くして退職した
潤には親友の徳大寺実人という同級生がいて、香奈たちのための情報収集、施設の手配などおおよそのことをやってくれた
香奈は徳大寺を見て過ごす内に、ああこの人は御薬袋さんが好きなんだなと分かった
わたしが仕事を飛び越えて御薬袋さんの妻になってしまったりしたらどうしようかと、いつも恐れている
でもそれでも、努力してフェアに接してくれている……立派な人だ
そう感じながら香奈は過ごした
徳大寺の尽力もあり、ルリは恵まれた設備のもとに生まれ、1年ほど香奈と一緒の病室で暮らした
代理母の仕事は現代でも賛否両論ある
香奈たちの生きる世界・時代において、代理母は国家主導で増加した
今では香奈たちの暮らす国は人類の種の箱舟とも言われるほどの遺伝子や配偶子の情報の蓄積があるらしい
怖い夢を見たのは仕方ない
まあ、週末はルリちゃんと面会があるんだもんね
楽しいことを考えようっと
香奈は布団に入ると仰向けになり、背中と布団の間に掌を挟み込み、ゆっくりと呼吸した
環と呼ばれていた頃、そしてハカセと暮らしていた頃、彼女には夢があった
それは宇宙開拓者になって、じぶんを知る人がいない場所で幸せに暮らすことだ
だが現在、香奈はレガシーと呼ばれる昔の電脳の整備士をしている
全然関係ない仕事じゃないかと他人は言うだろう
でも彼女には、コネクティングドットが見えるのである
(完)