実人の物語ほんとの所なんてそんなの、訊けるわけないじゃない
思わず呟いた途端、後から後から涙が出て来て、僕は俯いて手の甲でそれを拭った
からかってきた子たちは慌てて退散してゆく
先生から頼まれた用事で席から離れていた御薬袋(みない)君がいつの間にか戻ってきて、胸元のポケットからイニシャルの刺繍の入った薄手の白いハンカチを出し、これまだ使ってないやつだからと僕に手渡してくれた
天使かよ
僕はゆっくり涙を拭き、鼻をかみ、洗って返すねと小さい声で言って、お宝(御薬袋君の胸元で温められたハンカチ)を丸めて制服の半ズボンのポケットに押し込んだ
御薬袋君は僕が泣いていても、軽蔑するでもなくいじるでもなく、苛立ちや困惑すら見せず、涙は出ちまうもんだからしゃーないと言ってただ傍に居てくれる
そして僕の嗚咽が落ち着いてくると、ポケットからこっそりトローチを出して、手にそっと握らせてくれるのだった
御薬袋君が転校してくるまで、僕は学校友達がいなかった
今、なぜ僕が御薬袋君の友達かというと、転校してきたばかりの御薬袋君に学校や街のことを案内したのと、僕がおとなしくて御薬袋君と張り合うようなことがないからじゃないかと思ってる
御薬袋君はお母さんの実家が大きな企業グループをやっているらしくて、いわゆるお坊ちゃんと言えるだろう
日常の身体の動作が美しくて、小さい頃にバレエでもやってたんじゃないかと思わせるし、発声そのものや歌も堂々としていて上手い
それに僕がパパのことでチクチクと同級生に言われると、どこからともなくやってきて大丈夫にしてくれる
御薬袋君は勉強もスポーツも優秀でみんなに一目置かれているから、彼が来てまでしつこく揶揄われることはなかった
やがて僕は、御薬袋君といつも一緒にいるようになった
僕のママはシングルマザーだ
小金持ち(とよくディスられる)のおっとりしたお嬢さんで、留学したり海外で働きながら勉強したりして、なんたらかんたら機関で勤めている時に僕のパパと出会い、僕を妊娠し、独りで帰国して出産した
そしてそのまま母国で僕を育てながら、テレワークしている
いつだったか土曜日の午前中、お茶の時間のためにママとクッキーを作っているときに、勇気を出してパパのことを訊いてみた
するとママは、笑ってこう言った
実人ちゃんのパパ?
そうね、南の島の王族の血を引いていて、背が高くて、発音が綺麗で、物知りだったわ
それを聞いた瞬間、ママは国際ロマンス詐欺に遭って僕を産んだのかもしれないと感じてしまい、心に痛みが走った
ママは仕事上よく読書する人で、家には紙の本もいっぱいある
仕事の本以外で取り分け多いのがロマンス小説で、国内外のものがママの広い仕事部屋の本棚いくつか分を占拠していて、僕はいつからか密かにそれに少し困惑していた
ママは頭はいい
物語と現実の区別がつかない人では決してない……と思う
それだけに、うっとりとした目でパパについて話す様子を見るのが辛かった
僕の肌は日焼けしていないのに元から少し浅黒い
髪の色も明るい
瞳の色も焦げ茶や黒ではない
ママにはあまり似ていない
ママには言わないけど、皆にあまり馴染めない
このことを怨んだことはない
だけど辛い
とても辛い
あまりに周りの人達にパパのことを訊かれたり探られたりするので、僕はいい加減疲れてしまった
プライベートど真ん中じゃないか
それだけじゃない、国語の成績がいいとビックリされるし、漢字が書けるなんて凄いねと褒め(?)られたり、習字がちょっと出来ると睨まれたり、学校の外でも英語やフランス語で挨拶されることがある
みんな学校でハラスメントとかについて勉強してるんじゃないの?
僕の見た目はみんなの仲間には相応しくないってことかよ
何時代だよ
そんなに珍しいか?
慣れっこだけど、いつまで経っても不快だ
12月のことだった
何でまだ僕の傍にいてくれるの? もう学校のことも街のことも僕より詳しいじゃない
僕は、御薬袋君に率直に言った
ママが作ってくれたおやつを食べながら、二人でボードゲームをしていた時だった
御薬袋君は心理戦かよーと笑い、すんなりこう答えた
おれのハハオヤは姉妹がいて、その妹の方の叔母というのが、おっとりしててピアノが弾けて菓子作りが上手くて優しくて美人で……なんかお前んとこのおばちゃんに雰囲気が似てるんだよ
それに、と御薬袋君は付け加えた
弱いモノイジメは好きじゃない
内容のストレートさに対して、呟くようなあまりにのんびり淡々とした話し様なので、指先からゲームの駒が落っこちた
弱いモノ…イジメ…あのう、その弱いモノって僕のこと?
僕はきゅっと口元を結び、狼狽を出来るだけ隠して駒を拾い上げた
御薬袋君はゴメンとこぼし、それ以上は口にしなかった
それから僕らは何事もなかったかのようにゲームをやって、他愛ない話をしてげらげらと笑い、本を読んだり、面白い動画を視たりした
あっという間に時間は過ぎていき、やがて刻限が来て、御薬袋君は帰って行った
弱いモノ扱いの件はおいといて、御薬袋君の叔母さんについて詳しいことは調べればすぐ分かることなのかもしれないけど、どうしてかそれはしたくなくて、ひんやりとした布団に潜り込んで電子毛布のスイッチを入れた
きっと御薬袋君は話に出て来た叔母さんのことが好きなんだろう
似たタイプの僕のママや、その息子の僕がバカにされるのに耐えられなかったんだ
目の前で親戚がいじめられてるような気持ちがして、助けてくれていたのかな
僕は返しそびれ続けているお宝(洗濯とアイロン済の御薬袋君のハンカチ)をポケットから取り出して、目を閉じてほっぺたに当てた
ほのかな温さは、あの時の御薬袋君のハンカチから感じた体温を思い出させた
僕は御薬袋君が好きだ
でも、御薬袋君の傍に居たいならそれは内緒にしないといけない
流石に確認はしていないけど、彼のような身分の人というのは、進学先も結婚相手もだいたい周囲の逆らえない影響力の強い親族たちに決められてしまっていることが多い
よっぽどいい相手をじぶんで探してこないことには、恋愛結婚は難しいだろう
周囲の思惑の邪魔をしたら、僕はそこからずっと、御薬袋君の傍には居させて貰えなくなる
排除されてしまう
溜め息をついて、僕は布団の中で言った
サンタさん、クリスマスのプレゼントに物は要らないから、一生、御薬袋君の傍に居させてください
いい人間になりますから
閉じた目から、また涙がこぼれた
◇ ◇ ◇
あのクリスマスの願い事から三十年近く経った
あれから僕は必死に勉強して御薬袋君と同じ進路を選び、一緒に国家公務員になった
今は御薬袋君は退職して物書きをやっていて、僕は仕事を続け、最近また昇進したところだ
数年前、御薬袋君は人間ドックの結果が少し良くなかったお母さんに、アンタの赤ちゃん見てから天使にお迎えに来て欲しかったわと泣かれ、おまけにアンタこのままやとホンマモンのオールドバチェラーになってまうで! 気はええけど何やってるか判らへん胡散臭い親戚のオッサンや! とつつかれて激怒し、上等じゃ! ほな子どもが生まれたら文句ないやろが! とタンカを切ってしまい、代理出産に取り組んだ
締め切りを抱え追い詰められた物書き同士の、醜い諍い
よくあること
まあ昔から親子で居ると相性のせいか沸点が低い人達なんだけど、切り離すと魅力的なんだよな
だから僕も傍に居続けられる
さて
代理母を担うのは、御薬袋君が見つけてきた四月一日香奈(わたぬき・かな)さんという勉強が出来る美人で……僕は危機感を覚えた
御薬袋君はアラサーになっても未婚だったけど、別に女性が嫌いというわけではない
綺麗な人が歩いていると目で追うし、ダンスの場でも変に選り好みせず気さくに色んな人と楽しく踊れる
良い意味で守備範囲が広いというか
もしも四月一日さんに御薬袋君が惚れてしまったら、どうする?
人生の一大イベントを、手を携え苦難を乗り越える訳で
僕は怯えていた
四月一日さんは以前はホームレスだったという
御薬袋君の説明では、元々はいいおうちのコなんだけど親に捨てられて、養子になって、そこで養い親が亡くなり、なんやかんやあって進学出来ず放浪していたとか
大学全入と言われだしたのがはるか昔というこの時代に、高校中退つまり中卒
学歴差別はしたくないけど、僕は少しショックを受けた
が、気を取り直して四月一日さん自身を見ると、意思のある綺麗な目をしている
受け答えは若い女性にありがちなかん高く作ったキンキン声ではなく、落ち着いた声ではきはきとしている
喋り方は訛りやクセがほとんどない
身なりも小ざっぱりと整え、出来るだけ礼儀正しくあろうとしているのが伝わる
不潔な感じはしない
それに何か……抑制して、しゃしゃり出まいとしているのが分かるんだ
こんなにも、彼女にとって大変な仕事が始まるというのにだよ
御薬袋君が見つけ出してきたくらいだから、外見だとか勉強だとかの他にもきっと美点があるんだと思う
僕は代理出産の資料の他に、ホームレスや彼女の特性についての本も少しばかり読んでみることにした
彼女はASDでもあるという
図書館で、いつもお世話になっている司書さんたちに助けて貰いながらホームレスや社会福祉、障害や心理の本を読む内に、彼女への印象が徐々に柔らかく変わっていった
まず第一に、努力しないから、不真面目だからホームレスになってしまうのではないこと
周りの人に助けを求められなくて、電話やネットを始めとしたライフラインを手放し、転がり落ちていってしまう孤独な人達が沢山いること
感音難聴の苦労のこと
ASDについては、これまで僕の中のイメージとして、勉強が出来る皮肉屋の風呂嫌い、みたいなのがあった
目が合わず発言タイミングがぶつかるのが重なり腕組みをしたり腰に手を当てたりして偉そうにしているように見えても悪気はないとか、知識としては分かるけど感情や生理が納得しにくい部分の謎解きがされていって、びっくりした
女性のASDについても数は少ないが本があったので読んでみた
ページをめくる内に、四月一日さんのような特性の女性が放浪して独りで生き抜くのがどれだけ大変か、よく御薬袋君と契約する気になってくれた、もう一度僕たちの側と付き合おうとしてくれたと強く感じた
そしてこれはオマケだが、過酷な環境下では元はどんなに優しい善良な人でも影響を受けていびつになり、悪態を付いたり、良くない選択をしてしまう事があることも分かった
これに関してはちょっと大学でも習ったけど、でも色んな本に書かれていた
すると、四月一日さんの代理母になるという選択は?
僕はうむむと唸った
近年、代理母の仕事をデメリットについても詳しく描いた本が出版されている
選択と集中、情報収集が出来る階層の人達は産む仕事をする側ではなく発注する側に回ろうとする
四月一日さんは、この選択をちゃんと落ち着いた気持ちで出来たんだろうか?
僕は他人にそれは搾取だと言われてもいいから、四月一日さんに御薬袋君を助けて欲しい
そしてこの取引を出来る限り、世間のいう搾取そのままにはさせないように、二人の架け橋になれたらと思う
僕は男性だから、向こうからしたらてんで綺麗事だろうけどさ
でも四月一日さんを見捨てたくないのは本当だ
幸せになって欲しい
御薬袋君の妻や愛人になるという方法以外で
それにしても
なんだよこのヒト、と言いたくなるような人たちにも内側には無数の事情の塊がある、か
要は、昔、僕をいじめた子達にももしかしたら悲しい事情があったかもしれないということだ
だからといって過去に僕に酷いことをしてきた人達を赦せるかというと、どちらかと言えばこの世から速やかに出て行って欲しい、それが出来ないならば僕の人生に二度と出現しないで欲しいというのが本音だ
さもなくば、鍛え上げたこの身体で関節技をお見舞いしてやる
入場曲の準備は出来てるぞ
……まあ、四月一日さんのことを人間的に好きになるとまではいかないまでも、困難を乗り越え生き直そうとしている苦労人として素直に捉えられるようになってきたのは、幸運だったと思う
四月一日さんについて色々読書することで思わぬ学びがあり、僕は以前よりひとまわり大きな人間になれたかもしれないと感じている
何というのだろう、何故かは分からないけど、弱い人達のことを知ったら僕の人生にかぶさっていたモヤが少し良くなったような気がして
上手く言えないな
◇ ◇ ◇
そう
弱い人の気持ち
努力が報われない、努力が身内にせせら嗤われ踏みにじられる環境、何をやってもどうせ無駄なんだと何もかも放棄したくなるような人生が現実にあることを知ったから、僕は出世が叶ったんじゃないかと考えている
おじちゃまー!
甲高い声が聞こえ、脚に小さな女の子、ルリちゃんがぶつかってきた
ルリちゃんは今日、御薬袋家での家族内でのクリスマスパーティーで四月一日さんと面会する
プリンセスのドレスを着せて貰い、幼児でも遊べる特殊素材の柔らかなぷにぷにステッキを持ったルリちゃん
御薬袋君と同じ色の大きなおめめで、じっと僕を見上げている
カナちゃ(四月一日さんの下の名前は香奈という)、もうすぐおウチちゅくって!
ルリちゃんは、カナちゃがきたらおてまみ(お手紙)わたす! と張り切っている
おてまみは四月一日さんとルリちゃんの絵が描かれ、とっておきの可愛いシールでデコレーションされていた
四月一日さんとは、ルリちゃんが小さい内は面会の機会を季節折々に設ける契約だ
そこからどうするかは御薬袋君がルリちゃんと話し合いながら決めていくことになっている
僕の方はといえば相も変わらず御薬袋君の友人のままで、当然パートナーシップなどもやらず、子育てに大いに関わらせて貰っているけどもルリちゃんからもおじちゃまと呼ばれている
ルリちゃんが大きくなったら、口さがない同級生に僕のことをあのオジサン何なの、何でお母さん居ないのと言われてしまうかもしれない
その時ルリちゃんがじぶんを責めたり臆したりしないで済むように、小さい内から事情を噛み砕いて伝えるようにしている
料理、だいたい出来たぜ
エプロン姿の御薬袋君がキッチンから顔を出した
お酒を飲みつつ、合間につまみ食いしながら、ディナーを作ってくれていたのだ
こういうイベントごとの時、難しいもんはやらねえぞと言いながらも美味しくてお洒落な料理を準備してくれる
僕も手伝うけど、御薬袋君はやっぱりセンスがいい
はぁ、後ろでキュッとリボン結びしたエプロンが可愛い
尊い
僕の王子……!
おじちゃま、だっこして!
僕は黙ってルリちゃんを抱き上げ、御薬袋君の傍に行った
サンタさんに、いい人間になりますからと願掛けした無力な子どもの頃のじぶんに言ってやりたい
誰かを憎んだり、悪く思ったりしても、それは君が劣っているからじゃない
心を落ち着かせられる好きな物を心の中に集めていって、ひとつひとつじぶんに出来ることを積み重ねていけばそのうち時間は過ぎて、内側も状況も整ってきて、息がしやすい場所に出られるよ
特に本は良い
本は人の学びや思考の結晶体で、機会があればどんなに弱い人間でも手に取れる
難しいところがあって学校や職場で知恵や技術の継承から弾かれてしまう人でも、本は拒まない
開けば読めて、閉じれば余計なことは言ってこない
読むことを本の方からしつこく急かすことはない
いつでも静かに、君を嫌わずに待っていてくれるから
ふざけないでよと言われてしまいそうだけど、そうとしか説明出来ない
でも、人生の晴れ間はきっとやって来る
君を取り巻いていた嵐が去った時、君が闘って取り組んできた物たちの真価が分かるんだ
スマホが鳴った
四月一日さんが着いたんだ
御薬袋君が応対して、エントランスのロックを解除している
ルリちゃんが、カナちゃカナちゃと歓声を上げている
僕はほんの少し胸が苦しい
今でもだ
でも、サンタさんに約束したからね
(完)