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    遠雷 chapter-22
    レイが2人を呼び出したのは曇り空の昼下がりだった。陰鬱な空の下リビングもその影響を受けてかどこか重い空気が広がっている。
    「それでお話というのは…」
    ソファではなくエンジの膝の上に横抱きにされて座っているノアが口を開いた。もうその光景がしんどいが、それでも気力を振り絞ってレイは話始める。
    「あー…なんていうか、しばらく休みが欲しくて…チョーシも良くないし」
    これは本当だ。前と同じように誰も悪くないのはわかっていたが、それでも受け入れられないものはある。
    「そう…でしたか。確かにお顔の色も優れませんし加療が必要かもしれません」
    「……レイいなくなっちゃうの?」
    不安そうにエンジが言葉を発した。端的だが鋭い疑問にレイは言葉に詰まってしまう。
    「──…チョットだけだ。絶対帰ってくるから」
    それを気取られたのかエンジは眉を下げみるみる泣きそうになる。これはマズい。

    「やだ!やだっ…!いなくなるのやだぁ……!」
    「エンジさん……」
    ノアを抱きしめながら湿っぽい声で言い募る。レイがいなくなることを恐れているのか、だんだんと涙声になっていく。
    「かあさまも、とおさまも…いなくなったっ、いらないって…ひっ、く……」
    「エンジ……」
    不幸にも養子に出された記憶は残っていたのだろう。存在を拒絶されることが幼い子どもにとってどれだけの傷になっているのか、想像に余りある。
    「みんな、みん…ないらないって…いう…!オレがきたないか、ら…うぅ…」
    エンジの主張は要領を得ないがそれでも、いまレイが家を離れるのは悪手だとわかってしまった。
    「エンジさん…大丈夫ですよ、大丈夫……」
    「う…のあ……」
    ぎゅっとノアを抱きしめたエンジはされるがままノアに頭を撫でてもらっている。
    「…じゃあこういうのはどうだ?カオは合わせられないケド俺は家で休むとか」
    「……おうちにいる?」
    「モチロン!」
    なにかを確かめるようにじっと赤い瞳がレイを見つめる。疑り深く臆病な視線に嫌ともいえず、ただ見返すことしか出来ない。
    「……よかった…わがままいっ、て…ごめ、んなさ…い」
    エンジの心がいま幾つなのかはわからないが、礼儀正しく義理堅いということだけは痛いほど伝わってくる。
    「ダイジョーブだよ!エンジも疲れたろ?なんか飲むか?」
    「ん…ココア」
    少し恥ずかしそうに俯いたエンジはぽつりと希望を口にした。その不慣れな様子に違和感がある、おそらく4〜5歳の年頃だろうが、もっと自我を出していてもおかしくないはず。
    「ココアな、ノアちゃんは?」
    「ええと…カフェインレスコーヒーをいただきたいのですが」

    こちらはレイの体調を慮ってか気遣わし気な様子である。ノアもエンジも、もっと我儘をいってもいいと思う。
    「おっけ!任せといてー…」
    少しふらつく足を誤魔化して立ち上がると、レイはキッチンへと歩いて行った。

    ………
    ……


    「メルラさんの助力を……?」
    寝耳に水といった表情のノアは予想通り、問題は
    エンジの反応だった。レイがおそるおそるエンジを窺うときょとんと小さく首を傾げている。
    彼女のことは忘れてしまっているらしい。
    「める、ら……?のあ!めるらってだあれ?」
    案の定といえばいいか、エンジはココアをひと口飲むとノアに質問した。
    「メルラさんは私の…ええと、お知り合いですよ。レイさんもそうです」
    「うん、黒い髪に金色の目の女の人だ」
    エンジは燃える火のような赤い目を瞬かせる。不明な点があったのかあごに手を当てて考え始めた。
    「"おんなのひと"ってなあに?」
    「は……?」
    まさか女性を見たことがないのだろうか。たとえ両親が男同士のペアでも街中で見る機会は幾らでもある、そのはずだ。
    「エンジさん、説明より見るほうがはやいと思いますよ。ね?レイさん」
    ノアの助け舟にウィンクで謝意を示したレイは会話のバトンを受け取る。
    「そう!実はメルラの姐さんが明日来てくれる手筈になってるんだ。急なハナシだけど、どう?」
    「………こわくない?」

    そう来たか。メルラ・ダークは決して暴力的な人間ではないが、こざっぱりとした強い物言いをする人物ではある。ノアに視線を送るとこくり、と頷いた。
    「頼もしい方であるのは確かですね。怖いかどうかはエンジさん次第だと思います」
    「……のあもいっしょ…?」
    「ええ、一緒です」
    ぱっとエンジが笑う。その以前を知っているが故にあまりにも無垢で無惨だった、彼の尊厳も記憶もなにもかも壊されてしまったのだ。
    「玄関先で会ってみるのはどう?そしたら怖かった時逃げれるだろ?」
    「ん!そーする」
    泣きそうになっていたのが一転エンジは上機嫌でニコニコしている。ノアと一緒なら大丈夫、という価値観がいまの彼を支えているのだろう。
    「俺チョット休むな…」
    疲労がどっと押し寄せてきて全身が重い。粘り着くような疲労感の中立ち上がるとふら、と足元がふらついた。
    「レイさんゆっくりおやすみくださいね…」
    「れい…おひるね?」
    「そうですよ」
    エンジは心得たように頷くとふわふわと手を振った。その心遣いが嬉しくて痛かった。
    「おやすみ。れい」
    「アリガトな」
    きちんと笑えているかわからないがレイは笑みを浮かべる。エンジが嫌いなわけではないのだ。
    そうしてノアとエンジに見送られながらレイは自室へと歩き出した。
    疲れて、疲れすぎて歩くことすら億劫だ。叶うならこの場で倒れ伏して2度と目が覚めなければ思うくらいには。


    メルラの目の前にある家の第一印象は『金持ちの家』だった。きょうび平家の3人暮らしなど下流ではまず無理だ。マンションよりアパートがアパートより戸建ての方が高いのだが、まさか平屋に住んでいるとは思わなかった。
    表札はないので番地を照合するしかない。そのセキュリティの高さとして不便さはトレードオフだ。不満はないが面倒には感じる。
    そんなことを思いながらメルラはインターフォンを押した。
    ─"はい、どちら様でしょうか"─
    緊張した低い男の声にメルラは口の端を吊り上げる。随分と"らしく"なったようで上司としては喜ばしい。
    「メルラだ。なにか確認するモノが必要かい?」
    ─"いえ、しばしお待ちください"─
    ぷつりと回線が切れる音がしてそれきり無音になる。ノア直に会うのはいつぶりか、声の調子からして背も伸びているだろうくらいには想像はつくのだが。
    そんな想像を巡らせているとガチャリとドアの開く音がした。
    「お久しぶりです。メルラさん」
    メルラと同じ身長の青年が目の前にいる。金の髪を長く伸ばした美貌の持ち主はふわりと微笑んだ。空色の瞳は最後に会った時と寸分の変わりもない。
    「背が伸びたな、ノアくん」
    「本日は来ていただきありがとうございます。エンジさん大丈夫ですか」
    そしてそんな彼のすぐ後ろにいるのが──
    「……めるら、へいき」
    レイから聞いてはいたがこの変わりようはショックを受けても仕方がないと率直に思った。
    慣れていない人間ならなおさらつらいだろう。
    「メルラ・ダークだ。メルラでいい」
    「……エンジ・タチバナです…めるら、よろしく」
    幼い子どものような表情と話し方だが意思疎通は問題ない。
    「リビングに案内しますね。さ、エンジさん行きましょう」
    「うん!きょうはね、ほっとみるくのまーまれーどがいい」
    「わかりました。一緒に用意しましょうね」
    「いっしょ!」
    玄関口を上りながらメルラは2人を観察する。どうやら2人の仲は悪くないらしい。エンジに
    対するノアの対応は極めて自然で拒絶が見られないのが興味深かった。
    普通──というと語弊があるが大抵の場合、レイのように不適応を起こすものらしい。
    とりあえず彼らに従ってメルラもそのあとに続いた。

    廊下もだがリビングも清潔で埃ひとつ落ちてはいない。案内されたとおり3人掛けのソファに座って正面を見た。
    「メルラさん、その…察してくださると助かります」
    「ん、あー…まぁアタシは気になんないから別にいいよ」
    メルラの目の前にはソファに座ったエンジとそのエンジの膝の上にノアがいる光景が広がっている。レイが精神をすり減らす理由がわかる気がした。
    「めるら、こーひー…にがくない?」
    独特の丸眉を下げてエンジが首を傾げた。やや精悍な顔立ちは仔ウサギのように頼りない表情を浮かべている。
    「アタシはこの苦さが好きだからね問題ないよ」
    「んー…そっかぁ」
    どうやら興味を失ったらしく、エンジはホットミルクを飲んでいた。まるきり子どもにしか見えないが、子どもにしては大人しすぎる。単なる人格の変異ではないような違和感があった。
    「メルラさん…?どうかされましたか?」
    「なんでもない。来たはいいがなにすりゃ良いかはいわれてないと思ってね」
    「そうですね……なにかありますかエンジさん」
    なかなか良い根性をしている子どもと大差ないエンジに丸投げするとは。振られたエンジはじっと床を見たあとぽつりと呟くように話し出した。
    「ん?んー…れいがねオレのこときらいなんじゃないかなって……」
    「………」
    レイの場合は嫌悪もあるかもしれないが隔意が主に感じられる。それでもしっかり伝わってしまっているらしい。
    「うん、続けて」
    「やっぱりオレがきたないからだとおもう?のあはそんなこ、とないっていうけど…ふあんで」
    「アタシもノアくんと同意見。別に身綺麗にしてるし気にすることじゃないよ」
    ノアが緩く首を振った。なにか事情があるらしい。すぐメッセージが送られてきた、ノアからだ。
    "エンジさんはご幼少の頃。髪と目の色を『穢らわしい』といわれ、その後養子に出されています。このメッセージは読んだら消去してください"
    メルラの眉根が寄る。しれっと他人の個人情報を開示するのも噴飯ものだ、あとで灸を据えておかねばなるまい。まぁ許可を取れる相手ではないのも確かではあるが。
    「そう…?」
    「あぁ。アタシは"きたない"とは思わない」
    赤い髪は珍しいがとんだ差別主義者だ。ただ見た目が気に食わないだけで一度は望んだ子を捨てたのか。
    「うん…れいもそうだったらいいな……」
    はにかむように笑ったエンジは慈しむようにノアを抱き寄せた。どうやらノアは疲れているのかうとうとしているらしい。
    「なぁ、アンタにとってノアはなんだ?」
    いつかノアにもした質問をエンジにもする。
    「えっ…ええと、うーん……だいすきでだいじで──…オレのぜんぶ」
    腕にノアを囲った満足気な表情でエンジは堂々と宣った。ノアは自分のすべてだとそういった。
    「……なるほどね」
    依存かどうかはわからない。だがいまのエンジを支えているのは紛れもなくノアだ。理由までは流石に聞けないが腑には落ちる。
    エンジはノアの裏表のなさを敏感に感じ取っているのだろう、だからこそ好意を露わにするしこの場でくっついているのだ。他人の機微に恐ろしいほど聡い。
    「ノアくんも疲れてるし、なにもなかったらアタシは帰るけど」
    「うん、だいじょうぶ…」
    語彙自体は限られているが人格の根は以前のエンジとなんら変わらない。
    ソフトウェアのダウングレードといったところか。
    「あぁ…ノアが起きたら連絡してっていっといて」
    「わかった…さよなら、めるら」
    「ん、じゃあね」
    踵を返してリビングを出て廊下を抜ける。
    灸を据えるのはあとにしてメルラは最後に2人を見た。
    赤い髪の男の腕の中で眠る儚げな青年は実に絵になる。だが毎日はごめんだ。
    そのあたりがレイの憔悴に繋がっているのだろう。なんらかの手立ては必要ではある。
    踵を返してリビングを出て廊下を抜ける。玄関口で靴を履いているとふ、と気配を感じた。
    「……なにか用?エンジ」
    「あ、えと…ありがとうっていってなかったから」
    本当に義理堅い。メルラから見ればエンジの本質はなにも変わっていない、いまは怯懦や甘えが強く表に出ているだけ。
    「そう、その言葉は受け取っておくよ。アンタはノアくんの側にいてやりな」
    「わかった…!」
    いうやいなやエンジは駆け出してすぐ見えなくなってしまった。随分とノアに入れ込んでいる、だがここにはレイに寄り添ってくれる人間がいない。
    ノアはエンジのことで精一杯、エンジはノアを優先する。それが一番の問題になっていそうだ。下手をすればレイが過労で倒れかねない。
    溜め息を吐きながらメルラは玄関から外に出た。来た時は快晴だったがいまは濃い灰色の雲が立ち込めている。生暖かい風がメルラの髪を揺らす、ひと雨降りそうだ。

    ぱちん、となにかが弾けてエンジは我に返った。肌に当たるのは暖かな湯とそれが石鹸と一緒に伝っていく感覚。
    「っ!?な、んだ……」
    上手く思い出せない。誕生日をノアに祝ってもらったことは確かに覚えているのだが。それ以外は虫食いになったように欠落していた。
    呆然とシャワーを浴びながら必死に記憶のかけらを掻き集めようとする。それらは手応えもなくエンジの手からすり抜けてしまう。
    「のあ……」
    そうだいま彼がどうしているのか確認しなくては。エンジは泡を落とすのもそこそこにシャワーのコックを閉め浴室から出た。
    湯気の立つ体をバスタオルで拭き、自分が用意したであろう下着とタンクトップを身につける。
    ジャージはもう少し体が冷えてからで良いだろう。
    ──コンコン
    「ノアです、エンジさん。お時間がかかっているようですが大事ないですか?」
    「………ノア?」
    なぜノアがエンジの入浴の心配をしているのだろう。慌ててズボンだけを履くと脱衣所のドアを開けた。
    「エンジ…さん?」
    「オレがどうかしましたか」
    エンジが問えばノアは言葉もなく笑った。そして静かに頬を濡らすと次々に雫が伝っては滴り落ちていく。
    「とりあえずノアの部屋に行きましょう、話はそこでききますから」
    「っ……は、い」
    涙にひび割れた低い声がエンジの言葉を肯定するとタンクトップの裾を細い指が摘んだ。これは覚えているノアが不安な時だ。
    その手を取って繋ぐと主は勢いよくこちらを向いた。涙が伝った跡のまま嬉しそうに笑っている。
    状況が掴めないままだがエンジはノアの手を引いて彼の部屋へと歩いていった。

    「記憶喪失…オレがですか」
    いつものように隣同士、ベッドの端に座って切り出されたのは柔らかな雰囲気に反した話題だった。
    「…ええ、その…ご幼少の頃の記憶しかお持ちでなかったようで……」
    ノアは癖になっているのかエンジの髪を指で梳っている。
    「……それはオレが生家にいた頃ですか」
    「恐らくは。よくご母堂のお話をされていましたから」
    母──エンジにとってはもう縁の切れた人間だ。どれだけエンジを忌み嫌っていても、もうそれは過去の話だ。
    「そうか…悪いが思い出せない。いまも記憶は完全には戻っていないようです」
    「そ、んな……──」
    言葉に詰まったノアをエンジは膝の上に乗せて抱きしめる。無意識の行動だったが不思議と
    しっくりときていた。
    「ノア…大丈夫です。あなたのことはきちんと覚えていますから」
    「エン、ジ…さん」
    なぜ記憶が戻ったかわからない、また幼い自分になってしまうかもしれない。それでもノアのことを覚えている、エンジにはそれだけで充分だ。
    「エンジ…さ……よか、良かった………」
    「随分と苦労をおかけてしまったようですね…申し訳ありません」
    しがみついて泣いているノアの頭を撫でると、首を横に振った。気にするなということだろうか。
    「エンジさ、んは不安ではないの…です、か?」
    「不安……特には。あなたのことを覚えていますから」
    ノアが不安なら何度でも繰り返す、不安がなくなるまで。やっと顔を上げたノアは泣き腫らした顔で笑った。痛々しかったがどこか吹っ切れたような表情は清々しい。
    「エンジさんはエンジさんですね…安心しました」
    「はぁ…」
    よくわからなかったがノアが落ち着いたようでなによりだ。目尻に浮かんだ涙を拭ってやるとまた笑みの形に溢れた。

    …………
    ……



    ノアはようやく落ち着いたのか深く息を吸って深々と頭を下げた。
    「実はエンジさんに謝らなければいけないことがありまして……」
    「ですがオレの記憶にはありません、それでもですか?」
    主は頭を下げたまま頷く。金の髪がその動きにつれてさらりと揺れる。
    「はい、そのメルラさんに貴方の過去を──養子に出された理由をお話しました。エンジさんの許可も取らずにです」
    「ですが、相手は昔のオレでしょう?許可など取れないのでは」
    ノアはただ首を振る。まるで咎人のように項垂れたままだ。
    「それでもです。"守秘義務はバイオハッカーの命より重い、情報の管理が甘すぎる"とお叱りをいただきました」
    「………はぁ」
    エンジとしては気にならない、相手はあのシステムメンテナンス課の長でもある。エンジの刺青の意味も身体の特異性も知っていた。なにを今更である。
    「本当に申し訳ありませんでした…!」
    「ノア、頭をあげてください。オレは気にしていませんから」
    「そういうわけには…いきません」
    こうなったノアは頑固だとエンジは知って──いや覚えていた。腕の中の主は頑なに頭を上げようとはしない。
    「……では事前に決めておくのはいかがですか」
    「事前に…?」
    「はい。他者に教えて良い情報とそうでないものを決めておけば今回のような件は防げるかと」
    手慰みにノアの髪を指で梳いていると甘えるように身体を預けてくる。
    「そうですね決めておきましょう。念の為録音をしても構いませんか?
    「どうぞ」
    ノアはやっと顔を上げて笑顔をみせてくれた。それに肩を撫で下ろしながらエンジは話を促す。
    「はい、ええと始めますね。エンジさんからなにかありますか?」
    「……なにか…」
    エンジは穴だらけの記憶を探る。最初の記憶は冷たい灰色の瞳。ついで大きな手のひら、最後は"贈り物"の痛みだった。いまも左瞼の下にある刺青その烙印の痛み。
    「…オレの刺青と身体については誰にも…いわないでください……」
    「はい、もちろんです」
    自分でも驚くほど弱りきった声が出て、思わず狼狽しそうになる。こんな有様では到底ノアを守れやしない。そんなエンジをノア気にした風もなく真摯に頷いて見せた。
    「約束です、エンジさん」
    「……はい」
    約束。遥か昔、誰かと約束をしたような気がする。あるいはいまの曖昧な記憶が作り出した幻想なのかもしれない。
    「あとは……わかりません」
    「では随時確認をする、ということでよろしいでしょうか」
    「はい」
    気遣うようにノアはエンジの背に手を回し撫でてくれる。不思議と不快ではなくてエンジは目を閉じた。
    「では録音を終了します。お疲れ様でした」
    ぷつっと音がして電源の切れる音がする。どうやら無事録音はできたらしい。
    「ノアのほうこそ疲れてないか?」
    金の髪をさらりと撫でてやればノアは目を細めて笑う。そして耳に快い低い声で語りかけてくれる。
    「いえ、問題ありませんよ。約束といえば毎日一緒に眠るという約束を幼いエンジさんとしていたのですが、どういたしましょう?」
    「──は?」
    そんな不遜な約束をしていたのか昔の自分は。胸の裡で溜め息を吐きながらエンジはなんとか
    思考を巡らせる。
    「その…流石に不敬ですので…辞退させていただきます」
    「そうですよね、またなにかあれば仰ってくださいね」
    「わかりました」
    顔に残念と書いてあるが見ないふりをする。なんにせよ曲がりなりにも記憶は戻ったのだからこれ以上迷惑は掛けられない。
    「エンジさんの記憶が戻ったと聞けばきっとレイさんもお喜びになりますよ!」
    「レイ…?とは誰ですか?」
    笑顔だったノアの表情が凍った。そうして氷が割れ、溶けるように頬を涙が濡らす。エンジに出来るのは震える背中を撫でてやることだけだった。

    どうすれば良いのだろうか。エンジのいないベッドの中でノアはただそのことだけを考えていた。レイになんといえばいいだろう。どうすれば傷つけずに伝えられるのか考えずにはいられない。
    「…………っ」
    エンジの前であれだけ泣いたのにまた目の奥が熱くなってくる。酷い話だった、レイは幼いエンジに対して苦手意識を持っていた。
    やっとエンジが一部とはいえ記憶を取り戻したというのによりによってレイ自身が忘れられてしまっている。なんと説明すれば良い。不幸中の幸いというべきかエンジの精神は比較的安定しているということ、自立して生活が出来そうだということだろう。
    もう彼の髪を乾かせないのは残念ではあるけれどノア自身も安心の色の方が濃い。
    眠りたいのに眠気は一向にやってこない、寝返りを打って気を紛らわす。
    「ん………」
    部屋を暗くしても目を閉じても睡魔はノアの元には現れない。
    ただ暗闇が胸の中の疑心を浮き彫りにしていくだけだ。エンジに会いたかった、彼の腕の中でなら眠れるような気がした。
    いまの時刻は0時06分、2時間近く考え込んでしまったかたちになる。エンジはまだ起きているだろうか、もし寝ていたら眠りを妨げてしまうし、起きていても深夜に訪ねるのは気が引けた。
    せめてエンジの匂いが着いたものがあれば眠れるはずなのに。
    ノアは毛布を羽織って部屋を出るとエンジの部屋の前に立つ。分厚い靴下越しにも夜特有の冷気が這い上がってくる。
    ──コンコン…コン
    凍えかけた指先でノックをすると勢いよくドアが開かれた。じっとノアを見ると毛布ごと抱き寄せられる。
    「………ノア、とりあえずオレのベッドを使ってください」
    「っ、はい」
    横抱きにされて抱きしめられるのがひどく懐かしい。エンジの体温も気遣いもなにもかもが同じで安心する。
    「こんなに冷えて……とにかく温めますから」
    「ごめんなさい…どうしても眠れなくて…」
    少しこじんまりとしたベッドは2人で寝るには少し狭かったが暖まるには充分だった。エンジの体温が隣にあるのが当たり前になりかけていたあの日々はノアの中で大きなものだったのかもしれない。
    「…今回は早めにノックしていただいて良かったです」
    「はい……」
    ノアを抱きしめて横たわったエンジはぽつりという。エンジの匂いがしてやっと肩の力がぬける。
    いつも通り抑揚のない話し方だが不思議と安堵の色が見えた気がした。ノアを気遣って薄暗くされた部屋の中で愛しい人が囁く。まるでノアの秘密を知っているとでもいうように。
    「……眠れませんか」
    「っ……それ、は………」
    エンジに毎日添い寝して欲しいなどという我儘などいえるわけがなかった。記憶が戻って間がない彼には負担が大きすぎる、いまもきっとそうだ。
    「ノア…こちらを向いてください」
    「はい…」
    呼びかけられてエンジの方へ首を巡らせて──柔らかな感触がした。指のそれとも肌の感覚とも違うなにか。
    「ぁっ…?」
    「ノアが頬にキスをしてくれたの嬉しかったので……ノアは嬉しくないですか?」
    少し幼い眼をしたエンジが首を傾げていた。覚えていてくれたのか。それに嬉しかったとも。
    「う、嬉しいですっ!でもあの、少々驚いたといいますか…心臓が飛び出そうでした」
    「わかりました次からは確認を取ります」
    にこりとも笑わなかったけれどもノアの頭を撫でる手つきは優しい。エンジはやっぱり心根の
    優しい人なのだ。
    「ありがとう…ございま、す……」
    「このまま寝ますか?」
    「ん……」
    ゆっくりと髪を撫でられて瞼も重くなり、意識もだんだんと薄暗がりの中に融けていった。



    朝7時14分。自分の為に作った朝食をたったひとりで食べている。なんて味気ない食事だろうと思いながらレイは味気ないのソーセージを口に運ぶ。
    パリッ、じゅわっとして美味しいのになんだかフィルターを挟んだように味が感じにくい。
    「はあぁ〜…」
    奮発した厚切りトーストもソーセージに似たようなものでなんだかげんなりしてしまう。珍しく淹れた甘いコーヒーも冷めるばかり。
    作業的に食べ物を口に詰め込みながらもぐもぐと咀嚼する。頭に浮かぶのはあの幼いエンジの
    こと。
    無垢な瞳、大きな身体そのアンバランスさが痛々しくもあり生理的な嫌悪の源でもある。何故ここまで拒否反応を示すのか自分でもわからない。
    大事な友人であることには変わりないというのに──
    パンの欠片を指で摘んではた、と我に返った。
    「っと……」
    没頭しすぎて厚切りトーストを食べ切ったのを気付かなかったようだ。もう一枚焼こうかなと
    思いながらコーヒーに手を伸ばす。
    ──ピピピッ
    端末からの通知だ。メッセージはノアから、随分珍しいが火急の用かもしれない。
    綺麗な方の手で端末を操作してメッセージを表示する。

    "おはようございます、レイさん。朝早く申し訳ありません。
    エンジさんについてのお話がありますお時間がある時に話したくあります。お時間はレイさんの都合の良い時で問題ありません、よろしくお願いします。

    ノアより"

    堅苦しい文章だったが誠意は伝わってきた。皿の上でパンのカスを落としながら音声でメッセージを入力していく。
    「ノアちゃんおはよう。メッセージアリガトな、時間だケド午前10時くらいがイイかも。あっ、冷蔵庫に作り置きがあるからよかったら食べてな!」
    滅多に使わない機能だが誰かと話せないのもストレスなのだ。こうして擬似的に話せるだけでもレイは安心する。
    送信のアイコンを押して再びコーヒーに手を伸ばした。すっかり緩くなったコーヒーを飲み干してレイは伸びをする。
    エンジについての話しだというがいまからなんだか腹がキリキリしてきた気がした。

    ………
    ……



    「レイさん本日は来ていただきありがとうございます」
    ぺこり、と丁寧に頭を下げたノアは穏やかな声でレイをリビングに迎えた。
    3人掛けのソファで隣同士に座るのはエンジの記憶喪失前──2週間程になるだろうか。
    「ノアちゃん堅すぎだよ。リラックス、リラックス〜!頭あげて、な?」
    「っ、は…はい」
    おずおずとノアがレイに目線を合わせた。綺麗な空色の瞳はなにかに怯えるように視線を泳がせている。悪いニュースであることは明らかだ。
    「それで用事ってのはどういうヤツ?」
    「そ、それは…その……エンジさんが、エンジさ、んは…貴方のことを……忘れておしまいになって…」
    ノアがなにをいっているのかわからなかった。忘れる?誰を?
    「は──はは、なんだ…ソレ」
    「レイさん……」
    「なぁ、ノアちゃん…ジョーダ、ンだよな?な?」
    膝の上で拳を作って耐える。ノアは隠し事はするが冗談はいわない、わかっているのに。
    「レイ、さん…ごめんなさい……なんといったらいいか…」
    まるで難病を宣告する医療師のようにノアは首を横に振った。
    「っ……う、ノア…ちゃ、ん」
    年甲斐もなく声を上げて泣きそうになっているのを口の端を噛んで耐える
    「俺…さみし、いよ……忘れられ…ちゃった……」
    「……はい」
    「エンジにと…って俺って、そんなに…軽かった、のかなぁ」
    誰かの前で泣くのはいつぶりだろう。口の端を噛んでも、唇を引き結んでも涙は止まらない。
    "庭"を離れる時だって泣かなかったのに、どうしてこんな──
    「そんなことないと思います。エンジさんは貴方の作ったハンバーグを"美味しい"って仰っていたでしょう?レイさんはエンジさんの感情を引き出せたのです」
    ふわりとレイの髪をノアのたおやかな指が撫でる。確かに料理で喜んでくれた、でもそれだけだ。
    「……でもそれだけだ」
    「それだけがとても大切なこともあります。それに良い報告もあります」
    良い報告?相対的な良し悪しだったらどうしよう。こんな時でも思考は機械のように廻り続ける。
    「エンジさんの…ええと人格?はレイさんの知っている状態と遜色ないものになりました」
    「えっと…もうちょっと簡単にいって欲しいんだケド…」
    言い回しが難解すぎて4割も内容が入ってこない。混乱しそうになる。
    「そうですねおおまかにいいますと、エンジさんは記憶の欠落がありながらも貴方の知るエンジさんになっているということです」
    「っ!元に戻ったってコト!?」
    我知らずレイは腰を浮かせてノアの手を取った。それは嬉しい知らせだ。たとえレイのことを
    覚えていなくても、それでも。
    「変化は不可逆ですが…表層はそうなります」
    「……俺もその欠落なんだな」
    「…………はい」
    レイはエンジの死角に落ち込んでしまったのだろう。まるで影の中に閉じ込められたような気分だった。
    「少し考える時間が欲しい…あっノアちゃんの病院の件はちゃんと付き合うからな!」
    「ありがとうございます、よろしくお願いします」
    またノアが律儀に頭を下げるとさらり、と金の髪が揺れた。なんの施術かは聞いていないが彼に必要なものだろう。
    「期限が11月までなので助かりました。確か男性の義務だとかで…」
    医療において患者側の負う義務は少ない、それが性別由来となれば尚のこと──パイプカットの施術だ。
    「ん、わかった。任せといて」
    「はい。また日時は別の機会に決めましょう、それでは今日はこの辺りでお開きにしましょうか」
    「だな、ノアちゃん疲れただろうしいっぱい休んでな」
    レイは立ちあがろうとして足に力が入らないことに気づく。
    座ったままノアに手を振ると彼も上品な所作で振り返してくれた。
    「では失礼しますね」
    「うん、またな〜」
    ノアがリビングから去ったあとレイは3人掛けソファに横たわる。しばらく足は使い物になりそうにない、レイは仕方なく目を瞑ってやり過ごすことにする。
    暗闇の中で自分自身すら溶けていくような気がした。
    そして悲しくて寂しい気持ちだけが残った。

    いつだって物事は突然だ。特にいまアレクが受け持っているうちのひとりはかなり特殊な部類だった。
    エンジ・タチバナ。中流にして元不可視の『夜鷹』──性欲処理の道具として生きてきた青年。
    そんな身元の彼が画面の向こう側にいた。そして傍には彼を支えるようにノアもいる。
    ノアから連絡があったのは2日前、アレク側のスケジュールが調整出来ず、診察は2日後の今日になってしまったが。
    「2日も空けて悪いな、タチバナサン。記憶が戻ったんだって?」
    「……………」
    どこか警戒した風情でこちらを見るタチバナの目は酷く乾いていた。この目をアレクはよく知っている、記憶を失くす患者は珍しくない。
    「オレは電脳医療師のアレク、あんたの担当医だ」
    「…よろしくお願いします」
    丁寧な返しができただけ上々だ。大抵は混乱していて支離滅裂になるか警戒心から攻撃的になる場合が多い。
    「今日は軽い聞き取りをしよう、まず記憶が戻ったきっかけに心当たりはあるか?」
    「いえ、気づいたら風呂場でシャワーを浴びていました」
    淡々と語るタチバナは以前と異なる部分は未だ見えない。
    素直に話してくれるのはありがたいが風呂場やシャワーが何かしらのきっかけというわけでもなさそうだ。
    「……そうか、とりあえず覚えている人間を挙げてくれ。無理はしないように」
    タチバナは無理をするタイプの人間だ。気性が育てられ方かいわれたことには従う節がある。
    「…かあさ……母と父のことは覚えています。頭を撫でてくれた誰かも。あとは…ノアのお父様とお母様、ノア、バージェスさん……ペインター先生…」
    どこか懐かしむように視線を彷徨わせているエンジは訥々と名前を呟いていく。
    共通点はまるで見当たらない。表出していない要素があるのかもしれないが、そこにはまだ触れないほうがいいだろう。
    「記録しておく。回帰コードは少しずつ自壊を始めている、微々たる速度だがな」
    10月3日から2週間と少し、タチバナの中にあるプログラムは崩壊を始めていた。
    「タチバナサン、"発作"のことは覚えているか?」
    彼は何度か瞬きし、しばらくして残念そうに首を横に振る。いまの段階ではただの推測だが、
    フラッシュバックの因子を忘れている可能性もあった。
    「アレク、先生……オレは病気なのですか」
    「……悪いがそのあたりはバージェスサンに聞いてくれ。オレの専門はバイオハッカーの神経系とプログラムなんでな」
    こればかりは隠すべきでない事実だった。同じ医療師の括りでも専門が違えば知識の層も異なるのだ。
    「…はい。その"発作"というのは……」
    「エンジさん、そちらはこのあと私が説明します…」
    「……わかりました、ノア」
    良いタイミングでノアが横槍を入れてくれた。"発作"の内容は他人がおいそれと口に出来るものではない。
    だがタチバナが最も信頼を置いているノアなら問題はないだろう。アレクがひとつ頷くとノアも画面の向こうで同じように頷いた。どうやら察してくれたらしい本来患者側にさせるべきではないがいまは甘えるしかなかった。
    「あとはそうだな…なにか気になることはあるか?」
    タチバナは視線を巡らせて思考をしている。かと思いきや珍しい赤い瞳が伏せられた。
    「特になにも…ありません」
    「わかった。最後にひとつ言わせてもらうが……」
    赤と水色の瞳がそれぞれアレクを見つめる。そこまで気負うものでもないがいまの状況としては致し方ないものだろう。
    「特にタチバナサン、あんたは無理をする傾向がある。焦るなとは言わないがゆっくり息をすることを意識してくれ」
    「………気をつけます」
    気をつける、か要注意だな。アレクは忘れないうちにカルテに追記しておく。
    「今日はここまでだ、しばらくは無理せずすごすように」
    「アレク先生ありがとうございました」
    「ありがとうございました」
    タチバナとノア揃って頭を下げる光景はなんとも座りが悪い。アレクにとってはまだ罵詈雑言の方が馴染みがある分、落ち着かない。
    「ああまた何かあれば連絡してくれ。次は裁縫師の2人も同席するだろう」
    「わかりました。失礼します」
    タチバナの挨拶とともに通信が切れる。記憶に不具合があっても最後まで彼らしい真面目な態度だった。
    「ふー……」
    サングラスを外して眉間の皺を揉み込んでいると内線のランプが点灯した。どうやら休息は取れないらしい。アレクは一回だけ肩を回すと内線の通信をオンにした。




    『無理をするな』あの電脳医療師からいわれた言葉がぐるぐるとエンジの中で渦巻いている。
    傍のノアはベッドの端に座ってエンジに身体を預けて目を瞑っていた。疲れさせてしまったのだろう。
    「……エンジさん」
    目を閉じたままのノアがいった。残念ながらあのサファイアの瞳は見えない。
    「はい」
    「その……"発作"のことなのですが…エンジさんにはおつらいものだと思います、それでも知りたいですか?」
    不意に問われた内容に返答に窮する。普通なら前もって知り、対策を立てるのが当然だろう。
    だが、いまのエンジは万全とはいえなかった記憶の欠落、その間怠っていたらしいトレーニング。心身共に不安要素が残る。
    「……やめておきます、おそらくいまは負荷が高い」
    「わかりました………」
    不意に裾を掴まれてエンジはそっと手を重ねる。
    「ノア。なにかあれば仰ってください」
    「…その……やはり添い寝は負担でしょうか?私ばかり嬉しい思いをしているような気がして…」
    呟くように語りかけたノアは俯いたままこちらを見ない。エンジが記憶を取り戻してから眠れなくなったノアは添い寝を所望した。
    あるいはそれだけ不安だったのか。
    「いえ、特には。役目があるのは落ち着きます」
    どんな些末なものだとしてもノアが望むなら叶えるに値する。
    「………おつらくはありませんか」
    「つらくはありません。ノア、頬にキスをしても?」
    「えっ!あ、ぁ……は、はい」
    まだ片手で足りる程しかしていないがノアは酷く恥ずかしがる。エンジはそっとノアのあごを
    すくう。真っ赤に染まった頬にごく軽くキスをした。
    柔らかで瑞々しい頬の弾力が唇を押し返す。
    「あ、の…私もエンジさんに、その……お返しをしても、よろしいですか?」
    「……それは構いませんが」
    「が、がんばりますね」
    礼儀としてエンジは目を瞑る。暗闇の中で互いの息遣いだけが静かに存在していた。
    不意に柔らかなしなやかな指がエンジの両の頬を支えると、か細い吐息が緩く肌を撫でる。どこにキスされるのかわからず、眉間に皺が寄った。
    「エンジさんお慕いしております」
    切ない声音とともに左の下瞼に唇が柔らかく触れる。ノアの唇の下にはあの刺青がある、よりにもよって主はあの穢らわしい烙印にキスをしていた。
    「もう目をあけて良いですよ」
    「……この刺青の意味を知ってなおなぜキスを──」
    擬似的な女性器持った穢らわしい身体は本来上流が触れるべきでない。だが上流であるノアが
    望むのなら例外だ。
    エンジの膝上にノアが乗ると思い切り抱きしめられる。この状態にも随分慣れた。
    「エンジさん…私はいまのエンジさんを…あい、ええと…大切なのです」
    わからない。この壊れたモノを大切に思う理由も性を伴わないキスをする感覚もなにもかも。
    それでも必要とされていることには変わりなくてエンジは安堵の息を吐いた。
    「ノア…申し訳ありません。オレには、わからない」
    「……はい。エンジさんが気になさることではありません…私の我儘ですから」
    さらり、と金の髪がエンジの頬を掠める。不思議と不快感はない。
    ノアの言葉は時々わからないことがある。それでもその言葉がエンジを害することはなかった。
    「ノアも無理はなさらないでくださいね……ノア?」
    主は疲れていたのかエンジの膝の上で寝息を立てている。起こさないようにベッドに横たえるとエンジもその隣に寝そべった。
    「ん…」
    「ノア……オレはあなたが思っている以上に汚れている、なのになぜ…」
    まだ『レイ』のことはまだ考えたくなかった。ノアの教師でありエンジの同僚だった男。同じ家で暮らしていたらしいがどうにも苦手なのだ。大きな手も冷静な眼差しもどうにも落ち着かない。
    落ち着かないどころか──
    エンジは慌てて首を振る。自分も疲れている、ひと眠りすることにしよう。小さな温もりがぴたりと寄り添っていた。

    レイは自室でぬいぐるみをもふもふしていた。なんの予定もない空白の時間。
    思い返すのはエンジとの顔合わせのこと。
    冷たい無機質な赤い眼。引結ばれた口元は頑なだった。レイの思考は3日前、エンジと初対面の時に巻き戻る。



    「………………」
    「えー…と初めまして?かなオレはレイ。本名はレックスよろしくな」
    リビングで相対したエンジは出会った時よりも厳しい眼でレイを見ている。
    「エンジ・タチバナだ」
    元々愛想はカケラしかなかったが、そのカケラすらなくなっていた。側で見ているノアは根気
    強く成り行きを見守ってくれている。
    「よろしくな?」
    一歩踏み込むとエンジの足が怖気付いたように下がった。近寄るべきではないと判断して出したままの足を戻す。
    「………あぁ」
    警戒と怯えの声にレイは不意に合点がいった。そうだ、長い間男達に弄ばれてきたのだ同じ男であるレイを怖がっても仕方がない。とても寂しいことだけれど。
    「……出来るだけ顔を合わせないよう気をつける」
    小声でそういうとエンジはこくん、と頷いた。幼い仕草に胸が痛むが以前のように慰めたりは
    出来ない。
    「ノアちゃん、もう挨拶すんだし解散でイイよ」
    「…はい、ありがとうございました、レイさん。エンジさんもお疲れ様でした」
    どうしてもノアの比重はエンジに傾く。これは仕方のないこととはいえレイとしてはやっぱり
    寂しい。
    「エンジ、俺チョット散歩してくるからノアちゃんをよろしくな」
    「わかった」

    なんとなく居づらくて散歩などといってしまったが、後にも引けなくなってしまった。
    そうしてひとりで廊下に出て外出の準備をする為自室に向かう。



    「はあぁ〜家に帰りたいなぁ」
    回想を打ち切ったレイは誰に聞かれるでもない独り言を溢した。あるいは聞かれないからこそ
    口から出したのかもしれない。
    レイの生まれた街はいまは連盟指定の禁足地になっている。だからレイの実家は避難地区──
    通称"庭"にある。条件さえ満たせば移住も可能だがおいそれと帰ることは出来ないそんな場所。
    もしかしたらノアの両親に便宜を図ってもらえれば叶うかもしれない。
    なんとなくズルをするみたいで気が引けるが、どうしようもなくなったら頼るのもアリだろう。
    その前にノアの病院の付き添いがあるその時にでも話せば良い。
    こんなに家が恋しいのは初めてだった。ママの作るハンバーグもかあさんの作るシチューも何もかもが懐かしい。
    郷愁の念は甘くて切ない。とうに過ぎ去った過去とはいえ、レイには大切なものだ。
    そうと決まれば前言撤回、ノアに相談しようとレイは立ち上がった。

    ………
    ……


    ──コンコン
    控えめにノアの部屋のドアをノックするとすぐに開かれる。整った目鼻立ちに印象的な空色の瞳がキラキラと輝いていた。
    「レイさん、なにかご用ですか?」
    にこやかに笑って見せるノアだったが少し顔色が悪い。エンジの記憶喪失の負担ものしかかっているのだろう。
    「あ、うん。ノアちゃん病院のヤツとあと個人にチョット…」
    「わかりました、どうぞお入りください」
    ノアはいとも簡単にレイを自室へと招き入れた。本当にこの子は警戒心がない。セレスタインの件を経てもなお、彼の警戒対象にレイやエンジは含まれていないようだ。
    もちろん信頼は嬉しいがそれでもノア自身の安全を思えば警戒心が足りないといえた。
    「……アリガト。お邪魔するな」
    「はい!」
    曇りのない笑顔がレイを迎えてくれたが自身の胸中はもやもやとした暗雲が立ち込めている。とにかく部屋に入らなければ始まらないとレイはノアの部屋へ入った。
    「こちらの椅子にお掛けください」
    「ん、アリガト…でもノアちゃんは?」
    勧められるまま小さめの椅子に腰を下ろす。飾り気のない黒の椅子はなぜかノアの印象にピッタリと合う。
    「私はベッドのほうが落ち着きますから、気遣いは無用ですよ」
    ふわりと行儀良くベッドに腰掛けたノアは蕾が花開くように笑みを浮かべる。密やかなそれでいて厚く込められた情を感じさせた。
    「そっか、じゃあ病院の日にち決めよう」
    「よろしくお願いしますね」
    深々と頭を下げたノアは機嫌がいいのか雪のように白い顔でにこりと笑う。完全に血の気が引いているのに気づいていないのだろうか。
    「ん、俺としては来週の木曜日に買い出しに行きたいからそれ以外がイイかな」
    「わかりました。その日以外で予約を入れておきますね…それとレイさんのお話したい用件というのは……」
    「えっと…ノアちゃん疲れてない?」
    「大丈夫ですよ?」
    紙のように白い顔でいわれても説得力がなかったが、どうやら本心からいっているらしい。
    こうしてみると本物の人形のよう。
    透き通った肌、さらさらの金糸のような髪。美しく配置された目鼻、嵌め込まれたような美しい空色の瞳。どれをとっても文句ひとつない造作だった。
    そんな妄想を振り払ってレイは口を開く。
    「………んー…ならいうケド、実家に帰りたいなぁって思ってさ」
    「レイさんのご実家…私が聞いてもよろしいのですか?」
    不安そうに首を傾げているノアにレイはひとつ頷いて見せた。話さなかったのは守秘義務もあるが特に必要だと思わなかったのも大きい。
    あとは、まぁ単純に"庭"の説明が面倒だったからだ。
    「俺の家は"庭"──ええと禁足地とか禁足候補地からの避難民で構成されてる街にあるんだ」
    「……どちらも連盟が不可侵と定めた土地ですね、そうでしたか…」
    「うん、里帰りの手続きがなかなか難しくてノアちゃんのパパやママにチカラを借りたいんだ」
    本来はそこまでする事態ではない。ただ疲れて自分の家のベッドで眠りたくなっただけ。
    「わかりました!微力ながらお手伝いさせていただきます。私と一緒に通話すれば問題ないと思いますがいかが致しましょう?」
    「えっ…いいの?メイワクじゃない…?」
    なんとなく。すごくお金持ちの家の出身なのはなんとなくわかっていたが、それを差し引いても人が良すぎる。
    「レイさんにはお世話になってますし、父も母も会いたがると思います。念の為確認を取ってからにはなりますが」
    「ホント、アリガトな! 俺は退がるケド…ノアちゃんは休んでて」
    きょとん、と何度か空色の瞳を瞬かせると『バレたか』といわんばかりにへにゃりと笑った。
    体力が限界に近いのかもしれない。
    「エンジ呼ぶ?」
    「いえ、そこまでは…今日はありがとうございました」
    こんな時でも礼儀正しくひらひらと振ってくれる。レイが長居すればする程、ノアの体力は削られていく。
    「こっちこそアリガトな」
    素早く立ち上がるとレイは静かな足取りでノアの部屋を出た。
    向かうはエンジの部屋。万が一があっても良いように次善の策が必要だ。
    ──コン…コンコン
    躊躇いがちなノックが陽の落ちかけた廊下に響いた。

    運転手であるネコタが操縦する車に揺られながらノアはぼんやりと外を見遣る。街路樹は黄色や赤に色づき鮮やかに街を彩っていた。
    ついぞ上流で見ることのなかった本物の植物は儚く力強く大地に根を張っているようだ。
    一年近く中流で過ごしてきたがいまが一番美しいと思う。赤は愛しいエンジの色。
    上流では排斥されるばかりのルビーの色をノアは愛している。こうして思い返してしまうくらいには執着してしまっていて──
    街に舞う赤色を目で追っていると車体が大きく揺れた。
    「申し訳ございません。ヘス様、石か何かを踏んでしまったようで」
    「謝罪には及びませんよ、ネコタさん。レイさんはお怪我などありませんか?」
    助手席に声を掛けるとふわふわとした焦茶色の髪が驚いたように跳ねた。
    「俺?ヘーキだよ!あとチョットで病院着くみたいだから準備しといてな」
    「はいっ」
    そう今日はノアの施術の日だ、パイプカットという施術の説明は事前に聞いている。
    ただ不安なのは離れてしまったエンジのこと。もし独りのタイミングで幼い状態になってしまったらと思うと気が気でなかった。エンジは大丈夫だろうか。
    また座席が揺れてネコタが声を掛けてくれた。
    「ヘス様。松庭病院に到着致しました」
    「ありがとうございます、ネコタさん。レイさんは──あら?」
    あの特徴的な焦茶色は助手席にはなかった。代わりに後部座席のドアが開いて褐色の手がノアに差し出される。
    「へへっ、エンジのマネ!」
    「もう…レイさんったら、ふふっ…ありがとうございます」
    その手を取ると強い力で引き上げられた。乱暴な感じはしなかったからレイは力加減が苦手なのだろう。
    「ネコタさん。しばしの待機お願いしますね」
    「承知致しました。またなにかあればご連絡を」
    深く頭を垂れたネコタが見送る中、ノアとレイは病院のエントランスへと歩いていった。

    …………
    ……


    「17番の方〜04診察室においでください」
    整形・建造外科の待合室で待つこと30分、看護士に呼ばれてノア立ち上がる。
    無機質なパステルカラーの壁に少々飽いていたのでちょうど良いタイミングだった。
    『04』と書かれた部屋へレイを連れて向かう。
    ノア達を出迎えたのは銀髪の男性で糊の効いた白衣を着ている。彼は身振りでノアに椅子を勧めると重たげに口を開いた。
    醒めたヘーゼルの瞳がノアを睥睨しているようだ。
    「整形・建造外科のガウディアスです。いま一度施術の最終確認と署名をお願いします」
    「はい…わかりました」

    渡された2枚の紙にノアは目を通し始める。慣れない紙の感触がくすぐったい。
    局所麻酔の注意事項や施術後の注意点や検査事項に同じく渡されたペンでチェックしていく。
    黒に近い藍色のインクは滑らかで書きやすい。
    "術後2週間後に検査"──チェック。
    "術後1ヶ月後に精液の検査を実行"
    「あ、あの……この1ヶ月後の検査は一体どうやるのですか?」
    精液など射精しなければ出ない。まさか──
    「あぁ、ちょうどこの部屋の隣室で"出して"もらうかたちになります。検査前の1週間は
    マスターベーションは控えてください」
    「ぁ、うぅ……はい」
    顔どころか首から上が燃えるように熱い。ノアは顔をぺたぺたと触ってなんとか冷まそうとする。
    「ちなみに2ヶ月後の検査も同様です。必要な道具はこちらで用意しますから安心してください」
    なにも安心できる要素がなくて熱い顔のままレイを振り仰いだ。

    「俺んトキもそうだったよ…こればっかりは義務だからなぁ……」
    現実は非情だった。この生殖能力の無効化がどれだけ重要なのかノアはまだわからない。
    「不安でしたらいくつか持ち込みも可能ですからご心配なく」
    「は、はぁ……」
    持ち込み──エンジのジャージを借りれたりしないか、不意に浮かんだ思考に慌ててノアは首を振る。
    "術後1ヶ月後に精液の検査を実行"──チェック。
    "術後2ヶ月後に精液の検査を実行"──チェック
    署名、ノア・ヘス。
    「っ、書き終わりました…」
    ペンと合わせて差し出した紙を掴んだ手も朱に染まってしまっていた。
    紙が手渡されると医療師──ガウディアスはしげしげとそれを眺め机の上に置く。
    「はい、大丈夫です。では施術に移りましょう。付き添いの方もどうぞ」
    「よろしくお願いします」
    不安は拭いきれず、ノアはそっとレイに向けて手を伸べた。手を取ってくれるだろうかと疑心が浮かんだのは一瞬ですぐに暖かな褐色の手が重ねられる。
    「ダイジョブだよ。経験者の俺がついてる」
    「ありがとうございます…」
    まるでノアの不安を見透かされたようで恥ずかしかったが心強かった。


    上半身と下半身をカーテンに仕切られたという滑稽な体勢でノアは施術をうけようとしていた。
    下半身はほぼ裸である。ズボンも下着も医療師の手によって脱がされ、足首あたりにわだかまっていた。
    「では局部麻酔を陰嚢に打ちます。少々痛いですがすぐ終わりますよ」
    痛い──その言葉にノアは思わずレイの手を握りしめた。局部麻酔は以前、1回だけ打ったことがあるがそれでも慣れるような回数ではない。
    鋭い針が柔らかな皮に沈み込み、何かを探るように突いてはまた別の場所へと移動する。
    急所を晒しているだけにレイの手を握る手指にも力が入ってしまう。なんどかそれを繰り返した後、液体が注入される感覚がした。
    幸いカーテン越しで見えないから視覚的な不快感は低減されている。
    「っ……」
    「麻酔が効くのに2分ほど必要ですのでしばらくお待ちください」
    淡々とした医療師の声がしたが正直、聞く余裕すらなかった。施術の場所が場所だけに神経が逆立つような気さえする。
    レイの手のひらの温かさがどれだけ有難いか、帰ったらなにかお返しをしなくては。
    「少し触れてみますので痛みがあるか教えてください」
    「は、はい…」
    ゴム手袋をした男の手が無機質にノアの陰嚢に触れ、確かめるように抓った。触られる感覚は
    あるが痛みはない。
    「どうですか?」
    「ぁ…痛みはないです」
    「では、始めますね、痛かったらいってください」
    カーテンの向こうからややくぐもった声がしたかと思うと表皮が鋭利な刃物で切り拓かれる。
    予期していたような痛みはなく、引き絞られ断たれたような感覚がした。
    「いまから縫合しますから動かないでくださいね」
    こちらの返答を待たず切開された傷口が瞬く間に閉じられていく。素早い手腕に驚いていると「終わりました」と医療師──ガウディアスの無機質な声がした。
    「あ、ありがとうございます」
    「私は後ろを向いていますから下衣を身につけてもらって結構です」
    「お、俺も!」
    2人の気遣いを有り難く受け取ってノアは下着とズボンを履く。まだ痛みはないが数時間もすれば痛覚が戻ってくるだろう。
    「もう履きました、大丈夫です」
    カーテンを開けたガウディアスが冷たささえ感じるヘーゼルの目が観察するようにノアを見た。
    「はい、では鎮痛剤と抗生剤を処方しておきますので院内薬局にて受け取ってください」
    「わかりました。ありがとうございました」
    レイの手を繋いだままノアは踵を返した。早くエンジのいる家に帰りたかった。
    「レイさん、帰りましょう」
    「うん。クスリもらったら帰ろうな」
    「はい…」
    温かなレイの手に引かれてノアは04診察室を退出する。白を基調とした廊下を歩きながらふと思う、今日はずっと彼に、この手に支えられてきた。ノアもなにかしてやりたい、と。

    「おかえりなさ──」
    エンジが言い終わる前にノアが抱きついてきて、やや面食らう。酷く消耗しているのか指先が
    冷たくなってしまっていた。
    「ノア、まず手を消毒してから家に上がりましょう」
    「…………はい」
    ノアはエンジのいった通り玄関に置かれた消毒液で手を清めてくれている。事情を知っているであろうレイに目を向けると黙って首を振った。
    「……お部屋でお休みになりますか」
    「あの、エンジさんも…一緒にいて欲しくて……」
    レイには見えない場所でエンジの裾を握るノアの手は小刻みに震えている。
    「ではオレも休みます、レイ…はどうする?」
    「俺?リビングでお菓子食べる予定だケド。まぁ2人でのんびりしなよ、ノアちゃん疲れてるっぽいし」
    「あぁ、付き添い助かった」
    どうしても近づけない微妙な距離のまま事務的な情報共有は終了した。
    レイがリビングに入っていくのを確認してからエンジはノアの手を握る。
    「エンジさん…?」
    「いえ、休むのはノアの部屋でよろしいですか?」
    ノアはいちごのように赤くなった頬で頷くと、控えめにエンジの手を引っ張った。


    膝の上にノアを乗せるのは最近出来た習慣だ。男としてはまだ未成熟な身体はまだ柔らかく、遠目には少女にも見える中性的な容姿をしている。
    疲れたのか主は膝の上から動かないままエンジに身体を預けてくれていた。信頼されている、と取っていいのだろうか。
    「…エンジさん」
    「はい」
    「なんだか…疲れてしまいました」
    ノアはぽつりと呟いたあとふぅ、と息を吐いた。本当に疲れているのだろう。飾り気のない部屋に金の髪だけが鮮やかだった。
    その髪をそっと撫でると気持ちよさそうに目を閉じる。
    「今日履行した"義務"が真にどのような意味を私は掴みかねていますが、しっかりと果たせて良かったです…」
    病院で行われる義務。流石のエンジも一般常識として知っている、ただエンジには関係のないことだが。
    パイプカットまたの名を精管結紮、精管を糸などで断ち切り精液に精子が混入しないようにする処置だ。
    「お疲れ様でした、ノア」
    「ありがとうございます…」
    労りを込めて抱きしめるとノアも抱き返してくれる。必要とされている実感に深い充足感が触れた場所からじんわりと沁み入っていく。
    黒を基調とした家具と白い壁紙のモノクロの部屋はいつみても上流らしくない。
    「なんだか、眠く……」
    「お疲れなのでしょう、横になりますか」
    もう言葉を話すのも億劫なのかこくりと頷くとそのまま口を噤んでしまった。エンジはノアを
    横抱きにすると異常に気づく。
    「ノア、お熱が……」
    「術後の発熱はたまに、あるそうですから…それにこの程度でしたら解熱剤も必要、ありませんよ」
    確かにバイタルにも引っ掛からない微熱だがそれでも体力は削られているだろう。
    「では寝かせますね」
    ノアをベッドに横にすると潤んだアメシストの瞳が柔らかく細められた。
    「エンジさん、ありがとう…ございます」
    「いえ…」
    髪を撫でていると安心したのか穏やかな寝息が聞こえてくる。なだらかに上下する薄い胸と赤らんだ顔に生唾を飲み下す。
    そして健康的な桃色の唇。
    ──キスがしたい。
    無意識に覆い被さったエンジは、己の主の顔を舐めるように眺めた。上流として完璧な位置にある目鼻と口、いまは隠されているが美しいサファイアの瞳、金糸で編まれたような髪。
    理想の上流を穢す、その罪深さ。エンジは慌ててその考えを打ち消すとノアの額にそっと手で
    触れる。
    エンジと同じくらいの体温だが、本来ノアの体温は低いから相当つらいだろう。
    「ノア……」
    目が覚めたら水と解熱剤を持ってこよう。穢らわしい思考を脳の隅に押しやってエンジは椅子に座った。

    ………
    ……


    ノアはまだ眠っている。熱が引いてきたのか頬の赤みはなく白磁の肌には汗ひとつかいていない。
    いまは中性的な容姿でもいつかはエンジと同じような"男"になるはずだ。
    「っ……」
    肌を這うのは嫌悪と確かな期待、抱いてもらえるかもしれないという仄かな希望。
    なぜ自分はこれ程抱かれたがっているのだろう。その雪のように白い指で暴かれたいと、陰茎で孔の奥まで貫かれたいと夢想してしまう。
    上流に抱くべきでない欲情がエンジを苛む。いつからこんな恥知らずな情を抱くようになったのかどうしても思い出せない。
    わからない…エンジの過去は霧のように曖昧で、はっきりとしているのは冷たい父母の記憶と温かな手、そして作り変えられたこの身体だけ。
    ノアとの思い出は宝石のように輝いている。
    「ん……」
    ノアがごろりと寝返りを打ってこちらに背を向ける。無防備な姿がもどかしい。
    ノアは何も知らない、エンジをただのボディガードだと思っている。
    「……エン、ジ…さん?どこ…」
    掠れた声がエンジを呼ばわった。慌てて腰を浮かしてノアの顔を覗き込む。
    「ノア、こちらです」
    頬に張り付いた髪を払ってやるとサファイアの瞳がゆったりと瞬いた。
    「ありがとう…ございます」
    「いえ、身体を起こしますか?」
    「お願いします…」
    ノアは丁寧に一礼したあと背中を浮かせる。その浮いた背に手を入れて抱き起こす。伸びた金の髪がエンジの肩口に触れた。
    「ノア、気分はいかがですか?」
    金の髪にキスをするとノアはくすぐったそうに笑う。主はお返しのつもりなのかエンジの赤い髪の先に唇で触れた、僅かな感触が伝わってくる。
    「眠ったお陰で快調なようです、エンジさんはどこかおつらいところはありませんか?」
    ノアはエンジの抱いた穢らわしい欲情を知らない、だからこんな風に笑いかけてくれるのだ。
    「とくに…ない」
    「よかったです……」
    桃色の唇が弧を描いてエンジは思わず釘付けになる。瑞々しい色と艶やかな光沢。
    思わず吸い付いてしまいそうな──
    「エンジさん、あの…」
    「っ、はい」
    「今日も一緒に眠りたいのですが…」
    今日の施術は相当のストレスだったのかエンジのタンクトップの裾を掴んで請われた。控えめなサファイアの瞳が不安気に揺れている。
    「もちろん、ご随意に」
    他ならぬノアの命令だ、エンジとしては否などない。問題はエンジの性欲なのでノアがいない間に抜いておくしかない。
    「ありがとうございます!嬉しい…」
    頬を赤らめて喜んでいるノアを裏切らない為にもエンジの"自己管理"をしっかりしなければ。
    ノアの手がエンジの指先に触れる、手を握りたいのだと悟って手を取った。
    目に映るのはノアの眩しいばかりの笑顔だった。

    最近出来た朝の習慣がある。ノアは分厚い胸板と逞しい腕に抱かれて眠ること、そしてエンジに起こされたくて彼が起きるまで寝たふりをすることだ。
    温もりとエンジの匂いで早朝目覚めたノアも再び夢の中へ戻ってしまいそうな安心感がある。
    「ん……」
    エンジの腕の中に守られていると、ずっとここにいたいのと同じくらい、同じようにしてあげたい気持ちが強い。この安心感をエンジにも与えてあげたいと思うのだ。
    当のエンジは可愛らしい寝息を立ててぐっすりと眠っている。けれど──…とノアは思考する、記憶が戻ってからのエンジはなにか違和感があった。
    まるで同じ赤色を作る時に別の色が混ぜられたような説明のしにくい引っかかり。
    やっと陽が差し込み始めた室内で、ノアはひっそりと愛しい人の髪に口付けを落とす。
    何かが違っても記憶がなくてもエンジはエンジだ。彼の本質が損なわれるわけではない。
    まだ暗い部屋で大好きな人の腕に抱かれているのは幸せだった。ノアは噛み締めるように幸福を享受する。
    「…エンジさんお慕い申し上げております」

    こっそりとノアが呟くのはひとえに溢れる思いのせいでもあるし、出来ればエンジの記憶に爪の先ほどでも刻まれてくれたらという下心でもあった。
    いまのエンジの記憶がどうなっているかわからない、自壊の傾向を示した回帰コードの影響も未知数だ。エンジはノアを厭うている素振りは見せない。これ幸いと添い寝を承諾してもらっているのが現在である。
    「ん、ぅ──…」
    むずがるようにノアをぎゅっと抱きしめたエンジは眉根を寄せた。眠りが浅くなってきたのだろうか、ノアは慌てて眠るふりを始めた。

    ………
    ……


    「…ノア。ノア……朝です」
    大きな手に揺り起こされたノアはぼんやりと目を開ける。赤い色がゆらゆらと揺れて思わず手を伸ばす。キラキラした美しい色はノアを惹きつけて止まない。
    「………寝ぼけてい…のですか?朝…の……」
    上手く言葉を処理出来ないまだ脳は覚醒していないのだ。。ノアは重い瞼を強引にこじ開けると、目の前で困ったようにこちらを見ているエンジがいた。
    「あ、エンジ…さん……おはよう、ございます」
    「おはようございます、ノア」
    さらりと髪を撫でられて口付けをされる。親愛の表現が嬉しくてくすぐったい。
    「今日はオレが朝食を用意しますから、しばらくリビングでお待ちください」
    「ありがとうございます…エンジさん」
    エンジの手作りの朝餉。なんて素敵で魅力的な響きだろう。いつも朝食はレイが作ってくれたり出来合いのものが多い。
    「……いえ、お気になさらず」
    どこか沈んだエンジの声に首を傾げながら見上げると、頭を撫でられる。
    「ノア、リビングに行きましょう」
    「はい」
    エンジが記憶を失ってから、あるいは取り戻してから変わってしまったことがたくさんあった。
    朝の習慣もそうだし、エンジとレイの距離感も、彼が記憶をレイの失ったことにより開いてしまっている。ノアはエンジと連れ立って自室から廊下へと歩いていく。
    「……ノア、寒くはありませんか?」
    「お気遣いありがとうございます、少し足元が冷えるだけで──」
    「失礼します」
    エンジは軽々とノアを横抱きにすると静かな足運びでリビングに向かう。ノアに関する記憶は比較残っているのか、寒い場所での神経質さは相変わらずだった。
    「っ、ありがとう、ございます」
    「いえ。もう少し寒さが厳しくなれば毛布をご用意します」
    ノアを温めるようにぎゅっと抱きしめたエンジは片手だけでリビングのドアを開ける。
    そのまま片手で壁パネルを操作するとエアコンから暖かい風が吹き出してきた。
    「オレのソファにでも座っていてください。身体を冷やさないように」
    「はい、わかりました」
    確かに3人掛けのソファよりは暖が取れそうで、ノアはいわれるままにエンジのソファに腰を下ろす。ふわりと香る愛しい人の残り香に胸を撫で下ろすとそれを確認したエンジがキッチンに向かった。


    黄金色に焼けた厚切りのトーストにマーマレード、ハムとスクランブルエッグにコーヒー。
    これが今日の朝食だ。エンジの手作りのそれはボリュームたっぷりで食べる前から唾液が出てくる暗い美味しそうなものばかり。
    「ええと、いただきますね」
    マーマレードが塗られた厚切りのトーストをナイフとフォークで切り分ければ焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
    ひと口大に切って口に運べばマーマレードの芳しい香りが鼻を抜け、バターの風味と絡み合う。
    本音をいえば勿体無い気持ちが大きいが、食べ物を無駄にするのは良くないのでそのまま咀嚼する。
    口の中で弾ける柑橘類特有の爽やかな甘みとパンの柔らかな甘さが堪らない。
    「……!とってもおいしいです!」
    思わずエンジに賛辞の言葉を投げかけると、ひとつに結われた髪がさらりと垂れた。
    「過分なお言葉恐縮です」
    「エンジさんも食べてください、ね?」
    「はい」
    ノアが促すとやっとエンジが厚切りのトーストにかぶりつく。自分が好きな味つけて作っているのか心なしか嬉しそうな気配をさせている。
    スクランブルエッグはほんのり甘じょっぱい味付けだし、カフェインレスコーヒーはノアが好きな濃さに淹れられていた。
    なんて素敵な朝食だろう、これでレイがいたらいいのにとどうしても考えずにはいられなかった。
    「……………」
    「ノア…口元にパン屑が付いています」
    そっと紙ナプキンを差し出したエンジもケチャップを頬につけている。毒気を抜かれて失笑が出てしまった。
    「……なにか」
    「エンジさんも頬にケチャップがついていたので…気を悪くしてしまったらすみません」
    口元を紙ナプキンで拭うと明るい茶色の粉がパラパラと落ちていく。どうやら盛大についてしまっていたらしい。エンジも頬を拭うと可愛らしい4つの眉を顰める。どうやら礼儀を失してしまったことを気にしているようだった。
    「いえ、これから気をつけます」
    「エンジさんそう硬くならずとも良いのですよ」
    口元を拭き終わった紙ナプキンを畳みながらノアがいうと、エンジは緩く首を横に振った。
    「オレはあなたのボディガードですから」

    久しぶりに聞いたセリフにノアは曖昧に微笑みを返すことしか出来ない。
    記憶を無くしたボディガードはそうとは知らず、強い意志を宿した瞳で頷いた。
    「はい、エンジさん」
    それ以外の返答をノアは持ち合わせていない、レイならあるいはバージェスやアレクならなんと答えただろう。
    「そういえば、今日の夕食後にお父さまとお母さまとお話する予定があるので、私は部屋にいますね」
    危うく予定の報告を怠りそうになっていた自分を戒める。
    「わかりました」
    急なスケジュールの変更にも関わらずエンジは当たり前かのように首肯した。まるで"自分"がないような振る舞いはノアから見れば非常危うく見える。
    「片付けはオレに任せてノアは歯磨きに行ってください」
    「……ですが」

    「身体を冷やすような行為はご遠慮ください。洗顔も湯を使ってください…なにかあればそちらにいきますので」
    エンジの哀願に近い声音にノアの気持ちは容易くなびいてしまう。
    「はい。エンジさん、いってきますね」
    ノアはそれを約束するかのようにエンジの髪先に口付けをした。愛しい人の甘い香りに喉が鳴る。

    ノアは金の髪を丁寧に梳りながら物思いに耽る。昔から父によく似た容姿だと褒めそやされてきた。常にノアの容姿は歓迎されたが、上流に馴染まない心は押し込めたまま年月だけが過ぎていったそんな記憶。
    身嗜みを整える為のブラシが重い。父母との映像通話まであと7分、このあたりで切り上げるのがいいだろう。自室の殺風景なモノクロの景色は帰ってノアの心を落ち着かせてくれる。上流のような柔らかな色はどうにも性に合わなかった。
    髪の手入れもそこそこにノアは机の前で準備を始める、といっても端末の電源を入れ通話アプリを立ち上げるだけだ。
    「ふう……」
    ものの1分足らずでセッティングは完了した。小さな緑のランプが眩しい。黒の椅子に座ると入室状態で待機する。
    父や母と話すのは久しぶりだ。顔を見るのはセレモニー以来、あの醜態を思い出して耳が熱くなる。
    …──レティ・ヘス、ティエラ・ヘスが入室しました。
    そしてすぐさま通話の発信を実行する。そして父と母から応答があった。
    「……お久しぶりです。お父さま、お母さま」
    画面に映るのはノアと同じ色彩を持つ父と珍しい紫の瞳を潤ませた母だ。
    ─"久しいですねノア。息災ですか?"─
    ─"本当ね、無理はしていませんか?"─
    息災かといわれると、なかなか微妙なラインだった。やはりエンジのことは気掛かりでレイのことも心配だ。
    「…はい。私は……」
    こんな時自分がもう普通の上流ではないと突きつけられる気分になる。自ら選んだとはいえ父母のような聞き心地の良い声音は永遠に失われてしまったのだから。
    「…私は大禍ありません」
    ─"……ノア、話したくなければ話さなくても良い、なにがあったのです?"─
    エンジの記憶が失われていることを話すべきだろうか。だが2人にはもう負担をかけたくない。
    ─"無理だけはしないでねノア?ティエラも私も悲しいもの"─
    いつもそうだ、父も母もノアを大切にしてくれる。そしてどれだけ性質が違おうともノアに寄り添おうとしてくれるのだ。
    「……レイさんが…」
    胸が痛い。息をするのが苦しい。本題に入らなくては。本題に──
    「レ…っ、ぁ……!」
    胸の痛みにノアは思わず掻きむしるように服を掴む。隠さなければいけないのに痛みに喘ぐばかりで取り繕うことすら出来ない。
    ─"ノア…調子が悪いようなら休みを──"─
    ノアは慌てて首を横に振る。今日はレイの約束の為の時間なのだ、次がいつになるかわからないなど彼に顔向が出来ない。
    ─"………ノア"─
    母の呼びかけが暖かくて目の奥が熱くなる。
    「…取り乱してすみませんでした。今日はレイさんにお力添えいただきたくお願い申し上げて
    おります」
    ─"教師役のレイさんですよね"─
    「……はい、お母さま。レイさんの帰省に便宜を図っていただきたいのです」
    ─"レティはどうですか?"─
    ─"あら、わかっているでしょう、ティエラ"─
    柔らかな雰囲気が流れている、父と母は相変わらず仲が良い。見ていると本当に家にいるようで安心する。
    ─"もちろん賛成だ"─
    ─"私も同意見です、家に帰りたい方が帰れないだなんて不憫だもの"─
    母は頬に手を当てて憂いを帯びたアメシストの瞳を伏せた。父はそこに寄り添うように母の側に座っている。
    「ありがとうございます、お父さまお母さま」
    ─"レイさんにはノアも世話になっているのだし、わたし達としても返礼をしたいと思っていたのです"─
    ─"ええ。それに私、レイさんとお話してみたいわ。きっと素敵な方だもの"─
    しまった。すっかりレイとの約束を忘れていた。いまの主題は彼と同席して話すものだった。
    後で事情を話さないといけない。胸中でレイに謝りながらノアは口を開く。
    「あっ…あの、お父さま、お母さま…レイさんもお会いしたいと仰っていました」
    ─"まぁ!聞きました?ティエラ"─
    ─"聞きましたよレティ、それにしても…ノア。今日はもう休みなさい"─
    父の言葉にノアは思わず目を伏せた。彼のアイスブルーの瞳を正面から見る勇気もなく視線は
    机の上を彷徨う。
    「………それは」
    ─"ティエラ、強く言い過ぎではなくて?"─
    ─"……ええ。反省します"─
    針に刺されるような胸の痛みを堪えながら、ノアは恐る恐る画面に目を向けた。
    両親がノアを優しく見つめている。この眼差しにノアは弱い。後ろめたいのもあるがなにより
    愛されているのがわかるからだ。
    ─"ごめんなさい、ノア"─
    父の真摯な声がスピーカーを通して降ってくる。ノアへ向けられる柔らかな声音はいつだって
    安心させてくれるのだ。
    「お父さま謝らないでください、調子が優れないのは本当のことですから」
    この胸の痛みはきっと良くないものだけれど2人の前では秘密にしておく。
    「お父さま、お母さま。今日はもう退がりますね…レイさんとのスケジュールはまた後日相談しますので」
    ─"わかりました、また話せるのを楽しみにしています。よく休むように"─
    ─"ノアきちんと運動してよく寝るのですよ。つらいことがあれば私やティエラにいってくださいね"─
    本当に母は鋭い。ノアが無理をしていることや隠し事をしていることも見抜かれているような気さえしてくる。
    「はい…お母さま、お父さま。それでは失礼致します」
    通話を切るとノアは座っている椅子にもたれかかった。胸の痛みは続いていて息をするのにも
    難儀だ。それに自分らしくない伝達ミスもしている。
    エンジを──いまのエンジを頼っていいだろうか。しばらく躊躇したあとノアはボディガードの番号に繋げた。



    自室でトレーニングをしていたエンジはふいに胸騒ぎを覚えた。脳裏に過ぎるのは主である
    ノアのこと。最近のノアはエンジとレイの軋轢のせいか処置のせいか疲労が溜まっているように見えた。そんななかノアからの着信。
    反射的に通話に出ると苦しげな吐息が聞こえてくる。
    「ノア?どうしました?」
    ─"……さ…エン、ジさん…む、ね……っ、いた…"─
    トレーニング着のまま自室を飛び出すとすぐにノアの部屋のドアをノックした。
    「鍵を開けられますか?」
    ─"…は、い……"─
    空白のあと電子錠の開く音がしてサファイアの目がエンジを見上げた。
    「とにかくベッドに。抱えますがよろしいですか?」
    ノアはもう喋る気力もないのか黙って首肯する。その唯一無二の尊い身体を抱き上げてエンジは主をベッドへと横たえた。
    少し毛先が荒れた髪を梳き整えてやるとノアは気持ち良さそうに目を閉じる。胸の痛みはセレモニーの後にしきりに訴えていたものと同じとは限らない。
    「……ノア、明日ペインター先生をお呼びしましょうか?」
    主はこれにも頷くとエンジのタンクトップの裾をしきりに引いた。なにかいいたいことがあるのだろうか。
    「エ…ンジさ、ん…」
    「ノア。ご無理なさらず」
    少しでもノアの苦痛を和らげようと彼の頭を撫でるとノアもエンジの髪に指を絡めた。
    「ごめ…んなさい……」
    「謝っていただく理由がわかりません。とにかくいまはお休みを」
    「……はい」
    エンジが顔を近づければノアは大人しく目を閉じる。主の額にそっとキスをすると、ノアはくすぐったそうに微笑んだ。火がつきそうになる身体をなんとか宥めてエンジはノアの髪を撫でる。
    「ノア、オレが側にいますから安心してください」
    「……手を…繋いで、いただけますか?」
    主の命令にエンジは優しくノアの手を握った。指先は雪のように白く、氷のように冷たくなっているのを悟って両の手で温めてやる。
    「エンジさ…ありが、と……」
    ノアは優しい。こんな■■■上がりの自分にも言葉を惜しまず笑いかけてくれるのだ。主の信頼に応える為にも一層精進しなくては。ノアの頬にかかった髪を除けてやると嬉しそうに唇が弧を描いた。主を守るのがボディガードの存在意義なのだから。

    人の気配がする。密やかながらも緊迫したようなそんな話し声が薄ぼんやりとノアの耳に届く。意識はまだ曖昧でうとうとと夢と現を彷徨っている。
    「……、……は、…─で」
    「…い。…──」
    どうやら2人の人間がなにかを話しているようだ。まるで体が鉛になってしまったように重く、ベッドに沈んでいる。
    「エン…ジ……さ」
    胸が痛くて苦しくて、愛しい人の名を呼べば手のひらがぬくもりで覆われた。間違えようのないエンジの手だ。目を開けると心配そうなエンジが髪を梳いてくれる。
    「お目覚めになられましたか」
    「ぁ…わた、し?」
    体が上手く動かせないまま首だけを仰がせるとミシェルがじっとこちらを見ている。エンジは
    昨日いった通りノアの主治医を呼んでくれたらしかった。
    「いまは朝の10時12分です。ノア様はずっと眠っておられたのですよ」
    「そんなに眠ってしまったのですね…」
    重い身体を起き上がらせようとするとエンジの手がノアを押し戻した。
    「いまから軽く診察をさせていただきます。胸に痛みがあるとタチバナさんから伺いました」
    「……はい」
    「御身に触れますこと、ご寛恕ください」
    ミシェルは手に持った聴診器を身につけるとノアのパジャマの下に手を潜り込ませる。金属の冷たい感触に身を捩るのをなんとか堪えた。
    「んっ…」
    「申し訳ございません、胸の痛みはありませんか?」
    「すこ、しだけ…」
    ペタペタとあちこち触れるのを繰り返すのにも慣れて大人しくされるがままになっている。
    「心音に異常はなし…少し押しますね。痛みが増したら仰ってください」
    「はい」
    聴診器をしまったミシェルは代わりに自身の手でパジャマの上からノアの胸を軽く押した。圧迫感があるだけで特に痛みもない、ただ触られている感覚があるだけだ。
    「ふむ……診察は以上です。心肺機能に異常は見られませんでした」
    ミシェルはノアの服を直して深々と一礼をする。
    「ペインター先生。胸痛の原因はわかりませんか…?」
    「いまのところはなんともいえません。原因の候補だけでも多岐に渡りますので。現状ノア様はかなり疲労が溜まっているご様子、無理はせず休息をとっていただきたく」
    「はい…ミシェル先生」
    ミシェルはノア以上にノアの身体を知っている、これ以上に心強いことはない。
    「見送りは不要です、ノア様、タチバナさん失礼します」
    一礼してノアの主治医は部屋を去っていった。ミシェルはああいったがノアにはまだやるべきことがある。
    「ノア、朝食はどうなさいますか?よければこちらに運びますが」
    「お願いします…あと私はレイさんに用があるのでその時は席を外していただけると助かります」
    ノアが手を伸ばすとすぐその意を悟ったのかエンジは大きな手で包んでくれた。
    温かな手に包まれてノアはうっとりと目を瞑る。
    「わかりました、お気遣い感謝します」
    暗闇の中で声がする。優しいエンジの声はどんなものよりノアを癒してくれるのだ。
    「では朝食をお持ちいたしますのでしばらくお待ちください」
    エンジはノアの頭を撫で髪にキスすると微かに笑みのようなものを浮かべた。
    「ぁ──…ありがとうございます」
    柔らかな表情をするエンジに見惚れつつもなんとか謝意を示す。ノアを尊重してくれるエンジの気持ちが嬉しかった。
    「では、失礼します」
    エンジの大きな背中を見送ってノアは再び目を閉じた。




    昼過ぎ、レイの元に一通のメッセージが届いた。文面も内容も簡潔だった。
    "話があるから自分の部屋に来て欲しい"それだけのメッセージに酷い違和感を覚えてたまらず駆け足で部屋を出た。
    素足だったがそんなことはどうでもいい、あの礼儀正しいノアが前置きもなくメッセージを送るなど尋常ではない。
    ドアを叩きそうな自分を理性でなんとかノックにすると『はい、どうぞ』と応えがあった。
    ドアを押すと既に鍵は開いており容易く開く。ベッドの側にはノアが立っていた、ただ顔色は
    完全に血の気が引いた病人そのものの風貌だったが。
    「ノアちゃん、ベッドに寝てて!お願い…」
    ノアは恥じるような笑みを浮かべると大人しくベッドに入ってくれた。話しやすいようにだろう枕を背もたれにして微笑んでいる様は儚い白百合のようだった。
    「…お呼び立てして申し訳ありません、レイさん」
    「それはいいケド、体調はダイジョブ?顔とか真っ白だよ」
    つらいだろうにノアは気丈に微笑んで見せた。なんの用か知らないが、体調が回復してからでも良かったはず。
    「はい、今日は謝罪の為にお呼びしました」
    空色の瞳を伏せてノアは淡々と述べた。血の気の失せた美貌のせいかノアが倒れてしまいそうで不安がじわりと胸に染み出してくる。
    「謝罪って俺なにもされてないよ?」
    「その、私…両親に貴方の里帰りの件を話してしまいまして……本来ならレイさんも同席なさるタイミングでいうべきでしたのに」
    なんだそんなことか、というのがレイの率直な感想だ。だが別の意味で心配だった、ノアがそんなミスをするとは到底思えなかったからだ。
    「俺は気にしてないよ、ダイジョブ。それより久しぶりにママとパパと話したんだろ?どうだった」
    「おふたりとも変わりありませんでした…便宜の件も前向きでしたしレイさんとお話したいと、仰っていましたよ」
    ノアの瞳が優しく細められる。きっと母と父のことを思い返しているのだろう。直接の交流はないがノアの態度から彼を愛し、慈しんでいるのがよくわかる。
    「そっか。ノアちゃんが元気になったらおしゃべりしたいな」
    これ以上ノアには無理はさせられない。午前中はノアの主治医も来ていたらしいし楽観していい状況でもない。
    「ご迷惑を、お掛けして申し訳ありません…」
    「メイワクなんかじゃないよ!頭あげてっ!」
    項垂れるように頭を下げたノアをレイは慌てて止める。男にしては細い肩、浅い呼吸。つらいのは承知だがなんともいえない色気があった。
    「…はい。今後気をつけます」
    「うん。いまはゆっくり休んで?」
    ノアの頭を撫でると弱りきった顔で無邪気に笑う。ここで問答しても徒に体力を消費させるだけだ。
    「なにかあったらエンジか俺を呼ぶんだぞ」
    「わかりま、した」
    ノアは大抵の場合は聞き分けが良い。今日もきちんとレイの言葉を受け止めてくれた。それだけにレイは心配になるのだ、もっと自己主張すべきだとも思う。
    レイの胸中など知らないノアは相変わらず紙のように真っ白な顔で笑っていた。

    どうしてノアを見ていると体が熱くなるのだろう。さらりとした金の髪を梳きながら、この
    湧き上がる熱を黙殺する。
    まだ部屋は暗く、朝陽はまだ床を照らしもしない。
    腕に抱いた主はまだ眠っていた。清らかな上流を穢したいという心理が無意識にでもあるのか、唇を見ればキスを請いたくなり、指先が触れれば暴かれることを夢想する。
    「っ……」
    腹の奥が火がついたように熱せられ、陰茎は緩く勃ち上がっていく。
    「は、ぁ……」
    ノアを起こさないように息を溢せば腹がきゅう、と疼いた。どうしようもない自分の身体にほとほと嫌気が差す。
    エンジがノアを抱きしめている腕を解こうとすると反対にしがみついてきて──
    「んっ…」
    不意にノアの太ももに陰茎が擦れる。あぁ、穢してしまった。守られてきた一線が破られた衝撃と、背徳が甘くエンジの身体を満たす。
    主の太ももに陰茎を擦り付けて達したいという誘惑を振り切って、片手を下着に突っ込んだ。
    「っ…ふ」
    耐えられなかった。ノアの──主の目の前だろうがなんだろうが、この全身が燃えるような熱の前に理性はとっくに燃え落ちていた。
    片手で幹をするだけで酷く感じてしまう。亀頭をぐりぐり弄るとそれだけで熱い吐息が溢れた。
    「ぁ……ふぅ」
    唇を噛んで声を殺しながら尚も陰茎を扱き上げる。熱に急き立てられて指にも力が入った。
    目の前の大切な主に欲情して、こんな浅ましい真似をしているというのに身体の熱は一向に下がらない。
    ノアに触って欲しい、孔を…この飢餓感を産めて欲しい、そう思うだけで孔がじゅぐ、と濡れる。
    「の、あ…っ」
    名前を呟くだけで脊髄に電流が流れたように快感が駆け上がって堪らない。陰茎を弄るのもそこそこにエンジの手は孔へと伸びる。
    「…んっ!はぁ……」
    もうそこは泥地のようにぬかるんでいてエンジの指を歓迎した。掻き分けると熱い隘路は形を
    変えより奥へと指を誘い込む。
    奥を擦れば声にならない刺激が全身へと駆け巡る。
    「っ!………!」
    ノアが欲しい、上流の貴き方に抱くべきではなかったがいまのエンジにそんな思考はない。
    ただ目の前の人がエンジの孔に陰茎を埋めてくれればどんなに──
    「ぁっ……んぅ!!」
    その想像だけでエンジは達してしまった。べったりと汚れた下着は不快だったがお陰で頭も身体も冷やすことが出来た。
    ノアは起きていないか反射的に確認するとまだすやすやと寝息を立てている。そのことに安堵して深く息を吐いた。
    カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる、とりあえずはノアを起こさないようにしながらベッドを出ようとして──タンクトップの裾を握る手があった。
    「……………」
    こんな無垢な人の前で自慰をしたという罪悪感がエンジを苛む。だがいまは下着を替えるのが
    先決。綺麗な方の手で掴まれた裾を離すとそっとベッドに戻してやる。
    髪先にキスをしてエンジはノアの背を向けた。

    ………
    ……



    顔をまともに合わせられない。朝食の時も夕食の時もあの美しいサファイアの瞳を正面から
    見つめることはエンジには出来なかった。
    だからいまも、寝る前のお決まりの会話のこの時間も沈黙が支配している。
    ただノアは気を悪くしてはいないのか隣に座ったエンジの赤い髪を丁寧に梳かしていた。それでもエンジは主の顔を見る勇気を持てないでいる。
    「エンジさん…」
    そんななかエンジは名を呼ばれてびくりと背筋を伸ばした。まるでエンジを宥めるようにノアが背中を撫でる。それでようやく息をつけた。
    「…はい」
    「その、私の勘違いなら良いのですが"発作"が来ましたか?」
    発作?エンジは今日一日に思いを巡らせる、異常は今朝の耐え難い欲情しかない。まさか、そんなはずは──
    「………の、あ…」
    喉が酷く乾いて名前を呟くのが精一杯だった。穢らわしい、そんなモノ…ノアが知るわけない。
    「……エンジさん、ごめんなさい。もっと早く説明をしていれば貴方に無用の苦痛を与えずに済んだかもしれないのに」
    ノアは目を伏せたまま、まるで罪を告白する罪人のように続けた。
    「"発作"は貴方に埋め込まれたプログラム、"回帰コード"によって引き起こされる性欲の亢進状態を指します」
    「ぁ──…」
    知られていた。この穢い身体も、悍ましい欲求も全部。
    「のあ、だめ…きたない」
    「エンジさん?」
    尊い上流が知って良い物事ではない、知るべきではない穢らわしい知識だ。なのにノアは平然とエンジの髪を指で梳いている。
    「離れて……ください、オレはきたな…いから」
    「……エンジさんを独りきりになんて出来ません」
    ぎゅっと抱きしめられるとその温もりが脳裏のなにかに引っかかる。あまり良くないなにか。
    「オレは1人でいるべきです、こんな穢らわしい──」
    「……エンジさんが穢らわしいというのなら、私だってそうです。上流にはない性欲もあります」
    なぜ忘れていたのだろう。第二次性徴が再開されるということは肉体が成熟するということ。
    変声期もあるし背も伸びるそして──
    「いっ!!…っ!」
    刺すような頭痛にエンジは思わず頭を抑える。心臓と同じリズムでどくどくと痛むそれに口の端を噛んでたえる。
    「エンジさん!頭が…痛むのですか?」
    大したことない、と首を振るとノアはそっとエンジの頭を優しく撫で始めた。
    「……今日は念の為お部屋でおやすみください」
    「で、すが…」
    "発作"がなければノアの為に添い寝をするべきなのだろう。それでも今朝の醜態を演じたくなくてどうすべきなのか答えは見つからないまま。
    「私の心配をしてくださるなら、その…お洋服を貸していただきたいのですが」
    「わかりました」
    タンクトップを脱ぎ始めると見るに耐えないのかさっと視線を逸らしてしまった。よく見れば金の髪から僅かに覗く耳が真っ赤になっている。
    「ノア…?とりあえずこれをお渡しします」
    「ありがとうございます」
    脱いだばかりのタンクトップをノアに渡すとまるで宝物かのようにぎゅっと抱きしめた。
    「………ご厚意に甘えて今宵は退がらせていただきます」
    「はい、おやすみなさいエンジさん」
    ふわりと伸び上がったノアはエンジの額にキスを落とす。性欲という穢れのなかにあってもなお、凛としたありようが酷く眩しかった。



    エンジが退出していった自室は味気ない。白の壁紙に黒の調度品は落ち着きはするものの、
    面白いものでもないのだ。
    まだ温もりが残るタンクトップを胸に抱いてベッドに横たわると、まだエンジがそこにいるような錯覚すら覚えそうになる。
    今朝のあの衝撃はまだノアのなかから抜けていない。エンジの甘やかな吐息と震えで目を覚ましたノアは寝たふりをしてやり過ごした。
    素知らぬ顔をして役者のように振る舞えたのは一重にノアがバイオハッカーだったからだ。
    記憶と生理的反応を乖離させる術は本来短期的な運用が望ましい。だが今回は6時間を超えてしまったどのような作用が出てもおかしくなかった。
    昼過ぎにプログラムを解除したが鼻からの出血と頭痛しかなかったのは幸運としかいいようがない。
    ノアにオナニーがバレていたと知ればエンジはきっと傷つく。だからノアは知らないふりを通し続けた。
    たとえ回帰コードのせいだったとしても名前を呼んでくれたのがなによりも嬉しかった。
    熱に浮かされたような苦しげな声で縋るように求めていて──なんて愛らしかったことか。
    慌ててノアは首を振る、これ以上考えたら眠れなくなりそうだったからだ。
    ぎゅっとエンジのタンクトップを抱きしめるとノアは無理にでも目を閉じた。
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    2026/06/06 20:23:31

    遠雷 chapter-22

    #深海世界サブマリン #創作 #オリジナル #ファンタジー

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    深海世界サブマリン
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