鬼門病床に伏しながら、男はつばきの腕を強く掴んだ。
「つばき……俺は、もう長くない。俺が死んだら、俺の遺体はお前自身の手で燃やすんだ。決して、坊さんに供養させるんじゃないぞ……そして、俺が鬼としてこの世に戻って来たときのために、鬼門の方角に入口をひとつ設けるんだ。約束通りにしなかったら、お前も、お前の家族も、生涯にかけて呪ってやるからな……」
つばきの細い腕が折れそうなくらい、男の手に力が入る。つばきはただただ震えながら男を見つめている。
「誓え!!!」
鬼のような恐ろしい形相で睨まれ、つばきは目に涙を浮かべながら頷いた。
* * *
轟音と共に激しい雨が降り注ぐ。その中を、笠を被った妖怪が駆けてゆく。
「こいつはまずいな。顔がふやけちまいそうだ」
こんがり焼けたおにぎり頭の妖怪ーー焼きおに斬りは、そう呟いて人の姿に化けた。辺りはすっかり暗くなっている。雨は一向におさまる様子がない。
「夜が明けるまで止みそうにないな。どこかの民家で休ませて貰おう」
雑木林を抜けた先に、小さな明かりがぽつんと見える。焼きおに斬りはその明かりを目指して走った。
つばきは、台所でひとり夕餉の支度をしていた。亡き夫がよく食べていた鮭の塩焼き、塩加減に気をつけて作った味噌汁、新鮮な野菜を選んで作った漬物ーーふたり分の膳を運びながら、つばきは恐る恐る鬼門に建てられた勝手口を見やる。激しい豪雨の音がするだけで、誰かやってくる気配はない。いつも夫が帰って来た時間を過ぎたと確認すると、つばきは自分の分の食事を食べ始めた。その目の前で、誰も手をつけない食事が、ゆらゆらと湯気を立てている。
ドンドンドン!
戸を叩く音に、つばきは飛び上がるほど驚く。
「もし、どなたかいませんか?」
聞きなれない声に、つばきは恐る恐る戸を開ける。
「…はい」
そこには、雨でずぶ濡れになった侍が立っていた。笠を被り、こんがり焼いたような褐色の肌をしている。黒い着物には、炎のような赤い模様があしらわれている。
「すまないが、雨が止むまで雨宿りさせてもらってもいいかな?」
「ど、どうぞ」
久しぶりの来客に、つばきは半ば戸惑いながら頷く。そして、チラリと誰も手をつけない膳に目をやる。
「あの……」
ずぶ濡れの侍に手ぬぐいを渡しながら、つばきは口を開く。
「もしよかったら、夕餉も召し上がっていきませんか?」
「こりゃ、美味い。雨宿りさせてもらうだけじゃなく、こんな美味しいごはんまで食べさせてもらえるとは」
侍は舌鼓を打ちながら、つばきの作った飯を平らげていく。つばきはキョトンとした表情で侍を見やる。
「うん? どうしたんだ?」
「いいえ……ただ、作ったご飯を褒めてもらったのが初めてで……」
ふと、侍の表情が曇る。
「この飯は、亡くなった旦那さんのために作ったものじゃないのか?」
「ええ、そうです。でも、いつも味噌汁が塩辛かったり、ご飯が少し冷めていたり、怒られてばかりだったので」
「気を悪くしたらすまないが……そんな厳しい旦那さんのために、なぜ健気に飯を作り続けているんだ?」
つばきは、寂しそうに微笑む。
「私は、亡き夫から一方的に迫られて嫁いで来たんです。孫の顔を見たいと喜ぶ父母を見ていたら、無下に断れなくなってしまって……。死んだ後も、いずれ鬼として蘇るから、鬼門から帰って来たときのために毎日夕餉を作るよう……死ぬ間際の夫がそう言い遺したのです」
つばきは、町に残してきた父母に思いをはせる。病弱な母を支えるために、かんざし屋として働く父……この村に嫁いで来てから、つばきは一度も町に帰っていない。亡き夫が死に際に遺した言葉が、つばきを縛りつけていたからだ。夫が本当に父母を呪ってしまったら……それが恐ろしくて、つばきは夫の誓いを破ることができずにいた。
死者の亡骸を坊主に供養させなければ、清められなかった魂はやがて鬼として蘇る。つばきの住んでいる村では、そう言い伝えられていた。
椿の花のような紅色の綺麗な髪、透き通るような白い肌……亡きつばきの夫は、つばきの美しさにすっかり魅入られていた。死んだ後も、鬼となって迎えに行きたくなるほどに。
侍が何か言いかけたそのとき、激しい音を立てて近くに雷が落ちた。その衝撃で家の中の明かりが消え、辺りが真っ暗になった。
ギィイと鈍い音がして、家の中に雨が降りこむ。さっきまでぴったり閉まっていたはずの鬼門の勝手口が、大きく開いている。
ドスンドスンという足音が、大雨の轟音に混じって聞こえる。つばきは凍りついたように、勝手口を見つめている。やがて足音は家の前で止まり、勝手口からぬうっと何者かが姿を現した。体つきは人間のそれだが、頭からは大きな角が生え、目は爛々と光っている。その姿は、古くから言い伝えられる鬼の姿によく似ていた。
「迎えに来たぞ、つばき」
かつてつばきの夫であった鬼は、にやりと笑ってつばきに手を伸ばす。鬼が一歩踏み出すごとに、鬼の足元から炎が上がる。外の雨もお構いなしに、家が燃えていく。
「鬼になって身につけた炎の妖術……こいつで、お前を灰にして地獄まで道連れにしてやる」
つばきは震えながら後ずさる。鬼が指を振るうと、炎がつばき目掛けて襲いかかる。つばきは思わず目を閉じた。
『……熱くない』
つばきが恐る恐る目を開けると、侍が自分と鬼の間に立ち塞がっていた。鬼の放ったはずの炎が、侍の刀へと吸い込まれていく。
「やれやれ、今日くらい鬼のことを忘れていたかったんだがな」
侍が刀を抜くと、刀の柄から炎の刃が噴き出す。それと同時に、侍の姿がおにぎり頭の妖怪へと変わっていく。
「何者か知らんが、俺の邪魔をするな!!」
鬼は激昂し、焼きおに斬りとつばき目掛けて再び激しい炎の妖術を放つ。その炎を、焼きおに斬りがあっさりと受け止める。
「つばき……だったかな。部外者の俺が首をつっこむのもなんだが、このままみすみすお主を灰にしてしまうのは気が引けてな」
鬼の炎を受け止めながら、焼きおに斬りはつばきを振り返る。
「このまま旦那さんと一緒に黄泉の国へ旅立ちたいなら、俺は止めはしない。でも、折角父と母に授かった、たったひとつの命だ。自分が本当に望んでることを一番よく知ってるのは、自分自身だ」
つばきは震える目で鬼を見やる。
「つばき、あの世でもずっと俺と一緒にいるよな?」
鬼は当然のような顔でつばきに微笑む。
「私は……」
つばきは、すっと息を吸い込んだ。
「私は、生きたい。生きて、また父と母に会いたい。町に帰って、父のかんざしに見合うような髪結いになりたい」
震えながらも、つばきは真っ直ぐと鬼を見つめて言い放った。
「もう、あなたに縛られ続けていたくない!」
「生意気を言うな!!!そんな勝手は、俺が許さん!!!」
鬼が怒号を上げ、渾身の力を込めて炎の妖術を放つ。轟音を立てながら、大きな炎の波がつばきに襲いかかる。その炎すら、焼きおに斬りの刀がのみこんでいく。
「惚れた相手が夢を語ってるんだ。素直に応援すればいいものを」
飄々とした様子で焼きおに斬りが鬼に語りかける。
「つばきは俺の言うことだけ聞いていればいい。それが、そいつにとって一番幸せなんだ」
「そうか」
焼きおに斬りは、鬼に向かってスッと刀を構える。
「お主が愛する者へと放った炎を、お主に返そう」
途端、鬼が放ったそれとは比べものにならない程の強烈な炎が、鬼の体を包む。鬼は鋭い悲鳴を上げ、鬼門の勝手口諸共消し飛ばされていった。
* * *
「つばきちゃん、今度はあたしの髪を頼むよ」
「つばきの父さんが作ったかんざし、相変わらず素敵ねぇ。あなたが結ってくれた髪によく似合うわ」
あれから数年……つばきは町に戻って髪結いの腕を磨き、今では町の人気者となっていた。
鬼を退治してくれたあの妖怪は、あれ以降姿を見かけない。今もどこかで旅を続けているのだろうか。
「村から戻って、随分とたくましくなったなぁ。昔は自分のやりたいことも全部我慢しちまってたから、お前が髪結いになりたかったなんて、父さん全然知らなかったよ」
「ふふ、そうね」
父と町中を歩きながら、つばきは微笑んだ。
ふと、視界に笠を被った黒い着物姿の侍が目に入る。
「あっ」
つばきは思わず足を止めたが、既に侍の姿は人ごみに紛れて見えなくなっていた。
「どうしたんだい、つばき?」
父が不思議そうに振り返る。
「……ううん、なんでもない」
つばきは首を振り、再び父と並んで歩き出した。