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貴方とのちいさな幸福時間(降谷とFD)
降谷は運命を信じない。
多分、そうでもしなければ生きていけなかったのだという自覚はある。
トリプルフェイスを使い分け、心を許した友を何人も見送り、疲弊する毎日を隠しながら生きるのは楽ではない。
生の先に死があるのではなく、死はいつでも傍に居てあるとき唐突に手を伸ばしてくる。
『油断するなよ』そう笑っていた男も、あっけなくその死の手を取って降谷の前からいなくなってしまった。
寂しいと、悲しいも思う間さえ与えられず、疲弊した心と体を引きずって愛車のFDに乗り込んで大きく息を吐く。
エンジンをかけないまま、それでも心地よいピアノの調べが流れてきて降谷は小さく笑ってハンドルに額を押し付ける。
冷たい革の感触が降谷の熱を吸ってほんのりと温かさを滲ませて来る。
「――お前にだけは、俺の本当の姿見せられるんだ」
ありがとう、と伝えた声が震えそうになって降谷はぐっとくちびるを噛みしめた。
泣いている時間なんてどこにもない、それでもこの閉じられたわずかな空間だけは降谷でも安室でもバーボンでもない、ただの一人の人間として息を吸うことができた。
それを自覚した頃から、降谷の愛車であるFDは時々まるで自身が魂を持っているかのように動くようになった。
誰かにそれを言ったのなら、疲れているんだろうとか、下手をすれば部下には病院に連れて行かれるかもしれないと降谷は苦く笑う。
勘違いだと言うには色々おかしなことが多すぎる。
けれど降谷はそれを全部素直に受け入れた。
疲れていたのかもしれない、心が病んでいたのかもしれない、それでも確かに愛車の動きは降谷の心も体も癒してくれる。
別に、大げさな事をしてくれる訳でも、降谷がそれを望む訳でもない。
でも、そのわずかな、勘違いのような、そんな些細な事が降谷には必要だったのだと今ならば思う。
初めてこのFDを見た時から、物欲のさほどない降谷が『欲しい』と一目で購入を決めたのを運命と言うのなら、それだけは素直に受け入れたい。
目にも見えぬ神などに、一度だって祈ったことはない。
けれど、このFDに出会えたことにはただひたすらに感謝する。
ひとつ、息を大きく吐いてハンドルから顔を上げれば淡いピアノの調べは消えてゆき、腹の底に響くようなビートの音楽が流れ始めた。
ふふ、と降谷は笑う。
「もう大丈夫だ、ありがとう」
言って降谷はキーを差し込んでエンジンを掛ければビート音に呼応するように低い唸りを上げたFDのアクセルをぐっと踏み込んだ。
◇春
安室は愛車のハンドルを握りながらふと窓の外を見た。
いつの間にか季節は移ろいを告げていて、沿道には淡いピンク色の花が咲いている。
「…さくら、か」
日本の象徴とも言えるべき花の命は短い。
ついこの間までは硬くつぼんでいた木々が精一杯の生を表すように一斉に花を咲かせる。
健気で、そのくせ潔いその花が安室は大好きだった。
大好きではあったが、それを愛でるような時間はここ数年送っていなかったな、とふと気付いた。
娯楽――と呼んで良いのだろう、そんな事に時間を割くのならば他にやることは幾らでもあったし、もっと言うならば少しでも睡眠時間を増やしてくれと久しぶりに会った部下に釘を刺されてしまった。
今日はポアロでシフトもこなしてきたが、梓をはじめ客のだれひとりにもそんな事を言われなかったと言うのに。
少なくとも、一般人ではない部下達の方が人の表情や変化に聡いには違いない。
それでも、部下相手でもそんな醜態をさらす気はさらさらないと言うのに安室はむぅと頬を膨らませた。
「そんなに酷い顔してるかな?」
ひとりごちたところで、赤信号で車を停めれば勝手にウインカーが光り出した。
「え?なに?」
問いかけてみたものの当たり前だが返事がある訳でもない。
ただ、こういう時は安室がウインカーを戻したところでまた勝手にウインカーが光り出してしまうのだ。
警察官として交通ルールを守らない訳にはいかないから結局ウインカーの示すとおりに安室は青信号になればハンドルを左に切るしかない。
仮の自宅に向かうには正反対のその道に戸惑いはあるが、会話の交わせないFDとでは渋々ながらも従うしかない。
いや、その少し強引で我儘な所も気に入ってはいるのだけれど。
それにしても、行く先が自分でも分からないと言うのはどうにも運転がしずらい。
とは言え、交通ルールを破る様な唐突な指示が出る訳でもないのが流石安室の愛車と言ったところだろう。
と、軽い警告音と共にカーナビが行き先を示し始める。
どこだろう?とちらりと見た到着予定時間は約一時間後だった。ルート案内に手を伸ばしかけて、すぐにひっこめる。
何処に向かうのか分からないちょっとしたドライブに心が浮かれているのが分かった。
手軽なミステリートラベル、と言ったところだろう。
その先で高速に乗るように出ている指示通り、安室は車線変更して高速の入口をくぐった。
「――ここか?」
目的地周辺に到着しました、とカーナビの表示に安室は適当に空いた場所にFDを止める。
高速を降りてから真っ暗な山道を随分と走ったと思う。あまり詳しいカーナビの表示は見ないようにしていたが最終的には車一台がようやく通れるような細い道を進んで行き止まりのような場所にたどり着いた。
車を止めればFDは大人しくなったので、目的地はここで合っているのだろう。
どちらにしても降りてみるか、とエンジンを止めてFDの扉を開ければ冷たい風と共にかすかなにおいが鼻を突く。
四月と言えまだ朝晩の風は冷たく、ましてそれなりに山を登って来たのだからコートが必要な程に風は冷たい。
後部座席に放っておいたジャケットを引き寄せて、それに袖を通してFDを完全に降りてからぐるりと視線を巡らせる。
一応、車を付けてくるような気配は何もなかったが用心に越したことはない。
そう、鋭い視線を投げかけながらふと少し離れた場所にぼんやりと白いものが見えて安室はじっとその影を見た。
わりと夜目は効く方ではあるけれど、白い影は人ではないと言うことぐらいしか分からずに首を傾げる。
その時に、ぱっと周辺が明るくなった。
思わず身構えて、そしてその光の元がFDのヘッドライトだと気付くと同時に光の差す先に映し出された光景に安室は「あぁ」と感嘆の声を上げた。
桜の樹だった。
巨木とも言えるだろうそれは真っ暗な中でFDのヘッドライトがピンスポットのように当たって美しい佇まいを安室の前に晒している。
さっき冷たい風にのって香って来たにおいはこの桜の物だろうか?一般的に良く目にするソメイヨシノににおいはないけれど、種類によってはにおいのする桜もあると聞く。
「…すごい、な」
多分山道の――斜めになった崖の途中に生えているのだろう。
ガードレールの向こうに咲き誇る花が見えて安室はふらりと近づいてガードレールから身を乗り出せばぐっとFDのライトが強くなる。
「大丈夫だって、」
うっかり落ちたらと思ってくれたのだろうか?安室の無謀な運転に文句も言わずに付き合ってくれる所はあるのに、変なところで過敏な程に心配性だったりするんだよな、と苦く笑えば光は少し落とされる。
ガードレール越しにのぞき込めば案の定、崖と思われる斜面に大きな桜の樹が花を咲かせていた。
幹も太く立派だが、多分長くそこで管理されることもなく放っておかれているのだろう。
幹には所々に傷みが見て取れたが、それでもあんな場所で花を咲かせる姿は強くも美しい。
明らかに山道の途中、それも崖の斜面に立つさくらの樹など知る人は地元の人ぐらいなのだろう。
昼間でも人気はなさそうだが、桜の樹にしてみれば誰かに見て欲しくて花を咲かせている訳でもない。
じわりと安室の心の中に温かいものが染み入るようだった。
「――そっ、か」
誰かに見られたい訳でも、褒められたい訳でもない。己の誇りをただ精一杯に表せればそれで良い。
そうか、それでいいのか、とすとんと心が落ち着いたような気がした。
安室だって何も誰かに褒められたい訳でも、見られたい訳でもない、ただ己の誇りだけで立っている。
あの桜の樹のように美しく、立派かどうかなんて分かりはしないけれど、それでも安室は今一度自分のことを冷静に見直せたような気がしてくるりと向きを変えるとヘッドライトを点灯したままのFDに歩み寄ってボンネットにそっと手を触れる。
あたたかい。
一時間も高速を飛ばしていたのだから当たり前かもしれないけれど、それでも少し肌寒いこの場所で触れるそこは人肌よりもよっぽど安室の心を慰め温めてくれる。
「ありがとうな、FD」
言えばエンジンを止めたはずのFDの車体がぶるりと揺れる。
やっぱり普通に考えれば車の異常かと思うのだろうが、これはFDなりの安室に対する表現なのだ。
小さく笑ってボンネットをそっと撫でればすぅとヘッドライトの明りが落ちて安室の足元だけを照らす。
そう、知らぬ間に随分と視野も考え方も狭くなっていたのかもしれない。
目の前の事だけに囚われて本来の目的を見誤ってはいけない、まさかFDにそれを指摘されるとは思わなかったがそれでもここに連れてきてもらった意味は十分に理解できた。
するりとなだらかなボディラインをなぞって安室は運転席のドアに寄りかかりもう一度白く浮かぶ桜を見る。
「どのくらいぶりかな。花見、なんて」
子供の頃の記憶は定かではなく、一番新しい花見の記憶は警察学校時代の友人たちと仕事の合間に偶然出くわして、近くのコンビニで缶ビールを片手に咲き誇る桜を見上げた。
お互い――安室もすでに黒の組織に潜入することが決定していて――自由になる時間はほんの少しだった。
時間にすれば僅か数十分、それでも馬鹿な話で笑い合って酒を飲んだ記憶は鮮明に残っている。
懐かしい、柔らかい時間に安室は細く息を吐く。
あの時の仲間で、今残っているのは安室だけだ。
みんなそれぞれが、己の信念の元、命を懸けて生きて行った。
追いかけたいと思う、けれどまだそれは許されないのだということは嫌と言うほど分かっていた。
細く息を吐き出したところで安室はドアに手を掛ければ、びゅうと強い風が吹き付ける。
「っ、」
そういえば遮るものもない山の上だったと強い風に目を閉じれば、ほのかな甘いにおいが身体に纏わりつく。
すぐに止んだ風に目を開けば、ひらひらと桜の花びらが上空から音もなく降り注いできた。
思わず手を伸ばして、それど安室の手のひらを滑り落ちていく小さな花びらを視線で負えばそれはFDの上にも何枚も張り付いている。
「ふふ、綺麗だなFD」
真っ白なボディに薄いピンクの花びらがまるで水玉模様のようにFDを彩っている。
目立ちはしなけれど、それでも安室の愛車のいつもとは少しだけ違う姿にそう言ってやればヘッドライトが数回、強く光った。
照れているのか、怒っているのか、どちらにしてもさほど機嫌を損ねた訳ではないというのはドアが簡単に開いたことで分かる。
うっかり機嫌を損ねれば自分の車であるのに乗せてもらえないことがあるからだ。
素直に開かれた運転席に乗り込んで、安室はするりとハンドルをなぞる。
「これからも頼むな」
また明日から走り出すために、そうぐっとハンドルを強く握れば呼応するようにエンジンが力強く唸りを上げた。
降谷は運命を信じない。
多分、そうでもしなければ生きていけなかったのだという自覚はある。
トリプルフェイスを使い分け、心を許した友を何人も見送り、疲弊する毎日を隠しながら生きるのは楽ではない。
生の先に死があるのではなく、死はいつでも傍に居てあるとき唐突に手を伸ばしてくる。
『油断するなよ』そう笑っていた男も、あっけなくその死の手を取って降谷の前からいなくなってしまった。
寂しいと、悲しいも思う間さえ与えられず、疲弊した心と体を引きずって愛車のFDに乗り込んで大きく息を吐く。
エンジンをかけないまま、それでも心地よいピアノの調べが流れてきて降谷は小さく笑ってハンドルに額を押し付ける。
冷たい革の感触が降谷の熱を吸ってほんのりと温かさを滲ませて来る。
「――お前にだけは、俺の本当の姿見せられるんだ」
ありがとう、と伝えた声が震えそうになって降谷はぐっとくちびるを噛みしめた。
泣いている時間なんてどこにもない、それでもこの閉じられたわずかな空間だけは降谷でも安室でもバーボンでもない、ただの一人の人間として息を吸うことができた。
それを自覚した頃から、降谷の愛車であるFDは時々まるで自身が魂を持っているかのように動くようになった。
誰かにそれを言ったのなら、疲れているんだろうとか、下手をすれば部下には病院に連れて行かれるかもしれないと降谷は苦く笑う。
勘違いだと言うには色々おかしなことが多すぎる。
けれど降谷はそれを全部素直に受け入れた。
疲れていたのかもしれない、心が病んでいたのかもしれない、それでも確かに愛車の動きは降谷の心も体も癒してくれる。
別に、大げさな事をしてくれる訳でも、降谷がそれを望む訳でもない。
でも、そのわずかな、勘違いのような、そんな些細な事が降谷には必要だったのだと今ならば思う。
初めてこのFDを見た時から、物欲のさほどない降谷が『欲しい』と一目で購入を決めたのを運命と言うのなら、それだけは素直に受け入れたい。
目にも見えぬ神などに、一度だって祈ったことはない。
けれど、このFDに出会えたことにはただひたすらに感謝する。
ひとつ、息を大きく吐いてハンドルから顔を上げれば淡いピアノの調べは消えてゆき、腹の底に響くようなビートの音楽が流れ始めた。
ふふ、と降谷は笑う。
「もう大丈夫だ、ありがとう」
言って降谷はキーを差し込んでエンジンを掛ければビート音に呼応するように低い唸りを上げたFDのアクセルをぐっと踏み込んだ。
◇春
安室は愛車のハンドルを握りながらふと窓の外を見た。
いつの間にか季節は移ろいを告げていて、沿道には淡いピンク色の花が咲いている。
「…さくら、か」
日本の象徴とも言えるべき花の命は短い。
ついこの間までは硬くつぼんでいた木々が精一杯の生を表すように一斉に花を咲かせる。
健気で、そのくせ潔いその花が安室は大好きだった。
大好きではあったが、それを愛でるような時間はここ数年送っていなかったな、とふと気付いた。
娯楽――と呼んで良いのだろう、そんな事に時間を割くのならば他にやることは幾らでもあったし、もっと言うならば少しでも睡眠時間を増やしてくれと久しぶりに会った部下に釘を刺されてしまった。
今日はポアロでシフトもこなしてきたが、梓をはじめ客のだれひとりにもそんな事を言われなかったと言うのに。
少なくとも、一般人ではない部下達の方が人の表情や変化に聡いには違いない。
それでも、部下相手でもそんな醜態をさらす気はさらさらないと言うのに安室はむぅと頬を膨らませた。
「そんなに酷い顔してるかな?」
ひとりごちたところで、赤信号で車を停めれば勝手にウインカーが光り出した。
「え?なに?」
問いかけてみたものの当たり前だが返事がある訳でもない。
ただ、こういう時は安室がウインカーを戻したところでまた勝手にウインカーが光り出してしまうのだ。
警察官として交通ルールを守らない訳にはいかないから結局ウインカーの示すとおりに安室は青信号になればハンドルを左に切るしかない。
仮の自宅に向かうには正反対のその道に戸惑いはあるが、会話の交わせないFDとでは渋々ながらも従うしかない。
いや、その少し強引で我儘な所も気に入ってはいるのだけれど。
それにしても、行く先が自分でも分からないと言うのはどうにも運転がしずらい。
とは言え、交通ルールを破る様な唐突な指示が出る訳でもないのが流石安室の愛車と言ったところだろう。
と、軽い警告音と共にカーナビが行き先を示し始める。
どこだろう?とちらりと見た到着予定時間は約一時間後だった。ルート案内に手を伸ばしかけて、すぐにひっこめる。
何処に向かうのか分からないちょっとしたドライブに心が浮かれているのが分かった。
手軽なミステリートラベル、と言ったところだろう。
その先で高速に乗るように出ている指示通り、安室は車線変更して高速の入口をくぐった。
「――ここか?」
目的地周辺に到着しました、とカーナビの表示に安室は適当に空いた場所にFDを止める。
高速を降りてから真っ暗な山道を随分と走ったと思う。あまり詳しいカーナビの表示は見ないようにしていたが最終的には車一台がようやく通れるような細い道を進んで行き止まりのような場所にたどり着いた。
車を止めればFDは大人しくなったので、目的地はここで合っているのだろう。
どちらにしても降りてみるか、とエンジンを止めてFDの扉を開ければ冷たい風と共にかすかなにおいが鼻を突く。
四月と言えまだ朝晩の風は冷たく、ましてそれなりに山を登って来たのだからコートが必要な程に風は冷たい。
後部座席に放っておいたジャケットを引き寄せて、それに袖を通してFDを完全に降りてからぐるりと視線を巡らせる。
一応、車を付けてくるような気配は何もなかったが用心に越したことはない。
そう、鋭い視線を投げかけながらふと少し離れた場所にぼんやりと白いものが見えて安室はじっとその影を見た。
わりと夜目は効く方ではあるけれど、白い影は人ではないと言うことぐらいしか分からずに首を傾げる。
その時に、ぱっと周辺が明るくなった。
思わず身構えて、そしてその光の元がFDのヘッドライトだと気付くと同時に光の差す先に映し出された光景に安室は「あぁ」と感嘆の声を上げた。
桜の樹だった。
巨木とも言えるだろうそれは真っ暗な中でFDのヘッドライトがピンスポットのように当たって美しい佇まいを安室の前に晒している。
さっき冷たい風にのって香って来たにおいはこの桜の物だろうか?一般的に良く目にするソメイヨシノににおいはないけれど、種類によってはにおいのする桜もあると聞く。
「…すごい、な」
多分山道の――斜めになった崖の途中に生えているのだろう。
ガードレールの向こうに咲き誇る花が見えて安室はふらりと近づいてガードレールから身を乗り出せばぐっとFDのライトが強くなる。
「大丈夫だって、」
うっかり落ちたらと思ってくれたのだろうか?安室の無謀な運転に文句も言わずに付き合ってくれる所はあるのに、変なところで過敏な程に心配性だったりするんだよな、と苦く笑えば光は少し落とされる。
ガードレール越しにのぞき込めば案の定、崖と思われる斜面に大きな桜の樹が花を咲かせていた。
幹も太く立派だが、多分長くそこで管理されることもなく放っておかれているのだろう。
幹には所々に傷みが見て取れたが、それでもあんな場所で花を咲かせる姿は強くも美しい。
明らかに山道の途中、それも崖の斜面に立つさくらの樹など知る人は地元の人ぐらいなのだろう。
昼間でも人気はなさそうだが、桜の樹にしてみれば誰かに見て欲しくて花を咲かせている訳でもない。
じわりと安室の心の中に温かいものが染み入るようだった。
「――そっ、か」
誰かに見られたい訳でも、褒められたい訳でもない。己の誇りをただ精一杯に表せればそれで良い。
そうか、それでいいのか、とすとんと心が落ち着いたような気がした。
安室だって何も誰かに褒められたい訳でも、見られたい訳でもない、ただ己の誇りだけで立っている。
あの桜の樹のように美しく、立派かどうかなんて分かりはしないけれど、それでも安室は今一度自分のことを冷静に見直せたような気がしてくるりと向きを変えるとヘッドライトを点灯したままのFDに歩み寄ってボンネットにそっと手を触れる。
あたたかい。
一時間も高速を飛ばしていたのだから当たり前かもしれないけれど、それでも少し肌寒いこの場所で触れるそこは人肌よりもよっぽど安室の心を慰め温めてくれる。
「ありがとうな、FD」
言えばエンジンを止めたはずのFDの車体がぶるりと揺れる。
やっぱり普通に考えれば車の異常かと思うのだろうが、これはFDなりの安室に対する表現なのだ。
小さく笑ってボンネットをそっと撫でればすぅとヘッドライトの明りが落ちて安室の足元だけを照らす。
そう、知らぬ間に随分と視野も考え方も狭くなっていたのかもしれない。
目の前の事だけに囚われて本来の目的を見誤ってはいけない、まさかFDにそれを指摘されるとは思わなかったがそれでもここに連れてきてもらった意味は十分に理解できた。
するりとなだらかなボディラインをなぞって安室は運転席のドアに寄りかかりもう一度白く浮かぶ桜を見る。
「どのくらいぶりかな。花見、なんて」
子供の頃の記憶は定かではなく、一番新しい花見の記憶は警察学校時代の友人たちと仕事の合間に偶然出くわして、近くのコンビニで缶ビールを片手に咲き誇る桜を見上げた。
お互い――安室もすでに黒の組織に潜入することが決定していて――自由になる時間はほんの少しだった。
時間にすれば僅か数十分、それでも馬鹿な話で笑い合って酒を飲んだ記憶は鮮明に残っている。
懐かしい、柔らかい時間に安室は細く息を吐く。
あの時の仲間で、今残っているのは安室だけだ。
みんなそれぞれが、己の信念の元、命を懸けて生きて行った。
追いかけたいと思う、けれどまだそれは許されないのだということは嫌と言うほど分かっていた。
細く息を吐き出したところで安室はドアに手を掛ければ、びゅうと強い風が吹き付ける。
「っ、」
そういえば遮るものもない山の上だったと強い風に目を閉じれば、ほのかな甘いにおいが身体に纏わりつく。
すぐに止んだ風に目を開けば、ひらひらと桜の花びらが上空から音もなく降り注いできた。
思わず手を伸ばして、それど安室の手のひらを滑り落ちていく小さな花びらを視線で負えばそれはFDの上にも何枚も張り付いている。
「ふふ、綺麗だなFD」
真っ白なボディに薄いピンクの花びらがまるで水玉模様のようにFDを彩っている。
目立ちはしなけれど、それでも安室の愛車のいつもとは少しだけ違う姿にそう言ってやればヘッドライトが数回、強く光った。
照れているのか、怒っているのか、どちらにしてもさほど機嫌を損ねた訳ではないというのはドアが簡単に開いたことで分かる。
うっかり機嫌を損ねれば自分の車であるのに乗せてもらえないことがあるからだ。
素直に開かれた運転席に乗り込んで、安室はするりとハンドルをなぞる。
「これからも頼むな」
また明日から走り出すために、そうぐっとハンドルを強く握れば呼応するようにエンジンが力強く唸りを上げた。
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