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    アオイハル〈サンプル〉「付き合おうぜ」
     唐突に目の前の男が吐いた言葉が、そのまま脳内を素通りしたのは無理もない。
     いつものように昼休憩。食堂で買ってきた総菜パンを手にやってきた別のクラスのランサーの台詞だった。
     期末試験が終わり、ゆったりとした空気が流れている。次の授業は視聴覚室で行うから移動しなければならない。ホワイトボードに今日の日直がデカデカと書き記した文字が見えた。
    「なあ、アーチャー」
     前の席の椅子を堂々と使用しているランサーは、返事を促すようにこちらへ視線を寄越す。持ち主はとっくの昔に部室へ行ってしまっているので文句を言うことはない。返事をすることもなく弁当の残りをかき集め無言で口へ入れた。
    「食事が済んだならさっさと教室へ戻れ」
     ランサーはブリックパックのイチゴ牛乳をペコペコと行儀悪く鳴らす。ランサーと知り合い、こうして弁当を食べるようになってからいつでもイチゴ牛乳を飲んでいる。特段他人の趣味嗜好に文句を付ける気はないが、理解し難くあった。
     ペコッと最後のひと吸い。そのままぐしゃりとパックを潰したランサーは、口にストローを咥えたままだ。
    「付き合おうぜ」
     同じ言葉を繰り返した。
    「放課後か? ならば部活が終わってからになる。できれば水曜日の方がありがたいが」
     溶けた保冷剤ごと空の弁当箱を包み、移動教室の準備を整える。すでにクラスのほとんどが視聴覚室へと向かっている。残されたのは数えるほどしかいない。
    「どっかに付き合えって話じゃねえの、分かってるだろ」
    「何の話だ」
     そう。まったく以て何の話だ。意図的に止めていた脳内で繰り返した。
     高校三年。一学期の期末テストが終わり、高校最後の部活が再開された初夏の昼。目の前にいるのは腐れ縁と名付けられた陸上部の走り手ランサー。その男が。何の冗談を言っているのだ。
    「何で怒るんだよ」
    「怒ってはいないさ」
    「すっげー皺寄ってんぞ」
     眉間、と指がさす。
     言われなくともそのくらい分かっている、と心中呟いた。何故今こんなことを言われているのか分からない。
     もしこれがアーチャーの想像通り——恐らくハッキリと確実なことだが——告白と呼ばれるものだとしたら、昼下がりの体育館裏ではにかんで伝えられとか、相応のシチュエーションであっても良いのではないだろうか。
    「なぁ? オレとお付き合いってヤツ、しようぜ?」
     クラスに誰もいなくなったのを良いことに、ランサーの言葉に拍車が掛かる。
    「私が、ランサーと?」
    「そう、オレとお付き合い」
     悪くねえだろ。ニッと見慣れた笑みを浮かべた顔は、断られることなど微塵も想像していない雰囲気だ。
     腐れ縁、二個イチ。一年次には同じクラスだったが、二年次にクラスが別れてからもなぜか一緒にいることが多い。部活も違えばクラスも違う癖に、ともすれば教師にすら私に向かってランサーを知らないかと尋ねる始末。
     そんな男のことを無論嫌いではなく。そもそも嫌いであればこんなにも一緒にいない。いや、もっと積極的な言葉で表すなら、
    惹かれてはいた。だがそれと先ほどの台詞これは別である。
     開け放った窓から吹く温い風で、浮かんだ汗が伝い落ちた。次の教室は視聴覚室なのでしっかりとエアコンが効いているだろう。昼食後の午睡にもってこいだが、テストの返却があればそうも言っていられないか。
    「お前を好きってことなんだけど」
     伝わってんのか? これ。と幾分ゆっくりと告げられた言葉に、眉を上げる。
    「気は確かか?」
     暑さにやられたのだろうか。普段から炎天下の中、走り込みに勤しむ健全な肉体が、そんなことになるはずもないと分かっている。
    「確かも確か。しっかり意識はあるぜ? アーチャー」
     淡い期待は裏切られ、目の前ではランサーが目を細めた。
     あまりにも突然だ。いつもの昼休憩が何かおかしい。テスト期間という締め付けから解放され、返却が始まっていない今が一番気楽であるはずなのに何故こうなった。心中で繰り返す。
    ——付き合う? ランサーと、私、が?
     思わず立ち尽くした私に倣うようにランサーも立ち上がる。ランサーは移動教室ではないようだが、クラスへは戻らなければならない。
    「で、返事は?」
     促される言葉と、腕時計が示す時間が頭を急き立てた。早く答えなければ。行かなければ。
    「よろしくお願いシマス?」
    「何で疑問系なんだよ、ターコ」
     まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような表情のまま返した言葉は、ランサーのお気に召さなかったらしい。正直、マシな返答ができる状況を選ばない方が悪い。
    「状況も言葉も選ばないランサーが悪いだろう」
    「なんだ、もっとロマンチックがお好みかぁ? 悪ぃな。お前の好みくらい知ってたが我慢できなくて」
     呆れたように続けると、総菜パンの袋とイチゴ牛乳のパックをまとめてゴミ箱へ放り投げる。未だに立ち尽くすこちらを置いて扉の前で振り返った。
    「お前も遅れんなよ」
     見慣れた人懐こい笑みを浮かべて言い捨てる。そのまま〝走るな〟と規則ルールがある廊下を駆けていく。
     しばらく先ほどの言葉を反芻してみたものの、気づいて時計を見た。電子デジタル数字が示した文字は始業まであと二分。まずい、と整えた用具をまとめて握ると全力で廊下を走り抜けた。


     そよ、と涼しいには一歩足りない風が吹き抜ける。
     ギリギリで教室へ滑り込んだ私に残された席は、エアコンの吹き出し口からは最も遠い窓際で、その分教師の目は届きにくい場所でもあった。
     授業は、リスニング強化と称して時折取り入れられる洋画の鑑賞。無論字幕はない。これも勉強だと壮年の教師は言うが、テスト後のちょっとした休養だと誰もが分かっている。おかげで午睡に興じる者から、個人勉強に勤しむ者まで様で、周囲に迷惑さえ掛けなければ、注意されることも少ない。よって普段であれば、そんな時間を有効に使おうと単語帳のひとつでもめくるのだが、今日のところは先ほどの大事のおかげでそんな気持ちになるはずもなかった。
    ——何がロマンチックだ。
     ランサーの言葉を反芻する。
     そもそも、ロマンチックが好みと言われたことも解せない。かつてランサーに問い詰められるまま、妙に桃色味を帯びた話をした記憶がある。あのときは言いたくもなかったが、あまりにも問い詰めるものだから、渋々答えたあれだ。未だに覚えていたらしい。
    『オレは好きになったら言う。奪ってでもモノにしてえ』
     ランサーは随分と物騒なことを言っていたが、奪うはともかく、前者に関しては本日見事に実証された訳だ。
    ——いや、そもそもの問題はもっと根本だ。
     静かにため息を吐いた。
     ランサーが何を言ったのか——己は何を言われたのか。あの場で幾度も確認したが、思い返してもまるで信じられない。
    ——ランサーが、私を好き、だと?
     だがそれを馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしはしない。言葉通り〝好きになった〟から言ったのだろう。それが昨日今日のことなのか知る術はない。
     どうせなら、己から言いたかった。思いはすれど、あくまで希望に過ぎない。ランサーに対して抱いたこれを、告げてどうなる、という気持ちの方が大きい。今までにランサーから語られる女性の好みを知っているというのは、己の気持ちを告げるには、いささか高い障害物ハードルだ。
    ——胸がでかくて引き締まった体つき。私が好みとする女性像とは正反対だが、そんな相手が好きだと言っていただろう。
     にも関わらず、今日。つい先ほど。ランサーは腐れ縁である男へとお付き合いを願い出たのだ。理解できなくとも、おかしくはない。
    ——交際……か。
     それがどんなものなのか、想像しかできぬ故に曖昧だった。
     今まで誰かと付き合ったことはない。一年次からそうした遊びをに勤しむグループはあったが、生憎その中に混じることもなく過ごしてきた。部活に精を出していたことも理由の一端であり、異性へ視線を向けるよりもランサーと馬鹿をやっている方が楽しかったこともひとつである。
     友情がいつしか違う方向性ベクトルを帯びたと気付いたのはほんの少し前のことで、ランサーからの告白はタイミングとしては同じようなものだった。
     ランサーとは気が合うだけでなく、今まで幾度も喧嘩をしてきた。それでも仲直りをし、今に至っている。高校生らしいあっけらかんとした快活さを持ち合わせ、それ以上にさっぱりとして何とも男前な——。
    ——そう、男。
     なぜ男なんだ、と自問する。
     これが男子校ならいざ知らず、周囲には女子もいる共学校だ。つい一年ほど前にはどこぞのクラスの女子が可愛いと、私へ向かい熱弁していたではないか。それが何の間違いがあってこちらへ向かい、好き、などとほざくようなことになってしまったのか。
     眉間に渋い皺を寄せ、口からひとつため息が漏れた。
    ——いや、ランサーだけを責める訳にはいかないか。
     あまりに突飛なランサーの言葉に翻弄されたが、その実己もまたランサーのことを悪くない、いやむしろ好ましいと思っている。返した返事は随分と間抜けなものになってしまったが、その気持ち自体は偽りのない事実だった。
     薄暗い教室の正面に、プロジェクターから投影された輪郭のぼやけた映画が映っている。眠りに着くことに決めた男子たちは既に夢の世界へと旅立ったらしい。エアコンの恩恵を受ける席付近からは、寝息にしては少しばかり五月蠅い音が聞こえてくる。
     教師が選ぶ映画は特に決まりルールがあるわけではない。それなりに聞き取りやすく、学校で流しても問題のないようなものが選ばれていた。
     授業間の休憩も利用して百分程度で終わる映画。これがリスニングの足しになるのかと疑問に思ったことはあったが、一本見終わると存外英語を聞く耳になっているのだと驚いた。この映画をそこそこ聞けるようになったら、英語圏への旅行は難しくない。教師の語った言葉もあながち間違いではないだろう。
    may give me a kissキスしてもいいわよ
     唐突にスピーカーから流れた女の声に、視線を上げる。古めかしい時代のアメリカを舞台にした映画の中、幾分澄ました女が男へ向かい挑発的な視線を浮かべていた。
     普段の生活でキスという単語を聞くことは少ないせいか、先ほどの台詞で周囲の何人かが顔を上げたのが見える。具体的な濡れ場ではないので冷やかすような者はいないが、気にはなるのだろう。
     映画の中で女が手を伸ばす。夜会服を着た男が必ず己の手を取ると信じて疑ってもいない強い視線。奥ゆかしさという表現の真反対を行く女の行動は、日本人である自分には幾分理解しがたい。『 Pleaseお願い 』と請うでもなく『 I wantしてほしい 』と願う訳でもない。
     自分の価値を十分理解したうえで挑発的に誘う行為は、随分と異文化を感じさせた。
    ——付き合おうぜ、か。
     映画を視線の端に捕らえながら、先ほどの言葉を思い返す。奥ゆかしさも、はにかむような雰囲気も何もなく直球ストレートに伝えたランサーの言葉は、なるほど彼が日本圏の育ちではないのだと妙に納得する。
     映画の中で駆け引きを続ける男が、うやうやしく取った女の手へ気障ったらしいキスをした。互いに一歩も引くつもりはないらしい。探り合うようなやり取りが続いている。
    ——Kiss me.キスしろ
     唐突にランサーの声で浮かんだ。
    ——駆け引きなどしない。
     して欲しいことがあれば、ハッキリと言う。そのハッキリ具合が元で喧嘩になったことも幾度かあるが、慣れてしまえば半端に黙っていられるよりも随分と楽だ。
    ——ランサーならばこちらだな。
     スクリーンに映る女が、赤い唇に蠱惑的な笑みを浮かべた。駆け引きは女の勝ちらしい。大げさに感じるほど両手を持ち上げ男がため息を吐く。そして、女を抱き寄せキスをした。生々しくはない。古い映画だからなのか、肝心な部分はさほど映されてはいなかった。
     ふと眉間に皺を寄せる。
    ——何を考えているんだ。
     映画に引きずられたせいだが、ランサーの告白もどきから経っていない今考えるには、己ひとりがその先を想像しているように感じて居心地が悪い。
     どうかしている、と頭を振った。
     そもそも誰かと付き合うということ自体、よく分かっていない。好ましく思っていたのは事実だが、前例のない元カノのいない己にとって未知の領域だ。にも関わらずそうした、、、、ことを思い浮かべてしまうなど、完全に童貞のそれでいたたまれない。
     ひっそりとため息を吐いた。
     今さら映画に集中したところで話の展開など分からないだろうが、少なくとも埒もないことを考えるよりは少しはマシだ。すっかり場面の変わってしまったスクリーンへ目を向ける。赤茶けた大地に荒々しい風が吹き抜ける様子が飛び込んだ。


      ◇◆◇◆◇


     昨日変わったことがあったとしても、学生生活に何ら変化は訪れない。
     朝起きていつものように学校へ行く。通学路で出会う名を知らぬ学生の顔ぶれも変わらなければ、授業中に開く教科書に変化もない。午前中に詰め込まれた授業を淡々とこなし、忘れていた予習を授業の合間に手早く済ませるのもいつものこと。
     何も変わらぬ分刻みのスケジュールを終え、ほっとひと息吐く頃には昼休憩がやってくる。別に弁当を食べに学校へ来ている訳ではないが、わずかばかりの楽しみであることに違いはない。先ほど返却されたテストから解放されたクラスメイトたちは、チャイムと同時に三々五々へ散っていった。
     はぁ、と何気なく吐いた空気は、思いの外沈んだ色を浮かべている。
     午前中に返ってきたテストはまずまずの出来。特別良くはないが、己のボーダーラインはクリアしていた。にも関わらず気分はすっきりとはしない。理由はよく分かっていた。
     少しばかり窮屈に感じる机に弁当箱を取り出す。そのまま廊下へ視線を向けた。
     昨日、家に帰ってからもランサーに言われた〝お付き合い〟とやらが頭から離れなかった。反芻したくもないのに予習の合間に、ふと気を抜けばすぐにそのことが浮かぶ。
    ——オツキアイ。
     未だにその実感はない。厄介なことに忘れようとしても、簡単に浮かび上がってくる。
     勉強が好きという訳ではないが、受験生としてこれはいかがなものか。そろそろ本腰を入れて受験勉強に向かわねばならぬ今考えるようなことではない。
    ——答えのない問題ほど厄介なものはないな。
     相変わらず廊下に向かって開かれっぱなしの扉を見ながら、そっと眉間に皺を寄せた。
     お付き合いが始まった初めての今朝。ランサーが一緒に登校しようと家へ誘いに来ることもなければ——ランサーは学校併設の寮で生活をしているのだから当然だが——昼休みになるまで、姿を見ることもなかった。
     交際中の過ごし方に関して乏しい知識しかないが、こうも普段と変わらなければ、いっそ昨日のやりとりが夢だったのではないかとすら思えてくる。むしろその方が気楽かもしれない。
     ため息と共に、腕に馴染んだ時計を見た。
     休憩に入るチャイムを聞いてから五分が過ぎている。チャイムが鳴ると同時に教室を飛び出し食堂へ駆け込んだランサーが、今日の戦利品昼食を片手に飛び込んでくるのは間もなくだろう。
    「アーチャー」
     予想通り、軽快な足取りでランサーが教室へ入ってくる。手にいくつかの総菜パンと珍しく唐揚げを持っていた。基本的に味がイマイチと定評のある食堂の総菜だが、唯一旨いと人気の唐揚げは、俊足のランサーでも争奪戦に勝つことは少ない。
     三年の教室は三階。一階端に位置する食堂への道のりは、下のフロアに教室のある下級生に軍配が上がりやすい。一年次、二年次と毎食のように唐揚げを手に入れていたランサーが、三年になった途端ぼやいたので良く知っていた。
    「今日は勝った」
     ニッと満足そうな笑みを浮かべ、いつものように前の席を陣取る。三階から駆け下りたのかと呆れたように問えば、自信満々な返事があった。
    「三段抜きがポイントだな」
    「たわけ、危ないだろう」
     反射神経の塊のようなランサーは無事でも、うっかり他生徒を巻き込めば一大事だ。
    「んなヘマはしねえよ」
     昼休憩だからとエアコンを切られた教室は、窓が全開になっていた。温い空気がランサーの髪を揺らす。うっすらと浮かんだ汗をぞんざいな仕草で拭い、見慣れたイチゴ牛乳にストローを挿す。
     何ひとついつもと変わりはない。唯一の違いは唐揚げだが、それも些細なもの。
    「ん? どうした」
     首を振った。つい視線を向けていたらしい。遠慮なく総菜を頬ばるランサーを視界の端へ追いやり、用意した弁当の包みを開く。朝残り物を詰めただけのものだが、食べる本人がそれで良いのだから問題はなかった。
    「テスト返ってきたか?」
    「数学と日本史が」
    「あー…オレは午後から世界史と…あとは古典が返ってきそうだな」
     ランサーのクラスの古典担当はテストの即返却に定評のある教師だ。確実に返ってくるだろう。なかなかにえぐい作りのテストだったので、ランサーが不快な表情を浮かべた意味はよく分かる。
     テスト明けくらい少しは気を抜かせてくれと愚痴るランサーの口には、ふたつめの総菜パンが押し込まれた。萎びたレタスを挟んだコロッケパンは、悪い評判ばかりを聞くが密かに嫌いではない。しっかりとミンチ肉が入っているので、潰したジャガイモがしっとりとしていて中々良い出来だと思う。
     まるで当たり前のように、ランサーの手が伸びて弁当箱の中からブロッコリーを摘まむ。特に止めることもない。何ならランサーが掠っていくのを分かっていて、少し多めに入れているくらいだ。
    ——付き合っていると言っても、何も変わりはしない。
     特に何の変わりもなく、いつものように会話を交わし、いつものように向かい合う。付き合うと言ったところで、互いに与えられた名称が『腐れ縁』から別のものに変化しただけのことなのだ。
     ストンと胸に落ちた答えに、落胆は訪れなかった。むしろ昨夜ひと晩ぐるぐる考えたことが馬鹿馬鹿しく思えてくるほど簡単だと、ずいぶんと気持ちが軽くなったように感じる。
    ——付き合ったからと言って、まかり間違ってもランサーが可愛く見えるようなこともない。
     目の前で昼食を頬ばる姿は、見慣れたものと寸分違わず可愛さの欠片もない。オツキアイをしている関係になれば、キラキラと輝いて見える——乏しい知識には、そう刻まれている——らしいがそんな不可思議な現象は今のところ一切なかった。
     唐揚げを手にしたランサーの笑顔を見て、若干胸が鼓動を打ったがそれは今に始まったことではない。元々好意自体は感じていたのだ。不意にランサーから仕掛けられた告白のせいで、随分と翻弄されたが、名称が変わっただけであれば何も己が意識する必要はなかった。
    「いつも通りだ」
    「……? 何が」
     心の中で呟いたはずの言葉がうっかり口に出ていたらしい。すっかり昼食を食べ終えたランサーが、行儀悪くストローを咥えたままパックを揺らす。
    「いや、何でもない。テストの出来が、だ」
    「何だ…自慢か? 嫌なヤロウだな」
    「コツコツ積み重ねてるだけだよ」
    「お前らしい」
     特別よくできる訳でなければ、勉強などそんなものだろう。
    それにしても、名称が変化しただけとは随分納得できる回答を得た。ひとりで満足に浸る。
     昨日は関係がいきなり変化するのだと思わされたことで、ついついランサーとのキスなど想像してしまったが、今後は一切そんな考えが浮かぶこともないだろう。
     ちなみに寝る前にはキスよりも先のことが浮かんだりもしたが、保健体育の授業以上に未知の世界すぎた。調べる勇気はいまのところないのでしばらくは封印しておきたい。
    ——今夜は大丈夫だな
     いつもと変わりがないと思うことで、妙な考えが浮かぶことはない。実感が沸かないお付き合いではあるが、いくら経験がないとはいえ、徐々に段階を踏んでいけば翻弄されることもないはずだ。
    「何ひとりでニヤニヤ笑ってんだ……」
     ランサーの呟くような声が、思考の波を遮る。気持ち悪いぞ、と訝しげな表情を浮かべたランサーがこちらを見ていた。
    「何でもないさ」
    「今日のお前は何か変だぞ」
    「そんなことはない」
     ありきたりな言葉で否定をし、思考を続ける。
     今はランサーとの関係は単に名称が変更になっただけのことだと思えば良い。漫画に見られる恋心とやらの煌めくような雰囲気は微塵もないが、それも悪くはない。
    ——そもそもあんなに突然言うランサーが悪い。
     よく分からないまま、何の変哲もない日常にいきなり突っ込んできたランサーが乱したのだ。
    「…アーチャー」
     陸上部のホープと言われる俊足は、走りだけでなく何事のテンポも速過ぎるのが欠点だろう。思考の切り替えも早いし、結論を出すのも早い。その辺りが好ましい部分でもあるが、今回ばかりは文句を言いたかった。
     少なくとも、こちらが予期して考える体勢を整える時間くらいは与えられて然るべきだ。
    「アーチャー」
    ——そもそも私はランサーの何を好ましいと思っているのか。
     根本的な疑問が浮かんだ。昨夜はつい付き合うということ自体に意識をとられたが、もっと肝心なことが整理できていない。
    食べ終えた弁当を包み、牛乳へと手を伸ばす。
     牛乳はランサーがいつも買ってくる。ふたりで買いに行けばその分昼食を摂るのが遅くなるから嫌だということだったが、そんなにも待てないものかと思う。だが、何が何でも自分で買いに行かねば気が済まない訳ではないので、もう随分前からランサーに任せている。
     気がつけば好ましいと思っていた。昨日見た映画の女のように駆け引きをしないところだとか、思った感情がすぐ表に出るストレートさだとか。思い浮かびはするものの、果たしてそれが答えかと問われれば、違うような気もする。
    ——好意というのは随分と難しい定義だな。
     そのうち、ゆっくりと関係を深めれば、ドキドキとした胸の昂ぶりを感じたりするのだろうか。
    「おい、アーチャー」
     呼ばれた声に顔を上げた。怪訝な視線を浮かべたランサーと視線が合う。
    「随分と考え事に浸ってたな? どうした」
     よもやまさかランサーとのお付き合いについて考えていました、とは言えない。私にも男としての自尊心プライドはある。
    「何、今日の夕食は何にしようかと思ってね。唐揚げも悪くないと」
    「何だそれ、ずりぃぞ」
    「明日の弁当に大量に持ってきてやるさ」
     食堂の唐揚げよりも私の作る唐揚げを好んでいると知っている。ひとつ寄越せと摘ままれて、そのまま半分以上奪われて以来、弁当に唐揚げを詰めるときには別容器にランサーの分まで持ってくるようにしていた。
    「そいつは楽しみだ」
     ニッと笑ったランサーの口元で、潰れたパックがぺこんと音を立てた。
     昼休憩にはランサーととりとめもない話題に興じて過ごすのだが、考え事をしていたせいで昼休憩の大半が過ぎてしまった。総菜パンを包んでいたラップを丸め、ランサーが身を乗り出す。
    「なぁアーチャー」
     机越しに寄った顔に、楽しげな笑みを浮かべた。
    「放課後、飯食いデートに行こうぜ」
     思わず口元を押さえた。飲み込もうとしていた最後の牛乳が喉で妙な音を立てる。
     ランサーの声が、いつもより二回りほど落とされていたのはそれなりに気を遣ったからだろう。だが、どうせ気を遣うならまずはこちらの事情を斟酌してほしい。
    「ん? どうした」
    ——昨日に引き続き、今度はこれか!?
     ゆっくりと少しずつ。
     などと答えを得て悦に入っていた数分前の己を笑いたい。
    「っ……!? デっ……」
    「いいだろ?」
     オレたち付き合ってるんだし。さも当然のように言われれば、あぁそうかと間抜けな返事を口にしそうになる。さすがに二日連続でそのような失態は犯したくない。
    「なっ…どこに…、いや、君は寮の食事があるだろう!」
    「ンなもんいくらでも食える」
     夕食前に飯を食っても、寮に戻ってもう一度夕食を平らげることくらい訳はない。ランサーはさも当たり前のように言う。
    「どんだけ食っても足りないくらいだ」
     言われてみれば己もその程度は軽い。いや、そういう問題ではない。
    「突然、すぎだろう」
    「あ?」
     もう少し…先ほど思っていたように少しずつお付き合いという状態を受け入れてから。そう思っていたというのに。
    「せめて週末にしないか」
     土曜日までならあと三日ある。その位あれば、多少なりとも覚悟が決まるというものだ。
    「何で」
    「……何でも」
     渋い声が出る。ランサーとお付き合いをするという事実を受け入れるのに時間が掛かります、とは言えない。告げれば確実にランサーは笑うだろう。「考えるより慣れた方が早え」とかなんとか言う姿が目に浮かんだ。脳裏に浮かべた言葉は、思いの外リアルに想像できた。
    「用事があるってんなら明日でもいいが」
    「用事はない」
     反射的に答えた言葉は、結果からすれば間違っていた。だが口を閉じてみたところで遅い。
    「んじゃ決まりな! 部活終わったら弓道場まで行くから待ってろよ」
     用事はないが、今日はまだダメだ。あと、校門待ち合わせで良いではないか。大体どこへ行くんだ。
     すべてがない交ぜになり、結局ウンともスンとも言えないうちに、ランサーはさっさとゴミをまとめて出て行ってしまった。
    呼び止めようとして中途半端に止めた声が虚しく残る。勢いよく立ち上がったせいで、何事かと振り返ったクラスメイトの視線が痛い。
    ——追いかけてどうするんだ…。
     どうせ何も言えないのだから、受け入れるしかない。
     オツキアイ。デート。
     たった二日の間にこんなにも事件を立て続けに体験などしなくて良い。自身のキャパシティは既に満杯だ。何とも言えぬ吐息が漏れた。


     慣れ親しんだ弓道場との付き合いもあとわずか。夏休みが開け、秋の大会が終われば受験生である三年は引退だ。
     雑然と私物の並ぶ部室。現部長の指導の下、常に清められた矢場とは随分と様相が異なっている。有り体に言えば汚い。高校の部室なのだからこんなものだと言われればそれまでだが、つい気になって手を出してしまった。
     随分と傷んだまま放置してある矢羽やばねの数々は、きちんと手入れメンテナンスをしなければそのうち使えなくなってしまうだろう。神棚を祀ることはきちんと出来ているが、部費で購入した備品の扱いについては指導が行き届いていないらしい。
     ほんの少しのつもりだった。ついでに、弓道部よりも部活時間が長い陸上部の終了時間に合わせる意図もあった。
    ——ランサーが来るときに他の部員がいると面倒だからな。
     あれでランサーは女子に人気がある。きさくな雰囲気がそうさせるのだろう。誰とでもフランクに話す雰囲気が、相手に変な気を持たせるのを知っているのかは知らないが。
     部室に揃えてある木工ボンドを片手に、黙々と羽を直す。集中する作業は嫌いではない。部活の主導を二年に譲る前までは、こうしてよく備品の手入れをしたものだ。
     最近は部活が終わるとすぐ家に帰り、一応勉強道具を広げる生活を繰り返していたせいで、随分と熱中してしまった。不意に聞こえたランサーの声に顔を上げる。
     すぐ確認した時計は、目的の時間を幾分過ぎていた。これで半時はんときも一時間も遅いようだったら目も当てられない。
    「すぐに出るッ」
     窓の外から声を掛けたらしいランサーへ叫び、修繕の終わった矢羽を矢立箱へと突っ込む。弓道場の鍵は部長から事前に預かっている。明日の朝返却すれば良いと話もつけてあった。
     慌てたそぶりを隠し、普段通りの顔を整えてからランサーの待つ弓道場の外へ出る。
    「よっ」
    「待たせてしまったな」
    「珍しいな、部長は譲ったんだろ?」
    「矢が傷んでいたもので、つい手を出してしまった」
     お前らしい。ランサーは責める風でもなく笑いを浮かべた。
    「ところでどこへ行くんだ」
     ぐだぐだと考える余計な時間がなかったことが功を奏したらしい。これから待ち受ける時間が一体何なのかを反芻することもなく言葉が出た。
    「ハンバーガー」
     安くて手軽。その分ボリュームは少ないが、倍の量を頼んでも懐に響かない高校生御用達のファストフード。ランサーの目的はどうやら赤い看板が目印の店らしい。
     突然誘われた食事先で、まさか普段入ったことのないような店を選ぶとは思っていなかったが、ずいぶんと拍子抜けした。
    「もう腹減りすぎ」
     倒れそうだ、と大げさに腹部をさすってみせるランサーへ、大げさなと返しながら自転車小屋へと向かう。その道すがら、手に触れた感覚をさらりと躱した。
    「なんでだよ」
     酷く不満そうな声が聞こえる。
    「誰かが見ていたらどうするんだ」
     すっかり陽は暮れ、部活帰りの生徒もほとんどいない。校舎の裏手にある自転車小屋近くともなれば一層誰の気配もない。だが、万が一ということもある。
    「どうって、付き合ってるなら問題ないだろ」
    「そういうにはならないんだ! オレは!!」
     思わず大きな声が出た。
     男ふたり並んで歩いている程度ならなんら問題はないが、手をつなぐ、などという状況にもなれば一般的ではない。女子同士が仲が良さそうに手をつないでいる光景シーンは見たことがあるが、男子同士が手をつないで歩いている姿など己の知る限りでは見たことはない。
     今はまだ、周囲にオツキアイを知られるだけの覚悟がなかった。ではそれはいつなのかと言われれば明言することもできないのだが。
    「しょうがねえなぁ」
     思いっきり聞かせるようにため息をついたランサーは、それでも諦めてくれたらしい。こうと決めたら存外譲らない性格なので、それなりには私のことを慮ってくれたのだろう。
    「海沿いの方でいいな」
     自転車のスタンドを外して跨がる。ランサーは当然のように後輪に着けたステップへ足を掛けた。
    「国道のとこのが近いだろ」
    「そちらはダメだ」
     有無を言わさずランサーを乗せ自転車のペダルを蹴る。ランサーの言う国道沿いにある店舗は確かに学校から近い。だが、その分同じ高校の制服をよく見る。学校帰りに勉強という名目で時間を潰している知り合いに会う危険性が高かった。
    「お前のチャリならそんな時間かかんねえか」
    「あぁ。帰りも学校まで送ってやる」
     体重がかかったタイヤがキィと音をたてた。ランサーに掴まれた肩にほのかな体温を感じる。
    「すげー涼しい」
     部活で火照った体に温い風が当たる。初夏は通り過ぎ、すでに夏といった季節。暑すぎる日中のせいで闇に包まれた夜でも空気が冷えない。けれども自転車のスピードを上げれば心地の良い風が吹き抜けた。
     部活のこと。次の大会のこと。背中越しに聞こえるランサーの話題は尽きない。今までもこうして自転車の後ろにランサーを乗せて出かけたことはある。だが、どことなく違うと感じ、意識してしまうのはランサーと私が付き合っているからなのか。
    カッターシャツ越しに移る温もりを無意識に追った。
    「アーチャーは何食べるんだ?」
    「まだ考えてない」
     食事のことよりも、別のことで思考はいっぱいだ。
    「ナゲット十五ピース安くなってねえかな」
    「そんなに食べるのか?」
    「一個くらいなら分けてやる」
     楽しげに笑うランサーが体を揺らす。背筋にランサーの体が触れる。じゃれ合いだと分かっているが、それでもドキリと脈を打った。
    「食べたいと思うなら自分で頼むさ」
    「お前ならそう言うと思ってた」
     この時間を早く終わらせた方が良い。妙に近い体勢のおかげで何かと意識をしてしまう。
     常よりも力強くペダルを踏んだ。
    「腹減ってんのか?」
    「そうだな」
     視線の先に赤い看板が見える。あと少し。意識の奥ではどこか名残惜しいような気もしたが、振り払う。
     店の隣に自転車を駐め、店内に入るまでは早かった。自転車から降りるランサーの手が、肩から離れる感覚を追い出すのに精一杯だった。
     店内で食べるかとランサーに問われ、きっと距離を詰めてくるような気がしたので首を振る。いくら学校から離れているとはいえ、見慣れた制服がこの店にもやって来ることがある。
    「海辺ではどうだ」
     潮風ならば少しは涼しい。海水浴をする時間でもない砂浜なら人気はほとんどなかった。
     エアコンの効いた店内に未練があるかと思ったランサーは、拍子抜けするほどあっさりと頷いた。先ほどから同じ学校の生徒を避けようとしている私の意図が伝わったのか、それとも海辺の方が遠慮をしないで良いからと思ったのか。どちらにせよ提案が受け入れられ少しばかりほっとした。
     互いの注文を詰めた袋を小脇に抱えて道路を渡る。店の向かいがすぐ海だった。
    「アーーチャーっ」
     突然後ろから駆け寄る気配と、ただならぬ声音が耳に入った瞬間、私も走り出した。幸い道路を照らすヘッドライトはない。
     ガードレールの切れ間をすり抜け、ほの青い街灯に照らされた歩道へ出る。
    「っ、なんで逃げるんだよッ」
    「落ち着けランサー」
    「うるせえ!」
     振り返る余裕はなかった。走り慣れたランサーならば紙袋とシェイク、そのうえ鞄を持っていても侮れない。
    「追いかけるなッ」
    「逃げるなっ」
     歩道と砂浜を分けるコンクリートの塀。海へ続くように作られた階段を二段飛ばしに駆け上がり、砂に足を埋めた。
    「っ…ッ! まてっ、荷物が落ちる」
     正直言って限界だった。
     ずり落ちそうになる紙袋を指先でなんとか掴み、反対の手に握った炭酸飲料は泡立って隙間から手に向かい零れている。肩に掛けた鞄もギリギリ落ちないようにしている状況で、こんな状態で砂浜を走れば確実に惨事が起きる。
    「逃げなきゃ追わねえって」
     とすっと砂浜に降り立った音を聞きながら、荒れた呼吸を整え振り返る。
    「…突然、叫ぶから…、だろう」
    「だからって逃げるこたねえだろ」
     逃げないとマズい悪い予感がしたのだ、とは言えない。
     人気のない砂浜をランサーが歩く。座るのに適した場所を探すその後ろを続いた。
     ざあざあと波が寄せて引く。随分と聞き慣れた音に、上がっていた鼓動が徐々に落ち着いていくのを感じる。
    「この辺でいいか」
     歩道を照らす街灯の光が差し込み、コンクリートの壁が丁度良い椅子代わりになる位置で振り返る。返事を待たずさっさと座ったランサーの隣へ腰を下ろした。
     ランサーは、期待していた十五ピースセットのお得なナゲットがなかった腹いせか、五ピース入りを三つも買った。突っ込みはしない。腹具合と懐事情を天秤に掛け、好きにすれば良い。
    ひと口でひとつ、ナゲットが減っていく。それを横目で見ながら半分に減ったドリンクを吸い上げた。
     何か良い話題はないだろうか。
     何度もこうして海辺で食べたことはあるが、今までどのように会話をしていたのか、少しも思い出せない。腹が減っているときは互いに無言だったような気もするので、このままでも問題ないだろうか。
     潮風が鼻を擽った。
     互いの間に置いていた紙袋を、ランサーがどける。私の分まで取り上げて近づいた。間にあるのはほんの数センチの隙間だけ。無言で食事は続いている。正直、高校男子がふたり並ぶ距離感ではない。圧迫感が強い。
     ドリンクを握り、少し離れる。
     ランサーが再び距離を詰める。離れる。詰める。何度か繰り返し、もう一度逃げた。
    「なんで離れるんだよ」
     ひとつ目のハンバーガーを食べ終えたランサーが、くしゃりと紙を丸めながらぼやく。
    「近い」
    「いいだろ」
    「狭い」
    「慣れろって」
     慣れれば君が小さくなるとでも言うのか。憮然とこぼしそうになった言葉を飲み込む。そんな意味ではないことなど分かっている。
     三度目に近づいた体から、逃げるのは止めた。紙袋を覗き、ドリンクを手に取る。その度に体のどこかが不意に触れるようで動きづらい。ぎこちない動きをしているような気もして、なんとも言えない気分だ。
    「邪魔ではないのか?」
     ランサーもまた同じように体を動かす度に私の体のどこかしらに触れてしまう。けれどもそれを気にする風はない。
    「何が?」
     意味が分からない様子でハンバーガーに齧り付いている。
     今までこんなに近かったことはない。スキンシップの激しいランサーではあるが、相手との距離のとり方は絶妙に上手いと思う。
     袋に突っ込んであったポテトへ手を伸ばす。少し萎びたそれを無言で咀嚼した。
    「付き合ってんだし、良いだろ?」
     ため息交じりの声は、海からの風に混じって溶ける。
     多分、そうなのだろうという予感はあった。それを何だかんだと理屈をつけて、今はまだ受け入れられていないだけで。
    「もう少しゆっくりではいけないのか」
    「ゆっくり?」
     早すぎてついて行けないのだと、苦い気分で呟いた。
    「時間かけりゃなんとかなるなんてもんじゃねえだろ。単に慣れと覚悟の問題で」
    「……覚悟、か」
     ポテトを摘まんだ。冷えた分、先ほどよりも塩気をきつく感じる。
    「ランサーのように思いっきりが良ければいいのだが、突然すぎてつい考えてしまうんだ」
    「考えるってのは何を」
    「その、好き、だとか……付き合う、だとかについて」
     は、とランサーが鼻で笑った。
    「好きだから付き合いたい、好きだからヤりたい。それで良いだろ」
    「なっ!?」
     ハッキリと言葉にされれば戸惑いが襲う。無論、そういったことについて考えていた自覚はある。
    「まだ高校生だぞっ」
    「どれだけ思考がボケてんだ? 淫行じゃあるまいし、何も悪いことしようってんじゃねえ。……お前はオレのこと、好きなんだろう?」
     月に反射したランサーの瞳が赤い色を跳ね返す。
    「だ、ダメだ、まだ早すぎるっ」
     掴んだドリンクの残りが少ないのも気にせず、一気に飲み干した。炭酸の抜けた冷たい液体が喉を流れ落ちていく。
    「テメエは生徒指導のジジイか!!」
    「失礼なッ」
     少なくとも朝礼でやたらめったら長い話をくどくどと語るような人間ではない。多分。
    「んじゃいろんな欲求枯れてんじゃねえのか!? 縁側で昆布茶でも啜ってそうだぜ」
    「それだけはない」
     間髪を入れずに答えた。
    「じゃあ良いだろ」
    「何がじゃあ、、、なんだ」
     ハァ、とため息が聞こえた。ふてくされたように最後のポテトを摘まんだランサーは、紙袋にぐしゃっとゴミをまとめる。そのまま、隣り合う私の肩へと背中を預けた。
     首筋へランサーの長い髪が当たる。
    「……楽しくしたい」
     ランサーがぽつりと呟く。
     なぁアーチャー、と肩に掛かる熱が広がった。
    「楽しくないのか……?」
    「付き合う前と変わんねぇだろ」
     十分に変わっている。つい一昨日まではこんな風に体をくっつけることなどなかった。ウキウキとランサーがデートの誘いに来ることもなかった。何もかもが違う。
     にも関わらずランサーは拗ね、不平があるらしい。
    「どうすれば満足なんだ」
    「もっとコイビトらしくしようぜ?」
     ランサーは体を捩り、私の体へとしがみついた。
    「っ、ランサー」
    「誰も見てねえだろ」
     先ほどから人の気配を感じることもないので、ランサーの言葉は間違いではない。腹に当たる体温が熱い。体に回った腕に力が籠もる。
     正直これが恋人同士でやることなのかと聞かれても、さっぱり分からなかった。随分と不格好に感じる。まるで大木にしがみつく野生の動物のようでもある。ランサーがしっかりと力を込めているため、身じろぐのも難しい。
    「……これで満足なの、か?」
     よく分からないまま、問うてみた。
     腹の辺りからくぐもった声で、違う、と聞こえる。
    「アーチャーはやりたいことはないのかよ…」
     相変わらず腹に顔を埋めたまま、ランサーは不満そうな声を上げた。
    「今は、ない……しばらくして慣れれば出てくるのかもしれないが」
    「今すぐ出せよ」
    「無理を言うな」
     ない袖は振れないと言うだろう。ぼやいた言葉はきっちりとランサーの耳へ届いたらしい。突然起き上がると、今度は正面から無理矢理腕を回そうと襲いかかってきた。
    「ッ!? 待て、ランサーッ」
    「ちったあ大人しくしろ!!」
    「悪役の台詞だぞ! 映画の見過ぎだ!!」
     うるせえ、と叫んだランサーを躱し砂地に降り立つ。互いの間には二メートルの空白と、投げ出された鞄とゴミが転がっている。
    「テメエはオレのこと好きな癖になんでそうなんだ!?」
     カチンときた。お付き合いを始めた恋人同士の雰囲気に、何が足りないのかと言われれば確実に私自身の踏ん切りだけだろうというのは分かっている。だが。
    「分かるものか!!」
     図星を指されると誰でもカチンとくる。血の上った頭は、言わなくても良い余計な言葉まで吐き出アウトプットした。
    「私は人を好きになったことも初めてならば、付き合ったことも初めてだからな!!」
     ざざっ、と寄せる波の音がやけに響く。
    「……」
     しまったと思っても言葉を取り消すことはできない。街灯の光を受けたランサーが真っ直ぐにこちらを見ている。
     逃げたい。
     先ほどの隣り合って座ったときの比ではない。
    笑うか、馬鹿にするか。けれどもランサーはそのどちらでもなく、私の名を呼ぶと距離を詰めて胸ぐらを掴んだ。
     なんだ、と返事をしようとした唇へ、ぶつかるように唇が当たった。
    ——Kiss meキスしろではなく、ランサーの方から勝手にするのか。
     らしい、、、気がした。
     勢いづいていたおかげで、痛みを伴うじんわりとした感覚が口に広がる。初めてはふんわりレモン味だとかなんだとか言っていたが、そんなことを思う余裕などどこにあるのか。
     時間にして一秒程度のものだった。熱が伝わる間もなく離れたランサーがニッと笑う。
    「好きだぜ? アーチャー」
     正面から見据えて言われた言葉に、心臓が音を立てた。
     付き合おうとは言われたが、こんなに告白然として好きだと言われたのは初めてだ。普通なら付き合おうよりもこちらが先だろう。順序が間違っていると思われるのに、なんとも自信満々に言われると私の感覚がおかしいような気がしてくる。文句を言いたい。
     だが、目の前のランサーは私からの抗議を期待している訳ではない。促すような雰囲気に、流された。
    「私も……好き、だ」
     好きな食べ物、好きな運動。好きな教科。色々あれど、他人に対して好きなどと言ったことはない。
     首の辺りに一気に血が上った。正面に鏡がなくて良かった。恐らく己らしくない顔をしているだろう。そんなものをまじまじと見せつけられたら憤死しかねない。
     吹き抜ける潮風が体温を洗う。笑みを浮かべたランサーの髪が揺れた。
     すべてが初めて過ぎてこれが正しいことなのかよく分からない。先ほどぶつかるように迫った相手へ向かい、自ら手を伸ばす。腕を掴んだ。
     キスの時は目を閉じて、と誰が言ったのだろうか。確かにそうあるべきなのだと実感する。こんなにも真っ直ぐに見つめられていれば、動きがぎこちなくならざるを得ない。非常に困る。けれども、ならば目の前のランサーに「キスをしたいから目を閉じてくれ」などと言えるかといえば、それも無理だった。
     結局できたのは自分が目を閉じることだけ。それもきっとロマンチックの欠片もないぎこちなさだ。
     掴んだ腕を引き寄せ、なんとなく頭に思い描いた相手を頼りに顔を寄せる。わずかに開けた目の隙間から、嬉しそうに笑みを浮かべたランサーが見えた。
     先ほどとは違い、ぶつかるようなものではなかったと思う。
     痛みはない。ただ、唇の先に触れたという感覚だけが一瞬通り過ぎていった。
     これで間違っていないかと、誰に問うこともできない。勉強のように予習ができたり、明快な答えがあるものならばどれだけ楽だろうか。
     手を離し、答え合わせをするようにじっとランサーを見つめる。ニッと口端を持ち上げたランサーに、おそらくこれで良かったのだと安堵した。
    「……送っていこう」
    「おう」
     帰り道でもランサーを後ろに乗せる。背に感じる温もりに少しは慣れたような気がした。もっとゆっくりと思っていたにも関わらず、ハードルを越える瞬間など一瞬のことらしい。


      ◇◆◇◆◇


     テストの返却もすべて終わり、多量の課題を与えられて夏休みに入る。
     これが最後の夏休みか、などと感慨染みたものはない。教師から圧迫されるように言われ続ける受験への心構えもどこ吹く風。基本的に考えていることなど、この暑い教室からしばらくの間は逃れることができる、という開放感だけなのが正しい男子高生の在り方だろう。
     午前中は部活、午後は気が向けば図書館へ向かう。一、二年は午後からも部活をしていたので、そのまま弓道場で羽を伸ばすこともあった。秋の大会へ向けての調整は無理に机に向かう時間よりも格段に楽しい。
     夏休みに入ったといっても、ランサーとの関係は何が変化する訳でもなかった。
     互いに部活時間を優先しているおかげで、夏休み前と比べて長い時間を共に過ごすようなこともない。それでも、ランサーがやたらと詰めてくる距離感には慣れ、有り体に言えば付き合っているという状況は受け入れつつあった。
     キスに関しては、あれ一度きり。何故かと言えば、そんな状況になるデートへ出かけていないのが理由だが、話題にでもすれば「したいのか」と嬉々として腕を引かれ、暗がりにでも連れ込まれそうな気がするので口にしたことはない。
     あの時のキスの出来映えについては甚だ疑問であったため、次に備えて正しいやり方も調べてはみた。結果としては、特にためにはならなかった。雑誌を見ながら、クッション相手に練習をしようと思ったところで我に返ったのだ。本当にこれで正しいキスができるようになるのか怪しい上に、なんとも虚しい。結局練習自体が未遂に終わったので、読んだ雑誌に意味があったのかどうなのかは分からずじまいだ。無論、この一件についてはランサーに口が裂けても言うつもりはない。
     午前中の部活が終わった私の元へ「アーチャー、一緒に食おうぜ」とコンビニの弁当を下げたランサーが訪れたのは夏休み初日。どちらの部室で食べるのも何やら窮屈に感じた結果、中庭のベンチが定番の場所となった。ランサーお気に入りのブリックパック自販機がすぐ側にあるのも便利だ。
     毎日飽きもせず共に弁当を食い、時々気が向けば帰りにファストフード店へと出かける。
     私が午後からの部活に時間を割くよりも、ランサーの方が部活に打ち込む時間は長い。待っている間はむしろ勉強に集中できるような気がして、悪くはなかった。
     互いのことをとりとめとなく話すデートのおかげで、ランサーの部活事情にすっかり詳しくなってしまった感がある。無論、ランサーの方も弓道について詳しくなっている。
     引退してからでも良いので一度やってみたいと言っていたので、そのうち折を見て時間を作っても良い。運動全般に対しての勘が良いランサーなので、すぐにコツを掴みそうだ。
     部活のこと、食事のこと、互いの好み。随分と知ることが増えた。二個イチで、腐れ縁と言われていながら存外知らないことが多かったのだと思う。
     時々、申し合わせてもいないのに帰り道が一緒になることもあった。ランサーの住まいは学校の敷地内にある寮のため、ほんの少しだけ並んで歩くに過ぎないが、悪くはない時間だった。


    「なー、アーチャー」
     定番になりつつある呼び声に、おざなりな返事を返す。用意していた弁当は、ランサーにいくつかたんぱく質を奪われた分、満腹度が低い。
    「今度の週末、花火大会に行こうぜ?」
     あぁ、と最後の牛乳を吸い上げながら、ひと月ほど前から商店街に並ぶ告知ポスターを思い浮かべた。八月の終わり近くになってから開かれる花火大会は、それなりの規模らしく、毎年多くの人で賑わう日だ。特に大きな遊び場がある訳ではないこの街にとって一大イベントであり……最大のデートイベントでもある。
    「デートか」
    「そう、ばっちり極上のデート」
     その単語を口にすることに慣れてしまったな、と思いつつ口にすれば案の定ランサーははっきりと肯定した。しかも極上との形容詞付きで。
    「どのあたりが極上なのかは分からないが、特に用もないので構わんよ」
    「何言ってんだ、最高だろ。屋台に花火! 夏一番のイチオシイベントだぞ」
    「生憎と今まで一度も…いや、幼少期には行ったが……それ以来行ったことがないのでな」
     小学生のころまで記憶を遡れば、親に取れられて出かけた記憶はある。人混みにもみくちゃにされたが、肩車をされて見た花火は随分と綺麗だった。
    「オレですら去年も一昨年も行ったのに、何やってたんだ?」
     意味が分からないとばかりに言われ、首を傾げる。
    「昨年は部室にいたな。花火も少しだけ見えたよ」
    「んじゃ一昨年は」
    「確か家で過ごしていたように思う」
     盛大に眉間へ皺を寄せたランサーが首を振った。深いため息付きだ。
    「色気のねえ奴だと思ってたが……そういや付き合うのも初めてだって言ってたな」
    「悪かったな」
     責めてる訳じゃねえよ、と何とも言えない表情を浮かべた。
    「高校最後の夏、しっかり楽しもうぜ」
     飲み終わったイチゴ牛乳のパックを放る。
     私が頷くのと同時に、見事な放物線を描いたパックがゴミ箱へと回収された。


     互いに午後の部活と勉強を終わらせ、待ち合わせたのは駅前の広場。
     普段なら夕暮れ時のこの時間帯は、仕事帰りのサラリーマンと買い物客で雑然とした雰囲気が漂っているのだが、今日は随分と雰囲気が違っていた。浮き足だった若者が目に付くと言えば良いか。無論私もその中のひとりだ。何せ今は私服。事実なのだが、何ともむず痒いような気持ちにさせられる。
     駅前で待ち合わせと言えばここと決まっている、味わい深いモニュメントから離れることしばし。どうせごった返しているからモニュメントあそこで待ち合わせるのは危険だ、とはランサーの提案だった。
     地元民なら分かる、待ち合わせスポットにしない自販機前を目指して歩く。あと一分もしないで到着するだろう。モニュメントの前よりは人混みが薄い。辺りを見回せば人影から頭ひとつ飛び出た姿が見えた。互いにルーズではないので時間はぴったりだ。
     こちらに気付いていない様子のランサーへ小走りに近寄る。自販機に背を預けていたランサーが顔を上げた。
    「待たせてしまったようだな」
    「オレも今来たところだ」
     こんなお定まりの台詞を言うのだなと、妙な気分だった。映画だとか漫画だとか小説だとか、そんな作り物フィクションだけのものだと思っていた。
    ——制服以外で出会うのは、初めてか。
     今までに何度も遊んだことはあったが、いずれも学校帰り。味気ない制服が板に付きすぎていて、ジーンズにTシャツというラフな格好すら随分と新鮮だった。
    「アーチャーの私服ってこんな感じなのか」
     相手も同じことを思っていたらしい。
    「何か変だろうか?」
     特に何も考えず選んできたが、黒の半袖シャツとブラックジーンズという取り合わせはランサーと並び立つといかにもこなれていないようにも思える。
    「別に? 変わり栄えしないって思ったが、結構新鮮だ」
    「新鮮?」
    「おう、なんか特別なデートって感じだろ」
     目元に深い笑みを刻むランサーは、普段学校で見ているよりも少しばかり大人びて見えるようで思わず目を反らす。
    「いいから行くぞ」
     顔が熱かった。
     我ながら単純だと思うが、脳裏ではデートの単語がぐるぐると渦巻いて響いている。先ほどはすんなり見ることのできたランサーの姿を、再び見つめ直すのが難しい。
    「流石につないだら怒るか?」
    「当たり前だ、たわけ」
     年端もいかぬ幼子ではあるまいし、人混みに揉まれて迷子になるから、との理由も付けづらい。ちぇっと軽口を叩いたランサーも本気ではなかったらしい。それ以上は何も言わずすぐ隣に並んだ。
     車の多いメインの大通りはすでに通行止めになっていて、普段はひっきりなしに車の通る合計四車線の道がすべて祭りのために解放されている。
     道の両脇にびっしりと屋台が建ち並ぶ。腹がぐぅと音をたてた。幸い周囲の人混みのおかげで、隣を歩くランサーに聞こえてはいない。
    「腹減った」
     言葉と共に、吸い寄せられるようにランサーの視線が屋台へと注がれる。部活が終わってすぐに出てきたらしく、普段よりも空腹が激しい。
    「牛……牛串…」
    「あちらに焼きそばもあるぞ」
    「お…お好み焼きも捨てがたい」
     財布を取り出したランサーの目は、もはや虚ろだ。
    「二手に分かれて並ぶか」
    「じゃあオレ牛に行く! お前は焼きそばな!」
    「お好み焼きは良いのか?」
     それは後でまた並ぶ、と勢いよく言い捨ててランサーはさっさと牛串の列へと並びに行った。まだ時間が早いおかげで、列もそこそこといったところ。とりあえず減りすぎた腹を満たすのが男子高生にとっては何よりも重要だった。

    「こっちは良いのか?」
     手にした牛串を幸せそうに頬ばるランサーに尋ねれば、そっちは落ち着いてからと曖昧な返事がある。白いビニルに入れられた焼きそばはふたり分。できたてではないが、ほんのり温もりが残ったパックが下げた袋の中で揺れる。
    「どこで見るかねぇ」
     牛串から肉の塊を豪快に抜きながら、ランサーが振り返った。
    「まったく分からん」
     良いスポットとやらはあるのだろうが、何せ以前訪れた時は幼少期。それも大人の手に引かれるような年頃だったので、何も覚えていない。
    「君は知らないのか?」
    「知ってはいるが…」
     多分もう満員だぞ、とランサーが眉を寄せた。
    「そんなに一杯なのか?」
    「そりゃあ昼間っから席とる奴もいるくらいだからな」
     そんなに花火が好きなのか、という言葉を飲み込む。他に娯楽の少ない街であれば当たり前のようにも思えた。
    「歩きながら、というのも難しいか」
    「座って食いたいだろ」
     ふと気付いたようにランサーがお好み焼きの列に並ぶ。
    「一応オレのイチオシの場所はある。結構穴場の上に入りにくい場所だから空いてると思うが」
    「不法侵入にならないような場所なら構わんさ」
    「んじゃそこで決まりな。アーチャーはあっちのたこ焼きに並んでくれ」
     行き先は決めたと、ランサーは向かいの屋台を指さした。
    「たこ焼きもふたつ買うのか?」
    「おう」
     有無を言わさぬ返事に、少し呆れる。牛串で若干抑えられたとはいえ、確かに腹は減っている。だが、目に付くもの手当たり次第と言わんばかりの量はいかがなものか。
    「腹減ってんだよ」
     ご丁寧に胃を抑える仕草ジェスチャー付き。私は夕食を抜けば良いが、ランサーはそうでもいかないはずだが仕方がない。言われるがままにたこ焼きの列に並ぶ。先ほどよりも人混みは激しくなっていた。
     たこ焼きをふたつ手に入れると、人の波の向こうにランサーの青い頭が見えた。お好み焼きを購入した後、今度は人形焼きの列に並んだらしい。
     最初の牛串を除けば見事に炭水化物ばかりだ。少しは野菜っけも必要だと思うが、そんなものを売りにする屋台などない。今日の所は屋台メシなのだし、文句を言っても始まらない。実際自身の腹も香ばしいソースや粉物の香りに刺激されっぱなしだった。
    「甘い物まで揃えるとはな」
    「ここの人形焼きが旨いんだよ」
     見れば他の店に比べて列が長い。人気の店だと伺えた。
    「去年食って覚えてたんだ」
     似たような屋台の中から良く探したものだと思う。
    「これで終わりかね?」
    「流石に十分だろ」
     互いの手に提げた袋はガサガサと重たい音をたてるほどの量がある。
     辺りには浴衣を着た姿も増え、仕事が終わった社会人も押し寄せていた。花火までの時間はあと一時間と少しといったところ。人並みに押されながら、ランサーの目指すスポットへと向かう。途中で氷で冷やしたペットボトルも仕入れ、準備は万端だった。


    「本当にっ、穴場、なのか!?」
    「去年はこんなこと、なかったん、だよ!!」
     ぎゅうぎゅう、とは言ったものだ。
     満足に体を動かすこともできず、周囲の流れに沿って前へ進むのが精一杯。互いの身長が高いおかげで首を回せば姿は確認できるが、流れに逆らって側に寄ることも厳しい。乗車率二百パーセント。通学で電車を利用したことはないが、そんな言葉が頭を駆け抜けた。
     ランサーの言う穴場とやらに近づくにつれ増える人、人、人。ぼやきたくのも無理はない。ランサーが悪い訳ではないので、責めるつもりではなく、道でも間違えたのではと問い質しただけのこと。
    「アーチャー、大丈夫か?」
    「…っ、食事は死守しているッ」
     ビニルを手に提げていれば誰かに揉まれぐしゃりといきかねなかった。左右に下げ持っていた荷物をひとつにまとめ、今は若干持ち上げた腕の中にしまい込んでいる。ランサーも同じような姿勢だ。
    「目的地はどこなんだ!?」
    「ここを真っ直ぐ行って右!」
     すっかり帷の下りた夜空の中では、ランサーの言う右に何があるのかさっぱり見えない。
    「とにかく君の姿についていく」
    「分かった! 離れんなよ」
     頷きはランサーに見えただろうか。
     それにしても、己の知るこの街らしくない。ごった返す時間帯に商店街に出かけてもこんなにも人があふれることはないというのに。
    ——どこから沸いて出てきたんだ。
     隣県からも客が来るらしいとは聞いていたが、想像よりもすさまじい。
     こんなにまでして花火を見るとは一体どんな意味があるのだろうか。近くでは浴衣姿の彼女らしき女性を守るようにして揉まれている男性が見えた。
    ——そういえばデートだったな。
     思い返してみるが今のところ特別な日らしき出来事などなにひとつ起きていなかった。あったのは屋台巡りくらいなもので。無論それはそれで楽しいが、今はひたすらに人に揉まれているので楽しさと天秤に掛ければ若干煩わしさが勝つ。
     穴場に到着してもこの状況ならば、満足に花火を見ることができるのだろうか。私の疑問はランサーも同じらしく、視線を向けた先では珍しく不満を浮かべたランサーの横顔が見えた。
     ふと足に違和感を感じたのは、人に押されずいっと前へ進んだときだった。
     わずかにできた隙間から、足下を覗く。見知らぬ幼稚園児ほどの男の子が、じっと私のジーンズをつかんでいた。
    「っ、…ひっ…」
     みるみるうちに顔が歪む。掴む先を間違えたらしい。
    「ぱ、ぱ…っ」
     始まったのは盛大な泣き声だった。これが迷子というものか、などと感慨に耽るわけにはいかない。後ろから押し寄せる波は、男児もろとも押しつぶすように迫ってきて、思わず庇うように体でガードする。
    「どうしたんだ?」
     上から見下ろしたまま言ったのが良くなかったらしい。こちらを見ると一層顔を顰め、つぶらな瞳からはぼろぼろと大きな涙が零れ落ちた。これぞまさしくギャン泣きとでも言うのだろう。周囲には泣き声は聞こえているものの、男児の姿が見え辛いため誰も足を止めようとしない。
     さっさと歩けと言わんばかりの後ろを無視し、今度は男児の前にしゃがみこむ。
    「……どうした、お父さんがいなくなったのか?」
     精一杯声を取り繕った。再び強く泣かれでもしたら目も当てられない。
     視線を合わせた分、少し安心したらしい男児がじっとこちらを見たまま頷く。どこを見ても助けがない中で、しゃがんだ私を頼ると決めたらしい。
     涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった手を掴む。立ち上がると手が離れてしまうので、妙な中腰だ。迷子センターはどこにあるのだろうか。客とスタッフの区別すらつかない状況で誰かに引き渡すことは難しく思える。
     相変わらず押し寄せる人は、泣いた子供のことも、中腰で歩く私のことも斟酌せず。時折足を止めては左右を見渡す男児の動きに、再びしゃがみ込んだ。
    「肩車をしてやるから、乗って探そう」
     何よりも男児を上に掲げるのが早い。確実に父親も男児を捜していることだろう。幸い私が肩車をすれば周囲からは随分と目立つはずだ。
     遠慮なく私の背中に草履を押しつけ、よじよじと登る男児を待つ。首の左右にしっかりと足を抱えて立ち上がった。
     わぁ、と先ほどまで泣いていた子供が歓声を上げた。
    「これで良く見えるだろう?」
     うん、と頷いた声を聞くと同時に、人混みを縫ってこちらへやってくるランサーの姿が見えた。
    「何だ、迷子か?」
     まさか知り合いって雰囲気でもねえよな。側に寄ったランサーが男児と顔を合わせる。普段よりも二割増しの笑顔を浮かべているのは、怖がらせないための気遣いだろう。
    「お父さんを探しているらしい」
     花火が始まるまではあと三十分。人混みも最高潮な時間帯だ。
    「おっきい声で父ちゃん呼べよ?」
     握った拳をぶつけ合い、肩車した男児としっかり意思疎通をしたランサーは、私の手から荷物を奪い取った。
    「落とさねえようにな」
     あぁ、と頷き私の髪を掴んできょろきょろと首を振る男児の足を抱え直す。
    「文句言うなよ?」
     短く告げた言葉に続き、ランサーの腕が腰へと回った。周囲から押し寄せる人からガードする意味もあるらしい。
    「っ……言わない」
     体温の高い子供と、ランサーに囲まれ、背中を汗が伝い落ちた。
     男児の名前に続けてお父さんと呼びながら、じわじわと進む。すっかり暗いが、街灯と屋台の光でぼんやりと映る顔ぶりが頼りだ。私という頼りを見つけて男児はすっかり安心したらく、先ほど泣いていたとは思えない声を張り上げ、目的の父親を探している。
     真っ先に見つけたのはランサーだった。
    「あれじゃね?」
     視線の先には、焦りを浮かべきょろきょろと辺りを見回す大人がひとり。視線が下を向いているのでこちらにはまだ気付いていない。
    「お前の父ちゃん、アレか?」
     ランサーの指す先を見て、肩上の男児が歓声と共に私の頭を叩く。喜びは分かったが、少しばかり手加減をして欲しい。
    「もっと呼べよ」
     耳元で男児の大きな声が響く。父親を見失わないようにランサーがリードしながら、人混みを掻き分けた。
     やっとのことで父親が気付いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。酷く安心した顔を浮かべ、人を掻き分け真っ直ぐにこちらへとやって来る。口からは男児の名前を叫んでいる。
     少しばかり誘拐だとかなんだとか疑われたらどうするべきか、と思っていたが、父親が何かを咎める風ではないことは表情から見て取れた。
     少しだけ人波の途切れる道の端で男児を下ろす。子供は、一目散に父親へと走り寄った。
    「よ〜っく見付かったよな」
     先ほどまで、人の波を掻き分け誘導していたランサーがほっとため息を吐いて振り返る。
    「偶然だとは思うが幸いだ」
     万が一見付からなければ警察にでも行かなければならなかっただろう。そうなれば花火どころではない。しばらくすれば花火が始まる頃。それまでに見つけることができて本当に良かった。私ひとりではきっと探し出せなかっただろう。周囲からガードしながら先導し、持ち前の勘の良さで父親を先に見つけたランサーがいてくれたからだと思う。
     父親と出会った男児が抱き上げられて近づいてくる。着付けて貰ったらしい涼しげな柄の浴衣を着た男児は、先ほどよりも随分と安心しきった様子で抱かれていた。
     ありがとうの言葉は一度では収まらなかった。
     しきりに頭を下げる父親に対し、逆に何と返して良いものか分からない。高校生ではなく社会人であればこんなときに何と言えば良いか分かるだろうが、そのような社会性スキルはまだ身につけていなかった。
     何かお礼を、と言われさらに困る。偶々男児が私のジーンズを掴み、偶々無事に父親を見つけることができただけのこと。
     偶然でしかないことを、何かしらの形に変えられようとしてもどうして良いのか分からなかった。
    「礼とか、逆に困っちまうから良いって、な? アーチャー」
    「あ、はい。偶々見付かったに過ぎません。出会えて良かったのだしそれで十分です」
     ランサーの機転の利いた助け船に、これ幸いと乗っかった。
     今時危篤な少年だと言われるが、偶然が重なっただけで特別なことではない。ただ、あのときに世の中の終わりかと言うほど激しく泣いていた男児が、無事に父親の元に戻れたことは本当に良かった。
    「そろそろ花火も始まるし、父ちゃんと楽しめよ」
     ニッと笑ったランサーが、父親に抱かれた男児の頭を撫でた。
    「オジサンありがとー!」
     目元に満面の笑みを刻み、くしゃりと笑った表情はいかにも年相応に可愛らしい。
    「オジサン、じゃなくてお兄さんだろ、坊主」
    「おにいさん、ありがとー!」
     年端もいかない子供から見れば、高校生は十分立派な大人に見えるのだろう。律儀に言い直した男児の頭を私も撫でる。
     メイン会場近くに設置されたスピーカーから、花火が間もなく始まるというアナウンスが聞こえた。それを切っ掛けに、延々と頭を下げ続けそうな父親と男児に別れを告げる。
     随分と人混みに流されたうえに、父親探しに夢中になっていたために目的地などという概念はすっぽりと頭から抜け落ちていた。辺りの人はまばらになっており、海に面したメイン会場から漏れる明かりはわずかに遠い。
    「今さら会場へ向かったところで、どこも空いていないだろうな」
    「さっきまでは人も歩いてたが、今行きゃ今度はすし詰めだ」
    「…すまない」
     花火を見ることが目的だったにも関わらず、うっかり迷子と関わってしまったがために、ランサーには悪いことをした。
    「謝るようなことじゃねえだろ」
     坊主が父ちゃんに出会えて良かったしな。いつものように笑みを浮かべ、ランサーが手を伸ばす。咄嗟のことで何をされているのか分からなかった。
     わしわしと頭をかき混ぜられる感触に、ようやく撫でられているのだと気付く。
    「なっ」
    「坊主に随分とぐしゃぐしゃにされたなぁ? お前の髪下ろしてるとこなんて珍しい」
     言われてみれば視界に前髪が入っている。
    「良いことして気分良いんだし、花火はその辺で見りゃ良いだろ」
    「それで良いのか?」
     構わねえよ。ランサーが私の手を掴む。先ほど撫でられた衝撃が抜けきらず、相変わらずぼんやりしていたおかげで、振り解くこともできずランサーのされるがままだ。
    「とりあえずそこの歩道橋でも登ろうぜ」
     交通規制の入った道路に車の影はない。まばらな人はメイン会場へ向けて足早に歩いている。
    「多少は見えると良いな」
     建ってからずいぶんと経つ歩道橋は、潮風を受けた影響でところどころさび付いていた。普段はあまり誰も利用しているのを見たことのない橋の上へ、ランサーとふたりで上がる。
     真っ直ぐに伸びた道路の先に、屋台の建ち並ぶメイン会場が小さく見えた。
    「結構穴場じゃねえ?」
    「見えればな」
     歩道橋の真ん中、手すりに腕を掛け遠く果てへと視線を流す。ほどなくして花火大会が始まった。
     音よりも光の方が早いと習ったのは中学時代の理科。だから海に落ちる雷は先に光る。それから音が響くのだ。
     きっと大きな花火なのだろう。それが小さな輪を描き登る。遅れて鳴り響く音は随分と軽い。
    「すっげー……見える」
    「小さいが、きちんと花火だな」
     道路の脇を歩く人も足を止め、打ち上がる花火を眺めているのが見えた。
    「結構良いじゃねえか」
     買い込んだ屋台の食事を開く音が混じる。
    「ハラ減った〜」
     情けない声を出した姿は、先ほど男児へ笑っていたお兄さんの雰囲気よりも随分と情けない。
    「冷えてしまったな」
    「でも旨い」
     たこ焼き、お好み焼き、人形焼き。詰めたパックの中で幾分ふやけていたが、空腹が最高のスパイスだ。
    「でっけぇ花火も良いが、ああいう連発の奴もすげえよな」
     たこ焼きを頬ばり、むぐむぐと口を動かしながらランサーが指をさす。
    「赤いのより青いのが良いなぁ」
    「私は赤い方が好みだ」
     大玉花火がパーンと弾けた。手のひらに収まりそうな光を放ち、静かに空へと溶けていく。
    「たこ焼き旨え」
    「花火と食事と、忙しい奴だな」
    「こんなもんだろ」
     焼きそばの入ったお好み焼きを箸で千切る。歩道橋の欄干が最早テーブル代わりだった。風が吹いていないおかげで飛ばされる心配もない。
    「アーチャー」
     呼ばれて振り向けば、ランサーが爪楊枝に刺したたこ焼きを差し出していた。
    「私の分はあるから、自分で食べる」
    「いーから口開けろよ」
     ずい、とたこ焼きがさらに近づいた。
     誰も見ていない。歩道橋の下にいる人影からは、こちらのことなど見えるはずもない。
    「ほら、早く」
     促され口を開く。とろけるようなたこ焼きがひとつ、私の口へと収まった。ソースの味と生地が混ざり、似たような作りのお好み焼きとは味わいが違う。
    「お前もほら、オレにしろよ」
    「なっ!?」
     ランサーの意図に、思わず狼狽えた。
    「じ、自分で食べれば良いだろう!?」
    「オレの分のたこ焼き、一個お前が食ったんだからお前の奴寄越せよ」
    「君が勝手にしたことだ!」
     クツクツとランサーは人の悪い笑みを浮かべている。
    「あれ〜? アーチャークンは食い逃げするんデスカー?」
    「たわけっ」
     もうやけくそに近かった。たこ焼きのパックからひとつを爪楊枝で刺し、ランサーの口に向ける。
    「さっさと口を開けろ」
     にんまりと笑った顔には、完全にたくらみが成功したと書いてある。楽しげに開いた口へたこ焼きを押し込んだ。
    「旨ぇ」
    「同じ味だろう!」
    「怒んなって」
     くくっと喉を震わせ、ランサーが遠くの会場を指さした。
    「今度はすげえぞ!」
    先ほどまでの大玉とは違い、打ち上がった先で分裂し無数の花を咲かせていた。色とりどりに交じり合う光にぼんやりと夜空が染まる。
    「デートだろ?」
     食べ終わったパックをビニルに押し込む音に混じる。
    「大人だったらここで酒でも飲むんだろうなぁ」
    「その場合、食べ物がきっと焼き鳥辺りじゃないのか?」
    「うは、オッサンくせえ」
     人形焼きの入った紙袋へ手を伸ばす。人形焼きは隠し味に味噌を入れているのか、コクがあってやさしい甘みがじんわりと広がった。湿気を吸ってしまっているがそれでも十分ランサーがイチオシだと言う理由が分かる。
    「それはそれで楽しい日が来んのかな」
     今は半年後の受験のことだけで精一杯だ。それ以上先のことなど想像もできない。
    「分からんよ」
     欄干に乗せた腕に、ランサーの手が触れる。
     敢えて振り解こうとは思わなかった。
     暑い夏。潮風が吹くとは言え、じっとりと汗が浮かぶ夜の空気。にも関わらず伝わる体温は嫌ではない。
     時間にして一時間もない花火が打ち上がる短い時間。微かに聞こえたフィナーレという言葉と同時に、ナイアガラと呼ばれる枝垂れ花火が海に沿って伸びる。
    「すっげぇ」
    「去年も見たんだろう?」
    「何度見てもいいもんはいいだろ」
     今年はアーチャーと一緒だしな。と呟いた言葉が聞こえた。
    「去年は誰と行ったんだ?」
    「クラスの奴らと」
     てっきり当時の彼女と行ったのかと思っていたが、違っていたらしい。
    「デートで来んのは初めてだぞ?」
    「そうか」
     もっと近くで見ていれば、より花火は綺麗だっただろう。けれども、ランサーとふたり橋の上から眺めるのも悪くはない。
    「いい思い出になりそうだ」
    「だろ?」
     腕に当たる手へ指を伸ばす。誰も見ていないからというのは言い訳で、ただなんとなく手をつなぎたかった。言葉にしてはいないのに、ランサーには伝わったらしい。
     ナイヤガラが終わるまでのほんの短い時間、何も言わず手をつないでぼんやりと花火を眺めていた。

     メイン会場から広がる終演のざわめきを感じたのが今日の終わりの合図だった。歩道橋から下り、ゴミの入ったビニルを振り回しながら歩く。
     デートの正解がこれなのか分からないが、それでも悪い時間ではなかったように思う。ランサーと歩いた屋台の道。偶然にも手を差し伸べることになった浴衣姿の男児。普段学校で過ごすランサーを見ているだけでは、知ることのなかった姿を見たような気がする。
    ——それは、ランサーにとってもなのだろうか。
     自身では学校でも今と同じつもりでいるが、ランサーから見れば新たな一面を見ているのかもしれない。なんともくすぐったいような気持ちだ。
    「多分こっちが近道だろ」
     半歩先を行くランサーが振り返る。
    「おそらくな」
     普段は訪れない花火を見た歩道橋。おおよその帰宅方向にあたりをつけて適当に歩く。会場から離れていたことが幸いして、帰宅する人波に揉まれることもない。
     小さな道にはぽつりぽつりと街灯が建ち並び、か細い光を放っていた。幾分明かりは足りないが、男同士が連れ立ってあるくには問題はない。
    「花火ばっか見てたが、月もすげえな」
     隣を歩くランサーの言葉に、夜空を見上げる。
     満月ではない、細く欠けた新月がくっきりと浮かび上がっていた。
    「綺麗なものだ」
     丸く欠けのない月を愛でる習慣の方が多いが、針のように尖った形も悪くはない。雲ひとつない闇にくっきりと白く光る様は目に残る。
    「今夜は随分と空を見上げる日だ」
    「首がだるくなるって?」
    「そこまででもないさ」
     点在する駐車場と公共施設。その間には手つかずになった畑。ずっと遠くに見える光はコンビニだろう。じゃりじゃりとアスファルトが音をたてた。
    「そう言えばこんなに遅くなって大丈夫なのか?」
     寮の門限は、と言外に。
    「花火に行くから遅くなるって届け出済みだからな。まぁそれも九時までだが」
     腕に嵌めた時計は八時半。二十分も歩けば学校へ着く。私の家へは途中で別れるがそれも同じ程度。
    「ふむ…ならば問題はないか」
    「なんだ? 心配したのか?」
    「ランサーのことだから、きちんと手配、、はしていると思ったさ」
    「何か言いたげな口調だな、オイ」
     ランサーと同室であるロビンも同学年の生徒だ。こちらは洋弓を扱うアーチェリー部なので稀に部活上でやり取りをすることがある。
     いつのことだったのかはもう忘れてしまったが、同室のランサーについて『二個イチなんだから、あの御仁の破天荒っぷりをなんとかして貰いたいもんです』と愚痴を聞いた覚えがあった。
    「何でもない」
    「言えよ、何か知ってるんだろ」
     隣に並ぶランサーが、腰を入れてタックルをかます。
    「っ……言わないぞ」
    「テメ、コラ吐け!」
    「柄が悪い」
     こちらの腰に腕を回し、ぐいぐいとランサーが体を寄せてくるので歩きにくい。
    「知ってることがあるんだろ?」
    「だから言わないと言っただろう」
     涼やかな風が吹くおかげで、密着した体温が妙に熱い。
    「ロビンか」
    「黙秘する」
     その段階で正解だと言っているようなものだが、ここは認める訳にはいかなかった。
    「罪状をヒニンすると後々不利になるんだぜぇ?」
    「罪状などなにもない」
     ニヤニヤと笑っている様子が、目の慣れた暗闇に映る。
    「夜中にコンビニに行きたいからって、トイレの窓から外に出ただけだろ」
    「ほう?」
     歩きづらいまま道の端をよたよたと進む。
    「あとは…そうさねぇ…、ちょっとばかり点呼の時間に間に合わないから代返してもらったとか」
    「なるほど」
    「なぁアーチャー何を聞いたんだよ」
    「何も聞いていないし知らないさ」
     頑固だなテメエ、とランサーは掴んだ腰に力を込めて体当たりをした。
     息を飲む。加減もない力に、体がよろめく。もつれるようにして二歩三歩。バランスを崩し転倒しないようにと思わずランサーの体に手を回す。そのままガードレール向かってよろめくいた。ふたり分の体重を受け止めて白い鉄の板にぶつかった太ももに鈍い痛みが走る。
     何をする、と浮かべようとした怒りは、真っ直ぐに合わさった視線に散っていった。
     冷静な思考の一部では、なぜ今、と思った。特に何か特別なことがあるわけでもない。ただ、夜陰の中でランサーの浮かべたいつもの、、、、表情と体温に心臓が音を刻む
     前回はもっと相手から来る、という感覚があった。けれども今は違う。こんなことに正解があるとは思えないが、これが正しいのか判定ジャッジがあれば心強いのに。
     相変わらず掴んだままのランサーを引き寄せる。強ばった筋肉がぎくしゃくと音をたてたような気がする。
     ランサーがうっすら笑みを浮かべているのが見えた。
     当たった唇は、ほのかに甘い。
     耳の裏を流れる血液がうるさいほどで、目が眩んだ。
     ぶつかるような無様なことにはならず、啄むように何度か重ねる。一度目より少しは上手くできただろうか。
     手に入れた雑誌の知識が何かしらの糧になったのかと言われれば、否。すると決めた瞬間から、頭の中は真っ白に飛び、事細かく指示レクチャーしてあった手順など一ミリたりとも思い出すこともなかった。
    ——もう二度とあの手の雑誌を買うまい。
     コンビニの店員は何も思っていないだろうが、為にならぬもののためにレジであれほど恥ずかしい思いをしたくはない。
     合わせた口が、名残惜しむようにふわりと離れた。
     ガードレールに体を押しつけたまま、動くことすらできず目の前のランサーを見つめる。ほのかに目元が赤い。きっとこれで正解だった良かったのだろう。
     遠くからやってきた車のヘッドライトが通り抜けていった。
    「ちゃんとされんのも悪くねえな」
     前回と比較したのだろう言葉に、思わず視線を反らす。覚悟も何も、付き合うということすら受け入れられていなかった時と比較されても困る。
     少しばかり冷静になった頭が、余計なこと——先ほどは思い出さなかった雑誌の知識——をあれこれと巡らせる。事細かに、丁寧に、愛撫の方法まで書いてあったページがくっきりと浮かび、上がっていた脈拍がさらに加速していく。
     半分私へもたれ掛かるような姿勢のまま、どこうとはしないランサーがぺろりと唇を舐めた。
    「すっげームズムズする」
     なぁ、と普段よりも掠れた声に言われれば、つられるように逆上せた思考に目眩がした。
     脳裏に浮かんだのは、したい、の三文字。
     女性とのセックスエロシーンも経験したことがないので、想像は追いつかない。それでも空想する思考の中で、ランサーの体を組み敷いて掠れたような声で漏れる声を思い浮かべ——。
     腹が熱い。
     ジーンズの前がキツい。
     ランサーに悟られぬよう、体を押し返したつもりだが、同じ男。バレバレだった。
    「なんだ、やる気あるな?」
     からかうような口調だったならば簡単に沈静化しただろう。けれども、オレも、と続いた言葉は熱っぽく掠れていて、互いにごくりと喉が鳴った。
     初めてのデート。花火の帰り道。シチュエーションとしてはきっと極上の部類。だが、ランサーは寮住まい。外泊もままならない。門限がある上に上がり込むことは不可能だ。かく言う自身もまた、家には誰かしらの気配がある。
     不意にやりたくなったからと言って、そのままもつれ込むには高校生である互いの環境が許さなかった。
    「今日は無理、だ」
     きっとランサーも同じように考えていたのだろう。煩わしげに寄せた眉間が物語っている。
    「仕方ねえか……」
     ため息交じりに聞こえた言葉が、終わりの合図だった。
     真っ直ぐに立ち上がることが不可能なまま、若干前屈みで並んで歩く。
     途中、ラブホテルの激しいネオンが見えたが、手持ちの金に余裕がある訳でもなかった。無論、ホテルを目の前にして行こうと言えるだけの度胸もない。
     今日の終わりが近づいてくる。見知らぬ景色だった周囲も、よく知った道へ変わる。花火から帰る人影がぽつりぽつりと見えた頃、不意に手が触れた。振り解くこともなく、歩道橋の上でしたように握り返す。
     絡ませるように合わせた指に、時折力が加わるのを感じながら、合図のようにこちらも力を入れた。腹に溜まった熱が発散されることはなく、指に広がる感覚だけでも爆発しそうなほど、血が上る。
     互いに無言で歩く。随分と気持ちは満たされていた。あとわずか、互いの帰路が別たれる場所までこのままでいても良いだろう。
     目印の信号機で足を止めた。
     車の通らぬ夜道。普段ならば左右を見渡し、どちらからともなく信号を無視するにも関わらず、赤い色が青へ変わる時間を待った。
    「楽しかった」
    「オレも」
     握った手にぎゅうと力が籠もる。
     この信号が変わり渡り終えたら、きっとランサーは走り出すだろう。少しばかりゆっくり歩いていたせいで、門限までの時間はあとわずかだ。
     車道用の信号が黄色へ変わり、ランサーの手が解ける。渡り終えるまで、と思っていたので酷く名残惜しい。
     けれども。ドンっと背中に当たる感覚に呼吸が止まった。
    「お前、背筋すげえな?」
     弓道部ってヤツか。笑いを含んだ声は、互いに変わらぬ身長のおかげで、耳元で響く。
     ああ、と返すこともできない。薄いTシャツ越しに感じた体温に、ようやく収まりかけていた熱が再びぶり返したようで、頭がぼんやりと揺れる。
    「オヤスミ、アーチャー」
     信号が変わると同時に背中に感じていた熱はあっさりと離れ、代わりに温い夏の空気が纏わりついた。
     走り出したランサーへかける言葉を思いつかない。
     視線の先に走って行く後ろ姿を眺めながら、忘れていた呼吸をようやく思い出した。
    矢田ぎんこ Link Message Mute
    2018/11/17 17:31:50

    アオイハル〈サンプル〉

    人気作品アーカイブ入り (2018/11/23)

    高校三年の弓槍学パロ。
    ファストフードや花火大会、学校祭やクリスマスなど高校生を満喫したデートをしまくる話。
    童貞アーチャーとがんばって初めてのセックスに挑戦します。

    #弓槍 #エミクー #学パロ #サンプル

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