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    そらに至る扉そらに至る扉 ◇ 暮れる空の果て side:Archer


     辺り一面を闇が覆っていた。冬木大橋を走り抜ける車もすっかりまばらになっている。時折走り抜けるテールランプの明かりが、余韻を引きずるようにオレンジの光を残し過ぎていく。
     ぼんやりと理由もなくそれを眺め、ふと遠くに見つけた姿に赤い欄干を蹴った。
     派手なアロハに包まれた姿は、この世界では青い礼装よりも見慣れてしまっている。よく知る顔。それがぽつり、と橋の袂に広がる公園のベンチに腰をかけていた。
     この世界に喚ばれたときに、我々サーヴァントの体には聖杯戦争の仕組みが刻み込まれる。マスターのこと。聖杯のこと。そして戦いのこと。相対する者があれど、昼に刃を交えることはない。つまり、夜サーヴァントに出会うということは、すなわち即戦いを指す。仕掛けるのも、逃げるのも自由だが、気を抜くようなことは決してない。
     だが、今己の立つこの世界は、そのことわりから外れているようだった。
     巻き戻る日。繰り返される日常。喚び出された歪な存在が望むと望まざるとに関わらず、強制的に従わされる時間。この時間の中では未だ槍兵と刃を交えた記憶はない。代わりにもたらされたのは、聖杯戦争という時間の中ではついぞ記憶にない不可思議な日常だった。
     いずれ刃を交えるだろうと思いながらも、今のところその兆候はない。それどころか食事を共にし、やくたいもない会話を交わしてすらいる。それを享受しているのもまた事実だ。躍起になって否定するほど不快でもない。まるで互いに生きているかのような——けれども現実味の薄い泡沫うたかたの日々。
     喚ばれた存在は、己の意思で世界の仕組みから抜け出すことも叶わない。ただ、その流れに身を任せるだけなのだと、八つの存在は口を閉じた。
     柔な風にあおられることもなく、浮遊した体がアスファルトに降り立つ。すぐ側に立つ人あらざる者サーヴァントの気配に振り返ることもなく、座った青い男は煙草の煙を器用にくゆらせた。
    「バイトはないのか?」
     男がひとりでこんな場所にいるなど珍しい。普段なら誰かと共にいるか、とっくに寝床テントへ戻っている頃だろう。
     男は細めた唇の隙間から、紫煙をゆっくりと吐き出した。
    「もう終わったぜ? 何時だと思ってんだ」
     口元に面白げな笑みを刻んだ顔に、眉を上げて返す。
     深夜に近いこの時間も働いていたこともあったように思ったが、すでにあの職は辞したのか。それとも今日がたまたま休みだったのか。いずれにせよ普段から金策にあえいでいる風な男が、自らの意思で割の良いバイトを手放すようには思えなかった。大方、与えられた自由な時間を持て余しているのだろう。陽のある時間ならともかく、こんな時間であれば趣味である釣りに勤しむことも難しい。
     ぷかり。男の唇から吐き出された煙が、再び夜の風に乗せて辺りに広がった。
    「なんだ…?」
     顔を上げた男が目を細める。
    「いや」
    「戦わねえのか?」
     なぜか面白そうに言われ、首を横に振った。
     はっきりと口に出されてなお、戦う気は起きなかった。互いにマスターに従い、まみえるようなことがあれば刃を抜くのかもしれない。思ったところで、漠然とではあるがその可能性を否定する。
     かつて経験したあの聖杯戦争と比べれば、この世界では己のマスターらしき存在と随分と希薄な関係になっている。聖杯があり、マスターがあってこその現界。けれどもこの世界は私が知るどれよりも酷く歪んでいる。元より戦いを望む槍兵と違い、こんな世界で自らが戦いを好んで求めることはない。
     無論戦いを挑まれれば逃げはしないが、目の前の男にはその気配もない。男にその意思があれば、普段馴れ合っていたとしても、産毛が逆立つような殺気を滲ませるだろう。口だけで言ってみせる男の真意は読めなかった。
    「この繰り返し、いつまで続くのかねえ」
     細く煙が伸びる。
     日を跨ぐ時間になったおかげか、川面から吹き上がる風は冷たく心地良い。風に揺れる青い毛先が目に映った。
    「さあな、私の知るべきところではない。が、強いて言えば聖杯の思うがままに、という奴だろう」
     聖杯を手にするまで。勝者が決まるまで。この時間聖杯戦争は続く。だが、その目的へ向かい我々を動かすマスター自体が不在だ。少なくとも表立ってはいないように思われる。ことわりから離れたこの世界が、どのような終わりを迎えるかなど、使い魔サーヴァントに分かるはずもない。
     四日が過ぎれば、また一日目へと巻き戻る。途切れているようでつながった世界。それがあと何回あるのか。数えたいとも思わぬし、知りたくもなかった。明日終わると言われたところで、ただ受け容れることしかできぬ存在だ。
    ——いずれ飽きるだろうか。この無為な世界に。
     二度目の生などと甘受する気にもならない。喚ばれた時間を淡々と過ごすのみ。
     ふわりと風が吹き抜ける。ベンチの隣に私を座らせる気もなさそうなランサーは、足を投げ出して気怠げな姿を晒していた。
     今日のバイトは随分と疲れるものだったのだろうか。普段の様子からすれば、こんな姿を晒すことなど珍しかった。
    「あー…」
     姿勢を崩した男は、見えぬ水面をぼんやりと眺めたまま、唇から意味のない言葉を漏らす。
    「…どうした?」
     答えはなかった。
     川面から視線を移し、指先に挟んだまま短くなった煙草を見つめている。
     しばらくそうしたあと、指を焼くほど短くなったそれをようやく灰皿に押しつけた。新たな一本を取り出す。いつの間にか持つようになったらしいライターで火を灯した。
     街灯に照らされた公園内は、夜だというのに思いの外明るく、闇に光る炎の色は眩しくもない。時間のせいで人の気配のない空間に、煙草の燃える匂いが広がった。
    「依り代とのつながりが切れた」
     低くもなく大きくもない声が、静かに告げた。
     その言葉は、本人にとってはさほど重大な意味をもたぬのだろうか。
     重苦しい響きを含まぬ声音で吐き出された言葉は、すんなりと理解することができなかった。反対に告げられたこちらの思考が停止する。言葉の意味がよく分からない。
     いや、それが意味するところは体に刻み込まれている。理解したいと思わずとも、勝手に理解させられる。マスターとの関係が歪な世界であれども、受肉していない存在が人の時間に紛れ込むことはできない。サーヴァントが現界しているためには、魔力の供給源たる存在とのつながりが絶対条件だ。
     心臓がどくりと脈を打つ。
     この男は消えるのか。
     闇の中から何かが首をもたげるように、ざわりと不快な感覚が背中を這い上がった。意味もなく喉が渇く。
     聖杯の赴くままに。
     この世界は巡り、この世界は消滅する。
    ——聖杯の思うがままに。
     理解しているつもりだったが、どこか先のことだと思っていたこの世界の理。誰に遮ることもできぬ、逃れることのできぬ運命。先ほど口にした言葉が、ようやく現実となって訪れるだけのこと。
     それがなぜ、誰かひとりの元にのみ先に訪れるのか。
     渇ききった喉を潤すために唾液を飲み込もうとするが、うまくいかない。張り付いた口腔が掠れた音をたてる。
    「…どういう、意味だ」
    「そのまんまだろ」
     軽い口ぶりで返す言葉に、思わず手を伸ばす。煙草を挟んだ男の手を取った。怒りではない。言葉に出来ぬ何かが内側に渦巻いていた。
     そんなにも、どうでもいいことなのか。
     握った手首からじわりと熱が伝わった。今、自らの手はこの男を実体として感じることができる。
    ——これがいずれ、失われる。
     手のひらの中では、仮初めの体がはっきりと脈を打っていた。失われる兆候などわずかばかりも感じ取ることはできない。 
    「…消えるということか」
     掠れる声で問う。男は「聖杯にでも聞け」とあっさりとした言葉を投げて寄越した。
     それはあまりにもらしい、、、。すでに決着のついた感情だからという訳ではない。仮初めの生に興味はないと告げた男にとって、この世界から消えるということ自体、こだわるべきことでもないのだろう。
     手を掴まれたままの男は、口角を上げ笑みを浮かべる。
     言いたいことがあるのなら聞いてやると言いたげに、こちらを見た。その姿は先日、己の部屋で見たときと寸分たりとも変わらない。
     ただ食事を共にするだけの時間を過ごしたあのとき。まだこの存在が失われる日が来るなどと、ひと欠片かけらも思っていなかった時間。
     本当に失われるのか?
     男の言葉だけでは、真偽を見極めることはできない。つながりが切れたばかりだからなのか、目の前の姿を見る限り信憑性は薄かった。だからといって男が嘘を吐く意味はないことも知っている。
    「消えるのか」
     確かめるように、同じ問いが口からこぼれた。
     幾度確認しようとも同じ答えしか返ってこないだろう。だが、問わずにはいられなかった。
    「消えると言うよりは——還る、か」
     ふわり、と目の前の男が笑った。酷く柔らかな笑みは、普段あまり見ることのない穏やかなものだった。
    ——還りたいのか。
     唐突に頭をぎった理由に、胸が疼く。
     還りたい。
     無為に過ぎる日々を終わらせたい。
     男がそう思うことに、何の不思議もない。
     聖杯からの喚び出しに戦いを求める男にとって、この世界への未練などないだろう。平穏でぬるま湯のような時間につなぎ止められる理由がなくなった今、必死にしがみつき現界する意味はない。
    ——だから、こんなにも受け入れている。
     つながりが切れたと聞いた瞬間、心のどこかでランサーという男ならばみっともなく足掻く真似はしないだろうと思った。周りがどう感じようと、己が信条に従う。曲げられぬ運命を静かに受け入れ、残された時を今までと同じように過ごすだろう。それこそがランサーらしい在り方だ。
    「まだ大丈夫だろう…が」
     こちらの動揺など知らぬ男は、掴まれた手を夜陰にかざす。そのうち消える。言いながら伸ばした爪先から、霊子エーテルの欠片がわずかに軌跡を残して辺りに散らばった。
     儚く散りゆくそれは、サーヴァントの存在の証。
     体を形作るエーテルが、宿主から抜けるように大気へと溶け込んでいく。
     魔力がこぼれ落ちるその指先を掴んだ。
     指先は先ほど掴んだ手首よりも冷たく、一瞬だけまるで何もない虚空を握ったようにも感じた。今はまだ形を保っているが、これもそのうち薄れてゆくのだろうか。
     掴んだ手に力が籠もる。
     どうすればいい。
     どうすればこの手を、この存在を留めることが叶うのか。
     なぜそんな風に思うのか分からないまま、これを今失うのは認められないと訴える感覚に従う。
    ——サーヴァントの体は、魔力で維持されている。
     依り代を失ったサーヴァントに魔力を満たしたところで、根本的な解決にはならない。けれども。魔術師ではない己にできることなど、その程度のことしか浮かばなかった。
    「なんだ?」
     咎めるでもない声に、掠れた声で問い掛ける。
    「魔力は、足りているのか」
    「ああ、今のところはな」
     不思議なことを聞く奴だと、その目が語っていた。自分でも何を言っているのだろうと思う。
    「魔力を…私のもつ魔力を君に分けよう」
     男の訝しげな視線を受けてもなお、その言葉は自然に口からこぼれ落ちた。
     公園に設置されたまばらな街灯の光が、驚きに染まった男の顔を映し出す。
     失われようとする英霊サーヴァントを、少しでもつなぎとめる手段は魔力供給ではないのか。酷く不思議な顔でこちらを見る男へ、視線を向けた。
     何も言おうとしない槍兵は、しばらくじっとこちらを見つめている。握られた指先は、今も目に見えぬほど細いエーテルの光を放っていた。沈黙はどの程度の続いたか。男の唇がかすかに開く。
     寄越された返事になんと答えたのか、私自身よく覚えてはいない。その言葉を聞き、掴んだ指先を引き寄せる。
     今はただ、この存在をつなぎとめることだけを考えていた。

      ◇◇◇


     私が住んでいるアパートの一室は、冬木のセカンドオーナーであり自身の依り代でもある遠坂凜から、一時的に預かり受けたものだった。とは言っても無為に一室を与えられた訳ではなく、アパート自体の管理運営を押しつけられているというのが、最も適切な表現ではある。
     古いモルタル作りの建物は、内装は小まめに手を入れ小綺麗にしてはいるものの、外装の劣化は激しい。錆の浮いた階段手すりに、ペンキを塗るための準備をしてあった。天候のいい日に塗ろうと思ったまま、すでに数日が経過している。
     細い路地に囲まれたアパートの一階。最も北の部屋は、重く淀んだ湿気のせいで入居者には評判が悪い。人気がないのなら、管理人がそこに住まうのが常識だ。当たり前のように言った凛の言葉に反対する意味もなく、押しつけられるように渡された鍵を受け取った。以来、この世界で、じめっとした小さな一角が己の住処となった。
     ランサーを部屋へ招くのはこれが初めてではない。先日招いたばかりだった。
     大量に譲り受けた食材を腐らせるのは忍びない。だからと言ってどこかへ横流しする先があるわけでもなく、出来上がった料理を平らげる人員として一度だけ男を家へ上げた。不可思議な時間に面食らうこともなく、男は普段にはないくつろいだ様子を見せた。別れ際、また飯が食えるならこんなことがあれば呼べと宣う。それをどこかで楽しく感じながらも、社交辞令だと受け取った。
     日が繰り返す限り、何かの機会があればそういうこともあるだろう。だが、姿亡き者サーヴァントとして偽りの日々に身を浸すことに、忌避感はあった。
     だからこそ日を空けずして、こんなことになるとはどちらも思ってもいなかったはずだ。
     古びたアパートの階段下は、蛍光灯の不安定な光に照らされている。暗がりと呼んでも差し支えのない、湿気た空間だ。
     夜というよりも夜中に近い時間のためか、寝静まっている部屋が多い。それでもどこからか、テレビの音が途切れ途切れに流れてくるのが耳に入った。
     尻ポケットに突っ込んだ鍵で扉を開ける。安い扉がぎい、と色気のない音をたてた。封鎖された空間は、ひやりとした淀んだ空気に包まれている。手探りで灯りを点け、後ろに続く男を招き入れた。
    「変わらねえな」
    「先日来たばかりだろう」
     違うのは、食事が目的ではないということくらいだ。片付けてあるシンクにはグラスひとつ出したままにはしていない。
     後ろ手に扉を閉めたランサーが、履きくたびれたスニーカーを脱いでいる。それをいつまでも見ているのはおかしいだろうと先に上がり込んだ。
     部屋を出るときに閉めたはずのカーテンは、わずかに隙間があったらしい。猫の額のような小さな庭越しに、薄い月明かりが漏れ込んでいる。床に奇妙な形の影を落としていた。
     玄関の灯りを背に受けたまま、部屋の灯りを点けると奇妙な空間は部屋へと転じる。
     足が止まった。
     魔力供給のために誘ったものの、歩いている間に感情の昂ぶりはすっかり落ち着いていた。残るのは冷静になった思考で、この先の展開に歯止めをかける。
     先に動いたのはランサーだった。部屋の入り口に立ったまま、言葉を発することもないこちらに一瞥もくれず、遠慮もなく上がり込むと隣をすり抜ける。部屋の隅に置いた、味気ないボックスの上にチェーンごと財布を投げ出した。
    「先に風呂借りるぞ」
     振り返った瞳が、何でもない風にこちらを見る。男の考えを、その視線からうかがい知ることはできなかった。
     気負いなど何もない。
     食事を共にしたときと同じくらいあっさりと、何でもないことのように言われた言葉に、なぜかこちらの思考がかき乱される。返事もできずにいることをどう受け取ったのか。口元に微かな笑みを浮かべる。続く言葉もないまま小さなユニットバスに向かう姿へ、慌ててバスタオルを押しつけた。
    「使い方は分かるか」
    「ああ。蛇口を捻ったら槍が降ってくるとかでもねえ限り、普通に分かるだろ」
     にっ、と笑った視線が絡み合う。
     これから私は、この男と魔力供給をしようとしている。その事実が今さらのように広がって、思わず目を反らした。たかだか魔力供給に、私は一体何を動揺している。それも自ら言い出したことだというのに。
    「なんだ?」
    「いや…なんでもない」
     さっさと風呂に入れと言わんばかりに、扉を開いて男を押し込んだ。しばらく中でがたがたと音がした後、間を置かずして再び扉が開く。見慣れたアロハと革パンツが、扉の向こうから放り出された。
     シャワーが時折壁に当たるざざっとした音に混じり、二階の部屋か隣の部屋からテレビの音が流れ込んでくる。
     しばらくそのまま立っていたものの、思い出したようにクローゼットへ手を伸ばした。しまい込んでいた布団を取り出し、床へ敷く。いくら野生児のような男であっても、こちらはフローリングの上で情交に及ぶつもりはない。見慣れた部屋にぽつりと広がった寝具が、妙に生々しく目に映った。
     手が止まる。なぜこんなことになっているのかと、冷静な感覚が胃の奥に広がった。
     無論それは、己が言い出した魔力供給のためだと分かってはいる。その行為、、、、のために、相手はシャワーを浴びている。考えればそれは明らかであるのに妙に現実感がない。淡々と何かをこなしていなければ、頭がおかしくなりそうだ。
     相変わらずシャワーの音だけが聞こえていた。自らの口をいて出た誘いに、男があっさりと乗った意味は未だに分かっていない。
     シーツを広げ、タオルを敷く。変に知識だけはもち合わせていたせいで、潤滑剤になるような何かを探す。キッチンからオリーブオイルを持ち出した。これで足しになるのか分からないが、何もないよりはマシだろう。
     枕元にそれを置き、シーツの皺を伸ばす。何をして待てば良いのか分からぬ時間は、とても困る。
    「何、神妙な顔して座ってんだ?」
     止んだシャワーに気づかぬほど、ぼんやりとしていたらしい。
     布団の中央に座ったまま振り向く。全裸にタオル一枚の男が立っていた。濡れた髪から、拭いきれなかった雫がひと筋。肩を伝って滑り落ちる。
    ——電気は消しておくべきだった。
     普段はぴたりとした武装に覆われるか、色気のないシャツに隠された肌が、妙に艶めかしく目に映る。
    「さてと」
     男が目を細めた。
     小さな部屋はわずか数歩でがなくなる。こちらが覚悟を決めるよりも先に、間を詰めた男が手を伸ばした。布団の上で仰向けに押し倒されそうだ。その状況も状況だが、それ以前に言いたいことはある。獲物を捕らえた肉食獣のような笑みを浮かべる体を押しとどめた。
    「…まて、私もシャワーを」
    「あ?」
     槍兵は怪訝そうに眉を顰める。
    「どうせオレに突っ込まれるなんて想像はしてないんだろ?」
     だったら別にお前がシャワーを浴びる必要なんざねえ。ランサーが私の手首を押さえる。煌々と灯る部屋の明かりが上から差し込み、眩しい。
     細めた目を反らす。流れる視界に、鎖骨にかかる濡れた青い髪が見えた。
    「せめて電気は消せ」
     諦めて絞り出した言葉に、ぷ、と噴き出す音が続く。押さえつけられていた力が緩んだ。
    「生娘か」
     悪態を吐きながらもランサーは立ち上がる。そのままこちらの意を受け、部屋の壁に付けられたスイッチをぱちり、と切った。一瞬にして、眩しい蛍光灯の明かりが落ちる。安物のカーテンの隙間から差し込む月明かりだけが、互いの姿をぼんやりと闇に映し出した。
     男が歩み寄るために必要なのは、たかだか数歩。再びのし掛かるように押し倒される。
     こんなときにどうしたらいいのか、分かっているはずなのにぴくりとも動けない。ただ、腰の上に乗り上げたランサーを見上げる。その口元はうっすらと笑みを浮かべていた。
    「悪いようにはしねえ」
     先ほどの言葉を、今さら頭の中で反芻する。ランサーとの魔力供給は、男を組み敷く姿で想像していたことに、ようやく気づかされた。
     まさか、立場が逆ということもあり得るのか。
     魔力譲渡は、どちらがいずれの立場でも構わない。だが無意識下ですら想像をしていなかった分の動揺は、あった。
    「まて」
    「ばぁか。オレが突っ込んだりはしねえ…お前の想像通りだと思っとけ」
     ほの青い月明かりを受けた瞳が、闇の中でうっすらと光を反射する。濡れたように見えるそれから、思わず目を反らした。
     自らの下肢を覆ったタオルはそのままに、しっとりとシャワーの水気を帯びた手が、こちらの服を脱がす。抵抗らしい抵抗もできない。概念で紡がれたそれを一瞬にして解くことはできるものの、互いの間に流れる空気がそれを阻んだ。
     槍を扱う手が、シンプルな服のボタンにかかる。固い指先をゆるりと這わせた後、ボタンがひとつずつ外されていく。辛うじて動いた腕で、手伝おうとすれば「情緒がねえな」と男は口元を歪めた。
    「全裸で出てくる方が情緒はない」
     妙に熱が籠もらぬよう、目を細めて咎める。腰をタオルで覆った男は、それには笑っただけだった。

     ぴたりと腰に張り付くパンツから、ジッパーを下ろす音が聞こえる。じぃ、と音を立ててくつろげられ、半端にずらされた隙間から、下着の中まで手が入り込んだ。風呂上がりのしっとりとした指先が下生えをかき分ける。兆してもいない急所へやわらかく絡んだ。
    「最初っから、勃ってるとは思ってねえけど、ホントにこれでできんのか?」
     見下ろす視線に、無理はするなと浮かんでいる。けれども、言葉とは裏腹に男の手が動く。蠢いた指先に先端を捉えられ、腰を中心にぞわりと快楽が立ちのぼった。
     体の仕組みは、馬鹿馬鹿しいほど変えられない。生理現象というのは、サーヴァントとなっても同じということか。
     快感の中枢に触れられれば、何であれ、誰であれ、同じ反応を示すものなのか。
     まだ熱の籠もらない陰茎を、ランサーの指先が丁寧に扱き上げる。こちらの足に跨がったまま、伏せた睫毛の影から、赤い瞳が下肢をぼんやりと見つめている。
     半端に腰にまとわりつく下着が邪魔で、自らの手でずらそうと動けば、男の手がそれを手伝う。
     相変わらず聞こえてくる、どこかの部屋のテレビの音。笑い声の混じるそれの間に、かすかに聞こえるランサーの吐息。跨がるように押しつけられた尻と、己の太ももの間にはじっとりと汗が浮かんでいる。
     まるでマグロのように仰向けにされたまま、ちらりとこちらを見る瞳と視線が交わった。唇を湿らせる舌の先が見える。
     見せつけるように八重歯を覗かせたまま、ランサーは体を沈め指を絡めたそこをゆっくりと口に含む。泥濘ぬかるんだ熱い口腔に導かれると、触られたときよりも一層深い快感が広がった。
    「いい反応すんじゃねえか」
     艶を含んだ声で呟いて、舌先で裏筋を舐め上げる。唇と、舌と、ぬるついた腔内で兆しかけた起立を追い立てる。
     時折こちらの反応を伺うように、視線が絡みついた。それにすら、得も言われぬ感覚が広がった。根元を支える指が上下に動き、先端からあふれ出た先走りが垂れ落ちた。陰毛がべっとりと濡れているのが分かる。
    「…アーチャー、それ寄越せ」
     枕元に置いたオリーブオイルを、顎で示す。伸ばされた手にオイルを渡そうとすれば、男は首を振る。
    「中身出せよ」
     言われるまま、蓋を開けたオイルを手に垂らした。加減も分からず、シーツにこぼれる程傾ける。とろりと濡れた手を引くと、ランサーはゆっくりと自らの腰を持ち上げた。
    「…、っ……ン」
     まるで義務のように再び咥える。目を閉じた男の唇から、鼻に抜ける艶めいた声が漏れた。自らの体の上で男の尻がゆるやかに上下を繰り返す。タオルで覆い隠された箇所から、濡れた男が聞こえた。
    「ふ…、ぅ、ッ…」
     甘く、抜けるような声。唇にモノを飲み込み、こちらの下腹に前髪を擦りつけるようにして、ランサーの体が揺れている。
     何をしているのか、尋ねるほど野暮ではない。
    「んっ……、っ…、ぅぁ…」
     耳を擽る声を聞きながら、ごくり、と喉が鳴った。
     己の口内に、唾液などない。カラカラに渇いた喉が痛みを訴えている。手を伸ばし、ランサーの額に掛かる前髪を上げた。訝しむように動きを止めた男と目を合わせ、己の体をゆっくりと起こす。
    「っ…、……ふ、っ…」
     赤い瞳は反らされることもなく、見上げるようにこちらを見ていた。視線が不快なのか、眉間に皺を寄せ、先ほどまで熱心に這わされていた舌の動きが鈍る。体を起こしたことを咎めるよに、瞳に落ちた睫毛が震えていた。
     相変わらず喉が張り付く。焦れたように口を動かした男の刃が陰茎に当たる。微かな痛みすら快楽となって、固く立ち上がった先端から先走りがこぼれた。
     徐々に染まる目の色に、ぞくりと背が震える。普段知る男からは感じることのない色が垣間見え、心臓が脈を打った。
    「っ…ぁ…、なあ、先に……、一回…出せよ」
     とろりとした光を浮かべたまま、伸ばした舌先が先端を刺激する。尖らせたそれで鈴口をこじ開けられ、腰が浮いた。
     いつしか完全に勃ち上がった箇所に、緩急をつけた刺激が続く。食いしばった口の隙間から短く呻きが漏れた。急所のみに与えられた刺激だというのに、体全体に熱が籠もっている。首に、腕に、胸に、足に、そのいずれにもじわりと染み出した汗が浮かんでいた。
     薄闇に覆われた部屋の中、タオルに隠されたランサーの腰が揺れる。こちらからは見えぬ位置で、その隙間に差し込まれた手が何をしているのか。タオルが不自然に蠢く様子だけ見えるのが、逆に想像をかきたてた。
    「っ……ぅ、ッ、…ン」
     噛みしめるように閉じたランサーの唇から、堪えきれない音がこぼれる。近隣から聞こえていたテレビの音は、いつの間にか止んでいた。静寂に包まれた夜陰の中で、男の声だけが耳を刺激する。
     口淫の激しさが増す。唇と下生えの隙間からじゅぷじゅぷと泡立つ音が漏れ、その合間に喘ぎが加わった。根元を押さえた指先が追い上げるよに繊細に動く。裏筋からタマの間を扱かれ、腹に力を込めた。
    「ぅ…、あ…、もう、出そうだ…」
     口から出せ。ランサーの頭に手を掛ける。けれども振った頭に拒絶され、そのまま喉深くまで飲み込まれた。
    「っ、…ッ」
     己の意思では止められないほど、下腹が熱くなる。じりじりと蓄えられていた精液魔力は、強く吸われたタイミングで解き放たれた。
     ぴたりと塞がれた唇が、吐き出すそれを一滴も漏らさぬように受け止める。波のように緩急をつけて吐き出す度、ランサーの喉元が嚥下を繰り返す。
     最後のひと雫まで余すことなく飲み込まれ、ようやく腔内から解放されると詰めていた息を吸った。
    「……旨くはないが、魔力としては悪くねえ」
     くつりと笑ったランサーは、唇から吐息を漏らす。そのまま、こちらの体へ乗り上げる。先ほど放ったばかりだというのに、男の指に握られた陰茎は未だに熱をもっていた。軽く扱かれるだけですぐに固く張り詰める。
     跨がった太ももに、腰の薄い皮膚を挟まれぞくりと皮膚が粟立った。目の前に膝立つ男の腹部からは、いつの間にかタオルが外されている。自らの手で施した前戯によるものなのか、昂ぶらせた先端から先走りがこぼれ落ちた。
     そそり立つ姿を見せられても不快感はない。むしろ、この時間に快感を共にしているのだという訳の変わらぬ感覚が湧き上がった。
     薄く開いた口から浅い呼吸を繰り返す男を引き寄せる。なんだ、と言葉を紡がれるよりも先に口を合わせた。口淫の名残が残る唇だったが、気にはならない。驚いたように閉じた口を舌先でなぞる。渇いた口に唾液が広がった。
    「こんなんじゃ足りねえのは分かってるだろ」
     唇を離すと、男は今夜の目的を口にした。口づけを拒むことはなかったが、本来の名目はこの程度では意味がない。不要な前戯などしなくて良い。そう男の視線に浮かんだように思え、首の後ろへ回した手を離す。ランサーは何も言わなかった。そのまま片手で陰茎を握り、オイルに濡れた尻をゆるりと擦りつける。
    「さっきまでのガッチガチは…、流石に無理そうだが、これくらいなら」
    「っ…まて」
     思わずその腰を掴んだ。
    「…あ?」
     けれども男はにやりと笑い、陰茎を尻で挟む。さらに、奥へ誘うように腰を蠢かした。
     ぬるぬるとした尻の窄まりが、刺激に敏感になった亀頭を柔らかく食む。それだけで本能に従いたいと体が動きそうになり、腹に力を入れることで辛うじて止めた。
    「まだ、無理だろう」
     いくら前戯を施したらしいとはいえ、具合も分からない。できれば己の手で状態を確かめた上でなければ抵抗もあった。
     けれどもランサーは首を振る。
    「…っ…は…、大丈夫だ」
     止めようとする手を無視して、跨がったまま腰を下ろし始める。後孔は確かに泥濘ぬかるんではいるものの、先端で感じる狭さは決して大丈夫とは言いがたい。けれども、目尻を染め喉元を震わせた男は、何かに魘されたかのように腰を下ろす動きを止めようとはしなかった。
     徐々に食い込む先でぎち、と締め付けられる。きつい内側が、痛みになのか細かな痙攣を繰り返す。
    「ランサーっ」
    「だ、まれ…」
     武装越しに何度も見た、引き締まった腹部が眼前で震える。腰を跨ぎ、広げた太ももにも力が籠もっていた。
     先端を飲み込むどころか、入り口を押し広げられただけで動きを止めた体へ手を伸ばす。中心で震える起立へ指を絡めた。
    「っ…ぅ…あ………ッン」
     男の体は簡単な仕組みだ。
     快楽を拾いやすい器官に刺激を加えれば、緊張に締め付けていた体の筋肉が緩む。
     くびれに指を絡め、雁首をくすぐる。根気強く動かしてやれば「あ」と甘やかな声が漏れた。行為を成し遂げるための前戯だと受け取ったのか。噛みしめた口が、明け透けなく快楽に縋る。陰茎の先を半端に食んだまま、じりとも動かずこちらの手の動きに身を委ねた。
     丁寧に指を動かし刺激を続ける。目を伏せたまま、時折唇を舐めるように舌先が覗く。拒むようにきつく締め付けていた後孔がわずかに緩むのを感じ、跨ぐ男の腰骨に手を宛がった。
     力の籠もった足をいなすように、支えた体をじっくりと引き寄せる。
    「んっ…、ぁっ…、ッ…ぃ」
     俯いた男が何かに耐えるように首を振る。けれども身を捩り逃れようとはしない。その矜持が逆に熱を煽る。痛みが確実に襲っているだろう体へ、じわりじわりと起立を沈める。熱い襞は締め付けというよりは吸い込まれそうな塩梅だった。先ほど出したにも関わらず、再び放ちたい欲求が押し寄せる。
     ぎり、と歯を食いしばり、解放へ向かおうとする感覚を意思の力で押さえ込む。放つ前に己の欲望に従い突き上げ、揺さ振りたい。けれども受け入れる男の様子に、理性のどこかが声を上げる。欲望と理性の狭間で、思考が揺れていた。
    「ッ、ァ…、てめ、え…くっ…そっ」
     悪態をつきながら足で体を支え、飲み込むスピードを制御しようとするランサーの体を掴む。喉が鳴った。引き下ろす動きに力をかける。
    「っ! ま、っ…」
     腕だけでなく、己の腰にも力を込める。引き下ろしながら突き上げれば、悪態を吐いた男の口が空気を求めるように戦慄いた。前戯で指が届かなかった奥まで、先走りの力を借りて一気に咥え込ませる。
    「ひっ…いっ、…ぁっ、ッ…!!」
     がくりと力が抜ける。ほとんどすべてを飲みきった腹部が、びくびくと震えていた。浅く吐き出す呼気に混じり、うねる内部の動きに合わせて微かな喘ぎが聞こえる。掠れた響きは、酷く耳に残る。抑えきれない欲望が一層膨らんだ気がした。
    「ぅ、ぁ……、い…きな、り…」
     体を支えるようにこちらの腹についた手が、じっとりと汗ばんでいる。
    「やる、気に、なりすぎ…だ、ろ」
     は、は、と短く息を漏らす合間に、詰るような言葉を絞り出した。ふらつく体を支えるために、身を動かす。それにすら、ランサーの体は小さく痙攣を繰り返した。
    「ん…、ま、て…」
     かすかな動きすら堪えるのだろう。額を肩に擦りつけるように身を固めた男が小さく訴える。頷くこともできず、耳元で囁く。首筋にじっとりと汗を浮かべ、こちらの腕に縋った指には力が籠もっている。指先が皮膚を傷つけるほど食い込んで、ちりっとした痛みがあることに今さら気づいた。
     入れたままの体内は、まるで異物を拒むかのようにひくついている。だが、己の起立が包まれた柔く熱いそこを、欲望に従い暴きたかった。
     何をしているのだ、と頭のどこかで冷静な声が響く。下肢が訴えるものとは切り離された思考に、首を振る。魔力を譲渡すれば良いだけのものに、なぜ交わりを選んだのか。より効率的というだけのことなのか。
     無理につなげた体は、決してそれを求めてはいなかっただろう。耳元に響く苦しみを滲ませた声音は、この行為の終わりを求めているようにも思えた。引き抜くために腰骨を強く掴む。しかし、当の本人である男がそれを拒んだ。
    「…やめ、ねえ」
     わずかながらも慣れてきたのか、跨がる体に温度が戻っている。ゆる、と腰が揺れた。締め付けていた粘膜が、くちゅ、と水音をたてる。静まりかえった夜の部屋に響いた音は、やけに耳を刺激した。
     体を強ばらせていた男が、私の手に指を絡ませる。それを支えにじわりと腰をくねらせた。
    「っ……、ふ……、っ…んっ」
     伏せた瞼が静かに震える。睫毛の隙間から覗いた目には、うっすらと涙の膜が張っていた。ぼんやりとした月の光を、濡れた目が反射する。
    「キツい…が、…悪くは、ねぇ」
     ぎゅう、と力の籠もった指先が、言葉の真偽をぼやかしたがっている。先ほどまで男の体に浮かんでいた汗は、快楽によるものだとは思えなかった。跨がり腰を揺らす今も、言葉とは裏腹に太ももに力を込め、体を強ばらせている。
    「無理はするな」
    「…、無理じゃねえ…」
     強がるように吐き出され、眉間へ皺が寄った。握る指に力を入れたまま引き寄せる。胸が触れるほど体を密着させ、体を逃そうとする相手を捉え、背に腕を回す。
    「っぃ…ッ、ぁ、なッ!?」
    「いいから、少し黙れ」
     殺傷能力の高い蹴りを繰り出す、しなやかな筋肉の付いた足。それが暴れようとするのを押さえ、そのまま押し倒した。
    「ま、っ…ぅあっ、…ンっ」
     きつく目を閉じかぶりを振る相手に、容赦なくのし掛かる。
    「っ…、んっ、……、んっ」
     ぱさぱさとシーツに髪を散らして頭を振る。痛みを逃そうとするように、絶え間なく上がる声を聞きながら、すっかり萎えてしまった股間へ手を伸ばした。
    「何が大丈夫なんだ」
    「る…せっ」
     は、は、と短く息を吐きながらも、剣呑な色を帯びた視線を返すだけの気概はあるようだった。つながる箇所は動かさぬように、指を絡めた陰茎を擦り上げる。その度に、咥え込んだ中がひくりひくりと蠕動を繰り返した。
    「言うからには…それ相応の経験があるかと思えば」
     受け入れ慣れてもいない癖に乗ってきたのか、と詰る。
    「痛みなんざ…どうせ、霊体化すればどうってこと、ないだろ」
     指の間でくち、と先走りが音をたてた。
     ああ、そうだ。単に相手の魔力を受け入れる行為なのだから。浮かんだ言葉を噛みしめながら、男の先端を擦り上げる。男の口から吐き出された言葉は、間違ってはいない。けれどもどこか釈然としない感覚が鎌首をもたげた。
     どうせ交わるのならば、互いに快楽を共にするべきだ。
     熱を分かち昂ぶり、吐息を溶かす。そう思うのはおかしなことなのだろうか。
    「んっ、…っあ…」
     緩やかに続けた愛撫により、痛みによって寄せられていた眉間の皺が緩む。先ほどまで食いしばっていたらしく、押し倒した男の唇には、微かに血が滲んでいた。
     オイルのボトルを引き寄せ、握った先端に静かに垂らす。先走りと合わせ、柔く握り込んだ。音をたてるほど滴らせたオイルが、快楽を助長するのだろう。小さくこぼれる声に、一層艶が混じった。
     垂れたオイルがシーツに染みこむのが見えるが、どうでも良かった。布団ごとダメになったのなら、どうにかすれば良い。今は溶け合うような交わりのことだけしか考えられなかった。
    「んっ、ん、ぁっ、…っ…、アー…、チャー」
     掠れた声に合わせ、指で先端を抉る。強い刺激に、飲み込んだままの襞がきゅうっと強く締め付けた。
    「ひっ、ぁ…ッ!?」
     上気した視線がこちらを捉える。咎めるような視線は分かっていたが、手を止めず腰を突き上げた。
    「な…ッ、ン、ぁ、っあ、…!」
     シーツの上を彷徨っていたランサーの手が、私の膝を捉え、制止を訴えるように爪を立てる。かすかな痛みが走った。
    「悪くはないだろう?」
    「んっ、…は、この、…ッ…」
     手も腰も動かすことは止めなかった。指の中で震える起立を責め立てながら、腹の奥を小刻みに突き上げ続ける。むずがるように逃れる脚を掴み、引き寄せ、動く。やがて男の口から甘い声が上がった。
    「ぃ、ぁ…、……んっ、ん、ン…、ぁっ」
     広げた太ももには、体の中から熱を放出するようなじっとりとした汗が浮かんでいる。その脚を掴み直し、中心からは手を離す。甘く抜ける声を聞きながら、膝頭を割り、腰が浮くほど両足を押し広げ、角度を変えて突き下ろした。
    「っ、ぅあ……ッ」
     びく、と背をしならせ声を漏らすのを聞きながら、小刻みに動き続ける。浮かんだ汗は腹から首元まで広がり、青ざめていた頬にはほんのりと赤味が差していた。うっすらと色の浮かぶ肌に、思わずごくりと喉が鳴る。
     男の腰も、ゆるりと動きはじめる。どちらからともなく前後に動く。はあはあと忙しない声が重なる。悦い部分を見定め、狙うように腰を突き立てる。掠れた声が間断なく続き、耳を刺激した。今まで何度も聞いた声だというのに、今は己の欲を掻き立てる。
     互いに体が動くのを止めることはできなかった。いや、どちらも止めようなどと思っていない。
     食いしばった唇から、まるで獣のような呻きが漏れた。
    「ぁ、…な、っんだ、…っ、ぅあ、…んっ」
     驚愕に目を開く男の肩口を押さえ、ぐいと突き込む。揺れる腰がくねるように絡みついた。ぐちぐちと肉を擦る音と、呼気しか聞こえない。快楽を追おうとするのを翻弄するために、時折異なるリズムで突き上げれば、しなやかな脚がきつく脇腹を締め付けた。
    「い、あ、ぁっ…、そ、こっ」
    「…っ、ッは…」
     強請るような声に導かれ、ことさら動きを早める。月明かりに照らされた胸元に、自らの額から滴り落ちた汗がぱたぱたと散った。
    「ぁ…く、…ッん、んっ…気持ち、い…」
    「…っは、…それは、良かった」
     快楽を同調すれば、魔力供給が捗るからか。
     沸騰した頭に浮かんだ理屈を、どこか遠くにぼんやり浮かぶ。適当にこじつけた理由よりも、柔く包み込む感覚に身を委ねたかった。薄っぺらな布団の上で体をくねらせる姿態に頭を支配されたかった。
     全盛期の男ふたりが本能に従い交合う。どちらの口からも訳の分からぬ呻きが漏れ、部屋に充満する。求められるから与えているのか、それともこちらが与えたがっているのか。
     せがむように締め付けてくる壁内の、膨らんだ箇所を押しつぶすように擦り上げた。
    「ンッ…ぁ、ぁっ…ふ、んっ…ぁ、ッ」
     漏れる声には、意味などない。
     男の体が逃げを打つのにも構わず、切なげに震える奥を広げるように押し入った。痛みではない感覚に、痙攣するように震える腹部に手を這わす。内部に突き入れた自身を探すように、手のひらでぐいと押さえつけた。
    「ぃ、ああ、あ」
     緩く頭を振るのは、拒絶ではないと知っている。
     この、体が逃げを打つことなどあるものか。
     強引に引き寄せ、口端からあふれる唾液ごと唇を貪った。男の呼吸など知ったことではなかった。空気を求める口を塞ぎ、唾液を絡め腔内を蹂躙する。絡ませた舌が逃げようとする度に、頭を押さえ強く吸い上げた。びくびくと震える体が、空気を求める姿にすら、欲望が首を擡げる。
    「んっ、はな…ッぅ…っ…んんッ」
     腹を押さえる手を男が払う。普段であれば撥ね除けられただろうが、快楽に揺れる体から放たれた力は意味を成さない。身を捩り逃れようとする腹を、指先が沈むほど強く押さえる。唇からは、短い悲鳴が上がった。
    「ッ、…っ、…も、ぁ……ッ!」
     眦から涙が細くこぼれ落ちる。咀嚼するように締め付ける動きに、己が放っていたことを知る。それでも萎えることのない起立に、自嘲が浮かんだ。緊張と弛緩を繰り返した男の体が、ぐったりと横たわっている。解放の余韻など残さぬまま、まるで獣のように突き上げ続ける。
     もっと。与えるならすべてを。余すことなく、魔力をすべて。
     脚を肩に担ぎ上げ、体重を込めて緩んだ最奥を突き上げる。力ない体がずり上がろうとする、あえかな抵抗を感じた。
    「欲しい、の…だろう?」
     いや。男は欲しがりはしなかった。こちらから与えると言った言葉を、男は受けただけだ。
     男の答えなど、本当は知っている。何を見ているのか分からぬほど、快楽に魘されて彷徨う目を捉えた。薄く開いたその口が答えを返す前に唇で塞ぐ。獣のように腰を動かし、非難の籠もった手の動きまで押さえ込んだ。
     行き場をなくした指先が、シーツを掻く。呼吸を求めた口を離せば、意味のない嬌声が立て続けにこぼれ落ちた。
     拒絶の気配はどこにもない。あるはずはない。
     魘されるような吐息が、耳に響く。互いの腹の間で揺れる陰茎にも、先走りではない量の精液が絡みついていた。男が限界を越えことを知りながら止めなかった。やがて悲鳴にも近い声が上がる。
    「っ…はっ、…っ、ラン、サー…」
    「ぁッ…、も、ッ…し、つけ…ぇ」
     終われ、とランサーの脚が私の腰を締め付る。痛みを感じるほど強く引き寄せられ、深まる接合に壁内がきつく痙攣した。
    「っ、ぁ、ぅ…あ、…、だせ、よ…っ、も…ッ……ぅ…ぁ」
     甘い懇願などではない。滲む声音はこちらを責めているのだと思う。掠れた声に、痛めた喉の呼気が混じっている。
     止めなければ。
     馬鹿のように腰を振り続ける己は、若い頃にもなかったような獣っぷりだ。自嘲が浮かぶが、この時間には理由があると首を振る。いや、それでももう止めるべきなのか。互いに放つのが何度目になるのか分からぬが、自らの限界は近い。
     押さていたランサーの手が、ふらりと持ち上がる。揺さ振られたまま、力なく彷徨うと私の首を引き寄せた。
    「くれん…だろ?」
     涙の膜が張った目が、真っ直ぐにこちらを射貫く。渇いた唇を開き、舌が滑り込む。おとがいの中で、唾液も何も分からないほど絡め合った。閉じた瞳の端から涙がこぼれ落ちる。目の前のそれが、随分と遠く感じた。
    「ッ…ぅッ…ンッ…」
     最後の絶頂は、解放の瞬間など分からなかった。己の先端から雫のような精液がじくじくとあふれ出る。放ちすぎたそれは勢いなどとうに失い、痛みにも似た感覚で微量の放出があるだけだった。
    「っ…、は……、は、っ…」
     ぽたぽたと落ちる汗が、ランサーの胸元を濡らす。カーテンの隙間から差し込む光は、いつの間にか月光から朝日へと転じようとしていた。
    「…んっ……っ、んっ…っぁ……、ふ…」
     互いに余韻に浸り、掠れた声を聞く。行為の最中に重ねたよりも穏やかで遊びのような口づけを繰り返す。
     汗が引き、互いの呼吸が落ち着くまで。ただそうしていた。

     遊びのような触れ合いは、どちらからともなく離された。ランサーは絡めていた手の力を解く。ぱたり、とシーツの上に手が落ちた。
    「……風呂…」
     何でもない、声だった。
     掠れた音で告げると、体を起こす。先ほどまで強ばらせていた脚も、腕も、すでにいつもの男の動きだ。布団の端に投げ出されていたタオルを持ち、立ち上がる。その間に男がこちらを振り向くことはなかった。
     ほのかに明るい部屋で、風呂へ向かった男の背を見送る。やがてカランを捻る音に続き、聞き慣れたシャワーの水音がざざっと響いた。
     情交の余韻はすっかり引いていた。
     ユニットバスの明かりを見たまま、いつまでもぼんやりとしている訳にはいかない。あぐらをかいた体からすっかり汗は消えていた。布団にかけていたタオルもシーツもしとどに濡れしわくちゃになっている。用意したオイルも半分以上なくなり、床の上にぽつんと転がっていた。 
     静かに立ち上がり、クローゼット野中から替えのシーツを取り出して換える。洗濯をすれば問題のなさそうな使用済みのそれは、丸めて洗濯機に入れた。明日の朝仕上がるようにタイマーをせっとする。
     元よりひとつしかない枕の代わりに、大きめのバスタオルを丸め枕代わりに整える。その頃になれば止んだ水音に続いて、 ふらり、とランサーが風呂から上がってきた。
    「…寝る…すげえ、眠い」
     それだけ言うと、何の躊躇もなく布団に滑り込んで、男は目を閉じた。
     先ほどまで赤く染まっていた目元には、わずかにその名残がある。無防備に横たわる体は、何度か深い呼吸を繰り返した後、やがてくうくうと寝息をたてはじめた。
     一体、今まで何をしていたのか。
     ふと湧き上がった思いに引きずられるように、胃の奥から液体がせり上がる。ゴクリと喉を鳴らしていなす。そのまま逃げるように風呂場でシャワーを浴びた。
     体に絡みついた残滓が排水溝へと吸い込まれていく。足先まで伝った湯は、すべてがなかったことにするように、静かに流れていった。
     何も考えたくない。
     サーヴァントの体が、あれしきの運動で堪えることはないが、湯に浸したはずの指先がかすかに震える。いつものように大ぶりのタオルで水滴を拭い、髪の毛も、体も、脚の先まで拭き上げて、そのままそっと布団の中に体を滑り込ませた。
     先に寝ていた男が気配を感じたのか、緩く身をよじる。シーツの上を彷徨った指先が、わずかにこちらの体を捉えると、かすかに動いたような気がした。
    「……」
     先に眠る男の体温が、心地良い。
     狭い布団の上で、向き合うように体を寄せる。わずかにひらいた男の唇から、ゆったりとしたリズムで吐き出される吐息が鎖骨を擽った。


     眠ったのがいつだったのか、まったく覚えてはいない。
     カーテンから差し込む陽が昼を告げ、それにつられ目を開いた。すでに布団の隣には誰もいない。ほんの一瞬だけ記憶が混乱した。
     寝ぼけた頭を覚醒させるように立ち上がり、洗濯機を開ける。洗い終わったシーツが一枚。振り返った目に入るのは、枕と枕代わりのバスタオルが転がっている。夢ではない。けれどもやはり現実味は薄かった。
     反芻するほど曖昧になりそうな記憶に首を振る。
     昨夜のことは決して夢ではなく現実に起こったこと。言い聞かせるように口の中で呟く。そうしなければ、己自身が最も信じられぬと感じていた。
     目覚めたときにランサーの姿がなかったことへ、落胆と同時に、妙に安堵していたことに気づく。魔力を補う行為の後で、どんな顔をして向き合えば良いのか。分かってはいなかった。マスターとサーヴァントですらない。互いにサーヴァント同士。昨夜の行為を、果たして魔力供給と呼んでも良いものか。
     けれども。
     感情など決して伴うはずのないあれは、魔力供給と名付ける以外なにものでもない。失われゆく体をつなぎ止める。流れ落ちる魔力を補うだけの行為。
     ただそれだけのものだ。



      ◇◇◇


     私は、あとどれだけの時間、この存在に出会い、言葉を交わし、姿を目にすることがあるのだろうか。


      ◇◇◇


    〈後略〉






    そらに至る扉 ◆ そして再び日は巡る side:Lancer

     あのとき握られた手首から、男の熱を思い出せなくなった頃のことだった。
     夜のバイトも終わり、街からは独特の喧噪も薄れ、深い闇に包まれていた。そのまま寝倉に戻る気もしないまま、冬木大橋の袂にある公園に足を伸ばした。日付の変わるような時間だっただろう。
     夕暮れであれば、恋人たちの甘い睦み合いが繰り広げられるベンチには誰もおらず、その真ん中に座るとポケットに押し込んでいた煙草を取り出した。辺りに誰もいないのを良いことに、ライターで火を点し、紫煙を肺に満たす。
     暗闇に包まれた水面から、浅い音だけが聞こえていた。時折吹き抜ける風はわずかに冷たく、冬が遠く離れたものではないのだと感じる。
     煙草を挟んだ指先は、時折じわりと揺れる。己以外には誰にも分からないような、かすかな歪み。現界することにまだ支障はないが、段々とこうして薄れていくのだろうか。
     ちり、と指の間で煙草が音を立てる。半分以上減ってしまったそれを咥えると見知った気配を感じて顔を上げた。
     煙と何とやらの見本のように、大橋の最も高い欄干に立つ赤い姿。オレに気づいたのか、重力を感じさせない跳躍で、公園に敷き詰められたタイルの上へ足を下ろした。
    「バイトはないのか?」
    「もう終わったぜ? 何時だと思ってんだ」
     武装姿のまま目の前に立つ男を見る。
     いくら緩い世界だとはいえ、今は夜。この時間帯に英霊が出会えばそれは必然的に戦いを意味する。けれども目の前の男は、いつものように双剣を取り出すこともなく、佇んでいた。
    「なんだ…?」
     好戦的な気配を浮かべるでなく、ただ立つ男に問う。
    「いや」
    「戦わねえのか?」
     緊張は解いているとはいえ、目の前の弓兵がわずかにでも戦意を滲ませたら対応できるだけの余裕はあった。
     だが男はそんな気配を出す雰囲気はない。武装姿で立っている癖に、おかしなことだった。
     何を言うこともなく、する気配もないのであれば、オレから仕掛けるつもりはなかった。煙草を挟んだ指先が、己にしか分からぬエーテルを散らすのを静かに見る。
     そよ、と風が吹き抜けた。見上げた視線の先で弓兵の武装が揺れ動く。
     このことを告げるべきか。己に問う。
     告げたところでどうなる訳でもない。男の抱く感情は知っていたが、立場としては敵対すべき存在。そんな相手に告げてどうするのか。そもそもオレ自身が受け入れているこの事象を、誰かに告げなくともなんら問題はない。
     だがそのうち、冬木のサーヴァントは気づくだろう。そうなれば目の前の男は何を思うのか。
    「この繰り返し、いつまで続くのかねえ」
     お前はこれがいつまでも続くと、終わりはないと思っているのか。例えばその中で、誰かひとりがいなくなることがあり得ると、意識しているのだろうか。
     浮かんだ言葉を声にする前に口を閉じた。
    「さあな、私の知るべきところではない。が、強いて言えば聖杯の思うがままに、という奴だろう」
     男の言葉に、知れず笑いがこみ上げた。
     そうか。そうだろう。かく言うオレもまた、先日まではそう思っていた。
     聖杯の思うがままに。聖杯の気まぐれに付き合わされて。あれによって喚び出されたオレたちは、その思惑の中からは逃れることができない。
     けれども、その言葉を口にするお前は、本当にその意味を理解しているのか。いつ終わりを迎えてもおかしくない。それはここから跡形もなく消え去ってしまうことだと、分かっているのか。
     問うたところで意味のない言葉が渦巻いた。
     オレの抱いた情は、先だって気づいてしまったこの男からの感情に、引きずられたものではない。オレからも抱いたこの感情を、この男は受け取るつもりはあるのだろうか。
     いずれ、そのうち。いつか、そうなれば。
    ——そんな時間があると誰が決めた。
     珍しく己の口から言葉にならぬ声が漏れた。
    「どうした?」
     何も言わず、煙草がちびるのを見つめるオレに、弓兵がいぶかしげに眉を寄せる。
     言うことを躊躇ためらうことなどあるものか。どこか他人事のように思う。
     指を焼くほど短くなった煙草を灰皿に押しつけ、真新しい一本を咥える。
     封を切りたての煙草からは、フィルター越しに香ばしい香りが広がった。火を点け、煙を肺の深くまで吸い込んだ。
    「依り代とのつながりが切れた」
     吐き出す煙と共に出た言葉は、思いを巡らせたほど深くもなく、淡々と事実を告げる声音で漏れ落ちた。
     さわ、と鳴る川面の音に消されそうなほど、それは短いものだった。
    「…どういう、意味だ」
     ぽつりぽつりと据えられている照明が逆光になり、男の顔はよく見えない。声音から推測すれば、きっと男は眉間に皺を寄せているだろう。
    「そのまんまだろ」
     咥えた煙草を挟む手を、強く掴まれた。
    「…消えるということか」
    「そうなるな」
    「なぜ」
    「知るかよ、そんなことは聖杯にでも聞け」
     掴まれたまま手首を解くこともなく、空いた手でライターを擦る。じりっという音と共に、消えかけていた煙草の先端に火が灯った。立ち上る煙が細い筋となって昇っていく。
     弓兵がこちらをじっと見つめている。それは、同じサーヴァントいう存在として、体を構成するエーテルの流れを食い止めようとするかのようでもあった。
    「消えるのか」
    「消えると言うよりは、還る、か」
     喚び出されたこの世界から姿を消す。それは英霊の座へ戻るだけの話で、消えると表現することとはまた異なる。
     還るのだ、本来在るべき場所へ。
     麗しい座は目を閉じれば浮かんでくる。森が広がり、川が流れ、潮の囁きが聞こえる。楽園のようなそこは、けれども目の前の男が入り込む術はない。還るということは、この冬木での出会いはすべて消失し、失われる。一節の記録として、座に記されるだけとなる。
     それが還るということだった。
     口元が歪んだ笑みに彩られた。男の思いを受け、それを置き去りにしようとしていることを、オレが悔いるはずもない。浮かべてしまった笑みは、そんな自身にあるまじき自嘲の笑みに他ならなかった。
     それを隠すように、残りわずかとなった煙草を吸う。赤く燃え上がった火種がちりちりと細かな灰を散らし、風に巻き上げられて遠くへ飛んでいく。やがて風に紛れ、跡形もなく消えてしまうだろう。
    「まだ大丈夫だろうが」
     そのうち消える。指先を闇へかざした。
     うっすらと光る霊子エーテルの輝きが、指先から立ち上る。ゆらゆらと揺れ闇に伸びる筋を浮かべた。煙草の煙と同じように散り、大気に溶け込んでしまうそれを、まるで留めようとするかのように弓兵の手が掴む。きつく指先を握られた。
    「なんだ?」
     そんなことをしても、止めることなどできないと分かっているだろうに。
    「魔力は、足りているのか」
    「ああ、今のところはな」
     つながりが切れたとはいえ、この世界では消滅も緩やかなものなのかもしれなかった。今はまだ、己にすらぼんやりとしか感じることはできない。
     体に貯めた魔力が失われる感覚は、思った以上に穏やかで、いつこれが尽きるのか分からなかった。昨日より今日、今日より明日。少しずつ失い続ける。やがていずれの日にか、オレという形を保てなくなるだろう。
    「魔力を…」
     水面を眺めるオレの耳に、男の声が届く。
    「私のもつ魔力を、君に分けよう」
     考えもしなかった言葉だった。確かにサーヴァントの体を維持するためには魔力が必要だ。
     けれども、サーヴァントが現界するにあたって依り代とのつながりこそが重要なのだ。それを失った今、魔力だけ満たしてどうする。
     依り代をなくしたサーヴァントが、現界し続ける術はない。単独行動に優れたアーチャークラスであれば、幾ばくかの足しになるかもしれない。だが、燃費がいいとは言え単独行動スキルをもたないランサークラスで、焼け石に水のような供給を行う意味はなんだ。
     無駄なことは止せ。言おうとした言葉は、口から発する寸前に飲み込んだ。
     後ろから街灯に照らされた男の顔は見えない。見えないはずなのに、眉間に皺を寄せ、唇をいつものように真一文字に閉じているように感じる。見えなくとも、分かる。
     なぜ、そんなにも泣きそうな顔をするのだ。
     お前は、わずかな時間だけでも、オレをここにつなぎ止めたいのか。
     握られた指ごと男を引き寄せる。立っていた男がそれに引かれるように、こちらへ一歩踏み出した。
     光を受けた顔が見える。思った通りの表情で、けれども鉄色の瞳だけが、何の心情も読ませない光を浮かべていた。
    「…くれんのか?」
     ごくりと男の喉が鳴る。
    「あぁ」
     返事は掠れ、闇に紛れてしまうほど、儚い音だった。



     公園から言葉を交わすこともなく、男の部屋を訪れた
     前回と違いがあるとすれば、部屋の中心にテーブルが広げられていないことと、食事の匂いがしないことだけだ。それ以外何も変わらない。スニーカーを脱いで上がり込む。
     誘っておいて変に落ち着きのない男を見ながら、部屋の隅にあるボックスに、外したウォレットチェーンごと財布を置いた。じゃらり、という音に男が振り返る。
    「先に風呂借りるぞ」
     ユニットバスへ向かうと、使い方は分かるかと、とってつけたように聞いてくる。洗い置きのバスタオルを受け取りながら思わず笑った。
     まるで生娘のようだ。これからヤるってことを、ようやく分かったのか。
     先ほど口にした魔力供給という言葉の意味を、今になって理解したらしい。男を見つめれば、視線に耐えられないとばかりに風呂に押し込まれた。
     まぁいい。
     今、何を言ったところで、男の頭はこれから過ごす時間のことで一杯だろう。
     掃除の行き届いたユニットバスで、頭の上からシャワーを被る。少し熱めの湯が、皮膚を流れ落ちていくのが心地良い。湯を流しながら、何とも言えぬため息が漏れた。
     誘ったのはアーチャーだが、それに乗ったオレもどうにかしているのかもしれない。
     少しばかり狭いバスタブの中でシャワーを浴び終えると、勢いよく開いていた蛇口を閉める。バスタオルで滴る水を拭いて、タオルを腰に巻いて部屋へ出た。
     先ほどまで何もなかった場所には布団が敷かれていた。男はその上に座わりシーツを伸ばしている。笑いがこみ上げた。 
     どうせ、何をして過ごしていいのか分からずに、せっせと布団のことだけを考えていたのだろう。
    「何、神妙な顔して座ってんだ?」
     声にようやく振り向いた男が、ごくりと喉を鳴らす。絡みつくような視線が、オレの上から下までを見つめていた。
    ——なんて顔で見てやがる。
     この先も後も、何ひとつ想像すらしていない男にのしかかった。慌てたようにシャワーを浴びたいと言われたが、知ったことではない。
     そもそもこの男、先ほどの視線からして、オレに突っ込まれるなんてことは想像もしていないに違いなかった。
     交わらなくとも魔力を交換する方法はあるが、より効率的なのはセックスだ。
     男同士であればケツに突っ込んで、中で精液を放たれるのが最も無駄なく魔力を受け取ることができる。受け取る側が突っ込まれる必要はないが、正直何も想像をしていない目の前の男に突っ込む気など、さらさらなかった。
    「どうせオレに突っ込まれるなんて想像はしてないんだろ? だったら別にお前がシャワーを浴びる必要なんざねえ」
     のしかかる力を緩めず押し倒す。最後の抵抗のように部屋の電気を消せと口にする男に、笑いながら電気を消してやった。
     窓の向こうから差し込む光が、カーテンの隙間から入り込み、床に細い光の筋を作っていた。
    「悪いようにはしねえ」
     突っ込まれるのはオレの方だ。
     この現界した体で経験はないが、ダメージを負ったとしても霊体化をすればすぐにリセットできる。
     絡みつく男の視線にじわりと体の奥から熱が沸いた。言葉にしない分、男の視線は饒舌に語るようで、思わず苦笑する。
     そんな目でオレを見ておいて、この馬鹿にはまだ分からないのか。

     快楽などどうでも良いと思って始めたはずの魔力供給は、まるでセックスのようだった。
     男を仰向けに押さえつけ、舐めしゃぶり、用意されたオリーブオイルで解す。勃ち上がった男のペニスに尻を宛がい、ゆっくりと体を落とした。
     交わる前に、一度オレの口に放った男の額には汗が浮かび、悩ましげに眉間を寄せている。普段の仏頂面よりもよっぽど色気を感じる顔を見ながら、指で慣らしただけの尻に受け入れてた。正直キツい。だがこれ以上どうすることもできない。
     オレの体を気遣い、動きを止めようとする男を押しとどめ、ぎちぎちと腹へ咥える。
     男の手がオレの先端を擽り、その刺激で緩んだ後孔が、拒んでいたペニスをぐぷと飲み込んだ。マグロを決め込んでいたはずのアーチャーは、いつの間にかオレの腰を掴み、生意気にも解放を戒め腰を揺さ振った。痛みに慣れぬ体が引きつる。こちらをおもんばかる余裕もないらしい。
     膨らみきった先端が奥を突き、思わず制止の言葉を吐くが、聞き届けることもなく突き上げられる。食いしばった男の唇から、くっ、と短い声が漏れた。
    ——これが、本当に魔力供給か?
     じわりと広がる魔力を感じながら思う。必死で腰を振り、互いの快楽を求め肌を合わせる。オレの体を支えるために腰骨を掴まれるのにすら、ゾクゾクと快感を拾う。
     もうどうでもいい。目的が何であったのかよりも、ただ今はこのセックスに興じたい。
     我に返ったらしい男を体の中で締め付ける。今は何も考えるな、と思う。腰をくねらせた。無理はするなと呟く男に、首を振る。確かに体はまだ慣れているとは言い難いが、それよりも飲み込んだ塊に感じるのは、間違いなく快楽だ。
     煽れば押し倒され、思わず目を閉じる。じわと広がるのは魔力が注がれる感覚と、背筋を這い上っていくような淫蕩な痺れだった。男は激しく腰を振る訳ではなく、互いの間で縮こまるオレのペニスに手を伸ばし、ゆるゆると扱き始める。尻の中で感じる悦楽が一層広がった。知らぬうちにこぼれた涙が、眦から伝い落ちる。
    「言うからには…それ相応の経験があるかと思えば」
     魔力供給だろう、と思う。
     そんなものに経験もくそもない。噛みしめていた唇から血の味が広がる。追加で垂らされたオイルの滑りが、扱かれる度にぐちぐちと音をたてた。その感覚にかき乱されながら、オレは男の体の下で腰を揺する。
     開けた瞳に、男の熱っぽい視線が絡みつく。もっと寄越せと、手を伸ばす。がつがつと擦り、突き上げてくる交わりに頭の奥がふらりと揺れた。力を抜いた足を広げられ、深く交わるつもりだと構える前に、獰猛な視線を浮かべた男に貫かれる。堪えきれない嬌声が唇から迸った。
     痛みなど最早どこにもない。つながる場所からはひっきりなしに泡立った卑猥な音が漏れ、それに合わせて男の呻く声が混じる。
     きっと今、互いにセックスの快楽に流されて、その他のことなどすべてどうでもいいと思っている。男が浮かべた汗がぱたぱたと胸元に落ちる。その刺激にすら体が震えを放った。
     オレもお前も獣か。
     射精とは異なる、後孔での快感に譫言のように気持ちイイと繰り返し、男を求める。降りることのできない快楽の上澄みで翻弄され、貪る感覚とは裏腹に唇は拒絶を紡いだ。
     男を引き寄せ唇に噛みつく。濡れた腔内を貪った。どちらのものだか分からなくなるほどに舌を絡め、その度に突き上げられる。上も下も分からなくなるほど、閉じた瞳の中で天と地がぐるぐると回っていた。
     男の呻くような低い声を聞きながら、体内に放たれた熱い魔力の塊を感じて、オレもまた体を震わせた。
     まるで戦いの後のように心臓が忙しなく打ち、ぴたりと合わせた胸元から鼓動を聞く。呼吸を浅く繰り返しながら、酸素の足りない脳内が回復していくのを待った。
     依り代とのつながりが切れ、失われた魔力のどれだけを、この行為で補ったのか。
     呼吸の合間に唇をついばみながらぼんやりと思った。
     じっとりと汗を浮かべた男の体から手を落とす。満たされた魔力が体を巡っていくのが分かる。
     関係に名前が付かない以上、セックスの後の余韻など不要なものだった。
    「風呂……」
     掠れた声で告げて立ち上がる。
     男を受け入れるために広げっぱなしだった足は、普段よりもだるく、ともすれば力が抜けそうだった。
     布団の端に投げたタオルを掴み、風呂場の扉を開く。尻の間から垂れ落ちる精液が、これ以上漏れないように指を押し込み、シャワーを浴びながらしばらくじっと身を固めた。
    「……」
     自嘲を含んだ音にならない声が、唇から漏れる。
     一体何をしているのだろうか。
     今の己を想像すれば酷く滑稽だった。魔力の一滴にすら縋るような姿。あふれさせても構わないと言えるほど、魔力を無駄にできる余裕もない。この時をながらえさせることに、アーチャーほど積極的ではないが、それでも頭では無駄にはできないと思っている。
     じわじわと体内を巡るような感覚に身を浸しながら、頭の上から被ったシャワーを水に切り替える。冷たい水が体を打った。火照り、思考をかき回した熱がようやく静まっていく。
     指を抜き出し、汗にまみれた体を洗い、最後に熱い湯を浴びる。風呂から出ると、先ほどまでぐしゃぐしゃになっていた布団はすでに跡形もなく片付けられていた。
     空いたスペースに横たわり、眠いと告げて目を閉じる。
     サーヴァントは眠る必要などない。だが、魔力の不安定なオレは今、眠ることを欲していた。


    〈後略〉
    矢田ぎんこ Link Message Mute
    2019/04/21 20:53:41

    そらに至る扉

    2019年5月3日 新刊サンプル
    #エミクー #弓槍 #ha

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