サンプル 煤けた風が喉をざらつかせる。
静寂の空気の中、音もなく朝日が差した。辺りに漂う土埃が光を反射し細かく光る。
吐く息に色こそないものの、秋の終わりの明け方は寒い。足を止めて目を細め、きらめく空気を見上げていると、風が砂をさらう音に混じる、声を聞いた。
「……――」
それは小さく掠れたうめき声だった。
咄嗟に声のした方を振り返る。目を向けた先にあったのは周囲と同じ土気色の建物が崩れた山だけだったが、踵を返して迷うことなく駆け寄った。
分厚い靴底をまだ僅かに火薬臭い瓦礫に掛ける。
「おい、聞こえるか」
返事はない。
「誰かいるのか?」
もう一度呼びかけると、間違いなく、さっきと同じ場所から声がした。今いる位置から少し右上。今助ける、と強めに声を掛けて、すぐさま瓦礫を掴んでは背後に放り投げて山を掘り始め、そう時間も経たないうちにひとつの背中が現れた。強い血の匂いはしない。両脇に手を回して引っ張り上げる。
瓦礫の中から助け出したのは男だった。服装や心ばかりの武装から見ておそらく現地の一般人。顔立ちは幼く、きっと自分よりも少し年下だろう。弱ってはいるが五体満足、骨折も見られない。意識もしっかりしており、助け出した人間のここの土地の者ではない顔を見て眉をひそめるほどには、状況判断もできている。
「ほら、」
何かの拍子に捻ったのか、左足を少し引きずるように歩くので肩を貸してそのまま歩き始める。目的地はここからそう遠くない集会堂だ。昨晩の夜襲で大きな被害が出た街の一角、比較的被害が少ない場所に設営された避難所には多くの人間が集まり始めているだろう。
瓦礫の下敷きになっていたにしては幸運だった彼は、集会堂の裏手にある軽傷者への処置を施しているエリアに預けることにした。捻挫の治療くらいならそこで受けられるだろうし、道具も揃っているだろうから最悪ひとりでもどうにかなる。
怪我人の間を忙しなく立ち回る看護担当らしき女性に声を掛け、男の治療を身振りで頼んでその場をあとにする。長居する理由はないし、見回れていない被災区域はまだ残っている。
頭の中でマップを描きながら早足で歩く。
正面入口には等間隔に太い柱が立っており、開けた玄関口の向こうには昨晩最も被害の大きかった第三区画へ繋がる公道が通っている。そこはおそらく一番最初に救助の手が入っているだろうからと後回しにしたのだ。そろそろ、あらかた助け終えた頃だろう。
広い入り口には今しがたここへ辿り着いたばかりと思われる人々がちらほらと見えた。重傷者は既に屋内へ運び込まれている。だから、ここまで自力で来れた人たちに手を貸す必要はないだろう――と思いかけて足を止めた。近くの柱の陰から、女の声がしたからだ。
「――」
考える前に足が動いた。声を迷いなく耳が拾ったのは、それがもう幾度も聞いた――聞き慣れそうなほど聞いた、死期を匂わせるものだったから。
女性は腹に深い傷を負っており、これはもうだめだと、経験則が語っていた。
弱々しくも傷口を押さえようとわき腹に這う指の隙間から真っ赤な血がこぼれていく。その鮮烈な色と正反対の土気色をした顔のうつろな目が、己の眼前に屈んだエミヤを捉える。
口が開くと、真っ赤に染まった口腔が覗く。
「……助けて」
助けてください、お願い。助けて。荒い呼吸の隙間、ほとんど息ばかりの声で、女性は同じ言葉を繰り返す。
「……」
拳を握り締めた。唇を噛む。「ああ、今助けてやる」とは言えない。嘘をつくことはできない。この人は、もう――
「ああ、そうだろうな。放っておけばじきに死ぬ」
背後から声が降る。女性の視線がこちらから、その声のした方へのろく動く。
つられて振り返る。そこにはいつの間にか、煤けたフードを目深に被った男が立っていた。冷たい視線が影の奥からこちらを射抜く。
「お前、いつもひとりなのか」
「そういうわけではないが……まあ、基本的には」
「ってことは連れができるのは構わねえと」
「ん、ああ……?」
話の風向きがおかしいと感じたのだろう。エミヤが足を止める気配があったので、その目の前を行く彼も同じく止まって振り返った。
顔には笑みをはりつけて、疑り深くこちらを見るエミヤを見る。
「……まさかついてくる気か」
「ヒモになろうってわけじゃねえよ。自分の面倒は自分で見るさね」
「なんで急に、そんなことを」
「お前に興味が湧いたから」
「……」
「ウソウソ。嘘に決まってんだろ。こっちも独り身でな、退屈だろう。たまには話し相手が欲しいってだけだ」
「……断っても多分ついてくるタイプだな、君は」
「よくご存知で」
そこでようやく、エミヤは観念したかのようなため息をついて、仕方ない、とでも言いたげに笑って手を差し出してきた。
「好きにするといい」
男は、その手を強く握り返す。
「ああ、そうさせてもらうぜ」
それからまずは集会堂に戻ろうという話になった。先ほど助けた人たちの様子を一度見ておきたいというエミヤの希望だ。
「あ、そうだ」
その道すがら、エミヤが思い出したような声をあげたので、何事かと視線を向ける。
「そういえば、君の名前を聞いてなかった」
今更だけど、とエミヤが続ける。うっかりしていた、と苦笑する。
「なんて呼べばいい?」
これから行動を共にするなら呼べる名前が必要だ。だから教えてくれと。
「……」
そう言ったエミヤを見つめたまま、魔術師は黙って口をつぐんだ。表情の温度がコンマ五度下がる。そして無言のまま短くなった煙草を指で弾いて落として、歩みを止めない靴底で踏み潰す。
砂を詰る。
「……そうだな。呼び名か」
その一連の仕草にエミヤの表情が固まるのを見て、魔術師は表情を一転。またにやりと笑った。
「呼び名、ねえ」
さっきと打って変わって呑気な声でそう繰り返す。ジャケットのポケットからまた煙草を取り出すと、空気に刻んだ文字で火をつける。
「ま、魔術師とでも呼んでくれ」
目を開くとそこは地獄だった。
断末魔の悲鳴が聞こえる。
燃え盛るは街と人、肉の焼ける匂いが鼻につく。胸が悪くなる。
ここは、どこだ。
茫洋とした意識のまま赤い空を見上げた先、瓦礫の山の頂上に立つ男を見た。
広く大きな背中、手には背丈ほどもある大弓を携えている。熱風にはためく土気色の外套を纏い、風に流れる短い白髪は炎の光を透かして。
「……おまえ、」
呼び掛けようとして言葉に詰まる。手を伸ばしかけた腕が止まる。
何故か、どうしてか。呼ぶべき彼の名前が分からなかった。
それは確かに、見知った背中の、見知った男だった。だがどう呼べばいいのか分からない。そこにいるのは姿かたちが似ただけの、■■■の知らない「何か」だった。
だがそれでも近づいてみようと、瓦礫の山を登ってやろうと、今度は足を踏み出したところで男がこちらを振り返る。その瞬間、血塗れの顔にぽっかり浮かぶ無感情な鉄の瞳が一歩踏み出したこの足を、その場に縫い留めてしまう。
男の身体と外套は、そのすべてが返り血に染め上げられていた。
そこで初めて、その時になって初めて、赤い空がシルエットをつくる彼の足元の瓦礫たちが瓦礫ではないことに気づく。
まるで縋るように、まるで引きずり落とすように。男の足元からいくつも伸びているのは大小さまざまな人の腕だった。中途半端に開いた手が、赤い空の光を受けて黒いシルエットを浮かび上がらせる。
まとめた荷物は最小限。だがそれがすべてでもあった。背中に背負える分だけ詰めてしまえば、部屋に自分の痕跡はなにひとつ残っていなかった。
何も言わずに出て行こうと決めていた。
彼女はやっぱり朝に弱くて、きっと起きてはこないだろうから。
「行くのね」
だから昨晩の、これまで何度も繰り返してきた「おやすみ」がその代わりになるはずで。
「……ああ」
だから、ちゃんとした別れの挨拶なんて考えていなかった。少し唇を噛み締めた彼女を目の前に放った二文字の返事の後、ありもしない続けるべき言葉を探す。
感謝している。どれだけ感謝してもしきれないほどに。
ここまで連れてきてくれたこと、これまでずっとそばにいてくれたこと。
あの夜、命を助けてくれたこと。
本当にありがとう。■■。
でも、やっぱり俺は――
巡る思考に並べた言葉を実際に言ったのかどうか、実はあまり覚えていない。それら全部を言ったかもしれないし、なにひとつ言わなかったのかもしれない。だけどどのみち、彼女には全部お見通しだっただろうと思う。この日が来ることすら察していたから、彼女は今この見送りの場所にいたのだから。
それから、どれほど見つめ合っていただろう。いつも通り、穏やかな朝を迎えるはずだった場所は気まずく冷え込む。重苦しい沈黙が部屋に満ちる。だが、それをどうにかする資格は自分にはなかった。原因はこちらにあるのだから。
「なにか言うことはないの?」
ようやく彼女が口を開く。その口調は重くて冷たい。それは優秀な魔術師でもある彼女が時折見せる声色だった。必要以上に責め立てはしない。だが決して見逃してはくれない。
「……」
だから、正直に答えるしかなかった。
「……ああ、何もない」
並べ立てる弁明はない。恩を仇で返すような行為だとは分かっている。それでもやらねばならないことがあって、だから自分はここにいられないのだと。
そういう意味を込めた言葉に、彼女は「そう」と静かに呟いた。
「私、あなたに何かを残せたかしら」
一度だけ、ゆっくりと瞬く。目尻を少しだけ下げた深蒼の瞳がこちらを捉える。
「何か、残してあげられた?」
そうして、幾年過ごした部屋を出た。
朝の淵に立つ。吐く息は白く。ゆっくりと、しかし確かに色を変えてゆく空の端を立ち尽くしたまま見上げていた。
ふと思い立ち、首に提げた鎖を引っ張る。シャツの下から現れたのは小さな宝石のペンダント。肌身離さず身に着けているお守りのようなもの。それを目線まで持ち上げて、冬の寒い朝の空を透かし見る。
ああ、そういえば。燃え盛り透き通る朝の空を見ながら、ぼんやりと思い出す。
「いってきます」を言わなかった。「いってらっしゃい」も言われなかった。
喉の奥が静かに焼ける。
深い深い赤色が、目に沁みたせいだ。
◆◇◆
それで、誰も泣かずにすむのなら。
投影開始。
差し出された手を握ることに迷いはなかった。
そうして死後を売り渡し、与えられたのは一張の弓とひと振りの剣と。
次の瞬間、身体は炉心融解寸前の原子力発電所から抜け出して、建造物群の背後にそびえる崖の頂上の、突き出た大岩の上に立っていた。
右手に握る剣の重さは不思議とどこか懐かしかった。この手のひらにこの身体に、それはあるべき場所に戻ってきたのだと。名も知らぬ両手剣はきっと、そんな馴染み方だった。
しかし。頭の隅で考える。弓と剣か。片や遠距離武器、片や近距離武器、随分とちぐはぐな装備だ。組み合わせて使うなんて到底考えられなかった――が、まるで示し合わせたかのように、最初からそれを知っていたかのように、身体の方が勝手に動いた。