夏インテサンプル きつい律動に合わせて、色の薄い背中にぱたぱたと汗が降る。
それらは肌に既に浮かんでいた汗とすぐに混ざってしまい、どちらのものだったか分からなくなった。
息が熱い。身体が、あつい。
「──はっ、ぁ」
腰を掴んでいた手で、汗にまみれた背中を拭うように撫でる。それにすら感じたのか、咥え込んだ尻から尾骶がぶるりと震える。
手を脇腹へ、首へと回す。歯を食いしばっているせいで硬直した顎を掴んで振り向かせて、くちびるに噛みつく。
赤い目はこちらを見ない。外を見続ける瞳には、雲に隠れた月は映らない。
目を閉じた。息と、血潮と、窓を叩く雫の音だけが身体を満たす。
──ああ。
ああ。今夜は、雨だ。
1
ぬかるむ道の片隅に、子供がひとりうずくまっている。
──いや正しく言えば、シャッターの下りた軒先に丸まったそれは黒布の塊だった。子供だと認識したのは、そのかたちがうずくまる小さな人間のそれであり、肩と思しき場所が微かに上下していることからの推測に過ぎなかった。
足を止め、かろうじて雨をしのぐ黒い塊を見下ろして数十秒。傘を叩く雨音が満ちる。その間、黒い塊は顔を上げようともしなかった。
この天気だ。雨足のせいでこちらの気配も紛れてしまっているのかもしれない。
とはいえ、ここで見ぬふりをして通り過ぎるというのも、寝覚めが悪いというものだ。強くなる雨を弾く傘を少し背中へ傾けて、キャスターは腰を屈めながらさらに一歩近づく。
「……なあ。お前さん、」
そして声を掛けようとした、そのとき。
「ああ、そこの」
背後から被せてくるタイミングで声がした。
「君だ。青い髪の」
振り返ると石畳の道の真ん中、そこには黒い傘を差した男が立っていた。
「こんにちは」
気配も足音もなく突然現れたその異様さに一瞬たじろいだものの、今度は間違いなく人間だった。上下とも傘と同じ黒色の衣服に身を包んだ男の顔は、傘の影に隠れていてよく見えないが。
「……何か用か?」
怪訝な視線を隠すことなく男に向けたまま、キャスターは半端に屈めていた腰を持ちあげた。透明な傘の端で雫が跳ねる。
「いやなに、大したことではない」
男は軽く肩をすくめた。落ち着きのある低い声は雨のさざめきの中でもよく通る。しかし作為的な何かを含むその声音は、キャスターの無意識を引っ掻いた。
「ひとつばかり忠告を」
「そりゃどうも」
背筋を伸ばせば、男の顔がよく見えた。浅黒い肌に白髪、鉄色の目。目が合うと、薄ら笑いを浮かべた口が嫌味に歪む。細めた目は僅かばかりの身長差によって、キャスターを見下ろしていた。
「まあ、君がどうなろうと私の知ったことではないのだが」
「……ああ」
「街の治安を守る者として、ここは君の身を案じるとしよう。──それ」
男がすっとと指差したのは、キャスターが握っている透明な傘だった。この街へ来る途中、曇る天気を見て買っておいたビニール製の安傘は、買われて一時間で役目を与えられて今に至る。
無論、ただの傘だ。
「……これか?」
「そうだ。それはよくない」
「はあ」
なにがどう「よくない」のか、キャスターにはさっぱり分からない。だがしかし、ただキャスターをからかうためだけの言葉にしては、流石に頭がおかしすぎる。
気を取り直して、尋ねてみることにした。
「この傘の何がダメなんだ?」
「色々と」
「……」
「とにかく今は──ああ、」
本当に頭がおかしいのかもしれない。キャスターがそんなことを考えた矢先、不意に男は言葉を切った。
「だめだ」
視線がキャスターの背後へ向けてそう呟いたかと思えば、今さっきであったばかりの男の手首を乱暴に掴み、背中を向けて歩き始めた。
引っ張られる。
「ちょ、テメェ……」
「うちに来るといい。ここから近いし、この雨は日暮れには止む。それまでは匿ってやる」
「はあ? さっきから何ワケの分からねえことを」
「いいから」
振り払おうにも、手首を掴む握力は思いの外強く。
「今は黙って、前だけ見ていろ」
多分、逆らうことは難しくなかった。
「あ、ああ……」
それでも大人しくついていってしまったのは──振り返るなと言われた背後からじっとりまとわりつく視線の群れを、悪寒がするほどに感じたからだ。
◆◇◆
出会った場所から曲がり角を三度。大きく四角い建物ふたつに挟まれるようにそびえ立つ、狭い直方体のアパートが何某の家らしい。
大人がひとり通れるほどの幅のドアを抜ければ、壁に扉が並ぶ螺旋の階段が渦を巻き、高い吹き抜けの天井は暗い闇に飲まれている。
傘を畳んで昇り始めた男の後ろをついていく。
螺旋の中ほどまで来た辺りで、男は扉のひとつを開けた。鍵は掛けていなかったようだ。
「住人は私を含めて二人しかいない。盗まれるようなものもないからな」
ここに来るまで黙りこくっていた男は、キャスターの視線から察したのか口を開く。どうやら、もう話していいらしい。
「もうひとりは知り合いか」
「ああ。まあ、そんなところかな」
男に倣って扉の傍の傘立てに傘を突っ込む。差し出された白いタオルでジャケットの水滴を拭う。
「ありがとうと言えばいいか?」
「どういたしまして」
タオルを返すと、あからさまに薄っぺらい笑顔で受け取られる。
「……」
部屋に入ってすぐに広がっている薄暗いリビングからは、ひどく殺風景な印象を受けた。物が少なく、ひとり暮らしにはやけに広い床面積がその印象を強くするのかもしれない。
部屋の高さは昇った階段の距離からして、およそ三階といったところか。入り口と向き合う位置、さっき通ってきた道に面する方角の壁には掃き出し窓があり、リビングにはソファとローテーブルが置かれていて、そのテーブルの上にはラジオらしき箱がひとつ。それだけ。左手にはキッチンを始めとした水回りの設備、右手の壁にはドアがあり、奥はおそらく寝室か。
飲み物を出すから待っていろと示されたソファにゆっくり腰を下ろす。スプリングは少しも軋まず、程よい反発が返ってくるいい具合だった。
ジャケットは羽織ったまま、ネクタイを少し緩める。
キッチンから聞こえる水を流す音を聴きながら薄暗い天井を見上げて、キャスターは部屋に明かりの類がひとつもないことに気づいた。ついでに時間が分かるようなものもない。手首に巻いた腕時計を確認すればそちらは問題なく動いており、今は丁度八つ時、 日暮れまでまだ時間はある。
「お前さん、本当にここで暮らしてんのか」
「おかしなことを聞くんだな。君に何の関係が?」
ひとつしか持っていないマグを差し出されながら、返事は突っぱね返される。
「……気になっただけだ。答えたくねえならそれで構わん」
少し迷った後にマグを受け取ると、男はそのままキャスターの左手、掃き出し窓の方へ向かい、そこに背中を預けるようにして凭れ掛かった。
「ではお言葉に甘えさせてもらおう」
つまり視線はこちらへ向いている。明かりのない部屋と雨天とはいえ日中の外では、後者のほうがずっと明るい。横目に見遣れば、逆光になった男の表情は当然よく見えない。
「名前は聞いてもいいか?」
「ああ、アーチャーとでも呼んでくれ」
そちらは、と尋ね返してはこない。どうせ興味がないのだろう、と思ったところで、
「君はクー・フーリン・キャスターだな」
名を言い当てられる。
「……なんだお前、オレのファンか?」
「仕事の一環だ」
「へえ、熱烈だな。照れちまう」
「小さな異常の調査などは本来、下っ端の仕事なのだが」
人手不足でね、と締める言葉に嘲りが混じる。アーチャーからは見えない右頬を引きつらせて、沸いた感情を紛らわす。
「お互い大変だ」
「ああ、まったく」
アーチャーの視線がキャスターの顔から外れる。移った先はキャスターの手元だ。そこにはさっきより湯気の和らいだマグがある。
「食べ物は粗末にしない主義でね。味が悪くなるような、つまらない物は混ぜていない。せっかく淹れたんだ、冷めないうちに飲むといい」
ひとくちも口をつけていないマグは警戒の意思表示だ。アーチャーもそれくらい分かっているはずであり。
「まあ――怖い、というなら、それはそれで構わないが」
だからこれは、趣味の悪い意趣返しだ。
「……」
出会ったばかりの見ず知らずの野郎に、何度も喧嘩をふっかけるほど短気ではない自負は、キャスターにはある。そこまでもう子供ではないし、短慮でもないし、馬鹿でもない。
だがしかし、売る気満々で何度も売られたものを買うかどうかと、それはまた別の話というものだ。
マグを呷る。少し温くなったコーヒーを一気に全て飲み下す。まだ底の方は熱く、舌がじん、としびれた。
全て飲み干したのを確認したアーチャーは「では忠告をひとつ」と口を開く。
「先ほども言ったことだが、今はとにかく外に出ないことをおすすめしておく。少なくとも雨が止むまではな」
「……従う義理がどこにある?」
「郷に入っては郷に従え、と言うだろう。今はまさにその時だと思うがね。そうするべきだと思ったから、私の後ろをついてきたのだろうに」
そう言いながらアーチャーは窓から背中を離し、ソファへ向かって一歩近づいた。
「しかし、最終的に己の行動を選択するのは君自身だ。ここから出て行きたくば出ていけばいい。私は止めないし、止めるつもりもない」
キャスターの肩口辺りから手が伸びて、──キャスターの指から滑り落ちかけた空のマグを取り上げる。
「だが出ていくならば。その時は、私も好きにさせてもらうが」
「脅しの、つもりか?」
「いや? そう聞こえたのなら謝るが」
そんなつもりはないよ、と低く笑う声が遠い。
視界の隅が暗くなる。
「──な、んだ……これ……?」
その時になって初めて、おかしいと思った。
「はは」
意識が鈍く、思考が遅い。そのことに気づくことすらこんなに遅れた。
指先がしびれて動作のろれつが回らなくなる。落ちかけた意識をソファの肘置きを掴んでなんとか保つ。脂汗がこめかみを滑る。
「いやなに、取って食ったりはしないさ。君は消化に時間が掛かりそうだ」
歯を食い締めて頭上を睨み上げた。滲んで歪む視界に薄ら笑う男の顔が、涙に滲み、消える意識の中にくっきりと浮かぶ。
「畜生、てめ、え……!」
「客人のために、丹精込めて淹れたんだ。どうだ、美味かっただろう?」
2
目が覚める。
直感で、朝だと分かった。見覚えのない部屋の窓から見える空の色からして、朝日はまだ少しも見えはしないが。
身体は起こさず、記憶の糸を手繰りながら現実を織る。覚えていること──この街へ来て、子供を見つけて、変な男に連れて行かれた。そして連れ込まれたこの部屋で、薬を盛られて今まで寝ていた。
意識を手放す直前に見た顔が瞼の裏に蘇るだけで苦々しいものが胸に込み上げる。小さく舌打ちをしながら身体を起こす。ここは寝室だろう。キャスター以外は誰もおらず、この部屋もまた必要最低限の調度品しか置かれていない殺風景なものだった。それ以外の感想といえば、ベッドが一人用にしてはやけにでかいことくらいか。
ベッドサイドのテーブルには数冊の本が積まれており、その隣にキャスターのジャケットが丁寧に畳んであった。
緩み切って辛うじて肩にぶら下がっていたネクタイを締め直し、ジャケットを手に取る。少し肌寒さを感じながら部屋を出ると、丁度玄関が開く音がした。
「ああ、起きていたか。おはよう」
昨日の男だった。アーチャーはキャスターを一瞥するなりそう言った。
「おはようってお前……」
敵意の感じられない朝の挨拶には、少しだけ疲労が滲んでいた。昨日のラフな格好からは打って変わって今はスーツを着込んだ正装は、しかしおそらく着慣れている。身体によく馴染んでいた。
「文句を聞くのは後でいいか」
きっちり締めた黒いネクタイを解きながら部屋を横切る。敵意どころか警戒心もない。まるで、キャスターがここにいることがごく当然のような振る舞いだ。
「私は寝る」
「……おう」
「君は君の好きにしたまえ」
「ああ。言われなくても」
「結構」
窓から朝日の差し始めた窓から逃げるように、寝室の方へ──キャスターへと近づいたアーチャーは、不意にキャスターの右肩を掴んだ。
「……キャスター」
「なっ」
右の肩同士が触れ合うように、ぐいと顔が寄せられる。呼気が混じる距離だ。眇めた視線がすぐそこに、熱を帯びた濃灰の瞳が見つめてくる。
「……」
「なんだよ、急に」
だがその接近は瞬き一つの間だけだった。閉じた瞼が持ち上がると、冷めた瞳がそこにはあった。
そうだった、とぼやきながら視線を逸らされる。
「では、おやすみ」
「? ……ああ。おう」
そうしてアーチャーは離れて行った。突然のことに面食らってキャスターが動けなくなっているうちに寝室の扉が開く。
やがてその背中が扉の向こうへ消えてから、今更のような感想が喉から転がり落ちた。
「……変なやつだな」
酒臭さなどはなかった。素面か。
「──あ、」
目の前には、小さな黒布が立っていた。
刹那、視界から色と音が消える。布の裾から見える細っこい足が、キャスターに気付いたのだろう、そのつま先がこちらを向いた。
そして、黒布から覗くスニーカーが一歩前に踏み出し──た、かと思えば、暑さで溶けるアイスクリームのように、頭から被った布がでろりと醜く崩れた。今まで見えていた小さな足も黒色に覆われ、やがて溶けて形を失くす。
「なっ……」
思わず一歩後ずさった。どう考えても嫌な予感しかしないのに、人の形を為さなくなったそれから目を離せない。
ばん。
何かを叩きつける音と共に、灰色の石畳に真っ黒な手形が浮かび上がる。
まるでコールタールみたいな黒く淀んだ液体に突っ込んだ手を地面に押し付けたような、それは小さな子供のてのひらだった。
ばん。
ばん、ばん、ばんばんばんばんばん。
黒い飛沫を散らしながら手形はみるみる増えていく。まるでこちらへ軽やかに駆け寄ってくるかのように速度を上げて、キャスターの方へと這い寄ってくる。
これに捕まったら終わりだ。
分かっている。分かっていた。そんなことは誰に言われなくても誰でも分かる。でも足が動かないのだ。五感すべてが遠かった。足がその場に竦んで、縫い止められて、早く、動け、とにかく、
このままでは──
「何をしている!」
その時、淀んだ空気に声がはじけた。視界が聴覚が明瞭に、手足の感覚が瞬時に戻る。
声がした方へ振り返る間もなく強く、腕を引かれた。
「走れ!」