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マイヒーロー、マイフレンド【トニバナ】
ビーチとは名ばかりの、観光客はほとんど寄りつかないゴミゴミとした海岸沿いに、僕の行きつけの店がある。
目のほとんど見えていない老人が近所に住む息子夫婦に助けられながら経営しているごく小さな店で、店の中は薄暗く、最低限の商品しか置いていないし客もほとんどみかけない。
だからこそ僕はその店が気に入ってよく通っていたのだけれど、ある日訪れてみるとシャッターが下りたままだった。
塗装のはげたシャッターは錆びついていていかにも重そうだった。いつそんな日が訪れてもおかしくない店主の様子だっただけに、僕は数秒店の前で立ち尽くし、いくつかの病名を頭に思い浮かべた後で、そういうこともあるだろうと思い直して少し遠くにある商店に目的地を変更した。
潮風の強い海岸沿いから少し離れた通りにあるその商店は、僕の行きつけの店の三倍くらいの広さがあり、五倍くらい客の出入りがある。
なるべく人目に止まらないようにさっさとパンと缶詰だけを選んで籠に入れ、向かったレジの下、ガラス張りのショウケースの中に、見知った姿を見つけ、僕は一瞬立ち止まった。日に焼けて少し色が褪せている四体の人形は、特に誰かの目を引くわけでもなく、長らく売れることなくそこに置かれているようだった。
「さすがだなあ」
思わず呟き、それから辺りを見回し、誰もこちらを見ていないことを確認して、そっと息を吐いた。
世界的大企業の経営者の手にかかれば、この世界はおもちゃ箱の中のように小ぢんまりとしてしまうのだ。
トレーニング・ルームは四方ともがのっぺりとした白い壁で、窓がない。
部屋の中心に立つナターシャ・ロマノフが右手を差し出す。僕はその上に自分の左手を乗せる。彼女の目がほんの僅か細められる。
緑色の化け物を制御する訓練の一環で、僕と彼女は時々お互いに触れ合う。
この触れ合いに、性的な含みは一切ない。当たり前だ。けれど僕は何故か、そうして彼女と触れあう時、遠い昔に愛情を抱いた女性に対し、もはやそんな特権的感情を抱く権利など露ほども持たないと知りながらも、どこか後ろめたいような気持ちになる。馬鹿馬鹿しい感傷だ。
ナターシャ・ロマノフの掌は、ひやりとして、乾いている。指は長く、肌は陶器のようだけれど、親指の付け根のあたりに腱に沿った深い傷の跡が一本残っている。僕たちの知らない彼女の歴史だ。静脈がうっすらと青く浮き上がっている。
僕はいつも、自分の掌が湿っているのじゃないかと、心配になる。
「こんなことに付き合せて、すまないね」
「あら、気にしないで」
訓練の終了後に僕がそう詫びると、彼女は僕の渡したコーヒーカップを受け取りながら、無表情に瞬きをした。
「これも仕事だもの」
「そうだね」
「それにあなたをここまで連れてきたのは私だし」
「そうだった」
僕が苦笑いを返すと、彼女は少女のような仕草で首を傾げた。計算されきった美しい動きだった。
「あの時はあなた、怒っていたわね。今も怒ってる?」
そう聞かれて、僕は少し気不味い気分になり、黙って唇を舐めた後で口を開いた。
「……あの時は、驚いていたんだよ。多少苛立ってもいただろうけど」
「そうね。今は?」
「戸惑ってる」
「素敵ね」
ナターシャ・ロマノフはそう言って少し笑った。
トニー・スタークの作り上げたアベンジャーズタワーの高層階に、僕の今の生活拠点がある。
最初に提供された部屋は壁一面がガラス張りで、表面にミラー加工が施されている上管理AIに指示を出せば一瞬で遮光性百パーセントの壁に変わるので、プライバシーの観点からも精神的な寛ぎの観点からも全く問題ないというのが家主の主張ではあったけれど、僕はその贅沢極まりない部屋を固辞して奥まったところにある窓のない部屋に替えてもらった。
気休めに過ぎないことは承知で、それでも少しでも強度の期待できる壁に囲まれていたかった。
家主は僕の部屋を気に入っていないようだったけど、寛容な人なので、嫌な顔一つせず、そのかわりに幾つかの観葉植物を部屋に運び込むことを僕に約束させた。植物たちは太陽光がなくとも、天井のシーリングライトの灯りでごく快適そうに葉を伸ばしている。
僕がその見ようによっては農業試験場の一室のような部屋に戻るため廊下を歩いていると、反対側からトニー・スタークが現れて、ひょいと片眉を上げた。
「やあブルース、美女とのデートは終わったか」
「ああ、うん」
「疲れてるな、分かるよ、ラボでコーヒーでも飲もう。見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「見てのお楽しみだ」
そう言って企むように笑った。親しげで秘密めいた、子供の目配せのような笑い方だった。
ラボの片隅の休憩スペースのソファに大きな紙袋が置かれていて、スタークはその隣に腰掛けると袋の中に手を突っ込んでごそごそと動かした。
「私は研究者であり技術者であると同時に、経営者だからな。君たちの快適で満足な生活のために日々試行錯誤しているんだ」
そう言って、袋から赤いプラスチックの人形を取り出す。
「これがアイアンマン、間違いなく一番人気」
「わあ」
「なんと言ってもフォルムが素晴らしい。勿論色も」
「よく出来てる」
「子供たちがこぞって欲しがる。今年のクリスマスシーズンはこれで決まりだ」
「これ、売り物なのかい?」
「勿論。でなきゃ、なんなんだ?」
「ええと……君のオフィスにでも飾るのかと」
僕がそう言うと、スタークは顔をしかめて上目遣いで僕を見た。
「勿論オフィスにも飾るが、他のあらゆる場所にも飾ってもらう。ノースダコタのガソリンスタンドのレジにだって並べる」
「凄いね」
「そしてそれらがアベンジャーズの活動資金を生む」
「素晴らしい」
「その通り。で、これがキャプテン・アメリカ。懐古主義の年寄りどもがこぞって買いに走る予定だ」
スタークは袋から二つ目を取り出す。これもまた良く出来ていた。マスクに半分隠れた顔はとてもハンサムだった。
「死後五十年で著作権フリーかと思いきや本人が生きていたから、先日改めて契約を結んできた」
「彼はこういうの、好きじゃないかと思った」
「ブルース、君さては戦中のキャプテン・アメリカの歴史に詳しくないだろ。好きじゃないかもしれないが、もう慣れてるんだよ偶像にされることには。二つ返事だったぞ、構わない、好きにしてくれって」
僕はキャプテン・アメリカに同情した。なかなか大変そうな人生だ。
「これがソー」
「かっこいいな」
「宗教色は薄めだから、厳格なキリスト教徒のご家庭でも安心だ。連中はこっちの世界の権利関係には疎いだろうから、契約は特に結んでない。次に会った時にでも了承はとりつけるつもりだが」
「偶像崇拝に当たらないかい?」
「崇拝しなけりゃ問題ない。十戒にもそう書いてある」
十戒の解釈はともかくとして、彼の身につける鎧の細かな意匠まで再現されていて、なかなか見事な出来だった。
「確かに子供たちが喜びそうだ」
「だろう?子供たちに夢を売るって奴だ。大量破壊兵器を売り捌くよりずっと気分が良さそうじゃないか、私もこれで善き経営者の仲間入りだ」
「君はとっくに善き経営者だと思うよ、果たすべき義務を果たしている」
「嬉しいね、ブルース。そんなことを言ってくれるのは君だけだ、涙が出る」
僕は苦笑して肩をすくめた。恐らくは永遠に消えることのない彼の自責の念を僕ごときがどうこう出来るとは思っていないし、彼だってどうにかしてほしいなんて思っていないだろう。日常の冗談の中で消費していくのが落とし所としてはせいぜいだ。彼は僕の真似をするように肩をすくめ、それからまた袋に手を突っ込んだ
「そしてこれが最後の一体、特別にゴージャスな奴」
「へえ」
「ハルク」
そう言って彼が取り出したのは、緑色の化け物だった。
そうなんだろうな、と僕は思った。そして言葉を探した。トニー・スタークは時に間違ったこともするけれど基本的には善人で、心優しく、好奇心に満ちていて、サプライズが好きだ。そんな彼のことが僕は好きで、なるべく彼を不快にさせず、けれど今回は彼が間違っているのだと伝えるための言葉を、貧弱なボギャブラリーの中から探そうとした。
「バランスが悪くないかな?」
「そうか?確かに腕を少し太く作りすぎたかもしれない。でもこういうデフォルメはあっていいんだ」
「そうじゃないよ、そういうことじゃない。ヒーローのシリーズの中にモンスターがいるのは、ちょっと変な感じがする」
僕がそう言うと、残念なことに、彼はとても不愉快そうな顔になった。
リビングの窓際のソファに腰掛けて一人でコーヒーを飲んでいると、ナターシャ・ロマノフがやってきた。訓練の時のスーツから着替えて、ラフなシャツとパンツ姿だった。そうしていると彼女はまるですごくきれいなただの女性に見えた。
「ビスケットを貰ったんだけど、食べる?」
彼女は据え付けの棚の戸を開けながらこちらを見ずにそう言った。
「貰っていいの?」
「一人で食べきるには量が多いの」
「じゃあ貰おうかな、コーヒー飲む?淹れるよ」
「座っていて。気付いてないかもしれないけど、あなたより私の方がコーヒー淹れるの上手いのよ」
僕は自分で淹れたコーヒーカップの中の黒い液体をちょっと見て、それはきっとそうだろうなと思った。何故コーヒーを淹れようなんて提案ができたのだろう。自分でも不思議だった。彼女がこんな泥水のようなものを喜んで飲むはずがない。
かちゃかちゃと小さく硬質な音を立てながらナターシャ・ロマノフが棚から食器を取り出す。僕はソファの上で座りなおして窓の外を眺める。良く晴れていて、地上が遠かった。壁一面のガラスから白い日差しが差し込み、窓際に置かれた観葉植物の葉を温めている。
屋内に置かれた植物からは、そういえば、匂いがしないなと思った。そういう種類なのだろうか。遠い土地のことを考える。あの土地では匂いのしない大気というものは存在しなかった。
そのうちにとても香ばしい良い匂いが漂ってきた。ナターシャ・ロマノフはコーヒーカップ二つと白い皿を持って、僕の座るソファの前へやってきた。
「隣、いいかしら?」
「勿論」
彼女は腰かけ、ローテーブルにコーヒーカップと皿を並べる。カップの一つを僕の前に置く。
「良かったらどうぞ」
「……有難う。凄く良い匂いがする」
「そうでしょう」
彼女は口の端を僅かに上げて笑った。
ロマノフの貰ったというビスケットはバターと砂糖と小麦粉の素朴な味がして、少し粉っぽく、不思議と美味しかった。彼女は口を薄く開けて、唇を閉じずに歯の先だけでかし、かし、と少しずつビスケットを齧った。
「君の人形を見損ねたな」
「え?」
「あ、ええと……スタークから聞いてないかな?アベンジャーズの人形を作って売るんだってね。子供向けの……」
「ああ。私のは無いわよ。クリントのも」
「そうなの?」
「エージェントですから」
「そういうものか」
「地味だしね」
「そんなことない。その……女の子たちはきっと君の人形を欲しがる」
「バービー人形みたいに?」
「バービー人形より格好いいから」
「そうかしら?」
彼女は首を傾げてささやかな笑みを唇で形作る。格好良く美しい女スパイの人形は不格好な緑色の化け物の人形よりよほどよく売れるだろう。
「それなら試作品くらい作らせてあげればよかったわね。売るかどうかは別として」
「試作品?」
「ええ、許可を求められたから遠慮なく断ったわ。クリントも」
「……許可を」
「さすがに無断で作ったりはしないわよ、あれでちゃんと大企業の経営者だもの」
「僕は許可なんて求められなかったけど」
僕がそう言うと、彼女は僕を振り返り、まじまじと顔を見つめ、そして噴き出した。
「あのトニー・スタークが、可愛らしい真似をしたものね」
「可愛らしい?」
「断られるのが嫌でこっそりやるなんて、子供みたい。あなたを丸めこむ言葉なんていくらだって見つけられる男でしょうにね」
「それって可愛いのかな?」
「普段の傲慢さに比べたらね」
結局トニー・スタークが正式にハルクの商品化について僕に了承を求めることはなく、したがって僕もそれに了承を与えることはないまま、アベンジャーズのフィギュアシリーズの販売が始まった。
売れ行きは好調なようで、縦軸のスケールに結構な数字の並んだグラフを彼は自慢げに僕に見せてくれた。
「君の見立ては大外れだ、ハルクはちゃんと結果を出した」
「うん」
緑色の化け物の人形を手持無沙汰にいじりながら、僕は苦笑いを返した。
「世間の考えることは分からない。ハルクの人形なんて買ってどうするんだろう」
「私なら、自分のオフィスに飾るね」
「君はもしかしたら少しセンスに問題があるのかもしれない」
「酷い侮辱だ、君を名誉棄損で訴えるぞ」
トニー・スタークは僕の手からハルクの人形を取り上げて、ガラスのテーブルの上に置く。
「私のオフィスに飾るし、ノースダコタのガソリンスタンドのレジにだって並べるし、秋葉原のホビーショップにも、ベイルートの養護施設にだって並べる。アイアンマンの隣にね。そうすれば誰もが君がアベンジャーズの一員であることを理解する」
「……君は凄いな。さすがは大企業の経営者だ。プロパガンダまでそつがない」
「肖像権の侵害だと言われた場合の言い訳も百通りほど用意してある。聞くか?」
「大丈夫」
「私は彼が好きなんだよ」
僕が顔を上げるとスタークはこちらをじっと見つめていた。
「それが言い訳?」
「言い訳でもあり、本音でもある。こういうのが一番人の心を動かすだろう?」
「さあ、どうだろう」
「アイアンマンは世界で最高のヒーローだが、そんなアイアンマンにも死を覚悟する瞬間が幾度かあった。そんな彼の命を救ったヒーローの名前を君は知ってるはずだ」
彼は視線でテーブルの上の緑色の人形を示す。
「一度でもヒーローに絶体絶命のピンチを救われた人々はそのヒーローを愛さずにはいられない、違うか?」
「必ずしも皆がそうじゃないと思うけど」
僕は苦笑しながらそう答える。彼は大袈裟に驚いた顔をして見せる。
「でも、彼もきっと君のことが好きだ。だから君を握りつぶさなかった」
「嬉しいね。私はどちらかと言うと人に嫌われるのが得意だから」
そう言ってトニー・スタークはおどけたふうに肩をすくめた。
トレーニングルームへ行くとナターシャ・ロマノフはもうそこにいて、一人でストレッチをしていた。僕に気付くと、よく出来ていたわ、と言った。
「スタークに見せて貰ったの、あれなら私の人形を作らせてあげても良かったわね」
「言ってやればいい、次は大喜びで作ると思うよ」
「ハルクは特によく出来ていた」
「ああ、まるでヒーローみたいによく出来てたね」
「それがスタークにとってのハルクなんでしょう」
アベンジャーズの人形はテレビCMでも流され、そこで見るハルクは確かにヒーローみたいに見えた。素晴らしいヒーローだった。パワフルで、凶暴で、タフだ。トニー・スタークはハルクにアベンジャーズという居場所を与えた。僕はそれをどう受け止めたものか、少し迷う。
「ハルクはヒーローかもしれないけど、僕はそうじゃない」
僕がそう言うと、ナターシャ・ロマノフはストレッチの手を止めて、右手を差し出してきた。僕がぼうっとそれを見つめていると、彼女は体の脇に垂らしたままの僕の手を取った。
「そうね、あなたはヒーローじゃないかも。ただのちっぽけな科学者よ。自分勝手で、優柔不断で、コーヒーを淹れるのも下手」
そう言って、力強く僕の手を握りしめた。
「だから私が守ってあげるわ。他の沢山の無辜の市民たちと一緒に。あなたの体はハルクが守るでしょうけれど、あなたが帰る場所は、私が守ってあげる。頑張りましょう」
真剣な顔で彼女はそう言った。僕の掌を握りしめる彼女の掌は、温かく、少し湿っていた。
僕は、とても戸惑った。まるで一人の人間として彼女はそこにいるみたいだった。僕は自分がずっと彼女をブラック・ウィドウというエージェントとして、まるで機械のパーツのように見ていたことに気が付いた。
「ごめん」
謝りながら、彼女はもしかして緊張すると掌が冷たくなるんだろうか、と僕は考えた。
「僕は君のことを、多分全然理解できていないんだろうな」
ナターシャ・ロマノフは呆れた顔をした。
「君のことを理解できるのは僕だけだって言う男よりは、大分マシね、それ」
潮風の吹きつける砂利道を歩きながら、僕はあの化け物が僕から奪っていったものと僕に与えたものについて考える。
世界中のショウケースに、色褪せたハルクの人形が転がっている。ショウケースに、おもちゃ箱に、もしかしたら世界的に有名な誰かのオフィスに。
それを思う時、僕はこの世界に自分が縛り付けられていることを感じる。僕は数多くの人間の形作る社会というものに、自分がいやおうもなく組み込まれていると感じる。どれだけ一人になり、どれだけ人目を避け、どれだけひっそりと暮らそうとも、あの緑色のモンスターはこの世界のそこかしこで、確かに自分はここにいるぞ、ここは自分の居場所だぞと主張し続けている。
そしてそのモンスターの隣には、アイアンマンがいて、そして結局人形は発売されなかったナターシャ・ロマノフが、温かく湿った掌でモンスターを帰るべき場所に導こうとしている。
鬱々と考えごとをしながら狭い部屋に帰り、狭いベッドに寝転がり、僕はぼんやりと天井を眺め、そしてそのまま眠ってしまった。
僕は懐かしいインドの木陰に座っていた。雨上がりの乾いた風が吹いていた。崩れかけた生温かい煉瓦塀に背を預けて、夢の中だと言うのにうつらうつらとしている。耳の横を蠅がぶんぶんと飛び交い、塀を這う蔦の葉が首筋をくすぐっていた。濡れた土と獣と樹木、それから甘ったるい花の匂いがしていた。ぬかるんだ土の真ん中に穴だらけのコンクリートの道路が敷かれ、車は通らず、野良犬が時折そこを横切る。行きかう人々の姿はどれもかすんで、おぼろに見える。
誰も僕を気に留めず、おかげで僕は心安らかだった。このままずっとここにいて、誰にも知られずにいつか溶岩が冷えて固まるようにして死んでいきたい、と思った。
とても穏やかで孤独な世界だった。
遠くで犬が吠えて、軒を連ねるバラックから肉の脂と香辛料の匂いが流れ出す。永遠にここにいたい、と僕は思う。何も考えずに済む。欲望も葛藤も絶望もなく、動物のようにあやふやな自我で生きて、出来ることならば死にたい。
その時不意に、目の前にくっきりとした影が現れた。
僕は顔を上げる。星のように瞳を輝かせた男が立っている。
「ようやく見つけたぞ、ブルース・バナー!」
なんという甘ったるい悪夢だろう。目が覚めた時、僕は狭い部屋に一人で転がっていて、それほど穏やかでも孤独でもなく、汗だくになっていた。
結局はこれが自分の欲望なのだろうかと思うと、僕はその滑稽さに一人で笑ってしまった。
窓の外の空はいまだ明るく、そして言葉にすることのできない希望が常に空の片隅でひっそりと輝き続けているのだった。
ビーチとは名ばかりの、観光客はほとんど寄りつかないゴミゴミとした海岸沿いに、僕の行きつけの店がある。
目のほとんど見えていない老人が近所に住む息子夫婦に助けられながら経営しているごく小さな店で、店の中は薄暗く、最低限の商品しか置いていないし客もほとんどみかけない。
だからこそ僕はその店が気に入ってよく通っていたのだけれど、ある日訪れてみるとシャッターが下りたままだった。
塗装のはげたシャッターは錆びついていていかにも重そうだった。いつそんな日が訪れてもおかしくない店主の様子だっただけに、僕は数秒店の前で立ち尽くし、いくつかの病名を頭に思い浮かべた後で、そういうこともあるだろうと思い直して少し遠くにある商店に目的地を変更した。
潮風の強い海岸沿いから少し離れた通りにあるその商店は、僕の行きつけの店の三倍くらいの広さがあり、五倍くらい客の出入りがある。
なるべく人目に止まらないようにさっさとパンと缶詰だけを選んで籠に入れ、向かったレジの下、ガラス張りのショウケースの中に、見知った姿を見つけ、僕は一瞬立ち止まった。日に焼けて少し色が褪せている四体の人形は、特に誰かの目を引くわけでもなく、長らく売れることなくそこに置かれているようだった。
「さすがだなあ」
思わず呟き、それから辺りを見回し、誰もこちらを見ていないことを確認して、そっと息を吐いた。
世界的大企業の経営者の手にかかれば、この世界はおもちゃ箱の中のように小ぢんまりとしてしまうのだ。
トレーニング・ルームは四方ともがのっぺりとした白い壁で、窓がない。
部屋の中心に立つナターシャ・ロマノフが右手を差し出す。僕はその上に自分の左手を乗せる。彼女の目がほんの僅か細められる。
緑色の化け物を制御する訓練の一環で、僕と彼女は時々お互いに触れ合う。
この触れ合いに、性的な含みは一切ない。当たり前だ。けれど僕は何故か、そうして彼女と触れあう時、遠い昔に愛情を抱いた女性に対し、もはやそんな特権的感情を抱く権利など露ほども持たないと知りながらも、どこか後ろめたいような気持ちになる。馬鹿馬鹿しい感傷だ。
ナターシャ・ロマノフの掌は、ひやりとして、乾いている。指は長く、肌は陶器のようだけれど、親指の付け根のあたりに腱に沿った深い傷の跡が一本残っている。僕たちの知らない彼女の歴史だ。静脈がうっすらと青く浮き上がっている。
僕はいつも、自分の掌が湿っているのじゃないかと、心配になる。
「こんなことに付き合せて、すまないね」
「あら、気にしないで」
訓練の終了後に僕がそう詫びると、彼女は僕の渡したコーヒーカップを受け取りながら、無表情に瞬きをした。
「これも仕事だもの」
「そうだね」
「それにあなたをここまで連れてきたのは私だし」
「そうだった」
僕が苦笑いを返すと、彼女は少女のような仕草で首を傾げた。計算されきった美しい動きだった。
「あの時はあなた、怒っていたわね。今も怒ってる?」
そう聞かれて、僕は少し気不味い気分になり、黙って唇を舐めた後で口を開いた。
「……あの時は、驚いていたんだよ。多少苛立ってもいただろうけど」
「そうね。今は?」
「戸惑ってる」
「素敵ね」
ナターシャ・ロマノフはそう言って少し笑った。
トニー・スタークの作り上げたアベンジャーズタワーの高層階に、僕の今の生活拠点がある。
最初に提供された部屋は壁一面がガラス張りで、表面にミラー加工が施されている上管理AIに指示を出せば一瞬で遮光性百パーセントの壁に変わるので、プライバシーの観点からも精神的な寛ぎの観点からも全く問題ないというのが家主の主張ではあったけれど、僕はその贅沢極まりない部屋を固辞して奥まったところにある窓のない部屋に替えてもらった。
気休めに過ぎないことは承知で、それでも少しでも強度の期待できる壁に囲まれていたかった。
家主は僕の部屋を気に入っていないようだったけど、寛容な人なので、嫌な顔一つせず、そのかわりに幾つかの観葉植物を部屋に運び込むことを僕に約束させた。植物たちは太陽光がなくとも、天井のシーリングライトの灯りでごく快適そうに葉を伸ばしている。
僕がその見ようによっては農業試験場の一室のような部屋に戻るため廊下を歩いていると、反対側からトニー・スタークが現れて、ひょいと片眉を上げた。
「やあブルース、美女とのデートは終わったか」
「ああ、うん」
「疲れてるな、分かるよ、ラボでコーヒーでも飲もう。見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「見てのお楽しみだ」
そう言って企むように笑った。親しげで秘密めいた、子供の目配せのような笑い方だった。
ラボの片隅の休憩スペースのソファに大きな紙袋が置かれていて、スタークはその隣に腰掛けると袋の中に手を突っ込んでごそごそと動かした。
「私は研究者であり技術者であると同時に、経営者だからな。君たちの快適で満足な生活のために日々試行錯誤しているんだ」
そう言って、袋から赤いプラスチックの人形を取り出す。
「これがアイアンマン、間違いなく一番人気」
「わあ」
「なんと言ってもフォルムが素晴らしい。勿論色も」
「よく出来てる」
「子供たちがこぞって欲しがる。今年のクリスマスシーズンはこれで決まりだ」
「これ、売り物なのかい?」
「勿論。でなきゃ、なんなんだ?」
「ええと……君のオフィスにでも飾るのかと」
僕がそう言うと、スタークは顔をしかめて上目遣いで僕を見た。
「勿論オフィスにも飾るが、他のあらゆる場所にも飾ってもらう。ノースダコタのガソリンスタンドのレジにだって並べる」
「凄いね」
「そしてそれらがアベンジャーズの活動資金を生む」
「素晴らしい」
「その通り。で、これがキャプテン・アメリカ。懐古主義の年寄りどもがこぞって買いに走る予定だ」
スタークは袋から二つ目を取り出す。これもまた良く出来ていた。マスクに半分隠れた顔はとてもハンサムだった。
「死後五十年で著作権フリーかと思いきや本人が生きていたから、先日改めて契約を結んできた」
「彼はこういうの、好きじゃないかと思った」
「ブルース、君さては戦中のキャプテン・アメリカの歴史に詳しくないだろ。好きじゃないかもしれないが、もう慣れてるんだよ偶像にされることには。二つ返事だったぞ、構わない、好きにしてくれって」
僕はキャプテン・アメリカに同情した。なかなか大変そうな人生だ。
「これがソー」
「かっこいいな」
「宗教色は薄めだから、厳格なキリスト教徒のご家庭でも安心だ。連中はこっちの世界の権利関係には疎いだろうから、契約は特に結んでない。次に会った時にでも了承はとりつけるつもりだが」
「偶像崇拝に当たらないかい?」
「崇拝しなけりゃ問題ない。十戒にもそう書いてある」
十戒の解釈はともかくとして、彼の身につける鎧の細かな意匠まで再現されていて、なかなか見事な出来だった。
「確かに子供たちが喜びそうだ」
「だろう?子供たちに夢を売るって奴だ。大量破壊兵器を売り捌くよりずっと気分が良さそうじゃないか、私もこれで善き経営者の仲間入りだ」
「君はとっくに善き経営者だと思うよ、果たすべき義務を果たしている」
「嬉しいね、ブルース。そんなことを言ってくれるのは君だけだ、涙が出る」
僕は苦笑して肩をすくめた。恐らくは永遠に消えることのない彼の自責の念を僕ごときがどうこう出来るとは思っていないし、彼だってどうにかしてほしいなんて思っていないだろう。日常の冗談の中で消費していくのが落とし所としてはせいぜいだ。彼は僕の真似をするように肩をすくめ、それからまた袋に手を突っ込んだ
「そしてこれが最後の一体、特別にゴージャスな奴」
「へえ」
「ハルク」
そう言って彼が取り出したのは、緑色の化け物だった。
そうなんだろうな、と僕は思った。そして言葉を探した。トニー・スタークは時に間違ったこともするけれど基本的には善人で、心優しく、好奇心に満ちていて、サプライズが好きだ。そんな彼のことが僕は好きで、なるべく彼を不快にさせず、けれど今回は彼が間違っているのだと伝えるための言葉を、貧弱なボギャブラリーの中から探そうとした。
「バランスが悪くないかな?」
「そうか?確かに腕を少し太く作りすぎたかもしれない。でもこういうデフォルメはあっていいんだ」
「そうじゃないよ、そういうことじゃない。ヒーローのシリーズの中にモンスターがいるのは、ちょっと変な感じがする」
僕がそう言うと、残念なことに、彼はとても不愉快そうな顔になった。
リビングの窓際のソファに腰掛けて一人でコーヒーを飲んでいると、ナターシャ・ロマノフがやってきた。訓練の時のスーツから着替えて、ラフなシャツとパンツ姿だった。そうしていると彼女はまるですごくきれいなただの女性に見えた。
「ビスケットを貰ったんだけど、食べる?」
彼女は据え付けの棚の戸を開けながらこちらを見ずにそう言った。
「貰っていいの?」
「一人で食べきるには量が多いの」
「じゃあ貰おうかな、コーヒー飲む?淹れるよ」
「座っていて。気付いてないかもしれないけど、あなたより私の方がコーヒー淹れるの上手いのよ」
僕は自分で淹れたコーヒーカップの中の黒い液体をちょっと見て、それはきっとそうだろうなと思った。何故コーヒーを淹れようなんて提案ができたのだろう。自分でも不思議だった。彼女がこんな泥水のようなものを喜んで飲むはずがない。
かちゃかちゃと小さく硬質な音を立てながらナターシャ・ロマノフが棚から食器を取り出す。僕はソファの上で座りなおして窓の外を眺める。良く晴れていて、地上が遠かった。壁一面のガラスから白い日差しが差し込み、窓際に置かれた観葉植物の葉を温めている。
屋内に置かれた植物からは、そういえば、匂いがしないなと思った。そういう種類なのだろうか。遠い土地のことを考える。あの土地では匂いのしない大気というものは存在しなかった。
そのうちにとても香ばしい良い匂いが漂ってきた。ナターシャ・ロマノフはコーヒーカップ二つと白い皿を持って、僕の座るソファの前へやってきた。
「隣、いいかしら?」
「勿論」
彼女は腰かけ、ローテーブルにコーヒーカップと皿を並べる。カップの一つを僕の前に置く。
「良かったらどうぞ」
「……有難う。凄く良い匂いがする」
「そうでしょう」
彼女は口の端を僅かに上げて笑った。
ロマノフの貰ったというビスケットはバターと砂糖と小麦粉の素朴な味がして、少し粉っぽく、不思議と美味しかった。彼女は口を薄く開けて、唇を閉じずに歯の先だけでかし、かし、と少しずつビスケットを齧った。
「君の人形を見損ねたな」
「え?」
「あ、ええと……スタークから聞いてないかな?アベンジャーズの人形を作って売るんだってね。子供向けの……」
「ああ。私のは無いわよ。クリントのも」
「そうなの?」
「エージェントですから」
「そういうものか」
「地味だしね」
「そんなことない。その……女の子たちはきっと君の人形を欲しがる」
「バービー人形みたいに?」
「バービー人形より格好いいから」
「そうかしら?」
彼女は首を傾げてささやかな笑みを唇で形作る。格好良く美しい女スパイの人形は不格好な緑色の化け物の人形よりよほどよく売れるだろう。
「それなら試作品くらい作らせてあげればよかったわね。売るかどうかは別として」
「試作品?」
「ええ、許可を求められたから遠慮なく断ったわ。クリントも」
「……許可を」
「さすがに無断で作ったりはしないわよ、あれでちゃんと大企業の経営者だもの」
「僕は許可なんて求められなかったけど」
僕がそう言うと、彼女は僕を振り返り、まじまじと顔を見つめ、そして噴き出した。
「あのトニー・スタークが、可愛らしい真似をしたものね」
「可愛らしい?」
「断られるのが嫌でこっそりやるなんて、子供みたい。あなたを丸めこむ言葉なんていくらだって見つけられる男でしょうにね」
「それって可愛いのかな?」
「普段の傲慢さに比べたらね」
結局トニー・スタークが正式にハルクの商品化について僕に了承を求めることはなく、したがって僕もそれに了承を与えることはないまま、アベンジャーズのフィギュアシリーズの販売が始まった。
売れ行きは好調なようで、縦軸のスケールに結構な数字の並んだグラフを彼は自慢げに僕に見せてくれた。
「君の見立ては大外れだ、ハルクはちゃんと結果を出した」
「うん」
緑色の化け物の人形を手持無沙汰にいじりながら、僕は苦笑いを返した。
「世間の考えることは分からない。ハルクの人形なんて買ってどうするんだろう」
「私なら、自分のオフィスに飾るね」
「君はもしかしたら少しセンスに問題があるのかもしれない」
「酷い侮辱だ、君を名誉棄損で訴えるぞ」
トニー・スタークは僕の手からハルクの人形を取り上げて、ガラスのテーブルの上に置く。
「私のオフィスに飾るし、ノースダコタのガソリンスタンドのレジにだって並べるし、秋葉原のホビーショップにも、ベイルートの養護施設にだって並べる。アイアンマンの隣にね。そうすれば誰もが君がアベンジャーズの一員であることを理解する」
「……君は凄いな。さすがは大企業の経営者だ。プロパガンダまでそつがない」
「肖像権の侵害だと言われた場合の言い訳も百通りほど用意してある。聞くか?」
「大丈夫」
「私は彼が好きなんだよ」
僕が顔を上げるとスタークはこちらをじっと見つめていた。
「それが言い訳?」
「言い訳でもあり、本音でもある。こういうのが一番人の心を動かすだろう?」
「さあ、どうだろう」
「アイアンマンは世界で最高のヒーローだが、そんなアイアンマンにも死を覚悟する瞬間が幾度かあった。そんな彼の命を救ったヒーローの名前を君は知ってるはずだ」
彼は視線でテーブルの上の緑色の人形を示す。
「一度でもヒーローに絶体絶命のピンチを救われた人々はそのヒーローを愛さずにはいられない、違うか?」
「必ずしも皆がそうじゃないと思うけど」
僕は苦笑しながらそう答える。彼は大袈裟に驚いた顔をして見せる。
「でも、彼もきっと君のことが好きだ。だから君を握りつぶさなかった」
「嬉しいね。私はどちらかと言うと人に嫌われるのが得意だから」
そう言ってトニー・スタークはおどけたふうに肩をすくめた。
トレーニングルームへ行くとナターシャ・ロマノフはもうそこにいて、一人でストレッチをしていた。僕に気付くと、よく出来ていたわ、と言った。
「スタークに見せて貰ったの、あれなら私の人形を作らせてあげても良かったわね」
「言ってやればいい、次は大喜びで作ると思うよ」
「ハルクは特によく出来ていた」
「ああ、まるでヒーローみたいによく出来てたね」
「それがスタークにとってのハルクなんでしょう」
アベンジャーズの人形はテレビCMでも流され、そこで見るハルクは確かにヒーローみたいに見えた。素晴らしいヒーローだった。パワフルで、凶暴で、タフだ。トニー・スタークはハルクにアベンジャーズという居場所を与えた。僕はそれをどう受け止めたものか、少し迷う。
「ハルクはヒーローかもしれないけど、僕はそうじゃない」
僕がそう言うと、ナターシャ・ロマノフはストレッチの手を止めて、右手を差し出してきた。僕がぼうっとそれを見つめていると、彼女は体の脇に垂らしたままの僕の手を取った。
「そうね、あなたはヒーローじゃないかも。ただのちっぽけな科学者よ。自分勝手で、優柔不断で、コーヒーを淹れるのも下手」
そう言って、力強く僕の手を握りしめた。
「だから私が守ってあげるわ。他の沢山の無辜の市民たちと一緒に。あなたの体はハルクが守るでしょうけれど、あなたが帰る場所は、私が守ってあげる。頑張りましょう」
真剣な顔で彼女はそう言った。僕の掌を握りしめる彼女の掌は、温かく、少し湿っていた。
僕は、とても戸惑った。まるで一人の人間として彼女はそこにいるみたいだった。僕は自分がずっと彼女をブラック・ウィドウというエージェントとして、まるで機械のパーツのように見ていたことに気が付いた。
「ごめん」
謝りながら、彼女はもしかして緊張すると掌が冷たくなるんだろうか、と僕は考えた。
「僕は君のことを、多分全然理解できていないんだろうな」
ナターシャ・ロマノフは呆れた顔をした。
「君のことを理解できるのは僕だけだって言う男よりは、大分マシね、それ」
潮風の吹きつける砂利道を歩きながら、僕はあの化け物が僕から奪っていったものと僕に与えたものについて考える。
世界中のショウケースに、色褪せたハルクの人形が転がっている。ショウケースに、おもちゃ箱に、もしかしたら世界的に有名な誰かのオフィスに。
それを思う時、僕はこの世界に自分が縛り付けられていることを感じる。僕は数多くの人間の形作る社会というものに、自分がいやおうもなく組み込まれていると感じる。どれだけ一人になり、どれだけ人目を避け、どれだけひっそりと暮らそうとも、あの緑色のモンスターはこの世界のそこかしこで、確かに自分はここにいるぞ、ここは自分の居場所だぞと主張し続けている。
そしてそのモンスターの隣には、アイアンマンがいて、そして結局人形は発売されなかったナターシャ・ロマノフが、温かく湿った掌でモンスターを帰るべき場所に導こうとしている。
鬱々と考えごとをしながら狭い部屋に帰り、狭いベッドに寝転がり、僕はぼんやりと天井を眺め、そしてそのまま眠ってしまった。
僕は懐かしいインドの木陰に座っていた。雨上がりの乾いた風が吹いていた。崩れかけた生温かい煉瓦塀に背を預けて、夢の中だと言うのにうつらうつらとしている。耳の横を蠅がぶんぶんと飛び交い、塀を這う蔦の葉が首筋をくすぐっていた。濡れた土と獣と樹木、それから甘ったるい花の匂いがしていた。ぬかるんだ土の真ん中に穴だらけのコンクリートの道路が敷かれ、車は通らず、野良犬が時折そこを横切る。行きかう人々の姿はどれもかすんで、おぼろに見える。
誰も僕を気に留めず、おかげで僕は心安らかだった。このままずっとここにいて、誰にも知られずにいつか溶岩が冷えて固まるようにして死んでいきたい、と思った。
とても穏やかで孤独な世界だった。
遠くで犬が吠えて、軒を連ねるバラックから肉の脂と香辛料の匂いが流れ出す。永遠にここにいたい、と僕は思う。何も考えずに済む。欲望も葛藤も絶望もなく、動物のようにあやふやな自我で生きて、出来ることならば死にたい。
その時不意に、目の前にくっきりとした影が現れた。
僕は顔を上げる。星のように瞳を輝かせた男が立っている。
「ようやく見つけたぞ、ブルース・バナー!」
なんという甘ったるい悪夢だろう。目が覚めた時、僕は狭い部屋に一人で転がっていて、それほど穏やかでも孤独でもなく、汗だくになっていた。
結局はこれが自分の欲望なのだろうかと思うと、僕はその滑稽さに一人で笑ってしまった。
窓の外の空はいまだ明るく、そして言葉にすることのできない希望が常に空の片隅でひっそりと輝き続けているのだった。
kanigorou
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