創作SNS GALLERIA[ギャレリア]
新着
デイリーランキング
人気作品アーカイブ
人気のタグ
人気のクリエーター
転載確認β
イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。
GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。
作品を最優先にした最小限の広告
ライセンス表示
著作日時内容証明
右クリック保存禁止機能
共有コントロール
検索避け
新着避け
ミュートタグ
ミュートユーザ
フォロワー限定公開
相互フォロー限定公開
ワンクション公開
パスワード付き公開
複数枚まとめ投稿
投稿予約
カテゴリ分け
表示順序コントロール
公開後修正/追加機能
24時間自動削除
Twitter同時/予約/定期投稿
Twitterで新規登録/ログイン
ヒノキ/e_h_n_k_
Link
Message
Mute
Top
About
Gallery
6
Link
0
Linked
0
カテゴリ
全て
タグ
#兎赤
#二次創作
新着
人気
猫を愛するすべての者へ
――あ。
そう言うと、木兎は足を止めた。傘を右手から左手に持ち替え、まじかよ、と口の中でつぶやくと、電柱脇に置かれたダンボールへと近づいてゆく。その手首を、赤葦はつかむと、
――どうするつもりですか。
少し厳しい声で尋ねた。くるり、と振り向いた木兎はいかにも弱ったというように口をすぼめると、
――俺、捨て猫ってはじめて見た。
――ええ。
そうですね、と赤葦は木兎の手首から手を離す。彼が自分と対峙しているあいだはふらふらどこかへ歩いてゆかないことを知っているからだ。
木兎は自由になるほうの右手をせわしく動かしながら、
――俺、いきものを捨てるやつって許せないんだよね。
――ええ、俺もです。
木兎はちらりと「かわいい仔猫が入っています」と書かれたダンボールを一瞥する。その表情は、どの角度からどう見てみても、決して晴れやかなものとは言えない。その理由は、木兎の目の前にいる赤葦が、険しい顔をしたままだからなのだが。
赤葦は、深く息を吐くと、
――飼えないですから。
――でも。
――見ると情が移ります。
――それは……
――わかるんだったら。
赤葦の語気がいつになく強い感じになったので、木兎は気圧されたようになる。けれども、赤葦はふたたび息を吐くと、
――帰りましょう。
そのトーンはもう、いつもの赤葦らしい落ち着きを取り戻していた。
――待って、赤葦。
木兎はエコバッグの中をごそごそと探ると、スーパーで買ったばかりの刺身を、ちらりと赤葦に見せた。
――これ。
――飼えもしないのに餌付けなんかしたらダメですよ。
――でもさ、見捨てるのもほんとうはダメだろ? おなじダメならさ、せめて自分にとって後味悪くないほうをやろうぜ。
――あとあじ。
赤葦がきょとんとしたような顔をしたので、ふいに木兎は、赤葦が自分より年下であるという事実を思い出す。
木兎はにっこり笑うと赤葦の手を取り、
――ほら、赤葦。
そういってダンボールのほうへ近づいてゆく。赤葦は釈然としない。でも、自分にとって後味の悪くないほう、そのことばの強さに、なるほど、確かに赤葦は感動しているのだった。
――あれ。
ダンボールの蓋を開け、その中を覗き込んだ木兎は、唐突に高い声をあげた。赤葦が一歩おくれて覗き込んだその中には「愛らしい仔猫」が――いなかった。段ボールの中はからっぽだったのだ。
――いない。
――きっと誰か。
赤葦はかがみこむと、段ボールのふちに触れた。そうしてそれを、やさしくなぞるようにしながら、
――いい人にもらわれていったんでしょう。
――そうだね。
木兎もその場に屈みこむ。そうして、赤葦の横顔を覗き込んだ木兎はおどろいた。赤葦が泣いている――ように見えたからだ。
赤葦はダンボールのふちをなぜつづける。木兎は赤葦から顔をそむけると、そっと手を伸ばし、ダンボールのうえで揺れている赤葦の指先に、自分の指を一本一本絡ませてゆく。ようやく赤葦の指の動きが止まる。
木兎は思う。このなまあたたかさを、自分はこころからあいしている、と。ふだんならいともたやすく口にできるそんなひとことが、なぜか今日はうまくことばにならなくて、握り返された指先をそのままに、木兎は赤葦の肩にそっと自分の肩を寄せる。
世界中のすべてを濡らすような雨が、しとしとしとしと降りつづける午後のことだった。
#兎赤
#二次創作
――あ。
そう言うと、木兎は足を止めた。傘を右手から左手に持ち替え、まじかよ、と口の中でつぶやくと、電柱脇に置かれたダンボールへと近づいてゆく。その手首を、赤葦はつかむと、
――どうするつもりですか。
少し厳しい声で尋ねた。くるり、と振り向いた木兎はいかにも弱ったというように口をすぼめると、
――俺、捨て猫ってはじめて見た。
――ええ。
そうですね、と赤葦は木兎の手首から手を離す。彼が自分と対峙しているあいだはふらふらどこかへ歩いてゆかないことを知っているからだ。
木兎は自由になるほうの右手をせわしく動かしながら、
――俺、いきものを捨てるやつって許せないんだよね。
――ええ、俺もです。
木兎はちらりと「かわいい仔猫が入っています」と書かれたダンボールを一瞥する。その表情は、どの角度からどう見てみても、決して晴れやかなものとは言えない。その理由は、木兎の目の前にいる赤葦が、険しい顔をしたままだからなのだが。
赤葦は、深く息を吐くと、
――飼えないですから。
――でも。
――見ると情が移ります。
――それは……
――わかるんだったら。
赤葦の語気がいつになく強い感じになったので、木兎は気圧されたようになる。けれども、赤葦はふたたび息を吐くと、
――帰りましょう。
そのトーンはもう、いつもの赤葦らしい落ち着きを取り戻していた。
――待って、赤葦。
木兎はエコバッグの中をごそごそと探ると、スーパーで買ったばかりの刺身を、ちらりと赤葦に見せた。
――これ。
――飼えもしないのに餌付けなんかしたらダメですよ。
――でもさ、見捨てるのもほんとうはダメだろ? おなじダメならさ、せめて自分にとって後味悪くないほうをやろうぜ。
――あとあじ。
赤葦がきょとんとしたような顔をしたので、ふいに木兎は、赤葦が自分より年下であるという事実を思い出す。
木兎はにっこり笑うと赤葦の手を取り、
――ほら、赤葦。
そういってダンボールのほうへ近づいてゆく。赤葦は釈然としない。でも、自分にとって後味の悪くないほう、そのことばの強さに、なるほど、確かに赤葦は感動しているのだった。
――あれ。
ダンボールの蓋を開け、その中を覗き込んだ木兎は、唐突に高い声をあげた。赤葦が一歩おくれて覗き込んだその中には「愛らしい仔猫」が――いなかった。段ボールの中はからっぽだったのだ。
――いない。
――きっと誰か。
赤葦はかがみこむと、段ボールのふちに触れた。そうしてそれを、やさしくなぞるようにしながら、
――いい人にもらわれていったんでしょう。
――そうだね。
木兎もその場に屈みこむ。そうして、赤葦の横顔を覗き込んだ木兎はおどろいた。赤葦が泣いている――ように見えたからだ。
赤葦はダンボールのふちをなぜつづける。木兎は赤葦から顔をそむけると、そっと手を伸ばし、ダンボールのうえで揺れている赤葦の指先に、自分の指を一本一本絡ませてゆく。ようやく赤葦の指の動きが止まる。
木兎は思う。このなまあたたかさを、自分はこころからあいしている、と。ふだんならいともたやすく口にできるそんなひとことが、なぜか今日はうまくことばにならなくて、握り返された指先をそのままに、木兎は赤葦の肩にそっと自分の肩を寄せる。
世界中のすべてを濡らすような雨が、しとしとしとしと降りつづける午後のことだった。
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
奥歯の話
朝昼晩ときちんと磨いているはずなのに、このところ、口の奥のほうがずきずきと痛む。暗くて、湿っていて、なるほど、確かによくない虫が繁殖するのはうってつけの場所なのだろうか。
「木兎さん、虫歯とかってあります?」
「俺?ないなー」
そう言うと、彼は、あらいざらしのアンダーシャツに手をのばそうとすることもなく、剝きだしの上半身を――とりわけ顔を――こちらにひょいと向けて尋ねてきた。
「赤葦、虫歯なの?」
「それっぽいんですよね。奥歯のほうが」
親指と中指で両頰を押さえながら答えると、ふーん、と彼は一度正面を向き、今度はアンダーシャツに手をのばしかけた。けれどもその手を引っ込め、はたとなにかを思いついたような顔になって、首を傾げる。
「それ、親不知じゃね?」
「は?」
「かっけー!大人じゃん、赤葦!」
彼はもはやアンダーシャツのことなど思考の大気圏外に放り出してしまったようだ。目を輝かせている。こどものように、という比喩があるが、その比喩はおそらくあてはまるまい。このひとは――そうして自分もきっと、まだまだこどもなのだから。
「服着てください。寒いですよ」
俺は、わざとらしく、おとなのように――やはりこちらの比喩のほうがしっくりくる――ため息をつくと、Tシャツに袖を通してから、裾をもち、頭というボタンをボタン穴に通す。けれども、ボタンがしっかり嵌まっても、彼はいまだ、アンダーシャツを身につけていなかった。変わっていたのは服装ではなく表情だ。すこしいじけたような、不貞腐れたような目つきをしている。その目が、擬人化された虫歯菌がよく持っている銛のように、俺の目をつっつく。
「やだなー赤葦」
「なにがですか」
「成長しないで?」
「しますよ、バキュンバキュンに」
「バキュン、って……あーた」
彼はあきれたようにそう言うと、いきなり、「うわー!」と叫んで、顔をおおってその場にうずくまる。そのまま、いっこうに立ち上がる気配もないので、仕方なしに俺もその場に腰をおろす。
「なにかあったんですか」
「……」
「なんでそんなこと言うんですか」
こう尋ねる時点で俺はもう、なにかを期待しているのだ。俺は彼のはだかの肩に触れたいと思う。そこに張りつめている筋肉や血管を、ひっぱりだして、頰ずりしたいと思う。けれども、手を差し出そうかと思った瞬間、俺のよこしまなこころを見抜いたかのように、ちらり、と彼が顔をあげた。
その瞬間、俺の身体を、こんぺいとうみたいにちいさな星が、ざーっと、たくさんたくさん走り抜ける。
……見つめ合うのに先に音をあげたのは俺のほうだ。まるで雷でものみこんだかのように、口の奥が痛い。親不知。知らないうちに生えてきて、ずきずき体の奥で痛む。そんなのはまるで――。
そこまで考えたところで、俺は立ち上がると、ふう、と息をついた。
「セブンでも寄って帰りましょう。肉まん食べたくないですか?おごりますよ」
「肉まん!」
彼はぴょこんと立ち上がる。今泣いた烏がもう笑う。これも、こどもを形容することわざだったと思う。けれども、ただのこどもの足は、こんなにばねが効いてはいない。ただのこどもではない。だから、口にはもう出せないけれども、早くアンダーシャツを着てくれ、と俺はひそかに願っている。よくない虫が、これ以上俺の奥底から、ひなたに出てくる前に。
#兎赤
#二次創作
朝昼晩ときちんと磨いているはずなのに、このところ、口の奥のほうがずきずきと痛む。暗くて、湿っていて、なるほど、確かによくない虫が繁殖するのはうってつけの場所なのだろうか。
「木兎さん、虫歯とかってあります?」
「俺?ないなー」
そう言うと、彼は、あらいざらしのアンダーシャツに手をのばそうとすることもなく、剝きだしの上半身を――とりわけ顔を――こちらにひょいと向けて尋ねてきた。
「赤葦、虫歯なの?」
「それっぽいんですよね。奥歯のほうが」
親指と中指で両頰を押さえながら答えると、ふーん、と彼は一度正面を向き、今度はアンダーシャツに手をのばしかけた。けれどもその手を引っ込め、はたとなにかを思いついたような顔になって、首を傾げる。
「それ、親不知じゃね?」
「は?」
「かっけー!大人じゃん、赤葦!」
彼はもはやアンダーシャツのことなど思考の大気圏外に放り出してしまったようだ。目を輝かせている。こどものように、という比喩があるが、その比喩はおそらくあてはまるまい。このひとは――そうして自分もきっと、まだまだこどもなのだから。
「服着てください。寒いですよ」
俺は、わざとらしく、おとなのように――やはりこちらの比喩のほうがしっくりくる――ため息をつくと、Tシャツに袖を通してから、裾をもち、頭というボタンをボタン穴に通す。けれども、ボタンがしっかり嵌まっても、彼はいまだ、アンダーシャツを身につけていなかった。変わっていたのは服装ではなく表情だ。すこしいじけたような、不貞腐れたような目つきをしている。その目が、擬人化された虫歯菌がよく持っている銛のように、俺の目をつっつく。
「やだなー赤葦」
「なにがですか」
「成長しないで?」
「しますよ、バキュンバキュンに」
「バキュン、って……あーた」
彼はあきれたようにそう言うと、いきなり、「うわー!」と叫んで、顔をおおってその場にうずくまる。そのまま、いっこうに立ち上がる気配もないので、仕方なしに俺もその場に腰をおろす。
「なにかあったんですか」
「……」
「なんでそんなこと言うんですか」
こう尋ねる時点で俺はもう、なにかを期待しているのだ。俺は彼のはだかの肩に触れたいと思う。そこに張りつめている筋肉や血管を、ひっぱりだして、頰ずりしたいと思う。けれども、手を差し出そうかと思った瞬間、俺のよこしまなこころを見抜いたかのように、ちらり、と彼が顔をあげた。
その瞬間、俺の身体を、こんぺいとうみたいにちいさな星が、ざーっと、たくさんたくさん走り抜ける。
……見つめ合うのに先に音をあげたのは俺のほうだ。まるで雷でものみこんだかのように、口の奥が痛い。親不知。知らないうちに生えてきて、ずきずき体の奥で痛む。そんなのはまるで――。
そこまで考えたところで、俺は立ち上がると、ふう、と息をついた。
「セブンでも寄って帰りましょう。肉まん食べたくないですか?おごりますよ」
「肉まん!」
彼はぴょこんと立ち上がる。今泣いた烏がもう笑う。これも、こどもを形容することわざだったと思う。けれども、ただのこどもの足は、こんなにばねが効いてはいない。ただのこどもではない。だから、口にはもう出せないけれども、早くアンダーシャツを着てくれ、と俺はひそかに願っている。よくない虫が、これ以上俺の奥底から、ひなたに出てくる前に。
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
二重惑星
・二重惑星
二重惑星(にじゅうわくせい)とは、明確な定義は存在しないが、大きさの近い2つの惑星が共通重心の周りを互いに公転しているような系のことである。
(『二重惑星』
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%83%91%E6%98%9F)
赤葦京治は、本人の自覚の有無にかかわらず、じつは、とても人好きのする性格だ。
「赤葦―、宿題見せて」
「自分でやれよ」
「赤葦、今日部活?終わったらメシ食いに行かね?」
あー、悪(わり)ィ、今日は先輩とマック行くことになってるんだわ」
こんなやりとりも日常茶飯事である。
ムードメイカー、という単語を日本人が使う場合、たいていは、まるでお店の新装開店記念で送られる花輪のようなムードを念頭においているのだ、と思うが、赤葦は、ヴァニラ・アイスクリームの最初のひとすくいのように、なめらかで甘い空気(ムード)にまわりをそっと誘い込むような、そんな性質をしている。しずかでやさしい影響力がある、とでも言おうか。
あるいはこういう言い方は聊か失礼めくかもしれないが、赤葦は、たとえるならば惑星のようで、彼のまわりには、いくつもの衛星が公転している、と、そういう図を想像していただければ、おおよそ正確なところになる。
そんな衛星のひとつに、木兎光太郎がいた。
「あかーし、あかーしー」
そう言うと、木兎は、赤葦の肩に両腕を回し、その背中に靠(もた)れかかる。一八五・三センチ、七八・三キロの、超重量級のリュックサックだ。
「やめてください、木兎さん」
そう言うと、木兎は靠れかかってくるのはやめたものの、相変わらず赤葦を腕のなかに入れたまま離そうとしない。その手をぱちんと払うと、ようやくその輪のなから抜け出せた――と思ったところで、赤葦はぎゅっと手首を木兎につかまれた。
「……やめてくださいって」
「いいじゃん、赤葦のケチー」
「そういうことは恋人にでもしてください」
「じゃあ、赤葦が俺の恋人になってよ」
思わず赤葦は、木兎をまじまじと見つめる。ん?と事問いたげな微笑を浮かべたまま、木兎は首を傾げる。
「木兎はほんとうに赤葦が好きだな」
「うん、好きだぜ!」
ぱっと木兎が手を離して木葉の方を向いたので、赤葦はため息をひとつ吐くと、ネクタイをキュッと締めた。そうして、鞄を持ち、部室を出ようとする。すかさず、
「あ、待ってよ赤葦、いっしょに帰ろうぜ」
木兎の声が追ってくる。
ちらり、とうしろを振り返った赤葦は、まるでテレビ画面のなかの戦隊ヒーローを応援するように拳をにぎっている木兎を見て、もう一度ため息を吐いた。そうして、ドアにかけていた手を離した。
「うわーさっみぃ!」
「もうすっかり冬ですね」
赤葦は、鞄のなかからマフラーとホッカイロをふたつ取り出す。そうして、マフラーを巻くと、ホッカイロのうちのひとつを木兎に差し出す。
「え、いいの、赤葦?」
「……これくらいいですよ」
やったー、と、言うと、木兎はだれもいない道で、ちりんちりん、と、自転車のベルを鳴らす。ふたりをじっと見つめていた猫は、ふたりがいざ近づいてくると、塀の向こうへと飛び退(すさ)った。
ああだこうだとたわいもないことを木兎はしゃべっている。駅のひとつ前の交差点で、赤葦はようやくそれを遮って言うことができた。
「ああいうの、やめてもらえます?」
「ああいうのって?」
たとえばこういうの――木兎は自転車通学なのに、電車通学(駅までは徒歩)の赤葦に合わせて、駅まで自転車を引いて歩いてくれること、とか。赤葦はゆっくり息を吐きだすと言った。
「……俺たちは恋人になれないでしょう」
「じゃあ、なんでおまえ、俺といっしょに帰ってるの」
「なんでってそりゃあ……」
赤葦は歩みを止める。
……ときどき、地平線の近くにある月が、いやにおおきく見えることがあるだろう。けれどもあれは、目の錯覚で、実際は天頂にあるときとおなじ大きさなのだ。だから赤葦は、木兎の顔がいま、いやにおおきく見えるのも、おなじような錯視だと思っていた。
けれども月は、じっさいにおおきくなっていた。そのことに赤葦が気が付いたのは、唇になにかが触れ、木兎が自分から顔を離してからだった。
「……なんで抵抗しないの?」
「なんでって……」
言いさして赤葦は、思わず顔を背けた。心臓が、まるで逆巻く波にさからうように、激しく脈搏っている。そんな赤葦にニッと笑いかけると、じゃあな、と木兎は言った。ひとりになっておさまるかと思った心の昂鳴(たかな)りは、ますます昂るばかりで、赤葦は思わず、その場にぺたりとしゃがみこんだ。
もしも惑星Aの衛星Bが、惑星Aより巨大だったとき、双方の共通重心は宇宙空間上に飛び出してしまい、二重惑星と呼ばれるものになるという。
たがいにたがいを見つめ合うようにしながら、ふたりだけの軌道をえがく。
#兎赤
#二次創作
・二重惑星
二重惑星(にじゅうわくせい)とは、明確な定義は存在しないが、大きさの近い2つの惑星が共通重心の周りを互いに公転しているような系のことである。
(『二重惑星』
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%83%91%E6%98%9F)
赤葦京治は、本人の自覚の有無にかかわらず、じつは、とても人好きのする性格だ。
「赤葦―、宿題見せて」
「自分でやれよ」
「赤葦、今日部活?終わったらメシ食いに行かね?」
あー、悪(わり)ィ、今日は先輩とマック行くことになってるんだわ」
こんなやりとりも日常茶飯事である。
ムードメイカー、という単語を日本人が使う場合、たいていは、まるでお店の新装開店記念で送られる花輪のようなムードを念頭においているのだ、と思うが、赤葦は、ヴァニラ・アイスクリームの最初のひとすくいのように、なめらかで甘い空気(ムード)にまわりをそっと誘い込むような、そんな性質をしている。しずかでやさしい影響力がある、とでも言おうか。
あるいはこういう言い方は聊か失礼めくかもしれないが、赤葦は、たとえるならば惑星のようで、彼のまわりには、いくつもの衛星が公転している、と、そういう図を想像していただければ、おおよそ正確なところになる。
そんな衛星のひとつに、木兎光太郎がいた。
「あかーし、あかーしー」
そう言うと、木兎は、赤葦の肩に両腕を回し、その背中に靠(もた)れかかる。一八五・三センチ、七八・三キロの、超重量級のリュックサックだ。
「やめてください、木兎さん」
そう言うと、木兎は靠れかかってくるのはやめたものの、相変わらず赤葦を腕のなかに入れたまま離そうとしない。その手をぱちんと払うと、ようやくその輪のなから抜け出せた――と思ったところで、赤葦はぎゅっと手首を木兎につかまれた。
「……やめてくださいって」
「いいじゃん、赤葦のケチー」
「そういうことは恋人にでもしてください」
「じゃあ、赤葦が俺の恋人になってよ」
思わず赤葦は、木兎をまじまじと見つめる。ん?と事問いたげな微笑を浮かべたまま、木兎は首を傾げる。
「木兎はほんとうに赤葦が好きだな」
「うん、好きだぜ!」
ぱっと木兎が手を離して木葉の方を向いたので、赤葦はため息をひとつ吐くと、ネクタイをキュッと締めた。そうして、鞄を持ち、部室を出ようとする。すかさず、
「あ、待ってよ赤葦、いっしょに帰ろうぜ」
木兎の声が追ってくる。
ちらり、とうしろを振り返った赤葦は、まるでテレビ画面のなかの戦隊ヒーローを応援するように拳をにぎっている木兎を見て、もう一度ため息を吐いた。そうして、ドアにかけていた手を離した。
「うわーさっみぃ!」
「もうすっかり冬ですね」
赤葦は、鞄のなかからマフラーとホッカイロをふたつ取り出す。そうして、マフラーを巻くと、ホッカイロのうちのひとつを木兎に差し出す。
「え、いいの、赤葦?」
「……これくらいいですよ」
やったー、と、言うと、木兎はだれもいない道で、ちりんちりん、と、自転車のベルを鳴らす。ふたりをじっと見つめていた猫は、ふたりがいざ近づいてくると、塀の向こうへと飛び退(すさ)った。
ああだこうだとたわいもないことを木兎はしゃべっている。駅のひとつ前の交差点で、赤葦はようやくそれを遮って言うことができた。
「ああいうの、やめてもらえます?」
「ああいうのって?」
たとえばこういうの――木兎は自転車通学なのに、電車通学(駅までは徒歩)の赤葦に合わせて、駅まで自転車を引いて歩いてくれること、とか。赤葦はゆっくり息を吐きだすと言った。
「……俺たちは恋人になれないでしょう」
「じゃあ、なんでおまえ、俺といっしょに帰ってるの」
「なんでってそりゃあ……」
赤葦は歩みを止める。
……ときどき、地平線の近くにある月が、いやにおおきく見えることがあるだろう。けれどもあれは、目の錯覚で、実際は天頂にあるときとおなじ大きさなのだ。だから赤葦は、木兎の顔がいま、いやにおおきく見えるのも、おなじような錯視だと思っていた。
けれども月は、じっさいにおおきくなっていた。そのことに赤葦が気が付いたのは、唇になにかが触れ、木兎が自分から顔を離してからだった。
「……なんで抵抗しないの?」
「なんでって……」
言いさして赤葦は、思わず顔を背けた。心臓が、まるで逆巻く波にさからうように、激しく脈搏っている。そんな赤葦にニッと笑いかけると、じゃあな、と木兎は言った。ひとりになっておさまるかと思った心の昂鳴(たかな)りは、ますます昂るばかりで、赤葦は思わず、その場にぺたりとしゃがみこんだ。
もしも惑星Aの衛星Bが、惑星Aより巨大だったとき、双方の共通重心は宇宙空間上に飛び出してしまい、二重惑星と呼ばれるものになるという。
たがいにたがいを見つめ合うようにしながら、ふたりだけの軌道をえがく。
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
よだかは空にかえれない
味噌をつけたようにまだらな顔。ひらたくて、耳までさけたくちばし。鳥たちの鼻つまみもので、星座にすらもばかにされる。そんなよだかは、物語の結末で、果たして救われたと言えるのだろうか。答えはノーだ、と俺は思う。なぜってよだかは、結局のところ、だれからも愛されないまま、ただ、星になって終わる。一見きれいだけれども、よくよく考えると、絶句ものに陰惨なラストだ。みにくいものは、夜空にでも浮かぶしかない。決して地上では生きてゆけない。ましてや、恋をすることなんて、できないのだ。
*
「全員そろったか?」
「はい」
「はい」
「はい!」
「ふわーい」
最後の間の抜けた「ふわーい」に、俺は眉間に皺を寄せた。声の主の首根っこをおさえることもやぶさかではないが、腹を出してぐふぐふよろこんでいる猫にそうしたところで、おそらくせんないことであろう。
「…せめてもう少ししゃきっとしてくれませんか」
俺はいちおう、隣の席に座っている木兎さんにそう声をかけてみるが、
「えー、疲れたー。ダルいー」
記号にたとえるのなら、Θのような目と3のような口をして、のたまわれたこういう返答を、やはりかんばしいとは言えないのではないか。
ふう、と息を吐くと、俺は身をよじってバスのシートに腰をおろした。
「…だいたいなんで木兎さんがいるんですか。もうとっくに引退したでしょう」
「だって、赤葦キャプテンが活躍するところ見たかったんだもん」
「活躍とか……べつにないでしょ」
「えー?」
木兎さんはさもおかしそうに笑うと、人差し指を突きだして、俺の頰をぎゅっぎゅっと押した。
「…やめてください」
「大活躍だったじゃん」
「負けましたし」
「勝ち負けは関係ないよ」
木兎さんの手が、つと拳を握る。と、網のように広がって、俺のあたまをぱっととらえた。
「よくやってるな、赤葦」
ブブーっという音を鳴らしてバスが発車する。腹を撫でられてよろこぶのは猫ばっかりではない。犬だっておんなじだ。好きなひとの指先であたまを撫ぜられると、髪の毛が、どこまでもやわらかくなって、どこまでも伸びてゆくような、そんな錯覚にとらわれる。
目を閉じて、木兎さんのことを好きだ、と思う。目を開く。こんな思いは、まるでよだかのようにみにくい。
爪に色を塗ったことがある。おさないこどものころの話ではない。中学の終わりごろのことだ。真っ赤なマニキュアを母の化粧箱から拝借して、刷毛を握りしめ、心臓が、すごくどきどきしたのを覚えている。いけないことをしているような「気持ち」ではない、「自覚」が、俺の鼓動に過剰なめりはりを与えていた。
そうして塗りあがった親指は、というと、決して俺のめがねには適うものではなかった。爪はあまりにちいさくて、どうしたって、学ランを着たごつごつした指先の手には、文字通り、余るものだった。みじめな気持ちを味わう前に、俺は除光液の蓋を開けた。以来なんとなく、左手の親指を隠すようににぎりしめるくせが、俺にはついている。
男でありながら女のようにあろうとするのは、とてもしんどいことだ、と、そのときに思った。ならば、男でありながら、女のように男を愛することは、もっとしんどいことだろう。だから俺は、一生恋なんてしない、と、そう思っていた。
「京治ー、メール来てたみたいよ」
風呂からあがると、母親が台所から声をかけてきた。ん、という俺のうなずきを待たずに、ふたたびざばざばという水音が流れ出す。テーブルの上に置いていたiPhoneを手にとり、角丸加工された四角形が描かれた丸いボタンを押すと、
「明日ヒマ?」
iPhoneケースをぎゅっとにぎりしめ、俺は、黙ったままリビングの扉を開けて、自分の部屋に戻った。電気をつけないままベッドのうえにからだを投げ出して、ひまですよー、と口のなかでちいさくつぶやいて、LINEアイコンにタッチする。いまごろ木兎さんのスマホには「既読」がついていることだろう。それから俺は、ぽちぽちと、画面に映し出されたキーボードを、ゆっくりと押してゆく。
「あいてます」
返信はすぐに来た。
「じゃあ、映画でも見にいかね?」
「いま何やってましたっけ」
「なんでもいいけど、俺、恋愛ものが見たい」
ぴくり、と思わず眉が動く。手のなかの端末を、砂のようにこなごなに砕いてしまいたいような、そんな衝動に一瞬駆られ、おおきく息を吐きだして、
「それはちょっと」
なんとかそう打って送信する。既読。
「いーじゃんー、つきあえよ」
字面だけを見れば、すこし横柄とも言えるかもしれない。でも、あのひとの声で再生されると、それがこどもっぽいわがままに変わる。仕方ないなあ、と鷹揚になれるほどには、たぶん俺は大人ではない。でも、自分の思いをあきらめられないほどには、たぶんこどもではない。
「わかりました」
「やったー!赤葦愛してる!!じゃあ、イケフクロウに十二時で!」
俺はぐるりとからだを九十度回転させ、あおむけになる。天井と自分とのあいだに、衛星のようにiPhoneを浮かべる。墨を落としたように、画面に変化はない。俺がリプライを止めたのだから、これ以上リプライがかえってこないのはあたりまえだ。でも、「愛してる」。そんなこと言われたら、そのことばをより確からしくしてくれるようなあともうひとことを、ひとことにはとうていとどまらないおろかしいまでの贅言を、欲しくなるものだ。ようやく俺は、完結した物語の続編を期待するのをやめて、へそのうえにiPhoneを置いた。
「恋愛映画、か…」
俺は眉をひそめて、イーッという顔をしてみせる。こんな顔をしてみたものの、考えてみたら、恋愛映画でよかったのかもしれない。だって俺は、たとえばホラー映画を観て、「あーんこわいよぉ…!」とか言いながら木兎さんの手をぎゅっと握ることもできないし、はでなアクションに目を奪われている木兎さんの間抜け面を、ちらりと盗み見ることすら許されない。ならば、ふつうのカップルが見にゆくような恋愛映画のほうが、いっそ恋人気分を味わえて楽しいかもしれないというものだ。
想像上の子宮で期待という赤ん坊を育んでいないで、はやく起き上がらなければならない、と思う。木兎さんのことだからどうせノープランで、映画の時間も上映館も調べずに池袋だなんて言ったに決まっている。あのひとがみたい映画をやっている映画館をきちんと調べないと。そうして――「さすがだな、赤葦!」って褒められたい、だなんて。
*
――おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。
たとえばもしも二目と見られない火傷を全身に負ったとき、果たしてひとは、それまでとおなじように生きていくことができるだろうか。肉体的な話ではなく、精神的な問題として。こころが強いひとは、なにがあっても決して「弱くなる」ことは(「弱る」ことはあっても)ないのだろうか。からだの傷に同調して、こころも傷を負ったりしないのだろうか。
つまり、俺が言いたいのはこういうことだ。こころを純粋に切り離された器官としてあつかうことが、どのていどひとにはできるのだろうか?
俺にとって同性を愛するということは、愛とはべつに、決して折れないこころをもつことに似ていた。愛にかんして、どれだけ悲惨なことがあってもくじけないでいられるような、強い意志を。そんなことは、俺にはきっとできない。だから、俺の愛は萎縮して、決して開いてはいけない箱のなかへと封じ込められる。そうしていつか腐ってしまえばきっと、箱ごとぽいと、何を捨てられてもそしらぬ顔をしている海に投げ捨てられる。愛なんてそんなものに、俺は痛めつけられない。痛めつけられたくない。
待ちあわせの時刻を五分過ぎ、十分過ぎ、二十分すぎてようやく木兎さんのアディダスがあらわれた。アディダスのうえには木兎さんがいて、俺を認めると、急ぎ足から駆け足になる。俺は眉をひそめた。案の定木兎さんの鞄は通行人にぶつかり、ジッパーが派手な音をたててはじけると、あたり一面に財布だのスマホだのがばらまかれる。彼のような性質のにんげんにとっては、急ぐのは結局非効率的だ。ふう、と俺はため息をつくと、木兎さんに近寄り、屈みこんでパスケースを拾って木兎さんに渡した。
「サンキュ」
股をおおきく開いて屈みこんだ姿勢のまま、木兎さんが言う。
「いえ…」
おなじく屈みこんだまま、俺はこたえる。
「待った?」
「待ちました」
「ヘイヘイヘーイ!赤葦!」
だしぬけに木兎さんがそう言うので、俺はそちらを向いた。木兎さんはたかだかと手をかかげている。その手の言うとおりに俺もまた手をかかげると、木兎さんはニカッと笑い、ぱちん、手と手がぶつかる。ハイタッチ。
俺はわずかに首をかしげると、
「…なにがしたいんですか、あなた」
そう言って立ち上がる。
「へへ」
ちらり、と一瞥をくれたけれども、その瞬間の木兎さんの顔はうかがえなかった。手で払っているデニムの膝っ小僧のほうに目線は向いていたから。顔をあげる。どこか不思議めいた顔だ。おおきな手が頬をつるりと撫ぜる。そうして、ますます不可解そうな顔になって、俺に尋く。
「なんか俺の顔についてる?」
一瞥、のつもりが、凝視、になっていたようだ。俺はふうっと息をついた。こうすると、耳にのぼりそうだった血が、ゆるく下がってゆく。
「いえ。行きましょう」
「おー!」
木兎さんのうなずく声を聞きながら、俺は自分の鞄のジッパーを確認する。これだけ鞄のジッパーをきっちりと閉められる男なら、こころのジッパーだって、固くかたく閉めることができているだろう。だいじょうぶ、だいじょうぶだ。
映画館の椅子はほぼ満席で、図体のでかい男のふたり連れが他にもいるのかどうか、確認しきる間もなく館内が暗くなる。俺は諦めて腰をおろす。きゅうくつだ。こんなせまいところにおし込められて、男女のほれたはれたを見せられるだなんて、いったいどんな拷問かと思う。でも、そんな拷問が待ち遠しくってろくに夜も眠れなかったのは、いったいどこのどいつだろう?
はっと俺は我に返った。画面には、やたら暑苦しそうな邦画の予告が流れている。俺はそっと口許に手を宛てた。よだれは出ていない。が、一瞬確かに寝落ちていた。睡眠不足は思ったより祟っているようであり、ふつうの拷問なら、眠ったら水を頭っからぶっかぶせてもらえるけれども、ここにはそんな親切な番人はいない。俺は自分のちからのみを恃(たの)みに、一四四分を乗り切らなくてはならないのだ――と考えるそばから瞼が重たくなっていく。頭のてっぺんをぎゅうっとひっぱられて、細くて硬い管のなかを通されるように、眠りのほうへと連れ込まれてゆく。ぶちん、というのは、なにかがちぎれる音か、それとも弾ける音か。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
背中をつたう汗のつめたさで、俺はとうとう目を覚ました。はげしい光と音の洪水で、俺はすぐに自分がどこにいるのかを認知する。(というか、こんな光と音の乱舞のなかで眠りに落ちられたのが不思議だ。)せまいところで眠ると、ヴィヴィッドな悪夢を見るのはなぜだろう。髪の生え際にも、あめだまみたいなしずくができている。それを拭おうとして、俺はぎょっとした。自分の手に、なにかが覆いかぶさっている。そのなにかの正体はすぐにわかった。俺よりもすこしおおきな手、と言ったら、この街にはそうそうないのだから。
もう俺は、しっかり目が冴えてしまった。けれども、映画の内容を理解することはできない。俺は、かわいい女の子なんかじゃないから、木兎さんの顔色を盗み見ることもできない。
*
それから俺たちは、マクドナルドでお昼を食べた。注文をするあいだも、食事をするあいだも、俺の右手は、麻痺したように動かなくって、お金を払うのも、トレーをもつのも、ポテトをつまむのも左手の仕事だった。歯はかちかちと動くのだけれども、舌はどうだろうか?果たして、どうかなってしまったようで、なにを食べても中身のない空気のかたまりみたいな味しかしなかった。
上映が終わってしばらくのあいだ、俺たちのあいだには、重たい絵の具で塗りつぶしたような沈黙があった。(でもそれは、沈黙(サイレント)、ではなく、静寂(クワイエット)だったのではないだろうか?――)いまになって、そんなことを思うのは、それを斬り割ったのが、大鉈ではなくて、バターナイフだったからである。木兎さんは、まるで糊を塗り終わった封筒から手を離すように俺の手を離すと、こう言ったのだ。「それじゃあ赤葦、そろそろ行こうか」。
俺は警戒している。なぜか。手を握ってきたことにくわえて、木兎さんが、今日はやけに静かだからである。ふだんなら、「映画おもしろかったなー!」とか、映画のキスシーンをまねてくちびるをすぼめてみせたりするのに、なんだか今日は、春のひざしにさらされた牧草みたいで、ふんわりいい香りをただよわせるばかりで、おとなしい。いやだ、と俺は思う。このひとがしずかにしていると、いっぱしの男に見えてきて、そんなふだんはあまりさらさない一面を見せられたら、ますます好きになってしまいそうだ。
俺は珈琲を一口すすると、目を細めた。視界のなかの木兎さんが細くなるように。でも、細くなるほどにそれはまぶしくなる。目を見開いていたほうがいいのだろうか?ぎゅっと瞑っていたほうがいいのだろうか?答えの出ない問いが龍のように俺という滝を逆流して、あたまのてっぺんからひょい、と抜け出たところで、俺はひとこと口走っていた。
「手」
「え?」
「なんで手握ったんですか?」
木兎さんは、ちょっとつまめば変形してしまう和菓子のような微笑を浮かべている。このひとを和菓子にたとえるならなんだろう?きっと豆大福だ――そんなことを考えていた俺は、はっと気づいたら、木兎さんの声を、うっかり聞き逃してしまっていた。
「え?」
俺はあたまのなかで、いまぼんやりと見ていた木兎さんの唇の動きを再生しようとする。いや、そんな、まさか。見間違いに決まっている。
「赤葦のことが好きだから」
なんて。
もう一度言ってください。ほんとうはそう言いたかった。でも、もう一度、あとたったの一度を問いただすだけの勇気が俺にはなく、結果として、ちょっとそっぽを向きながら、
「えーっと……」
「あーあーあー、おまえさ」
俺のことばを遮ると、木兎さんは、視界からも俺を遮るように、両手で顔を覆った。緞帳の向こうから、くぐもった声がする。
「おまえ、来週の月曜って予定ある?」
「は?」
木兎さんはいやいやをするように、わずかに首を左右に動かしている。その姿を見ると、ますますさっきの発言について尋ねようという気持ちは萎えていった。
しかたなしに、俺はこたえる。
「ないですけど…」
でも俺は(俺でなくとも)知っている。その日は、木兎さんにはまちがいなく予定があるはずだ、ということを。なにか勘違いしているのだろうか――
「あの」
「うん、わかってるって、だいじょうぶ」
そう言うと、木兎さんはようやく顔をあげた。どきりとした。死神にでも出くわしたような、そのまなざしに。でもそれは一瞬のことで、すぐにその相好をほろほろと崩すと、木兎さんは、
「じゃあ、月曜の朝六時に二宮金次郎像の前で!きっとね!約束だよ!」
そう言って、俺の肩をぎゅっとつかんだ。木兎さんの握力が強いことぐらい俺は知っている。でも、その思いのほかの強さに、俺は半ば茫然としながら、はい、と頷いた。
*
夜だかはおじぎを一つしたと思いましたが、急にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落ちてしまいました。そしてまるで夢を見ているようでした。からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたようでした。
「最近赤葦、なんか元気じゃね?」
そう声をかけてきたのはクラスメイトの黄坂である。
「は?」
俺は思わず手にしていたポテトを取り落とした。
「お、やっぱり?」
「違うっつーの」
もちろん違わない。俺は「来週の月曜日」の約束を木兎さんからもらえたことで、すっかり舞い上がっている。ただし、天にも昇る心地、というほどではないが。せいぜい、地に足がつかない、という程度だ。
改めて俺は、時間が経ってすっかりしなしなになってしまったポテトをつまむ。しなしなのポテトを口にするのは久しぶりだ。木兎さんとマクドナルドに来るときは、いつも、ポテトがカリカリのうちに食べ終えて店を出るから。お互い忙しいということももちろんあるのだけれども、俺は、ショボクレモードじゃないときの木兎さんの、行動の速さが割と好きだ。
そう考えてふと思う。そういえばあのひと、最近俺の前でショボクれてないな。そこからふと展開していった想像は、俺の心臓の悪い鼓動をはやまらせるのに、じゅうぶんに足るものだった。端的に言うのならこういう想像である。彼を自分の懐で存分にショボクれさせてあげるような(たぶん年上の)彼女が、木兎さんにできたのかもしれない、という。
もちろん他意はないのだろうけれども、つづけて青木がこんなことを口にしたのは、俺にとっては最悪なことだった。
「あれ?赤葦クン、もしかして彼女できた?」
そのせりふは、いやでも俺が、ふつうにゆくなら「彼女」をもつ立場であることを痛感せしめるものだった。つまり俺は、「木兎さんの彼女の位置には座れない」ということを。そうして、俺の沈黙は、肯定に値すると考えたのか、ふたりは調子に乗ってはしゃぎはじめる。
「え、マジで?図星?」
「キャー!赤葦センセーえっちぃ!!」
それでも、真っ暗になった視界にも、ゆっくりと明かりが戻ってくる。けれどもその明かりは、これまでとおなじ明かりではない。これまでよりもずっとずっと昏い。ようやく俺は、
「違うよ」
それだけ言うと、うすく微笑んだ。薄くうすく、微笑んでほほえんで、その膜がぱちんと割れたところで、
「ごめん、ちょっと」
そう言って立ち上がる。
トイレに駆け込むと俺は、個室に鍵をかけ、床に膝をつきながら、喉の奥に手をつっこんだ。酔っぱらった時にはこうすると、きれいに吐くことができると聞いたことがある。そうしていると、なるほど、確かに胸の奥が必死で違和感を訴えて、異物を排除しようとしているのを感じる。もう少し、あと少しで楽になれるはず――でも俺は、どれだけがんばっても、たったの胃液一滴たりとも吐くことができなかった。目の奥がエンジンのように回転しながら熱くなる。俺はまだ、自分の内臓を引き摺り出すように嘔吐することすらもできないのだ。こんなに苦しいのに。
ああ、こんな俺はなんて醜い。
そうして、どのくらいの時間が経っただろう。早く戻らないと、黄坂と青木がいぶかしむ、ということに、ようやくオレは心づく。個室のドアをあけ、俺は洗面台の前に立つ。と、口の端が赤くなっていることに気がついた。ケチャップだ。
俺はそれをびっと唇に引いてみた。赤い紅は、すこしも俺に似合わなかった。
*
よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
*
いつもと違う朝。そういう朝には、いったいどんなことをすればよいのだろう。いつもよりつめたい水で顔を洗い、いつもより早く朝食を食べ、いつもよりゆっくりと新聞をめくる?大切なのは、そういうことをしたいと思うにせよ、したくないと思うにせよ、その時点で自意識は、「いつもと違う」という状態に絡め捕られている、ということだ。結局俺は、いつもよりすこしだけ時間をかけて、いつもよりトーストはんぶんだけ多い朝食を食べた。
いつもと違う風――なんて、風が俺のために吹くわけがないのだから、これは考えすぎというものだ。電車もいつもとおなじであり、学校までの道もいつもとおなじだと考えるべきである。決定的に違っていると言えるのは校門だ。「私立梟谷学園高校 第71回卒業式」。そんな立札の上には赤と白のばらがあしらわれている。今日、木兎さんは、梟谷を卒業する。明日にはもう、ここにはいない。
去る者は日々に疎し。もし――もしも万が一、マクドナルドでの告白が、俺の勘違いじゃなかったとして。木兎さんが俺のことをほんとうに好きだったとして。そんなのはきっと一時の気の迷いだ。すぐに引き返して順路に戻れば、俺のことなんてあっさりと忘れるだろう。もっと素敵な女性が、木兎さんに、それはそれはきれいな花束を手渡すだろう。俺はその背中を、そっと透明な手で押して、見送ればいい。
チームメイトとして、誰よりもいちばんそばにいられた。それだけでじゅうぶんだ。
(でも、だとするならば、俺は一生誰とも恋ができないということだろうか?)――だなんて、そんなのはどうだっていいことなのかもしれない。そういう一生だって、あっていいのかもしれない。やり場のなかった思い出すらもきっと、こころのかたちに次第に型抜きされて、きれいに収まりがつく、そんな日がくる。そんな日のことが、俺は楽しみでならない。
待ちあわせの二宮金次郎像の前に木兎さんはもう来ていた。よくない兆候だ。このひとが俺より先に待ちあわせ場所に来るなんて。
「来たな!」
そう言うと木兎さんは、俺に駆け寄ってくる。ということは、俺のほうは、なにかを警戒してその場で固まっていたということでもある。
木兎さんはポケットに手をつっこむと、
「これ、あげるっ!」
そう言って、俺の手を握った。木兎さんの手が離れても、そこにあるものを見るのが怖かった。でも、木兎さんが、食べごろの半熟卵のような瞳で俺を見ているから、しかたなしに俺は、自分の手のなかで、ごつごつしているものに、ゆっくりと目を落とす。
「ボタン…ですね」
「そう!」
「第二ボタン…ですか?」
「そう!そう!」
木兎さんはぶんぶんとうなずく。俺は木兎さんの目をじっと見ている。半熟だった瞳はやがて完熟になり、とうとう殻を破って、地面のうえにこぼれ落ちた。
「赤葦、好きだよ」
そのことばに、俺は、七番目の天国ではなく一番目の天国の扉を開ける。
「…ありがとうございます」
「それだけ?」
もう俺は木兎さんのほうを見ていなかった。できるだけゆっくりとかぶりを振った。
「木兎さん、こんなことやめましょう」
「……え?」
「木兎さんにはもっと素敵なひとがあらわれます。だから、俺なんかにいちいち惑わされないでくださいよ。俺なんかに恋をしただなんて言わないでください。俺は――」
「ふざけんなよ」
その声に俺は顔をあげ、そしてびっくりした。木兎さんは、まるで強火にかけられた鍋みたいな表情を浮かべていたから。木兎さんは強く拳を握る。血管が浮き出て、それが破裂しそうなくらいに強く。そうして、振り絞るような叫び声をあげた。
「お、俺が、おまえと離れるのがどれだけ不安なのか、おまえ、ぜんぜんわかってないよ!!」
その瞬間、俺のこころは凍りついた。
俺は――俺はほんとうに、このひとのことを見ていたのだろうか?俺はただ、ずっと鏡を見ていただけなんじゃないか?鏡に映る自分の姿ばかりを見て、いちばんそばにいたのに、このひとの本質を、これっぽちも見ようとしなかったんじゃないか?
俺がみにくいのは当たり前だ。俺は、たいせつなひとの気持ちもわからない、最低最悪の下衆野郎だ。
気がついたときには、俺はさっと身を翻していた。
「赤葦!」
「来ないでください!」
俺は懸命に木兎さんから逃げようとした。どこまでもどこまでも、地が終わる場所までも走っていかなくてはならないと、そう思った。けれども、俺の足は、まるでペダルを踏みそこないつづける自転車のように、うまく動かないで、前にではなく、えたいのしれない深いところへとずっと沈んでゆくようである。でも、それでもいい。地獄の底でも、あのひとの声が追いつけないところに行けるなら――でも、俺が黄泉への階段をおりきるよりも、俺の肩を木兎さんがつかみ、そちらを向かせるほうが早かった。
はぁ、はぁ、と木兎さんは肩で息をしている。俺もまた、全力で走ったせいでひどい耳鳴りがする。俺はその場にしゃがみこむと、木兎さんが口を開きかけたタイミングで、そっとつぶやいた。
「星のままでいればよかったんです」
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
「せっかく星になれたんだから、ずっと空から見守っていればよかった。地上に降りて、だれかに恋をしたりなんてしなければよかった」
「なに言って……」
「俺はみにくい!」
木兎さんのスラックスがゆっくりと屈みこむ。前を開いたコート。それから、木兎さんの顔が目の前にやってくる。木兎さんは、俺の頰を両手でつつみこむと、言った。
「赤葦はうつくしいよ」
俺は頭を左右に振ろうとする。けれども、しっかりと押さえられているのでそれができない。俺は木兎さんの手をつかみ、それを引き剝がそうとする。けれども俺の思惑とは裏腹に、木兎さんの顔は近づいてきた。そうして、ささやいた。
「おまえがそこにいるだけで、身も世もなくなるくらいに、世界が光であふれるんだよ」
俺は木兎さんをじっと見つめる。これまで見たことがないくらいに近くで、木兎さんのことを見つめていると、いままでからだのなかで溶け残っていたかたまりが、ゆっくりと水に溶けてゆくのを感じる。なぜだろう?わからない。わかるのは、ずいぶんと自分が遠回りをしてしまったということだ。
「木兎さんのことが、好きです」
とうとう俺は、そう口にしていた。
木兎さんは微笑した。そうして、俺の肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。俺も木兎さんの肩に腕を回す。と、俺の肩が熱いもので濡れ、
「ふえーん…っ!」
という木兎さんの声が、耳元でひびいた。
大きななりをした男がふたり、泣きながらお互いを抱きしめあっている。きっとはたから見たら、別れを惜しむ先輩と後輩に見えただろう。でも、それでもいい。それでいい。
*
よだかはしあわせになってしまった。もう空へはかえれない。
引用・参考文献
・宮沢賢治「よだかの星」(引用にあたり、適宜省略した箇所があります。)
・「cloud nine と seventh heaven」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/636283.htm
#兎赤
#二次創作
味噌をつけたようにまだらな顔。ひらたくて、耳までさけたくちばし。鳥たちの鼻つまみもので、星座にすらもばかにされる。そんなよだかは、物語の結末で、果たして救われたと言えるのだろうか。答えはノーだ、と俺は思う。なぜってよだかは、結局のところ、だれからも愛されないまま、ただ、星になって終わる。一見きれいだけれども、よくよく考えると、絶句ものに陰惨なラストだ。みにくいものは、夜空にでも浮かぶしかない。決して地上では生きてゆけない。ましてや、恋をすることなんて、できないのだ。
*
「全員そろったか?」
「はい」
「はい」
「はい!」
「ふわーい」
最後の間の抜けた「ふわーい」に、俺は眉間に皺を寄せた。声の主の首根っこをおさえることもやぶさかではないが、腹を出してぐふぐふよろこんでいる猫にそうしたところで、おそらくせんないことであろう。
「…せめてもう少ししゃきっとしてくれませんか」
俺はいちおう、隣の席に座っている木兎さんにそう声をかけてみるが、
「えー、疲れたー。ダルいー」
記号にたとえるのなら、Θのような目と3のような口をして、のたまわれたこういう返答を、やはりかんばしいとは言えないのではないか。
ふう、と息を吐くと、俺は身をよじってバスのシートに腰をおろした。
「…だいたいなんで木兎さんがいるんですか。もうとっくに引退したでしょう」
「だって、赤葦キャプテンが活躍するところ見たかったんだもん」
「活躍とか……べつにないでしょ」
「えー?」
木兎さんはさもおかしそうに笑うと、人差し指を突きだして、俺の頰をぎゅっぎゅっと押した。
「…やめてください」
「大活躍だったじゃん」
「負けましたし」
「勝ち負けは関係ないよ」
木兎さんの手が、つと拳を握る。と、網のように広がって、俺のあたまをぱっととらえた。
「よくやってるな、赤葦」
ブブーっという音を鳴らしてバスが発車する。腹を撫でられてよろこぶのは猫ばっかりではない。犬だっておんなじだ。好きなひとの指先であたまを撫ぜられると、髪の毛が、どこまでもやわらかくなって、どこまでも伸びてゆくような、そんな錯覚にとらわれる。
目を閉じて、木兎さんのことを好きだ、と思う。目を開く。こんな思いは、まるでよだかのようにみにくい。
爪に色を塗ったことがある。おさないこどものころの話ではない。中学の終わりごろのことだ。真っ赤なマニキュアを母の化粧箱から拝借して、刷毛を握りしめ、心臓が、すごくどきどきしたのを覚えている。いけないことをしているような「気持ち」ではない、「自覚」が、俺の鼓動に過剰なめりはりを与えていた。
そうして塗りあがった親指は、というと、決して俺のめがねには適うものではなかった。爪はあまりにちいさくて、どうしたって、学ランを着たごつごつした指先の手には、文字通り、余るものだった。みじめな気持ちを味わう前に、俺は除光液の蓋を開けた。以来なんとなく、左手の親指を隠すようににぎりしめるくせが、俺にはついている。
男でありながら女のようにあろうとするのは、とてもしんどいことだ、と、そのときに思った。ならば、男でありながら、女のように男を愛することは、もっとしんどいことだろう。だから俺は、一生恋なんてしない、と、そう思っていた。
「京治ー、メール来てたみたいよ」
風呂からあがると、母親が台所から声をかけてきた。ん、という俺のうなずきを待たずに、ふたたびざばざばという水音が流れ出す。テーブルの上に置いていたiPhoneを手にとり、角丸加工された四角形が描かれた丸いボタンを押すと、
「明日ヒマ?」
iPhoneケースをぎゅっとにぎりしめ、俺は、黙ったままリビングの扉を開けて、自分の部屋に戻った。電気をつけないままベッドのうえにからだを投げ出して、ひまですよー、と口のなかでちいさくつぶやいて、LINEアイコンにタッチする。いまごろ木兎さんのスマホには「既読」がついていることだろう。それから俺は、ぽちぽちと、画面に映し出されたキーボードを、ゆっくりと押してゆく。
「あいてます」
返信はすぐに来た。
「じゃあ、映画でも見にいかね?」
「いま何やってましたっけ」
「なんでもいいけど、俺、恋愛ものが見たい」
ぴくり、と思わず眉が動く。手のなかの端末を、砂のようにこなごなに砕いてしまいたいような、そんな衝動に一瞬駆られ、おおきく息を吐きだして、
「それはちょっと」
なんとかそう打って送信する。既読。
「いーじゃんー、つきあえよ」
字面だけを見れば、すこし横柄とも言えるかもしれない。でも、あのひとの声で再生されると、それがこどもっぽいわがままに変わる。仕方ないなあ、と鷹揚になれるほどには、たぶん俺は大人ではない。でも、自分の思いをあきらめられないほどには、たぶんこどもではない。
「わかりました」
「やったー!赤葦愛してる!!じゃあ、イケフクロウに十二時で!」
俺はぐるりとからだを九十度回転させ、あおむけになる。天井と自分とのあいだに、衛星のようにiPhoneを浮かべる。墨を落としたように、画面に変化はない。俺がリプライを止めたのだから、これ以上リプライがかえってこないのはあたりまえだ。でも、「愛してる」。そんなこと言われたら、そのことばをより確からしくしてくれるようなあともうひとことを、ひとことにはとうていとどまらないおろかしいまでの贅言を、欲しくなるものだ。ようやく俺は、完結した物語の続編を期待するのをやめて、へそのうえにiPhoneを置いた。
「恋愛映画、か…」
俺は眉をひそめて、イーッという顔をしてみせる。こんな顔をしてみたものの、考えてみたら、恋愛映画でよかったのかもしれない。だって俺は、たとえばホラー映画を観て、「あーんこわいよぉ…!」とか言いながら木兎さんの手をぎゅっと握ることもできないし、はでなアクションに目を奪われている木兎さんの間抜け面を、ちらりと盗み見ることすら許されない。ならば、ふつうのカップルが見にゆくような恋愛映画のほうが、いっそ恋人気分を味わえて楽しいかもしれないというものだ。
想像上の子宮で期待という赤ん坊を育んでいないで、はやく起き上がらなければならない、と思う。木兎さんのことだからどうせノープランで、映画の時間も上映館も調べずに池袋だなんて言ったに決まっている。あのひとがみたい映画をやっている映画館をきちんと調べないと。そうして――「さすがだな、赤葦!」って褒められたい、だなんて。
*
――おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。
たとえばもしも二目と見られない火傷を全身に負ったとき、果たしてひとは、それまでとおなじように生きていくことができるだろうか。肉体的な話ではなく、精神的な問題として。こころが強いひとは、なにがあっても決して「弱くなる」ことは(「弱る」ことはあっても)ないのだろうか。からだの傷に同調して、こころも傷を負ったりしないのだろうか。
つまり、俺が言いたいのはこういうことだ。こころを純粋に切り離された器官としてあつかうことが、どのていどひとにはできるのだろうか?
俺にとって同性を愛するということは、愛とはべつに、決して折れないこころをもつことに似ていた。愛にかんして、どれだけ悲惨なことがあってもくじけないでいられるような、強い意志を。そんなことは、俺にはきっとできない。だから、俺の愛は萎縮して、決して開いてはいけない箱のなかへと封じ込められる。そうしていつか腐ってしまえばきっと、箱ごとぽいと、何を捨てられてもそしらぬ顔をしている海に投げ捨てられる。愛なんてそんなものに、俺は痛めつけられない。痛めつけられたくない。
待ちあわせの時刻を五分過ぎ、十分過ぎ、二十分すぎてようやく木兎さんのアディダスがあらわれた。アディダスのうえには木兎さんがいて、俺を認めると、急ぎ足から駆け足になる。俺は眉をひそめた。案の定木兎さんの鞄は通行人にぶつかり、ジッパーが派手な音をたててはじけると、あたり一面に財布だのスマホだのがばらまかれる。彼のような性質のにんげんにとっては、急ぐのは結局非効率的だ。ふう、と俺はため息をつくと、木兎さんに近寄り、屈みこんでパスケースを拾って木兎さんに渡した。
「サンキュ」
股をおおきく開いて屈みこんだ姿勢のまま、木兎さんが言う。
「いえ…」
おなじく屈みこんだまま、俺はこたえる。
「待った?」
「待ちました」
「ヘイヘイヘーイ!赤葦!」
だしぬけに木兎さんがそう言うので、俺はそちらを向いた。木兎さんはたかだかと手をかかげている。その手の言うとおりに俺もまた手をかかげると、木兎さんはニカッと笑い、ぱちん、手と手がぶつかる。ハイタッチ。
俺はわずかに首をかしげると、
「…なにがしたいんですか、あなた」
そう言って立ち上がる。
「へへ」
ちらり、と一瞥をくれたけれども、その瞬間の木兎さんの顔はうかがえなかった。手で払っているデニムの膝っ小僧のほうに目線は向いていたから。顔をあげる。どこか不思議めいた顔だ。おおきな手が頬をつるりと撫ぜる。そうして、ますます不可解そうな顔になって、俺に尋く。
「なんか俺の顔についてる?」
一瞥、のつもりが、凝視、になっていたようだ。俺はふうっと息をついた。こうすると、耳にのぼりそうだった血が、ゆるく下がってゆく。
「いえ。行きましょう」
「おー!」
木兎さんのうなずく声を聞きながら、俺は自分の鞄のジッパーを確認する。これだけ鞄のジッパーをきっちりと閉められる男なら、こころのジッパーだって、固くかたく閉めることができているだろう。だいじょうぶ、だいじょうぶだ。
映画館の椅子はほぼ満席で、図体のでかい男のふたり連れが他にもいるのかどうか、確認しきる間もなく館内が暗くなる。俺は諦めて腰をおろす。きゅうくつだ。こんなせまいところにおし込められて、男女のほれたはれたを見せられるだなんて、いったいどんな拷問かと思う。でも、そんな拷問が待ち遠しくってろくに夜も眠れなかったのは、いったいどこのどいつだろう?
はっと俺は我に返った。画面には、やたら暑苦しそうな邦画の予告が流れている。俺はそっと口許に手を宛てた。よだれは出ていない。が、一瞬確かに寝落ちていた。睡眠不足は思ったより祟っているようであり、ふつうの拷問なら、眠ったら水を頭っからぶっかぶせてもらえるけれども、ここにはそんな親切な番人はいない。俺は自分のちからのみを恃(たの)みに、一四四分を乗り切らなくてはならないのだ――と考えるそばから瞼が重たくなっていく。頭のてっぺんをぎゅうっとひっぱられて、細くて硬い管のなかを通されるように、眠りのほうへと連れ込まれてゆく。ぶちん、というのは、なにかがちぎれる音か、それとも弾ける音か。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
背中をつたう汗のつめたさで、俺はとうとう目を覚ました。はげしい光と音の洪水で、俺はすぐに自分がどこにいるのかを認知する。(というか、こんな光と音の乱舞のなかで眠りに落ちられたのが不思議だ。)せまいところで眠ると、ヴィヴィッドな悪夢を見るのはなぜだろう。髪の生え際にも、あめだまみたいなしずくができている。それを拭おうとして、俺はぎょっとした。自分の手に、なにかが覆いかぶさっている。そのなにかの正体はすぐにわかった。俺よりもすこしおおきな手、と言ったら、この街にはそうそうないのだから。
もう俺は、しっかり目が冴えてしまった。けれども、映画の内容を理解することはできない。俺は、かわいい女の子なんかじゃないから、木兎さんの顔色を盗み見ることもできない。
*
それから俺たちは、マクドナルドでお昼を食べた。注文をするあいだも、食事をするあいだも、俺の右手は、麻痺したように動かなくって、お金を払うのも、トレーをもつのも、ポテトをつまむのも左手の仕事だった。歯はかちかちと動くのだけれども、舌はどうだろうか?果たして、どうかなってしまったようで、なにを食べても中身のない空気のかたまりみたいな味しかしなかった。
上映が終わってしばらくのあいだ、俺たちのあいだには、重たい絵の具で塗りつぶしたような沈黙があった。(でもそれは、沈黙(サイレント)、ではなく、静寂(クワイエット)だったのではないだろうか?――)いまになって、そんなことを思うのは、それを斬り割ったのが、大鉈ではなくて、バターナイフだったからである。木兎さんは、まるで糊を塗り終わった封筒から手を離すように俺の手を離すと、こう言ったのだ。「それじゃあ赤葦、そろそろ行こうか」。
俺は警戒している。なぜか。手を握ってきたことにくわえて、木兎さんが、今日はやけに静かだからである。ふだんなら、「映画おもしろかったなー!」とか、映画のキスシーンをまねてくちびるをすぼめてみせたりするのに、なんだか今日は、春のひざしにさらされた牧草みたいで、ふんわりいい香りをただよわせるばかりで、おとなしい。いやだ、と俺は思う。このひとがしずかにしていると、いっぱしの男に見えてきて、そんなふだんはあまりさらさない一面を見せられたら、ますます好きになってしまいそうだ。
俺は珈琲を一口すすると、目を細めた。視界のなかの木兎さんが細くなるように。でも、細くなるほどにそれはまぶしくなる。目を見開いていたほうがいいのだろうか?ぎゅっと瞑っていたほうがいいのだろうか?答えの出ない問いが龍のように俺という滝を逆流して、あたまのてっぺんからひょい、と抜け出たところで、俺はひとこと口走っていた。
「手」
「え?」
「なんで手握ったんですか?」
木兎さんは、ちょっとつまめば変形してしまう和菓子のような微笑を浮かべている。このひとを和菓子にたとえるならなんだろう?きっと豆大福だ――そんなことを考えていた俺は、はっと気づいたら、木兎さんの声を、うっかり聞き逃してしまっていた。
「え?」
俺はあたまのなかで、いまぼんやりと見ていた木兎さんの唇の動きを再生しようとする。いや、そんな、まさか。見間違いに決まっている。
「赤葦のことが好きだから」
なんて。
もう一度言ってください。ほんとうはそう言いたかった。でも、もう一度、あとたったの一度を問いただすだけの勇気が俺にはなく、結果として、ちょっとそっぽを向きながら、
「えーっと……」
「あーあーあー、おまえさ」
俺のことばを遮ると、木兎さんは、視界からも俺を遮るように、両手で顔を覆った。緞帳の向こうから、くぐもった声がする。
「おまえ、来週の月曜って予定ある?」
「は?」
木兎さんはいやいやをするように、わずかに首を左右に動かしている。その姿を見ると、ますますさっきの発言について尋ねようという気持ちは萎えていった。
しかたなしに、俺はこたえる。
「ないですけど…」
でも俺は(俺でなくとも)知っている。その日は、木兎さんにはまちがいなく予定があるはずだ、ということを。なにか勘違いしているのだろうか――
「あの」
「うん、わかってるって、だいじょうぶ」
そう言うと、木兎さんはようやく顔をあげた。どきりとした。死神にでも出くわしたような、そのまなざしに。でもそれは一瞬のことで、すぐにその相好をほろほろと崩すと、木兎さんは、
「じゃあ、月曜の朝六時に二宮金次郎像の前で!きっとね!約束だよ!」
そう言って、俺の肩をぎゅっとつかんだ。木兎さんの握力が強いことぐらい俺は知っている。でも、その思いのほかの強さに、俺は半ば茫然としながら、はい、と頷いた。
*
夜だかはおじぎを一つしたと思いましたが、急にぐらぐらしてとうとう野原の草の上に落ちてしまいました。そしてまるで夢を見ているようでした。からだがずうっと赤や黄の星のあいだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたようでした。
「最近赤葦、なんか元気じゃね?」
そう声をかけてきたのはクラスメイトの黄坂である。
「は?」
俺は思わず手にしていたポテトを取り落とした。
「お、やっぱり?」
「違うっつーの」
もちろん違わない。俺は「来週の月曜日」の約束を木兎さんからもらえたことで、すっかり舞い上がっている。ただし、天にも昇る心地、というほどではないが。せいぜい、地に足がつかない、という程度だ。
改めて俺は、時間が経ってすっかりしなしなになってしまったポテトをつまむ。しなしなのポテトを口にするのは久しぶりだ。木兎さんとマクドナルドに来るときは、いつも、ポテトがカリカリのうちに食べ終えて店を出るから。お互い忙しいということももちろんあるのだけれども、俺は、ショボクレモードじゃないときの木兎さんの、行動の速さが割と好きだ。
そう考えてふと思う。そういえばあのひと、最近俺の前でショボクれてないな。そこからふと展開していった想像は、俺の心臓の悪い鼓動をはやまらせるのに、じゅうぶんに足るものだった。端的に言うのならこういう想像である。彼を自分の懐で存分にショボクれさせてあげるような(たぶん年上の)彼女が、木兎さんにできたのかもしれない、という。
もちろん他意はないのだろうけれども、つづけて青木がこんなことを口にしたのは、俺にとっては最悪なことだった。
「あれ?赤葦クン、もしかして彼女できた?」
そのせりふは、いやでも俺が、ふつうにゆくなら「彼女」をもつ立場であることを痛感せしめるものだった。つまり俺は、「木兎さんの彼女の位置には座れない」ということを。そうして、俺の沈黙は、肯定に値すると考えたのか、ふたりは調子に乗ってはしゃぎはじめる。
「え、マジで?図星?」
「キャー!赤葦センセーえっちぃ!!」
それでも、真っ暗になった視界にも、ゆっくりと明かりが戻ってくる。けれどもその明かりは、これまでとおなじ明かりではない。これまでよりもずっとずっと昏い。ようやく俺は、
「違うよ」
それだけ言うと、うすく微笑んだ。薄くうすく、微笑んでほほえんで、その膜がぱちんと割れたところで、
「ごめん、ちょっと」
そう言って立ち上がる。
トイレに駆け込むと俺は、個室に鍵をかけ、床に膝をつきながら、喉の奥に手をつっこんだ。酔っぱらった時にはこうすると、きれいに吐くことができると聞いたことがある。そうしていると、なるほど、確かに胸の奥が必死で違和感を訴えて、異物を排除しようとしているのを感じる。もう少し、あと少しで楽になれるはず――でも俺は、どれだけがんばっても、たったの胃液一滴たりとも吐くことができなかった。目の奥がエンジンのように回転しながら熱くなる。俺はまだ、自分の内臓を引き摺り出すように嘔吐することすらもできないのだ。こんなに苦しいのに。
ああ、こんな俺はなんて醜い。
そうして、どのくらいの時間が経っただろう。早く戻らないと、黄坂と青木がいぶかしむ、ということに、ようやくオレは心づく。個室のドアをあけ、俺は洗面台の前に立つ。と、口の端が赤くなっていることに気がついた。ケチャップだ。
俺はそれをびっと唇に引いてみた。赤い紅は、すこしも俺に似合わなかった。
*
よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
*
いつもと違う朝。そういう朝には、いったいどんなことをすればよいのだろう。いつもよりつめたい水で顔を洗い、いつもより早く朝食を食べ、いつもよりゆっくりと新聞をめくる?大切なのは、そういうことをしたいと思うにせよ、したくないと思うにせよ、その時点で自意識は、「いつもと違う」という状態に絡め捕られている、ということだ。結局俺は、いつもよりすこしだけ時間をかけて、いつもよりトーストはんぶんだけ多い朝食を食べた。
いつもと違う風――なんて、風が俺のために吹くわけがないのだから、これは考えすぎというものだ。電車もいつもとおなじであり、学校までの道もいつもとおなじだと考えるべきである。決定的に違っていると言えるのは校門だ。「私立梟谷学園高校 第71回卒業式」。そんな立札の上には赤と白のばらがあしらわれている。今日、木兎さんは、梟谷を卒業する。明日にはもう、ここにはいない。
去る者は日々に疎し。もし――もしも万が一、マクドナルドでの告白が、俺の勘違いじゃなかったとして。木兎さんが俺のことをほんとうに好きだったとして。そんなのはきっと一時の気の迷いだ。すぐに引き返して順路に戻れば、俺のことなんてあっさりと忘れるだろう。もっと素敵な女性が、木兎さんに、それはそれはきれいな花束を手渡すだろう。俺はその背中を、そっと透明な手で押して、見送ればいい。
チームメイトとして、誰よりもいちばんそばにいられた。それだけでじゅうぶんだ。
(でも、だとするならば、俺は一生誰とも恋ができないということだろうか?)――だなんて、そんなのはどうだっていいことなのかもしれない。そういう一生だって、あっていいのかもしれない。やり場のなかった思い出すらもきっと、こころのかたちに次第に型抜きされて、きれいに収まりがつく、そんな日がくる。そんな日のことが、俺は楽しみでならない。
待ちあわせの二宮金次郎像の前に木兎さんはもう来ていた。よくない兆候だ。このひとが俺より先に待ちあわせ場所に来るなんて。
「来たな!」
そう言うと木兎さんは、俺に駆け寄ってくる。ということは、俺のほうは、なにかを警戒してその場で固まっていたということでもある。
木兎さんはポケットに手をつっこむと、
「これ、あげるっ!」
そう言って、俺の手を握った。木兎さんの手が離れても、そこにあるものを見るのが怖かった。でも、木兎さんが、食べごろの半熟卵のような瞳で俺を見ているから、しかたなしに俺は、自分の手のなかで、ごつごつしているものに、ゆっくりと目を落とす。
「ボタン…ですね」
「そう!」
「第二ボタン…ですか?」
「そう!そう!」
木兎さんはぶんぶんとうなずく。俺は木兎さんの目をじっと見ている。半熟だった瞳はやがて完熟になり、とうとう殻を破って、地面のうえにこぼれ落ちた。
「赤葦、好きだよ」
そのことばに、俺は、七番目の天国ではなく一番目の天国の扉を開ける。
「…ありがとうございます」
「それだけ?」
もう俺は木兎さんのほうを見ていなかった。できるだけゆっくりとかぶりを振った。
「木兎さん、こんなことやめましょう」
「……え?」
「木兎さんにはもっと素敵なひとがあらわれます。だから、俺なんかにいちいち惑わされないでくださいよ。俺なんかに恋をしただなんて言わないでください。俺は――」
「ふざけんなよ」
その声に俺は顔をあげ、そしてびっくりした。木兎さんは、まるで強火にかけられた鍋みたいな表情を浮かべていたから。木兎さんは強く拳を握る。血管が浮き出て、それが破裂しそうなくらいに強く。そうして、振り絞るような叫び声をあげた。
「お、俺が、おまえと離れるのがどれだけ不安なのか、おまえ、ぜんぜんわかってないよ!!」
その瞬間、俺のこころは凍りついた。
俺は――俺はほんとうに、このひとのことを見ていたのだろうか?俺はただ、ずっと鏡を見ていただけなんじゃないか?鏡に映る自分の姿ばかりを見て、いちばんそばにいたのに、このひとの本質を、これっぽちも見ようとしなかったんじゃないか?
俺がみにくいのは当たり前だ。俺は、たいせつなひとの気持ちもわからない、最低最悪の下衆野郎だ。
気がついたときには、俺はさっと身を翻していた。
「赤葦!」
「来ないでください!」
俺は懸命に木兎さんから逃げようとした。どこまでもどこまでも、地が終わる場所までも走っていかなくてはならないと、そう思った。けれども、俺の足は、まるでペダルを踏みそこないつづける自転車のように、うまく動かないで、前にではなく、えたいのしれない深いところへとずっと沈んでゆくようである。でも、それでもいい。地獄の底でも、あのひとの声が追いつけないところに行けるなら――でも、俺が黄泉への階段をおりきるよりも、俺の肩を木兎さんがつかみ、そちらを向かせるほうが早かった。
はぁ、はぁ、と木兎さんは肩で息をしている。俺もまた、全力で走ったせいでひどい耳鳴りがする。俺はその場にしゃがみこむと、木兎さんが口を開きかけたタイミングで、そっとつぶやいた。
「星のままでいればよかったんです」
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
「せっかく星になれたんだから、ずっと空から見守っていればよかった。地上に降りて、だれかに恋をしたりなんてしなければよかった」
「なに言って……」
「俺はみにくい!」
木兎さんのスラックスがゆっくりと屈みこむ。前を開いたコート。それから、木兎さんの顔が目の前にやってくる。木兎さんは、俺の頰を両手でつつみこむと、言った。
「赤葦はうつくしいよ」
俺は頭を左右に振ろうとする。けれども、しっかりと押さえられているのでそれができない。俺は木兎さんの手をつかみ、それを引き剝がそうとする。けれども俺の思惑とは裏腹に、木兎さんの顔は近づいてきた。そうして、ささやいた。
「おまえがそこにいるだけで、身も世もなくなるくらいに、世界が光であふれるんだよ」
俺は木兎さんをじっと見つめる。これまで見たことがないくらいに近くで、木兎さんのことを見つめていると、いままでからだのなかで溶け残っていたかたまりが、ゆっくりと水に溶けてゆくのを感じる。なぜだろう?わからない。わかるのは、ずいぶんと自分が遠回りをしてしまったということだ。
「木兎さんのことが、好きです」
とうとう俺は、そう口にしていた。
木兎さんは微笑した。そうして、俺の肩に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。俺も木兎さんの肩に腕を回す。と、俺の肩が熱いもので濡れ、
「ふえーん…っ!」
という木兎さんの声が、耳元でひびいた。
大きななりをした男がふたり、泣きながらお互いを抱きしめあっている。きっとはたから見たら、別れを惜しむ先輩と後輩に見えただろう。でも、それでもいい。それでいい。
*
よだかはしあわせになってしまった。もう空へはかえれない。
引用・参考文献
・宮沢賢治「よだかの星」(引用にあたり、適宜省略した箇所があります。)
・「cloud nine と seventh heaven」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/636283.htm
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
箱男
赤葦京治は箱をもっている。
宝箱、のような御大層なものではない。折り紙でできたちいさな箱。確か俺も小学校のときにはその作り方を知っていたような気がする――そういう箱だ。そういう箱にお似合いなのは、なにか、たあいもない大切なものを入れている、とか?でも俺は、赤葦がそれを、焼却炉に投げ込んでいるのを見てしまった。次の日にはあたらしい箱(前は赤で、新しいのは青だった)をポケットにつっこみ、飄々と部室にやってくる。
「なあ、それ何?」
赤葦と恋人になってまっさきに尋ねたのは(なんとなく、それまでは尋ねちゃいけないことのような気がしたのだ。俺にだってそのくらいのデリバリーはある、と言ったら、デリカシーです、と即座に赤葦に訂正された)そのことだった。
「その箱、なに?」
「ああ、これですか」
赤葦はちらり、と手のなかの箱に一瞥をくれると、満面に笑みを浮かべた。
「実は俺、折り紙が趣味で」
「嘘おっしゃい」
「ばれました?」
「わからいでか」
「そうですね……」
もう赤葦は満面の笑みを浮かべていない。ひとがふだんしない表情になるのは、なにかを隠そうとしているときだ。けれども、ふだんしない表情のそのあとに、そいつにお似合いのまなざしを「深めた」表情になったとしたならどうだろう?それはたぶん、ほんとうのことを言いたいとき。
赤葦は黄色い箱の蓋を開けると、だしぬけに、
「茂部(モブ)の馬鹿野郎!!」
もちろん俺はおどろいた。赤葦がそんなふうに声を荒らげるのはめったに聞いたことがないし、ましてや、その対象が――
「はい、おしまい」
あっさりと赤葦は、ふだんどおりの調子にもどって、蓋を閉める。ちらり、と見えたその箱のなかには、どうやら何も入っていないようで、
「え、え、え、ちょっと、さっぱり意味わからないんですけど!」
あせるように言う俺を、赤葦はくすくすと笑う。俺は胸に手をあて、一呼吸つくと、尋ねた。
「茂部ってあの、数学の?」
「はい。俺、数学苦手なんですよね」
「嫌いなの?」
「そんなこと、俺の口からは言えません」
「いや、でもあなた、今馬鹿野郎って……」
「木兎さん、オウィディウスの『変身物語』って知ってます?」
「は?」
赤葦の言いたいことがさっぱりわからない。俺は少々ふて腐れた声をあげる。
「知らないよ」
「じゃあ、『王様の耳はロバの耳』は?」
「それなら知ってる!井戸に向かって、床屋が、王様がじつはロバの耳をしてるんだってことを叫ぶ……」
と、そこまで口にして、ようやく合点がいった。
「あ、そういうこと?」
「ええ」
赤葦の手のなかで、黄色がハンカチーフのようにぐしゃりと捩れる。そうすると、赤葦のなかのなにかもいっしょに、ぐしゃりと捩れたようだった。
「世の中には口に出してはいけないことがいっぱいある。だけれども、世の中から井戸の数は減るばかり。だからひとは、手ずから井戸をこしらえなければならないんです――木兎さんもあるでしょ、井戸?ベッドの下とか、本棚のうしろとか」
「ちょ、それエロ本の隠し場所!」
俺は笑う。おかしくて、おかしくて、心の底からおかしかったからだ。そうして、赤葦の肩をつかむと、その唇にぎゅっと唇を寄せた。
「…あのさ、赤葦」
「はい?」
「言いたいことがあったら、なんでも俺に言いなさいね。赤葦のためなら、俺、いくらでも箱になるから」
もし赤葦が鳩だとしたら、俺のことばは豆鉄砲だったことになる。けれども、そこからゆっくりゆっくりと笑顔になると、赤葦は、それはそれはうれしそうな声で、はい、とうなずいた。
引用・参考文献:安部公房「箱男」
#兎赤
#二次創作
赤葦京治は箱をもっている。
宝箱、のような御大層なものではない。折り紙でできたちいさな箱。確か俺も小学校のときにはその作り方を知っていたような気がする――そういう箱だ。そういう箱にお似合いなのは、なにか、たあいもない大切なものを入れている、とか?でも俺は、赤葦がそれを、焼却炉に投げ込んでいるのを見てしまった。次の日にはあたらしい箱(前は赤で、新しいのは青だった)をポケットにつっこみ、飄々と部室にやってくる。
「なあ、それ何?」
赤葦と恋人になってまっさきに尋ねたのは(なんとなく、それまでは尋ねちゃいけないことのような気がしたのだ。俺にだってそのくらいのデリバリーはある、と言ったら、デリカシーです、と即座に赤葦に訂正された)そのことだった。
「その箱、なに?」
「ああ、これですか」
赤葦はちらり、と手のなかの箱に一瞥をくれると、満面に笑みを浮かべた。
「実は俺、折り紙が趣味で」
「嘘おっしゃい」
「ばれました?」
「わからいでか」
「そうですね……」
もう赤葦は満面の笑みを浮かべていない。ひとがふだんしない表情になるのは、なにかを隠そうとしているときだ。けれども、ふだんしない表情のそのあとに、そいつにお似合いのまなざしを「深めた」表情になったとしたならどうだろう?それはたぶん、ほんとうのことを言いたいとき。
赤葦は黄色い箱の蓋を開けると、だしぬけに、
「茂部(モブ)の馬鹿野郎!!」
もちろん俺はおどろいた。赤葦がそんなふうに声を荒らげるのはめったに聞いたことがないし、ましてや、その対象が――
「はい、おしまい」
あっさりと赤葦は、ふだんどおりの調子にもどって、蓋を閉める。ちらり、と見えたその箱のなかには、どうやら何も入っていないようで、
「え、え、え、ちょっと、さっぱり意味わからないんですけど!」
あせるように言う俺を、赤葦はくすくすと笑う。俺は胸に手をあて、一呼吸つくと、尋ねた。
「茂部ってあの、数学の?」
「はい。俺、数学苦手なんですよね」
「嫌いなの?」
「そんなこと、俺の口からは言えません」
「いや、でもあなた、今馬鹿野郎って……」
「木兎さん、オウィディウスの『変身物語』って知ってます?」
「は?」
赤葦の言いたいことがさっぱりわからない。俺は少々ふて腐れた声をあげる。
「知らないよ」
「じゃあ、『王様の耳はロバの耳』は?」
「それなら知ってる!井戸に向かって、床屋が、王様がじつはロバの耳をしてるんだってことを叫ぶ……」
と、そこまで口にして、ようやく合点がいった。
「あ、そういうこと?」
「ええ」
赤葦の手のなかで、黄色がハンカチーフのようにぐしゃりと捩れる。そうすると、赤葦のなかのなにかもいっしょに、ぐしゃりと捩れたようだった。
「世の中には口に出してはいけないことがいっぱいある。だけれども、世の中から井戸の数は減るばかり。だからひとは、手ずから井戸をこしらえなければならないんです――木兎さんもあるでしょ、井戸?ベッドの下とか、本棚のうしろとか」
「ちょ、それエロ本の隠し場所!」
俺は笑う。おかしくて、おかしくて、心の底からおかしかったからだ。そうして、赤葦の肩をつかむと、その唇にぎゅっと唇を寄せた。
「…あのさ、赤葦」
「はい?」
「言いたいことがあったら、なんでも俺に言いなさいね。赤葦のためなら、俺、いくらでも箱になるから」
もし赤葦が鳩だとしたら、俺のことばは豆鉄砲だったことになる。けれども、そこからゆっくりゆっくりと笑顔になると、赤葦は、それはそれはうれしそうな声で、はい、とうなずいた。
引用・参考文献:安部公房「箱男」
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
ダークマター零度
・暗黒物質 dark matter
宇宙に存在するとされているが、未発見の物質。
ダークマターの量は星などの見える天体の総和の10倍以上あると推定されている。
(『宇宙用語辞典』
http://www.ku-ma.or.jp/tpsj/yougo.html
)
実家に帰らせてください、と俺が切り出すと、案の定木兎さんは、食べかけていたアメリカンドッグを膝に落とした。ああ、ケチャップがしみになる。でも、そんなのは、木兎さんがアメリカンドッグを食べているときに、こんな話を切り出したほうが(俺に限らず)悪いのである。
「なんでなんで!俺なんかした、赤葦?」
すぐにそう言って、木兎さんは身を乗り出してきた。木兎さんと話をすると、たいがいいつのまにか顔が近づいている。せめて、薄切りの、ではなく、かたまりのベーコンくらいの距離はお互いのあいだには欲しい――というのが、俺の意見だけれども、それが実家に帰る表向きの理由ではない。
表向きの理由はこうだ。
「実は、姉が結婚してイギリスに行くことになって……明日は実家にいるらしいんで、一度顔を見ておこうかと」
俺がそう言うと、木兎さんはきょとんとした顔をした。それからすぐに、あーあーあー、と得心がいった梟のような声をあげた。
「実家に帰るってそういうことか!」
「ほかに何があるんです?」
俺のそらっとぼけをひょいと躱して、木兎さんは言う。
「なんだー、びっくりした、びっくりした!一瞬俺、別れ話切り出されてるのかと思ったよ」
もちろん俺が、あえて単刀直入に切り出したのは、そういう含みをもたせてのことである。けれども俺は、あくまで白を切る。
「違います」
「そっかー、都古(みやこ)さんが結婚か……」
そう言うと木兎さんは一瞬沈黙した。凹むのかな、と思った。結婚できない番(つがい)であることの、さみしさとかむなしさみたいな――でも、木兎さんは、俺の予想に反して、いきなりその場で天井に頭をぶつけそうなくらい飛びあがる(また階下(した)のひとから苦情がくるかもしれない)と、あっけにとられている俺に向かってニカッと笑い、Vサインをつきつけてきた。
「おめでとうって、伝えといて。あ、なんかお祝いとか買ったほうがいいかな?」
「そんな気を遣わないでいいですし、そんな時間ももうないです」
「そっかー」
そういうわけで俺はいま、実家へと向かう列車に乗っている。最寄りの駅にももう、ほどなくして着くだろう。
姉が結婚する。実家に帰る表向きの理由は、確かにそれだった。でも、それにかこつけて、木兎さんと距離をおきたい、という気持ちがなかった、と言ったら、俺はジム・ブリッジャー並みの駄法螺吹きだ。
一冊のメモ帳を肌身離さずもっている。それは、木兎さんについてのメモ帳で、そこには、左綴じで木兎さんの好きなものを、右綴じで嫌いなものや苦手なものを羅列してあるものである。「ホウレンソウ/切手を貼るとき唾で甞めること/すぐに印字が掠れてしまうレシート」、こんなぐあいに。問題は、もうすぐページが終わりそうだというのに、いまだに書き記すべきことは尽きない、ということだ。
この恋がはじまったときに、俺は、すぐにでも自分はこんな恥ずかしいことに飽きがくるか、あるいは、木兎さんに見つかって、「ちょ、やめろよ赤葦~」と強制終了になるかのどちらかだと思っていた。でも、いまだにこのメモ帳を俺は持っているし、書きつづけているし、木兎さんにその存在を察せられたような気配はない。
「ただいま」
「おかえりー、キョウ!」
母と似た声をしているけれども、それが姉であることが、俺にはすぐに分かる。俺の名前はケイジだけれども、家族のうちで姉だけは、俺のことをキョウと呼ぶ。
木兎さんにもうひとつ言わなかったことがある。それは、姉のお腹のおおきさに関することだ。
「男?女?」
靴を脱ぎながら俺は尋ねる。
「女の子」
「名前とかもう決めたの?」
「候補はいくつか。でもねー、なんといってもやっぱり顔を見ないと決められないかなって」
「キラキラネーム?」
「ばか」
俺は姉のお腹を、はりねずみを撫でるように撫でながら、
「妊娠するのって、こわくなかった?」
「こわい?なんで?」
なんで、とあからさまな当惑まじりに改めて問われると、うまく俺には返事ができなかった。これから先の、おおよそ二十年以上にわたる自分の運命を自分で決定づけてしまうこと、とか、あつかいの難しいちいさなこわれものをこしらえてしまうこと、とか、もっともらしい理由はいくつかあったが、でも、なんだかそれよりももっとずっと、自分には恐れていることがあるような気がした。
かわりに俺は、こう訊いた。
「旦那さんのどこを好きになったの?」
「えー、なになにキョウ?急に恥ずかしいな」
そう照れながらも、
「やさしくておだやかなところかなあ、一緒にいて落ち着くんだよね」
ごくり、と俺は唾を飲み込んだ。けれども、俺が訊きたいひとことは、唾といっしょにのどの奥には流れてくれなかった。仕方なく、ことばを慎重に選びながら、俺はその質問を口に出す。
「もし――もしもだよ、旦那さんがほんとうはそんなひとじゃなかったらどうする?」
「えー、そんなわけないじゃん。だってもう十年いっしょにいるんだよ?幸信のことは、あたしが誰より知ってるって」
言下に否定されると、それ以上追及しようという気もなくなってしまう。黙りこくった俺を慰めるように、それよりキョウ、と、姉は俺の手首をにぎりしめた。
「くす玉、ってあるじゃん?折り紙の。あんた、得意だったよねえ。つくりかた教えてくれない?」
「え?」
思わず俺は、姉をまじまじと見つめた。
「それ、教えてくれたのねえちゃんじゃなかった?」
「あたし?違うよ」
姉は眉をひそめ、親指を、いまにも噛みそうに唇に押し当てる。俺の方はというと――ふいに、ではない、はじめからそうだった――どんどん、みるみるうちに、姉がなんだか知らないひとになっていくように思えて、わずかに慄然とした
*
泊まっていけという家族の声を課題があるからと躱し、終電ぎりぎりの電車に飛び乗った。実家は駅からほど近いけれども、俺たちのアパートはバスに乗らないと、とてもじゃないけどたどりつけない。前から四列目のシートに腰をおろし、リュックサックに顔を埋める。
俺は家族を愛していないのだろうか?木兎さんのことを?もちろん違う、と思いたい。ではなぜ、こんなにも知らないことがあるのだろう。いまさら、一冊のメモ帳を埋め尽くすほどの。好きなのに、どうしてだれよりも知り尽くしていると言えないのだろう?
なんだか自分がひどく偽善的ないきものになった気がして、悶々と考え込んでいた俺は、バスの停車ボタンを押すのを忘れてしまった。しんせつな誰かが押してくれていて、はっと気が付いた俺は、あわてて椅子から立ち上がり、バスを駈け下りる。
「あれ、もう帰ってきたんだ?」
家の鍵を開けると、木兎さんはちょうど風呂から出たところのようで、ボクサーブリーフ一枚、という恰好だった。
「……すみません」
「?なんで謝るの?」
ゆっくりしてくればよかったのにぃ、と言いながら、木兎さんは頭にボールでも載せているみたいにふらふらと歩く。肩に巻いたタオルで顔の水滴をぬぐうその姿をみたとき、急に俺のなかにこらえきれないものがこみあげてきた。
「あ、赤葦サン!?」
「俺、木兎さんのこと、ちっとも知らないんです」
木兎さんの腰を摑んでいる腕を、ぎゅっと自分のほうに引き寄せる。
「知らないのに好きでいて、いいですか?」
木兎さんの腹が凹んでは凸(ふく)らむ。やがて、そのなかからか細い声が聞こえてきた。
「い、イイデス…」
「ほんとに?」
「つーかさ、なんでそんなこと聞くの?」
木兎さんは身をよじると、一瞬オレの腕のなかから離れ、ふりかえって俺の肩をぎゅっとおさえながら言った。
「自分のことだって百パーセントなんてわからないのに、他人のことなんて、ぜんぜん、わからないほうが多いでしょ」
他人、ということばが、まるでチョークのように俺のなかの黒板に書きつけられる。黒板消しではなく、てのひらでゆっくりとそれを消すようにしながら、
「でも、好きなのにわからないなんて、変じゃないですか」
と、俺が反駁すると、木兎さんはゆっくりと眉をひそめ、まーた赤葦はむずかしいことを考えて、と、俺から目を逸らした。が、すぐにニカッと笑うと、俺の肩をばんばんたたいた。
「宇宙ってさ、ダークマターっていう、なんだか得体のしれない物質が、全体の十分の一をいまのところ占めてるんだってさ」
「……知ってます」
「それでもさ、宇宙に行くだろ?それって、にんげんが大切にしているのは、『いま』わかってるかどうかじゃなくて、『これから』わかっていきたいって思う気持ちだってことじゃねーのかな」
そう言って木兎さんは、微笑を浮かべる寸前、少しふてくされたような顔をした。その顔を見て、俺は、矢庭に思ったのだ。はやく、二冊目のメモ帳を買いに行かないと、と。
*
ダークマターが俺のなかいっぱいに入ってくる。
このひとのからだやこころにあるつめたい光らないものまで、あまさず自分は呑み込むのだ、と思う。
#兎赤
#二次創作
・暗黒物質 dark matter
宇宙に存在するとされているが、未発見の物質。
ダークマターの量は星などの見える天体の総和の10倍以上あると推定されている。
(『宇宙用語辞典』
http://www.ku-ma.or.jp/tpsj/yougo.html
)
実家に帰らせてください、と俺が切り出すと、案の定木兎さんは、食べかけていたアメリカンドッグを膝に落とした。ああ、ケチャップがしみになる。でも、そんなのは、木兎さんがアメリカンドッグを食べているときに、こんな話を切り出したほうが(俺に限らず)悪いのである。
「なんでなんで!俺なんかした、赤葦?」
すぐにそう言って、木兎さんは身を乗り出してきた。木兎さんと話をすると、たいがいいつのまにか顔が近づいている。せめて、薄切りの、ではなく、かたまりのベーコンくらいの距離はお互いのあいだには欲しい――というのが、俺の意見だけれども、それが実家に帰る表向きの理由ではない。
表向きの理由はこうだ。
「実は、姉が結婚してイギリスに行くことになって……明日は実家にいるらしいんで、一度顔を見ておこうかと」
俺がそう言うと、木兎さんはきょとんとした顔をした。それからすぐに、あーあーあー、と得心がいった梟のような声をあげた。
「実家に帰るってそういうことか!」
「ほかに何があるんです?」
俺のそらっとぼけをひょいと躱して、木兎さんは言う。
「なんだー、びっくりした、びっくりした!一瞬俺、別れ話切り出されてるのかと思ったよ」
もちろん俺が、あえて単刀直入に切り出したのは、そういう含みをもたせてのことである。けれども俺は、あくまで白を切る。
「違います」
「そっかー、都古(みやこ)さんが結婚か……」
そう言うと木兎さんは一瞬沈黙した。凹むのかな、と思った。結婚できない番(つがい)であることの、さみしさとかむなしさみたいな――でも、木兎さんは、俺の予想に反して、いきなりその場で天井に頭をぶつけそうなくらい飛びあがる(また階下(した)のひとから苦情がくるかもしれない)と、あっけにとられている俺に向かってニカッと笑い、Vサインをつきつけてきた。
「おめでとうって、伝えといて。あ、なんかお祝いとか買ったほうがいいかな?」
「そんな気を遣わないでいいですし、そんな時間ももうないです」
「そっかー」
そういうわけで俺はいま、実家へと向かう列車に乗っている。最寄りの駅にももう、ほどなくして着くだろう。
姉が結婚する。実家に帰る表向きの理由は、確かにそれだった。でも、それにかこつけて、木兎さんと距離をおきたい、という気持ちがなかった、と言ったら、俺はジム・ブリッジャー並みの駄法螺吹きだ。
一冊のメモ帳を肌身離さずもっている。それは、木兎さんについてのメモ帳で、そこには、左綴じで木兎さんの好きなものを、右綴じで嫌いなものや苦手なものを羅列してあるものである。「ホウレンソウ/切手を貼るとき唾で甞めること/すぐに印字が掠れてしまうレシート」、こんなぐあいに。問題は、もうすぐページが終わりそうだというのに、いまだに書き記すべきことは尽きない、ということだ。
この恋がはじまったときに、俺は、すぐにでも自分はこんな恥ずかしいことに飽きがくるか、あるいは、木兎さんに見つかって、「ちょ、やめろよ赤葦~」と強制終了になるかのどちらかだと思っていた。でも、いまだにこのメモ帳を俺は持っているし、書きつづけているし、木兎さんにその存在を察せられたような気配はない。
「ただいま」
「おかえりー、キョウ!」
母と似た声をしているけれども、それが姉であることが、俺にはすぐに分かる。俺の名前はケイジだけれども、家族のうちで姉だけは、俺のことをキョウと呼ぶ。
木兎さんにもうひとつ言わなかったことがある。それは、姉のお腹のおおきさに関することだ。
「男?女?」
靴を脱ぎながら俺は尋ねる。
「女の子」
「名前とかもう決めたの?」
「候補はいくつか。でもねー、なんといってもやっぱり顔を見ないと決められないかなって」
「キラキラネーム?」
「ばか」
俺は姉のお腹を、はりねずみを撫でるように撫でながら、
「妊娠するのって、こわくなかった?」
「こわい?なんで?」
なんで、とあからさまな当惑まじりに改めて問われると、うまく俺には返事ができなかった。これから先の、おおよそ二十年以上にわたる自分の運命を自分で決定づけてしまうこと、とか、あつかいの難しいちいさなこわれものをこしらえてしまうこと、とか、もっともらしい理由はいくつかあったが、でも、なんだかそれよりももっとずっと、自分には恐れていることがあるような気がした。
かわりに俺は、こう訊いた。
「旦那さんのどこを好きになったの?」
「えー、なになにキョウ?急に恥ずかしいな」
そう照れながらも、
「やさしくておだやかなところかなあ、一緒にいて落ち着くんだよね」
ごくり、と俺は唾を飲み込んだ。けれども、俺が訊きたいひとことは、唾といっしょにのどの奥には流れてくれなかった。仕方なく、ことばを慎重に選びながら、俺はその質問を口に出す。
「もし――もしもだよ、旦那さんがほんとうはそんなひとじゃなかったらどうする?」
「えー、そんなわけないじゃん。だってもう十年いっしょにいるんだよ?幸信のことは、あたしが誰より知ってるって」
言下に否定されると、それ以上追及しようという気もなくなってしまう。黙りこくった俺を慰めるように、それよりキョウ、と、姉は俺の手首をにぎりしめた。
「くす玉、ってあるじゃん?折り紙の。あんた、得意だったよねえ。つくりかた教えてくれない?」
「え?」
思わず俺は、姉をまじまじと見つめた。
「それ、教えてくれたのねえちゃんじゃなかった?」
「あたし?違うよ」
姉は眉をひそめ、親指を、いまにも噛みそうに唇に押し当てる。俺の方はというと――ふいに、ではない、はじめからそうだった――どんどん、みるみるうちに、姉がなんだか知らないひとになっていくように思えて、わずかに慄然とした
*
泊まっていけという家族の声を課題があるからと躱し、終電ぎりぎりの電車に飛び乗った。実家は駅からほど近いけれども、俺たちのアパートはバスに乗らないと、とてもじゃないけどたどりつけない。前から四列目のシートに腰をおろし、リュックサックに顔を埋める。
俺は家族を愛していないのだろうか?木兎さんのことを?もちろん違う、と思いたい。ではなぜ、こんなにも知らないことがあるのだろう。いまさら、一冊のメモ帳を埋め尽くすほどの。好きなのに、どうしてだれよりも知り尽くしていると言えないのだろう?
なんだか自分がひどく偽善的ないきものになった気がして、悶々と考え込んでいた俺は、バスの停車ボタンを押すのを忘れてしまった。しんせつな誰かが押してくれていて、はっと気が付いた俺は、あわてて椅子から立ち上がり、バスを駈け下りる。
「あれ、もう帰ってきたんだ?」
家の鍵を開けると、木兎さんはちょうど風呂から出たところのようで、ボクサーブリーフ一枚、という恰好だった。
「……すみません」
「?なんで謝るの?」
ゆっくりしてくればよかったのにぃ、と言いながら、木兎さんは頭にボールでも載せているみたいにふらふらと歩く。肩に巻いたタオルで顔の水滴をぬぐうその姿をみたとき、急に俺のなかにこらえきれないものがこみあげてきた。
「あ、赤葦サン!?」
「俺、木兎さんのこと、ちっとも知らないんです」
木兎さんの腰を摑んでいる腕を、ぎゅっと自分のほうに引き寄せる。
「知らないのに好きでいて、いいですか?」
木兎さんの腹が凹んでは凸(ふく)らむ。やがて、そのなかからか細い声が聞こえてきた。
「い、イイデス…」
「ほんとに?」
「つーかさ、なんでそんなこと聞くの?」
木兎さんは身をよじると、一瞬オレの腕のなかから離れ、ふりかえって俺の肩をぎゅっとおさえながら言った。
「自分のことだって百パーセントなんてわからないのに、他人のことなんて、ぜんぜん、わからないほうが多いでしょ」
他人、ということばが、まるでチョークのように俺のなかの黒板に書きつけられる。黒板消しではなく、てのひらでゆっくりとそれを消すようにしながら、
「でも、好きなのにわからないなんて、変じゃないですか」
と、俺が反駁すると、木兎さんはゆっくりと眉をひそめ、まーた赤葦はむずかしいことを考えて、と、俺から目を逸らした。が、すぐにニカッと笑うと、俺の肩をばんばんたたいた。
「宇宙ってさ、ダークマターっていう、なんだか得体のしれない物質が、全体の十分の一をいまのところ占めてるんだってさ」
「……知ってます」
「それでもさ、宇宙に行くだろ?それって、にんげんが大切にしているのは、『いま』わかってるかどうかじゃなくて、『これから』わかっていきたいって思う気持ちだってことじゃねーのかな」
そう言って木兎さんは、微笑を浮かべる寸前、少しふてくされたような顔をした。その顔を見て、俺は、矢庭に思ったのだ。はやく、二冊目のメモ帳を買いに行かないと、と。
*
ダークマターが俺のなかいっぱいに入ってくる。
このひとのからだやこころにあるつめたい光らないものまで、あまさず自分は呑み込むのだ、と思う。
#兎赤
#二次創作
ヒノキ/e_h_n_k_
<
1
>
Copyright(C) 2010-
Pipa.jp Ltd.
カテゴリタグ(マイタグ)・コマンドタグをはじめとした各種機能は特許出願中です. 当サイトの各種技術・コンセプト・デザイン・商標等は特許法、著作権法、不正競争防止法等を始めとした各種法律により保護されています。
利用規約
ガイドライン
プライバシーポリシー
公式Twitter
お問い合わせ(要ログイン)
スマートフォン版
日本語
English
手書きブログ
GALLERIA
ポイピク