さよならをうたうための序章一日目
肌寒い空気に体を震わせて、しんと眠りについている廊下を歩く。歴史を感じさせる焦げ茶色の木々が家を支える柱になっている。壁もまた、くすんでいて時間の経過を感じさせた。
今、この屋敷に住んでいるのはアーサー、一人だけだった。家族である長女モルガンと父、ウーサーはで死亡。この家に引き取られる前に家族だった人々もすでにこの世にはいない。
家の子であったとウーサーの遺言が出て来たため、反対する親族を納得させて、アーサーは魔術師の家系であるペンドラゴン家の当主についた。元々、英国から冬木の大聖杯の研究をするために移住してきた魔術師だ。しかし、分家の多くがイギリスに拠点を置いており、結婚相手も向こうで見つけることが多い。なので、日本人というよりも英国の特徴が現れている。この家の血を引いているアーサーもそうだ。
アーサーは冷たい水で顔を洗って、鏡を見る。完全には青年になりきれていない英国人男性の顔が鏡に映っているだけだ。
(僕はこんな顔だったっけか……?)
顎を擦り、自分の輪郭を確かめるように顔を擦ったが、確かに自分の顔だと再認識するだけ。寝起きでぼんやりとしているのだろうと、キッチンへ向かった。
アーサーは冷蔵庫の中身を見て、何が作れるかを考える。卵を3つ、厚切りベーコンを一ブロック、野菜を取り出した。作る献立はスープとオムレツとサラダとフランスパン。
朝練がないので、朝食はいつもより少なくても大丈夫だ。あまり、食べ過ぎると食費だけで生活費や研究費を食いつぶしてしまいかねないので、残された資金相談が必要だった。
大きめに材料を切り、鍋に入れて似ている間にオムレツを作ってしまう。
二つ皿を取り出そうとして、手を止めた。
(片方はベーコンを少なめに……って、ああ、今はもう一人なんだけ……いい加減この癖を直さなきゃな……)
苦笑しながら一枚の皿を元に戻して、自分の皿にオムレツを盛る。
黒猫の顔が書かれたカップを手に取って、お茶を淹れて、食事を始める。味気なさを感じるが、いつものことだ。ケイやエクターと共にいた頃はよく彼らと取っていたがウーサーに養子として引き取られてから、一度も彼らと食事をしたことはないので、一人の食卓には慣れた。
義務的な食事という行動を済ませて、鞄と竹刀を持って家を出る。今日は朝練があり、主将であり部長でもあるので、遅刻をするわけにはいかない。ましてや、最近は新都のほうでガス漏れ事故のため人が倒れている事件が立て続けに起きているため、帰宅時間を早められて、練習する時間が取れなくなってきている。
(そろそろ、僕もサーヴァントを呼ぶべきなのだろう)
その事件が聖杯戦争によって、呼ばれたサーヴァントの仕業である可能性が高い。だったら、それを止めるためにも自分も参加を早めるべきだと思った。
学校に到着すると人はまだまばらで、朝練する生徒たちがいるくらいだ。部活の準備を始めているところもある。特に変わったところはなく、危険は何もないとひとまず安心して、道場に向かい、アーサーは歩き出した。
道場にはまだ、誰もいなかったので、道着に着替えて、軽く運動をしてから、竹刀で素振りを始めた。
本来ならば魔術師として必要のないものだが科学技術が変化し、魔術師ありようも変革を迫られているというのを建前に、気分転換にとケイが薦めてきたのだ。自分にあっていたようで、魔術を研鑽する間に気分転換を兼ねて続けていた。
(ケイだけでなく、アンブロシウスにも稽古をつけてもらったような気がする)
後見人の男の顔を思い出して、アーサーはくすりと笑った。今頃、何をしているのだろうか。
(……竹刀が軽い)
最近は、練習のせいかもあって、筋力がついてきたのだろう。竹刀の重さが軽いと感じるようになっていた。
「おはようございます。アーサー部長。今日も早いですね」
「ああ、おはよう。アルトリア副部長」
アーサーが素振りをしていると、副部長のアルトリアが道場へ入ってきた。 アルトリアはアーサーと同学年で別のクラスだったが、剣道部の部室で初めて出会ったとき、兄妹と間違われるくらいには似ていた。養子だったことも、同じだった。
部長の推薦すらどっちがなるかで部員が半々にわかれてしまったときにはお互い顔を見合わせたものだった。そして、アーサーが部長なのもアルトリアが副部長なのは、最終的にじゃんけんで決めることになった結果だからだ。
アルトリアと共に素振りをしながら、朝練開始まで待った。
朝練が終わり、予鈴の少し前に教室に行く。窓側の席にアーサーの席はある。席に鞄を置いて、席につく。ざわざわとしたクラスメイトたち、愛すべき平穏なのに何かが足りないと思うのは贅沢なのだろうかとアーサーは頬杖をつきながら、教室の様子を見守っていた。
「えーここは過去形になるのよ。間違えないでね」
明るい大きな声が教室中に響く。英語担当の藤村大河は活発で明るい女性だが、時々困った癖が出るが良い先生であるとアーサーは思っている。アルトリアのクラスの担任教師で、よく、アルトリアの家に遊びに行っているらしい。
(遊びにというより、襲撃らしいが……。確かに虎の着ぐるみが合いそうだ)
失礼なことが頭の端をよぎった気がするが、アーサーはいつも通り授業をこなした。予習して来たところなので、戸惑う箇所もなく、ノートを丁寧に取る。窓の外からは体育の授業をしている生徒たちの声が聞こえた。平和そのものである風景に安心と寂しさを覚えながら、アーサーは窓の外に視線を向けて、すぐに戻した。
授業が終わって、帰宅準備を始める。今日は部活が休みだ。聖杯戦争に参加する合間はあまり、近寄らないほうがいいだろうとアルトリアにぼかしながらも事情を話して、しばらく参加出来ないことを伝えた。アルトリアは珍しいですねと驚いていたが、アーサーの雰囲気から察して余計なことは聞かなかった。彼女が副部長でよかったとアーサーは感謝し、顧問の先生にも伝えたので、問題はないだろう。
アーサーは帰宅したあとの予定を思い描きながら、教室を出た。
長い廊下の向こうから一人の女子学生がきょろきょろと周囲を見回しながら、アーサーの元へ歩いて来る。
「アーサー、マシュ見なかった?」
アーサーと比較的、仲がいい女子学生、藤丸立香がいた。燃えるような夕日のような髪と強い意志を秘めた目が特徴的な女の子。いつの間にか人の心にするりと入ってくるのが得意な子でよく色々な人と話している。一年のときは同じクラスだったが、二年では別のクラスになってしまったが、こうして、親しげに話かけてくるところは変わらない。
「いいや、見てないな。今、ホームルームが終わってすぐなんだ。探すの手伝おうか?」
「ううん、待ち合わせ場所決めてるし。出来るなら、早めに会いたかったから、知ってたらいいなって程度で聞いただけ。じゃあね、アーサー」
「さよなら。立香」
仲のいい後輩を探す立香を見送って、アーサーは剣道場へ向かった。彼女の背中を見て、眩しくもあり、悲しいものを見るような不思議な気持ちを心の端に残したまま。
家に帰宅すると、その瞬間を見計らったようにじりりりりと電話がなった。アーサーは古びた型のアンティークな電話の受話器を取って、耳に当てる。自分に似た声で陽気な挨拶が聞こえて来た。
『やあやあ、元気かい? アーサー。ずいぶんとこんがらがって面白いことになってるようだね。うんうん、恋する女の子は実に偉大だ。でも、とある小説家が言ったら三文劇だと悪態をつきそうだけどね。僕も近くで見たいんだけど、どうやら、そちらへ行くのはやっぱり、無理そうだから、こっちから応援してるよ』
「アンブロシウス。これから、聖杯戦争が始まるから、こちらにくると危ないよ。すでにこっちではその予兆がある」
『……ああ、そうだね。そういえば、その家に温室があったはずだ。そこを拠点するといい。それじゃあね。また近いうちに、会おう』
一方的に喋って、アンブロシウスはがちゃんと電話を切った。アーサーは慌ただしいアンブロシウスに苦笑する。会おうというのも珍しい。
(だって、少し前に……いや、会ったのはかなり前か……)
世界中を飛び回っているはずの魔術師であり、アーサーの現在の後見人だ。人を振り回すのが得意でありながらも、時に母親や父親のようにアーサーを教育した。現在はロンドンにいる。いつ、帰ってくるのかわからないが、ひょっこりと顔を出すのだろう。
アーサーは部屋に戻り、屋敷の鍵と儀式用の道具を持って、階段を降りてアンブロシウスに言われた温室を見に行こうと思った。アーサーの記憶の中ではあそこはこの地を買ったときからあって、何らかの術がかかっているのか、下手に壊したり出来ずに、鍵があっても錠が錆びてて奥まで入らないのか。鍵かかったままなので、中に入ることすら出来ないので放置されていた。きっと、中は手入れがされておらず、蔦や木々が伸びっぱなしで荒れていたはずだ。
アーサーが裏口のドアを開けようとした途端、ぴりっと、肌に電流が走り抜ける。結界が破られたことを感知した。
(泥棒というわけでもなさそうだ。奇襲? ……まだ、人数が揃っていないし、僕が聖杯戦争に出ることはまだ知られていないはずだ。考えられるのは、魔術師の魂食い目的か)
感知した方向は西のほうだ。自分の魔術工房に行けば、鉢合わせる可能性が高い。それだったら、このまま、温室で儀式をしてしまったほうがいい。幸い、トランクは手に持っていた。それに庭園の脇を駆け抜ければ人が少ない路地に面している。いざとなれば、逃げることが出来るようになっているが、残された記録を見るかぎりサーヴァント相手に難しいだろう。
アーサーは裏口から温室の入り口へ出ようとした瞬間、ぎゅっと心臓を掴まれるような違和感を感じ、体を傾けさせて、後ろに飛んだ。
「……人の家に上がるときぐらい、呼び鈴くらい鳴らしたらどうだい? ずいぶんと、礼儀の無いお客様のようだ」
「どうして、気づいた? ちゃんと、気配は遮断していたのに」
褐色をした白い髑髏の仮面を被った少女が天井の影の中からすっと現れる。しなやかな体を持ち、音もなく現れる様子はまるで、死神のようだった。
彼女と相対した瞬間、一瞬で彼女が相当な手だれであり、アーサーは時間稼ぎすら許しては貰えなさそうだと直感した。
「けれども、大丈夫。次はちゃんと外さない」
クナイのようなナイフを両手に持ち、死神が投げようとした瞬間、魔術を発動させ、更に後ろに後退したが、攻撃を避けることに必死になりすぎて、後ろには閉じられた庭園の扉があることを忘れていた。
(扉が!! くっ!!)
アーサーが扉に激突した瞬間、錠ががちゃりと空いて、体が中に転がる。雑草がクッションの役割を果たしてくれて、強く体を叩き付けられずに済んだこと幸運だった。そして、開かなかったはずの錠が開いたことも、ちょうど、誰が残したのかわからない魔法陣が残っていたことも。サーヴァントに追われている今のアーサーには、出来すぎた幸運だったことに気づかない。
壊れた扉に魔力を通して、光の剣を何本も差して檻のように入り口を塞いだ。少しは持ってくれと祈りながらアーサーは呪文の詠唱を始める。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出て、王国に至る三叉路は循環せよ」
静かに魔法陣が呼応し、赤い光が線の上を走り始めた。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
かんかんと外から、扉を破ろうとする音が鳴り始める。
「————Anfang」
じわりと熱くなった体の中のから魔力が失われていく。
「————告げる」
ばちっという扉が破られる音がして。
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うなら応えよ」
かさりと侵入者が足を踏み入れる音がして。
「近いを此処…」
「させない」
ひゅっと風を切る音と死神の死刑宣告が下された。
(間に合わなかったか!)
詠唱の途中で、目を閉じた瞬間、まばゆいほどの光がアーサーから溢れ、庭園を包んだ。わずか数秒のことだったが、アーサーの感覚ではそれよりも長くに感じられた。
まばゆい光の中から白いローブをきた女性が、アーサーの元にふわりと舞い降りた。色とりどりの花びらが舞う中で自分の元に舞い降りた彼女は妖精のように見え、呼吸が止まった。
濡れ羽色の艶のある背中で切りそろえられた髪。晴れた海の底を切り取った色の瞳。整った大人の女性の顔立ち。その瞳に自分が映し出されたことにアーサーは魂が震えたような気がした。
「あなたが私のマスターですか?」
落ち着いた声がアーサーに向けられる。その声を聞いた瞬間、色々な感情が胸から溢れ出てきた。
「……×××」
胸から溢れた思いが、口から出たが言葉は音にならず、何かにかき消されて消えた。けれども、彼女はアーサーの姿を見て、音にすらならなかった言葉を拾ったようで、愛おしむような困った子供をみるような微笑みを讃える。
「私はキャスター。あなたを護るサーヴァントです」
ローブの女性。キャスターは太陽の日差しのように穏やかに笑って、そう告げた。
キャスターと名乗った彼女との邂逅は永遠にも似た一瞬だった。しかし、そんな空気も現状の状況が許してはくれなかった。
「詳しいことは後でみたいですね」
キャスターと名乗ったローブの女性は温室のドアのほうに向かって視線を向けた。風圧で吹き飛んだ死神が起き上がって、召喚されたサーヴァントを観察しているようだった。アーサーは彼女を召喚したことで、一瞬、状況を忘れかけたがまだ、自分の危機は去っていないのだ。
「少し後ろに下がってて」
「けど……君は」
「大丈夫です。貴方のサーヴァントだもの」
「そういうことじゃ…!」
心配するアーサーを宥めるようにキャスターは笑う。そして、天に向かって伸びる木のような杖を横に凪ぐように振るって、剣に変えて死神が投げたナイフを全て撃ち落とす。ナイフは地面にちらばり、キャスターはナイフを落ちたナイフを見て相手が目くらましに投げたことに気づく。
「しかし、こういうことは、あんまり得意じゃないんだけどね……」
ふぅと小さくため息をつき憂鬱な様子だが、彼女は警戒し戦う姿勢を崩さない。彼女の後ろ姿を見ながら、アーサーはなんだかもどかしい気持ちになる。自分は魔術師であり、サーヴァントを戦わせるのが聖杯戦争という魔術儀式だ。それになのに、彼女に自分はこうして守られているのだろうと言う矛盾した気持ちがよぎり、アーサーはぎゅっと拳を握った。
「その姿と、気配の消し方。アサシンのサーヴァントですか」
「……」
無言を肯定と取ったのか、キャスターは言葉を続けた。
「ここは一旦、引いてくれませんか? 貴方には分が悪いでしょ?」
「撤退の命は受けていない」
アサシンはナイフを構え直す。
「簡単に引いてくれるとは思ってなかったけどね。それなら、こっちもやるしかないか」
キャスターは杖を構え直して、アサシンと対峙する。お互いが少しでも動けば、戦いの火ぶたが切って落とされる。息をつくことが出来ぬほどの張りつめた空気を壊すのはどちらかなだけだ。
それをやぶったのは意外にも、キャスターだった。
「capture」
杖をこんと軽く地面に叩き付ける。魔術を行使するにはあまりにも短い動作。地面の植物が蠢いて、生き物ようにアサシンに襲いかかる。アサシンは素早い身のこなしで、踊るように己の肉体を捉えようとする植物を避けて、キャスターの元へ近づいてくる。
「al…ぐっ!!」
キャスターの口が動き始めた瞬間、彼女の元へナイフが飛んで頬をかする。アーサーはキャスターの詠唱が一瞬、遅れたように見えた。すっと一筋の赤い筋が出来て、最初は一つだった深紅の玉が連なってくっつく。
「そんな体で勝てると思うのか?」
懐に入ったアサシンはキャスターの喉元に向かって、刃を突き立てようとするが、キャスターは杖を思い切り、腕に叩き付けた。あまりも雑な動作にアーサーは驚いた。
「ぐっ!!」
雑な攻撃も計算に入れてのことだったのか、青々とした蔦がアサシンの足に絡み付き、太い木へ叩き付ける。アサシンの軽そうな体は木の幹からずるりと地面に落ちた。
「まだ、やります?」
アサシンはキャスターの問いかけに答えず、一瞬、虚空へ視線を向ける。キャスターは彼女の視線を追わず、アサシンを観察していた。
「……貴方の状態は把握した。一旦、引かせてもらおう」
分が悪いことを察したのか。また、別の動機か。きっと、後者なのだろうとキャスターは戦いながら分析した結果を出す。このまま、戦い続ければ、完全に負けるのは調子が整っていないこちらだ。
キャスターはアサシンが消えた。
「見逃されました」
「!?」
キャスターはアサシンが去ったあと、そう批評した。つまりはアーサーとキャスターはいつでも潰せると判断されたということだった。
「キャスター……。君、もしかして、調子がよくないのか?」
「ん、大丈夫って言いたいところだけど、少し体に毒が回ってるみたいです。これくらい大したことありませんよ。昔はよくあった傷ですから」
彼女の形のいい顔に深く切れていて、ぽたぽた真っ赤な血が足れて頬を汚している。
「よくあったって…君はどんな……っっ!」
キャスターの過去を問いつめようとした瞬間、ずきっという頭痛がして、体中から力が抜けてふらりと体が傾く。予想以上に緊張してたのだろうか、いや、そんなことはなかったはずだとアーサーは自分への疑問に答えを出す。
「えっ、ちょっと!」
アーサーの意識がなくなる前に、キャスターの焦る声を聞いた。また、同じ失態を繰り返してしまうと謎の焦りを感じたまま。