群青色の烏帽子の男 街は往来激しく、その中を縫って人が駆ける度に土埃が人群れを霞める。
その中に於いて、素早く歩いているにも関わらず土埃が上がらない男がいた。
腰まで垂らした総髪は深く黒く、色白の肌にくっきりとした新月眉と、切長の菱形眼。
眉目秀麗を体現したかのような、その男の名は立花仙蔵という。
齢十五には見えぬ嫋やかな色気と身のこなし。
時折りその色気に惹かれて振り向く者の視線を躱すように笠を深く被っていた。
腰に下げた刀に手を置き、さも急ぎの用があるのだと言わんばかりに足を早めている様は…むしろ人を惹きつける演技のようであった。
見えない釣り針を垂らしている。
だが彼の動きに動きをもってして反応する者は居なかった。
「この辺りには居ない、か」
或いは、相手はより上手か。
少なくともこの辺りに下手な忍びは居ない。
同じく街の東側を流しているであろう潮江文次郎と落ち合うのがよかろう、と結した仙蔵はふと辺りを見回し、微かに微笑む。
軒先から湯気が立つ団子屋からふくよかな香りが漂っていた。
団子屋の娘と談笑しつつ舌鼓を打つ。
店の混む時間帯、客筋等の知見を大体掴むと娘に軽く流し目を送る。恥じらう娘。謝辞である、お安い御用。
さて街の東側に向かおう、と席を立つと店の戸口に見慣れた影が立っていた。
「相変わらずもてるな」
微笑みを持ってして返す。
「君の分も買ったんだがね」
掛け直した団子屋にて、互いの得た知見を取り交わした後、文次郎は最後の団子を頬張る。
潮江文次郎。忍術学園にて、仙蔵と共に卓を並べる級友だった。
硬い髪を引っ詰めた束ね髪はよく整い、太く濃い眉に金剛力士像を思わせるギョロ目には隈が縁取っていたが、素顔の若武者を思わせるような力強さと誠実さを漂わせている。
仙蔵とは対照的な風貌だったが、こちらもまた人をよく惹きつける。
その証しに団子屋の老婆に余分に団子を頂いていた。
満足そうに白湯を飲み干し、皿を回収しに来た老婆に律儀に頭を下げると、老婆は嬉しそうに「あなた息子に似ててね」やら何やら、世間話が始まり、はぁ、はぁ、そうですか、と相槌を打つ文次郎の様子に仙蔵は笑いを堪えつつ白湯をお代わりした。
老婆が他の客に呼ばれ、一頻りの世間話が終わると、二人は互いに湯呑みと相手を見比べる。
「…では…この街ではないな」
二人が出した結論は調査の終了だった。
学園長の命で六年生は学級毎に分かれ、各々の街でと或る城の動きを探っていたが、どうやらこの街は見当て違いだったようだ。
朝から張り切っていた文次郎は肩透かしを喰らったのだろう、肩を落とすように息を吐き、首を回す。
戦果に湧くのは、ろ組か、は組か。
彼らの勇んだ笑顔を思い浮かべたが、これくらいの手柄は譲ってやらぁ、と嘯く。
陽はまだ天の真ん中にある。
今から学園に戻ったとて、学園長への報告以外にする事はなかった。
「久方振りに…」
「そうだな、折角の街だ」
‘先に青色の烏帽子の男に声を掛けられた方がその日の夕餉を奢られる’
これが二人の遊びだった。
‘青色の烏帽子の男に声を掛けられる’の箇所は、その日によって趣旨を変える。
或る時は‘手毬を持った女の子を怖がらせずに団子をご馳走する’、また或る時は‘大荷物の男に手を貸した後、何らかの方法でお礼を受け取る’等々だ。怪しまれたり、断られたりしたら負けと見做す。
つまるところ、この遊びは市井の中に紛れて様々な動きを演じる修練の一環でもあった。
さて、その日は然し、不思議と青色の烏帽子の男とすれ違うこと自体もなかなかなく、悪戯に街中を彷徨う始末になった。
次第に飽き、学園の噂話だの、級友らの大した事のない話だの、近頃読んだ書物の話だの、雑談に花が咲き始める。
課題の選択を誤っただろうか、と仙蔵は溜息を吐き、一歩前の隣を歩く文次郎の横顔を見遣る。
文次郎の眼は左右非対称であり、どちら側に立つかで彼の横顔の印象が異なる。
仙蔵はその違いを密かに愉しんでいた。
「さっきの、緑の男で手を打っても良いが」
と、仙蔵は申し出る。
文次郎は先程緑色の烏帽子の男に客引きされていた。
「駄目だ、青色と決めたんだろう」
ほら、頑固なこの男だ、見立て通りの答え。
苦笑ではなく微笑みで返す。
しかし、陽は無常にも傾く。
夕餉は学園付近の街まで戻ってから摂る積りであった。
戻らねば、学園に戻るのが夜更けになってしまう。
今日は不作ということで手を打とう。
なに、単なる戯れだ。
「文次郎、」
居ない。
先程まで隣にいた文次郎の気配がない。
仙蔵に断りなく姿を消すはずもなく、これは意図をもってのことか。
それでも、僅かな動揺を隠さずに周囲を見廻す。
長く艶やかな髪が跳ね回る。
目前の店の暖簾を掻き分けて覗く。
居ない。
隣の店。反対側の隣。
居ない。
「…」
もう一度辺りを見回す。
足早になる。
先程の団子屋が目に入る。
暖かそうな湯気も、香ばしい香りも先程と変わらず、繁盛している。
いつの間にか街を一周していたようだ。
「申し申し…」
その日二度目の戸口を潜ると、店内では先程の老婆が休憩だろうか、湯呑みを啜っていた。
老婆に文次郎の行方を尋ねたが、思い当たらないようだった。もう一度あの青年を見かけたなら、見違わないのにねぇ、と笑いながら。
余ったから、あの子にもどうぞ、と団子を渡そうとするのを何度か固辞しつつ店を出る。
明らかに陽はさっきよりも傾いている。
心なしか通りの人々の足も早くなっている。
手毬を抱えて帰路を駆ける幼童の群れを見送り、井戸端会議を切り上げて散る女達を見届け、空を過ぎる鳥の群れを見上げる。
「まったく、何をやっているのだ…」
溜息を吐く。
何やら企んでいるか。
と、
「よう、飯でもどうだ」
不意に背後から声が掛かる。
いやに芝居の掛かった声だな、と思ったが、果たしてその声の主は文次郎だった。
「一体どこを…」
振り向いた仙蔵の眼界に入ったのは真新しい青……群青色の烏帽子。
と、口角を上げた文次郎の笑顔。
それも悪戯を楽しんでいる笑顔だ。
「仙蔵、お前の勝ちだ」
‘先に青色の烏帽子の男に声を掛けられた方がその日の夕餉を奢られる’
成る程、そう来たか。
確かに、文次郎は群青色の烏帽子を被っている。何処ぞで手に入れたか。
その話は帰りしなに聞かせてもらおう。
相好を読まれたくなく、文次郎に背を向けてさっさと歩き出す。
「腹が減っているんだ、今日は容赦しないぞ」
げぇ、と背後で文次郎が哀れな声を漏らした。
烏の鳴き声がそれに応えるように横切って行く。
了