木下と尾浜と久々知の話「色恋事とはとんと無縁でな」
等と嘯く木下鉄丸先生が、女性の筆と分かる文を月に一、二度程やり取りしている。
その正体は彼がかつて忍びの仕事で命をあやめた男の妻だと云う…。
男の命日の日の朝、突然「授業を学外で行う」と申し立て、久々知と尾浜に花と酒を持たせて連れ立つ。
木下の懐には数珠と半紙が忍ばせてあった。
とても良く晴れ渡った日だった。
「感傷に絆されてはならんが…忘れようにも出来ぬ談が、必ずある」
久々知と尾浜は、笠を深く被る担任の様子に物見遊山気分を仕舞い込む。
あれは何の花だったろうか、風に白い可憐な野花が揺れていた。
昔とも言えぬが、もうずっと前…
書にも残らぬ田舎城の最期の日、己の手であやめた男は息絶える寸前、彼の懐に血濡れた紙切れを押し込んだ。
「おれの子に名を…」
あの日はどうしてだか、賃銭以上の働きをしてしまった。
曰く、その男の家族に紙切れを届けたのだと。
「偖、この山を越えれば団子でも饂飩でも食わしてやるからな」
と、犬歯を見せる担任の笑顔に、却ってこの先の道の険しさを感じ取った二人は慌てて足首を回し、草鞋の紐を結い直す。
国の名も何も告げられておらぬし、告げる気もなかろう。
その道中は只々、木下の背中を追うのに精一杯となった。
入学以来追い続けたその背中は、今日も風に衣服がはためく。
今年で三十九だと聞くが、齢十四の己等の未熟さを歴々と報せてくる。
走り乍ら、「明日休みにならないかな」などと尾浜が笑う。
喋る余裕があるなら休ませてくれないだろうさ。
墓前に花を手向けたのは陽も傾いた頃だった。
尾浜と久々知は授業の時よりもゆっくりと経を唱える師の背中と墓石を所在無げに見比べる。
自分達は三十九歳の稚気に付き合わされたのだろうか。
顔を見合わせる。
と、ふわりとした香りが漂った。
「あなた方が」
墓前に現れた女性は木下とおなじ年頃だろうか。一本二本白髪が隠れて見える。
「…儂の、弟子です」
弟子、の言い方に二人は察した。背筋を正し、女性に畏まって礼をする。
良い子達ね、と空気が和らいだ。
墓前の花が風に撓った。
一度顔を見せたかった事、木下の扱きは厳しいという話、手先は不器用だという話、豆腐の話、十四年で変わった国の話。
峠の茶屋で様々な話をしたが、恐らく文の内容と変わりが無く、世間話の域からは出なかった。
それでもは女性は花が咲いた様に笑う。
木下は何度も手元の湯呑みを見下ろしていた。
名残惜しくも立ち去る頃。
「後生ですから…」
と、女性は二人をそっと抱き締め、掌を撫でる。
お達者で…
耳元で囁かれたのは、二人のどちらのものではない名。
師は無言にて笠を正し、頭を丁寧に下げる。
陽は山の誘いに堕ちようとしていた。
何処にでもあったかつての戦の話。
男が木下に託した名は、男の名と共に墓石に刻まれていた。
宵の闇に消え入りそうな師の背中は、多弁かつ雄弁だった。
「あれから、十四年になる」
…この学舎は生者のみが辿り着いた依る辺か。
白い月と、三十九と、十四が二つ。
余談。
翌日は休みにならなかったとか。