幸せのかたちふわふわと心地好い微睡みの中、誰かの気配が近づいてきた。
「……ちさん、諭吉さん」
聞き慣れた声に薄ら瞼を上げれば綺麗な海色が福沢を覗き込んでいる。
「作……?」
「はい、おはようございます。そろそろ九時半だから起こしにきた」
「……む…おはよぅ……」
眩しそうに目を細め、どことなくぽやんとした物言いの幼げな様子が愛らしくて仕方がない。
作之助も恋人になってから知ったのだが福沢は朝が弱いらしく、特に疲れた日の朝の起き抜けはこんな風にぼんやりしていることが多い。
「洗濯物は干しておいたが……起きれるか、諭吉さん」
「ん…」
作之助へと緩く両手を伸ばす福沢は普段の凜然とした姿は何処にもなく、作之助にとってはただただ可愛らしいの一言に尽きる。作之助と乱歩が養い子として一緒に暮らしていた時は気が張っていたこともあり、こんなにぽやぽやしていなかったとは福沢本人の言葉だ。
ここまで気を抜いた姿を見せてもいい、福沢にとって甘えるに足る存在になったことが作之助には何より嬉しいことだし、未だ慣れないのか覚醒する度に恥ずかしそうにする福沢を見れるのも役得だと作之助は思う。
「(本当に可愛い……)風呂に入りましょうか」
抱き起こしがてら提案すれば、こくりと頷く銀灰の髪。昨夜の情事の後に気絶してしまった福沢の躰を拭いたり等、最低限の処理はしたが風呂に入った方がサッパリして気持ち良いだろう。横抱きにして福沢をぶつけないよう細心の注意を払って風呂場へ向かい、脱衣場で辛うじて着ていた寝間着を脱がして自分も裸になってともに入った。
髪と痩身を丁寧に洗って湯船に浸かる。
「狭くありませんか」
「…………」
「諭吉さん?どこか痛みますか」
「…………大丈夫だ……」
福沢を抱き込むようにして湯船に背をつける作之助が風呂に入ってから黙ったままの福沢へと声を掛けると、消え入りそうな答えが返ってきた。未だ寝起きに甘えることに慣れぬ福沢が羞恥を覚えているのだろう。それを可愛らしいと思いつつ見遣る目の前の白い首筋と耳朶が、湯に浸かっただけではない赤に染められていて何とも艶っぽい。作之助自身が執拗に付けた紅い華々と相俟って、昨晩収めたはずの情慾が再び灯されそうになるのを慌てて理性で蓋をする。
「そうか。昨日は激しくしてしまったから心配していた」
「……昨日"も"の間違いであろう。少しは私の歳を考えろ」
ほっと安堵した声を出す作之助を振り返ってじとりと睨む青灰の双眸は心做しか恨ましげだ。
「すみません。諭吉さんがあまりにも愛らしいのでつい歯止めが効かなくて」
「私を愛らしい等と言うのはお前くらいだ」
はぁ、と呆れたため息を一つ落とされる。赤みの引いていない顔で言われても可愛らしいだけだと作之助は思う。惚れた欲目もあるが恋人である自分だけにしか見せない一面が、普段の厳格な福沢とのギャップがあって尚愛らしいのだ。あんまり言うと拗ねられるので心の中でだけこっそり思っておく。
充分に温まったところで風呂から上がり、部屋着に着替えて福沢のぺしょっとなった濡れ髪を手拭いである程度の水分を取り除いた後、ドライヤーを近づけ過ぎずゆっくり丁寧にかけていく。これは風呂から出た後自然乾燥だという福沢に探偵社の女性社員達が『せっかくの綺麗な髪なのに勿体ない!』『織田さんにやってもらったらどうですか』など猛抗議した結果故だ。耳元でするドライヤーの音が苦手なのとわざわざやるのが面倒と自然乾燥だったらしい。
そんなことを思いながらドライヤーをかけて暫くするといつものふわふわとした銀灰に戻り、作之助はその仕上がりにゆるりと笑みを浮かべた。
「諭吉さん、終わりました」
「いつもすまんな。ありがとう」
耳を塞いでいた両手を振り向きざまに外してほぅ、と一息吐いたかと思えばじぃと見つめられる。
「私のは乾かすが己のものはやらぬのか」
「え?あぁ。俺のは短いから諭吉さんの髪を乾かす間に殆ど乾くんだ」
ほら、と紅髪を差し出せば長い指が短い髪を一摘み。これでは足りんとばかりにわしゃりと後頭部をかき混ぜられた。
「まだ中の方は生乾きではないか」
「あー……まぁ放っておけば乾くから」
気にしないでくれという台詞は福沢の言葉に掻き消されてしまう。
「ならば私がお前の髪を乾かそう」
「え」
「不服か」
「いや、そんなことは」
「ならば交代だ」
あれよあれよという間に座らされてドライヤーをかけられていく。ドライヤーの熱が近くて少し熱い。大きな手でわしゃわしゃと乾かされるのが子どもの頃に戻ったようで、嬉しくもあり懐かしさと気恥しいのが作之助の裡で綯い交ぜになる。
「これで乾いたと思うが」
「ありがとうございました」
懐かしい時間はすぐに終わってしまった。擽ったさを感じるが乾かし合いっこは悪くない。次にまたやってもらおうと内心で思う作之助だった。
◇◇◇
昼餉を簡単に済ませ、障子を開け放った縁側でゆったりと過ごす二人の間に涼とした秋風が爽やかに吹き抜ける。
すぅすぅと寝息を立てている作之助の穏やかな寝顔に静かに読書をしていた福沢の口元がそっと綻んだ。普段は茫洋として掴みどころのない作之助だが、こういう時は幼さが出ていて可愛らしいと思う。
(……私の膝枕では硬いだろうに。寝苦しくはないのだろうか)
どうしてもとせがまれたから膝枕をしているが首を痛めたりはしないのか、寧ろ何故膝枕なのかと思いはすれどあんまりにも気持ち良さそうに寝ているから起こすには偲びなく。せめて風邪を引かぬようにと己の羽織を掛けるのが精々だ。
(もう少し寝かせてやりたいが…流石に足が痺れてきたな)
そろそろ洗濯物も取り込まねばならない頃合でもあるしとそっと作之助の肩を揺さぶった。
「作之助、作」
「んー……」
「そろそろ起きよ。洗濯物を取り込まねばならん」
「……ゆきちさんが」
「ん?」
「諭吉さんが接吻けをしてくれたら起きる」
「……お前は一体何を言っておるのだ……」
福沢の柔らかな呼び掛けに存外早く海色を薄ら開いたと思ったら何を宣うのか。
呆れ半分で作之助を見遣れば、寝起きと思えぬほど海色をキラキラと期待に染まっているのを見つけてしまっては無下に出来ず。ことこの男に関しては甘い自覚があるが最近それがより顕著になっている気がする。
惚れた弱みもここまでくれば病なのではと思いはすれど、作之助が愛おしいのは変わりなくて。
「仕方のないやつだ」
そう言いつつも鋭い眦が緩く弧を描いているのに福沢自身無自覚なのだろう。
このままでは難しいからと作之助を起こし、軽く呼吸を整えてからそっと身を乗り出した。
──チュッ。
額にかかる紅髪を掻き上げられて落とされたのは穏やかな接吻けだった。情慾を呼び起こすものではなく慈しみに溢れたそれに口にされるよりも気恥ずかしくなる。
「ありがとう……ございます…」
「……うむ」
互いの頬に赤を散らして変に照れ合う二人の間に壁掛け時計の十四時を告げる音が割って入った。その音に顔を見合わせくすりと笑った後、音の示すままに庭と誘われていく。
柔らかな陽射しを受けてふわりと乾いた洗濯物を取り込み、二人で畳んでそれぞれの場所に仕舞ってからふと作之助が何か思いついたように福沢を呼んだ。
「諭吉さん。買い物がてら喫茶処に行きませんか」
「それは構わぬが……喫茶処?」
お前が咖喱以外とは珍しいな。
軽く青灰を瞑る福沢に海色を緩やかに細めた作之助が実はと零した。
「この前商店街に新しく出来たらしくて。鏡花と与謝野さんに是非と勧められたんだ。きっと諭吉さんも気に入るだろうと」
「そうか。家事もひと段落ついたところだ。今から行くか」
「はい」
そうと決まればとすぐに支度を済ませて外に出る。夏ほど厳しい陽射しではなく、そよりと吹く秋風も相俟って随分過ごし易い季節になった。
商店街までの道中を歩きながら穏やかな会話に花が咲く。
「今朝芳枝さんから秋茄子を貰ったんです」
「ほぅ。秋茄子か……確か先日は玉蜀黍だったな」
「はい。その前は西瓜と赤茄子でしたね」
「ありがたいが毎度申し訳ないな……何か後で礼をせねばなるまい」
福沢宅の裏手に住んでいる鈴木芳枝という婦人はこの男二人を昔から何かと気遣ってくれる頼もしい人だ。優しくおおらかな人柄は変わらずに福沢と作之助を暖かく見守ってくれている。
「甘いものが好きだから栗きんとんとかいいかもしれません。丁度出始めている頃だ」
「そうだな。帰りに季節の菓子を幾つか見繕おう」
そんなことを話している内に商店街から一本路地に入り、とある古民家の前で作之助が立ち止まった。
「あぁ、ここです」
「このような民家が喫茶処なのか?」
板塀に囲まれたそこはどう見ても喫茶処とは思えず、ごく普通の民家にしか福沢の目には映らない。てっきり探偵社の入っている建物の一階にあるうずまきのような店を想像していた福沢は純粋に疑問だったらしく、小首をかしげて隣の海色を見遣った。
「古民家を改装して新しく喫茶処として開店したんだそうです」
「そういう使い道もあるのだな」
成程。感心したように呟く福沢を促して中へと入った。すぐに和装の店員が二人を出迎え奥へと案内される。通された個室は四畳半程で真ん中に卓があり蓬色の座布団が置かれていた。淡い香色の漆喰の壁に雪見障子から零れる陽の光が反射してより柔らかな雰囲気を醸し出している。
「二人は何を推奨していたのだ?」
「パンケェキです」
「パンケェキ」
「ふわふわでとても美味しいのだとか。鏡花が嬉しそうに話していました」
「そうか。ならばそれにしよう」
「わかりました」
作之助が店員を呼んでテキパキと注文を告げていき、待つこと十数分。ふわりと甘やかな香りが二人の鼻腔を擽った。
「お待たせ致しました」
店員の柔らかな声とともに置かれたのは白と黒の皿に飲み物が二つ。丁寧な所作で去っていく店員を見送った作之助は先程から福沢が静かなことに気が付いていた。
「気に入られましたか」
「あぁ」
「良かった。鏡花と与謝野さんが諭吉さんに勧められるのも頷けます」
「あぁ」
「……大丈夫ですか」
「あぁ……」
「諭吉さん?」
「何と……」
「ん?」
「何と可愛らしい……!」
食い入るように福沢が見つめていたのは目の前に置かれた白い皿の上、猫型のパンケェキだ。如何にもふっくら柔らかそうなきつね色の生地が食欲をそそり、パッと見ただけでも厚さ一寸強もある。何より福沢の心を捕らえて離さないのは猫を象ったパンケェキに猪口齢糖で顔が描かれていたのだ。福沢のものには嬉しそうにキュッと目を閉じているものにこんもり盛られた生凝乳の横に餡子と栗の甘露煮が淑やかに寄り添っている。生凝乳と白い皿には抹茶の粉が舞散り、恰も猫が遊びに来ましたとばかりに愛らしい足跡が三つ四つと残されていた。作之助の方はというと普通の顔だが耳が三毛猫を模しているのか片方塗られ、同じく盛られた生凝乳にこちらは金の蜂蜜がとろりと掛けられて。粉砂糖に付けられた足跡がまるで雪の中を歩く猫を思わせ、黒の皿に映えていて可愛らしい。
この可愛らしいの一言に尽きる皿を置かれた瞬間、福沢がふるりと揺れたのを海色は確り見ていた。
「食べないのか」
中々ナイフとフォークを手に取らない福沢に作之助が問えば耐えるように目を瞑り、銀灰の髪を横に振られた。
「……可愛いくて食えぬ……」
あまりにも可愛らしい見た目故食べるのを躊躇っているらしい。
(躊躇している諭吉さんの方が可愛らしいが)
そう思うも言葉にすれば恥ずかしがってしまうのは目に見えている。さてどうしたらいいものか。
「食べないと猫が可哀想ですよ」
「それは、そうなのだが……くっ…!」
どうしてもナイフを入れる瞬間に手が止まってしまう福沢に作之助はそうだと思いつく案があった。
「写真を撮ればいいんじゃないか」
「写真?」
「携帯電話のカメラですよ。この前同じ機種にしたやつです」
「あぁ、あれか」
思い出したように袂から白銅色の端末を取り出した。とある件で私用で使っていた二つ折りの携帯電話を福沢が壊してしまい、変える次いでにせっかくだからと作之助が同じものの色違いにしたのだ。
「ここのカメラの印を指先で触れると写真が撮れる」
「ありがとう。ここをこうして……?」
「端末を横向きにした方が入りやすいですよ」
「む。そうなのか」
向かい側から説明しつつ、何とか構えてパシャリと撮って。綺麗に撮れているのに安心してから作之助のも一緒にとパシャリパシャリと撮っていく。何枚か撮って満足したのか温かい内に──けれどやはり幾許か躊躇って──パンケェキにそっとナイフを滑らせ、1口大に切ったふわふわを口の中へ招き入れた。
「美味いですね」
「うむ。かなり甘いのかと思っていたがそれ程甘くはないな」
「生凝乳も甘さ控えめだし軽い」
「それに生地もとても柔らかいのだな。初めてこのパンケェキというものを食べたがこんなにも美味いものだとは知らなかった。抹茶や餡子とも合っている」
一口大に切り分けては消えていくふわふわに福沢の引き結ばれた口元もしめやかに綻んでいた。
「抹茶も美味そうですね」
「一口食べるか?」
少し行儀が悪いが。
何気ない相槌の心算で言った言葉がまさか。
ほら、と袂を押さえて差し出されたフォークには生凝乳と抹茶、餡子が彩りよく均衡に盛られたふかふかのきつね色が作之助の目の前に差し出された。
(これは所謂「あーん」というやつでは。待て諭吉さんがそんな……いや、これは自覚していないな)
「作之助?食べないのか」
微動だにしない作之助にほんの少し落ちてしまった声調が投げ掛けられ、ハッと我に返れば小首を傾げた青灰が作之助を見つめていた。
「いえ。ありがたく頂きます」
「そんなに畏まらずとも善い。ほら口を開けろ」
「はい」
促されるままそっと口を開けば先程まで食べていたものとは違う味が飛び込んできた。
生凝乳や生地、餡子のほんのり甘い中に抹茶の柔らかな苦味が咥内に広がる。
「……これは美味い」
「だろう?」
「貴方が食べさせてくれたから余計美味いです」
「阿呆か。食べさせるくらい誰がやって、も……?!」
呆れた顔をして作之助を見遣る福沢は漸く気が付いたのか、白い頬に少し早めの紅葉が散ったのを見ていた海色が愛おしげに細まった。
「諭吉さん。宜しければこちらもどうぞ」
羞恥に逸らされてしまった青灰がちろりと作之助を見遣り、次いで手元のフォークに視線が移る。福沢が作之助にやったことと同じ状況が再現されていた。
食べて!と言わんばかりに生凝乳と蜂蜜が飾られたふわふわのおやつ。
己が仕出かしたことに今更ながら恥ずかしくなった福沢は差し出されたそれを食べることを躊躇う。すると作之助が立ち上がり何をするのかと思いきや、福沢の方へと卓を回り込んで隣へと腰を降ろした。
「はい。どうぞ」
「う……」
より近くなったフォークに躊躇うもじっと見つめる海色は逸らすことなく福沢を捕らえて離さない。引く気配のない作之助の様子に観念した福沢がそろりと小さく口を開けた。
「如何ですか」
「……こちらも美味いな。蜂蜜もさっぱりしていて善い」
同じ生凝乳でも組み合わせるものによって感じ方が変わってくるのだと思いながら咀嚼をする。ふんわり香る花蜜の香りが心地良い。
「諭吉さん」
「なん、」
にこやかに福沢の食べているところを見ていた作之助に不意に名を呼ばれそちらに顔を向けたり瞬間、チュッと軽やかな音がしたかと思うと悪戯っ子のような笑みを浮かべた作之助が目の前にいた。
「なっ?!」
「口元に生凝乳が付いていましたよ。ご馳走様です」
そうなると解ってやったのだろう。やる方もだがやられる方も大概だ。引きかけた紅葉がまた舞い戻って来たようで頬に熱が集まってくる。
「こんな、外で破廉恥な……!」
「ここは個室ですし誰かに見られる心配はありません」
それに。
「こんなに可愛い諭吉さんを他の奴らに晒す程、俺の心は広くない」
他人の目がない個室だからやったのだと言っても羞恥が消えるわけもなく。けれど海色に散らされた独占欲にぞくりと魅せられて。
「もう一口如何ですか」
思わずコクリと頷けば嬉しそうに破顔して。
「……ただし接吻けは無しだ」
「え」
「え、ではない。公共の場で其のようなことをするのが間違っているだろう」
「そうか。なら家に帰ってから存分にさせていただきます」
「程々にな……」
「(諭吉さんがいつも可愛過ぎて抑えられる自信がないが)善処します」
常は変わらぬ茫洋とした顔ににっこりと大輪の華を咲かせる作之助と、耳朶すらも仄かな珊瑚色に染め抜かれた福沢の甘過ぎるほど甘い時間はまだまだ続くのだった。
了